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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/21


 
 


 
 

ボブ・オートン
Bob Orton
1929/7/21 - 2006/7/16

アメリカ合衆国の元プロレスラー。ニックネームは "ビッグ・O"。身長188cm、体重111kg(全盛時)。

カンザス州カンザスシティ出身。息子のボブ・オートン・ジュニア、バリー・オートン、ボブ・オートン・ジュニアの息子で孫であるランディ・オートンもプロレスラーである。アンドレ・ザ・ジャイアントとも親交があった。

来歴

プロレスデビューは1951年。NWA所属団体、AWA、WWWF(現WWE)などを主戦場としていた。

1980年に引退するまで、長きにわたりレスラーとして活動した。その間にはボブ・オートン・ジュニアとNWAフロリダタッグ王座も奪取している。

引退後は公の場に姿はあまり現さなかったが、ボブ・オートン・ジュニアがWWE殿堂入りした際、表彰式にも参加している。

力道山がアメリカ武者修行中、空手チョップがその威力の高さのため現地のレスラーたちに敬遠され、反則に指定しろという意見が出たことがある。そのときにこの意見を一蹴し、自らが進んで空手チョップを受けたという逸話が残っている。

獲得タイトル

NWA
  • NWAフロリダ 世界タッグ王座 : 2回(w / エディ・グラハム)
  • NWA中部 USヘビー級王座 : 1回
  • NWAフロリダ 南部ヘビー級王座 : 6回
  • NWAフロリダ タッグ王座 : 3回(w / デニス・ホール、ヒロ・マツダ、ボブ・オートン・ジュニア)
  • NWA中部州王座 : 2回
  • NWA 北米タッグ王座 : 1回(w / バディ・オースチン)
  • NWAミズーリ ヘビー級王座 : 1回
  • NWA南西部王座 : 1回
AWA
  • AWA中西部 ヘビー級王座 : 2回
  • AWA中西部 タッグ王座 : 3回(w / マイク・デビアス、マッドドッグ・バション×2)

 
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ネルソン・ロイヤル
Nelson Royal
1935/7/21 - 2002/2/3

ケンタッキー州フロイド・カウンティ出身。生年は1931年、出身地はテキサス州ダラスともされる。

カウボーイ・ギミックの技巧派ベビーフェイスとして活動し、NWA世界ジュニアヘビー級王座を長期間に渡って保持、日本でも防衛戦を行った。

来歴

昭和期からの日本でのプロフィールでは、牧場主の父を持つ生粋のカウボーイとして育ち、スティアー・レスリングと呼ばれるロデオ競技では当時の世界記録も樹立した、などと紹介されている。1950年代にプロレス入りし、太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト地区やアリゾナなど各地を転戦、1962年にはテキサス西部のアマリロにてドリー・ファンク・シニアとNWAサウスウエスト・タッグ王座を争い、1966年は長身のテキサス・マッケンジーとの凸凹カウボーイ・コンビで活躍した。

1968年からは自身と同サイズのポール・ジョーンズを新パートナーにカウボーイ・コンビを再編。1969年2月、ジョーンズと共に日本プロレスに初来日し、アントニオ猪木と大木金太郎が保持していたアジアタッグ王座に挑戦した。本国アメリカではノースカロライナのジム・クロケット・プロモーションズを主戦場に活躍し、1970/9/22にはジン・アンダーソンとオレイ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルーからNWAアトランティック・コースト・タッグ王座を奪取している。ジョーンズとのタッグチームは日本では「牧童コンビ」と呼ばれ、1970年4月の第12回ワールドリーグ戦と1971年9月の第2回NWAタッグ・リーグ戦にも揃って出場した。

ジョーンズとのコンビ解散後はシングル・プレイヤーに転身し、日本には1974年2月と1975年2月に全日本プロレスに来日。アメリカではテネシーのミッドアメリカ地区(後のCWA)を経てオクラホマのトライステート地区(後のMSWA)に定着し、1976/12/6にロン・スターを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得。長期政権を築き、1978年4月には王者として全日本プロレスに参戦、アル・マドリルを相手に防衛戦を行った。帰国後の7月25日にテキサスのヒューストンにてマドリルに王座を奪われるも、マドリルの病気による王座返上後に自動的にチャンピオンへ返り咲いている。

1979年9月、国際プロレスに来日。阿修羅・原を相手に防衛戦が行われたが、NWA加盟団体である全日本プロレスと新日本プロレスがロイヤルの王座は無効であると主張し、タイトルマッチにクレームを付けるという一幕も見られた。同年12月に現役を一時引退し王座を返上したが、トライステート地区のプロモーターだったレロイ・マクガークが同王座の運営権を占有していたことに不満を持つNWAの反主流派(フロリダのエディ・グラハム、ロサンゼルスのマイク・ラベール、新日本の新間寿など)が、ロイヤルの引退に伴い独自にジュニア王座を新設(新王者は王座決定戦でチャボ・ゲレロを破ったスティーブ・カーン)。これに異を唱えたマクガークも従前のジュニア王座を復活させたことにより(新王者はトーナメント決勝でレス・ソントンを破ったロン・スター)、一時期は2つのNWA世界ジュニアヘビー級王座が混在するという事態を招いた。最終的にはロイヤルが保持していたタイトルの正当性が認められ、反主流派の王座は「NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座」と改称され、日本に定着した。

リタイア後はノースカロライナ州ムーアズヴィルにてウエスタンショップの "Nelson Royal Western Store" を経営しつつ、トレーナーとして後進の指導・育成にも携わった。輪島大士のコーチも務め、輪島のデビュー翌年の1987年1月と8月には弟子を伴って全日本プロレスに久々に来日している。

2002年2月3日、心臓発作で死去。70歳没。

獲得タイトル

  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:1回(w / ブラック・ホーク)
  • NWAサウスウエスト・タッグ王座:2回(w / ザ・ヴァイキング、マイク・ギャラガー)
  • NWA世界タッグ王座(セントラルステーツ版):1回(w / ペドロ・ゴディ)
  • NWAアメリカス・タッグ王座:1回(w / ポール・ジョーンズ)
  • NWAアトランティック・コースト・タッグ王座:2回(w / ポール・ジョーンズ、サンディ・スコット)
  • NWAテネシー・タッグ王座:3回(w / レス・サッチャー×2、ロン・ライト)
  • NWA世界ジュニアヘビー級王座:4回

育成選手

  • ケン・シャムロック
  • 輪島大士
  • ジョニー・エース
  • ザ・ターミネーター
  • ジョー・ディートン
  • デビッド "ホス" ディートン
  • ジーン・リージョン





ザ・ハングマン
The Hangman
1942/7/21

ネイル・グアイNeil Guay)は、カナダ・ケベック州出身の元プロレスラー。

来歴

元警察官で、現職時代は柔道の達人であったという。退職後、地元ケベック州のモントリオール地区でプロレスラーとしてデビュー。当時はル・ボレーLe Bourreau)(=死刑執行人)というリングネームだった。1974年末に覆面レスラーのスーパー・デストロイヤーSuper Destroyer)に変身し、翌1975年4月に新日本プロレスの『第2回ワールド・リーグ戦』に初来日。公式戦では11勝3敗1分けという好成績を残した。

リーグ戦終了直後の韓国遠征にも参加し、5/23に大木金太郎のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。試合後に覆面を剥がされ素顔を曝している。そこで今度はカルガリー地区でタワーリング・インフェルノThe Towering Inferno)なるマスクマンに再変身し、ドン・レオ・ジョナサンらと抗争。1976年4月の『第3回ワールド・リーグ戦』に再び来襲するが、前年のような活躍は果たせなかった。

帰国後、黒覆面のザ・ハングマンThe Hangman)を名乗って太平洋岸のNWAロサンゼルス地区に出現。1976年9月にチャボ・ゲレロを破ってアメリカス・ヘビー級王座を獲得し、10月にはロディ・パイパーと組んでアメリカス・タッグ王座も奪取。ミル・マスカラスとのマスクマン対決も行っている。1977年には素顔のネイル・グアイ名義でテキサス州のアマリロ地区にも遠征し、ドリー・ファンク・ジュニアとも対戦した。

以降もLAを主戦場に、1977年5月からはベビーフェイスに転向してキース・フランクス(後のアドリアン・アドニス)と熾烈な抗争を展開。一時はフランクスに覆面を剥がされたが、報復として彼の髪の毛をカットしている。LAではプロフェッサー・タナカやタンク・パットンともアメリカス王座を巡って死闘を繰り広げた。同年8月にはザ・ハングマン名義で新日本の『闘魂シリーズ』に通算3度目の来日。スタン・ハンセン、ブラックジャック・マリガンとの超大型外人トリオの一角として、ハンセンと組んで坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座にも挑戦した。なお、同シリーズにはLAでの盟友ロディ・パイパーも初来日を果たしている。

その後はジャン・ルイJean Louie)のリングネームで素顔となってカナダに戻り、1979年5月にバンクーバーでNWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座を獲得。同年末よりAWAに転戦し、またもや覆面レスラーに変身。スーパー・デストロイヤー・マークII(後のサージェント・スローター)のパートナー、スーパー・デストロイヤー・マークIIIを名乗り、大型マスクマン・チームを結成する。後に仲間割れを起こし、マークII(スローター)はボビー・ヒーナン、マークIII(グアイ)はロード・アル・ヘイズをマネージャーに覆面レスラー同士の抗争も行った。

1980年下期からは覆面を脱いで素顔のザ・ハングマンとしてニューヨークのWWFに進出。フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、ボブ・バックランド、ペドロ・モラレス、ブルーノ・サンマルチノ、リック・マーテルらと対戦、マディソン・スクエア・ガーデンのリングにも登場した。同年8/9、アントニオ猪木も参加したシェイ・スタジアムのビッグ・イベント "Showdown at Shea" にも出場し、同じケベック人のレネ・グレイを相手に勝利を飾っている。11月には新日本の『第1回MSGタッグ・リーグ戦』に、アンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーとして通算4度目の、そして素顔では初の来日を果たす。決勝戦には進めなかったものの、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン組とのスーパーヘビー級タッグ対決は話題を呼んだ。

その後は地元のモントリオールに定着し、クレージー・セーラー・ホワイトとのタッグなどで活動していたが、1986年に引退。1990年代初頭に交通事故で重傷を負って以来、松葉杖歩行を余儀なくされているという。

獲得タイトル

  • NWAアメリカス・ヘビー級王座:2回
  • NWAアメリカス・タッグ王座:1回(w / ロディ・パイパー)
  • NWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座:1回





ジャイアント・シルバ
Giant Silva
1963/7/21

ブラジルのプロレスラー、総合格闘家。元バスケットボール選手。本名はパウロ・セザール・ダ・シウバ。サンパウロ州出身。フリーランス。

格闘技界史上最大の選手というギミックを持つが、バスケットボール選手時代の登録身長は219cmである。また、「格闘技界」にプロレスを含めた場合、これより大きな公称身長を標榜した選手は複数いる。

来歴

ソウルオリンピックとバルセロナオリンピックでバスケットボールブラジル代表として出場した。

その後WWF(現在のWWE)にスカウトされプロレスラーに転向、ドリー・ファンク・ジュニアとトム・プリチャードのコーチを受け、1998年にデビュー。クルガンやゴルガとの怪物ユニット「ヒューマン・オディティーズ」の一員となり、当初はヒール、後にベビーフェイスとしてカイエンタイなどと抗争した。WWF退団後はメキシコのCMLLにも参戦。

2001年9月に蝶野正洋に勧誘され、TEAM 2000のメンバーとして新日本プロレスに参戦した。同じく巨人レスラーのジャイアント・シンとのタッグチームは「クラブ・セブン」と名付けられた(共に身長が7フィート以上のため)。

その後、活躍の場所をDSE主催興行へ移す。2003年12月31日、PRIDE初参戦となったPRIDE 男祭り 2003でヒース・ヒーリングと対戦し、スリーパーホールドで一本負け。

2004年4月25日、PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦のヘビー級GP1回戦で戦闘竜と対戦し、チキンウィングアームロックで一本勝ち。

2004年6月20日、PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUNDのヘビー級GP準々決勝で小川直也と対戦し、グラウンドパンチでTKO負け。

2006年4月2日、PRIDE 武士道 -其の拾-で美濃輪育久と対戦し、グラウンドで膝蹴りを受けTKO負け。

2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!で曙と対戦し、アームロックで一本勝ち。

ハッスルにも高田モンスター軍の一員として参戦している。

マネージャー

  • ザ・ジャッカル
  • ルナ・バション

  



ショーン・ステイジャック/ショーン・スタージャック
Shawn Stasiak
1970/7/21

カナダのプロレスラー。オンタリオ州オークビル出身。本名はショーン・スティピッチShawn E. Stipich)。主にWWE、WCWで活躍した。

父親は第5代WWWF世界ヘビー級王者のスタン・ステイジャック。

来歴

地元の学校でレスリングを習う。その後ドリー・ファンク・ジュニアの下でプロレスを学び、1996年、アメリカ西海岸のインディー団体PCCWにてショーン・ステイジャックの名前でデビュー。

まもなくWWF(現・WWE)と契約し、下部団体OVWを経て1999年4月に前座番組ヒートに登場。この時のリングネームはミートMeat)。同年11月のサバイバー・シリーズではカート・アングルのWWFデビュー戦の相手を務めた。

2000年からはWCWに登場し、カート・ヘニングと「パーフェクト」の称号を巡る抗争を展開(ちなみに、ショーンの父スタン・ステイジャックとカートの父ラリー・ヘニングは、1970年代のWWWFでヒールのトップとして共闘していた)。同年5月にはチャック・パルンボとのタッグチーム "パーフェクト・イベントPerfect Event)" を結成、クロニック(ブライアン・アダムス&ブライアン・クラーク)を破りWCW世界タッグ王座を獲得した。その後も若手軍団ナチュラル・ボーン・スリラーズ(NBT)の一員としてパルンボとのタッグで活動するも、パルンボがショーン・オヘアと組み出してからは敵対するようになる。NBT解散後はマーク・ジンドラックとのタッグでパルンボ&オヘアと抗争した。

WCW崩壊後はWWEと再契約。WCW / ECW連合軍アライアンスのメンバーとなるが、お笑い路線に走ることになる。バトルロイヤルでは真っ先に失格になり、バックステージでもWWE勢に毎回奇襲をかけるが簡単に避けられ自分は壁にぶち当たるといった状態が続く。キャラ的にはマヌケな役が多く、自分は惑星ステイジャックPlanet Stasiak)から来た男だと名乗り、ブロック・レスナーなどを挑発して試合をするが必ず負け、いわゆるジョバーの役割であった。2002年9月に怪我のために解雇される。

現在は指圧師として活動しており、テキサス州ダラスのParker College of Chiropracticに通い、2006年8月カイロプラクティック専門職学位も取得し、 2007年には、テキサス州におけるカイロプラクター開業資格を得る。プロレスラーとして時折試合に出場することもある。

獲得タイトル

WWF / WWE
  • WWEハードコア王座:16回
WCW
  • WCW世界タッグ王座:3回(w / チャック・パルンボ)
その他
  • MCW TV王座:1回




 

大谷 晋二郎
1972/7/21

大谷晋二郎

日本の男性プロレスラー。山口県山口市出身。ZERO1所属(代表)。その性格や戦いぶりから「日本一熱いプロレスラー」と言われる。

来歴

山口県鴻城高等学校時代にレスリングで国体・インターハイともにベスト16の実績を残した。卒業後はアニマル浜口ジムに入門。1992年2月に新日本プロレスに入門し、同年6/25の福島市体育館にて山本広吉(現・天山広吉)戦でデビューを果たした。

デビュー間もない頃から伸びのあるドロップキックとキレのあるジャーマン・スープレックスと十八番である顔面ウォッシュ、そして何よりも先輩レスラーに臆することなく向かっていき、実力では全く歯が立たない大先輩の獣神サンダー・ライガーにもケンカ腰で向かっていく姿勢を見せ、徐々に注目を集める存在となった。

1997年には第5代のジュニア7冠を獲得し、同時にIWGPジュニア初戴冠を果たした。

2000年に海外遠征をし、カナダ・カルガリーで肉体改造後、オールスタープロ認定インターコンチネンタル王座を獲得し、ヘビー級タイトル初戴冠を果たした。

2001年の帰国直後はヘビー級に本格的に転向、凱旋試合となった東京ドーム大会では獣神サンダー・ライガーを遠征先で習得したコブラホールドで失神させ勝利を収めた。以降武藤敬司と行動を共にするが、同年すぐに新日本を離脱し、橋本真也、高岩竜一と共にZERO-ONEを旗揚げ(旗揚げ戦は村上一成に敗北)。同年10月にNOAHのGHCタッグトーナメントに大森隆男とのタッグで参戦するも2回戦で三沢光晴組に敗北。ZERO-ONEでは元FMWの田中将斗と共に「炎武連夢(エンブレム)」を結成し、2002年にはプロレス大賞の最優秀タッグ賞を受賞した。同年には田中とのタッグでROHへも参戦している。また、年に一度「火祭り」リーグ戦を主催している。

2005年にはZERO1-MAXを発足、代表となり、「一所懸命」(「一生懸命」とは異なる)を社是として掲げる。

ZERO1-MAXとDSEが共に興業を展開するハッスルにも参加。ハッスル軍に所属し、当初は大谷晋二郎としての参加であったが、キャプテンこと小川直也から「ハッスルあちち」と命名される。初めは大谷自身も戸惑いを見せたが、その後は本人もいたくお気に入りでリング上で自ら「あちち〜」と叫びながら技をかける様子も見られる。

以前からモンスターKこと川田利明に「お前だんだん江頭2:50に似てきたぞ」と言われていたことから、2005年12月25日のハッスルハウス・クリスマススペシャルに於いて、サプライズゲストで登場した江頭と初対面を果たした。

その後、2007年のハッスルシリーズで高田総統によって洗脳され、高田モンスター軍に転向。以降は「ファイヤーモンスターACHICHI」のリングネームで戦っている。そして現在は、「ハッスル24」でインリン様のイン乳をTAJIRIから奪ってそれを飲んだため、高田モンスター軍の大谷晋二郎となっている。

2006年1月4日かつてのライバル・金本浩二にシングルで圧勝。1/22後楽園ホールにてスティーブ・コリノを破りAWA世界ヘビー級王座を奪取するも、4/1大森隆男に奪われた。7/20火祭り開幕戦で怨敵・村上和成と5年振りに対戦した。

2007年、AWA世界ヘビー級選手権にて王者・大森に挑戦するも、アックスボンバーにて失神。そのまま病院へ搬送され脳震盪・頭部打撲と診断された。

2008年、蝶野の主催するイベントPREMIUMのワンナイトタッグトーナメントでは天山と組み優勝。リング上のマイクで新日本所属時代から常に希望していたG1 CLIMAXへの出陣を表明。

初出場となったG1 CLIMAXでは中西学、井上亘、真壁刀義に勝利。小島聡と引き分け。ジャイアント・バーナード、棚橋弘至に敗れ予選敗退に終わったが、常に会場をヒートアップさせ熱い試合を提供したことが称えられて、週刊プロレス賞とファイティングTVサムライ賞を獲得した。

2008/8/29、永田裕志と9年ぶりの一騎打ちが実現したがバックドロップホールドでフォール負け。

2009/2/27には永田裕志の持つ世界ヘビー級王座へ挑戦し世界ヘビー級王座を獲得したが、その後の靖国神社大会で崔領二に敗戦し防衛に失敗した。

「火祭り」提唱

2001年のZERO-ONE旗揚げに参加しているが、大谷にすれば橋本に歩調を合わせた訳ではなく「新日本で出来なかったことを新団体で実現する」ためである。その1つが「火祭り」の開催であった。「真に熱い奴、プロレスに熱い奴を決めようじゃないか。熱い奴ここに集まれ」との大谷の呼びかけに、団体の内外問わず選手が集まり、毎年1度、真夏(7月末から8月初旬までの約5日間、2001年の第1回大会のみ9月初旬から中旬まで)にリーグ戦が開催される。

その年の火祭りを制した者には“火祭り刀”が与えられる。大谷は過去3度制覇しており、制覇した年はその火祭り刀を自分の試合のリングインの際に携える。

人物

プロレスに対して非常に熱い思いと強い誇りを持っており、プロレスを馬鹿にする・否定する人間を徹底的に嫌う。ニックネームも以前の感情・ハイボルテージ、第1回火祭りを制してからの炎の刃、ハッスルにおけるハッスルあちちと彼の熱さを表現したものばかりである(ギミックだが、ハッスルの実況担当の矢野武からは「彼の体温の平熱は43度です」と紹介される)。

そのため学生プロレスやインディー団体を下に見ていた(新日本プロレス自体がそういう気風であるというのもあるが)時期があった。1994年にみちのくプロレスが新日本プロレスのリングに上がった時は、学生プロレス出身のテリー・ボーイ(現:MEN'Sテイオー)が所属していたこともあり、「プロレスをなめるな!」と敵意むき出しだった。

しかし激戦を繰り広げるうちに次第に評価するようになり、TAKAみちのくとのタッグで最高のコンビネーションを見せたことや、みちのくプロレスに単身参戦し小さい規模ながら地道に地方興行を続ける姿勢に感銘を受け、インディー団体を馬鹿にしていたことを報道陣の前で土下座して詫びている。

また「熱さ」を前面に出す反面、大谷が教育係を務めた真壁刀義によると、後輩に対して「無理を言わない。」「理に適ったことを言う。」といった理知的な一面を併せ持つ。そんな大谷を真壁は尊敬してやまないという。

2003/6/14、大谷の実母が不慮の交通事故で死去したその日も、当日の興業を終えてから病院に向かっている。

自分のコールの際に、片膝を付き、両手で持った火祭り刀を左側にスライドさせ、自分の顔の前で地面に水平になるように持っていく、という決めポーズがある。だが火祭り刀はその年の火祭り覇者の手に渡るため、火祭りを制覇できなかった年は、刀の代わりに会場にいる大谷の親衛隊の幟をリングインの時に拝借し、その幟で決めポーズを行う。

口癖は「プロレスの教科書○○ページに〜〜と書いてある」。内容はプロレスに関するものはもちろん、新潟の子どもへの応援メッセージ(新潟県中越地震が発生した際のもの)、辛さを乗り越えプロレス界のトップとなることを誓う(大谷の母が交通事故のため死去した際のもの)など様々。

いまや大谷の試合に欠かせない、試合中の「しゃべり」だが、若手時代はこれのせいで人気が出ず、ファンがつかなかったらしい(大谷曰く、「感情が高まると自然に出てしまう」)。

2002年7月、第2回火祭りAブロック公式戦の対金村キンタロー戦において、金村が開始ゴング前から場外で先制攻撃を行い、両者がリングインした時にゴングが鳴り、その瞬間に大谷がドラゴン・スープレックスを放ちそのままフォール勝ちとなった。試合時間は何と3秒で、プロレス史上に残る最短試合記録を更新した。このことは翌日発行の東京スポーツ誌の一面を飾った。

2007年からは子供のいじめ問題について、プロレスを武器になくしていこうと取り組んでいる。また、試合後にはお客さんに握手、写真撮影、サインをするなどファンサービスにも取り組んでいる。

2009年に「雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!」(テレビ朝日)の企画「俺たちのゴールデンプロレス」の中の良い話で、ZERO1の「チャリティープロレス」がドキュメンタリー調に放映され、栃木県の田舎でプロレスを見たことのない小学生とその両親らを、小学校の校庭の特設リングで試合を行い無料で招待しようという企画で、大谷はその前日、小学生の家に泊めて頂き試合に臨んだというところまで密着取材をされ、雨上がり決死隊やスタジオゲストから感銘を受け、同番組からブレイクしたプロレスラーとして越中詩郎と共に大谷も名前が挙がった。

また、近年頭髪の後退が進んでおり、負担を和らげるためか、染めていた髪を黒に戻している。

毎年のように、「結婚する」が目標である。

以前から「好きな芸能人は?」の質問には「田所麻美」と答えている。これは大谷が好きな女優の七瀬なつみが昼ドラの「ぽっかぽか」で演じた主演の名前である。

2011/3/6 初の自伝『何度でも立ち上がれ-僕の人生、起き上がりこぼし』(キーステージ21ソーシャルブックス)を出版。 少年時代のプロレスとの出会い、アントニオ猪木との出会いから、家族とのエピソード、最近の社会的活動に至るまで、大谷の半生と思いを書き綴っている。

タイトル歴

ZERO1-MAX
  • 火祭り優勝(4回/2001年・2002年・2005年・2010年)
  • ZERO1 世界ヘビー級王座
新日本プロレス
  • IWGPジュニアヘビー級王座
  • IWGPジュニアタッグ王座 : 2回(&高岩竜一)
WAR
  • WARインターナショナル・ジュニア・タッグ
NWA
  • NWAインターコンチネンタルタッグ
UWA
  • UWA世界ジュニア・ヘビー
WCW
  • WCW世界クルーザー
AWA
  • AWA世界ヘビー
その他
  • オールスタープロモーションズ認定インターコンチネンタル

以下は第5代ジュニア7冠王座として戴冠

  • IWGPジュニアヘビー級王座
  • WWA世界ジュニア・ライトヘビー級王座
  • UWA世界ジュニア・ライトヘビー級王座
  • WWF世界ライトヘビー級王座
  • NWA世界ジュニアヘビー級王座
  • NWA世界ウェルター級王座
  • 英連邦ジュニアヘビー級王座
プロレス大賞
  • 2002年度プロレス大賞 最優秀タッグ賞(&田中将斗)

大谷晋二郎ブログ





岡見 勇信
1981/7/21

日本の総合格闘家。神奈川県藤沢市出身。和術慧舟會東京本部所属。

世界最大の総合格闘技イベントUFCのトップ選手として現在活躍中で、戦績は大きく勝ち越しており、ミドル級で世界トップクラスの選手と目されている。

芸能プロダクションLDHとマネジメント契約している。

概要

長い手足を使ったテイクダウンおよびパウンドを武器としている。リーチは75インチ(約190cm)。

数々の団体への出場経験があり、日本国内戦および対日本人戦においては、いまだ無敗である。

2006年以降はUFCに参戦している。UFCでのニックネーム「サンダー」は、獣神サンダー・ライガーに因んで、「ジュウシン・サンダー」と「ユウシン・サンダー」の語呂が似ていることから付けられた。

来歴

神奈川県藤沢市に生まれ、中学校では陸上部に所属、藤沢翔陵高校で柔道を始めた(最高成績は県大会32位)。卒業後はプロレスラーとなるべく新日本プロレスの入門テストを2度受けたが不合格だった。プロレスラーへの基礎体力作りのため知人に紹介された和術慧舟會に入門、半年後に出場した第4回PRE-PRIDEで優勝を飾り、総合格闘技プロデビューを果たした。デビュー以来才能を開花させ、6連勝を重ね注目を集めた。

2003/3/30のアブダビコンバット日本予選男子88kg未満級で優勝。5/17のアブダビコンバット世界大会では、1回戦でマット・リンドランドと対戦し敗北。10月10日にロシアの総合格闘技イベントM-1に参戦し、アマール・スロエフと対戦するがTKO負け。

2004/2/15、PRIDE 武士道 -其の弐-でPRIDEに初参戦し、桜井隆多に判定で勝利。

2005/11/5、HERO'S初参戦となったHERO'S 2005 in SEOULでイ・ミョンジュと対戦し、タオル投入によるTKO勝ち。

2006/1/20、Rumble on the Rockのウェルター級(-79.5kg)グランプリの1回戦でアンデウソン・シウバと対戦。テイクダウンを奪った直後、グラウンド状態でシウバが岡見の顔を蹴り上げる(ペタラーダ)という反則を犯したため、反則勝ちとなった。準決勝ではジェイク・シールズに判定負けを喫した。その後アメリカのメジャー総合格闘技イベントUFCに参戦。8/26のUFC 62でアラン・ベルチャーを判定で下すと、10/14のUFC 64ではカリブ・スターンズにTKO勝利。続く12/30のUFC 66ではローリー・シンガーにパウンドでギブアップ勝利を収めた。

2007/4/8、UFC 69で、互いにUFC無敗同士のマイク・スウィックと対戦。3-0の判定勝ちを収め、UFC4連勝を飾った。1週間後の4/15、ADCC JAPAN TRIAL(アブダビコンバット日本最終予選)男子88kg未満級で優勝。5月4日のアブダビコンバット世界大会では、1回戦でデミアン・マイアと対戦し敗北(マイアは優勝を果たした)。6/16、UFC 72のメインイベントでリッチ・フランクリンと対戦。善戦するも、判定負けを喫し、UFCデビュー以来の連勝は4でストップした。10/20のUFC 77でジェイソン・マクドナルドと対戦し、判定勝ち。この大会から「サンダー」というニックネームが付けられた。

2008/3/1、UFC 82でエヴァン・タナーと対戦し、2Rに首相撲からの膝蹴りによるKO勝ち。9/6のUFC 88でアンデウソン・シウバの持つミドル級王座への挑戦が決まりかけたが、タナー戦で骨折した右拳の影響で実現しなかった。12/27、UFC 92でディーン・リスターと対戦、3-0で判定勝ちを収めた。

2009/5/24、UFC 98でダン・ミラーとの対戦が決定していたが、膝の負傷で欠場した。10/24、UFC 104でチェール・ソネンに判定負け、UFC2敗目を喫した。

2010/3/31、UFC Fight Night: Florian vs. Gomiでルシオ・リニャーレスと対戦。1Rにリニャーレスの左目尻をカットさせると、2Rに傷がひどくなりドクターストップによるTKO勝ち
。8/1のUFC on Versus: Jones vs. Matyushenkoではマーク・ムニョスを相手に接戦の末2-1の判定勝ちを収めた

2010/11/13、UFC 122でネイサン・マーコートと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。UFC世界ミドル級王座挑戦権を賭けた試合に勝ったことで王座挑戦権を獲得した。UFC戦績は12戦10勝2敗となった。

獲得タイトル

  • 第4回PRE-PRIDEトーナメント優勝(2002年)
  • アブダビコンバット日本予選 88kg未満級 優勝(2003年)
  • アブダビコンバット日本予選 88kg未満級 優勝(2007年)

人物

  • モモという名前の犬(パグ、メス)を飼っており、ブログでも度々話題にする他、格闘技のインタビューであっても頻繁に愛犬の話に触れている。





クリス・マニュエル
Chris Manuel
1987/7/21

アメリカ合衆国の総合格闘家。プエルトリコ出身。アメリカン・トップチーム所属。

来歴

13歳でアメリカン・トップチームに入門。18歳になると、総合格闘技の練習を始めた。

2006/2/3、コスタリカでプロデビュー。

2008/3/26、WEC 33で大沢ケンジと対戦し、判定1-1で引き分けた。

2008年4月、ヒカルド・リボーリオから柔術黒帯を授与された。

2009/3/20、戦極初参戦となった戦極 〜第七陣〜のフェザー級グランプリ1回戦で日沖発と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本負け。





ロード・アルフレッド・ヘイズ
Lord Alfred Hayes
1928/8/8 - 2005/7/21

アルフレッド・ジョージ・ジェームズ・ヘイズAlfred George James Hayes )は、イギリス・ロンドン出身のプロレスラー。

1970年代初頭にアメリカに渡り、現役引退後の1980年代からはWWF(現・WWE)でアナウンサーやインタビュアーを務めた。

来歴

1950年代に英国にてデビュー。柔道の有段者であったことから、当時はジュードー・アル・ヘイズ"Judo" Al Hayes)なるリングネームを用い、正統派のベビーフェイスとして活動していた。1964年にマイク・マリノを破り世界ミッドヘビー級王座を獲得。1968年9月には、当時ヨーロッパを外国人供給ルートとしていた国際プロレスに初来日している。

1970年代に入り、英国貴族のロード・アル・ヘイズ"Lord" Al Hayes)を名乗ってアメリカ・マット界に進出。ファンク・ファミリーが主宰するテキサスのアマリロ地区を主戦場に、キラー・カール・コックスやサイクロン・ネグロと抗争する。タッグでは英国マットで活躍した実績を持つリッキー・スターと組み、1972年8月にボビー・ダンカン&ディック・マードックからNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を奪取した。

その後ヒールに転向し、1974年より中西部のNWAセントラル・ステーツ地区に参戦。ロジャー・カービーらをパートナーに、マイク・ジョージ&ジム・ブランゼルの若手コンビとNWA世界タッグ王座を争った。1976年5月にはNWAルートで全日本プロレスに来日している。

以降はダラスやフロリダを経てAWAに定着し、クラッシャー・リソワスキーとの流血戦やビル・ロビンソンとの英国人同士の遺恨試合を展開。1979年からはトークの才能を活かしてマネージャーに転身、ボビー・ヒーナンとのマネージャー同士の抗争も行われた。1980年にはカナダのモントリオールで旧敵ビル・ロビンソンのマネージャーも担当。1981年にはノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に登場し、クリス・マルコフ&ニコライ・ボルコフのロシア系コンビをコントロールした。

現役引退後の1982年よりニューヨークのWWFにスタッフとして参加。その能弁さを見込まれ、ビンス・マクマホンの全米侵攻が始まった1984年からは、トーク番組『Tuesday Night Titans』にマクマホンの相方役でレギュラー出演。タキシード姿で格式ばったクイーンズ・イングリッシュを話す英国人キャラクターを演じた。WWFではベビーフェイスのポジションに回り、ジェシー・ベンチュラ、ジョニー・バリアント、ボビー・ヒーナンなどヒールのコメンテーターを相手に実況アナウンサーを担当することもあった。

1995年、交通事故で怪我を負いWWFを退団、フルタイムのプロレスリング・ビジネスから引退した。リタイア後はテキサスのダラスに在住していたが、事故の影響で壊疽を起こし片足を切断。2001年のカリフォルニア・アレイ・クラブのOB会には車椅子で出席した。その後は脳梗塞を患い闘病生活を送り、2005年7月21日に自宅にて死去した。76歳没。

獲得タイトル

  • 世界ミッドヘビー級王座:1回
  • NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:2回
  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:2回(w / リッキー・スター、ニック・コザック)
  • NWA世界タッグ王座(セントラル・ステーツ版):2回(w / ブルドッグ・ボブ・ブラウン、ロジャー・カービー)
  • NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / ビッグ・O)
  • ESAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / ミシェル・デュボア)

担当選手

  • ブリット・ビリー・ロビンソン
  • スーパー・デストロイヤー・マークII
  • スーパー・デストロイヤー・マークIII
  • マスクド・スーパースター
  • ニコライ・ボルコフ
  • クリス・マルコフ
  • ハンス・シュローダー
  • キング・ジェームズ・バリアント




 
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