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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/23


 
 


 
 

サンダー杉山
1940/7/23 - 2002/11/22

杉山恒治(すぎやま つねはる)は日本のプロレスラーである。新潟県糸魚川市出身。現役引退後はタレント活動の他、実業家としても成功していた。

経歴

東海高校から同志社大学に入学し柔道部に所属していたが、1年の終わりに部を去る。中京大学の部にコーチ兼特待生としてしばらくいた後に、2年の進級時に明治大学アマチュアレスリング部に編入した。明治大レスリング部入部10日後に開催されたローマオリンピック最終予選でいきなり優勝を飾るが、経験不足を理由にオリンピック出場はならなかった。その後、ヘビー級の選手として全日本学生、全日本選手権を制覇し、東京オリンピックに出場。1965年にアマレスのエリートとして日本プロレスに入団し斎藤昌典(現・マサ斉藤)、草津正武(のちグレート草津)と共に「三羽烏」と称された。

1966/3/4に本間和夫戦でプロレスデビューを果たしたが、新団体の国際プロレス旗揚げに参加する為、同年の夏にグレート草津と共に移籍。その後、武者修行のために渡米。「トーキョー・ジョー」のリングネームでヒールとして北米を転戦し、人気を博す。来日前のアブドーラ・ザ・ブッチャーともコンビを組み、親交を結んでいる。

1968年に帰国後、国際プロレスで必殺技の雷電ドロップを武器に日本人として初めてビル・ロビンソンを破ってIWA世界ヘビー級王座を獲得するなど看板選手として活躍。1972年には全日本プロレスに移籍するも、扱いを巡って団体と揉めて1976年に離脱、フリー宣言をする。上田馬之助と共闘して1976年古巣の国際に特別参戦、また、1978年からはヒロ・マツダを総帥とする「狼軍団」の一員として新日本プロレスにも参戦した。

フリー宣言後は『おはよう!こどもショー』に出演するなどタレント活動の後、名古屋で「サンダー杉山コーポレーション」(現在の「サンダー杉山ベンディングサービス」)を創立し、飲食業や自動販売機設置などの経営者として実業界でも成功した。また全日本プロレスは名古屋興行の際に選手の宿舎として杉山経営のホテルを利用していた時期もあった。

しかし、現役時代から患っていた持病の糖尿病が悪化し、肝臓病や胃癌も併発。入退院を繰り返すようになり、右手首と両足の切断にも追い込まれた。しかし病室からメールで業務指示を出し、ビジネスへの情熱は最後まで衰えることはなかった。2002年11月22日に入院中の病院で心不全により死去。享年62。

丸っこい体格から繰り出す雷電ドロップの印象が強く、パワフルでユーモラスなファイトスタイルと捉えられることが多いが、アマレスで鍛えた素地は非常に高いレベルにあったといわれ、ビル・ロビンソンも好敵手の一人として杉山の名を挙げている。また、1968年にはルー・テーズのTWWA世界ヘビー級王座に挑戦し一本取っているが、テーズは「杉山のテクニックには光るものがあった」「基礎のできたグッド・レスラー」と評価している(別冊宝島179『プロレス名勝負読本』)。125kgから130kgの肥満型の体型でありながら動きはよく、ドロップキックやフライングヘッドシザースなども器用にこなした。また、ヒロ・マツダに次ぐ、日本人としては二人目のジャーマン・スープレックス・ホールドの使い手だった。

獲得タイトル

  • IWA世界ヘビー級王座
  • IWA世界タッグ王座(w / グレート草津、ラッシャー木村)
  • TWWA世界タッグ王座(w / 豊登)

出演映画

  • 刑事物語
  • 皇帝密使

出演番組

  • おはよう!こどもショー(日本テレビ)
  • 底ぬけ脱線ゲーム(日本テレビ)
  • ハテナゲーム(NHK総合)
  • ザ・コップ
  • 新・大江戸捜査網 第3話(通算第643話)「からくり極悪絵図」(1984年) - 巨漢
  • 武蔵坊弁慶
  • 誇りの報酬 第25話「あの美女は誰だ!?」(日本テレビ)
  • 大河ドラマ「秀吉」(NHK) - 穴山梅雪

 
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水前寺狂四郎
1968/7/23

1990年代にデビューしたプロレスラー。西日本プロレス、後に世界のプロレスに所属。





山元 真由美
1969/7/23

身長165cm、体重63kg、血液型O型。広島県大竹市出身。
1989/12/6、真岡市民体育館において、対久保木寿江戦





斉藤 和枝
1969/7/23

さいとう かずえ。神奈川県横浜市出身。身長165cm、体重62kg、血液型O型。
1989/12/7、磐田市体育館において、対渡辺智子戦

来歴

プロ入り前はレスリングの選手として名門代々木クラブで全日本オープン3位などの実績を残し、プロデビュー後も大会に出場した。女王飯島(現姓・成国)晶子(現エスオベーション)とは3度対戦していずれもフォール負け。

1989/12/7、静岡・磐田市体育館において、対渡辺智子戦でデビュー。

1992年3月20日引退。フロント入りした。


  



マンモス佐々木
1974/7/23

本名:佐々木嘉則(ささき よしのり)は、大阪府大阪市旭区出身で東関部屋所属の元大相撲力士、日本のプロレスラー。FREEDOMS所属。現在は埼玉県さいたま市大宮区在住。大相撲時代の四股名は浪速嘉則(なみはや よしのり)。

来歴

1995年1月場所に東関部屋から初土俵を踏み、四股名を若佐々木、浪速と改名し、横綱・曙の付き人も務めた。最高位は三段目98枚目。大相撲時代の体格は、身長184cm、体重119kg。

相撲廃業後はFMWに入団。1997/12/8の愛知県岡崎市体育館興行での対中川浩二戦でプロレスデビュー。

FMW所属レスラーとして名を馳せていたが、そのFMW解散のあと、2002年より、WMFの看板選手として活躍。2003年には、天龍源一郎と出会い、彼との対戦は有名で、その際マンモスは天龍を「固い、固い岩だった」と語っている。WMF退団後は、アパッチプロレス軍のメンバーに。

その後大日本プロレスにてシャドウWXをパートナーに迎え、重量級タッグ「チームあんこ型」を結成。BJW認定タッグ王座への挑戦を要求し続け、遂に2006年、そのタッグ王座を賭けてチャンピオン「マッスル&ファットです。」(アブドーラ小林、関本大介)との対戦が実現。シャドウWXが関本を垂直落下式ブレーンバスターで退け、遂にBJW認定タッグ王座に輝いた。その後は12/3横浜文体で関本大介・佐々木義人組に敗れるまで4度の防衛戦に勝利。

一方でアパッチ主催興行では、関本大介とのパワーファイター対決を繰り広げ、インディー屈指の名勝負とも言われるようになる。2007年以降は関本とチームを組むこともあり、7月には関本と中西学との抗争に関連した6人タッグマッチにも、大日本サイドとして参加。

BJWタッグベルト陥落を機に、2007年にシングルプレーヤーへの転向を決断。2/2小島聡と対戦、大健闘するも敗北。2/4真壁刀義の持つWEWヘビー級王座に自身に有利な金網デスマッチルールで挑戦したが敗北した。その後、抗争を繰り広げていた井上勝正の要請に応え、関本・佐々木義人のBJWタッグベルトに再挑戦したが、こちらも敗北した。しかし、9/23アパッチ後楽園大会にて、再度新日本に流出してしまったWEWヘビー級ベルトを矢野通から奪還。2008/7/12に石井智宏に敗れるまで、5回の防衛に成功。WEWヘビー陥落直後も自らの申し出により、KAIENTAI-DOJOに流れたBJWタッグ王座奪還に関本大介と共に成功した。

2009年大日本最侠タッグリーグにチャンピオンチームとして参戦中の2/28に、交通事故に巻き込まれ頸椎挫傷の怪我を負ってしまい、体調を憂慮した大日本側から以後の試合出場を見合わせられる。結果的にリーグ戦途中棄権になってしまったことに責任を感じた本人の意思でBJWタッグ王座を返上した。

療養中に、所属しているアパッチプロレス軍が解散。後に佐々木貴や葛西純は新団体「プロレスリングFREEDOMS」を旗揚げするが、療養中である事を理由に入団を保留した。

2010/3/10、FREEDOMS大会のリングに登場し復帰を宣言。6/21FREEDOMS後楽園大会、関本大介とのシングル戦にて復帰を果たした後、7/1付けで、FREEDOMSに正式入団。

タイトル歴

  • WEWヘビー級王座
  • WEWハードコア王座
  • WEWハードコアタッグ王座
  • WEWタッグ王座
  • BJW認定タッグ王座

入場曲

  • FMWのテーマ(リミックス)




 
須佐 エリ
1993/7/23

出身地/東京都足立区◆スポーツ歴/合気道、軟式テニス





ペロ・アグアヨ・ジュニア/エル・イホ・デル・ペロ・アグアヨ
1979/7/23

ペドロ・アグアヨ・ラミレスPedro Aguayo Ramírez)は、メキシコ・メキシコシティ出身のプロレスラー。

来歴

  • 1995/6/18 当時父が所属だったAAAにてペリートのリングネームでデビュー。
  • 1998/6/7 父と組んでフェルサ・ゲレーラ、モスコ・デ・ラ・マ-セド(ロコ・バレンティノ)組を破りメキシコナショナルタッグチーム王座奪取。
  • 1999/4/18 ブルー・デーモン・ジュニア、ラ・パルカ・ジュニア、マスカラ・サグラダ・ジュニア(現在のムエルテ・ロハ)(ロス・ジュニアズ)と組んでチャーリー・マンソン、ピクード、メイ・フラワーズ、ニグマ(ロス・バトス・ロコス)組を破りナショナルアトミコス王座を奪取。
  • 2000年3月 父の引退ツアーで新日本プロレスに来日。
  • 2002/4/21 エレクトロ・ショックを破りメキシコナショナルライトヘビー級王座を奪取。
  • 2003年5月 CMLLに移籍。
    • 同年8/8 エル・イホ・デル・サントと組んでブルー・デーモン・ジュニア、ニチョ・エル・ミジョナロ(シコシス)組を破りWWA世界タッグチーム王座を奪取。
  • 2004年 レジェンダ・デ・プラタを優勝。
  • 2005/8/16 ウルティモ・ゲレーロと組んでエル・イホ・デル・サント、ネグロ・カサス組を破り2度目のWWA世界タッグチーム王座を奪取。
  • 2006年 CMLLトルネオ・グラン・アルタナティバを優勝(パートナーはミステリオッソ2号)。
  • 2007/2/16 ミステル・アギラ、エクトール・ガルサと組んでアトランティス、タルサン・ボーイ、ウルティモ・ゲレーロ組を破りCMLL世界タッグチーム王座を奪取。
  • 2008/1/31 エクトール・ガルサと組んでドクトル・ワグナー・ジュニア、ショッカー組を破り3度目のWWA世界タッグチーム王座を奪取。
    • 同年11月 CMLLを退団。12月にはダミアン666等と新団体ペロス・デル・マールを旗揚げした。
  • 2010年6月 自身の団体と平行してAAAにも参戦。

タイトル歴

  • メキシコナショナルタッグチーム王座
  • ナショナルアトミコス王座
  • メキシコナショナルライトヘビー級王座
  • WWA世界タッグチーム王座
  • CMLL世界タッグチーム王座





キラー・トーア・カマタ/ドクター・モト
"Killer" Tor Kamata
1937/3/9 - 2007/7/23

アメリカ合衆国のプロレスラー。ハワイ州ホノルル出身。カナカ人の血を引くとされる。

選手時代は悪役レスラーとして活躍し、流血大王の異名を持つ。実弟のコーア・ティキもプロレスラーで、1972年7月に新日本プロレスに来日したことがある。

来歴

同じハワイ出身のプロレスラーであるキング・イヤウケアに誘われて1958年にプロレス入り。スポーツ歴としてはレスリング、アメリカンフットボール、ハワイ相撲の経験があるという。なお空手については「ナカソネという日本人にほんの少し教えてもらっただけ」とのこと。

デビュー当時はハワイの日系人レスラーミスター・モトに倣って日系人ギミックを用い、ドクター・モトDr. Moto)のリングネームで活躍。ミツ荒川とタッグチームを結成し、1967/12/2にはシカゴでウイルバー・スナイダー&パット・オコーナーからAWA世界タッグ王座を奪取している。

1970年代に入ってトーア・カマタTor Kamata)に改名(「カマタ」はより日本人らしく見せるためのネーミングギミック。「トーア」は「東亜」より取ったといわれているが、スペルからすると“巨大な岩山”という意味合いである)。日系ヒールとして派手な着物をまとい、ニューヨークのWWWFやカナダのカルガリー地区を転戦した。カルガリーでは同タイプのアブドーラ・ザ・ブッチャーと流血の抗争を展開。ニューヨーク地区ではあまりの反則・暴走が目に余るため、トップコンテンダーにもかかわらず当時の王者ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦させてもらえなかったという逸話を残している。WWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーに、ニコライ・ボルコフともタッグを組んでいた。また、キング・カマタKing Kamata)のリングネームでニュージーランドにも遠征し、キラー・カール・クラップやオックス・ベーカーと組んでタッグ王座を獲得している。

日本には1975年5月に国際プロレスに初来日。以降、1977年6月まで3回に渡って国際のリングに参戦し、ラッシャー木村とIWA世界ヘビー級王座を巡って激闘を繰り広げた。木村のIWA世界タイトルには計5回挑戦しており、金網デスマッチでも雌雄を決した。

1978年5月、全日本プロレスに参戦し、6/1に秋田県・秋田市立体育館でジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦。38回もの連続防衛記録を重ねていた馬場を破り、第2代のPWF王者となる(カマタの反則攻撃に怒った馬場の暴走による反則勝ち)。しかし6/12の愛知県・一宮市での初防衛戦でビル・ロビンソンに敗れて王座転落。同年10月9日にロビンソンにリターンマッチを挑むが失敗、その後も王者に返り咲いた馬場に2度に渡って挑戦したが王座奪回は果たせなかった。

世界最強タッグ決定リーグ戦には1979年には大木金太郎、1978年後半戦と1980年には因縁のアブドーラ・ザ・ブッチャーと組んで参加しており、1980年にはジャイアント馬場&ジャンボ鶴田、ザ・ファンクスと並んで最後まで優勝戦線に残っている。1979年のチャンピオン・カーニバルでは公式戦でブッチャーと対戦して引き分けているが、カルガリー時代のような抗争アングルは組まれず、全日本ではブッチャーのパートナーとして女房役に回った。なお、1981年に馬場・鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦するためのパートナーとして帯同したグレート・マーシャルボーグは、昭和プロレス史上でも一・二を争う「食わせ物選手」として名を残している。

1980年代前半に心臓に不安要因が見つかり減量、最後の来日を果たした1987年に現役を引退した。日本には国際・全日本を合わせ計16回来日している。1980年のWWF参戦時にはボブ・バックランド、ダスティ・ローデス、ペドロ・モラレス、パット・パターソンら当時の新日本プロレス系の選手と対戦したが、団体間の紳士協定のため新日本に来ることはなかった。

2007年7月23日、カナダ・サスカチュワン州サスカトゥーンにて心臓発作のため死去。70歳没。

エピソード

  • 国際プロレス参戦時、杉浦滋男(東京12チャンネルアナウンサー)の胸ぐらを掴み、実況席からゴボウ抜きにしたことがある。
  • プロレスファンからも存在が忘れられていた1989年、当時の人気バラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげです』のコーナードラマ『仮面ノリダー』において、カマタをモデルとした「トーア・カマタ男」が登場。ノリダーの敵役の怪人として石橋貴明が演じた。これによりプロレスファン以外の知名度も高まり、放送局だったフジテレビにより本人招聘も企画されたが、相談を受けた全日本プロレス側の「当人の体調面(心臓疾患の容態)の心配や痩せ衰えた外見によりファンのイメージを損ねる恐れがある」との見解から実現には至らなかったという。
  • 流智美のインタビューにおいて、自身のキャリアにおけるラフェスト・マッチ(もっとも荒っぽかった試合)としてブッチャー戦を挙げている。
  • 強面(こわもて)の外見とは違って、普段は物静かでビーズ細工を作るのが趣味だったという。
  • 好物は天ぷらとたくあん。
  • 作家の町田康は、カマタがジャイアント馬場からPWFヘビー級王座を奪取した1978年当時「腐れおめこ」というバンドを組んでおり、『馬場はカマタに負けよった』なる曲を歌っていた。

獲得タイトル

  • AWA世界タッグ王座:1回(w / ミツ荒川)
  • PWFヘビー級王座:1回
  • WWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版):1回(w / フレッド・ブラッシー)
  • NWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版):1回(w / カマラマラ)
  • NWAサザン・タッグ王座:1回(w / トージョー・ヤマモト)
  • NWAオーストラジアン・タッグ王座:3回(w / バロン・フォン・クラップ、オックス・ベーカー、ジェネラル・ヒロ)
  • NWAハワイ・ヘビー級王座:1回
  • WWCプエルトリコ・ヘビー級王座:1回
  • スタンピード北米ヘビー級王座:3回

 etc.








 
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