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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/25


 
 


 
 

ホイッパー・ビリー・ワトソン
"Whipper" Billy Watson
1917/7/25 - 1990/2/4

ウィリアム・ジョン・ポッツWilliam John Potts)は、カナダのプロレスラー。オンタリオ州トロント出身のアイルランド系カナダ人。ニックネームは「鞭打男」。身長177cm、体重102kg。実の息子もプロレスラーで、ホイッパー・ビリー・ワトソンJr.を名乗って活動した。

来歴

1936年、英国にてデビュー。1947/2/21、ミズーリ州セントルイスでビル・ロンソンを破り第35代NWA世界ヘビー級王者となる。2か月後王座をルー・テーズに奪われるも、1956/3/15、地元トロントでテーズを破り第39代王者にカムバック。同年11月王座転落。全身68箇所を骨折しながら、なお第一線で活躍していたことは有名。未来日。


 
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ジャガー横田
1961/7/25

ジャガー横田

本名:木下 利美(きのした りみ)、旧姓:横田 )は、日本の女子プロレスラー。東京都荒川区出身。血液型はB型。左利き。所属事務所はシンクバンク。

経歴

デビュー

4人姉妹の末娘として誕生。荒川区立尾久西小学校、荒川区立第七中学校卒業(小・中学校の後輩に伊集院光がいる)。卓球で淑徳高等学校に推薦入学が内定していたが、家庭の経済的負担を軽減すべく全日本女子プロレス入りする。ちなみにそのときの動機は「これなら私にもできそう」だったという。

最古参女子レスラー

身長160cmという女子レスラーとしては恵まれない体格の持ち主ながら、その気迫迫るファイトは「女子プロレス界一のストロングスタイル」と評され、これまでに初代全日本シングル王者、第29代・31代WWWA世界シングル王座など数々のタイトルを所持している。

なお1990年代には吉本興業企画の女子プロレス軍団『吉本女子プロレスJd'』に所属、若手を指導する。現在は現役最古参女子レスラーとして各女子プロレス団体のリングに上がるとともに、フリーの立場で各団体の後輩の指導に当たる。

ジャガーY

2005/11/3に横浜アリーナで行われた「ハッスル・マニア2005」で、ハッスル軍と戦うモンスター軍に、女豹のようなメイク&コスチュームに身を包んだ、ジャガー横田を思わせる名前とルックスを持つ謎の女「ジャガーY」が現れたが、ジャガー横田との関係は不明である。話すときは語尾が「〜ニャ」となる。

プライベート

結婚

2004年7月に、年下の医師(医学博士でリングドクター)で、現在は所沢胃腸病院などに勤務の医師や鎌倉女子大学教授を務める木下博勝と結婚。「究極の勝ち組結婚」として世間を賑わす。

その後も『徹子の部屋』、『踊る!さんま御殿!!』、『クイズ$ミリオネア』、『はなまるマーケット』『メレンゲの気持ち』『いい旅・夢気分』『オールスター感謝祭』等数々の人気番組に夫婦で出演し、揃ってお茶の間の人気者となっている。

出産

2006年5月に妊娠が判明。40歳を過ぎてからの高齢出産であるということも相まって、マスコミに大きく取り上げられた。同年11/29(現地時間、日本では11月30日)にハワイホノルルの病院で自然分娩にて男児を出産。

2007年には、年内中にリングに復帰する意向を表明した。この一連の出来事は、朝日新聞朝刊の連載(2006年12月26日開始)「患者を生きる」の妊娠・出産編にて特集「不屈のジャガー」(全6回)で連載された。

タレント活動

  • 日本テレビ系『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』では、主婦代表として夫婦で出演している。
  • 1998年2月に日本テレビ系『スーパージョッキー』の「熱湯コマーシャル」に宣伝のために出演。熱湯クエスチョンのエッチな質問に大激怒し、そのナレーションをしていた日本テレビアナウンサーの菅谷大介に手を挙げながらも無理矢理自分の目の前に連れて来させ、その場でクエスチョンを読ませた。その後菅谷の顔面を熱湯に突っ込んだり、菅谷の体ごと熱湯に入れたりする等の暴挙にでた。
  • ラジオの文化放送「寺島尚正 ラジオパンチ!」金曜日レギュラーだが、不定期にテレビの裏番組のフジテレビ『森田一義アワー 笑っていいとも!』にゲスト出演することもある。
  • 2007年6月放送分の日本テレビ系『行列のできる法律相談所』に夫の木下と共にゲスト出演した際、司会の島田紳助に「40歳で結婚」したことを弄られ、とっさに横田が「まるで生き遅れたみたいな言い方して」と反論したが、紳助に「まるで私は生き遅れてないみたいな言い方ですよ」と捲し立てられた。その後も「40歳のジャガー、野生のジャガーやったら死んどるぞ」と紳助に暴言を吐かれた。また、夫の木下は同じくゲスト出演し、隣の席に座っていた上戸彩にデレデレした様子だった。

著書

    

音楽 


愛のジャガー
愛のジャガー


愛のデュエット
愛のデュエット



テレビドラマ  

  • 新大江戸捜査網 第22話「恐怖! 妖女軍団」(1984年9月1日、テレビ東京) - おまさ

ジャガー横田






KENSO
1974/7/25

 KENSO

鈴木 健想(すずき けんぞう)は、日本の男性プロレスラーである。本名および旧リングネームは鈴木 健三(読み同じ)。愛知県碧南市出身。レプロエンタテインメント所属。

経歴

プロデビュー以前

刈谷北高校を経て、帝京大学から英国留学を挟んで明治大学に編入、明治大学ラグビー部に在籍し大型ロックとして活躍。1995年より2年連続で大学日本一を経験し、1997年にはラグビー日本代表チームの一員に選出されたということが一般的に紹介されるが、これは日本代表A(日本代表の予備軍、通称ジャパンAである)の合宿に呼ばれたものである。大学卒業後は、東海テレビにUターン就職(営業部勤務)したが退社し、1999/4/1、新日本プロレスに入団した。

新日本プロレス

2000年1月4日の中西学戦で、鈴木健三としてデビュー。坂口征二の後輩であり、また当時の現場監督だった長州力のプッシュを受けたこともあり、同年、第8回ヤングライオン杯をデビューわずか4か月にして制し、プロレス大賞新人賞を受賞した。

2001年に、棚橋弘至とともにタッグチームキング・オブ・ザ・ヒルズ (King Of The Hills、略称 KOTH)を結成。俗に棚橋(タナハシ)と健三(ケンゾウ)で通称タナ・ケン・コンビとも称された。その後、キング・オブ・ザ・ヒルズに佐々木健介、ブルー・ウルフを加えたメンバーでスウィング・ロウズ(SWING-LOWS)を結成。さらには、リングネームを鈴木健三から鈴木健想(読みは同じ)に改名した。

WJプロレス〜WWE

2003年にWJプロレスに移籍。同年、大学の同窓でアナウンサーだった水野浩子と結婚。

2004年からは同団体を退団。活動拠点をアメリカに移し、TNAにスポット参戦した後、WWEに登場する。WWEでは当初「ヒロヒト」というリングネームで、アメリカに太平洋戦争の復讐をしようとする日本人のギミックが与えられる予定であった。当初は北斎・海舟・尊氏・雷電などのリングネームが用意されていたが、同団体社長のビンス・マクマホンがヒロヒトに決めてしまった。その後、登場予定のスマックダウンではこの名前で登場予告プロモが流された。昭和天皇を連想させるようなこのギミックに対し浩子がWWE首脳部に抗議したことからギミックは変更になり、本名のケンゾー・スズキとしてリングに立つことになった。

また抗議した浩子もWWE首脳に注目され、結果ディーヴァ「ゲイシャガール」として共にデビュー、活躍することとなった。

スマックダウンでは、フランス系カナダ人(ギミック上はフランス人)のレネ・デュプリとの異色タッグチームで活躍。また反米ギミックから親米ギミックに変わったり、トリー・ウィルソンに熱をあげて浩子とトリー・ウィルソンの対決ストーリーを演出したりもした。

2005年7月にロウに移籍するが、以前から健想サイドが要求していた、年間120日の休暇+賃上げ交渉が決裂。ケガも負ってしまい、WWEを解雇された。

ハッスル

2005年には、ハッスルと契約。同年11/3には、ハッスル・マニアにて試合を行い、日本マットに復帰した。「アメリカでホウキを相手にしてもプロレスがやれることを学んできた」の言葉通り、和泉元彌の空中元彌チョップの前に敗れるも、プロレス初経験となる非レスラーを相手に「プロレスの試合」を成立させた。その後、同年12月のハッスルハウスでは、AKIRA&ミスター鬼瓦、ライオセイザー&ライザーグレンと対戦するも、いずれも敗北。

2006年2月に藤井軍鶏侍相手にハッスルでの初白星を挙げた。3月シリーズでは川田利明に負けたことにより、モンスター軍入り。お笑いタレントのRGと対戦、2分ほどで勝利を収めるも、最終戦では、HG相手のタッグマッチで妻の浩子ともども下着姿にされた上に敗れるという屈辱的な姿を晒す。4月のハッスル16でも坂田亘を終始圧倒しながらリングサイドの浩子にエアプレーンスピンで回している坂田の足が当たり、呆然としている隙に丸め込まれ、浩子はサゲマン呼ばわりされてしまう。

WWE時代から続くウルティモ・ドラゴンとの関係からDRAGON DOORにも登場。ドイツのローカル団体で試合を行い、メキシコのCMLLにも参戦するなど、世界各地で活躍する。

メキシコ

ハッスルとの契約も切れ、メキシコCMLLを中心に活動。同時に、日本のインディー団体の祭典"レッスルエクスポ2006"では、DDTプロレスリングの高木三四郎との電流爆破マッチが決定する。元祖電流爆破大仁田厚への訪問、ユニオンプロレス、大日本プロレスなどのマットに参上。停電等のアクシデントもありながらも高木から勝利をとる。

2006年11月にはメキシコの英雄ミル・マスカラスの復活祭で、対戦相手に選ばれた。

2007年3月、CMLLからライバル団体であるAAAに移籍。7/15に行われたAAA最大の興行であるトリプレマニアでは、日本人としては初めてメイン戦を務め、名実ともにメキシコのトップレスラーとして活躍。

2007年11月、DRAGON GATEにマッスル・アウトローズの一員として短期間参戦。

2009年、日本のリングに縁のある、オリエンタル、SUGIで「ラ・ヤクザ」を結成。

2010年、AAAと契約更改せず、日本へ帰国。

全日本プロレス

2010/7/25、全日本プロレスにVOODOO-MURDERS(以後VMと表記)の一員としてKENSO(ケンソウ)を名乗り乱入、欠場中で解説席に居た武藤敬司を流血に追いやった。同年8月29日両国大会では、VMの仲間に助けられつつもザ・グレート・ムタにダブル・ニー・ドロップで勝利した。試合後に、全日本プロレスとの3年契約を結んだことを発表し、今後も継続して参戦していくことになった。

9/20の後楽園ホール大会では、レネ・デュプリとの元WWEタッグ王者コンビで、曙・太陽ケアの持つ世界タッグ王座に挑戦したが、失敗している。10/10の後楽園ホール大会で行われた浜亮太と河野真幸のシングルマッチにおいてヒールファイトに目覚めた河野を、VMの総帥TARUの許可なくVMに勧誘し獲得した。TARUもその後は追認している。『2010世界最強タッグ決定リーグ戦』はそのKONOとの大型日本人タッグで出場。反則・乱入・凶器攻撃などあの手この手で勝利を挙げ、ついには決勝戦まで進出。決勝戦では諏訪魔・浜亮太組を下して優勝をした。しかし、この頃からヒールとして不可解な発言・行動をとるようになり、ほかのVMのメンバーとの溝ができていく。

2011/1/3後楽園ホール大会ではKONOとのタッグで世界タッグ王座に再挑戦するも、試合中のKONOと空中分解し敗退。KENSOは自らが勧誘したKONOの手によってVMを追放されることになった。

その後、同じく元VMで現在VMと対立するゾディアックとタッグチームを結成する。

逸話・エピソード

  • 2002/2/1 北海道立総合体育センターで、猪木が新日本の現状を問うた際、鈴木は「僕には自分の明るい未来が見えません」と答え、観客の失笑を買った。猪木からも「自分で見つけろ」とあしらわれ、それ以来、迷セリフとしてしばしばネタにされる。
  • WWEへの参戦は、新日本入団直後のカナダ修行でWWEを観て以来の憧れだったからだと語る。なお、WJプロレスへの移籍はアメリカに行かせてもらう約束をしてくれたからだったが、給料未払いをきっかけに夫婦で渡米することになる。
  • リングネームの件では鈴木も日本の背景を説明しながら、「ヒロヒト」でショーを行ったら誰かに刺されるのでは、とビンスに語ったところ「世界にニュースになるな。お前はもっとスターになる。お金も使わなくていい」と答えたという。しかし最終的には鈴木夫妻の主張を取り入れた。なお、プロモ放送の次の日には日本の政府関係筋からもストップがかかったとか。
  • 雑誌「TIME」で「世界で活躍する日本人」の中で唯一のプロレスラーとして掲載されたこともある(ちなみに鈴木の上に掲載されていた日本人は葛飾北斎だった)。
  • 浩子ともども、浩子の実家に彼女の両親と同居していたため、リングでファンから「マスオさん」コールがおこることもしばしばあった。
  • 師の坂口征二は新日本の会長を退く際「心残りは北尾光司、小川直也、鈴木健想を育てきれなかったこと」と新聞社のインタビューで発言している。
  • 尊敬している外国人レスラーはミック・フォーリーとコメントしている。

タイトル歴

全日本プロレス
  • 世界タッグ王座 - 第59代(パートナーはグレート・ムタ)
  • 世界最強タッグ決定リーグ戦 - 2010年優勝(パートナーはKONO)
WWE
  • WWEタッグ王座 - 1回(&レネ・デュプリ)
新日本プロレス
  • ヤングライオン杯争奪リーグ戦 - 2000年優勝
  • プロレス大賞 - 2000年新人賞





エル・ソロ/ソロ
1975/7/25

ヘスス・クリストバル・マルネティネス・ロドリゲスJesus Cristóbal Martínez Rodriguez)は、メキシコ・ハリスコ州グアダラハラ出身の男性プロレスラー

来歴

1993/10/2ハリスコ州サポパンで行なわれた「プラザ・デ・トロス・ホセ・リベラ」でマスクマン・ネウロシスでデビュー。その後オシデンテライトヘビー奪取。セサル・ダンテスにコントラ・マッチで破れ素顔になる。後にプロモ・アステカにエル・ソロのリングネームで登場。タルサン・ボーイと組んでWWOタッグを奪取。またWWFにも参戦。AAAに参戦。2001年10月にはUWA世界ライトヘビー級奪取。2006年からは鉄仮面のマスク被ったギミックで登場。

その後もルード軍団「La Legion Extranjera」のメンバーとして活躍。2008年に「レイ・デ・レイエス」優勝。同年6月にエル・メシアスの持つAAA世界ヘビー級王座に挑戦も敗退、また12月に再び挑戦も敗退。2010年12月にドクトル・ワグナー・ジュニアの持つAAA世界ヘビー級王座に挑戦し奪取。

2011年2月にTNAと未契約ながら、所属レスラーとして在籍することが決定。

獲得タイトル

  • メキシカンナシオナルヘビー級王座 : 4回
  • オクシデンテライトヘビー級王座
  • WWOタッグチーム王座
  • IWAライトヘビー級王座
  • UWA世界ライトヘビー級王座 : 4回
  • AAA世界ヘビー級王座

  



西尾 由佳理
1977/7/25

日本テレビのアナウンサーである。千葉県市川市出身。身長161cm。血液型はO型。
2003/12/24に開催されたプロレスリングノア・クリスマス大会で日本テレビの女性アナウンサーとして初のプロレス実況を担当




 
プリンス・デヴィット
Prince Devitt
1981/7/25

本名:ファーガル・デヴィットFergal Devitt)は、新日本プロレス所属のプロレスラー。アイルランド・ダブリン出身。

来歴

少年時代は10年間サッカーに熱中。テレビでプロレス観戦したのをきっかけにダイナマイト・キッドに憧れ、1995年に15歳で英国NWAのトレーニングを始める。2001年2月に8人タッグ戦でデビュー。2005年10月に英連邦王座を獲得し、同年11月末に米ロサンゼルスの新日本道場に入門。その後、サイモン猪木社長のスカウトにより2006年3月正式に新日本プロレスに入団した。同年4/16、改めてヤングライオンとして再デビュー。

その後は、C.T.Uを経てRISEに入り、2008/1/27に稔とのタッグチーム「プリンス・プリンス」でTAKAみちのく・ディック東郷が所持するIWGPジュニアタッグに挑戦し、第19代ジュニアタッグ王座を獲得したものの獣神サンダー・ライガー・AKIRA組に敗れ王座から陥落。同年7月、ライガー・AKIRA組と再戦し、勝利を果たし第21代ジュニアタッグ王者に載冠。

2009年、田口隆祐とのタッグチーム“Apollo 55”を結成し、ジュニアタッグ王者アレックス・シェリー・クリス・セイビン組に挑戦。これに勝利し、第24代ジュニアタッグ王座を獲得した21日には、ミラノコレクションA.T.、タイチの“ユニオーネ”相手に初防衛を果たし9月にはモーターシティマシンガンズと再戦を行い勝利し2度目の防衛に成功した。

11月に行われたG1 TAG LEAGUEではApollo 55でエントリー。スピード溢れる連携を駆使して数々のヘビー級タッグチームと互角に張り合い、Bブロック2位で通過。準決勝では中邑真輔、矢野通組を撃破し決勝進出。決勝でジャイアント・バーナード、カール・アンダーソンと対決するも、あえなく敗戦。しかし、ジュニアながらも準優勝という大健闘を見せ付けた。

11/29、ZERO1の天下一Jr.に初参戦。外敵ながら優勝候補と称され、決勝に進出するも日高郁人に敗れ準優勝に終わる。12/4に金本浩二、吉橋伸雄組とタイトルマッチを行い3度目の防衛に成功。

12月にはSUPER J-CUP5th STAGEにエントリー。1回戦で青木篤志を撃破し、2回戦の男色ディーノには惑わせられながらも勝利し、決勝でプロレスリング・ノア所属の丸藤正道と対戦。最後はポールシフトで敗れたものの、互いに抜群の身体能力の高さを誇り、屈指の名勝負を繰り広げた。

2010年1月4日ではCMLLの刺客として送られたアベルノ、ウルティモ・ゲレーロ組と対戦。両者派手な技、アピールとスピード駆使して最後はブラックホールバケーションで勝利。4度目の防衛に成功。

2/14に5度目の防衛戦として邪道、外道が挑戦する予定だったが、邪道が2週間前の試合で頸椎を負傷するアクシデントのため、外道は急遽ディック東郷を連れて挑戦(当日、入場テーマ曲が鳴るまで誰が登場するのか分からなかった)。最後はブラックホールバケーションで外道を黙らせ5度目の防衛に成功。試合後、Apollo 55のセコンドについていたミラノがリングに上がり外道にトラース・キックを発射させ、共に喜びを分かち合った。

2010年春にはそれまでの合宿所住まいから独立したため、他の外国人レスラー同様の契約選手に移行している。

2010年6月にBEST OF THE SUPER Jr.を初めて制する。同大会の前に実家に帰っていたところ、アイスランドの火山噴火の影響で日本行きの飛行機が飛べず(2010年のエイヤフィヤトラヨークトルの噴火による交通麻痺)、直前まで大会への参加そのものが危ぶまれる中での勝利だった。そして優勝者に与えられるIWGPジュニアヘビー級王座挑戦権を早速行使し、6/19にチャンピオンの丸藤正道と対戦。通算3度目の対戦で初めて勝利し、同王座を新日本プロレスに取り戻した。

2010/10/11、新日本両国大会では飯伏幸太&ケニー・オメガの「ゴールデンラヴァーズ」と戦いIWGPジュニアタッグ王座防衛に失敗するも、プロレス大賞「ベストバウト賞」に選ばれた。プロレス大賞ベストバウトにJr.ヘビー級タッグ戦が選ばれたのは史上初。

2011/1/23、新日本後楽園大会で、田口と組み飯伏&オメガ組のIWGPジュニアタッグ王座に再戦。同王座を奪還に成功する。

入場テーマ曲

  • You're The Best Around / KARATE KID(サントラ)

獲得タイトル

  • IWGPジュニアヘビー級王座:(第60代)
  • IWGPジュニアタッグ王座:5回(第19代、第21代、第24代、第26代、第28代)
    パートナーは稔(第19代、第21代)、田口隆祐(第24代、第26代、第28代)
  • BEST OF THE SUPER Jr 優勝:1回(2010年) 準優勝:1回(2009年)
  • G1 TAG LEAGUE 2009 準優勝(パートナーは田口隆祐)
  • 天下一Jr. 2009 準優勝
  • SUPER J-CUP 5th STAGE 準優勝
  • SUPER J TAG TOURNAMENT 1st 準優勝(パートナーは田口隆祐)
  • J SPORTS CROWN 2010 優勝(パートナーは田口隆祐・後藤洋央紀)













 
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