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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/16


 
 


 
 

戦闘竜
1969/7/16

アメリカ合衆国の総合格闘家、元大相撲力士。東京都立川市出身。志村道場/ファイティング・ドラゴン所属。なおCage Rageで試合をする際は本名のヘンリー・ミラーで出場している。

入場曲はMIX MASTER MAKO(DJ MAKO)のremixが使用されることがある。

来歴

父は横田基地に所属した米軍のコンピューター技術師。母は日本人。東京都立川市に生まれ、6歳まで日本(横田基地)で暮らした。

1975年にアメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスに転居。

1987年に高校を卒業した後、親戚に勧誘され再び来日、大相撲の友綱部屋に入門。四股名は、セントルイスにちなんで「戦闘竜(せんとりゅう)」。1988年7月場所初土俵。2000年7月場所に12年かかったが新入幕を果たした。高校卒業まで続けたアメリカンフットボール、レスリングの爆発力を活かし、強烈な突き、押しを得意とするも、引き技などの変化についていけない場面が目立ち、怪我にも泣かされ幕内に定着できなかった。2003年11月場所幕下で負け越したのを最後に現役を引退した。

2004年、プロ格闘家に転向。2/15、PRIDE 武士道 -其の弐-のリングに上がり、PRIDE参戦を発表した。

2004/4/25、PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦でデビュー。ヘビー級GP1回戦でジャイアント・シルバと対戦し、羽根折り固めで一本負け。

2004年10月14日、PRIDE 武士道 -其の伍-でマル・ザ・ツイン・タイガーと対戦し、KO勝ち。転向後、初勝利を挙げた。試合前に、格闘技転向後まだ白星のなかった曙の名を挙げ「曙よりも先に勝つ」と語っていたが、それを実現し、試合後、リング上で「相撲は強いんだよ!」とマイクアピールした。

2004年12月31日、PRIDE 男祭り 2004で総合格闘技転向初戦となった元柔道シドニーオリンピック金メダリストの瀧本誠と対戦し、判定負け。

2007/3/23、HEAT初参戦となったHEAT 3でキム・ジフンと対戦し、TKO勝ちを収めた。

2007年8月5日、K-1初参戦となったK-1 WORLD GP 2007 IN HONG KONGのASIA GPへ出場。1回戦で金泰泳と対戦し、右ハイキックでKO負け。

2008/12/14、この日より開始された「HEAT総合ルール ヘビー級トーナメント」に参戦。1回戦で濱田順平と対戦し、KO勝ち。

2009/3/28、HEAT 9のトーナメント準決勝で野地竜太と対戦し、KO勝ち。

2009/7/18、HEAT 10のトーナメント決勝でクリスチアーノ上西と対戦するも、ローブローを受け続行不可能となりノーコンテストとなった。

2009/9/26、HEAT 11で上西との再々戦(トーナメント決勝)を行なうも、2ラウンド終了後の延長ラウンドでTKO負けを喫し、HEATヘビー級王座を逃した。

2010年3月7日、SRC初参戦となったSRC12で中尾"KISS"芳広と対戦し、パウンドでTKO負け。

改名歴

  • 戦闘竜 広光(せんとりゅう ひろみつ)1988年7月場所-1997年5月場所
  • 魁心山 扁利(かいしんざん へんり)1997年7月場所-1999年5月場所
  • 戦闘竜 扁利(せんとりゅう へんり)1999年7月場所-2003年11月場所

リングネーム

  • 戦闘竜(日本)
  • ヘンリー・ミラー(日本以外)

主な成績(大相撲)

  • 通算成績:351勝253敗77休
  • 幕内成績:19勝26敗
  • 序ノ口、幕下優勝各1回
  • 最高位:西前頭12枚目

 
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高橋 裕
1971/7/16

KRY山口放送の男性アナウンサー。

全日本プロレス中継





ボビー・ラシュリー
Bobby Lashley
1976/7/16

本名:フランクリン・ロバート・ラシュリーFranklin Robert Lashley)は、アメリカ合衆国のプロレスラー、総合格闘家。カンザス州ジャンクション・シティ出身のアフリカ系アメリカ人。アメリカン・トップチームとTNAに所属。

来歴

ミズーリ・ヴァレー大学ではレスリングの選手として活躍し、1997年と1998年にNAIA(National Association of Intercollegiate Athletics)のチャンピオンとなる。その後アメリカ陸軍への入隊を経て、2005/9/23、スマックダウンに登場してWWEデビューを果たした。レスリングの経験を活かし、ベリー・トゥ・ベリーやスープレックスで相手を豪快に投げる格闘スタイルで売り出された。

デビュー早々にSurvivor Series 2005のイリミネーション・タッグマッチに出場。No Way Out 2006では、JBLと対決。その際、フィンレーが乱入したため、抗争を開始。Judgment Day 2006では、ブッカー・Tと対決。その試合もフィンレーの乱入のため敗北。しかし、Judgment Day 2006明けのスマックダウンで、JBLからUS王座を獲得。その後キング・ブッカー(ブッカー・T)、フィンレーとの抗争を繰り広げ世界王座戦線にも関わるようになった。

2006/11/14、ECWに移籍。同年12/3に行われたDecember to Dismember 2006でECW世界王座を獲得した。

ロイヤルランブル2007のECW王座戦でテストを撃破。2月にはNo Way Out 2007でミスター・ケネディの挑戦を受ける(反則負けで王座防衛)。さらにECWに舞台を移し、ハードコア・ホーリーとミスター・ケネディを相手に三つ巴戦を行い、防衛に成功した。翌週にはハードコア・ホーリーとスティール・ケージ・マッチで防衛戦を行う。5分以内に決着がつかなければ王座移動という厳しい条件を課せられたが、残り30秒のところでホーリーを沈め3週連続の王座防衛を果たした。試合後、レッスルマニアを控えたウマガに対して、金網を破壊しつつトペ・コンヒーロを仕掛けるという技を見せた。

レッスルマニア23ではビンス・マクマホンと大富豪ドナルド・トランプの代理戦争に出場し、ウマガとのシングルマッチに勝利したことでビンスは事前の約束どおり丸刈りになる。その後マクマホンファミリーに強奪されたECW王座を巡って抗争を繰り広げる。One Night Stand 2007で王座を奪還するも、ドラフトでRAWに移籍。これに伴いECW王座の返上を余儀なくされた。

2008/2/4付けで、怪我からの復帰が無いままWWEを解雇された。

2008/8/15、IGF「GENOME6」でザ・プレデターと対戦し、スピアーからの片エビ固めで勝利を収めた。

2008/12/13、Mixed Fighting Allianceで総合格闘技デビューを果たし、ジョシュア・フランクリンにTKO勝ちを収めた。

2009/3/21、ロイ・ジョーンズ・ジュニアが主催する総合格闘技とボクシングの大会「March Badness」に出場し、ジェイソン・グイダに判定勝ち(当初はケン・シャムロックと対戦予定であったが、ドラッグテストで陽性となり変更となった)。

2009/4/19、TNAのLockdown2009に登場。

2009/6/27、ミシシッピ州ビロクシで行われた「Ultimate CHAOS」でボブ・サップと対戦し、パウンドにより1ラウンドでギブアップ勝ちを収めた。

Strikeforce

2010/8/21、Strikeforce: Houstonでチャド・グリッグスと対戦。2R終了時に立ち上がってコーナーに戻ることができず、レフェリーストップによるTKO負けで総合格闘技初黒星を喫した。

獲得タイトル

  • WWE US王座:1回
  • ECW世界ヘビー級王座:2回





テリー・ゴディ
Terry "Bam Bam" Gordy
1961/4/23 - 2001/7/16

アメリカ合衆国のプロレスラー。テネシー州チャタヌーガ出身。本名はテリー・レイ・ゴディ(Terry Ray Gordy)。日本では「人間魚雷」の異名を持つ。

甥のリチャード・スリンガー、息子のレイ・ゴディもプロレスラーである。パワーボムの元祖であり、この技を日本に定着させた。

来歴

生まれついての巨漢で、ほとんど訓練もしないまま年齢をごまかし14歳でプロレス入りしたとされ、1977年にテリー・メッカTerry Mecca)のリングネームでデビュー。1年後、地元テネシーで出会った2歳年上のマイケル・ヘイズ(現・WWEエージェント)と出会って意気投合し、翌1979年にテリー・ゴディと改名、タッグチーム「ファビュラス・フリーバーズ」を結成する。この名前は彼らが好きだったサザン・ロックのバンド、レーナード・スキナードのヒット曲『FREE BIRD』から取ったもので、入場曲も同曲である。なお、これがアメリカマット界で本格的に入場曲が使われるようになったきっかけといわれる。

以降、ヒールのタッグチームとしてテキサス州ダラスを中心に全米で活躍。1982年からはバディ・ロバーツを加えて3人組となり、ダラスの英雄フォン・エリック兄弟(ケビン、デビッド、ケリー)との抗争は凄まじい人気を得た。ヘイズとは1981年にジョージア地区のGCWで一時的に仲間割れし、ゴディはジミー・スヌーカを、ヘイズはテッド・デビアスを新パートナーに抗争を展開したこともある。

1983年8月に全日本プロレスに初来日。日本でのテリー・ファンク引退試合でのザ・ファンクスの対戦相手として、スタン・ハンセンのパートナーに起用された(テリー・ファンクは後に現役復帰)。翌年にはフリーバーズでの来日も実現したが、ゴディのみ全日本の常連となる。デビュー間もない頃に教えを受けたルー・テーズ直伝のパワーボムをフィニッシュ・ホールドとして頭角を現す。テリー・ゴディのパワーボムは技を決めた後に、そのままフォールの体勢に持ち込むのが特徴で、それ以降多くの日本のレスラー達が使うようになった。1988年にはスタン・ハンセンとのタッグで世界タッグ王座を獲得。また同年の世界最強タッグ決定リーグ戦を制覇した。1990年3月「殺人医師」ことスティーブ・ウィリアムスとタッグチーム「殺人魚雷」を組み、世界最強タッグ決定リーグ戦を1990年、1991年と二連覇する等活躍した。シングルでも1990/6/5にジャンボ鶴田から三冠ヘビー級王座を奪取している。意外にも外国人で三冠王者になった第一号は、ハンセンではなくゴディである。この時29歳だったが、20代の三冠王者はゴディと小橋建太の二人だけである。既に世界タッグ王者でもあったため、史上初の五冠王だった。また、全日本のリングに上がる前年の1982/3/1にジャイアント馬場のPWFヘビー級王座にジョージア州アトランタで挑戦しており、日本にもその試合が中継されている。

1984年8月にはフリーバーズとしてWWF(現・WWE)にも加入。シンディ・ローパーとのコラボレーションも実現したが、メンバー個々をシングルプレイヤーとして売り出そうとしたWWFに反発して2週間で離脱。その後、フリーバーズはダラスのWCCWを主戦場にAWAやUWF(ビル・ワット主宰)などにも参戦するが、1988年に一旦解散した。

1992年にスティーブ・ウィリアムスと共にWCW入りし、スコット・スタイナー、リック・スタイナーのスタイナー兄弟と抗争する。WCWは当時新日本プロレスと提携し、スタイナー兄弟は新日にも登場したがゴディ、ウィリアムズは全日本との契約は終了していたものの、全日本との関係を重視して登場しなかった。なお、ウィリアムスはゴディとのタッグの経験から試合展開の技術についていろいろと学ぶところがあったという。

1993年8月、全日本のシリーズを欠場。内臓疾患ということになっていたが、実際は一度、全日本参戦中に心停止したことがあり、病院に担ぎ込まれたというのが真相である(以下のエピソード含め、和田京平の著書『人生は3つ数えてちょうどいい』より。医者からは「ご家族を呼んでください」と言われたものの、突然起き上がって「帰る」などと言い出し、周囲の人間が仰天したというエピソードがある)。1年後の1994年7月、サマーアクションシリーズ中盤より全日本マットに復帰したものの全盛期の動きには程遠く、これが最後の全日本への来日となった。

その後1995年、IWA・JAPANに参戦。画鋲デスマッチ等を行った。1996年には覆面レスラーのジ・エクスキューショナーThe Executioner)としてWWFに登場。マンカインドと怪奇派のタッグチームを結成し、短期間ながらジ・アンダーテイカーと抗争した。1998年にはWARに登場。かつての三冠戦カードである天龍源一郎とのシングル戦が実現した。

ゴディは非常に強い痛み止めの薬を飲んでいたが、元来の酒豪であり(主にジャックダニエルを愛飲)、それとチャンポンしていたという。現在で言うステロイド剤の副作用もあり、精神的にも異常な行動が見えたことからそれが原因で全日本には呼ばれなくなったというのが真相である。IWA・JAPANに参戦時には、控え室で尿を垂れ流していたなどの行動も見られたという。持病の心臓病が悪化し、2001年7月16日にテネシー州チャタヌガの自宅で心不全で急死。40歳没。

最後の来日は同年2/4のIWA横浜文化体育館大会。死の直前に、プロレスリング・ノアを発足させた三沢光晴と旧交を温める様子がプロレスマスコミに流れたが、本人がノアに上がることはなく、一時息子のレイ・ゴディがノアに参戦するにとどまった。ジャンボ鶴田が苦手意識を持った数少ないトップレスラーで、1990年代前半にはプロレス四天王の大きな壁として立ちふさがった名レスラーであったことから、体調管理の甘さが悔やまれる。

獲得タイトル

全日本プロレス
  • 三冠ヘビー級王座:2回
  • 世界タッグ王座:7回(w / スタン・ハンセン×2、スティーブ・ウィリアムス×5)
ミッドアメリカ(テネシー)
  • NWAミッドアメリカ・タッグ王座:2回(w / マイケル・ヘイズ)
MSWA / UWF
  • ミッドサウス・タッグ王座:2回(w / マイケル・ヘイズ×1、バディ・ロバーツ×1)
  • ミッドサウス・ルイジアナ・ヘビー級王座:1回
  • ミッドサウス・ミシシッピ・ヘビー級王座:1回
  • UWF世界ヘビー級王座:1回
GCW(ジョージア)
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / マイケル・ヘイズ)
  • NWAナショナル・タッグ王座:4回(w / マイケル・ヘイズ×3、ジミー・スヌーカ×1)
SECW(アラバマ)
  • NWAアラバマ・ヘビー級王座:1回
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:1回
WCCW / WCWA(ダラス)
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:1回
  • NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / マイケル・ヘイズ)
  • NWAブラスナックル王座(テキサス版):1回
  • NWA世界6人タッグ王座(テキサス版):5回(w / マイケル・ヘイズ&バディ・ロバーツ)
  • WCWA世界6人タッグ王座:1回(w / バディ・ロバーツ&アイスマン・パーソンズ)
WCW
  • NWA世界タッグ王座:1回(w / スティーブ・ウィリアムス)
  • WCW世界タッグ王座:1回(w / スティーブ・ウィリアムス)
その他
  • GWFタッグ王座:1回(w / ジミー・ガービン)
  • SMWヘビー級王座:1回

  



ボブ・オートン
Bob Orton
1929/7/21 - 2006/7/16

アメリカ合衆国の元プロレスラー。ニックネームは "ビッグ・O"。身長188cm、体重111kg(全盛時)。

カンザス州カンザスシティ出身。息子のボブ・オートン・ジュニア、バリー・オートン、ボブ・オートン・ジュニアの息子で孫であるランディ・オートンもプロレスラーである。アンドレ・ザ・ジャイアントとも親交があった。

来歴

プロレスデビューは1951年。NWA所属団体、AWA、WWWF(現WWE)などを主戦場としていた。

1980年に引退するまで、長きにわたりレスラーとして活動した。その間にはボブ・オートン・ジュニアとNWAフロリダタッグ王座も奪取している。

引退後は公の場に姿はあまり現さなかったが、ボブ・オートン・ジュニアがWWE殿堂入りした際、表彰式にも参加している。

力道山がアメリカ武者修行中、空手チョップがその威力の高さのため現地のレスラーたちに敬遠され、反則に指定しろという意見が出たことがある。そのときにこの意見を一蹴し、自らが進んで空手チョップを受けたという逸話が残っている。

獲得タイトル

NWA
  • NWAフロリダ 世界タッグ王座 : 2回(w / エディ・グラハム)
  • NWA中部 USヘビー級王座 : 1回
  • NWAフロリダ 南部ヘビー級王座 : 6回
  • NWAフロリダ タッグ王座 : 3回(w / デニス・ホール、ヒロ・マツダ、ボブ・オートン・ジュニア)
  • NWA中部州王座 : 2回
  • NWA 北米タッグ王座 : 1回(w / バディ・オースチン)
  • NWAミズーリ ヘビー級王座 : 1回
  • NWA南西部王座 : 1回
AWA
  • AWA中西部 ヘビー級王座 : 2回
  • AWA中西部 タッグ王座 : 3回(w / マイク・デビアス、マッドドッグ・バション×2)




 












 
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