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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/11


 
 


 
 

クラッシャー・リソワスキー
Crusher Lisowski
1926/7/11 - 200510/22

ウィスコンシン州サウスミルウォーキー出身のポーランド系アメリカ人。本名はレジナルド・リソワスキーReginald Lisowski)。生年月日、出自、デビュー年に関しては不明な点が多く、出身地はペンシルベニア州ピッツバーグという説もある。

来歴

若い頃は不良少年で、煉瓦積みの職人、ハイウェイ・パトロールの警察官などの職業を経た。1949年(1950年とも)、24歳でプロレス入り。レジー・リソワスキー(Reggie Lisowski)の名でリングに上がりスタンレー・リソワスキーとタッグで活躍した。

1963/2/15、ネブラスカ州オマハでバーン・ガニアを破ってAWA世界ヘビー級王座(オハマ版)を奪取。

同年7/9、ミネソタ州ミネアポリスでバーン・ガニアを破ってAWA世界ヘビー級王座(ミネアポリス版)を奪取。

1963/8/20、同地でディック・ザ・ブルーザーと組んでAWA世界タッグ王座を奪取(以降、ブルーザーとのコンビで計4回、コンビを変え計4回の奪取に成功)。

1963/11/29、ミネソタ州セントポールでバーン・ガニア再度AWA世界ヘビー級王座(オハマ版)を奪取。

1965/8/21、同地でマッドドッグ・バションを破り統一されたAWA世界ヘビー級王座を奪取。

1967年12月、日本プロレスに初来日しジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。

1969/8/11、日本プロレス、札幌中島スポーツセンターでジャイアント馬場&アントニオ猪木(BI砲)を破りインターナショナル・タッグ王座を奪取。

1972年11月、国際プロレスに来日。11月27日にブルーザーと組んでストロング小林&グレート草津と日本初の金網デスマッチによるタッグ戦を行う。

1976年1月、全日本プロレスに最後の来日。

1984/5/6、バロン・フォン・ラシクと組んでクラッシャー・ブラックウェル&ケン・パテラを破りAWA世界タッグ王座を奪取。これが最後の載冠となる。

1986年、WWFにスポット参戦。ジャイアント・マシーン、スーパー・マシーン、ビッグ・マシーンらのWWF版マシーン軍団の一員として、覆面レスラーのクラッシャー・マシーン(Crusher Machine)を名乗る。素顔でもハルク・ホーガンとタッグを組み、ビッグ・ジョン・スタッド&キングコング・バンディと対戦した。

1989年頃、WWFで引退。

2005年10月22日、ミルウォーキーの病院で脳腫瘍のため死去。

獲得タイトル

  • AWAブラスナックル王座:1回
  • AWA世界ヘビー級王座(ミネアポリス版):2回
  • AWA世界ヘビー級王座(オマハ版):1回
  • AWA世界タッグ王座:9回(w / ディック・ザ・ブルーザー×5、バーン・ガニア、レッド・バスチェン、ビル・ロビンソン、バロン・フォン・ラシク)
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / トミー・リッチ)
  • NWAカナディアン・オープンタッグ王座:1回(w / スタン・リソワスキー)
  • NWA世界タッグ王座(シカゴ版):3回(w / アート・ネルソン、スタン・リソワスキー×2)
  • NWA世界タッグ王座(ミネアポリス版):2回(w / スタン・リソワスキー)
  • WWA世界タッグ王座:6回(w / ディック・ザ・ブルーザー)
  • インターナショナル・タッグ王座:1回(w / ディック・ザ・ブルーザー)
  • ブリティッシュ・オープンタッグ王座:1回(w / スタン・リソワスキー)

 
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ザ・デストロイヤー
The Destroyer
1931/7/11

The Destroyer

アメリカ合衆国・ニューヨーク出身の元プロレスラー 、本名:リチャード・ベイヤーRichard Beyer、「リチャード」の愛称であるディック・ベイヤーとも呼ばれる)。正式なリングネームはジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤーThe Intelligent Sensational Destroyer)である。アメリカでは、ディック・ザ・デストロイヤー・ベイヤーDick "The Destroyer" Beyer)として知られる。

日本では「白覆面の魔王」の異名を持つ覆面レスラーとして力道山、ジャイアント馬場などと戦った他、テレビタレントとしても活躍した。大の親日家としても知られる。

プロフィール

デビュー

シラキューズ大学在学時からアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も母校のコーチを務めていたが、レスリングでも実績を残していたため、1954年にアメリカのプロレス団体からのオファーを受けてプロレスラーも並行して始める。

WWA世界ヘビー級チャンピオン

当初は本名・素顔で試合を重ねてきたが、1962年に覆面レスラーに転向。白地に赤や青の縁取りを付け目と鼻、口の部分を開けたマスクを着用して試合に臨み、WWA世界ヘビー級王座を獲得。通算3度WWA世界ヘビー級チャンピオンとなる。

日本での活躍

その後1963年に初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5/24に東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。力道山とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。力道山の死後も、豊登とWWA世界選手権を巡る激闘を繰り広げ、さらにジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレス、全日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。

初対戦の頃は「馬場を血だるまにしてKOした(このような公式記録はない)」と言われる大ヒールのデストロイヤーであったが、全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言(日本陣営が手薄だったことから馬場が引っ張り込んだという説が今では支配的)、敗れたデストロイヤーはその後6年余りの間全日所属選手として参戦し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラスなどと名勝負を残した。

日本プロレスでのアントニオ猪木とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。

全日本プロレスでは若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田や大仁田厚、渕正信らが教えを受けている。

覆面世界一決定十番勝負

また「NWA本部を差し置いて『覆面世界一』を名乗ることは出来ない。世界の強豪マスクマン10人を破って初めて世界一を名乗れる」というアングルに端を発する『覆面十番勝負』は、1974/7/25のミル・マスカラス戦を皮切りに、1976/8/28のスーパー・デストロイヤー戦まで2年間に渡って行われた。キラー・カール・コックスが変身したザ・スピリット、ディック・マードックが変身したザ・トルネードなどの急造マスクマンも多く含まれていたとはいえ、「刺客」として送り込まれるミスター・レスリング、ジ・アベンジャー、カリプス・ハリケーン、スーパー・デストロイヤーら実力者相手の連戦で「タイガーマスク」のストーリーにも似た興奮を醸し出した。なお覆面を模ったオリジナルチャンピオンベルトも存在する。

金曜10時!うわさのチャンネル!!

またそのユニークなキャラクターから、日本テレビ系で放送されたバラエティー番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(司会:和田アキ子、せんだみつおら)にレギュラー出演し、コメディアンとしてのセンスを見せリングの外でも人気を博した。番組中徳光和夫に足4の字固めを仕掛け、徳光が「明日子供の授業参観なのに」「俺はギャラが出ないんだぞ!」と叫びながら悶絶する姿が見られた。

1979年6月、日本でのレギュラー出場に一旦終止符を打ちアメリカの再び主戦場を移したが、その「日本陣営引退記念試合」として組まれた馬場との特別試合で、親日家であるデストロイヤーらしく、入場式ののち後楽園ホールの放送席に駆けつけ、「視聴者プレゼントに」とマスク(試合実用2枚、未使用多数)や試合に使われたガウンなどをサイン入りで寄贈した。また花束の贈呈にはうわさのチャンネル!!で競演した和田、せんだらも出席した。

アメリカでのレスリングスタイル

日本ではベビーフェイスとして活躍したが、アメリカではもっぱらヒール役に徹していた。1968年には、かつての全米3大メジャー団体の1つであるAWAで黒覆面の「ドクターX」を名乗り、バーン・ガニアを倒しAWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。

引退

アメリカに戻ってからは年1回、全日本プロレスの「サマーアクションシリーズ」での特別参戦を続け、1993年に引退。その後アメリカ・アクロンの高等学校で体育教師、水泳教室のインストラクターも務めた。

しかしその後もたびたび来日し、日本のプロレス界やマスコミに登場を続けている。2007年には「レッスルキングダム2」の宣伝のためにブッチャーと共に登場した。

2007/12/20に有明コロシアムで行われた、アントニオ猪木が主催するIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)プロレスリング「GENOME2~猪木 Fighting Xmas~」に特別立会人として来日。カート・アングルとケンドー・カシンの一戦では、場外でイスを振るおうとしたカシンを制止し、会場のファンから大歓声を浴びた。

エピソード

  • プロレスの歴史上初めて、マスクマンとしてヘビー級のトップ戦線で活躍したプロレスラーである。覆面をかぶったのは、当時プロレスラーのライセンスを取得していなかったため、大きな団体で試合をするには正体を隠す必要があったことと、さまざまなスポーツ(アメフトだけでなく、野球、レスリングでも活躍していた)をやっていたせいで前歯が折れていた事から、素顔をさらすのに躊躇したためといわれる。また、素顔は優しい顔立ちの人物である事から、マスクで隠す事でより迫力を出すためであったともされる。空港でもマスクを外さず、「ボク、デストロイヤー」と言って搭乗口を出ようとしたこともあるほど素顔を露出しなかったといわれているが、その一方で、ゴルフ練習場では暑かったのかマスクをその場で脱いでクラブを振るなど、よく分からない面もあった。
  • 第5回ワールド大リーグ戦の決勝戦前、リング上の力道山とキラー・コワルスキーの前にWWA世界チャンピオンとして来日したデストロイヤーは、次期シリーズに力道山相手に防衛戦を戦う旨のあいさつに訪れた。コワルスキーに手を差し出し握手するかに見えたデストロイヤーは、そのままつかつかっとコワルスキーに近づくと、平手でぴしゃっとコワルスキーの頬を張った。コワルスキーは顔色を変えたが、大事な試合の前とあって乱闘にもならず試合が始まった。この時のことについて、後にデストロイヤーがインタビューで語っている。握手を求めたデストロイヤーに対し、コワルスキーは横を向いて「ローカルチャンピオンが・・・」とつぶやいたらしい(確かにWWAはアメリカ西海岸を主な勢力圏とする、NWAに比べればローカルな団体ではあった)。WWAという団体の看板を背負っている以上、アクシデント(ユーコン・エリックの耳をニードロップでそぎ落とした)で有名になった男ごときにばかにされて黙っているわけにいかない。当時の自分としてはそんな気持ちだった、という。
  • 1963/5/23、静岡県駿府会館において、力道山との世界戦前日にジャイアント馬場と時間無制限1本勝負を行ったが、デストロイヤーはこの試合いつもの白覆面ではなく、“デビルマスク”と呼ばれる黒覆面を被ってリング上に登場した。“白覆面の魔王”ザ・デストロイヤーとして日本で行われた試合で黒覆面を被ったのはこの試合だけである。のち「ドクターX」のリングネームで黒覆面を被った(来歴・人物の項参照)。
  • 翌5/24、東京・千駄ヶ谷の東京体育館で行われた力道山とのWWA世界タイトルマッチは、日本プロレス史上に残る名勝負となった。力道山の空手チョップで前歯をへし折られながらも、ついに必殺の4の字固めに捉えたデストロイヤー。ところが力道山はギブアップせず、体を反転させて裏返しになり4の字固めをかけられたまま上から逆にデストロイヤーの足を責めつけた。そのまま二人は二転三転、どちらもギブアップしない。ついにレフェリーはこれ以上やったら二人とも死ぬ、と叫んで引き分けを宣した。試合後も両者の足は複雑に絡み合いなかなか外れなかったという。
  • 愛妻家として知られ、マスクも夫人の手作りのものであった。
  • マスクをしたまま、自動車を運転していたことが目撃されている。
  • 1974年にはビクター音楽産業から、『デストロイヤーの楽しいクリスマス』と題されたクリスマス向けのLPを日本で発表している。「ジングル・ベル」や「きよしこの夜」などといったクリスマス・ソングを日本語で歌ったもので、作品には夫人も参加している。
  • 親日家であり、現在でも毎年最低一回は日本を訪れている。麻布十番納涼まつりで毎年チャリティサイン会を行なっているほか、自らのレスリングの少年チームを率いての来日もある。十番祭りでは毎年様々なグッズを持って来日し、サイン会場となっている携帯電話ショップの前はいつも大渋滞である。このことから現在の日本においても非常に有名な選手であることが伺える。
  • かつて日本に住んでいたのは麻布十番にも程近い港区の三ノ橋近辺である。
  • 日本のプロ野球界に来る助っ人外国人選手との交流も有名で、約8年間の滞日経験を生かし、多くの外国人選手の良きアドバイザーとなった。ランディ・バースやレロン・リー、レオン・リー兄弟、同郷のマット・ウインタースなどは彼への感謝をいまだに忘れないと言う。
  • ジャイアント馬場と全日本プロレスに対する信頼はかなりのもので、新日本プロレスから移籍して来たスタン・ハンセンに対して「スタン、君の移籍は大正解だ。私は全日本立ち上げから馬場と共にしてるが、一度も嫌な思いをさせられた事はない」と声をかけ、ハンセンを安心させた。なお、デストロイヤーは1975年の初来日時のハンセンの対戦相手も務めた。さらに1999/5/2東京ドーム、馬場没後の「引退記念試合」に際し、最後の「タッグ・パートナー」に指名され、ブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー組と「対戦」。挨拶では日本語で「社長、ほんとうにお疲れさまでした」と声をかけ、会場中の涙を誘った。
  • ザ・デストロイヤーのマスクは、女性用のガードルから作られている。マスクマンになる時、妻と一緒に女性用下着売り場に行き、変な目で見られたそうである。購入したガードルを使用して、妻が加工し直した物をマスクとして使用していた。

主なタイトル

  • WWA世界ヘビー級王座:3回(覆面レスラーの世界王者は初めて)
  • WWA世界タッグ王座:2回(w / ハードボイルド・ハガティ)
  • アジアタッグ王座:1回(w / ビリー・レッド・ライオン)
  • AWA世界ヘビー級王座:1回(ドクターXとして)
  • PWF・USヘビー級王座:4回
  • インターナショナル・ヘビー級王座:1回(モントリオール版)

家族

息子のカート・ベイヤー、娘婿のダニー・スパイビーもプロレスラーである。






ブッチ・リード
Butch Reed
1954/7/11

アメリカ合衆国のプロレスラー。ミズーリ州ウォーレンズバーグ出身のアフリカ系アメリカ人。本名はブルース・リードBruce Reed)。

1980年代前半は均整のとれた柔軟な肉体を持つ黒人レスラーの新鋭として、パワーとスピードを武器に南部エリアで絶大な人気を獲得。日本でも来日が熱望された「まだ見ぬ強豪」の一人だった。1980年代半ばからはラフ&パワーを主体としたヒールに転向し、ロン・シモンズとのタッグチーム、ドゥームDoom)などで活躍した。

来歴

セントラル・ミズーリ大学を経てNFLのカンザスシティ・チーフスで短期間プレイした後、1978年に地元ミズーリ州のカンザスシティでプロレスラーとしてデビュー。以降も本名のブルース・リード名義で中西部のミズーリおよびカンザス地区に定着、1980年にはジェリー・ロバーツとのコンビでマイク・ジョージ&ボブ・スウィータンからNWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を奪取している。

1981年下期より "ハクソー" ブッチ・リード"Hacksaw" Butch Reed)のリングネームで南部のフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のCWF)に参戦。1982/2/20、セントピーターズバーグにてドリー・ファンク・ジュニアのインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦したことから日本でも注目を集める。その後もフロリダではダスティ・ローデスやスウィート・ブラウン・シュガーの盟友となってベビーフェイス人気を獲得。ブルーザー・ブロディやビッグ・ジョン・スタッドら巨漢を相手に、ボディスラム・マッチを行ったこともある。

1983年からはビル・ワットが主宰するミッドサウス地区のMSWAを主戦場に活躍。同じく "Hacksaw" をニックネームとするヒールのジム・ドゥガンと抗争を展開するが、ドゥガンのベビーフェイス転向と入れ替わりにヒールターンを決行。以降1984年にかけて、タッグパートナーでもあったジャンクヤード・ドッグとの黒人レスラー同士による熾烈な抗争を繰り広げた。1985年はベビーフェイスに戻り、7月にダッチ・マンテルからミッドサウスTV王座を、10月にはディック・マードックから北米ヘビー級王座を奪取。バズ・ソイヤー、ディック・スレーター、カマラとも抗争し、因縁のドゥガンとのタッグチームも実現させた。

1986年に古巣のカンザスシティに戻り、再びヒールターンして黒人マネージャーのスリックと合体。同年9月よりスリックと共にWWFに登場する。WWFでは "ザ・ナチュラル" ブッチ・リード"The Natural" Butch Reed)を名乗り、黒人でありながら髪を金髪に染めたショーマン派のヒールに変身。1987/11/26に行われたサバイバー・シリーズの第1回大会では、当時ハルク・ホーガンと抗争していたアンドレ・ザ・ジャイアントのチーム・メンバーとなり、メインイベントでホーガン率いるベビーフェイス軍団と対戦した。翌1988年3月27日のレッスルマニアIVでは、空位となったWWF世界ヘビー級王座決定トーナメントに出場している(1回戦でランディ・サベージに敗退)。

レッスルマニア後にWWFと袂を分かち、最末期のNWAジム・クロケット・プロモーションズに転出。ヒロ・マツダ率いるヒール軍団 "ヤマサキ・コーポレーション" に加入してリック・フレアーやバリー・ウインダムと共闘する。同プロがWCWに買収された1989年からは、フロリダから移籍してきたロン・シモンズとドゥームDoom)を結成。当初はウーマンをマネージャーに付け、黒い覆面を被ったマスクマンのタッグチームとしてロード・ウォリアーズらと抗争していた。1990年より素顔になり、テディ・ロングを新マネージャーに迎えて黒人ユニットのイメージを強化。同年5/19、リックとスコットのスタイナー・ブラザーズを破りNWA世界タッグ王座を獲得する。

その後1991年1月にタイトル名は改称され、彼らが初代のWCW世界タッグ王者チームとなった。しかし同年2/24、マイケル・ヘイズとジミー・ガービンのファビュラス・フリーバーズに敗れ王座を失い、シモンズと仲間割れを起こしてチームを解散。以降はベビーフェイスに転向したシモンズと各地で遺恨試合を展開する。王座転落後の3月21日にはドゥームとして新日本プロレスの東京ドーム大会に初来日し、ビッグバン・ベイダー&バンバン・ビガロと対戦したが、試合後はシモンズとの殴り合いを演じた。

1992年にWCWを離れた後は、ジェリー・ジャレットとジェリー・ローラーが主宰していたテネシー州メンフィスのUSWAでジャンクヤード・ドッグとの抗争を再燃。以降、1994年にはテキサス州ダラスのGWF、2000年代に入るとハーリー・レイス主宰のWLWなどに参戦し、近年もホームタウンのカンザスシティ周辺のインディー団体へのスポット出場を続けている。

WWEとは1988年以来、絶縁状態が続いていたが、2007年9月のスマックダウンで放送された旧友セオドア・ロングの結婚披露宴のスキットでは、ゲストの一人としてバックステージに顔を見せている。なお、ロン・シモンズがファルークとしてWWFでネーション・オブ・ドミネーションを結成していた際、そのメンバーに加入するという噂もあった。

エピソード

  • 1982/2/20にセントピーターズバーグで行われたドリー・ファンク・ジュニアとのインターナショナル王座戦は、前年11/1にドリーが東京(後楽園ホール)でブルーザー・ブロディからタイトルを奪取して以来の初防衛戦であり、日本でも『全日本プロレス中継』にて放送された。その後、リードは全日本プロレスへの来日が何度となく予定されたが一度も実現することはなく、1991年3月の新日本プロレスへのドゥームとしての参戦で、ようやく初来日を果たすことになる。
  • しかし新日本への来日時、ドゥームはすでに仲間割れを起こし解散しており、リードとシモンズは抗争を展開するライバル同士になっていた。東京ドームでのベイダー&ビガロとの試合もそれが原因で敗退、試合後に本国での因縁を引きずって両者が殴り合うというブックが用意されたが、会場にはWCWでの両者の仲間割れアングルを知らない観客がほとんどだったため、反応は鈍かった。結果として、1980年代の「幻の強豪」だったリードは待望の日本マット登場を果たしたにもかかわらず、真価を発揮することができないまま最初で最後の来日を終えることになった。

獲得タイトル

  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ジェリー・ロバーツ)
  • NWA北米タッグ王座(フロリダ版):1回(w / スウィート・ブラウン・シュガー)
  • ミッドサウス北米ヘビー級王座:3回
  • ミッドサウス・タッグ王座:1回(w / ジム・ナイドハート)
  • ミッドサウスTV王座:1回
  • USWAユニファイド世界ヘビー級王座:1回
  • NWA世界タッグ王座(WCW世界タッグ王座):1回(w / ロン・シモンズ)





アーネスト・ホースト
Ernesto Hoost
1965/7/11

現在のスリナム出身、オランダ国籍の元キックボクサー。元ボスジム所属。

K-1 GRAND PRIX ’97、’99、K-1 WORLD GP 2000、2002王者で、セーム・シュルトと並ぶ4度の最多優勝記録、また、ピーター・アーツに次ぐ5度のファイナル出場記録を持つ。(アーツは6度)さらに、軽重量級トーナメントであるK-2 GRAND PRIXの初代にして最後の王者でもあり、K-1の主催した大会での最多優勝回数を記録している。K-1初期からのライバルであったアンディ・フグ、アーツ、マイク・ベルナルドとはK-1四天王として並び称され、突出した技術の高さから、畏敬の念を込めてミスター・パーフェクトと呼ばれる。また、勝利後に彼が踊るダンスは「ホースト・ダンス」と呼ばれて親しまれた。

人物

1993年に初開催されたK-1 GRAND PRIX ’93に参戦し、当時のキックボクシング界TOP2であったピーター・アーツを判定で、モーリス・スミスを左ハイキックでKOし一躍注目を浴びる。

無差別級のK-1において、当初ホーストは体格の面で他の強豪に比べて大きく劣っていた。しかし計画的なウェイトアップにより、スピードを維持したままヘビー級の体を造り上げることに成功した。ちなみに軽重量級トーナメントの「K-2 GRAND PRIX」の初代にして最後の王者である。

その完璧なまでの技術の前に対戦相手は自分の良さを出し切れず、ホーストのリズムで戦うことを余儀なくされる。現役末期こそ老獪な試合が多かったが、1996年から1997年にかけては7試合連続KO勝利という記録も残している。

4度の王座に就くなどずば抜けた戦績を残し、専門家にも評価の高いホーストではあるが、当時はアンディ・フグが日本人に通じる空手スピリットを示し、ジェロム・レ・バンナが派手な試合と過激な発言をすることにより、知名度・人気が高いことについて、ホーストはそれを「なんでみんな、アンディ、ジェロムばかりなんだ!」と嫉妬していた時期もあった。とはいえ、ホースト現役の晩年においてはK-1運営が以前にも増してショー化する中で、相対的にホーストの持つトップレベルの技術が再評価されていた。

また、そのファイトスタイルと普段の発言から冷静なイメージのあるホーストだが、2002年のK-1パリ大会でステファン・レコと対戦した際、先にリングインしていたレコがホーストの入場中にリング上でホーストのトレードマークであるホースト・ダンスを踊っているのを見て激怒し、当初の作戦を変更して試合開始早々にラッシュをしかけて1RKO勝利したり、K-1経験の浅いボブ・サップをKOするために強引にパンチで打ち合ったりと、気が強い一面を見せることがある。

来歴

1965年7月11日、オランダ領ギアナ(現在のスリナム共和国)で生まれる。

1970年、オランダに移住。

1983年12月、初めて選手としてリングにあがる。肘なしムエタイルールで Wim Scharren Berg を2RKOで倒し、初戦を勝利で飾った。

1987年10月、オランダのアムステルダムで行われたMTBNオランダタイトルマッチに出場。Kenneth Plak と対戦。1Rにダウンを奪い、判定勝ちし王座を獲得した。

1988年5月、オランダのアーネムで行われたMTBNヨーロッパタイトルマッチに出場。Francois Corremans(ベルギー)を判定で退け王座を獲得。6月、フルコンタクトヨーロッパ選手権大会(ISKA主催)優勝。6月、フランスのストラスブールで行われたヨーロッパサバット選手権大会コンバ部門ミドル級に出場。Sylvain Postel(フランス)を5RKOで下し優勝。9月、キックボクシングヨーロッパ選手権大会(WKA主催)優勝。

1989年5月、フランスのパリで開催された第1回世界サバット選手権大会コンバ部門に出場。Francis Dauvin(ベルギー)を3RKOで下し優勝。これが初の世界タイトルとなった。この試合の写真は、オランダの武道雑誌ゼンドーカン誌の表紙を飾った。10月、ムエタイ世界選手権大会優勝。

1990年1月、キックボクシング世界選手権大会(WKA主催)優勝。11月8日にロブ・カーマンと再戦。前回の試合では判定負けしていたが、今回も5RKOで敗北した。しかし本人によればKO直前に急所をフックで打ったからだと主張している。

1992年、フランスで行われたISKAフルコンタクト世界ライトヘビー級タイトルマッチでリック・ルーファス(王者/アメリカ)と対戦。ローキックが使えないというルールに慣れず、ルーファスのフットワークについていけなかったことで12R判定負けを喫した。

1993/4/30、K-1初興行「K-1 GRAND PRIX ’93」に出場。1回戦でピーター・アーツに判定勝ち、準決勝でモーリス・スミスに左ハイキックで失神KO勝ちするも、決勝でブランコ・シカティックに右ストレートでKO負け。準優勝に終わった。

1993/12/19、両国国技館で行われた「K-2 GRAND PRIX ’93」に出場。1回戦でマンソン・ギブソンに延長R判定勝ち。続く準決勝でアダム・ワットに1R右ハイキックでKO勝ち。決勝はチャンプア・ゲッソンリットに4R右ハイキックでKO勝ちし、優勝を果たした。

1994/5/8、オランダのアムステルダムで行われた「K-2 PLUS TOURNAMENT」に出場。決勝戦でボブ・シュライバーを1RKOで破り優勝。

1994年11月、ISKAフルコンタクト世界ライトヘビー級タイトルマッチ(2分12R)で、リック・ルーファス(王者/アメリカ)と再戦。9Rにパンチでスタンディングダウンを奪うと、11Rに右ハイキックでKO勝ちした。負けたルーファスは失神してしばらく立ち上がれないほどダメージを負っており、酸素マスクが必要なほどだった。

1994/12/10、「K-1 LEGEND 〜乱〜」でシカティックと再戦するも、2Rに右ストレートでKO負け。

1997/11/9、K-1 GRAND PRIX ’97 優勝。K-1初優勝を果たした。

1999/12/5、K-1 GRAND PRIX ’99 優勝。2度目のK-1優勝。

2000/12/10、K-1 WORLD GP 2000 優勝。3度目のK-1優勝。

2002/10/5、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦でボブ・サップに敗北したが、セーム・シュルトの欠場により決勝大会に出場。準々決勝でサップと再戦するもKO負け。勝利したサップの右拳中指骨骨折により準決勝に進みレイ・セフォーにKO勝ち、決勝でもジェロム・レ・バンナにKO勝ちし、4度目のK-1優勝を果たした。

2003/1/19、プロレス興行「WRESTLE-1」にアーネスト・“ビースト”として出場し、因縁のサップとプロレスルールにより再戦。白のガウン、黒のロングタイツといったコスチュームで戦い、STF、卍固め、パイプイス攻撃などを繰り出し、最後はスクールボーイ(横入りエビ固め)で3カウントを奪った。

2004/12/4、K-1 WORLD GP 2004 決勝戦に出場。1回戦で前大会王者のレミー・ボンヤスキーに判定負けするも、ジャッジの評価に怒りを露わにした。

2005/9/23、K-1 WORLD GP 2005 開幕戦は持病のアトピー性皮膚炎と膝の怪我で欠場。その大会中に今後はワンマッチのみを行い、1日に数試合戦わなければならない過酷なグランプリには出場しないと宣言し、その後2006年中に引退試合を行う予定だった。

2005/12/31、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!で11/19にK-1王者になったばかりのセーム・シュルトとの新旧王者対決でTKO負けを喫した。

2006/5/13、K-1 WORLD GP 2006 in AMSTERDAMにおいてオランダでの引退試合を行う。だが、対戦予定だったボブ・サップが契約問題のこじれから試合直前になって試合をボイコットしてしまったため、地元テレビの解説として来場していたピーター・アーツとの対戦に急遽変更になり、判定勝ち。

2006/7/30、K-1 WORLD GP 2006 札幌大会での発表で、9月に行われるグランプリ開幕戦を経て12月2日のグランプリ決勝大会で優勝し、「ファイブ・タイムス・チャンピオン」になった上での現役引退を目指すと宣言した。

そして、2006/12/2、K-1 WORLD GP 2006 決勝戦に出場。1回戦では、ハリッド"ディ・ファウスト"と対戦。小柄でスピードがありパンチが得意なハリッドに対して、リーチの差や的確なタイミングのローキックを活かし、判定勝利。準決勝では2005年末にTKO負けしたセーム・シュルトと対戦し、今度は3ラウンド戦い抜いたものの、シュルトに有効な攻撃を与えることができずに判定負け。この試合を最後に現役を引退した。

2008/2/23、北アイルランドのベルファストで開かれたWKNの興行で、WKNアワードという賞を授与された。

獲得タイトル

  • アマチュア
    • ヨーロッパサバット選手権大会コンバ部門ミドル級優勝
    • 第1回世界サバット選手権大会コンバ部門優勝
  • プロ
    • IKBF世界ライトヘビー級王座
    • WMTA世界ライトヘビー級王座
    • WKAムエタイ世界ライトヘビー級王座
    • ISKAフルコンタクト世界ライトヘビー級王座
    • K-1 GRAND PRIX ’93 準優勝
    • K-2 GRAND PRIX ’93 優勝
    • K-2 GRAND PRIX ’94 優勝
    • K-1 GRAND PRIX ’97 優勝
    • K-1 GRAND PRIX ’99 優勝
    • K-1 WORLD GP 2000 in NAGOYA 準優勝
    • K-1 WORLD GP 2000 優勝
    • K-1 WORLD GP 2001 in MELBOURNE 優勝
    • K-1 WORLD GP 2002 優勝
K-1 DVD紹介
K-1 ビデオ紹介

  




尾崎 仁彦
1972/7/11

尾崎仁彦

新日本プロレス所属のリングアナウンサー。東京都杉並区出身。

経歴

2002/9/1、アルバイトとして新日本に入社。

その後、契約社員を経て正社員に登用される。

リングアナウンサーとしてのデビューは、2006/9/12、山形県山形市総合スポーツセンター大会。

その後、トレーニングを受け、2007年より全ての大会のリングアナを務める。

その他、記者会見・イベント等の進行役も務めている。

エピソード

2009年の新日本主催スーパーJカップでは、男色ディーノ(DDT)にディープキスされる。





 
山本 喧一
1976/7/11

日本の総合格闘家、プロレスラー、実業家。本名は山本 健一(やまもと けんいち)。大阪府門真市出身。通称ヤマケン。POWER OF DREAM所属。株式会社ウィット代表取締役。

来歴

幼少時代に両親が離婚し、預け先で虐待を受けた。虐待の傷跡は、山本の体に今もなお残っているという。

小学校時代は喧嘩に明け暮れ、手の付けられなかった山本であるが、中学時代に前田日明の自伝『パワー・オブ・ドリーム』を読んだことから空手を始める。プロレスラーになる前は、正道会館の内弟子を務めていたこともある。

1993年にUWFインターナショナルに入門し、1994年に本名の山本 健一として桜庭和志戦でデビュー。1995年9月から新日本プロレスとの全面対抗戦が始まると、高山善廣、安生洋二と「ゴールデン・カップス」を組み活躍。1996年12月のUインター解散後は後継団体のキングダムを経て、1998年にリングスに移籍(3/28の興行から出場、7/5付けで正式所属)。だが、検査で頭に透明中隔嚢胞という腫瘍(良性)が発見され、安全面での問題が出てきたことが理由で、1999/1/23の試合を最後にリングスを退団することになる。退団を機にリングネームを山本 喧一に改名。UFC 23で行われたUFC-Jミドル級トーナメントに優勝した際、当時のリングスのエース田村潔司に「偽善者田村!俺と闘え!」とガチンコマッチを要求し、物議をかもしたこともあった。

格闘技ジム「パワー・オブ・ドリーム」を設立。ジム経営と並行して、天下一武闘会さながらの台上で戦い、素手でのパンチを認めた総合格闘技トーナメント「タイタンファイト」、クラブでDJプレイやライブとともに総合格闘技の試合をし、山本自身が賞金首となってプロ・アマ問わず挑戦を受けるコンセプトの「クラブ・ファイト」を主催する。だが、必要以上のアーティスト参加に対するギャラの高さに対してスポンサーを集めることが出来ず、スタッフの間で利害関係の問題に発展し、やむなく活動休止となった。人間関係と金策に疲れた山本はジムも閉鎖した。

しかし山本は格闘技から引退することは考えておらず、その後も格闘家としての活動を続け、PRIDEなどに参戦。

ジムを閉鎖してからは、WSR(ウェラサクレック・ムエタイジム)に所属を移し、ムエタイの試合に参戦し、60戦している本場の世界ランカー相手に勝利する。

2005年に念願のアメリカに渡り、更なる修行を重ねる。

2006/6/3、アメリカの大会「MFC」bodogFightに出場。カリーム・エリングトンと対戦し、逆転KO負けを喫した。当時UFCミドル級王者であったリッチ・フランクリンが次期挑戦者候補の山本を視察に来ていた。この試合に負けたことによって、山本のUFCカムバックとタイトルマッチの夢が遠のいた。

同年、2006年11月bodogペイパービュー放送記念タイトルマッチ挑戦者決定シークレットマッチが密かに日本で行われるも2R足の甲を骨折しドクターストップにより敗れている。

その後、アメリカに戻ろうとするが、ビザを頼んでいた弁護士に騙され、オーバーステイとされ強制送還となった。

2008/5/24、ハッスル・エイド2008にてアン・ジョー司令長官率いるゴールデン・カップスのセコンドとして姿を現す。

諸事情により休止していた「タイタンファイト」を、2009年に9年ぶりにプロデュース、復活させた。

2010年現在の山本は、タイタンファイトの主催会社である株式会社ウィットの代表取締役を務めており、実業家としての顔も持っている。 12/17アパッチプロレス軍でプロレス復帰。

TIPS

  • 2001年12月に、須藤元気とリングスのリングで試合を行ったことがある。山本の通常体重は96kgであるが、この試合のために苦しみながらも75kgにまで減量してきた。さらにこの試合では山本が保持していた「UFC-JAPAN」(UFCの認定タイトルではなく、現在活動停止中のUFC-JAPANが制定したベルト)のベルトが賭けられた。試合は裸絞めで山本が敗北し、ベルトは須藤に奪われた。
  • また、「ZST」、「HERO'S」で活躍する所英男は「パワー・オブ・ドリーム」時代の弟子に当たる。ジムを閉鎖したことによりその関係は途絶えてしまったが、所は「今でも山本さんを尊敬しているし感謝している」と述べている。

人物

  • 総合格闘家であるが立ち技にも適応でき、ムエタイの試合に出場し勝利を収めるほどである(2004年WPKC世界ヘビー級4位)。総合格闘技での試合においても、ムエタイ・キックボクシング用のトランクスを着用し、ムエタイ式の構え方をするなど、他のファイターには無い個性的な一面を持つ。
  • アメリカに渡り、柔術にも磨きをかけて、ブラジリアン柔術ヘンゾ・グレイシー一派であり、アメリカ人で初めてブラックベルトを取得したショーン・ウィリアムス(ホドリゴ・グレイシーを鍛え、ホドリゴが兄と慕うことで有名。デービット・カメリオとほぼ互角の腕前)から茶帯の資格を取得し、USオープングラップリングファイトでは準優勝を収めた。





セオドア・ジェームス・ウィルソン
Theodore James (TJ) Wilson
1980/7/11

カナダアルバータ州カルガリー出身のプロレスラー。現在はタイソン・キッドTyson Kidd)の名でWWEのRAWで活動中。

来歴

カナダのプロレス名門ハート家の"ハート・ダンジョン"でトレーニングを開始する。 1997年にはWWF(現・WWE)のカルガリーでのハウス・ショーでリングに上がっている。

2002年には来日し、新日本プロレスのベスト・オブ・ザ・スーパージュニアにも参戦している。 その後はカナダに戻り、スタンピード・レスリングで活動する。

2006年11月にWWEと契約し、2007年2月にナッティ・ナイドハート(現ナタリヤ)と共にDSWへ送られる。その後WWEとDSWの関係が解消になったため、FCWへと移り、活動を続ける。

2009年2月ECWに登場し、地元団体のレスラー相手に勝利を重ねる。以降は、エヴァン・ボーンやDJ・ガブリエルなどと抗争する。5月からはデビッド・ハート・スミスとナタリヤと共にハート・ダイナスティ(The Hart Dynasty)として活動する。6月のトレードでナタリヤ、スミスと共にスマックダウンへ移籍する。移籍後はクライム・タイムと抗争。その後もヒールとして活動していたが2010年のレッスルマニア26でのブレット・ハートとビンス・マクマホンの一戦をきっかけにナタリヤやDHスミスらと共にベビーターンする。4/25のエクストリーム・ルールズで統一タッグ王者のビッグ・ショー & ザ・ミズ組に勝利し、統一タッグ王座への第一挑戦者となり、翌日のRAWで王者組に勝利し、統一タッグ王者となる(なお、8/16のRAWのブレットからの発表をもってWWEタッグ王座となる)。その後追加ドラフトによりナタリヤ、デビッド・ハート・スミスと共にRAWへ移籍する。

オーバー・ザ・リミットではクリス・ジェリコ & ザ・ミズ組、フェイタル・4ウェイ、マネー・イン・ザ・バンクではウーソズから王座を防衛してきたが、9/19のナイト・オブ・チャンピオンズのタッグチーム・ターモイル形式の王座戦でウーソズに敗れて王座から陥落する(試合の結果、コーディ・ローデス & ドリュー・マッキンタイア組が王者となる)。その後もタッグ王座戦線に絡むが負け続け、チームは不和となってしまう。11/15のジャスティン・ガブリエル & ヒース・スレイター組との試合ではスミスとの交代を拒否し、さらに頭にキックを叩き込んだ。これでハート・ダイナスティは解散となり、自身はヒールターンした。12/6からジャクソン・アンドリュースを引き連れてデビッド・ハート・スミスと抗争している。

4月末に行われた追加ドラフトでスマックダウンに移籍した。

獲得タイトル

  • WWE・統一タッグチーム王座 : 1回 (w / デビッド・ハート・スミス)

入場曲

  • Butt Klub
  • Raw To The Core
  • New Foundation
  • Bed Of Nails - 現在使用中

その他

  • ウィルソンの独特の髪型は王冠をイメージしているとのこと。
  • ナタリヤと婚約している。
  • 学校時代テディ・ハートと同級生だったことから少年時代からハート・ファミリーに出入りしていた。





橋本 真也
1965/7/3 - 2005/7/11

日本のプロレスラー。俳優、声優としても活動。闘魂三銃士の1人。岐阜県土岐市出身。

来歴

新日入団

中学時代に父が失踪し、母子家庭で育つが高校(中京商業高等学校)時代に母を亡くした。学生時代に柔道を始め、アントニオ猪木に憧れるようになり、1984年4月に新日本プロレス(以下「新日本」)に入門。入門初日に後のライバル、蝶野正洋と洗濯機の順番を巡って乱闘を起こした。1984/9/1に後藤達俊戦でデビューした。

1987年、第3回ヤングライオン杯での準優勝後に海外修行に出た。カナダのカルガリー地区を中心にモンゴル人ギミックの『ハシフ・カーン(Hashif Khan)』のリングネームで試合を行なったが、対戦相手を負傷させたりしたために試合を干されることもあった。完全に干されたきっかけとなったのは、ファンの女の子にサインを求められた時にそこに女性器を書き、それを見た親が泣いて激怒しプロモーターに訴えられたためだと言われている。

1988年暮れのワンマッチ帰国後、1989年1月からはテネシー州メンフィスのCWAに参戦。トージョー・ヤマモトをマネージャーに、サムライ・シンジこと笹崎伸司と『ショーグン&サムライ(The Shogun & The Samurai)』のタッグチームを結成、エースのジェリー・ローラーやビル・ダンディーをはじめ、ブレイク以前のスコット・スタイナーやジェフ・ジャレット、ロード・ヒューマンガスらと対戦した。

闘魂三銃士

海外修行の後、帰国し闘魂三銃士として、武藤敬司、蝶野正洋と共に売り出されることになり、対戦相手をリング上で叩き潰す姿から『破壊王』の異名を持つこととなった。また古舘伊知郎からは「戦う渡辺徹」の異名を貰っている。「破壊王」ほど定着しなかったが、橋本はこのニックネームを気に入っていたという。

ビッグバン・ベイダーやスコット・ノートン、トニー・ホームといった巨漢外人レスラーの得意技を正面で受け、好勝負を展開した。橋本自身は日本人レスラーとしては稀なスーパーヘビー級であるが、この階級のレスラーが得意技にすることが多いラリアットやパワーボムをほとんど使用せず、あんこ型でありながらキック主体というスタイルだった。

1993年、橋本は前年にグレート・ムタとしてIWGPヘビー級王座を獲得した武藤や、G1 CLIMAX2連覇を果たした蝶野と比べ、停滞気味であったが、WARの天龍源一郎と2度のシングルマッチを経て勢いを付け、9/20、ムタを破り、第14代IWGPヘビー級王者となった。その後、藤波辰爾に敗れて王座を一度手放すものの、直後の5/1福岡ドームのメインイベントで藤波を破って王者に返り咲き(1年後の1995/5/3福岡ドームで武藤に敗れたものの、9度の当時連続防衛記録を達成)、その年の活躍が認められ、「プロレス大賞MVP」を獲得した。

Mr.IWGPとして君臨

1996/4/29東京ドーム、この年の1月4日に武藤に勝利してIWGP王座を奪取したUWFインターナショナル(Uインター)の総大将である高田延彦と対戦し、垂直落下式DDTからの三角絞めで勝利した。また、前年から勃発していたUインターのリングにも参戦した。

1997/8/31、この年のG1 CLIMAX優勝者である佐々木健介に敗れIWGP王座を奪われて以降、橋本がIWGP王座につくことはなかったが、通算20度の防衛を果たした。

新日本プロレス時代の橋本は、後述するように数々のタイトルを獲得したものの、その一方で、G1のタイトルだけはなかなか手中に収めることができず、いつしか鬼門といわれるようになった。しかし、1998年に、藤波、健介、蝶野といった歴代のG1ホルダーを撃破して勝ち上がってきた山崎一夫を破り念願のG1優勝を果たした。

vs. 小川直也

小川直也と何度も抗争を繰り広げ、1997年4月の初戦(※小川のプロデビュー戦)は敗れたが翌月には小川を失神KOで下しリベンジを果たした。1999年1月4日、東京ドーム大会における3度目の戦いでは、橋本は小川にほとんど手も足も出ず事実上の敗北を喫した(結果は無効試合)。試合後に両選手のセコンド同士による乱闘騒ぎも発生した。当時全日本プロレスの三沢光晴は全日本プロレス中継で「あれじゃいくら何でもプロレスラーが弱くみられる。もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメントし、小川のセコンドについていた佐山聡は「セメントマッチ」であったと語っている。

同年10月にも小川に敗れ、2000/4/7東京ドームで行なわれた5戦目は、「負けたら引退」を公約し試合に臨んだ。STOをDDTで返し小川の腕を脱臼させるなど追い込んだものの、直後に仕掛けた腕への関節技が脱臼させた部分を戻してしまう不運や、防御面での対策は十分だったものの攻撃面の弱さもあり大敗を喫し、公約どおり新日本に辞表を提出した。

新日解雇〜ZERO-ONE旗揚げ

2000/8/23、熱心なファンの子供から送られた復帰を願う百万羽の折り鶴をきっかけに引退撤回を表明。これについてはテレビ朝日のスポーツ番組『スポコン!』が特集を組んだ。10/9東京ドームで藤波辰爾と復帰戦を行ない、その直後に新日本内に別組織「新日本プロレスリングZERO」を作ろうとしたが、長州力らの反対にあった。その結果、11/13付で新日本を解雇をされたため、直後にZERO-ONEを設立し完全独立した。12/23にはプロレスリング・ノアに参戦(対戦相手は大森隆男)、同年の大晦日にはINOKI BOM-BA-YE 2000に参戦(対戦相手はゲーリー・グッドリッジ)。その後ZERO-ONEには橋本の理想に賛同した新日時代の後輩・大谷晋二郎・高岩竜一が合流した。

2001/3/2、両国国技館にて「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」との理念を掲げ旗揚げの挨拶を行ない、試合では新日本の永田裕志と組み、ノアの三沢光晴・秋山準組と対戦してフォール負けした。この後、小川直也とは和解してZERO-ONEにて共闘、「OH砲」として人気を得た。

三冠奪取、長州との決戦〜ハッスル・キング

2003年にはZERO-ONE勢を率いて武藤率いる全日本プロレスに乗り込み、全面抗争が勃発、頂上決戦となったグレート・ムタとの三冠戦に勝利した。5/2には後楽園ホールでは最多記録となる2,300人の観衆を集めて、小川と組み、武藤・小島聡組と対戦し、勝利したが、試合後に川田利明が乱入。そして7月、橋本・小川組VS武藤・川田組の試合で、試合中に川田のキックをチョップで迎撃した時に右肩を脱臼し、勝利したもののこの時の脱臼がきっかけで三冠ベルトを返上した。

11月、長州力へ東京スポーツ紙上で口撃を行ない、その後コラコラ問答を経て長州軍との抗争に突入。同年12月団体戦、2004年2月にはシングルで長州と激突、勝利した。

2004年2月、3冠王者になった川田から3度目の防衛相手に指名され挑戦するも、前年の肩の怪我がきっかけで敗れる(セコンドからタオル投入)。橋本のいわゆるプロレス四天王とのシングルマッチはこの川田戦のみであった。その直後、2人はハッスル軍としてタッグを組んだ。

2004年からハッスルに参戦。小川から「ハッスル・キング」と命名され、高田総統から「ポーク」と揶揄された。

団体崩壊、闘病〜最期

しかし同年、団体の経営方針等、諸問題の積み重ねから団体内部との確執が生まれ、11月25日にZERO-ONE崩壊を宣言し、負債は全て自ら被ることで決着。1人でフリーの道を歩むことになる。その後、長い間治療せず放置していた右肩を手術し、リハビリをしながらリングへの復帰を目指していたが、2005年7月11日午前8時頃、滞在先において脳幹出血で倒れ、午前10時36分、搬送先の病院で死亡が確認された。40歳没。睡眠時無呼吸症候群も遠因であったと推測されている。

7/16に行なわれた葬儀には、武藤・蝶野・小川ら団体の垣根を越えて、大勢のレスラー、各界著名人、一般ファン等1万人以上が参列した。特に闘魂三銃士の絆を持つ武藤、蝶野の受けた衝撃は大きく、武藤が葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、蝶野が人目をはばからず涙に暮れるなどした。友人でもある高島宗一郎KBCアナウンサー (当時。現:第35代福岡市長)の涙声の絶叫に続き、出棺時に橋本選手の入場曲である『爆勝宣言』が流され、参列者から投げられた数千本もの赤い紙テープと「ハッシモト」コールの大声援に包まれて送り出され、遺体は久保山斎場で荼毘に付された。また旧ZERO-ONEで苦楽を共にした大谷晋二郎は、棺桶を担ぐ役から外されていたことを無念に感じ、葬儀場の出入り口付近で悔しさを噛み殺していたという。戒名「天武真優居士(てんぶしんゆうこじ)」。

2008/3/2、橋本の功績を称え、2代目IWGPヘビー級ベルトが中邑真輔から橋本家に贈呈された。

バラエティ番組『ロンドンハーツ』が、生涯最後のテレビ番組出演だった(後述のエピソードを参照)。

エピソード

師・猪木、小川直也との抗争

中学時代に猪木VSウィリー・ウィリアムス戦を見て猪木の魅力にひかれ、卒業文集には「尊敬する人・アントニオ猪木」と書くほど猪木に心酔した。やがて新日本に入門した橋本は猪木の闘魂哲学を徹底的に叩き込まれ、試合用ガウンには「闘魂伝承」の文言を入れるほど猪木イズムの伝承者として活躍。IWGP王座を通算20回防衛するなど1990年代の新日本を名実共に引っ張る大スターへと成長した。

しかし1997年、元柔道世界王者・バルセロナオリンピック銀メダリストの小川直也がプロ格闘家として猪木に弟子入りしたことで、2人の師弟関係に亀裂が入った。小川のデビュー戦の相手を務めた橋本だったが裸絞めでKO負けを喫すると言う番狂わせが起きた。1か月後に橋本はリベンジを果たしたが、1999年1月4日の3度目の対戦では、プロレスルールを無視した小川の突然の暴走ファイトに橋本はなす術なく敗北した。試合は無効試合となったが、試合後の会見で橋本は「絶対許さない」と黒幕・猪木への怒りを表した。同年10月、4度目の対戦が行なわれるがここでも小川に橋本は敗れた。

2000年4月の5度目の対戦でも小川は橋本を破った。しかしこの試合に引退を賭け、男の生き様を見せ付けた橋本に、猪木は「引退は早い」と歩み寄りを見せるようになった。橋本はファンの後押しを受け同年10月に引退を撤回して復帰。翌2001年にZERO-ONEを旗揚げした橋本に猪木は「馬鹿になれ!」のメッセージを送り、最大の理解者として橋本の行動を陰で支え、合わせるように小川も橋本と和解し、以降2人で「OH砲」としてタッグを組むようになった。

しかし2000年6月、当時PRIDE戦士だったマーク・ケアーの「ZERO-ONE真撃」への参戦問題に端を発し、橋本と猪木は再び袂を分かった。

2005年、橋本は死去。猪木は橋本を赤シャツで追悼し、一部に物議をかもした。

なお、橋本は2005年のプロレスゲームのインタビューで「尊敬するレスラーは?」との質問に「アントニオ猪木」と即答している。

対四天王

橋本が新日本在籍時代、夢のカードとして全日本プロレス・三沢光晴との「ミスターIWGP vs ミスター三冠」対決や、川田利明との「キック対決」を望んでいた。しかし橋本自身は全日本で一番戦いたい相手として、雑誌やトークショーで常々小橋健太(現・建太)の名を挙げていた。橋本がZERO-ONE設立後、三沢とはタッグで対戦し、川田とはシングル、タッグでの対戦、ハッスルではタッグを組むほど絡んでいたが、小橋、田上との対戦は叶わなかった。

人物

  • 型破りな人柄で、風変わりな言動も少なからずあった。橋本の関係者が彼を語る際には、常識・既成概念があてはまらない思考・行動をする人間を指すプロレス用語「トンパチ」(トンボにハチマキの意味)が用いられることが多い。
  • 坂口征二の付き人時代、坂口の持つ高価な水虫の薬の瓶を割る、坂口が自分用に購入した高価な栄養剤を飲んでしまう、興行収益の入ったアタッシェケースを旅館に忘れる、それを外で開いて札束を風でばらまいてしまう等、大きなミスを連発したため野上彰が「付き人の付き人」として橋本に付いた。
  • 若手時代、アントニオ猪木対アブドーラ・ザ・ブッチャーのシングルマッチのセコンドについていた際、ブッチャーの度重なる反則攻撃に激怒し、猪木を救うべく、場外に出たブッチャーにキックを見舞ったことがある(勝俣州和に語ったエピソードより)。「エース級レスラーの試合に格下の新人が加わる」という重大なタブーを犯したため、橋本はしばらく試合から干されてしまった。
  • ジャパンプロレス分裂後の長州軍団新日Uターンの際、出戻りを快く思っていなかった橋本は地方巡業で対戦相手のヒロ斎藤に激しい攻撃を加え負傷させたため、試合後に控室で長州力とマサ斎藤らから「制裁」を受けた。
  • バットマンの大ファン。「橋本が自分用のバットマンのコスチュームを特注し、それを着たまま外をねり歩いた」という噂の真相を雑誌のインタビューで尋ねられた際、それが事実であることを橋本本人が認めている。なお着用したバットスーツは「少しきつくてピチピチだった」とのこと。
  • 海外遠征時、テネシー州にあるエルヴィス・プレスリーの記念館に行ったことをきっかけにプレスリーのファンになり、その後しばらくプレスリーの様な服を着ていたという。米国出身のレスラーからは「ファット・エルヴィス」というあだ名で呼ばれていた。それ以来、エルヴィス風にもみ上げを伸ばし始めるようになった。
  • 小島聡が虫が苦手ということを知り、公園でセミを大量に捕まえて小島の部屋に放った。
  • 空気銃で撃ったスズメを付き人時代の天山広吉に食べさせた。天山はその後保健所に電話し「伝染病とかは大丈夫なんでしょうか」と聞いたという。その他にも、もう一人の付き人である西村修ら、若手レスラーを引き連れて起こした「遊び」は数々の逸話を残し、天山はそれらのイタズラの最大の被害者であった。
  • 1990年2月、東京ドーム大会でアントニオ猪木・坂口征二組とのタッグ対決の直前、控え室でピリピリしたムードの中、テレビ朝日の佐々木正洋アナウンサーが橋本にインタビューを行なった。このとき橋本が「時は来た!それだけだ」とやや芝居がかった口調で大真面目に言ったところ、横にいたタッグパートナーの蝶野が思わず吹き出しそうになり、顔を手で押さえごまかした。蝶野は「俺は笑ってない!」と釈明したが、後日「でも控え室は爆笑だったんじゃない?」と、この発言の面白さを認めている。この発言は、橋本が大の時代劇好きでそこから引用したものらしい。
  • 猪木以外にもタイガーマスクこと佐山聡にも憧れており、若手時代はタイガーの四次元プロレスの真似ばかりしていたという。元々はジュニアヘビー級のトップを目指していたとのこと。
  • とても料理上手であった。天山に雀を食べさせたエピソードも、水に付けて羽根を取り、自ら包丁で捌き、茹で、調理してから天山を騙して食べさせたという。同じ寮生で仲が良かった獣神サンダー・ライガーの証言によると、寮でもその料理は凝っており、ある日「豆腐を作る」と言い出し、苦汁や大豆を買い出しに行き、自ら豆腐を作ったが、食材に拘りすぎるあまり、豆腐一丁に1万円ほどかかってしまった。またラーメンなども、自分で出汁をとる本格派であったという。
  • 生涯最後のバラエティ出演となったロンドンハーツでは、長州小力を懲らしめるため橋本に扮した田村淳(ロンドンブーツ1号2号)の呼び込みにより、テーマソング『爆勝宣言』にのって西口プロレスのリングにあがった。放送前に橋本が急逝したため当初番組スタッフは放送中止を検討したが、橋本の遺族と関係者から「(橋本本人が)本日の放送を楽しみにしていた」ということを聞き、本人の供養も兼ねてそのまま放送された。番組中橋本から小力に「自分の物真似もやってくれるか?」と問いかけたところ快く応じていたが、橋本の急逝の影響もあってか今日まで公開されておらず、また「橋本を捜すネタ」も封印している。
  • 1990年の闘魂三銃士で売り出しかけの頃に中国へ渡り、自らのファイトスタイルであるキックを中心とした武術の修行に行く。その後はその時の影響か、試合前の控え室を出る瞬間やリングに上がる直前に必ず印を結び、気合を入れるポーズを見せていた。
  • よくZERO-ONEの時代にマイクで言い放った「こんなので辛いなんてまだ序ノ口だ。“地獄の一丁目”だぞ」は口癖である。
  • 離婚歴があり、前夫人との間に一男二女がいる。その後の交際相手がプロレスラーの故・冬木弘道夫人であった。前妻との息子の橋本大地は、2008/7/13に開催されたZERO1-MAXの追悼興業で父親の後を継ぎ、プロレスラーを志していることを明かした。2011年3月のZERO1両国大会で、蝶野正洋を相手にデビューを果たした。
  • 2000年4月に試合中の事故で死亡した福田雅一の最期を巡業中だった新日本のレスラーの中で唯一看取った。「最後は脳死状態になっちゃって…。右脳が潰れ、左脳が潰れ、延髄まで至って…。でも脈は動いてて。あいつは血の一滴になるまで戦った」と語り、号泣した。

コスチューム

  • カルガリーでの海外武者修行以降基本的には赤の帯とラインの入った黒のパンタロンを使用していたが、1988年の「88ジャパンカップリーグ戦」では当時の蝶野のような膝までの白のタイツを使用し、1992年1月4日のビル・カズマイヤー戦ではそれまでとは逆に黒の帯とラインの入った赤のパンタロンを使用した。パンタロンの赤のラインは1995年と1996年にマイナーチェンジが施されている。
  • 入場時に巻いていた鉢巻は1989年4月24日の東京ドームでのベイダーとのIWGP王座決定トーナメント決勝で初めて使用(マジックで手書きで「神風」と書いてあった)。また、1998年のG1以降短期間独特のマークの入った鉢巻を使用した。鉢巻は付き人に結んでもらっていたらしく、歴代の付き人で一番結ぶのが上手かったのは藤田和之だったという。
  • リングへは鉢巻きを付けて印を結んで上がるというスタイルをとった。

入場テーマ曲

爆勝宣言
橋本を象徴する入場テーマ曲。東京ドームなどでの入場時には必ずと言っていいほど「はっしもと!はっしもと!」と大コールが起こる。
  • 爆勝宣言(前奏付きバージョン)
    • ビッグマッチで使用。爆勝宣言の本テーマの前に「福岡ドームのテーマ」を付けたバージョンが流される。出棺の際にも使われた。
  • 爆勝宣言(ZERO-ONEバージョン)
    • 前述の前奏付き爆勝宣言の前にARBの「HARD-BOILED CITY」のサビの部分が流れる。
闘魂伝承
1997年1月から短期間使用。対小川直也第一戦はこの闘魂伝承で入場シーンを飾ったが、闘魂を注入された小川直也に負けてしまったためリベンジマッチでは闘魂を捨てて挑む意味を込めて爆勝宣言を復活させた。

獲得タイトル

  • IWGPヘビー級王座 : 第14代(防衛4回)、第16代(防衛9回)、第19代(防衛7回)
    闘魂三銃士の中でもダントツの防衛回数を誇り、橋本の戦績を語る上で欠かすことの出来ないものである。第16代王者時代に作った9回の防衛記録は後に永田裕志に破られるまで最多防衛記録であった。
  • IWGPタッグ王座
    • 第11代(防衛3回): パートナーはマサ斎藤。
    • 第26代(防衛6回): パートナーは平田淳嗣。
  • 三冠ヘビー級王座 : 第31代王者(防衛2回)
    IWGP・三冠ヘビーの2大メジャータイトルを制するのは、ベイダー、天龍源一郎、武藤敬司(グレート・ムタ)に続き4人目。
  • NWA世界ヘビー級王座 : 第93代(防衛2回)
  • NWAインターコンチネンタルタッグ
    • 第4代(防衛1回) : パートナーは小川直也
    • 第10代(防衛3回) : パートナーは藤原喜明
    橋本の生前最後の試合が大谷晋二郎・大森隆男組の挑戦を受けたこの王座の防衛戦だった(結果は敗北)。
  • 第8回G1 CLIMAX優勝(1998年)
  • 第2回・6回SGタッグリーグ優勝
    • パートナーは順に長州力、スコット・ノートン

受賞

  • 土岐市スポーツ栄誉賞

出演

テレビドラマ

  • 藤沢周平の用心棒日月抄(1997年、テレビ朝日、第8話(SP)「待っていた女」 富蔵役)
  • 新選組血風録(1998年、テレビ朝日、第2話「芹沢鴨、雨の襲撃」 天神岳役)
  • ウルトラマンガイア(1999年、第34話「魂の激突!」に本人役で特別出演。熱烈なウルトラマンファンだったことからゲスト出演が実現)
  • きみはペット(2003年、第7話 本人役)
  • ビー・バップ・ハイスクール(2004年、破壊王ラーメンオーナーで本人役)
  • 暴れん坊将軍 最終回スペシャル「黄金の島佐渡! 吉宗を狙う美女軍団!? 凶悪、鬼火一族との激闘!!」 (2003年、テレビ朝日、辰吉役)

バラエティ

  • 元祖!でぶや
  • ロンドンハーツ

ほか

アニメ

  • グラップラー刃牙(アルテミス・リーガン役で特別出演、アイキャッチ)
  • SDガンダムフォース(破壊大将軍 破壊丸役、サンリオのアトラクション内で上映されたアニメーションで、モーションキャプチャも担当)

映画

  • マッスルストーム
  • マッスルヒート(2002年)
  • あゝ!一軒家プロレス(ソフト・オン・デマンド)
  • 魁!!クロマティ高校(山口雄大監督作、本人役で出演)
  • 力道山(東浪役)
  • 首領への道劇場版 前編(白虎会幹事長 大津峰夫役)
  • セイブ・ザ・ワールド The In-Laws(洋画。DVD特典として小川・橋本による『ハッスル吹き替え』を収録。橋本はアルバート・ブルックスの日本語吹き替えを担当。)





松永 高司
1936/6/6 - 2009/7/11

日本の実業家。東京都目黒区出身。松永4兄弟で全日本女子プロレスを創業し、社長・会長を務めた。「女子プロレスの父」の異名を持つ。

人物

妹が女子プロレスラーとしてデビューしたのを機に兄弟4人で女子プロレスの世界に飛び込む。

全日本女子プロ・レスリング協会にてレフェリー、コーチを務め、いくつかあった団体を自身が中心となって日本女子プロレスに纏め上げた。

NWAと提携を結び、ファビュラス・ムーラの来日を実現させた。

その後、1968年に万年東一とともに「全日本女子プロレス」を旗揚げして社長に就任。日女のほとんどのレスラーが松永を慕い旗揚げに参加した。万年の辞任後は会長を歴任した。「ピストル(男子プロレスでのガチンコ)」「三禁」「25歳定年制」を提唱し、さらにフジテレビでの試合中継も実現させて女子プロブームを興した。

また、地方興行やガレージマッチ(全女事務所車庫での大会)で自ら焼きそばを焼く姿も名物であった。

2005年4月、資金繰りの悪化と体調不良のため全女会長を勇退し解散。以降は療養に入る。

2009年7月11日午後4時56分、間質性肺炎のため死去。73歳。

松永家

全女は松永家による同族経営であり、高司が中心を担い4兄弟及びその親族が役員に名を連ねていた。さらに配偶者や女性の親族にも元レスラーが多い。

  • 長男の妻:奄美百合子(元レスラー)
  • 次男:松永健司(副会長。「ミスター郭」のリングネームでレフェリーも務めた)
    • 長男:ボブ矢沢(レフェリー)
    • 妻の姪:京愛子(元レスラー)
  • 三男:松永高司(会長)
    • 妻:遠藤恵子(元レスラー)
  • 長女:吉葉礼子(元レスラー)
    • 長女:影かほる(元レスラー)
  • 次女:山口洋子(元レスラー)
  • 四男:松永国松(解散時の社長。「ジミー加山」のリングネームでレフェリーも務めた)
    • 妻:赤木マリ子(元レスラー・後に離婚)
  • 五男:松永俊国(元社長)
    • 次男:松永正嗣(取締役・渉外担当)
  • 従姉妹:ジャンボ宮本(元レスラー)
  • 遠戚:赤城マリ子(元レスラー)

なお長男は経営に関わっていない。

著書


女子プロレス終わらない夢全日本女子プロレス




 
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