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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/17


 
 


 
 

エドワード・カーペンティア
Édouard Carpentier

1926/7/17 - 2010/10/30

本名:エドワード・ヴィクツEdouard Weicz)1940年代から1980年代までアメリカ、カナダ、フランスなどで活動したプロレスラーである。ポーランド出身。ニックネームは『マットの魔術師』。

来歴

体操競技のオリンピック強化選手に選ばれていたが、祖国ポーランドがアドルフ・ヒトラー支配下のドイツに侵略されたのを受けフランスに疎開。その地でドイツに対するレジスタンス運動にも関わっていた。

第二次世界大戦が終わると、体操のキャリアを生かしサーカス団に入ったが、周囲の勧めでプロレスに転向。

1956年にカナダに移住し、アメリカ大陸での活動をスタートさせる。1957年6/14、イリノイ州シカゴにおいてルー・テーズを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得したが、裁定に意見の違いが生じ、その後しばらくカーペンティアとテーズが共に王者を名乗る状態が続いた(ベルトそのものはカーペンティアに渡っている)。

またこの頃、フランス帰省中に、木こりをしていたアンドレ・ザ・ジャイアントを山中で見つけてスカウトした、という逸話が語られているが、実際にはごく普通にアンドレをスカウトしたにすぎない。しかし最初にアンドレを発掘した人物がカーペンティアであるのは確かである。

日本への登場は1970年・1973年の国際プロレス参戦の2度のみ。1980年に同じく国際プロレスの大木金太郎が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦が内定していたが急遽来日中止となった。1970年にはサンダー杉山、1973年にはストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦している。「もう少し若い時に見たかった」とも評価されたが、そのアクロバティックなスタイルは、同団体にいた寺西勇、マイティ井上に多大な影響を与えている。井上のニックネームは「和製マットの魔術師」、寺西のニックネームは「和製カーペンティア」である。

1981年にモントリオールで引退した後は、コーチ業やWWFのフランス語解説などを歴任。

サマーソルトキックやサンセット・フリップなど、体操経験を生かした身軽な動きは、プロレスにおける空中殺法の祖とも言われる。

サマーソルトキックは当初日本では写真だけで知られており、マスコミやファンの間では伝説の大技として幻想がふくらんでいた。しかしカーペンティアが来日した際に公開されたサマーソルトキックは、コーナーに追い詰めた相手の目の前でトンボを切るだけの技で(つまり相手へのダメージはまったくない)、竹内宏介は「魔術師カーペンティアは軽業師だった」と書いている。

2010年10月30日、心不全のためカナダ・モントリオールで死去。享年84歳。


 
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佐々木 正洋
1954/7/17

ささき まさひろは、テレビ朝日のアナウンサーである。
ニュース・ワイドショー・スポーツ番組と一通り実況とレポートをこなすが、1990年、新日本プロレスの東京ドーム大会の際、『ワールドプロレスリング』の選手控え室レポートにおいて、試合前のアントニオ猪木(当時、参議院議員)に対し、「もし負けるということがあると、これは『勝負は時の運』という言葉で済まないことになりますが」と質問したため、激怒した猪木に「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」と強烈な張り手を受けて、「出てけ! コラ!」と追い出された。今でこそ、猪木の張り手・ビンタは活を入れてもらうための儀式として素人が求めることも多いが、公の場でこれを受けた素人は佐々木が初めてである。翌日、病院で検査したところ重度のムチウチと診断され、入院する羽目になった。





アレクサンダー大塚
1971/7/17


大塚 崇(おおつか たかし)は、日本のプロレスラー、総合格闘家。本名は同じ。徳島県徳島市出身。アレクサンダーの名は、大塚が尊敬するアレクサンダー・カレリンに因む。現在東京都足立区に居酒屋「男盛」を経営している。

来歴

徳島県立徳島東工業高等学校(現徳島県立徳島科学技術高等学校)でレスリング部に在籍していた。部の先輩には新崎人生がいる。

藤原組に入団後の1995/8/18に、米山聡(現:モハメド・ヨネ)戦でプロレスデビュー(ヨネと共に藤原喜明の最後の弟子)。1996年に格闘探偵団バトラーツ設立と共に同団体所属となった。

バトラーツ時代はモハメド・ヨネとの「ラブ・ウォリアーズ」で活躍。

1998年から総合格闘技へも参戦を開始。PRIDE.4での総合格闘技デビュー戦で、マルコ・ファスをハーフガードポジション上からのパウンドの繰り返しで流血させて戦意喪失に追い込み、TKO勝利を収め一躍名声を高めた。

1999年にはUFOに参戦し、佐山サトル(タイガーマスク)に2連勝(素顔・タイガーマスク1勝ずつ)するなど、益々飛躍した。(余談だがタイガーマスクのシングル戦での敗戦は、1982/7/25金沢大会でダイナマイト・キッドに反則負けして以来、実に15年5か月ぶり2度目である)

2001年にプロレス団体ZERO-ONE旗揚げ戦にも出場し(相手はNO FEAR{高山善廣、大森隆男組}でパートナーは高岩竜一)、その後真撃シリーズにも参加する。しかし、同団体の旗揚げ第2戦でデビュー半年程度の杉浦貴とのシングルマッチで勝利こそ収めたものの試合内容で圧倒され、評価を落とす結果となった。また、不甲斐ない(業界用語として「しょっぱい」)試合を見せた大塚に対し、橋本真也がマイクで「おいっ。アレク(大塚のこと)なんてこんなもんか。もっとしっかりしろ」と鼓舞激励された。2003年の火祭りにも出場。

プロレスラーとしての活動も継続しており、2005/10/9からみちのくプロレスでは男盛(おとこさかり)としても活動している。

エピソード

  • 最近ではめちゃ×2イケてるッ!内のコーナー、『只今参上 色とり忍者』に桃ハゲとして出演中ではないかと同コーナー内で加藤浩次は語っている。そして内山信二に「プロレスラー崩れでしょ?」と言われ、逆に「後楽園ホールでやるか?(後楽園ホールはプロレスの聖地と言われている)」と言っている。
  • 小さい頃は『第2期ウルトラシリーズ』、小学校3年生のころは『ウルトラマン80』を見ていた。大塚は『ウルトラマンマックス』の19話でターラ星人役でウルトラシリーズに出演を果たした。偶然にも大塚の誕生日は初代ウルトラマン第1話が放送された記念すべき日と同じである。
  • AV女優の吉沢明歩のファンであることを公言している。『おねがい!マスカット』のスカットテレフォン第19回で吉沢からそのことについて電話され、あっさり吉沢のファンであることを認めた。
    • 同じく同作の第39回で有吉弘行がスタジオに乗り込み共演者を殴りとばしスタジオが騒全となった際は後述のテーマ曲が流れ、現れた。どこで知ったのかは不明だが「吉沢を助けるためにかけつけた」とのこと。暴れる有吉の攻撃をものともせず逆にジャイアントスイング→コブラツイスト→張手のコンボ技を決め有吉を成敗した。
    • ラストにご褒美として「ギャラ」か「吉沢のキス」かを選ぶことになり「吉沢のキス」を選び、頭にキスをされとても喜んでいた。前日に髪の毛を剃ってきたばかりとのことで大久保佳代子から「エロ坊主みたい」と比喩されたため、大久保を睨みつけ一触即発の状況になったが吉沢に諭され落ち着いた。
  • 過去にはその外見とファイトスタイルからポスト武藤との呼び声も高かった時もある。
  • ゲイ雑誌のグラビアの仕事をこなしたことがある。

リングネーム

大塚が現在、過去に用いたことがあるリングネーム

  1. アレクサンダー大塚
  2. シュー・キム(メキシコ遠征時)
  3. 男盛(おとこさかり)(2005年10月9日より、みちのくプロレスにて)

その他

  • 所属事務所: AO/DC
  • 入場曲
    • アレクサンダー大塚: "AO"corner 青西高嗣
    • 男盛: Europa (Earth's Cry Heaven's Smile) Santana
  • PRIDEで活動していた時期、日本のファッションブランド「DIET BUTCHER SLIM SKIN」のブランド名を縦書きでカタカナ表記したTシャツを着ていた。

テレビ・映画出演

日本テレビ系

  • ものまねバトル(審査員)
  • ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!(24時間鬼ごっこ・ずつき役)
  • 吉本ばかな

TBS系

  • 愛していると言ってくれ(第6話:水野 紘子(みずの ひろこ)〈常盤貴子〉の隣の住人役)
  • オールスター感謝祭
  • ウルトラマンマックス(第19話:空間移動宇宙人ターラ星人役)
  • ガチバカ!(第2話:警備員役)

フジテレビ系

  • 今田耕司のシブヤ系うらりんご(毎週金曜日:ヘラクレス役)
  • エンタメ遊園地東京移住計画
  • UN FACTORY カボスケ
  • ドリフ大爆笑(雷様コント内、レスラー役<ブラック・タイガーのマスク>)
  • BANG! BANG! BANG!(BOZU役)
  • 剛力王(大会出場)
  • 森田一義アワー 笑っていいとも!
  • SMAP×SMAP(関西テレビ共同制作)
  • ワンナイR&R(ゲスト出演・インストラクター役、茶坊主アレク役)
  • めちゃ×2イケてるッ!(色取り忍者=ハゲの軍団・桃ハゲ)

テレビ朝日系

  • リングの魂
  • トゥナイト2
  • 極楽とんぼのとび蹴りゴッテス
  • 極楽とんぼのバスコーンだろ!!
  • 極楽とんぼのバスコーンつってんだろ!!
  • 内村プロデュース
  • アドレな!ガレッジ

テレビ東京系

  • 浅草橋ヤング洋品店
  • 番宣太郎
  • おねがい!マスカット(テレビ大阪) - 第19回のスカットテレフォン・第39回
  • ピエール靖子(テレビ大阪)
  • DIVA(テレビ大阪)

NHK

  • おーい、ニッポン(NHK-BS2) - 茨城編リポーター( 中島史恵と共演)
  • 新・真夜中の王国(NHK-BS2)
  • ズッコケ三人組(NHK教育テレビ)
  • 風と雲と虹と(NHK大河ドラマ)

映画

  • 龍が如く 劇場版(ヤクザ役)
  • デコトラの鷲〜其の四〜愛と涙の男鹿半島(ハゲのヤクザ役)
  • 喰いしん坊!〜大食い敵対編〜3(悪食三兄弟・次男役)





近藤 有己
1975/7/17

日本の総合格闘家。本名は近藤 有(こんどう たもつ)。新潟県長岡市出身。新潟県立与板高等学校(現新潟県立正徳館高等学校)卒業。

第9代ミドル級キング・オブ・パンクラシスト。第3代ライトヘビー級キング・オブ・パンクラシスト。無差別級においても、第5代、第8代のキング・オブ・パンクラシストの座に就いている。冷静沈着で安定した性格を持ち、「不動心」の異名を持つ。練習にクンダリーニ・ヨーガを取り入れておりスタミナには絶対的な自信を持っている。

来歴

高校時代に少林寺拳法(6年、二段)を学んだ後に、パンクラスに入門。1996年にプロデビュー。

1997年4月27日、船木誠勝を15分12秒腕ひしぎ十字固めで破り、第5代キング・オブ・パンクラシストとなった。

2000年5月26日、コロシアム2000でヒクソン・グレイシーの一番弟子と呼ばれるサウロ・ヒベイロと対戦し、開始22秒右ハイキックからのパウンドでKO(レフェリーストップ)勝ち。

2000年12月16日、UFC 29でティト・オーティズが保持するミドル級タイトルに挑戦するも敗北。

2003年11月30日、菊田早苗をブルート(左フック)でKOし、第3代ライトヘビー級キング・オブ・パンクラシストとなった。

同年大晦日からはPRIDEにも参戦し、マリオ・スペーヒー、ダン・ヘンダーソン、ヴァンダレイ・シウバ、イゴール・ボブチャンチン、中村和裕、フィル・バローニといった強豪とも対戦している。また、大晦日のPRIDE男祭りでは吉田秀彦、美濃輪育久と並ぶ数少ない皆勤選手でもある。

2007/7/14、BodogFightでトレヴァー・プラングリーと初代ミドル級王者決定戦で対戦。左目付近のカットにより、2R終了時TKO負け。

2007/12/9、フィリピンマニラにて開催された『リング・オブ・ファイヤー』にジョシュ・バーネット率いるチームの一員として参戦。オーガスト・ウォレンに判定勝ち。

2008/1/1付けでパンクラスが新たに階級を制定したため、近藤は階級を下げ、ライトヘビー級王座を返上し、暫定ミドル級キング・オブ・パンクラシストの座に就いた。4月8日、元パンクラス社員と入籍した

2008/5/18、戦極初参戦となった戦極 〜第二陣〜でホジャー・グレイシーと対戦し、チョークスリーパーで一本負け。

2008年9月28日、戦極 〜第五陣〜のミドル級グランプリ1回戦で佐々木有生と対戦し、チョークスリーパーで一本負け。

2009/10/25、パンクラスで久松勇二と対戦し、0-0の判定ドロー。

2010/2/7、ミドル級暫定キング・オブ・パンクラスタイトルマッチで佐藤豪則と対戦し、判定勝ち。

2010/4/29、同門のミドル級正規王者金井一朗とタイトル統一戦で対戦し、判定勝ちでミドル級王座を獲得した。

2010/7/4、ミドル級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチで久松勇二と再戦し、またしても0-0の判定ドローとなり、3度目の王座防衛に成功した。

2010/9/26、CAGE FORCEのメインイベントで藤井陸平と対戦し、0-3の判定負け。この試合はパンクラス vs. CAGE FORCEの対抗戦第一弾として行なわれた。

2010/12/5、ミドル級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチで藤井陸平と再戦し、またしても0-3の判定負けを喫し王座から陥落した。

2011/2/6、ウェルター級転向初戦となったパンクラスで長岡弘樹と対戦し、0-3の判定負け。試合後には極度の脱水状態となり病院に搬送された。

人物

  • 以前は、エンヤの「Book Of Days」を入場曲に使用していた。

獲得タイトル

  • 第5代無差別級キング・オブ・パンクラシスト
  • 第8代無差別級キング・オブ・パンクラシスト
  • 第3代ライトヘビー級キング・オブ・パンクラシスト
  • 暫定ミドル級キング・オブ・パンクラシスト
  • 第9代ミドル級キング・オブ・パンクラシスト

  



マイク・ノックス
Mike Knox
1978/7/17

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名マイケル・ショーン・ヘッティンガ(Michael Shawn Hettinga)。アリゾナ州フェニックス出身。

経歴

1998年にプロレスデビューしインディ団体で活動する。2000年からはUPWに所属し、一時期サモア・ジョーとタッグを組み活動していた。

2005年にはWWEとディべロップメント契約を結ぶ。2006年の6月にヒールとしてECWに登場する。またエクストリーム・エクスポーゼの一員のケリー・ケリーのアングル上の恋人となり、当時露出狂キャラであったケリー・ケリーが服を脱ごうとするたびにそれを阻止し、観客からブーイングを浴びていた。その後恋人のケリー・ケリーがCMパンクに言い寄ったことによりパンクに嫉妬し抗争を開始する。そしてケリーとは12月にリング上で別れを告げ破局する。

2007年に入ると下部組織のDSWへと送られ、DSWがWWEとの関係を解消したあとはFCWへと移り、そこでトレーニングを続ける。9月には再びECWに登場し、CMパンクなどと勝負を重ねる。

2008年11月にはRAWへと移籍する。RAWではレイ・ミステリオなどと抗争する。2009年の追加ドラフトによりSmackDown!へと移籍する。SmackDown!に移籍後は一時期フィンレーと抗争していたが基本的にジョバー的な役割での登場が多かった。

2010/4/22にWWEから解雇される。

獲得タイトル

  • DSWタッグチーム王座 : 1回

入場曲

  • Death Grip




 
雷陣 明
1978/7/17

日本の男性プロレスラー。本名は川畑 顕(かわばた あきら)。兵庫県宝塚市出身。全日本プロレス所属。階級はヘビー級。

父親は西宮市議会議員で元プロ野球選手の川畑和人。

経歴

栗栖ジム〜全日本プロレス入団

学生時代は空手に打ち込み黒帯を取得。栗栖ジムに入門し同ジムの大会で1998/1/28に吹本賢児との対戦でデビューした。エースとして活躍していたが2003年の活動停止と共に、ジムの先輩でもあった奥村茂雄を頼り全日本プロレスに入門。同期は諏訪魔。

2004/8/28、全日本プロレスサマー・インパクト2004札幌テイセンホールで土方隆司を相手に再デビュー。

2005/6/19、平井伸和と組んで荒谷望誉、石狩太一と対戦。石狩から逆さ押さえ込みで全日入団初勝利を奪う。

さらにその年の世界最強タッグ決定リーグ戦では椎間板ヘルニアで欠場した本間朋晃の代打として出場。嵐&AKIRA組から白星を挙げた。

2006年にはVOODOO-MURDERSの挑発や自身のステップアップを目指し中堅活性化を宣言。荒谷望誉、平井伸和、土方隆司に奮起を促す。奮闘の結果、平井伸和から全日本プロレス入団から初のシングル勝利。

11/8、NOSAWA GENOMEにて 獣神サンダー・ライガーを真似た獣神サンダー・アキラーとして、クラッシャーバンバン平井(平井伸和)と対戦。マスク剥ぎをしようとした平井に対しレフェリーが止めに入るもそれを平井が突き飛ばし結果反則勝ち。試合内容では完全に平井が圧倒していたが、とりあえず勝ちは勝ちということでコーナーに昇り、両手を広げて観客に勝利をアピールした。

海外修行

2007年5月からTNAとの交換留学のためアメリカ、カナダで武者修行することが決定。5月13日に壮行試合として同じく海外遠征が決定していたブルート一生と組んでライバル視している諏訪魔、ブードゥーマスクと対戦し敗北。試合後のブルートのマイクに続き、雷陣もマイクを持ち「ずっと諏訪間を追いかけてきて、今日も負けたけど、今日を最後にカナダへ修行へ行ってきます。そこでひと回りもふた回りも大きくなった姿を、またこの全日本のリングで見せたいと思いますので、ぜひよろしくお願いします」と挨拶。

TNAなどでブルートと共に試合をしていたがブルートが怪我を理由に帰国してそのまま引退。1人で武者修行を続けることとなった。

9月からはWWCにカミナリのリングネームで活動。

凱旋帰国

2008/6/22、後楽園ホールにて、およそ1年ぶりに凱旋帰国し試合を行う。武藤敬司、ジョー・ドーリングと組んで鈴木みのる、太陽ケア、MAZADA組と対戦。21分46秒月面水爆でMAZADAを下し、見事凱旋試合を飾る。試合後のインタビューでは三冠王者となっていたライバル諏訪魔に対するジェラシー、対抗心を語り、更に「今日戦った鈴木みのる、太陽ケア、MAZADA、いままでオレをバカにしていたヤツ、全員食ってやる!」と力強く語った。

帰国してからは新日本プロレスの中邑、後藤などとも対戦し、安定した活躍を続けていた。 しかし、8月31日の国技館大会の試合後、TNAのトライアウトに合格し、2年契約で次シリーズ終了後から参戦することを発表した。

9月シリーズ開幕戦では、TNAへの壮行試合として、三冠王者・諏訪魔と対戦。しかしこの試合で諏訪魔の厳しい攻撃で動げなくなりそのまま試合はレフェリーストップで終了。さらに終了後も意識は無く林リングドクターが『硬膜下血腫の疑い』があるとして救急隊が到着するまで待機し、20分後にようやく救急隊が到着し、雷陣は意識が無いまま救急車で病院に搬送された。林ドクターは、原因は諏訪魔の頭部への蹴りで、ただの脳震盪にしては症状が重く、最悪生命の危険もある非常に危険レベルとのことだったが、搬送先の病院では強度の脳震盪の診断であり、一命はとりとめた。

先述の件により、このシリーズは欠場していた。しかし、同件で諏訪魔が悩み、うまく試合をできずにいたため、9月20日博多大会に登場。諏訪魔の試合中に乱入し、諏訪魔に張り手を見舞い「いい加減にしろ!」と叫ぶ。このことによって諏訪魔も復活。最終戦ではセコンドにつき三冠ヘビー級王座戦を見守っていたが、惜しくも諏訪魔が敗れることとなった。しかし、二人の友情関係はさらに深まった。

三冠戦後の10/11後楽園ホールでは、前回流れた諏訪魔との最終壮行試合が実現。出せる技、力を総て出し切り、諏訪魔相手に奮闘したが、完敗。2年後の雪辱を誓って再び海外へ行った。

KIYOSHI

10/17、TNAに出場するために渡米。同時期にTNAに遠征する新日本プロレスの棚橋弘至との接触も期待された。

結局棚橋は3か月ほどで日本に帰国したが、雷陣の方は12月9日にXデヴィジョンのトーナメントにてデビュー。コンセクエンスズ・クリードと対戦し、初陣をムーンサルトプレスで勝利で飾った。TNAでのリングネームはKIYOSHI。ムタを彷彿とさせる黒いフェイスペイントで試合に臨んでいる。

また、そのトーナメントの2回戦でクリス・セイビンとも対戦。健闘虚しく敗北した。

2009/3/5にはアレックス・シェリーの持つXディヴィジョン王座に挑戦。セコンドには新日本プロレスのNO LIMIT、内藤哲也と裕次郎が付いたが、惜しくも敗れた。

9/13、KIYOSHIとして一時帰国。グレート・ムタと親子タッグを組んで諏訪魔、近藤修司組と対戦。諏訪魔を流血、親子で毒霧を放つなど大暴れを展開。最後はKIYOSHIのムーンサルトで近藤からフォールを奪って勝利した。

2010/3/21、両国国技館大会にて帰国。BUSHIとタッグを結成してチェスマン、ダーク・オズと対戦しムーンサルトプレスで勝利。その2日後3/23にKIYOSHIとしてチャンピオン・カーニバルの出場が発表された。

2011年辺りからは、素顔となりオケイトとタッグを組むことが多く、もっぱらヒールファイトに徹している。

人物

  • TNAのKIYOSHIに対するインタビューで武藤敬司から「決して突出した能力は無いけど、アイツの持ってるスピリッツ、プロレスが大好きだという気持ちは他のレスラーには負けてなかった。」評されている。
  • 好きな歌手は長渕剛。
  • 若手時代は嵐に師事し付き人を務めていた。
  • NOSAWA GENOMEで獣神サンダー・ライガーの入場テーマのパロディ「雷陣サンダーアキラーのテーマ」(作詞:タイガー木原 唄:EU)が流されその散々な内容から観客の笑いを誘った。またこの時のPVに学生時代の写真が公開された。
  • テストを受け練習生として入門したため若手扱いされているが、プロレスラーとしてのキャリアは10年以上でキャリアだけで考えるとベテランである。
  • 趣味はバイクで自身のブログで度々登場している。
  • 非常に口下手だが、地方遠征でTAKAみちのくが帯同できない時にはなぜか試合前のRO&Dタイムの代わりに前説を行っていた(しかし実は口パクで実際は練習生達にアフレコさせていた)。
  • 海外修行前は赤いコスチュームと金髪モヒカンがトレードマークだったが、海外修行時は頭を丸め白いパンタロンで戦っていた。さらに海外修行から凱旋したときには、黒いパンタロンに地下足袋を着用し、オールバックの黒髪でひげをたくわえる等、かなりワイルドな風貌になり、1年前とは違う印象を与えた。
  • 全日本入門時は下積みの長さから若手の中でもそれなりの肉体を誇っていたが、みるみるうちに腹の出ただらしない体になっていった。さらに公称体重105kgなのに対し、本当の体重が113kgもあることを健介のブログに暴露されたこともある。しかし海外修行から帰ってきた雷陣の体は海外での肉体改造により、かつての腹の出ただらしない体ではなく見事に鍛え抜かれたシャープな肉体となっており、周囲を驚かせた。

ファイトスタイル

海外修行前は闘志を前面に押し出したラフファイトを売りにしていたが技の荒さやスタミナの無さ、間の悪さが問題視され、前座でコミカルな試合などをしていたため早くからこのまま中堅に甘んずるのではないかと思われていた。しかし海外修行で上記の問題点は改善され、彼の今後の活躍に期待が集まる。

獲得タイトル

  • 栗須ジム生ナンバーワン・トーナメント優勝
  • K-spiritsトーナメント02&03優勝

入場テーマ

  • 「雷陣の唄」(オリジナル曲)
  • 「ザ・カムイ」(竜童組)





マメッド・ハリドヴ
Mamed Khalidov
1980/7/17

ポーランドの総合格闘家。ロシア連邦チェチェン共和国出身。TEAM KSW/MMAオルシュテイン所属。

松濤館流空手とレスリングをバックボーンに持ち、2005年から2009年まで連勝を続けていたことから戦極の煽りでは「東欧ミドル級 最強の男」と紹介されていた。

来歴

第一次チェチェン紛争の余波を受ける形で、17歳のときに家族の勧めでポーランドへ留学する。

2004/5/18、総合格闘技デビュー。

2006年、アブダビコンバットポーランド予選88kg以下級優勝。

2008/10/10、ShoXCに参戦。ジェイソン・グイダと対戦し、TKO勝ち。

2009/5/15、KSW 11でダニエル・アカーシオと対戦し、TKO勝ちしKSWインターナショナルミドル級王座を獲得した。

2009/11/7、戦極(SRC)初参戦となった戦極 〜第十一陣〜でジョルジ・サンチアゴと対戦し、TKO勝ち。

2010/3/7、SRC12のSRCミドル級チャンピオンシップでジョルジ・サンチアゴと再戦し、判定負けで王座獲得ならず。

2010/5/7、KSW 13で行われた王座防衛戦で桜井隆多と対戦。グラウンドなどで劣勢に立たされ、スタンドでも主導権を握れず苦戦するも、判定ドロー。

2010年12月30日、戦極 Soul of Fightで佐々木有生と対戦し、パウンドによるTKO勝ちを収めた。

獲得タイトル

  • FCPミドル級王座(2006年)
  • KSWインターナショナル ミドル級王座(2009年)





小関 香奈
1984/7/17

日本の元女子プロレスラー。身長174cm、体重71kg、血液型O型。神奈川県高座郡出身。

経歴・戦歴

2002年
  • 10/6、福岡・博多スターレーンにおいて、デビュー戦が行われ西尾美香の保持する全日本ジュニア選手権に挑戦する。





ブルーザー・ブロディ
Bruiser Brody
1946/6/18 - 1988/7/17

フランク・ドナルド・グーディッシュFrank Donald Goodish)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミシガン州デトロイト出身。

全日本プロレスや新日本プロレスに参戦し、日本でも活躍した外国人トップレスラーの一人である。

来歴

ウエスト・テキサス州立大学(現ウェスト・テキサスA&M大学)でアメリカンフットボール選手として活躍していた(同期にダスティ・ローデス、ボビー・ダンカン。後輩チームメートがスタン・ハンセン。ザ・ファンクスは大学の先輩)。1968年夏、NFL球団「ワシントン・レッドスキンズ」入団するが、膝の故障から3年で引退。その後、朝刊紙「ダラス・モーニング・ニュース」のフットボール・コラムニストとなる(生計を立てるために、酒場の用心棒などもしていたという)。

やがてフリッツ・フォン・エリックにスカウトされ、1972年にヒューストンでプロレスラーとしてデビュー(一説には1973年デビューとも)。デビュー時のリングネームは本名「フランク・グーディッシュ」。エリックの主宰するダラス地区を主戦場に、ルイジアナやオクラホマなどミッドサウス・エリアにも転戦してキャリアを積む。

1974年10月、同じくレスラーとなっていたスタン・ハンセンとルイジアナ地区でコンビ結成。テキサス出身のハンセンに合わせ、出身地を同じ南西部のニューメキシコ州アルバカーキとし、リングコスチュームもハンセンのテンガロンハットに対しグーディッシュはソンブレロを被っていた。同年12月にUSタッグ王座を奪取するが、翌1975年7月に陥落しタッグを解消。この時リングネームを「フランク・ブロディ」へ改称。その後、シングルプレイヤーとして多くのローカル・タイトルを獲得した。

1976年7月、「ブルーザー・ブロディ」に改名してニューヨークのWWWFへ参戦。同年9/4と10/4、マディソン・スクエア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦。アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦して知名度を高め、メインイベンターとしての地位を築く。ちなみに当時のWWWFには、同年4月26日に首折り事件を起こしたスタン・ハンセンも共にサーキットしていた。また、当時は新日本プロレスとWWWFの提携が本格的に開始された頃であり、1977年1月に予定されていたアントニオ猪木のMSGにおける対戦相手候補としてハンセンとブロディの名前が挙がったこともある。当時の日本のプロレス専門誌には「一番強い奴とやりたい。サンマルチノの首を折ったハンセンが一番強いかというと、あれは偶発的なものでハンセンの実力じゃないという声もある。どうもブルーザー・ブロディというのが一番骨があるらしい」などという猪木のコメント記事が載っていた。結局、猪木のMSG登場は延期になり、この対戦は幻に終わっている。77年にはWWWFとの提携ルートでハンセンが新日本プロレスに来日しているが、ブロディの新日本登場は実現しなかった。

1977年、ダラス地区に凱旋。同年1/3にフリッツ・フォン・エリックを破りNWAアメリカン・ヘビー級王座(後のWCWA世界ヘビー級王座)を獲得する。その後、インディアナポリスのWWAに参戦し、1978/9/11にはディック・ザ・ブルーザーとの「ブルーザー対決」でWWA世界ヘビー級王座を奪取した。

1979年1月、フリッツ・フォン・エリックの斡旋により全日本プロレスに初来日。ジャイアント馬場に反則負けした以外、負けなしの好成績で帰国(タッグながら得意のニードロップをフィニッシュに馬場からフォール勝ちという快挙も果たす)。翌年より、常連外国人レスラーとしてシリーズ毎に何度も来日を果たすようになった。1981年10月にはドリー・ファンク・ジュニアからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取(このシリーズ中には、仙台でのザ・ファンクス対上田馬之助&バック・ロブレイ戦の試合直後に乱入し、父親の援護にとリングに上がったドリー・ファンク・ジュニアの息子に攻撃を加え、素人である彼にキングコング・ニー・ドロップを放つなど、凶暴なキャラクターを印象付けるためのアングルも展開された)。以後このベルトを巡ってドリー、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らと名勝負を繰り広げる。1982年からはスタン・ハンセンと全日本プロレスにてコンビを再結成。「超獣コンビ」とのネーミングが与えられた。ハンセンとのコンビでは年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝1回・準優勝2回(準優勝2回はいずれも最終公式戦での反則負け)の戦績を残し、また1984年に新設されたPWF世界タッグ王座でも初代王者となった。

1985/3/21、新日本プロレスへ引き抜かれる形で移籍し、来日。以前新日本がアブドーラ・ザ・ブッチャーを全日本から引き抜き、それに怒った全日本がタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンを新日本から引き抜いたことも含め、両団体の関係がさらに険悪となる。アントニオ猪木とは、7度シングルマッチで対決(2勝1敗4分けでピンフォール決着は一度もなし)。同年12月、IWGPタッグリーグ戦にジミー・スヌーカとのタッグで出場するが、仙台での決勝戦出場をボイコットし、突然の帰国。新日本プロレスからは、永久追放処分となる(新日本はスヌーカとはその後に和解)。金銭トラブルではなく、新日本プロレス側の「外国人レスラーに優勝させたくない」、「藤波辰巳&木村健吾に勝たせたかった」、「自らが膨らませた坂口負傷アングルを反故にされた」等というブックに反発したトラブルが原因という説が有力。このように、ブロディはブッカーにとって扱いにくいレスラーであり、そのことが後の死につながる。その後、新日本プロレスと和解しかけるが、自ら来日直前にキャンセルし、再度、新日本プロレスから、永久追放を宣言される。

この間、本国アメリカではダラスを拠点に主要テリトリーを転戦し、ジョージアではブラックジャック・マリガン、フロリダではダスティ・ローデス、テネシーではジェリー・ローラー、AWAではサージェント・スローターなど各地のトップスターと対戦。他地区では常にヒールのポジションだったが、古巣であるダラスでは、1980年代からはエリック・ファミリーの助っ人的なベビーフェイスとして活躍した。また、同じテキサスのサンアントニオ地区(SCW)でも善玉となり、トップ・ベビーフェイスのワフー・マクダニエルとタッグを組んだことがある(しかし、プロモーターからの束縛を嫌ってか、特定の地区を長期間サーキットすることはほとんどなかった)。また、1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートしたWWFの全米侵攻への参加も噂され、新日本移籍時の記者会見でも新WWF王者ハルク・ホーガンへの挑戦をアピールしたが、結局は実現しなかった(新日本側は当初、ブロディの新日本登場はWWFからのブッキングであったと発表していたが、もともとブロディにはWWFからのオファーはなく、新日本側がブロディ引き抜きの大義名分として、当時提携関係にあったWWFを隠れ蓑にしたともされている)。

1987/10/2、全日本・新日本の2大プロレス団体間の、レスラーに対する「引き抜き防止協定」が足かせになっていたが、新日本プロレス側の違反から、ブロディはリストからはずされ、全日本プロレスに復帰来日。同年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦では、タッグマッチながらスタン・ハンセンとの最初で最後の対戦が実現した。

1988年3月にはジャンボ鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回。野獣ギミックの仮面を守り通したブロディがこの時ばかりはファンや関係者と抱き合って歓びを分かち合い、バックステージでは涙を流しながら控え室に戻っていった。

1988/7/16、プエルトリコ・バイヤモン市にあるバイヤモンスタジアムでのWWCの興行中、同団体のボス、カルロス・コロン(WWEで活躍していたカリートの実父)とのトラブル発生。カルロスの配下である、レスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスに、ドレッシングルームにて腹部をナイフで刺される。刺し傷が肝臓に達し、翌7/17、出血多量により死亡。痛み止めのために常用していたアスピリンの副作用により、出血が止まらなかったともいわれている。また、興奮剤を服用していたのが裏目に出たともいう。なお、裁判では、現場に居合わせたレスラー仲間たちが揃って証言を拒否し(命を脅かす脅迫をされたり、出廷要請の通知が届かなかったりしたため)、結局、ホセ・ゴンザレスは無罪判決を得ている。

人物

リング上では超獣ギミックを一貫して守ったブロディだったが、本来は家族思いの穏やかな人柄で「インテリジェント・モンスター」と呼ばれるように独自のレスリング哲学を持っており、インタビューでは彼本来のクレバーさを感じさせる発言が多く見られた(超獣ギミックについてブロディは「プロレスを初めて見る子供やお年寄りに『あのチェーンをブルブル振り回す奴は誰だっけ』という印象を与えるため」という趣旨を語っている)。また、ラフファイトの裏側に隠された緻密な試合運びは馬場や鶴田も認めていた。「プロレスはチェスのようなもの」と語っていた。

試合だけでなく、自分の言葉と思想で自分の存在をファンに訴えかけた選手であった(生前最後に受けた1988年4月における『週刊プロレス』でのインタビューでは、事前にインタビュアーの斉藤文彦に「今回のインタビューは3週連続で掲載してくれ」と提案するなど、マスコミ向けに常に色々とアイディアを持ちかけていた。そしてこのインタビューは、ブロディの提案通り3週連続で掲載された)。

ブロディは日本人選手の中でジャンボ鶴田を特にライバル視しており、鶴田への競争意識から2度目の来日時(1980年1月)には初来日時よりウェイトを落として臨んだという(2000年春ごろのサムライTVでの鶴田追悼番組において百田光雄が証言している)。また、全日本離脱直後に行われた1985年4月掲載の『週刊プロレス』インタビューでは「長州力はしょっぱい。鶴田の方が断然優れている」とまで語っている。

一方で各地のプロモーター、ブッカーとは衝突が絶えず、WWWF時代のゴリラ・モンスーンを始めとして、ディック・ザ・ブルーザーとの大喧嘩など、その最期に至るまでエピソードには事欠かない。WWFには『1984』への参加を表明していたものの実現せず、その後も何度となく契約が噂されたが、ビンス・マクマホンはブロディとビジネスをしようとはしなかった。トラブルが無かったのは、若手時代に世話になったダラス地区のフリッツ・フォン・エリックくらいであった。ハンセンによれば、若手時代に格安のギャラで働かされた(レスラー兼プロモーターだったビル・ワットのことらしい)頃から彼のプロモーター嫌いが始まったといい、馬場のような普通なら信頼に値するはずのプロモーターでもブロディは信じていなかったという(だが、馬場を信頼しなかったのは1985年までのことで、1988年4月の『週刊プロレス』インタビューにおいて、ブロディは「馬場を裏切ったことは本当に失敗だった。馬場に申し訳ないことをした」と悔いていた)。

また、海外遠征時代にブロディとサーキットを共にした武藤敬司は「滅多に他人を褒めなかったが、アドバイスは的確で色々と教えてもらった」と当時のことを語っている。初めて会話した際にいきなり「お前の試合はしょっぱい」と言われたとのこと。

なお、ブロディはアメリカ遠征中の日本人レスラー・米良明久に「ダラスでヒールのできる日本人を捜している」とダラス転戦を助言、米良はダラスでヒールレスラー「ザ・グレート・カブキ」に変身し、大活躍することとなった。結果として、ザ・グレート・カブキ(およびザ・グレート・ムタ)誕生のきっかけにブロディが絡んでいることになる。

アントニオ猪木が一番扱いに困ったレスラーがブロディであったと語っている。ブロディは試合直前にギャラアップを求めることがあり、アップしないなら試合に出ないと理不尽な要求を猪木に叩きつけていた。猪木は出られないのは困るからとそれをいつも仕方なく承諾していた。のちに猪木はブロディについて「自分の物差ししかない男」と回想している。それを物語ってか、新日本プロレス参戦時は日本人選手にシングルはおろか、タッグ戦でもピンフォール負けを許さなかった。逆に全日本プロレス参戦時はジャイアント馬場とジャンボ鶴田にのみシングル戦でピンフォール負けを喫している(馬場には2回、鶴田には1回)。

ブロディは毛皮を巻いたレスリングシューズを使用していた。一見、超獣ギミックを演出するための手法と思われるが、馬場によると、足首に傷があり、それを保護するためだったという。また、ブロディは逞しい上半身や太腿に比べて膝下が細いため、それを隠すためとも言われている。

獲得タイトル

  • NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / スタン・ハンセン)
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • NWAテキサス・タッグ王座:3回(w / マイク・ヨーク、ジノ・ヘルナンデス、ケリー・フォン・エリック)
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:4回
  • NWAアメリカン・タッグ王座:3回(w / ケリー・フォン・エリック)
  • NWAブラスナックル王座(テキサス版):6回
  • WCWA TV王座:1回
  • WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版):1回
  • NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / アーニー・ラッド)
  • SCWサウスウエスト・ブラスナックル王座:1回
  • SCW世界タッグ王座:1回(w / ディック・スレーター)
全日本プロレス
  • インターナショナル・ヘビー級王座:3回
  • PWF世界タッグ王座:1回(w / スタン・ハンセン) ※初代王者

テーマ曲

  • 全日本プロレス時代
    • レッド・ツェッペリン『移民の歌』のドラマー石松元によるアレンジバージョン(ヴォーカル無し)
  • 新日本プロレス時代
    • 前奏ベートーヴェン『交響曲第5番 運命』
    • レッド・ツェッペリン『移民の歌』原曲使用




 
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