キラー・トーア・カマタ/ドクター・モト
"Killer" Tor Kamata
1937/3/9 - 2007/7/23
アメリカ合衆国のプロレスラー。ハワイ州ホノルル出身。カナカ人の血を引くとされる。
選手時代は悪役レスラーとして活躍し、流血大王の異名を持つ。実弟のコーア・ティキもプロレスラーで、1972年7月に新日本プロレスに来日したことがある。
来歴
同じハワイ出身のプロレスラーであるキング・イヤウケアに誘われて1958年にプロレス入り。スポーツ歴としてはレスリング、アメリカンフットボール、ハワイ相撲の経験があるという。なお空手については「ナカソネという日本人にほんの少し教えてもらっただけ」とのこと。
デビュー当時はハワイの日系人レスラーミスター・モトに倣って日系人ギミックを用い、ドクター・モト(Dr.
Moto)のリングネームで活躍。ミツ荒川とタッグチームを結成し、1967/12/2にはシカゴでウイルバー・スナイダー&パット・オコーナーからAWA世界タッグ王座を奪取している。
1970年代に入ってトーア・カマタ(Tor
Kamata)に改名(「カマタ」はより日本人らしく見せるためのネーミングギミック。「トーア」は「東亜」より取ったといわれているが、スペルからすると“巨大な岩山”という意味合いである)。日系ヒールとして派手な着物をまとい、ニューヨークのWWWFやカナダのカルガリー地区を転戦した。カルガリーでは同タイプのアブドーラ・ザ・ブッチャーと流血の抗争を展開。ニューヨーク地区ではあまりの反則・暴走が目に余るため、トップコンテンダーにもかかわらず当時の王者ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦させてもらえなかったという逸話を残している。WWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーに、ニコライ・ボルコフともタッグを組んでいた。また、キング・カマタ (King
Kamata)のリングネームでニュージーランドにも遠征し、キラー・カール・クラップやオックス・ベーカーと組んでタッグ王座を獲得している。
日本には1975年5月に国際プロレスに初来日。以降、1977年6月まで3回に渡って国際のリングに参戦し、ラッシャー木村とIWA世界ヘビー級王座を巡って激闘を繰り広げた。木村のIWA世界タイトルには計5回挑戦しており、金網デスマッチでも雌雄を決した。
1978年5月、全日本プロレスに参戦し、6/1に秋田県・秋田市立体育館でジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦。38回もの連続防衛記録を重ねていた馬場を破り、第2代のPWF王者となる(カマタの反則攻撃に怒った馬場の暴走による反則勝ち)。しかし6/12の愛知県・一宮市での初防衛戦でビル・ロビンソンに敗れて王座転落。同年10月9日にロビンソンにリターンマッチを挑むが失敗、その後も王者に返り咲いた馬場に2度に渡って挑戦したが王座奪回は果たせなかった。
世界最強タッグ決定リーグ戦には1979年には大木金太郎、1978年後半戦と1980年には因縁のアブドーラ・ザ・ブッチャーと組んで参加しており、1980年にはジャイアント馬場&ジャンボ鶴田、ザ・ファンクスと並んで最後まで優勝戦線に残っている。1979年のチャンピオン・カーニバルでは公式戦でブッチャーと対戦して引き分けているが、カルガリー時代のような抗争アングルは組まれず、全日本ではブッチャーのパートナーとして女房役に回った。なお、1981年に馬場・鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦するためのパートナーとして帯同したグレート・マーシャルボーグは、昭和プロレス史上でも一・二を争う「食わせ物選手」として名を残している。
1980年代前半に心臓に不安要因が見つかり減量、最後の来日を果たした1987年に現役を引退した。日本には国際・全日本を合わせ計16回来日している。1980年のWWF参戦時にはボブ・バックランド、ダスティ・ローデス、ペドロ・モラレス、パット・パターソンら当時の新日本プロレス系の選手と対戦したが、団体間の紳士協定のため新日本に来ることはなかった。
2007年7月23日、カナダ・サスカチュワン州サスカトゥーンにて心臓発作のため死去。70歳没。
エピソード
- 国際プロレス参戦時、杉浦滋男(東京12チャンネルアナウンサー)の胸ぐらを掴み、実況席からゴボウ抜きにしたことがある。
- プロレスファンからも存在が忘れられていた1989年、当時の人気バラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげです』のコーナードラマ『仮面ノリダー』において、カマタをモデルとした「トーア・カマタ男」が登場。ノリダーの敵役の怪人として石橋貴明が演じた。これによりプロレスファン以外の知名度も高まり、放送局だったフジテレビにより本人招聘も企画されたが、相談を受けた全日本プロレス側の「当人の体調面(心臓疾患の容態)の心配や痩せ衰えた外見によりファンのイメージを損ねる恐れがある」との見解から実現には至らなかったという。
- 流智美のインタビューにおいて、自身のキャリアにおけるラフェスト・マッチ(もっとも荒っぽかった試合)としてブッチャー戦を挙げている。
- 強面(こわもて)の外見とは違って、普段は物静かでビーズ細工を作るのが趣味だったという。
- 好物は天ぷらとたくあん。
- 作家の町田康は、カマタがジャイアント馬場からPWFヘビー級王座を奪取した1978年当時「腐れおめこ」というバンドを組んでおり、『馬場はカマタに負けよった』なる曲を歌っていた。
獲得タイトル
- AWA世界タッグ王座:1回(w / ミツ荒川)
- PWFヘビー級王座:1回
- WWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版):1回(w / フレッド・ブラッシー)
- NWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版):1回(w / カマラマラ)
- NWAサザン・タッグ王座:1回(w / トージョー・ヤマモト)
- NWAオーストラジアン・タッグ王座:3回(w / バロン・フォン・クラップ、オックス・ベーカー、ジェネラル・ヒロ)
- NWAハワイ・ヘビー級王座:1回
- WWCプエルトリコ・ヘビー級王座:1回
- スタンピード北米ヘビー級王座:3回
etc.
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