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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/14


 
 


 
 

ウルトラマン
UltraMan
1950/7/14

メキシコ・グァナファト州コロネオ出身の覆面レスラー。息子ウルトラマン・ジュニアもプロレスラー

来歴

1968年に素顔でミロ・ベンチュラの名でデビュー、1975年からマスクマン「ウルトラマン」になる、1979年5月に新日本プロレスに初参戦、1982年6月に来日した際は初代タイガーマスクと対決した。エル・ソラールとスペル・アストロとの宇宙をモチーフとしたトリオタッグチーム「ロス・カデテス・デル・」としても活躍する。

その他

  • 梶原一騎原作の『プロレススーパースター列伝』及び『悪役ブルース』に、タイガーマスクと関わるレスラーとして登場している。前者ではメキシコマット界が送り込んだタイガーマスクへの刺客で、空手をマスターしている強豪レスラー。後者ではタイガーマスクのメキシコでの友人で、人気・実力共にパッとしない地味なレスラーだっため、タイガーのアドバイスによりウルトラマンの覆面を被るようになったという、全く逆の扱われ方をしている。

 
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ウィリー・ウィリアムス
Willie Williams
1951/7/14

アメリカ合衆国の空手家(元極真会館所属)。ノースカロライナ州出身。身長196センチメートル、体重100キログラム(現役時)。

来歴

極真会館時代

極真会館コネチカット支部に入門。大山茂の指導を受ける。

1975年(昭和50年)11月、第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会に出場。3回戦でハワード・コリンズに体重判定で敗退。

梶原一騎が極真空手を題材に製作した映画『地上最強のカラテPART2』で巨大なグリズリーとの闘いを披露し、“熊殺し”の異名を取る。

1979年(昭和54年)11月、第2回全世界選手権では、準決勝で三瓶啓二に反則負けとなり、3位入賞となった。しかし、杉板による試割りでは正拳5枚、足刀6枚、手刀8枚、猿臂(肘)7枚の合計26枚を割り、当時山崎照朝が保持していた合計24枚の記録を更新した(現在の記録)。

第2回全世界選手権前にウィリーは「プロレスこそ最強の格闘技」を標榜するアントニオ猪木に対し、“地上最強は極真カラテ”の思いから挑戦を表明した。実際には梶原一騎から新日本プロレスに売込みがあったという説もある。しかし、大山倍達の「門下生の他流試合を禁止」という考えから、ウィリーは破門される。個人として猪木と対戦する事になったウィリーだが、黒崎健時や大山茂が支援した。1980/(昭和55年)2/27、「格闘技世界一決定戦」(ウィリーはグローブを着用)で試合が組まれた。当日は“極真空手vsプロレス”の様相を呈し、両陣営の選手や関係者がリングサイドに陣取った。結果は4R1分24秒、両者がもつれたままリング下に転落。ドクターストップによる引き分けに終わる。

破門を解かれ極真会館に復帰したウィリーは、1984年(昭和59年)1月の第3回全世界選手権に出場。4回戦で田原敬三と再々延長まで戦うが判定5-0で敗退した。同年、大山茂がUSA大山空手を設立するとウィリーもそれに従い、極真会館から離脱した。そして、ウィリーは空手道選手を引退し、バスの運転手を本業として生活をしていた。

その後のウィリー

バスの運転手が本業であるウィリーだが、試合のオファーが入ると都度参戦するようになっていた。正道会館の石井和義から参戦のオファーがあり、これは「USA大山空手vs正道空手5対5マッチ」の団体戦へ発展して、1991年(平成3年)6月4日に実施された。大将戦に参加したウィリーは佐竹雅昭と対戦し、判定負けした。

1992/(平成4年)3/5、リングス初参戦。ピーター・スミット(元キックボクサーとは別人)にTKO勝ち。同年7/16、リングスで前田日明と対戦。3R2分3秒、腕ひしぎ足固めで一本負け。この頃のウィリーを大山倍達は「年寄りになって歯が抜けてよぼよぼになっている」と酷評した。

1997/(平成9年)1/4、アントニオ猪木と「ファイナル・カウント・ダウン 6th」で再戦、この試合は互いの決め技(猪木=コブラツイスト、ウィリー=正拳突き)を相手に決めれば決着という特殊ルールで行われたが、猪木がコブラツイストを決めウィリーが敗北。

1999/(平成11年)11/23、「FMW旗揚げ10周年記念大会」にて、BADBOY非道と対戦し、KO勝ち。

現在は完全に格闘家を引退、バスの運転手に専念している。

エピソード

  • 『地上最強のカラテPART2』で熊と素手で戦った事から“熊殺し”の異名をとったウィリーだが、後年その際の事を「熊が檻から出てきた途端、周りにいたスタッフたちが一斉に遠くへ走り去ってしまったんだ。自分の空手には絶対の自信を持っていたけど、あの時はさすがに逃げ出したい気分になったよ」とインタビューの中で述懐している。
  • 梶原一騎の原作による四角いジャングルの中で、黒崎健時に命じられサンドバッグの代わりとして自動車に空手の技を叩き込み、あっという間に破壊したというエピソードが紹介されている。しかし、この武勇伝の真偽をインタビューの一節で尋ねられたウィリーは「それは何の稽古ですか?」と答え、漫画で紹介されているエピソードという説明を受けると「梶原先生のコミックのお話ですか。確かにあの頃の私は若くパワーが有り余っていましたが、自動車を壊したりはしませんよ」と語り創作である事を明かしている。
  • 今まで体験した最も怖い事は何か、と尋ねられた際、「大山茂先生の稽古です。とてもハードで、何より先生に叱られる事が怖かった」と答えた。





桜庭 和志
1969/7/14

日本のプロレスラー、総合格闘家。秋田県南秋田郡昭和町(現・潟上市)出身。Laughter7主宰。株式会社39代表取締役。3児(男の子3人)の父。新聞などでは常用漢字外の文字の使用には制約があるため、桜庭和志と表記されることが多く、著書などでも桜庭の表記が一般的である。

秋田市立秋田商業高等学校卒業、中央大学商学部中退。

レスリングをベースに持つ。1990年代末 - 2000年代初頭頃のPRIDEにおいて、強豪外国人に対し、互角以上の戦いを演じた数少ない日本人選手の一人。

総合格闘技の試合では滅多に見られないような変則技を繰り出して対戦相手を翻弄し、観客を沸かせることからIQレスラーと呼ばれ、人気を博した。また、様々な総合格闘家が苦杯をなめてきたグレイシー一族に対し何度も勝利したことからグレイシー・ハンターとの異名もとる。

来歴

レスリング

小学生の頃に当時ブームを呼んだタイガーマスクに憧れ、レスリングの名門秋田市立秋田商業高等学校ではレスリング部で活躍。中央大学レスリング部では主将を務め、卒業後にはスポーツクラブのインストラクターに内定していたが、4年間で卒業できず、内定を辞退。5年生のときに入団テストを受け、プロに転向。その際大学を中退。

UWFインターナショナル

1992年7月にUWFインターナショナルへ入団した。当初は藤原組の入団試験を受けるつもりだったという。UWFインターではレスリング技術に加えて、打撃と関節技を習得。1993/8/13の日本武道館大会でプロデビューするが、UWFインターは1996年12月に解散。在籍中はキモとの対戦もある。またこの時期はサソリ固めを得意技にしており、さらに技を掛ける時は大声を出して気合を入れるなど、総合時代の冷静な試合運びとは対照的な戦い方をしていた。一夜限りのプロレス復帰を果たした2000年12月31日のINOKI BOM-BA-YE 2000でも技をかける際に大声を出している。

キングダム

UWFインター所属選手のほとんどが参加した新団体キングダムへ移籍。キングダムはオープン・フィンガー・グローブを着用した顔面殴打ありのルールを採用した団体で、桜庭にとってはUWFルールからPRIDEルールへの橋渡しとなった。1997/12/21、怪我で欠場した先輩の金原弘光の代役として急遽UFC Japanヘビー級トーナメントに出場。マーカス・"コナン"・シウヴェイラに一本勝ちし、UFC-J王者となった。このとき「プロレスラーは本当は強いんです」と発言した。なお、このトーナメントは日本大会限定で行われたため、UFCの正式な王者となったわけではない。

PRIDE

グレイシー撃破

1998年に高田延彦主宰の高田道場へ移籍。PRIDE.2のヴァーノン・"タイガー"・ホワイト戦でPRIDEデビュー。

1999/4/29のPRIDE.5では前年にヴァンダレイ・シウバをKOしたばかりのビクトー・ベウフォートに判定勝ちを収めている。PRIDE参戦後はアラン・ゴエス戦(PRIDE.4)での引き分けを挟んで、ヴァーノン・ホワイト(PRIDE.2)、カーロス・ニュートン(PRIDE.3)、ビクトー・ベウフォート(PRIDE.5)、エベンゼール・フォンテス・ブラガ(PRIDE.6)、アンソニー・マシアス(PRIDE.7)に5連勝を飾り、ミドル級のトップコンテンダーに登りつめた。

1999/11/21のPRIDE.8ではメインイベントに登場し、当時不敗神話を誇っていたグレイシー一族の一人、ホイラー・グレイシーとの対戦を迎える。1Rから15kgの体重差を生かしてホイラーのタックルを切り続けた桜庭は猪木アリ状態からのローキックでダメージを与えていく。2Rも優勢は変わらず、引き込んだホイラーにハーフガードからチキンウィングアームロックを極めた。ホイラーはタップせず、セコンドのヒクソン・グレイシーもタオルを投げなかったため、島田レフェリーが試合をストップした。ホイラーは抗議するものの裁定は覆らず、桜庭はマイクアピールで「あそこからどうやって逃げたのか知りたいです。次はお兄さん僕と勝負してください!」とヒクソンに対戦を要求した。

2000年1月、桜庭は「PRIDE GP 2000」に出場する。ガイ・メッツァーの試合放棄という幕切れで1回戦を突破すると、5月の決勝大会ではホイス・グレイシーとの対戦が決定した。ホイラー戦での裁定に不満を持つホイスはルール変更を要求、桜庭も受諾し、15分無制限ラウンド・レフェリーストップおよび判定無しで行われることになった。試合は1時間を超す長丁場となったが、桜庭はホイスの道衣を脱がせようとするなど観客を沸かせ続けた。桜庭がホイスの左足にローを蹴り続けたダメージで7R開始直前にホリオンがタオルを投入し、桜庭の勝利で実に90分に及ぶ死闘に終止符が打たれた。その後準決勝に進出するものの消耗が激しく、イゴール・ボブチャンチン戦では途中から押される展開になった。1R終了後の判定ではドローとなったものの、陣営がレフェリーにタオルを手渡し、TKO負けとなった。

2000/8/27、PRIDE.10でヘンゾ・グレイシーと対戦。バックを捕られるもアームロックで切り返し、TKO勝ち。12/23のハイアン・グレイシー戦ではハイアンが直前に怪我をして10分1Rに変更、試合は桜庭が終始優位に立って判定勝ちを収めた。

「グレイシー狩り」と呼ばれたグレイシー一族相手の4連勝を果たし、「グレイシー・ハンター」の異名を取った。ただ勝利するだけでなくファンを喜ばせるために戦うというファイトスタイルでファンを魅了し、高く評価された。桜庭の活躍と共にPRIDEは大きく成長を遂げ、2000年の桜庭はPRIDEのエースとして全盛期を迎えていたといえる。

シウバとの闘い

2001/3/25、PRIDE.13でヴァンダレイ・シウバと初対戦し、この大会から解禁されたサッカーボールキックでTKO負け。続いて参戦したPRIDE.15では初参戦のクイントン・"ランペイジ"・ジャクソンと激突、下からの腕ひしぎ十字固めや三角絞めをことごとくパワーボムで返すというジャクソンのパワーに手こずるも、最後はチョークスリーパーで一本勝ちを収めた。

2001/11/3、PRIDE.17で新設されたPRIDEミドル級王座が新設され、同時にPRIDEミドル級の設定が93kgとルールに追加された。当時の桜庭の通常体重は83kgから84kgで、桜庭自身が希望していたミドル級は90kg以下だったが、以後のPRIDEで、桜庭はこの条件で戦っていくことになった。PRIDE.17ではミドル級王座を賭けてヴァンダレイ・シウバと再戦するが、シウバの投げでマットに叩きつけられた際に左肩を脱臼しTKO負け。王座獲得には至らなかった。翌2002/8/28にはDynamite!のメインイベントでミルコ・クロコップと対戦するも、下からの蹴り上げで眼窩を負傷しTKO負け。キャリアでは初の連敗となった。その後も膝に慢性的な故障を抱え、出場が不安定な時期もあった。

2003/8/10、ミドル級GPに出場、シウバに3度目の挑戦をする。試合はスタンドで打ち合う展開が続くが、1R5分、ローキックに合わせシウバにワンツーを打ち込まれて失神KO負け、対シウバ3連敗となってしまった。

2003/12/31、PRIDE 男祭り 2003のメインイベントでアントニオ・ホジェリオ・ノゲイラと対戦し、判定負けを喫した。開催前には、UWFインターナショナル時代の先輩田村潔司との対戦オファーがあるも、田村が準備期間の短さを理由に拒否したため実現しなかった。

2005/2/20のPRIDE.29で、アリエフ・マックモドと対戦し、精彩を欠いた勝利に終わった田村に対し、リングサイドから「こんな試合じゃつまらないでしょう。田村さん、僕と勝負してください」とマイクアピールをしたこともあったが、田村は無言でうつむいたままリングから去っていくなど、対戦を何度か申し込むもなかなか実現には至らず。

2005年、ミドル級GPに出場し、1回戦ではユン・ドンシクを破り、2回戦ではヒカルド・アローナと対戦。タックルをパワー差で切られるとガブりの体勢からアローナに膝蹴りを貰い続け、2R終了時には顔面は鮮血に染まり変形していた。自力で起き上がることもできず、タオルが投入された。この試合を契機に主戦場としていた「ミドル級(-93kg)」は桜庭の適正体重に比べて重すぎるので「ウェルター級(-83kg)」に転向すればいいのではないのか、というファンや関係者からの声があがった。だが本人は「ミドル級より軽い階級には興味はない」と語っていた。

2005年8月、シュートボクセ・アカデミーに出稽古のためブラジルに渡航している。PRIDE.30においてケン・シャムロックをシュートボクセ仕込みの打撃でKOした際は、アカデミー会長のフジマールと抱きあって共に勝利を喜んでいる。

2006/3/31、8年2か月所属した高田道場を退団。フリーランスとなり、高田道場時代の後輩の豊永稔、高橋渉、佐藤豪則と行動を共にする。

HERO'S

2006/5/3のHERO'Sにおいて、タイガーマスクを被りリングに登場。翌日に会見し、正式にHERO'Sへの参戦を表明した。なお、HERO'Sへの移籍表明の後、高田延彦から「彼とはもう酒も食事もすることは無い」と事実上の絶縁状を叩きつけられた。高田は絶縁の理由として、移籍そのものが原因ではなく、前もってではなく、移籍表明の後に挨拶に現れた桜庭について「筋が通っていない」とし、同時にPRIDEとK-1が敵対していた関係上、PRIDE統括本部長の役職を務めていた自らがHERO'Sの選手と親しくすることは立場上出来ないことを説明した。

HERO'Sではそれまで各ラウンドを5分で行っていたが、桜庭の要求に伴い、桜庭の階級である85kg級のライトヘビー級だけがPRIDEと同じく1R目を10分という変則的な形のルール変更が行われた。

2006/8/5に行われたケスタティス・スミルノヴァス戦において顎を打ち抜かれ半失神状態にまで追い込まれたが、ガス欠を起こしたケスタティスに執念の打撃を浴びせた後、腕ひしぎ十字固めで勝利した。試合中に桜庭は殴り倒されて意識が朦朧となるが、レフェリーはこの状態をダウンと取らず、ドントムーブから試合再開。この判断が物議を醸した。10/9の準決勝で秋山成勲との対戦が決定するも、9月25日の練習中に嘔吐し、検査の結果、脳には異常が無かったが、椎骨脳底動脈血流不全と診断され、欠場となった。

2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!のメインイベントで改めて秋山成勲と対戦。秋山の打撃のラッシュを浴び、上からパウンドをもらい続け、1R5分37秒TKO負けとなった。しかし、桜庭は試合序盤タックルに行った際に秋山の足が滑ると感じ、レフェリー梅木良則にタイムを要求したが受け入れられず、その後は秋山の打撃を一方的に浴び続けた。パウンドを浴び続けている間も桜庭はレフェリーに「滑る!」「反則だよ!」とアピールしたが受け入れられなかった。結局秋山のパウンドを受け続けている状態が危険と判断され、ゴングが鳴らされTKO負け(レフェリーのストップが先ではなく審判長によるストップ)となるも、桜庭は試合が止められた後も秋山を指さし、「すごい滑るよ!」などと怒りを露にした。数日後、秋山が試合前に全身にスキンクリーム(米国製)を塗っていた事実が明らかにされ、この試合は秋山の反則行為によりノーコンテストとなった。

2007/3/12、HERO'S開幕戦でユーリー・キセリオから一本勝ちをとった試合後のMCで大晦日の試合内容には一切触れず、ファンに対しての謝罪にとどまった。

2007/4/8、PRIDE.34のリング上にタイガーマスクの覆面姿で登場し、同時に田村潔司もスーツ姿で登場した。この日がDSE代表として最後の興行となった榊原信行の夢のカードであったという田村との対戦を示唆した。

2007/6/3、Dynamite!! USAでホイス・グレイシーと再戦。0-3の判定負けを喫した。リベンジを許してしまった。

2007/8/28のHERO'S記者会見において、7月16日の大会で現役復帰を表明していた船木誠勝に「桜庭選手と試合をしてみたい」と対戦要求を受けた。

2007年9月頃に高橋渉、佐藤豪則らと自らのチーム「チーム桜畑」を結成。9/17のHERO'Sで、「チーム桜畑」vs田村潔司のジム「U-FILE CAMP」の対抗戦も行われた。自らは柴田勝頼と対戦。テイクダウンを奪うとパウンドを連打し、最後は腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。試合後、リング上で「次、船木さん試合お願いします」と船木の対戦要求に応え、更にリングサイドで観戦していたヒクソン・グレイシーに「お兄さん、そろそろ僕らも年なんで試合お願いします」と対戦を呼びかけた。

2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!のメインイベントで船木誠勝と対戦し、チキンウィングアームロックで一本勝ち。

2008/4/1、東京都品川区に自身の総合格闘技ジム「Laughter7」をオープン(「桜畑道場」としての仮オープンは2007年12月3日)。

DREAM

2008/4/29、DREAM.2のミドル級トーナメント1回戦でアンドリュース・ナカハラと対戦し、フェイスロックで一本勝ち。6/15、DREAM.4の2回戦でメルヴィン・マヌーフと対戦し、TKO負け。序盤のマヌーフのハイキックを受けた際に左腕尺骨を骨折した。

2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜のメインイベントで田村潔司と12年半ぶりに対戦し、判定負けを喫した。ちなみに、この時の入場では、仮面ライダーをモチーフとした入場がされた。

2009/10/6、DREAM.11で現役プロボクサールビン"Mr.ハリウッド"ウィリアムズと対戦し、アームロックで一本勝ち。大会3日前の10/3に出場が発表されるという緊急出場となった。

2009/10/25、DREAM初のケージ開催となったDREAM.12に連続参戦。ゼルグ・"弁慶"・ガレシックと対戦し、膝十字固めで一本勝ちを収めた。

2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜の開会式にエヴァンゲリオン初号機仕様のマスクを被って登場し、開会宣言を行った。この日に向けて三崎和雄戦も検討されていたが「試合ができるコンディションではない」として欠場。2008年まで4年連続で大晦日興行のメインイベンターを務めていたが、試合への出場はなかった。

2010/5/29、ケージ開催となったDREAM.14でハレック・グレイシーと対戦し、0-3の判定負け。

2010/9/25、DREAM.16でジェイソン・"メイヘム"・ミラーと対戦し、パウンドから肩固めを極められ、2分9秒でタップして一本負け。生涯初の一本負けとなった。

2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜でDREAMウェルター級王者マリウス・ザロムスキーに挑戦し、右耳の裂傷によりドクターストップ負けとなり王座獲得ならず。試合後、応急処置を受けたのちにリング上で「すいません、耳がとれちゃいました」と挨拶した。なお、階級をウェルター級に落としたため、プロ初の大幅減量となった。

人物・エピソード

  • イメージカラーはオレンジ。UWFインターナショナルとキングダムで先輩だった垣原賢人からたまたま借りたオレンジ色のコスチュームが似合っていたため、以後、スパッツなどでオレンジ色を愛用している。自身のジムのLaughter7のリングもオレンジ色のマットを使用している。
  • 阪神タイガースの下柳剛投手とは親友で、プロ野球のオフシーズンには自主トレーニングに桜庭が同行するなど多方面で交流がある。彼がセコンドに付くこともある。
  • 喫煙者。
  • 天田ヒロミは中央大学の後輩にあたる。
  • 故郷に里帰りした際、母親が自分の試合を観た経験が無いことが判明。桜庭は「自分の息子の仕事くらい憶えといてよ」と苦笑交じりに駄目出ししていた。
  • あるアーティストの音楽に嵌るとそればかり聴き続けるという傾向がある。しかし何か特定の音楽ジャンルが好きというわけではなく、BOØWY、その前は石原裕次郎、さらにその前はデッドオアアライブと多岐にわたっている。
  • 海外遠征の際にDVDに録画して持って行くほど、タモリ倶楽部「空耳アワー」の愛好者。

獲得タイトル

  • 東日本新人戦 優勝
  • 全日本学生レスリング選手権 第4位
  • UFC-JAPAN ヘビー級トーナメント 優勝
  • プロレス大賞 最優秀選手賞(2000年)

  PRIDE GP2000 第3位

メディア出演

コマーシャル

  • 協和醗酵工業「スーパーレモン」
  • キリンビール「ラガービール」
  • オリコ「オリコカード」
  • リクルート「フロム・エー」
  • 東洋水産「緑のたぬき」
  • トクホン「トクホンVダッシュ」
  • マクセル「DVD-R」
  • 宝酒造「ジパング」
  • ユニクロ
  • ドワンゴ「いろメロミックス」
  • サミー「北斗の拳SE」
  • 資生堂「uno」

自重堂 「Jawin」イメージビジュアル。

テレビ

  • 39 LOVER'S」(さくらばーず)(東海テレビ)
格闘技の選手としては異例の、レギュラーの冠番組。2001年1月9日 - 3月27日(全12回)、毎週火曜21:54 - 22:00。提供はスクウェア。団体ではなく、格闘技の選手個人のみにスポットを当てた中京広域圏ローカルのミニ番組。
プロフィール、得意技、人柄など「桜庭和志とは一体何者なのか?」という、云わば「桜庭和志徹底解剖」といった趣の内容であった。

パチスロ

  • サクスロ(ラスター・2007年)

著書

  • 『凄技 プロレスラー桜庭和志の反常識技術講座』(ベースボール・マガジン社、1999年7月)
  • 『ぼく。―桜庭和志大全集』(東邦出版、2000年4月)
  • 『格闘ボーダレス―最強を決める男たちの証言!』(ソフトガレージ、2000年5月)
  • 『桜庭和志のギミック―これが桜庭流PRIDE必勝法だ』(学習研究社、2000年12月)
  • 『さくぼん―桜庭和志公式マガジン』(ダブルクロス、2001年5月)
  • 『Comic&Document 桜庭和志』(講談社、2001年7月)
  • 『まるごと桜庭和志―ゴング格闘技1999-2001編』(日本スポーツ出版社、2001年10月)
  • 『WORKS―Special edition』(フォーブリック、2001年12月、共著)
  • 『帰ってきたぼく。』(東邦出版、2002年8月)
  • 『ぼく…。』(東邦出版、2007年6月)
  • 『独創力。』(創英社、2009年11月)





ババ・レイ・ダッドリー/ブラザー・レイ/ブリー・レイ
Bubba Ray Dudley/Brother Ray/Bully Ray
1971/7/14

マーク・ロモナコMark LoMonaco)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州出身。

来歴

1991年にプロレスデビューを飾る。1990年代中盤、ECWにギミック上の異母兄弟チーム、ダッドリー・ボーイズの5男、ババ・レイ・ダッドリーとして登場した。

1996/4/13に、ギミック上の異母弟であるディーボン・ダッドリーがデビュー。両者は行動をともにするようになり、そしてチーム3Dを結成した。ハードコアマッチ、特にテーブルマッチを得意とし、ディーボン共々テーブル破壊が代名詞となっていった。

1999年に『弟』のディーボンと共にWWF(現WWE)へ移籍。当初はヒールであったが、人気の高まりと共にベビーフェイスとなっていった。WWFでもECW時代と同様にテーブルマッチなどのハードコア・レスリングを得意としていた。

2001年のWCW/ECW連合軍(アライアンス)結成時は、元ECWということもありアライアンスに参加した。

2002年のWWFのテレビ番組分割時は、ババレイはRAW、ディーボンはスマックダウンへと別れることとなった。なお同年中にディーボンがRAWに移籍してタッグは再結成されている。WWE時代に兄弟が別れていたのはこの期間のみである。

2005/7/5にWWEから解雇された。この際、ダッドリー関連の名称は登録商標の関係で一切使えなくなり、以降現在のリングネームであるブラザー・レイ、またはババ・レイとして活動することとなった。ロモナコ自身はダッドリーの名前をWWEから取り戻したいと語っている。

WWE解雇後はTNAに所属。また全日本プロレスにも参戦して世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝している。2006年にはハッスルへ参戦するなど、日本での登場機会が増えた。

2009年1月4日、レッスルキングダムIII IN 東京ドームでブラザー・ディーボンとともに真壁刀義&矢野通からIWGPタッグ王座を奪取。2月15日、New Japan ISM両国国技館大会にて真壁&矢野のリターンマッチをハードコア戦で制し初防衛に成功した。同年3月、TNAオーランド大会でビアマネーからTNA世界タッグ王座を奪取した。

2010年、長年タッグを組んでいた相方であるディーボンと初の抗争を開始。リングネームをブリー・レイに変更。

獲得タイトル

ECW
  • ECW世界タッグ王座 : 8回(w / ディーボン・ダッドリー)
WWF / WWE
  • WCWタッグ王座 : 1回(w / ディーボン・ダッドリー)
  • WWE世界タッグ王座 : 8回(w / ディーボン・ダッドリー)
  • WWEタッグ王座 : 1回(w / ディーボン・ダッドリー)
TNA
  • NWA世界タッグ王座 : 1回(w / ブラザー・ディーボン)
  • TNA世界タッグ王座 : 2回(w / ブラザー・ディーボン)
ハッスル
  • ハッスル・スーパータッグ王座 : 1回(w / ブラザー・ディーボン)
全日本プロレス
   世界最強タッグ決定リーグ戦 2005年大会優勝(w / ブラザー・ディーボン)新日本プロレス
  • IWGPタッグ王座 : 1回(w / ブラザー・ディーボン)

エピソード

  • ECWに登場後しばらくの間は自閉症というギミックが与えられたため言葉を発しなかったが、後にトークのほとんどをロモナコが担当するようになった。
  • 日本語訳されたロモナコの言葉は、なぜか広島弁になっている(例・「〜じゃ」、「〜のう」)。

  



ジョーイ・スタイルズ
Joey Styles
1971/7/14

本名:ジョセフ・ボンジグノールJoseph Bonsignore)は、アメリカ合衆国のプロレス・アナウンサー、プロモーター。

来歴

プロレス実況者としてのデビューは1993年。1997年から担当したECWの実況で一躍注目を集め、そのときに連呼した『OH, MY GOD!』のフレーズは、後にスタイルズの実況を代表するフレーズとなった。

2001年のECW崩壊後はWWEへは移籍せず、インディー団体のアナウンサーやHPの運営、また自らハードコア・ホームカミングなどの興行を行った。

2005/6/12に行われたWWE ECW's One Night Standにてミック・フォーリーと共にPPVの実況を担当。この興行でWWEと関係を持ち、同年10月以降RAWアナウンサーのジム・ロスが病気治療のために番組を一時降板するにあたり、RAWの実況担当に抜擢された。

レッスルマニアでの実況を望んでいたとされるが、2006年のレッスルマニアのメイン実況はジム・ロスが担当し、スタイルズはエッジ対ミック・フォーリーの試合で途中から実況を行っただけであった。時間は僅かではあったが、レッスルマニアで実況を行えたことを喜んでいる、と後にインタビューで語っている。

2006年4月、WWEが復活させた新生ECWのメインアナウンサーとなる。それに先立ち、同年5月1日のRAWにおいて、WWEの根底であるスポーツエンターテインメントを否定するコメントを番組内で発してRAWの実況を降板。ただしこの行動はシュートではなくワークであり、ECWをWWEにおいてヒールとするアングル展開のための伏線であった。

2008年4月にECWの実況担当から退き、マイク・アダムル(Mike Adamle)が後任に就いた。以降はWWE.comのデジタル・コンテンツ・マネージャーを担当、現在もWWE.comの「Fan Nation」にて彼によるブログが掲載されている。もともとインターネットに詳しかったことから、WWE.com担当になってからはサイト内における様々なコンテンツの企画を打ち出している。

現場からは離れてはいるが、時折バックステージのインタビュアーとして登場。2008年12月のスラミー賞ではその年の最もインパクトのあった場面を表彰する賞として、彼のフレーズである『OH, MY GOD!』賞が設けられた(初代受賞者はCMパンク)。





 
タノムサク鳥羽
1975/7/14

日本のプロレスラー、元キックボクサー。茨城県土浦市出身。本名は羽鳥 誠。身長175cm、体重65kg。所属は喧嘩プロレス二瓶組、DDTプロレスリングを経て現在フリー。

DDTにおいては、2000年よりMIKAMIとのタッグチーム「Suicideboyz(スーサイド・ボーイズ)」を結成しており、2010年現在、DDTでもっとも息の長いタッグチームとなっている。

2008年、DDTの別ブランド「ハードヒット」では、真剣のバチバチファイトを展開し、キックボクサーは伊達ではないことを証明している。

また、かなりのAV評論家でもあり、雑誌連載やAV企画、監督も手がけている。また、それによってAVメーカーがスポンサーにつくなどしている。

2010年からはDDTの映像編集業務も手がけている。2011年1月、DDTとの契約更改において契約満了、フリーとなる。その後もDDTには継続参戦している。

現在は、桜井"マッハ"速人の主宰するマッハ道場巣鴨支部でキックの指導員もしている














 
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