本文へスキップ
 


 
 
”重要なお知らせ”


2011/9/1よりパワーアップでページ独立!

 
 


 
 
プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/12


 
 


 
 

レネ・グレイ
Rene Goulet
1932/7/12

ロベール・ベダールRobert Bédard)は、カナダ・ケベック州ケベックシティ出身、フランス系カナダ人の元プロレスラー。

第2代WWWF世界タッグ王者(パートナーはカール・ゴッチ)。現役引退後はWWFのロード・エージェントとなり、試合のストーリー構成や選手の管理業務などバックステージで手腕を振るった。

来歴

アマチュア時代はアイスホッケーのディフェンス選手であり、NHL入りを目指すが練習中の事故で断念、1956年に地元のケベックにてプロレスラーとしてデビュー。モーリス・バションらと対戦してキャリアを積み、1960年代前半よりレネ・グレイRene Goulet)のリングネームでアメリカのAWAに参戦。金髪をなびかせたフランス出身の伊達男系ベビーフェイスとして活動し、同じフランス系のバーン・ガニアともタッグを組んだ。

以降、太平洋岸北西部のPNWや南部のフロリダ地区などNWA圏を転戦した後、1971年にニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。同年12/6、マディソン・スクエア・ガーデンにてカール・ゴッチと組んでターザン・タイラー&ルーク・グラハムを破り、第2代のWWWF世界タッグ王者となった。

1972年6月には国際プロレスに初来日(名義は "Rene Goulet" の英語読みであるレーン・ゴルト)。国際には1974年5月にも再来日している。アメリカではこの時期よりサージェント・ジャック・グレイSgt. Jacques Goulet)を名乗ってヒールに転向し、インディアナポリスのWWAにてドン・ファーゴとザ・リージョネアーズThe Legionnaires)なるフランス外人部隊ギミックのタッグチームを結成。1974年9月21日にはウイルバー・スナイダー&ペッパー・ゴメスからWWA世界タッグ王座を奪取し、1975年4月からはザリノフ・ルブーフ(ユーコン・ランバージャック・ピエール)を新パートナーにディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの極道コンビと抗争した。

ジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのミッドアトランティック地区ではミシェル・デュボアともフランス系の悪党タッグチームを組み、1976/11/3に行われたNWAミッドアトランティック・タッグ王座決定トーナメントでは、ティム・ウッズ&ディノ・ブラボーのチームと決勝を争った。1977年にはジム・バーネットの主宰するジョージアのGCWに進出し、12/13にオレイ・アンダーソンとのコンビでスタン・ハンセン&トミー・リッチからNWAジョージア・タッグ王座を奪取している。

1979年よりWWFに復帰し、1980年11月にはWWFとの提携ルートで新日本プロレスに初参戦。第1回MSGタッグリーグ戦において、アンドレ・ザ・ジャイアント&ザ・ハングマンのフランス系大型コンビのマネージャー格を務めた。翌1981年の第2回大会には、自身がアンドレのパートナーとなって出場。体力的には弱体だったものの、作戦参謀ぶりを発揮してリーグ戦トップの戦績で優勝戦に進出、12/10の大阪府立体育会館にてアントニオ猪木&藤波辰巳の師弟コンビを下し優勝をさらった。1982年の第3回大会にもディフェンディング・チャンピオン・チームとしてアンドレと共に出場したが、2連覇を果たすことはできず、これが最後の来日となった。

1980年代も古巣のAWAやフロリダを転戦しつつWWFを活動の拠点とし、ジョバーのベテラン・ヒールとしてベビーフェース勢の売り出し役を担う。1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でWWFが全米侵攻サーキットを開始してからはロード・エージェントを担当するようになり、トーク番組『チューズデイ・ナイト・タイタンズ』ではカフェ・レネCafe Rene)なるインタビュー・コーナーのホストも務めた。

WWFには1997年まで在籍し、退職後はノースカロライナ州のシャーロットに居住。2001年には人工股関節の置換手術を受けた。

獲得タイトル

  • WWWF世界タッグ王座:1回(w / カール・ゴッチ)
  • WWA世界タッグ王座(インディアナポリス版):2回(w / ドン・ファーゴ、ザリノフ・ルブーフ)
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:2回(w / ペッパー・マーティン、シャグ・トーマス)
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / オレイ・アンダーソン)
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):2回

リングネームの読み方余話

1972/1/31MSGでのWWWF世界タッグ王座防衛戦は、試合直後にカール・ゴッチが日本遠征(新日本プロレス旗揚げ戦への参加)を公表したことから、日本で大きく紹介された。しかし、リングネームの読み方には混乱があり、『ゴング』1972年4月号では、カラーグラビアは「レーン・ゴルト」、海外ニュースコラムでは、「リン・ガレ」、海外各地の試合紹介コーナーでは「リン・グレ」と、一つの雑誌の中で3通りの読み方をされて紹介されてしまった。


 
広告


片山 明
1964/7/12

新日本プロレス、SWSに所属した元プロレスラー。

略歴

岡山県立東岡山工業高等学校卒業後、1985年に新日本プロレスに入門。 新日本時代は主に前座戦線で活躍したが、怪我しがちであったため伸び悩み1990年に新日本を退団、一時はプロレスから身を引いた。

同年6/27、旗揚げされた新団体SWSの所属となり現役に復帰。ジョージ高野らの道場「パライストラ」所属となり、1991年10月に行われた「SWS認定ジュニアヘビー級王座争奪戦日本代表決定リーグ戦」に参加するなど、ジュニアヘビー級戦線で活躍した。

しかし、1992/1/5、大阪府立体育会館での試合中、場外へのトペ・スイシーダを失敗し首を強打、第4頸椎脱臼骨折により半身不随の重傷を負い、同年6月のSWS消滅以降も復帰する事が出来ず、引退を余儀なくされた。






松丸元気
1970/7/12

日本のリングアナウンサー、ディスクジョッキー、脚本家。京都府京都市出身。

経歴

元々は調理師志望で料理人を目指していたが、怪我の為断念。様々な仕事の後、ラジオパーソナリティの仕事を目指す。関西で数々のラジオ関係の仕事をしていたが、30歳の頃から東京に活動の場所を移す。関西在住の頃から無類のプロレス・格闘技好きが高じて数々のプロレス関連の仕事を担当。東京に活動の場を移してからは念願のプロレスのリングアナウンサーをする事になる。日本最古のプロレス団体、全日本女子プロレスの最後のリングアナウンサーを務め、全女崩壊後はDDTプロレスリング、マッスル、ユニオンプロレスのリングアナウンサーを務める。また声優関係の専門学校の講師なども努め、ラジオ番組の構成作家やラジオドラマの脚本も手掛ける。

出演

リング・アナウンサー

  • 全日本女子プロレス
  • DDTプロレスリング
  • マッスル
  • ユニオンプロレス

ラジオ

  • M3-森谷威夫のモリモリマニア(KBS京都)
  • フリーウェーブ水曜日-元気・典子のチョベリグ・ジョッキー(KBS京都)
  • フリーウェーブ水曜日-吉佐登・元気のカルチャークロスロード(KBS京都)
  • 熱唱!ファイティングジョッキー(KBS京都)
  • ミュージックパラダイス・ミッドナイトドラマ(ABC放送)
  • グリーンスタジアム神戸 オリックス・ブルーウェーブ Stadium-Radio FM・B-WAVE
  • プロレス・トーキングプログラム プロレスQ(fmGIG)
  • Wrestle Radi-Cul Wave(fmGIG)
  • レッスル・インディーズハート(fmGIG)
  • マツ○GT(fmGIG)
  • 京都JOYPOLIS アミューズメントRADIO 松丸元気のサウンド・コミュニケーション・スクウェア
  • マツ○GT-R(粋 RADIOスペース)

Web TV

  • オタマニ研究所(CH-EASY)

イベントMC

  • 声優TALk LIVE SHOW VOICE OVER

CM

  • 個人情報誌じゃま~る(リクルート)
  • 情報誌ぴあ

脚本・構成

  • マザーレイク・ストーリー ~伝説の琵琶湖湖族たち~ (FM滋賀) 

 ※2009年度 社団法人 日本民間放送連盟 日本放送文化大賞 ラジオ部門 近畿地区グランプリ受賞

 ※2009年度 JFN賞 企画部門 地域賞受賞

  • Dream Of Antarctica ~南極大陸の夢~ (FM滋賀) 

 ※2008年度 社団法人 日本民間放送連盟 連盟賞 ラジオ番組教養部門 優秀賞受賞

  • 森谷威夫のモリモリマニア 声優になろうスペシャル ~グリーンヒストリー~ (KBS京都) 

 ※2000年度 社団法人 日本民間放送連盟  ラジオ番組バラエティ部門 参加作品

  • マザーレイク・ストーリー ~沖島物語 心のたからもの~ (FM滋賀) 

 ※2010年度 社団法人 日本民間放送連盟 連盟賞 ラジオ番組教養部門 参加作品

  • Wonder Of Antarctica ~南極大陸の不思議~ (FM滋賀)(2008年) ※南極特番 第2弾
  • Future Of Antarctica ~南極大陸の未来~ (FM滋賀)(2008年) ※南極特番 第3弾

森谷威夫のモリモリマニア 「声優になろう」 (KBS京都) (ラジオドラマ)

  • 「e-Xtreme Makers(イーエクストリーム・メーカーズ)」 (1999年) ※全3話  
  • 「ビート・ナックル」 (1999年) ※全3話  
  • 「ビューティ・アスリート・ファイター ファルシオン」 (2000年) ※全3話
  • 「電狼Solid」 (2000年) ※全3話  
  • 「楽しい夕食」 (2000年)  
  • 「e-Xtreme Dynamite(イーエクストリーム・ダイナマイト)」 (2000年) ※全3話  
  • 「ヴァニラ・ビーンズ」 (2000年~2001年) ※全24話放送

朗読劇

  • 「雨に唄えば」 (2008年)
  • 「キライな女」 (2008年)
  • 「6月の雨のナンクル」 (2010年)





KEI山宮
1972/7/12

山宮 恵一郎(やまみや けいいちろう、男性)は、日本の総合格闘家。神奈川県茅ヶ崎市出身。GRABAKA所属。神奈川県立茅ヶ崎高等学校、国士舘大学卒業。

一時期、本名に戻していたが、2007年12月22日より再びKEI山宮に戻した。

来歴

国士舘大学時代はレスリング部に所属。関東選手権82kg級2位の実績を残した。

大学卒業後、スポーツインストラクターとして地元で社会人生活を送っていたが、1995年にパンクラス入門。1997年の『ネオブラッドトーナメント』では優勝を果たした。

1999/11/14、UFC Japanでユージーン・ジャクソンと対戦し、左フックでKO負け。この試合よりリングネームをKEI山宮に変更した。

2000/6/26、『PANCRASE 2000 TRANS TOUR』でライトヘビー級ランキングトーナメントに参戦。1回戦、2回戦を勝ち上がり、準決勝に駒を進める。そして2000/9/24の決勝大会の準決勝でオマー・ブイシェにチョークスリーパーで一本勝ち。さらに決勝で美濃輪育久に判定勝ちし優勝。初代パンクラスライトヘビー級王者となった。

2001/1/8、DEEP2001旗揚げ大会でパウロ・フィリォと対戦し、KO負け。この試合で右目篩骨を骨折し全治3か月となったため、保持していたパンクラスライトヘビー級王座を返上した。

2001/10/30、ismと外部勢力GRABAKAとの対抗戦で郷野聡寛と対戦し、判定負け。この試合がきっかけとなり、山宮は更なる強さを求めてismを脱退、2003/12/1付けでGRABAKAに移籍した

2006/7/23からは、キックボクシング団体である全日本キックボクシング連盟に参戦。

2007年2月25日、K-1の日本人戦士育成プロジェクト「K-1 JAPAN TRYOUT」に参加し、合格を果たした。

2007/5/4から5/6にかけて、ゴールドジム幕張千葉アネックスで「K-1 TRYOUT 日本選考合宿」を行い、アーネスト・ホーストがコーチを務める「チーム・ホースト」所属となった。

2007/8/16、K-1 TRYOUT 2007 SURVIVALで洪太星と対戦、判定負け。

2007/12/22、パンクラスで川村亮と対戦し、判定勝ち。この試合からリングネームを再びKEI山宮に変更した。

2008/4/27、「パンクラスのエース」近藤有己と対戦し、判定勝ち。だが、翌日の会見で坂本靖常務に「イニシャル通り、KYで空気読めない」と言われた。6月1日の金原弘光戦では「KY」とプリントされたスパッツで登場し、判定勝ち。

2008/10/1、第4代ライトヘビー級キング・オブ・パンクラス決定戦で川村亮と対戦し、判定負け。

2009年5月2日、戦極初参戦となった戦極 〜第八陣〜でシャンジ・ヒベイロと対戦し、右フックでKO負け。

2010/6/5、第5代ウェルター級キング・オブ・パンクラス王座決定戦で宇良健吾と対戦。判定は3者とも30-30となるも、マストシステムで1-2の判定負けとなり王座獲得ならず。

2010/8/8、パンクラスのメインイベントでキム・フンと対戦し、2-0の判定勝ち。入場時にはレイザーラモンHGのコスプレで登場し、スパッツの尻部分には「ハードKEI」とプリントされていた。

2010/11/3、パンクラスでガジと対戦予定であったが、当日の大会中にガジのドクターチェックを行なった結果、左足の靭帯損傷および骨折の疑いにより不戦勝となった。12月5日、「2010鳥生三番勝負第三弾」として鳥生将大と対戦し、左ハイキックでKO負けを喫した。

人物

  • 猫(道夫)を飼っていて、本人のブログにたびたび登場する。
  • サザンオールスターズのファンであり、サザンの曲を入場曲に使用することが多い。
  • 公開練習で三沢光晴、入場時にTAJIRI、会見でタイガーマスクなど、コスプレを行なうことが多く、2011/2/6のパンクラス興行では「コスプレ展」が開催された。また、同門の郷野の入場時にもよく駆り出されている。
  • 主戦場のパンクラスの階級区分が変更されてからは、ライトヘビー級からミドル級、さらにはウェルター級にまで落として戦うことも多くなった。

主な獲得タイトル

  • パンクラスネオブラッドトーナメント1997 優勝
  • 初代ライトヘビー級キング・オブ・パンクラシスト

  



ザ・ハリケーン
The Hurricane
1974/7/12

グレゴリー・ヘルムズGregory Shane Helms)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ノースカロライナ州ローリー出身。

来歴

学生時代にレスリングで下地をつくり、1991年に地元ノースカロライナのインディー団体CCWAにて、キッド・ビシャスのリングネームでデビュー。その後、カロライナ地区のインディーを転戦し、オメガ・レスリング(Organization of Modern Extreme Grappling Arts)ではマット・ハーディーらと共に活動していた。

1999年、オメガ・レスリング時代の盟友シャノン・ムーアと共にWCWと契約。シェイン・ヘルムズの名でムーア&エヴァン・カレイジャスとアイドル系ヒール・ユニット「3カウント」を結成、ヤング・ドラゴンズ(カズ・ハヤシ、ジミー・ヤン、ジェイミー・サン)と抗争を展開する。3カウントはバックストリート・ボーイズやイン・シンクをパロディ化したユニットで、当時WCWのブッカーだったジミー・ハートがプロデュースし、タンク・アボットが彼らのボディーガード役を務めた。3カウント脱退後はベビーフェイスに転向し、2001/3/18にチャボ・ゲレロ・ジュニアを破りWCWクルーザー級王座を獲得、WCW最後のクルーザー級王者となった。

2001年のWCW崩壊後はWWE(当時WWF)と契約。当初はWCW時代と同じキャラクターだったが、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンのスキット上でのアドバイスにより、アメコミのヒーロー「グリーンランタン」を意識したスーパーヒーロー・ギミックのハリケーン・ヘルムズに変身する。初期は顔にペインティングを施していたが、後に覆面レスラーとなり、リングネームもザ・ハリケーンに改めた。

普段は「デイリー・グローブ社のシェイン・ヘルムズ記者」を名乗りレスラーの取材活動を行い、試合の際に変身するという設定で、会場にはハリ・サイクル(Hurri-Cycle)なるマシーンに乗って来場。当時はアライアンスのメンバーであったことからヒールのポジションで、スパイク・ダッドリーのギミック上の恋人モーリー・ホーリーを奪い、スーパーヒロインのマイティ・モーリーに変身させて自身の助手として帯同した(後にマイティ・モーリーはレッスルマニア18のハードコア戦において、バックステージでハリケーンをフォールし、彼からハードコア王座を奪取している)。

アライアンス消滅後はベビーフェイスに転向。2002/5/16、タジリ、ビリー・キッドマンとの3WAY戦を制しWWEクルーザー級王座を獲得。王座陥落後はRAWに移籍し、短期間ながらケインとのマスクマン・タッグチーム「ハリケイン」を結成。9/23にアンチ・アメリカンズのクリスチャン&ランス・ストームを下し世界タッグ王座も獲得した。

2003年秋からはロージーがパートナーとなり、2005/5/1のバックラッシュにて世界タッグ王座に返り咲いた。タッグ王座獲得後は、ステイシー・キーブラーも一時的にチームに加入している。

2005年10月、アメリカが度重なるハリケーンの被害に遭ったため改名を余儀なくされ、ギミックチェンジと共にヒールターンを決行。マスクマンから素顔に戻り、リングネームも本名に戻した。同年12/12にはタジリのWWE最後の試合の対戦相手を務めている。

2006/1/29のロイヤルランブルにおいてRAW所属のままクルーザー級王者となり、その翌週スマックダウンへ移籍。翌2007/2/18のノー・ウェイ・アウトでチャボ・ゲレロに敗れるまでクルーザー王座を保持した。同年5月、頚骨にヒビが入る怪我を負い、頸椎固定手術を受けリハビリのために長期欠場。

2008年秋頃からスマックダウンにて、リング上でヒール選手がマイクアピールなどをしているときに画面隅に顔映像だけ登場し、その選手に対して二言三言(大抵は皮肉めいた)コメントを出して消えるという形で番組復帰する(Hurrapopと呼ばれる)。これにMVPが不快感を示したことが伏線となり、12月にハリケーン・ヘルムズとしてのレスラー復帰戦でMVPと対決、復帰戦を勝利で飾った。続くシェルトン・ベンジャミン戦ではザ・ハリケーン時代の決めポーズを出し、観客から歓声を浴びた。

2009年の追加ドラフトによりECWへ移籍。移籍後しばらくは試合は行わず、バックステージのインタビュアーとして活動した(ハリケーン時代の取材記者ギミックを踏襲した役どころで、首の回復が思わしくなく、完治するまでの措置とされた)。マーク・ヘンリーをインタビュー中、隣でスタッフが巨大な貨物を運んでいる最中、下敷きになってしまう事故が発生(もちろんアングル)。そこにハリケーン時代のコスチュームで登場し、スタッフを救助したことがある。その後も何度か番組収録中に「グリーン・ガイ」が登場し、ハリケーンのギミック復帰をうかがわせた。8/11の収録では、ポール・バーチルに攻撃されるヨシ・タツを助けるスーパーヒーローとしてリングに登場。

その後は本格的に復帰してバーチルと抗争を繰り広げ、11月にはハリケーンのマスクとバーチルのECW追放を賭けた一戦に勝利したが、2010/2/26にWWEを解雇された。その1カ月前の1/27、ケンタッキー州フォート・ミッチェルのバーでクリス・ジェリコと他の客に暴行したとして、ジェリコと共に逮捕されている。

WWEを離れてからは各地のインディー団体を転戦しており、2010年10月にはニュージャージー州のJAPWに登場した。

リングネーム

現在、過去に用いたことがあるリングネーム

  • ザ・ハリケーン(The Hurricane)現在使用中
  • ハリケーン・ヘルムズ(Hurricane Helms
  • グレゴリー・ヘルムズ(Gregory Helms
  • "シュガー" シェイン・ヘルムズ("Sugar" Shane Helms
  • キッド・ビシャス(Kid Vicious

獲得タイトル

WWE
  • 世界タッグ王座 : 2回(w / ケイン、ロージー)
  • クルーザー級王座 : 2回
  • ヨーロピアン王座 : 1回
  • ハードコア王座 : 1回
WCW
  • クルーザー級王座 : 1回
  • ハードコア王座 : 1回
その他
  • NWAワイルドサイド・タッグ王座 : 1回(w / シャノン・ムーア)
  • SCWヘビー級王座 : 1回
  • SCWタッグ王座 : 1回(w / Mike Maverick)
  • OMEGAタッグ王座 : 1回(w / Mike Maverick)
  • SWAライトヘビー級王座 : 1回
  • CCWライトヘビー級王座 : 1回
  • NDWライトヘビー級王座 : 1回
  • NDWタッグ王座 : 1回(w / Mike Maverick)
  • WWOライトヘビー級王座 : 1回
  • TCWテキサス・タッグ王座 : 1回(w / レニー・レーン)

入場曲

  • Eye of the Hurricane
  • Fire Storm
  • It's Time




 

ブロック・レスナー
Brock Lesnar
1977/7/12

ブロック・レスナー

アメリカ合衆国の現総合格闘家、元プロレスラー、元レスリング選手。サウスダコタ州ウェブスター出身。元WWE所属。ミネソタ・マーシャルアーツ・アカデミー所属。元UFC世界ヘビー級王者。

プロレスデビューから5か月でWWE王座を獲得して当時の史上最年少記録を作り、総合格闘技転向後もその圧倒的な体格とパワー、ヘビー級離れしたスピードの速さ、アマチュアレスリング技術を活かしてUFC世界ヘビー級王座を獲得した。

WWE時代の異名は「The next big thing(次代の大物)」「苦痛を呼ぶ男」「Manster(マンスター。モンスターとマンによる造語)」、新日本プロレスでは「世界標準」と呼ばれた。

来歴

ビスマルク短大でレスリング部に所属しNJCAA王座を獲得するも、レスリング部が消滅してしまったためミネソタ大学に編入し、そこでNCAA(フリースタイル)レスリング選手権王座を獲得した。

WWE

WWEのスカウトによりブラッド・レイガンズの道場で指導を受ける。この時のコーチはカート・ヘニングである。その後WWEの下部団体OVWに1年半在籍し、ミネソタ大学の先輩だったシェルトン・ベンジャミンと共にタッグ王座を獲得して活躍した。

2002年にWWEに昇格するとポール・ヘイマンをマネージャーにし、デビュー戦でジェフ・ハーディーに勝利。同年6月のKing of the ringでババ・レイ・ダッドリー、ブッカー・T、テスト、ロブ・ヴァン・ダムを破り優勝。さらにハルク・ホーガンに勝利してWWE統一王座挑戦権を獲得。同年8月のサマースラムでザ・ロックを破りWWE統一王座を獲得して、最高位王座の戴冠としては当時の史上最年少記録(後にランディ・オートンが最年少戴冠記録を更新した)を作るなどプロレスデビューから5か月で頂点に立った。秋にはストーン・コールド・スティーブ・オースチンとの抗争でレスナーが勝利するブックが組まれていたが、これをオースチンが拒否してボイコットしたため、代わりにオースチンと同格のスーパースターであるジ・アンダーテイカーと抗争が組まれ、妊娠中のテイカーの妻を脅迫したり、ヘイマンの協力で試合前にテイカーの右手を骨折に追い込むなどして勝利。とどまることを知らない勢いでヒールでありながらファンからの人気を勝ち取り、徐々にベビーフェイス化しつつあったが、11月のサバイバー・シリーズでヘイマンが裏切り、ビッグ・ショーに敗れ王座転落。これをきっかけに完全にベビーターンする。

2003年のロイヤルランブルでビッグ・ショーとシングル戦で対戦して勝利した後、さらに同日のロイヤルランブル戦にも出場する強行日程ながら優勝を果たすと、レッスルマニア19のメインイベントでカート・アングルとWWE王座を賭けて対戦、試合終盤にシューティング・スター・プレスを仕掛けるも首から落ちる誤爆で意識も朦朧とするなか勝利して王座奪還。その後ビッグ・ショーと担架戦などで抗争後、6月のヴェンジェンスでカート、ビッグ・ショーとの三つ巴戦で敗れ王座転落。その後、悪のオーナービンス・マクマホンに「いつまで善人ぶっているつもりだ?お前の心の中にいる野獣の目を覚ませ!」と張り手をくらったのをきっかけにビンスと結託してヒール・ターン。義足のスーパースターザック・ゴーウェンを痛めつけて階段から落とすなどビンスですらドン引きするほど非道の限りを尽くし、サマースラムで再びカートと対戦するもアンクル・ロックでタップアウト負け。

その後、登場するたびに観客から「You Tapped Out!(お前はタップ負けした)」と、タップしたことを馬鹿にされるようになる。9/18のSmackDown!にてカートの持つWWE王座に60分間アイアンマン・マッチで挑戦し、1ポイントリードした状態で迎えた試合終了直前にアンクルロックを極められるも時間切れまでタップせずに耐え切って勝利し、王座を奪回。その後はビンスを中心に、SmackDown!にGMとして復帰してきたヘイマンらとも結託し、援護を受けて王座防衛を重ねた。

2004年、ノー・ウェイ・アウト2004でエディ・ゲレロにフォール負けして遂に王座から転落。

レスナーは以前からアメリカンフットボールの最高峰であるNFLに挑戦したいという意思を持っており、2004年3月には本格的にNFLに挑戦するためレッスルマニア20でのビル・ゴールドバーグ戦を最後に退団。なお、この時点で対戦する両者ともWWEを退団するということがあらかじめ分かっていたために、両者に対するファンからの批判が相次ぎ、WWE副社長のジム・ロスがこの件に対しての声明を出した。また試合においてもファンから多くのブーイングを浴び、特別レフェリーを務めたストーン・コールド・スティーブ・オースチンがレスナーに対して試合後スタナーを繰り出してファンの気持ちの沈静化を行った。

その後NFLのトライアウトを経て一度はミネソタ・バイキングスに入団するものの、開幕ロースター入りはならず同年8月にチームを解雇された。以後は無所属状態となり、プロレスへの復帰話が出てくる。またハルク・ホーガンが雑誌のインタビューで「プロレスに復帰すべきだ」と語るなど、多くのレスラーも復帰を呼びかけていた。

新日本プロレス参戦

2005年1月には来日して新日本プロレスの東京ドーム興行を観戦に訪れ、新日参戦を噂される。同年10月の新日本プロレスの東京ドーム興行にて新日マットに正式参戦し、いきなり挑戦者としてIWGPヘビー級王座選手権としては初の3WAY決戦(藤田和之・蝶野正洋)に臨み、王座を獲得した。12/10に中西学、翌11日永田裕志とシングルで対戦し勝利を収めた。

2006年1月4日の東京ドームにおいて前王者の藤田和之との初防衛戦が決定していたが、藤田の参戦拒否により対戦相手が中邑真輔に変更となった。なお、プライベートではWWEのディーヴァだったセイブルと婚約しており、2006/1月の東京ドーム興行にセイブルを伴っている。3/19には曙と対戦した。

2006/4/29、K-1 WORLD GP 2006 in LAS VEGASにおいて、総合格闘技大会HERO'Sへの参戦を表明した。試合後のインタビューではボブ・サップ、ホイス・グレイシーとの対戦を希望していた。

7/17、札幌でIWGPの防衛戦を行う予定であったにもかかわらず契約上のトラブルを理由にキャンセル。新日本プロレスは15日、レスナーのIWGPヘビー級王座を剥奪した。ベルト(3代目)は返却することなく以後も所有し続けていたが、2007/6/29のIGF旗揚げ戦でWWE以来となるカート・アングルとの対戦に敗れたことにより、ベルトをアングルに明け渡した。

総合格闘技

デビュー〜UFCとの契約

2007/6/2、「Dynamite!! USA」において総合格闘技デビュー。キム・ミンスに1R1分9秒、グラウンドでのパンチによるタップアウトで総合格闘技での初勝利を収めた。

2007/8/25、UFC 74の会場に姿を現わし、UFC世界ヘビー級王座を防衛したランディ・クートゥアを試合後に祝福した。また、10/20にはUFC 77にも来場し、UFCと正式に契約したことを明かした。

2008/2/2、スーパーボウルの開催される週に合わせたUFC 81でのUFCデビュー戦においてフランク・ミアと対戦。ミアをテイクダウンしパウンドで攻めたが、ミアに下から右脚を取られ膝十字固めで一本負け。8/10のUFC 87ではヒース・ヒーリングと対戦。KOおよび一本は取れなかったものの、3-0の判定勝ち。

世界ヘビー級王座戴冠とその後

2008/11/15、UFC 91で15か月ぶりに復帰してきた王者ランディ・クートゥアと対戦。パウンドによるTKO勝ちで、キャリア4戦目にしてUFC世界ヘビー級王座を獲得した。

2009/7/11、UFC 100で行われたUFC世界ヘビー級統一王座決定戦で、前回UFC 81でレスナーを破った暫定王者フランク・ミアと再戦。2ラウンドにパウンドによるTKO勝ちで雪辱しヘビー級王座の統一を果たすとともに、ヘビー級王座の初防衛に成功した。ミアの地元ラスベガスでの勝利に観客からはブーイングが起き、試合直後のインタビューでは「バドワイザー(UFCの公式スポンサーのビール会社)は何もくれなかったから、家に帰ってクアーズ・ライト(バドワイザーのライバル会社のビール)を飲むよ」と発言、その後の記者会見ではこの発言を謝罪したが、物議を醸すこととなった。

2009/11/21のUFC 106での防衛戦でシェイン・カーウィンと対戦予定であったが、自身の体調不良を理由に2010/1/2のUFC 108に延期されるも、最終的には大腸憩室炎のため欠場。一時は現役復帰は困難になる可能性という指摘を医師から受けたが、無事に完治した。

2010/7/3、UFC 116にて1年ぶりの復帰戦で暫定王者シェイン・カーウィンと対戦。開始早々からカーウィンのパンチを浴び続けてKO負け寸前に追い詰められるも、2ラウンドに肩固めで一本勝ちを収め、王座統一を果たすとともに2度目の防衛に成功した。また、この試合で自身初となる大会のサブミッション・オブ・ザ・ナイトを獲得した。

2010/10/23、UFC 121の王座防衛戦でケイン・ヴェラスケスと対戦し、1RにパウンドでTKO負けし、王座から陥落した。

人物・エピソード

  • 総合格闘技に転向当初は、プロレス出身ということもあって、ファンからブーイングを浴びていた。しかし、レスナー本人は「俺はアマチュアレスリング出身だし、そもそもプロレスなんてやりたくなかった。本当は大学を卒業した後すぐにMMAに転向したかったが、当時のMMAでは大金を稼げなかったから仕方なくプロレスをやるしかなかった」と語っている。WWEで最も不満なことに地方巡業の過密日程を挙げており、さらに「WWE退団後にはリアルな競技がしたかったからNFLのトライアウトを受けた。合格しなかったけど後悔はしていない。なぜなら挑戦しなかったらもっと後悔してたからだ。大学卒業時にMMAに転向しなかった時のようにね。そんな過去があるから俺はMMAファイターになれた」と語るなど、自身のプロレスラー時代を全否定するかのような発言を繰り返している。
  • ヒールとしての振る舞いに加えて、フランク・ミアとの因縁など強気な性格が強調されがちではあるが、対戦相手に敬意を表すなど誠実な一面も持つ。

獲得タイトル

WWE
  • WWE・WCW統一王座:1回
  • WWE王座:3回
  • 2003年 ロイヤルランブル 優勝
  • 2002年 キング・オブ・ザ・リング 優勝
OVW
  • OVW南部タッグ王座:3回(w / シェルトン・ベンジャミン:3回)
新日本プロレス
  • IWGPヘビー級王座
UFC
  • 第14代UFC世界ヘビー級王座(防衛2度)





亀田 和毅
1991/7/12

日本のプロボクサー。大阪府大阪市西成区天下茶屋出身。大阪市立天下茶屋中学校卒業。亀田三兄弟の三男で、亀田興毅、亀田大毅の弟である。髪型が特徴的。





石川一雄
1935/8/17 - 2010/7/12

東京タイムス、毎夕スポーツで力道山時代からプロレスの写真を撮り続け、日本スポーツ出版社を経て昭和53年にベースボール・マガジン社に。70歳を超えてもみちのくプロレスを中心に“鉄人”として最後までカメラマンとしての職をまっとう

  • 狭山事件の容疑者とされる人物
  • 専修大学法学部教授、法学博士
  • 週刊プロレス専属カメラマン。2010年7月12日死去







 
   ↑ トップへヤフーオークション  


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system