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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/3


 
 


 
 

橋本 真也
1965/7/3 - 2005/7/11

日本のプロレスラー。俳優、声優としても活動。闘魂三銃士の1人。岐阜県土岐市出身。

来歴

新日入団

中学時代に父が失踪し、母子家庭で育つが高校(中京商業高等学校)時代に母を亡くした。学生時代に柔道を始め、アントニオ猪木に憧れるようになり、1984年4月に新日本プロレス(以下「新日本」)に入門。入門初日に後のライバル、蝶野正洋と洗濯機の順番を巡って乱闘を起こした。1984/9/1に後藤達俊戦でデビューした。

1987年、第3回ヤングライオン杯での準優勝後に海外修行に出た。カナダのカルガリー地区を中心にモンゴル人ギミックの『ハシフ・カーン(Hashif Khan)』のリングネームで試合を行なったが、対戦相手を負傷させたりしたために試合を干されることもあった。完全に干されたきっかけとなったのは、ファンの女の子にサインを求められた時にそこに女性器を書き、それを見た親が泣いて激怒しプロモーターに訴えられたためだと言われている。

1988年暮れのワンマッチ帰国後、1989年1月からはテネシー州メンフィスのCWAに参戦。トージョー・ヤマモトをマネージャーに、サムライ・シンジこと笹崎伸司と『ショーグン&サムライ(The Shogun & The Samurai)』のタッグチームを結成、エースのジェリー・ローラーやビル・ダンディーをはじめ、ブレイク以前のスコット・スタイナーやジェフ・ジャレット、ロード・ヒューマンガスらと対戦した。

闘魂三銃士

海外修行の後、帰国し闘魂三銃士として、武藤敬司、蝶野正洋と共に売り出されることになり、対戦相手をリング上で叩き潰す姿から『破壊王』の異名を持つこととなった。また古舘伊知郎からは「戦う渡辺徹」の異名を貰っている。「破壊王」ほど定着しなかったが、橋本はこのニックネームを気に入っていたという。

ビッグバン・ベイダーやスコット・ノートン、トニー・ホームといった巨漢外人レスラーの得意技を正面で受け、好勝負を展開した。橋本自身は日本人レスラーとしては稀なスーパーヘビー級であるが、この階級のレスラーが得意技にすることが多いラリアットやパワーボムをほとんど使用せず、あんこ型でありながらキック主体というスタイルだった。

1993年、橋本は前年にグレート・ムタとしてIWGPヘビー級王座を獲得した武藤や、G1 CLIMAX2連覇を果たした蝶野と比べ、停滞気味であったが、WARの天龍源一郎と2度のシングルマッチを経て勢いを付け、9/20、ムタを破り、第14代IWGPヘビー級王者となった。その後、藤波辰爾に敗れて王座を一度手放すものの、直後の5/1福岡ドームのメインイベントで藤波を破って王者に返り咲き(1年後の1995/5/3福岡ドームで武藤に敗れたものの、9度の当時連続防衛記録を達成)、その年の活躍が認められ、「プロレス大賞MVP」を獲得した。

Mr.IWGPとして君臨

1996/4/29東京ドーム、この年の1月4日に武藤に勝利してIWGP王座を奪取したUWFインターナショナル(Uインター)の総大将である高田延彦と対戦し、垂直落下式DDTからの三角絞めで勝利した。また、前年から勃発していたUインターのリングにも参戦した。

1997/8/31、この年のG1 CLIMAX優勝者である佐々木健介に敗れIWGP王座を奪われて以降、橋本がIWGP王座につくことはなかったが、通算20度の防衛を果たした。

新日本プロレス時代の橋本は、後述するように数々のタイトルを獲得したものの、その一方で、G1のタイトルだけはなかなか手中に収めることができず、いつしか鬼門といわれるようになった。しかし、1998年に、藤波、健介、蝶野といった歴代のG1ホルダーを撃破して勝ち上がってきた山崎一夫を破り念願のG1優勝を果たした。

vs. 小川直也

小川直也と何度も抗争を繰り広げ、1997年4月の初戦(※小川のプロデビュー戦)は敗れたが翌月には小川を失神KOで下しリベンジを果たした。1999年1月4日、東京ドーム大会における3度目の戦いでは、橋本は小川にほとんど手も足も出ず事実上の敗北を喫した(結果は無効試合)。試合後に両選手のセコンド同士による乱闘騒ぎも発生した。当時全日本プロレスの三沢光晴は全日本プロレス中継で「あれじゃいくら何でもプロレスラーが弱くみられる。もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメントし、小川のセコンドについていた佐山聡は「セメントマッチ」であったと語っている。

同年10月にも小川に敗れ、2000/4/7東京ドームで行なわれた5戦目は、「負けたら引退」を公約し試合に臨んだ。STOをDDTで返し小川の腕を脱臼させるなど追い込んだものの、直後に仕掛けた腕への関節技が脱臼させた部分を戻してしまう不運や、防御面での対策は十分だったものの攻撃面の弱さもあり大敗を喫し、公約どおり新日本に辞表を提出した。

新日解雇〜ZERO-ONE旗揚げ

2000/8/23、熱心なファンの子供から送られた復帰を願う百万羽の折り鶴をきっかけに引退撤回を表明。これについてはテレビ朝日のスポーツ番組『スポコン!』が特集を組んだ。10/9東京ドームで藤波辰爾と復帰戦を行ない、その直後に新日本内に別組織「新日本プロレスリングZERO」を作ろうとしたが、長州力らの反対にあった。その結果、11/13付で新日本を解雇をされたため、直後にZERO-ONEを設立し完全独立した。12/23にはプロレスリング・ノアに参戦(対戦相手は大森隆男)、同年の大晦日にはINOKI BOM-BA-YE 2000に参戦(対戦相手はゲーリー・グッドリッジ)。その後ZERO-ONEには橋本の理想に賛同した新日時代の後輩・大谷晋二郎・高岩竜一が合流した。

2001/3/2、両国国技館にて「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」との理念を掲げ旗揚げの挨拶を行ない、試合では新日本の永田裕志と組み、ノアの三沢光晴・秋山準組と対戦してフォール負けした。この後、小川直也とは和解してZERO-ONEにて共闘、「OH砲」として人気を得た。

三冠奪取、長州との決戦〜ハッスル・キング

2003年にはZERO-ONE勢を率いて武藤率いる全日本プロレスに乗り込み、全面抗争が勃発、頂上決戦となったグレート・ムタとの三冠戦に勝利した。5/2には後楽園ホールでは最多記録となる2,300人の観衆を集めて、小川と組み、武藤・小島聡組と対戦し、勝利したが、試合後に川田利明が乱入。そして7月、橋本・小川組VS武藤・川田組の試合で、試合中に川田のキックをチョップで迎撃した時に右肩を脱臼し、勝利したもののこの時の脱臼がきっかけで三冠ベルトを返上した。

11月、長州力へ東京スポーツ紙上で口撃を行ない、その後コラコラ問答を経て長州軍との抗争に突入。同年12月団体戦、2004年2月にはシングルで長州と激突、勝利した。

2004年2月、3冠王者になった川田から3度目の防衛相手に指名され挑戦するも、前年の肩の怪我がきっかけで敗れる(セコンドからタオル投入)。橋本のいわゆるプロレス四天王とのシングルマッチはこの川田戦のみであった。その直後、2人はハッスル軍としてタッグを組んだ。

2004年からハッスルに参戦。小川から「ハッスル・キング」と命名され、高田総統から「ポーク」と揶揄された。

団体崩壊、闘病〜最期

しかし同年、団体の経営方針等、諸問題の積み重ねから団体内部との確執が生まれ、11月25日にZERO-ONE崩壊を宣言し、負債は全て自ら被ることで決着。1人でフリーの道を歩むことになる。その後、長い間治療せず放置していた右肩を手術し、リハビリをしながらリングへの復帰を目指していたが、2005年7月11日午前8時頃、滞在先において脳幹出血で倒れ、午前10時36分、搬送先の病院で死亡が確認された。40歳没。睡眠時無呼吸症候群も遠因であったと推測されている。

7/16に行なわれた葬儀には、武藤・蝶野・小川ら団体の垣根を越えて、大勢のレスラー、各界著名人、一般ファン等1万人以上が参列した。特に闘魂三銃士の絆を持つ武藤、蝶野の受けた衝撃は大きく、武藤が葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、蝶野が人目をはばからず涙に暮れるなどした。友人でもある高島宗一郎KBCアナウンサー (当時。現:第35代福岡市長)の涙声の絶叫に続き、出棺時に橋本選手の入場曲である『爆勝宣言』が流され、参列者から投げられた数千本もの赤い紙テープと「ハッシモト」コールの大声援に包まれて送り出され、遺体は久保山斎場で荼毘に付された。また旧ZERO-ONEで苦楽を共にした大谷晋二郎は、棺桶を担ぐ役から外されていたことを無念に感じ、葬儀場の出入り口付近で悔しさを噛み殺していたという。戒名「天武真優居士(てんぶしんゆうこじ)」。

2008/3/2、橋本の功績を称え、2代目IWGPヘビー級ベルトが中邑真輔から橋本家に贈呈された。

バラエティ番組『ロンドンハーツ』が、生涯最後のテレビ番組出演だった(後述のエピソードを参照)。

エピソード

師・猪木、小川直也との抗争

中学時代に猪木VSウィリー・ウィリアムス戦を見て猪木の魅力にひかれ、卒業文集には「尊敬する人・アントニオ猪木」と書くほど猪木に心酔した。やがて新日本に入門した橋本は猪木の闘魂哲学を徹底的に叩き込まれ、試合用ガウンには「闘魂伝承」の文言を入れるほど猪木イズムの伝承者として活躍。IWGP王座を通算20回防衛するなど1990年代の新日本を名実共に引っ張る大スターへと成長した。

しかし1997年、元柔道世界王者・バルセロナオリンピック銀メダリストの小川直也がプロ格闘家として猪木に弟子入りしたことで、2人の師弟関係に亀裂が入った。小川のデビュー戦の相手を務めた橋本だったが裸絞めでKO負けを喫すると言う番狂わせが起きた。1か月後に橋本はリベンジを果たしたが、1999年1月4日の3度目の対戦では、プロレスルールを無視した小川の突然の暴走ファイトに橋本はなす術なく敗北した。試合は無効試合となったが、試合後の会見で橋本は「絶対許さない」と黒幕・猪木への怒りを表した。同年10月、4度目の対戦が行なわれるがここでも小川に橋本は敗れた。

2000年4月の5度目の対戦でも小川は橋本を破った。しかしこの試合に引退を賭け、男の生き様を見せ付けた橋本に、猪木は「引退は早い」と歩み寄りを見せるようになった。橋本はファンの後押しを受け同年10月に引退を撤回して復帰。翌2001年にZERO-ONEを旗揚げした橋本に猪木は「馬鹿になれ!」のメッセージを送り、最大の理解者として橋本の行動を陰で支え、合わせるように小川も橋本と和解し、以降2人で「OH砲」としてタッグを組むようになった。

しかし2000年6月、当時PRIDE戦士だったマーク・ケアーの「ZERO-ONE真撃」への参戦問題に端を発し、橋本と猪木は再び袂を分かった。

2005年、橋本は死去。猪木は橋本を赤シャツで追悼し、一部に物議をかもした。

なお、橋本は2005年のプロレスゲームのインタビューで「尊敬するレスラーは?」との質問に「アントニオ猪木」と即答している。

対四天王

橋本が新日本在籍時代、夢のカードとして全日本プロレス・三沢光晴との「ミスターIWGP vs ミスター三冠」対決や、川田利明との「キック対決」を望んでいた。しかし橋本自身は全日本で一番戦いたい相手として、雑誌やトークショーで常々小橋健太(現・建太)の名を挙げていた。橋本がZERO-ONE設立後、三沢とはタッグで対戦し、川田とはシングル、タッグでの対戦、ハッスルではタッグを組むほど絡んでいたが、小橋、田上との対戦は叶わなかった。

人物

  • 型破りな人柄で、風変わりな言動も少なからずあった。橋本の関係者が彼を語る際には、常識・既成概念があてはまらない思考・行動をする人間を指すプロレス用語「トンパチ」(トンボにハチマキの意味)が用いられることが多い。
  • 坂口征二の付き人時代、坂口の持つ高価な水虫の薬の瓶を割る、坂口が自分用に購入した高価な栄養剤を飲んでしまう、興行収益の入ったアタッシェケースを旅館に忘れる、それを外で開いて札束を風でばらまいてしまう等、大きなミスを連発したため野上彰が「付き人の付き人」として橋本に付いた。
  • 若手時代、アントニオ猪木対アブドーラ・ザ・ブッチャーのシングルマッチのセコンドについていた際、ブッチャーの度重なる反則攻撃に激怒し、猪木を救うべく、場外に出たブッチャーにキックを見舞ったことがある(勝俣州和に語ったエピソードより)。「エース級レスラーの試合に格下の新人が加わる」という重大なタブーを犯したため、橋本はしばらく試合から干されてしまった。
  • ジャパンプロレス分裂後の長州軍団新日Uターンの際、出戻りを快く思っていなかった橋本は地方巡業で対戦相手のヒロ斎藤に激しい攻撃を加え負傷させたため、試合後に控室で長州力とマサ斎藤らから「制裁」を受けた。
  • バットマンの大ファン。「橋本が自分用のバットマンのコスチュームを特注し、それを着たまま外をねり歩いた」という噂の真相を雑誌のインタビューで尋ねられた際、それが事実であることを橋本本人が認めている。なお着用したバットスーツは「少しきつくてピチピチだった」とのこと。
  • 海外遠征時、テネシー州にあるエルヴィス・プレスリーの記念館に行ったことをきっかけにプレスリーのファンになり、その後しばらくプレスリーの様な服を着ていたという。米国出身のレスラーからは「ファット・エルヴィス」というあだ名で呼ばれていた。それ以来、エルヴィス風にもみ上げを伸ばし始めるようになった。
  • 小島聡が虫が苦手ということを知り、公園でセミを大量に捕まえて小島の部屋に放った。
  • 空気銃で撃ったスズメを付き人時代の天山広吉に食べさせた。天山はその後保健所に電話し「伝染病とかは大丈夫なんでしょうか」と聞いたという。その他にも、もう一人の付き人である西村修ら、若手レスラーを引き連れて起こした「遊び」は数々の逸話を残し、天山はそれらのイタズラの最大の被害者であった。
  • 1990年2月、東京ドーム大会でアントニオ猪木・坂口征二組とのタッグ対決の直前、控え室でピリピリしたムードの中、テレビ朝日の佐々木正洋アナウンサーが橋本にインタビューを行なった。このとき橋本が「時は来た!それだけだ」とやや芝居がかった口調で大真面目に言ったところ、横にいたタッグパートナーの蝶野が思わず吹き出しそうになり、顔を手で押さえごまかした。蝶野は「俺は笑ってない!」と釈明したが、後日「でも控え室は爆笑だったんじゃない?」と、この発言の面白さを認めている。この発言は、橋本が大の時代劇好きでそこから引用したものらしい。
  • 猪木以外にもタイガーマスクこと佐山聡にも憧れており、若手時代はタイガーの四次元プロレスの真似ばかりしていたという。元々はジュニアヘビー級のトップを目指していたとのこと。
  • とても料理上手であった。天山に雀を食べさせたエピソードも、水に付けて羽根を取り、自ら包丁で捌き、茹で、調理してから天山を騙して食べさせたという。同じ寮生で仲が良かった獣神サンダー・ライガーの証言によると、寮でもその料理は凝っており、ある日「豆腐を作る」と言い出し、苦汁や大豆を買い出しに行き、自ら豆腐を作ったが、食材に拘りすぎるあまり、豆腐一丁に1万円ほどかかってしまった。またラーメンなども、自分で出汁をとる本格派であったという。
  • 生涯最後のバラエティ出演となったロンドンハーツでは、長州小力を懲らしめるため橋本に扮した田村淳(ロンドンブーツ1号2号)の呼び込みにより、テーマソング『爆勝宣言』にのって西口プロレスのリングにあがった。放送前に橋本が急逝したため当初番組スタッフは放送中止を検討したが、橋本の遺族と関係者から「(橋本本人が)本日の放送を楽しみにしていた」ということを聞き、本人の供養も兼ねてそのまま放送された。番組中橋本から小力に「自分の物真似もやってくれるか?」と問いかけたところ快く応じていたが、橋本の急逝の影響もあってか今日まで公開されておらず、また「橋本を捜すネタ」も封印している。
  • 1990年の闘魂三銃士で売り出しかけの頃に中国へ渡り、自らのファイトスタイルであるキックを中心とした武術の修行に行く。その後はその時の影響か、試合前の控え室を出る瞬間やリングに上がる直前に必ず印を結び、気合を入れるポーズを見せていた。
  • よくZERO-ONEの時代にマイクで言い放った「こんなので辛いなんてまだ序ノ口だ。“地獄の一丁目”だぞ」は口癖である。
  • 離婚歴があり、前夫人との間に一男二女がいる。その後の交際相手がプロレスラーの故・冬木弘道夫人であった。前妻との息子の橋本大地は、2008/7/13に開催されたZERO1-MAXの追悼興業で父親の後を継ぎ、プロレスラーを志していることを明かした。2011年3月のZERO1両国大会で、蝶野正洋を相手にデビューを果たした。
  • 2000年4月に試合中の事故で死亡した福田雅一の最期を巡業中だった新日本のレスラーの中で唯一看取った。「最後は脳死状態になっちゃって…。右脳が潰れ、左脳が潰れ、延髄まで至って…。でも脈は動いてて。あいつは血の一滴になるまで戦った」と語り、号泣した。

コスチューム

  • カルガリーでの海外武者修行以降基本的には赤の帯とラインの入った黒のパンタロンを使用していたが、1988年の「88ジャパンカップリーグ戦」では当時の蝶野のような膝までの白のタイツを使用し、1992年1月4日のビル・カズマイヤー戦ではそれまでとは逆に黒の帯とラインの入った赤のパンタロンを使用した。パンタロンの赤のラインは1995年と1996年にマイナーチェンジが施されている。
  • 入場時に巻いていた鉢巻は1989年4月24日の東京ドームでのベイダーとのIWGP王座決定トーナメント決勝で初めて使用(マジックで手書きで「神風」と書いてあった)。また、1998年のG1以降短期間独特のマークの入った鉢巻を使用した。鉢巻は付き人に結んでもらっていたらしく、歴代の付き人で一番結ぶのが上手かったのは藤田和之だったという。
  • リングへは鉢巻きを付けて印を結んで上がるというスタイルをとった。

入場テーマ曲

爆勝宣言
橋本を象徴する入場テーマ曲。東京ドームなどでの入場時には必ずと言っていいほど「はっしもと!はっしもと!」と大コールが起こる。
  • 爆勝宣言(前奏付きバージョン)
    • ビッグマッチで使用。爆勝宣言の本テーマの前に「福岡ドームのテーマ」を付けたバージョンが流される。出棺の際にも使われた。
  • 爆勝宣言(ZERO-ONEバージョン)
    • 前述の前奏付き爆勝宣言の前にARBの「HARD-BOILED CITY」のサビの部分が流れる。
闘魂伝承
1997年1月から短期間使用。対小川直也第一戦はこの闘魂伝承で入場シーンを飾ったが、闘魂を注入された小川直也に負けてしまったためリベンジマッチでは闘魂を捨てて挑む意味を込めて爆勝宣言を復活させた。

獲得タイトル

  • IWGPヘビー級王座 : 第14代(防衛4回)、第16代(防衛9回)、第19代(防衛7回)
    闘魂三銃士の中でもダントツの防衛回数を誇り、橋本の戦績を語る上で欠かすことの出来ないものである。第16代王者時代に作った9回の防衛記録は後に永田裕志に破られるまで最多防衛記録であった。
  • IWGPタッグ王座
    • 第11代(防衛3回): パートナーはマサ斎藤。
    • 第26代(防衛6回): パートナーは平田淳嗣。
  • 三冠ヘビー級王座 : 第31代王者(防衛2回)
    IWGP・三冠ヘビーの2大メジャータイトルを制するのは、ベイダー、天龍源一郎、武藤敬司(グレート・ムタ)に続き4人目。
  • NWA世界ヘビー級王座 : 第93代(防衛2回)
  • NWAインターコンチネンタルタッグ
    • 第4代(防衛1回) : パートナーは小川直也
    • 第10代(防衛3回) : パートナーは藤原喜明
    橋本の生前最後の試合が大谷晋二郎・大森隆男組の挑戦を受けたこの王座の防衛戦だった(結果は敗北)。
  • 第8回G1 CLIMAX優勝(1998年)
  • 第2回・6回SGタッグリーグ優勝
    • パートナーは順に長州力、スコット・ノートン

受賞

  • 土岐市スポーツ栄誉賞

出演

テレビドラマ

  • 藤沢周平の用心棒日月抄(1997年、テレビ朝日、第8話(SP)「待っていた女」 富蔵役)
  • 新選組血風録(1998年、テレビ朝日、第2話「芹沢鴨、雨の襲撃」 天神岳役)
  • ウルトラマンガイア(1999年、第34話「魂の激突!」に本人役で特別出演。熱烈なウルトラマンファンだったことからゲスト出演が実現)
  • きみはペット(2003年、第7話 本人役)
  • ビー・バップ・ハイスクール(2004年、破壊王ラーメンオーナーで本人役)
  • 暴れん坊将軍 最終回スペシャル「黄金の島佐渡! 吉宗を狙う美女軍団!? 凶悪、鬼火一族との激闘!!」 (2003年、テレビ朝日、辰吉役)

バラエティ

  • 元祖!でぶや
  • ロンドンハーツ

ほか

アニメ

  • グラップラー刃牙(アルテミス・リーガン役で特別出演、アイキャッチ)
  • SDガンダムフォース(破壊大将軍 破壊丸役、サンリオのアトラクション内で上映されたアニメーションで、モーションキャプチャも担当)

映画

  • マッスルストーム
  • マッスルヒート(2002年)
  • あゝ!一軒家プロレス(ソフト・オン・デマンド)
  • 魁!!クロマティ高校(山口雄大監督作、本人役で出演)
  • 力道山(東浪役)
  • 首領への道劇場版 前編(白虎会幹事長 大津峰夫役)
  • セイブ・ザ・ワールド The In-Laws(洋画。DVD特典として小川・橋本による『ハッスル吹き替え』を収録。橋本はアルバート・ブルックスの日本語吹き替えを担当。)

橋本真也DVD紹介
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火宅
プロレスラー・橋本真也の愛と性
橋本かずみ著
火宅 プロレスラー・橋本真也の愛と性


 
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ヴァンダレイ・シウバ
Wanderlei Silva
1976/7/3

ブラジルの総合格闘家。パラナ州クリチバ出身。ヴァンド・ファイト・チーム/キングスMMA所属。ブラジリアン柔術黒帯。元PRIDEミドル級王者。

ニックネームは「戦慄の膝小僧」、「ジ・アクス・マーダラー」(斧の如き殺人者)。PRIDEでは、1999年の初参戦から2004年まで約5年間無敗であり、「PRIDEミドル級絶対王者」と呼ばれていた。

来歴

生い立ち~UFC時代

1976年、ブラジルのパラナ州クリチバに生まれる。13歳のとき、シュートボクセ・アカデミーに入門した。

1996年11月、ブラジルのヴァーリ・トゥード大会でプロ総合格闘技デビュー。欠場者の代理出場で、対戦相手ジウソン・フィリォとは20kgの差があったものの、逆転のKO勝利を収めた。翌1997年9月にはIVC(英語)の8人トーナメントに出場、決勝のアルトゥール・マリアーノ戦では自らの頭突きで目尻をカットし、ドクターストップでTKO負けとなり、準優勝に終わる。その後も3度IVCには出場しており、1998年ミドル級王座も獲得している。

1998/10/16にはブラジルで開催されたUFC BrazilでUFC初出場。セミファイナルでビクトー・ベウフォートと対戦するも、ベウフォートのスタンドの打撃で開始44秒でTKO負けを喫した。1999/5/7、UFC 20でトニー・ペタラと対戦し、膝蹴りでペタラをノックアウトし、UFC初勝利を挙げた。

PRIDE時代

1999/9/12、PRIDE.7で日本の総合格闘技大会PRIDEに初出場を果たし、シウバはカール・マレンコ相手に立ち技・寝技でともに優位に立って判定勝ちで白星デビューを飾る。続く11/21のPRIDE.8にも連続出場、松井大二郎と対戦した。試合は松井のタックルを切り続け、スタンドの膝蹴りで松井の出血を誘い、6-0の判定勝ちを収めた。

2000/1/30、16人参加のトーナメント「PRIDE GRANDPRIX 2000」の開幕戦にリザーバーとして出場、ボブ・シュライバーにチョークスリーパーで一本勝ち。4月には日本で行われたUFC 25でUFC世界ミドル級王座(現ライトヘビー級王座)を巡りティト・オーティズと対戦し、判定負けで王座を逃した。その後シウバは8月には自身が所属するシュートボクセ主催のメッカVT(8/12)でトッド・メディーナをKOすると、2週間後には日本でPRIDE.10(8/27)に出場、ガイ・メッツァーに勝利し、10/31に行われたPRIDE.11でのリングス無差別級王者ギルバート・アイブルとの一戦は開始直後にアイブルへのローキックが急所に命中したためノーコンテストとなった。PRIDE.12(12/23)ではリングスKOKトーナメント優勝のダン・ヘンダーソンと対戦、ヘンダーソンの攻撃で左目をカットし視野を塞がれるものの、1ラウンド終盤から攻勢に転じたシウバは2ラウンドもマウントポジションを奪うなど試合を優位に進め、6-0のジャッジで判定勝ちを収める。試合後のインタビューではミドル級のトップコンテンダー桜庭和志との対戦をアピールした。

2001/3/25、PRIDE.13で「ミドル級頂上対決」と評された桜庭和志との一戦が実現。この大会から4点ポジションからの膝蹴りが可能となり、この新ルールはシウバに有利と言われていたが、試合ではテイクダウンを狙った桜庭にこの攻撃でダメージを与え最後はサッカーボールキックでTKO勝ちを収めた。この一戦で「戦慄の膝小僧」の異名を轟かせ、一気にスターダムにのし上がった。その後PRIDE.14(5月27日)で大山峻護に勝利したシウバは9月には桜庭とのPRIDE.17(11月3日)での再戦が決定、またこの一戦がPRIDEミドル級王座決定戦となることが発表される。迎えたタイトルマッチでは1ラウンド途中、桜庭にフロントチョークに捕らえられた体勢からボディスラムで左肩を叩きつけ脱臼させる。シウバのインサイドガードのまま終了した1ラウンド後、ドクターストップによるTKO勝利となり、以後5年以上に渡ってタイトルを保持することになるPRIDEミドル級の初代王者となった。年末12月23日の福岡大会にも出場しアレクサンダー大塚と対戦、膝蹴りで鼻骨骨折に追い込みドクターストップによる勝利を手にしている。

2002年の初戦は2月24日のPRIDE.19でのミドル級タイトルマッチで田村潔司と対戦、パウンドでダメージを与え最後は右ストレートでKO、初防衛に成功した。4月28日、PRIDE.20で「PRIDE vs K-1」頂上決戦と評されたミルコ・クロコップとの特別ルール(3分5R判定なし、グラウンドでの膠着はブレイクの後スタンドからのリスタート)での対戦は引き分けに終わった。その後8月にはDynamite!(8月28日)への出場が決定、一度はジェレル・ヴェネチアンとの対戦が決定したものの、大会プロデューサー石井和義の呼びかけに応じた極真空手王者の岩崎達也に変更となった。試合では岩崎に比べ12kgの体重差があったものの、膝蹴り、テイクダウンからのパウンドで攻勢を掛け、最後はサッカーボールキックからのパンチ連打で勝負を決めている。11月24日にはPRIDEの東京ドーム大会で金原弘光を相手にミドル級タイトルマッチを行い、1ラウンド3分過ぎにシウバの踏みつけで金原陣営がタオルを投げ入れ、2度目の防衛に成功した。

2003年、シウバは8名によるミドル級トーナメント「PRIDE GRANDPRIX 2003」に出場する。8月10日に行われた1回戦では桜庭と3度目の対戦となったが、桜庭のローキックにカウンターの右ストレートを合わせて失神させ、返り討ちにした。10月には準決勝の組み合わせ抽選会で吉田秀彦の指名を受け対戦が決定、迎えた11月9日の準決勝では吉田を判定で破り決勝進出を果たすと、決勝ではクイントン・"ランペイジ"・ジャクソン相手に首相撲からの15発の膝蹴りでKO、ミドル級グランプリ優勝を果たした。

2004年2月15日、PRIDEの新シリーズであるPRIDE武士道の第2回大会に出場、「日本VSシュート・ボクセ 3対3対抗戦」の大将戦として美濃輪育久と対戦し、開始1分過ぎ、テイクダウンに失敗して引き込んだ美濃輪にパウンドを浴びせKO勝利を収めた。4月には「PRIDE 武士道 -其の参-」でのパンクラス・ライトヘビー級王者近藤有己との対戦が決定するも右膝靭帯損傷により欠場となり、試合は8月に延期された。8月15日の「PRIDE GRANDPRIX 2004 決勝戦」で行われたこのノンタイトル戦は「日本人最後の砦」と称された近藤をパンチでダウンさせ、踏みつけによりレフェリーストップとなった。試合後にはリングに登場したクイントン・ジャクソンの挑戦表明を受け、「ヤル!」と応じるパフォーマンスを見せた。PRIDE.28(10月31日)で実現したジャクソンとの再戦は首相撲からの膝蹴りで失神KOに追い込み、ミドル級王座3度目の防衛に成功した。大晦日の「PRIDE 男祭り 2004」では桜庭と4度目の対戦が決定していたが、桜庭の怪我で直前に対戦相手がヘビー級のマーク・ハントに変更となった。試合は2ラウンドにダウンを奪われるもその後はマウントポジションを取るなどポジショニングで優位に立った。判定は1-2でPRIDE初黒星を喫したものの、インタビューでは「自分の勝ちだったと思う」というコメントを残した。

2005年は連覇を掛け16人で行われたミドル級グランプリに参戦。4月23日の1回戦では吉田秀彦との再戦となり、2-1の判定で勝利する。2回戦(6月26日)では半袖の柔道着を纏った中村和裕との対戦となり、開始5分過ぎ、中村が服を脱いだ瞬間にパンチでダウンを奪い、マウントパンチによる追撃でレフェリーストップ、ベスト4に進出した。しかし8月28日の準決勝ではヒカルド・アローナにグラウンドで抑え込まれる展開が続き、判定で敗れGP連覇を逃す(優勝は同門のマウリシオ・ショーグン)。シウバが同階級の選手に負けたのはティト・オーティズ戦以来5年振りのことであった。大晦日には「PRIDE 男祭り 2005」でアローナとミドル級タイトルマッチで再戦。僅差の判定で下し4度目の防衛に成功している。

2006年、シウバは負傷欠場したエメリヤーエンコ・ヒョードルに代わって「PRIDE 無差別級グランプリ」の2回戦に出場し、藤田和之と対戦した。右ストレートでダウンを奪いサッカーボールキックを放つとセコンドがタオルを投入、TKO勝利となり準決勝進出を果たした。9月10日の「PRIDE 無差別級グランプリ 2006 決勝戦」で行われたトーナメント準決勝では、PRIDE.20以来の再戦となるミルコ・クロコップと対戦。1ラウンド5分過ぎに左ハイキックを受け失神、KO負けを喫した。

2007年2月25日、5度目の防衛戦となるPRIDE.33で、7年振りの再戦となるダン・ヘンダーソンとミドル級タイトルマッチを行ったが、最終ラウンドに左フックでKO負けを喫し、5年余りに渡って保持していたチャンピオンベルトを失った。

UFC復帰後

2007年のPRIDEの活動休止とともにUFCと再び契約し、それに前後してシュートボクセ・アカデミーから脱退。アメリカに移住し、ランディ・クートゥアのジムであるエクストリーム・クートゥアでトレーナーに就任した。2007/12/29、UFC 25以来7年半振りのUFC復帰戦となるUFC 79ではチャック・リデルと対戦し、0-3の判定負けを喫するもファイト・オブ・ザ・ナイトを獲得した。

2008/5/24、UFC 84でキース・ジャーディンと対戦。右フックでダウンを奪いパウンドによる追撃でわずか36秒で秒殺KO勝ち、ノックアウト・オブ・ザ・ナイトを獲得した。12/27のUFC 92ではPRIDEで2連勝したクイントン・"ランペイジ"・ジャクソンと3度目の対戦を行い、カウンターの左フックで失神KO負けを喫した。

2009年3月、ネバダ州ラスベガスに自身のジム「WAND FIGHT TEAM」をオープン。

2009/6/13、UFC 99でリッチ・フランクリンと契約体重195ポンド(約88kg)で対戦し、判定負けを喫するもファイト・オブ・ザ・ナイトを獲得した。10月にはミドル級で秋山成勲との対戦が発表されたものの、その後マイケル・ビスピンに変更となった。試合は2010/2/20のUFC 110で行なわれ、シウバが判定で勝利。

2010/7/3のUFC 116で秋山成勲と改めて対戦予定であったが自身の怪我により欠場することが試合1週間前に発表された。

獲得タイトル

  • IVCミドル級王座
  • 初代PRIDEミドル級王座(4度防衛)
  • PRIDEミドル級GP 2003 優勝







  





 












 
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