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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/8


 
 


 
 


佐藤 光留
1980/7/8

HikaruSato

さとう ひかるは、日本のプロレスラー、総合格闘家。本名は佐藤 弘明(さとう ひろあき)。岡山県岡山市出身。岡山学芸館高等学校卒業。パンクラスmission所属。

来歴

中学では陸上部に所属し砲丸投を行う一方で、3年時に相撲で県3位に入賞。高校ではレスリングで3年時に、フリースタイル/グレコローマン70kg級で全国大会3位に入賞。

美濃輪育久の試合を見て触発され、数々のアマチュア大会を経て、1999年5月に名古屋で行われた入門テストに合格し、パンクラス入り。

2000/2/27、パンクラスデビュー戦で渡辺大介と対戦し、判定負け。

2001/5/5、パンクラスで長南亮と対戦し、判定勝ち。

2003/9/23、DEMOLITIONで行われた「DEMOLITION MIDDLE WEIGHT 4MEN TOURNAMENT」1回戦で外山慎平にTKO勝ち。

2004/1/18、DEMOLITIONで行われた「DEMOLITION MIDDLE WEIGHT 4MEN TOURNAMENT」決勝で中村大介に判定勝ち、優勝を果たした。この試合は両者の怪我の影響で2度延期されていた。試合後、リング上でパンクラス無差別級王者ジョシュ・バーネットに宣戦布告した。

2005/1/30、第2回プロ・アマオープン キャッチレスリングトーナメント100kg未満級に出場。決勝で内藤征弥に判定勝ちし、優勝を果たした。

2007/11/25、『格闘王国LIVE2007』でプロレスリングElDoradoの豪と総合格闘技ルールで対戦し、引き分けに終わる。12/22、パンクラスでジョシュ・バーネットとキャッチレスリングルールで対戦し、チョークスリーパーで一本負け。

2008/3/10、パンクラスismから、鈴木みのるが所属するパンクラスmissionに移籍。プロレスのリングへの参戦を表明し、5/24のDDTプロレスリングのハードヒットでデビューした。若手時代にネオブラッドトーナメントでバックドロップやスパイン・バスターを繰り出したこともあり、元々プロレス志向が強かった。

2009/11/29、DDT後楽園大会においてUWA世界6人タッグベルトを獲得、自身初となるプロレスタイトルとなった。

2010/2/28、初の自主興行でもある『佐藤光留デビュー10周年記念興行「BEST SNIPE 〜変態狙撃祭り」』を新宿FACEにて開催。

2010/7/3、ZST BATTLE HAZARD 04で渋谷修身の引退ラストマッチで対戦し、ストレートアームバーで一本勝ち。

2010/10/7、DDTプロレスリングがプロレス業界初の試みであるDDT48総選挙を行い、498票を集め2位となった。ちなみに1位の男色ディーノとは14票差であった。9月30日に行われた「変態團」興行での実績とUstream放送「佐藤光留の愛LOVE寂聴クリニック」での大喜利などによる選挙活動が報われた。目的の1位特典のKO-D無差別級挑戦権は手に入れそこなったが2位入選と意気込みを評価され10/24に飯伏幸太とのシングルの機会を与えられこれに勝利、その後のアピールが認められ、11月14日にKO-D無差別級挑戦が決まった。

2010/11/14、DDT大阪大会にて開催されたKO-D無差別級選手権試合において、王者HARASHIMAに勝利し、ベルトを獲得するが、11月28日の後楽園ホール大会にてディック東郷に敗れ、ベルトを失った。

現在はジュニアヘビー級選手として様々なプロレス団体で活動している。

人物

  • アイドル好きで特に広末涼子はデビュー当時から熱狂的なファン。中学生当時週刊ヤングジャンプでデビューした広末を岡山から高知まで自転車で会いに行った。その結果、実家の前で広末の父親にシャッターを切ってもらい広末とツーショットの写真を撮ることに成功。またその写真をTシャツにして着ていた。
  • ジョシュ・バーネットや桜木裕司と試合をするなど、無差別級での闘いに己の美学を見出している。
  • 2002年3月30日に行われたDEEP2001 4th IMPACT in NAGOYA 鈴木みのる対エル・ソラール戦においてソラールの執拗な金的で鈴木の反則勝ちとなり両者セコンド陣がリングに上がり乱闘騒ぎとなった。光留も乱闘に飛び込んで行ったものの揉み合いでメガネが飛ばされてしまった。控え室に戻ってしばらくすると相手側のセコンドの青年が訪ねてきた。訪ねてきたメキシコ人の青年は光留のとばされてしまったメガネを拾って持ってきてくれたのだった。その後2008年に東京愚連隊がBARをオープンさせた際に店内で二人は久しぶりの再会を果たした。その青年は現在プロレスリング・ノアに所属するリッキー・マルビンであった。
  • 2006年8月14日に探偵ファイルの企画で、山木陽介と秋葉原の公園での公開練習を行う。メイド服姿で登場し、その姿のまま山木と対戦、三角絞めを狙った山木に対しバスターで地面に叩きつけそうになるといった非常に危険ながらもジョークの効いたファイトを敢行した。
  • プロレス雑誌週刊ゴングの携帯サイトモバイルゴングにおいて、女子プロレスラーたちと対談する「光留の女子プロ☆パラダイス」というコラムを連載(毎週水曜日更新)。今までに華名・栗原あゆみ・風香といった、ビジュアル系女子プロレスラーと、メイド服姿で対談した。しかし、春日萌花とは、メイドカフェ内で「メイド服対談」として実現させ、意気投合。2006/10/25のパンクラス後楽園ホール大会で春日萌花がメイドセコンドとしてつく。光留はお返しにアイスリボンで春日のセコンドにつくことを熱望しているが、春日からやんわり拒否される。
  • メイド姿で入場をすることもあり、対戦相手・福田力のセコンドについた山本"KID"徳郁が福田に「殺せ!」と命じるなど激怒されることもあったが、「ジョークガイは好きだね」(ブライアン・ラフィーク)など、賛否はそれぞれである。
  • 対戦要求をリング上でしたこともある竹内出は「弱いくせに目立とうと必死なんだなと感じる」「印象は『弱い』」などと口撃したが、その後「あのしぶとい佐藤選手」など一定の評価も見せている。
  • 2004年7月23日の午後8時頃、横浜市内のパチンコ店で、同店店長と激しく口論し、もめていた不審人物が店内から逃走しようとしたところを目撃した光留は、不審人物を追い店内に連れ戻したが、警察官の職務質問を振り切って再び逃走したため、警察官と協力し、追跡して取り押さえた。伊勢佐木警察署より感謝状を贈呈される。また逮捕後に、不審人物は不法滞在の外国人であることが判明。「あとで警察の人から、『必死で逃げようとする不法滞在の外国人は、何をするかわからないから非常に危険である』と言われたが、自分は格闘技の競技者としてルールを守って闘っているので、社会でもルールを守らないような奴は許せないという気持から夢中だった」「日頃体を鍛えているので、イザという時に社会のために正しく使うのは当然であって、『P's LAB横浜』のインストラクターとして、会員の皆さんに格闘技を教えている立場の人間が、犯罪者とはいえ普通の人を相手にケガをさせてはいけないので、そこに配慮しました。」と笑顔でインタビューに答えている。
  • パンクラスのオフィシャルジム『P's LAB横浜』において一般生徒や子ども(ちびっこレスリング)への指導や大会への引率なども行っており、会場ではしばしば、子供たちから「佐藤先生がんばれー」という声援を受ける。
  • プロレス宣言後はDDTプロレスリングを中心に活動している。
  • また、師匠である鈴木みのると組んでK-DOJOにも参戦。鈴木はプロレス転向を決めた佐藤に対し、自分は何か手助けをしたりはしないとインタビューで公言しているが、自身がレギュラー参戦する全日本プロレスの道場へ出稽古に行けるよう手配したり、自身の20周年興行でも試合をさせるなどしている。
  • 大仁田厚や金本浩二や冨宅飛駈のモノマネを得意とし、時折披露している。本人曰く、(メイド服も含めて)宴会芸とのこと。
  • パンクラスの大会においては、リングアナウンサーをも務めている。
  • 好きなコスプレは、白のショートタイツ。

その他

執筆活動

現在、主にネット上でコラムの連載を複数抱えている。このほかにも、ファンクラブ用の原稿や単発の仕事なども含めると毎週膨大な量の原稿を書き、格闘技の傍らそれらの締切に追われる日々を送っている。

<連載中>

モバイルSPA!内 コラム『佐藤光留のデカ盛りチャンピオンカーニバル』
2008年8月スタート。総合格闘技からプロレスへと活動の場を広げた佐藤光留が、プロレスラーに相応しいデカい肉体を手に入れるべく大盛り料理に戦いを挑む新企画。テーマは 『EATorDIE!!!!!!』。
モバイル映画情報サイト「映画秘宝クラブ」内 コラム『残糞感映画批評』
格闘家の立場で映画を批評するという斬新な試みのコラム。不定期更新。
パンクラス公式ファンクラブ「HYBRIT CLUB」 『佐藤光留の世界居場所発見』

<過去の連載>

「週刊プロレス」誌上 『読者参加型サバイバルコラム』(2008年10月29日号 No.1443 - 2009年9月16日号 No.1489)
3人のプロレスラーがコラムを執筆し、毎週行われる読者投票によって連載の継続を競うコラム。
月刊DMM DVD レビュー執筆(廃刊に伴い連載終了)。
モバイルSPA!内 コラム『佐藤光留の君の瞳に変してる』
新日本プロレスのエースである棚橋弘至も愛読していることに光留自身も驚愕したというコラム。師匠である鈴木みのるとともに出席した2006年プロレス大賞授賞式の会場で棚橋のほうから挨拶に来られて恐縮した話も載っている。鈴木は棚橋から光留のコラムを楽しみにしているという話を聞かされ、「あんなものを金を出して読んでいるとはバカではないか」と大笑いしたという。
モバイルゴング内 コラム「光留の女子プロ☆パラダイス」
光留が毎回、人気女子プロレスラーをゲストに迎えインタビューする。ゴングの休刊に伴うサイト閉鎖により終了。
王道!SP-777内 コラム 『佐藤光留のパーラー妄想脳内一族』
パチンコ・パチスロ総合サイト「パチンコの神様」におけるパチンコに関するコラム。
モバイルサイト「格闘王国」内 コラム『佐藤光留の陸の孤島通信』

メディア出演

テレビ東京「釣りロマンを求めて」(2008年3月1日放送 #972)
鈴木みのるのアシスタントとして一緒にゲスト出演

師匠・鈴木みのるとのエピソード

2004/10/12、パンクラス後楽園ホール大会での出来事であった。この日の第4試合、U-FILEの佐々木恭介と対戦し、ドローで終了した。マイクを持った光留は以下のように鈴木を挑発した。

「今日はご来場ありがとうございました。僕は今日、同じこの脛当て付けて、U-STYLEからやってきてくれた佐々木選手と戦うためにここにいました。さっき本人には言いましたけど、今日は引き分けだったけど、これ、必ず続きがあるってことだから。」と言い、U-STYLE参戦を表明したが、「そして僕はもう一つ、ある人に挑戦状を叩き付けに来ました。鈴木みのる!!いいか、どこにいるかわかんないけど、よく聞いとけよ。俺はパンクラスに入って、誰よりもあなたの近くにいました。一年ちょっと前、『ライガー選手と戦って感じるものがあるから、俺は移籍して新日本プロレスに本当の戦いをしに行ってくる』って言いました。だから、僕はずっと鈴木さんについてやってきましたが、最近の鈴木さんを見ていると、あれが本当の戦いですか?鈴木さんは相変わらず強いですが今まで研いできた刀はパンクラスのリングで使うためにあるんじゃないですか?研いでない、切れない刀はただの鉄だ!何でパンクラスの若手とは戦ってくれないんですか?NKホール、第1試合、これ付けて(レガース)僕と戦ってください。以上です、ありがとうございました。」

そして光留はリングを降り、アリーナを出てバックステージの通路に入ろうかというその時、不敵な笑みを浮かべた鈴木が現れ光留に襲い掛かった。すぐにその場に居合せた近藤有己らが鈴木を抑え、なだめられ奥に消える鈴木だった。憮然とした表情で立ちすくんだ光留は、その後、反対側の控え室に向かうため、いったんアリーナに戻り「ぜってーやってやるからな!」と絶叫し観客を熱狂させた。

その後のインタビューで光留は、「僕は鈴木さんのやっているプロレスも戦いだと思います。僕のやっていることも戦いだと思います。プロレスや格闘技をジャンル分けする必要はありません。気持ちです。ライガー選手とやった時はずっとパンクラスで、どんな時も、どんなに背中丸めても下向いても、必ず次の日は正面向いて胸張って歩いていた鈴木さんが、最近、ライガー選手とやった時と同じ刺激に餓えてるんじゃないかと思います。たとえ、鈴木さんがそう思わなくても、長年鈴木さんの横にぴったり付いていて、誰よりも怒られて、誰よりも言葉もかけてもらっていると思う。道場長でもなければ、一番強いチャンピオンなわけでもないけど、それでも声をかけてもらってる、俺にはわかる。誰がどう言っても、俺が見た鈴木さんは、今の鈴木さんは餓えてる。もう今、伝説ですよ、鈴木さん。このままじゃほんとに生きるパンクラスの伝説。鈴木さんは伝説なんかじゃない。ずっと生きてる。それを確かめたい、感じたい、戦いたい。」と語った。

この事件により鈴木は3か月間の10%減俸処分を受けたが、光留と鈴木の師弟関係はこの事件後にさらに良好なものへとなっていき、2005年5月1日、パンクラスのリングで鈴木とエキシビションマッチで対戦した。

獲得タイトル

総合格闘技

  • DEMOLITION MIDDLE WEIGHT 4MEN TOURNAMENT 優勝
  • 第2回 プロ・アマオープン キャッチレスリングトーナメント 100kg未満級 優勝

プロレス

  • KO-D無差別級王座(33代)
  • UWA世界6人タッグ(佐藤光留&中澤マイケル&松永智充)
  • 自由が丘広小路会認定6人タッグ(第7代:佐藤光留&中澤マイケル&松永智充)
  • 日本海6人タッグ(第4代:佐藤光留&中澤マイケル&松永智充)
  • アイアンマンヘビーメタル級(831代)

デビュー10周年興行

  • 大会名 : BEST SNIPE 〜変態狙撃祭
  • 開催日時 : 2010/2/28
  • 開催場所 : 新宿FACE
  • 観客 : 310人(佐藤)
  • 放送局 : FIGHTING TV サムライ
  • 主催 : 佐藤光留デビュー10周年記念興行事務局

対戦カード

第0試合 アマチュア変態グラップリングマッチ(5分1R)
○ 小野明洋(4分51秒 首決めアームロック)シバター ×
第1試合 超異次元対決!!ハイブリッド・レスリング vs. お笑いプロレス(20分1本勝負)
○ 砂辺光久(7分40秒 腕ひしぎ十字固め)菊タロー ×
第2試合 Uの遺伝子末裔タッグマッチ(30分1本勝負)
○ 矢野啓太、田村和宏(13分34秒 変形羽交い絞め)タイガー・シャーク、斉藤彰文 ×
第3試合 変態最高!!10周年最高!!絶好調エキシビション5分1R(パンクラス旗揚げルール)
○ 高瀬大樹(1R 4分47秒 腕ひしぎ十字固め)佐藤光留 ×
第4試合 抽選式コスプレ女子プロレス「変態所学園〜真冬の大運動会」(39分1本勝負)
○ アップルみゆき、華名(9分16秒 ダイビング・ボディ・プレス)紫雷イオ、紫雷美央 ×
セミファイナル キング・オブ・メイド服タイトル5WAYマッチ(45分1本勝負)
○ 橋誠(9分29秒 ゴリラーマン・スープレックス・ホールド with 男色)冨宅飛駈 ×
(橋誠 vs 冨宅飛駈 vs FUJITA vs 中澤“CEO”マイケル vs 男色ディーノ)
メインイベント 佐藤光留デビュー10周年記念試合(60分1本勝負)
○ MAZADA、NOSAWA論外(16分48秒 正田落とし)鈴木みのる、佐藤光留 ×
特別リングアナウンサー・桜塚やっくん
特別ボーナスマッチ
○ 鈴木みのる(3分05秒 ゴッチ式パイルドライバー)佐藤光留 ×

 
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ガイ・ミッチェル/"ジェントルマン" ジェリー・バリアント
"Stomper" Guy Mitchel/"Gentleman" Jerry Valiant
1941/7/8 - 2010/3/11

ジョン・ヒル(John Steele Hill)はカナダ・オンタリオ州ハミルトン出身のプロレスラー。WWF(現・WWE)におけるバリアント・ブラザーズの一員。

来歴

トロント地区のプロモーターだったフランク・タニーにスカウトされ、1959年にガイ・ヒルGuy Hill)のリングネームでデビュー。1961年、アメリカ合衆国南部のジョージア地区でガイ・ミッチェルGuy Mitchell)に改名し、同年3/29にスカル・マーフィーからNWA南部ヘビー級王座を奪取した。

その後、インディアナポリスのWWAでヒールの覆面レスラーに変身し、ジョー・トマッソとジ・アサシンズThe Assassins)を結成。若手時代のボビー・ヒーナンをマネージャーに従え、1965年から1966年にかけてディック・ザ・ブルーザー&ウイルバー・スナイダーなどの強豪チームとWWA世界タッグ王座を争った。WWAではヒーナンの兄弟ギミックのガイ・ヒーナンGuy Heenan)を名乗ったこともある。

1970年代に入るとデトロイト地区で素顔に戻り、ザ・ストンパーThe Stomper)のリングネームでベビーフェイスとして活動。ザ・シークやキラー・ブルックスと抗争を繰り広げ、ボボ・ブラジルら人気スターのパートナーとなって同地区認定のNWA世界タッグ王座も再三獲得した。1972年1月にはザ・ストンパー名義で日本プロレスに初来日。翌1973年1月にもレッド・デビルThe Red Devil)なるマスクマンとして再来日している。

1973年からはカナダのバンクーバー地区を主戦場に、再びヒールターンして覆面レスラーのミスターXMr. X)に変身。1974年4月1日にはフラッシュ・ゴードンことジョージ・ゴーディエンコからNWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座を奪取した。以降もジン・キニスキーやマイク・シャープ・ジュニアらを破り、1977年まで同王座を通算4回獲得している。この間の1975年10月、新日本プロレスにミスターXとして来日。アントニオ猪木ともシングルマッチで2度対戦した。また、素顔のガイ・ミッチェルとしても古巣のWWAに参戦しており、この時期はバンクーバーとインディアナポリスを股にかけ、2つのギミックを使い分けて活動していた。

1978年末、肝炎を患っていたジミー・バリアントに代わるジョニー・バリアントの新パートナーとして、ジェリー・バリアントJerry Valiant)を名乗りニューヨークのWWFに登場。1979/3/6、トニー・ガレア&ラリー・ズビスコを破りWWFタッグ王座を獲得した。同年8/27にはマディソン・スクエア・ガーデンのリングでアンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチも組まれている。

WWF離脱後もバリアント・ブラザーズのギミックを使い続け、1980年2月にはラリー・バリアントLarry Valiant)の名前でジョニーと共に全日本プロレスに来日、グレート小鹿&大熊元司のアジアタッグ王座に挑戦した。全日本には1981年1月にもガイ・ミッチェル名義で再来日しており、これが最後の日本マット登場となった。

その後はWWAでの盟友でもあったロジャー・カービーをパートナーに、メンフィスのCWAやカンザスシティのNWAセントラル・ステーツ地区で活動。1983年にWWAに戻り、そのまま引退してインディアナポリス近郊に在住、引退後は造園業を営んでいた。

2010/3/11、インディアナ州フランクリンにて癌のため死去。68歳没。晩年はサンタクロースに扮してボランティア活動にも取り組んでいた。

獲得タイトル

  • NWA南部ヘビー級王座(ジョージア版):1回
  • NWA南部タッグ王座(ジョージア版):1回(w / ボブ・ラムゼン)
  • NWA世界タッグ王座(デトロイト版):3回(w / ベン・ジャスティス×2、ボボ・ブラジル)
  • NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):6回(w / バック・ラムステッド、ジン・キニスキー、ザ・ブルート、オルマンド・マルンバ、リッキー・ハンター、エリック・フローリッチ)
  • NWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座(バンクーバー版):4回
  • IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):1回
  • WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版):1回
  • WWA世界タッグ王座(インディアナポリス版):5回(w / ジョー・トマッソ×3、ロジャー・カービー、アブドーラ・ザ・グレート)
  • WWFタッグ王座:1回(w / ジョニー・バリアント)







  





 












 
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