本文へスキップ
 


 
 
”重要なお知らせ”


2011/9/1よりパワーアップでページ独立!

 
 


 
 
プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/20


 
 


 
 


タイガー服部
1945/7/20

タイガー服部

日本の元レスリング選手、プロレスリング・レフェリー、マネージャー。本名は服部 正男(はっとり まさお)。東京都中央区出身。身長165cm、体重68kg。血液型はAB型。

来歴

明治大学在学時にレスリングで頭角を現し、1966年全日本レスリング選手権大会男子グレコローマン・バンタム級で優勝を果たした。翌年1967年にルーマニアで行われたレスリング世界選手権においてもバンタム級で優勝を果たした。

卒業後は松浪健四郎と渡米し、コーチ業をしながら選手活動を継続。全米選手権を制覇(詳細不明)したのをきっかけにプロレスラーにレスリングを教えるようになり、ヒロ・マツダの道場に入りハルク・ホーガンらを指導。また、この頃には武者修行に来たマサ斎藤(明治大学の同僚)、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)、キラー・カーンらのマネージャーも務め、彼らの豪快な武勇伝の『共演者』となっている。

1977年にフロリダ州マイアミにおけるハルク・ホーガン対ウィレム・ルスカ戦でレフェリーデビュー。1980年の全日本プロレス「世界最強タッグ決定リーグ戦」にNWAの公認レフェリーの一人として参加し、アブドーラ・ザ・ブッチャー&キラー・トーア・カマタ対ザ・シーク&グレート・メフィストなどの試合を裁いている。

ザ・ファンクスのマネージャーを経て1982年に新日本プロレスに入団したが、1984年には長州力とともにジャパンプロレスの設立に参画。長州とともに歩むレフェリー人生が始まった。提携先の全日本プロレスにおいてはジョー樋口に次ぐポジションのレフェリーとなっていた(1985/11/14に行われた長州力対ジャンボ鶴田戦のレフェリーも務めた)。

ジャパンプロレスの崩壊とともに新日本に復帰。1990年代にはミスター高橋を押さえメイン級のレフェリーとなり、ほとんどの大試合を裁いた。海外経験を生かして外国人レスラーの招聘にも力を発揮した。

1999年1月4日の小川直也対橋本真也戦では、小川の異変を察し反則裁定に持ち込むことを狙った橋本から、強烈な膝蹴りを食らっている。

2001年には審判部長に就任したが、2002年をもって体調不良を理由に退団。

その年の末、盟友・長州が再び新日本を離れ2002年末にWJプロレスを設立すると、同団体レフェリーとして復帰した。しかし、1年で団体は崩壊し(佐々木健介らと同様、崩壊に際し金銭的な被害を受けたらしい)、フリーの外国人エージェントとして活動する傍ら(ジャイアント・バーナードなどを手がけた)、2004年再び新日本にレフェリーとして出戻る。レフェリーとしてはメイン級からはやや引いた形だが、ブロック・レスナーを招聘するなど、渉外として実績を残している。

エピソード

  • 「ケンカ最強」がまことしやかにささやかれた人物(一説にはレスラーをしのぐ、とも)。その面では腕に覚えあるマサ斎藤も一目置いており、G1クライマックスの優勝者予想を聞かれた斎藤が「服部さん、六本木で喧嘩したらしいよ。強かったらしいよ」と答えたことがある。
  • 1994年1月4日のアントニオ猪木vs天龍源一郎の一戦のレフェリーを務めたが、天龍が猪木のスリーパーで失神してしまった時にKOやダウンカウントを数えずそのことをマイクで説明したが、渇舌が想像以上に悪すぎて、何と言っているのか分からなかった(おそらく異種格闘技戦ではないため、カウントしなかったと説明したと思われる)。
  • 1994/4/4の橋本真也vs藤波辰爾の一戦のレフェリーを務め、橋本に攻められていた藤波がダウンした時、リングサイドで様子を伺っていた馳が、執拗にカウントを要求したことが相当腹だったらしく、馳に近づきリング上から2,3発蹴りを見舞った。
  • ユークス制作のプロレスゲームソフト『闘魂烈伝』シリーズにもレフェリーとして登場しているが、隠しレスラーとしても登場している。タイガーマスク殺法を使いこなす。
  • 外国人レスラーに関する知識の豊富さを買われ、WCWマンデー・ナイトロの日本放送版の解説を務めていた。
  • 自宅はニューヨークにある。

 
広告


佐藤 啓
1962/7/20

さとう はじめは、中京テレビ放送のアナウンサー。現在、編成局アナウンス部の部長を務めている。愛知県名古屋市出身。南山大学卒業。血液型O型。スキンヘッドが特徴。
プロレス中継では実況を、プロ野球中継では中日ドラゴンズサイドのリポーターを主に務めていた。愛知県下で行われる全日本プロレスやプロレスリング・ノア、ボクシングなどの試合ではもちろんのこと、他の地方で行われる試合においても日本テレビ系列局各局から声が掛かるため、出張という形で実況やリポートに携わることがある。





木戸時夫
- 1977/7/20

木戸修の兄。1963年に日本プロレスに入門したプロレスラーだった。練習中の事故で脊椎を損傷してしまい、志し半ばでリングを去った後に闘病生活を送っていたが1977年7月20日に亡くなった。闘病生活を送る兄を見守るうち、「兄の叶えられなかった夢を自分が叶える」と志すようになる。このことは引退セレモニーの席まで木戸本人の口から明かされることはなかった。




  





 












 
   ↑ トップへヤフーオークション  


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system