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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/27


 
 


 
 

大山 倍達
1923/7/27 - 1994/4/26

武道家・空手家であり、国際空手道連盟総裁・極真会館館長。極真空手十段。韓国名は崔 永宜

1970年代に週刊少年マガジンに連載された劇画『空手バカ一代』でも、主人公として取り上げられた。

生涯

全羅北道 金堤郡(現:金堤市) 龍池面 臥龍里にて、父・崔承玄(チェ・スンヒョン、최승현)と母・金芙蓉(キム・ブヨン、김부용)との間の6男 1女の第4子として生まれた。他にも崔猛虎(チェ・メンホ、최맹호)・大山猛虎・大山虎雄・崔倍達(チェ・ペダル、최배달)などを名乗っていたこともある。1964年(昭和39年)に日本国籍に帰化した後の日本名が大山倍達。大山の姓は、書生として住み込んでいた大山家(大山茂、大山泰彦の実家)の恩義から名乗ったとする説があり、日本名にも使った「倍達」とは、檀君神話に登場する伝説上の古代王朝、倍達国から。朝鮮民族は「倍達の民」「倍達民族」を美称として使うことがある。

日本国籍と外国籍をしている二重国籍者である。

幼少期は満州と朝鮮半島で育ち、16歳で山梨県の山梨航空機関学校(現日本航空高等学校)に入学、石原莞爾の東亜連盟に参加、軍人を志すが、卒業する前に終戦となった。その後、卒業。拓殖大学司政科卒業。早稲田大学高等師範部体育科(のちの早稲田大学教育学部体育専修)中退。

1938年(昭和13年)9月に空手道を松濤館流の船越義珍に師事、その後松濤館流と剛柔流を主に学ぶ。終戦後は千葉を中心に民族運動に参加したとする説もある。また、「山篭り」で空手修行に励んだともいう。短期間ではあるが、1956年(昭和31年)に大東流合気柔術の吉田幸太郎から合気柔術とステッキ術も学んだ。その他、講道館柔道を曾根幸蔵九段に、・ボクシングをピストン堀口にそれぞれ師事。

1946年(昭和21年)6月に俳優の藤巻潤の実の姉である智弥子と結婚。このときの媒酌人は田中清玄。3人の女の子(留壹琴・恵喜・喜久子)をもうける。


1947年(昭和22年)に京都で開催された戦後初の空手道選手権で優勝、1952年(昭和27年)にプロ柔道の遠藤幸吉四段と渡米、1年間ほど滞在して全米各地で在米のプロレスラーグレート東郷の兄弟という設定(Mas. Togoのリングネーム)で空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラーやプロボクサーと対決したとされる。ビール瓶の首から上の部分を手刀打ちで切り落とした時、観客は驚嘆し、「Hand of God」「Miracle Hand」などと形容された]

帰国後、牛を倒し(合計47頭、うち4頭は即死)、その映像は映画『猛牛と戦う空手』1954年(昭和29年)として公開された。

多くの武道家と交流し、また世界各国を巡りさまざまな格闘技を研究、空手の指導を行い、直接打撃制の空手(極真空手-フルコンタクト空手)を作り出した。

目白の自宅の野天道場、池袋のバレエスタジオ跡の大山道場を経て、1964年(昭和39年)国際空手道連盟極真会館を設立し、数々の名だたる弟子・名選手を輩出している。多くのフルコンタクト系各流派を生み出す元ともなった。

豪快で情に厚い人物であったという。

1994年(平成6年)4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。70歳没。

大山の危急時遺言で、韓国にも戸籍上の妻と三人の息子がいることが判明した。


牛を一撃で倒した男
大山倍達
牛を一撃で倒した男 大山倍達


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大山倍達
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大山倍達正伝
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実録!! 極真大乱
大山倍達の死と、
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グレッグ・ガニア
Greg Gagne
1948/7/27

本名:Gregory Alan Gagneは、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ミネソタ州ロビンズデール出身。

「AWAの帝王」と呼ばれたバーン・ガニアの息子であり、AWAのブッカーとしても活動した。

来歴

キャリア初期

父親であるバーン・ガニアのトレーニングを受け、1972年に父が運営するAWAにてデビュー。トレーニング・キャンプの同期には、リック・フレアー、ケン・パテラ、コシロ・バジリらがいた(デビュー後はフレアーとの試合が頻繁に組まれ、両者は親友の間柄になったという)。

翌1973年9月には当時AWAと提携していた国際プロレスに初来日。『第5回lWAワールド・シリーズ』に出場したものの、キャリア不足のために白星配給係に甘んじた(リーグ戦の決勝はラッシャー木村とブラックジャック・マリガンで争われ、木村がマリガンを下し優勝している)。

ハイ・フライヤーズ

1976年、同期のジム・ブランゼルとハイ・フライヤーズThe High Flyers)を結成。1977/7/7にブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンからAWA世界タッグ王座を奪取したが、翌1978年9月にブランゼルが負傷し防衛戦を行えなくなったことにより王座を剥奪された。

以降はシングルプレイヤーとしての活動を続け、ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦。また、当時バーン・ガニアと良好な提携関係を結んでいたビンス・マクマホン・シニアのWWFにもゲスト参戦し、1980/8/9にニューヨークのシェイ・スタジアムで行われたビッグ・イベント "Showdown at Shea" にも出場している。

1981年からはAWAに復帰したブランゼルとハイ・フライヤーズを再結成。同年6/14、イースト・ウエスト・コネクション(ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニス)を破りAWA世界タッグ王座に返り咲く。以降1983/6/26にザ・シークス(シーク・アヤトーラ・ブラックウェル&ロレンス・オブ・アラビア)に敗れるまで、2年間に渡ってタイトルを保持した。

この間の1982年5月、AWA世界タッグ王者チームとしてブランゼルと共に全日本プロレスに参戦。6/8の蔵前国技館大会ではリッキー・スティムボート&大仁田厚を相手に防衛戦を行っている。王座陥落後の1984年4月にもブランゼルとのハイ・フライヤーズで全日本に再来日し、PWF世界タッグ王座の決定リーグ戦に出場した。このときの来日では、ジャンボ鶴田(同年2月にニック・ボックウィンクルを破り載冠)のAWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。

AWA末期

ブランゼルのWWF移籍後は1985年にブルーザー・ブロディと単発抗争。サージェント・スローターのパートナーとなりコンバット・スタイルに変身したこともあった。また、ブッカーとしてオフィス業務も兼任、1986年にはミッドナイト・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)をブッキングし、ベテラン中心だったAWAの選手層を若返らせ、女性ファンや子供ファンの動員を図った。

しかし当時のAWAは、全米侵攻を進めるWWFとのレスリング・ウォーで苦戦を強いられ、観客数が年々激減。興行の規模も選手の顔ぶれも最盛期と比べ大幅にスケールダウンしていく中、グレッグはブッカー兼務の主力ベビーフェイスとしてカート・ヘニングやラリー・ズビスコら新AWA世界王者との抗争を続けた。1987年12月には旧敵アドリアン・アドニスを破り、ESPNでの放送用に新設されたAWAインターナショナルTV王座の初代チャンピオンとなっている。

1989/10/1、空位となっていたAWA世界タッグ王座の争奪トーナメントにポール・ダイヤモンドと組んで出場、デストラクション・クルー(ウェイン・ブルーム&マイク・イーノス)との決勝戦に臨んだが、試合に乱入してきたコキーナ・マキシマスの攻撃により足を負傷して引退。以降はオフィス業務に専念しつつ、放送席でのカラー・コメンテーターも担当したが、AWAは1991年に活動を停止した。

AWA以降

AWA崩壊後、1990年代半ばにAWA時代の部下でもあったエリック・ビショフの仲介でWCWのブッキング・コミッティに参画していたが、ビショフとの間に軋轢が生じて解雇されている。

アトランタからミネソタに戻ると、ブルーミントンにて友人の経営する三菱自動車の販売代理店に勤務。AWAでのブッカー時代に培ったマーケティング・ノウハウを活かし、売上拡大に貢献したという。以後、しばらくプロレスリング・ビジネスから離れることとなった。

2006年、父バーン・ガニアのWWE殿堂入りが決定し、4月1日にイリノイ州ローズモントで行われた顕彰セレモニーにてインダクター(プレゼンター)を担当。バーン共々、公の場に久々に姿を見せた。以降はフルタイムのロード・エージェントとしてWWEと契約、6月からはOVWやDSWなど当時の下部団体にてブッカーやトレーナーも務めたが、9月にWWEを解雇された。

近年は自動車販売代理店に復職してマネージャーを務める一方、旧友のジム・ブランゼルらと共にプロレスリング・スクール "Gagne Wrestling Association" を運営、後進の指導・育成にあたっている。

獲得タイトル

  • AWA世界タッグ王座:2回(w / ジム・ブランゼル)
  • AWAインターナショナルTV王座:2回





"ザ・レイジング・ブル" マニー・フェルナンデス
"The Raging Bull" Manny Fernandez
1954/7/27

エマニュエル・フェルナンデスEmmanuel Fernandez)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州エル・パソ出身のメキシコ系アメリカ人。

日本では「マニー・ルナンデス」と表記される場合もあるが、スペリングの通り、本項では原音に近い表記に準ずる。

来歴

少年期にエル・パソからカリフォルニア州のサンノゼに移住し、ハイスクール時代はアメリカンフットボールとレスリングで活動。大学入学前にUSネイビーシールズに入隊し、ベトナム戦争に従軍。除隊後はウエスト・テキサス州立大学(現ウェスト・テキサスA&M大学)にてフットボールを再開し、NFLのカンザスシティ・チーフスにも所属していたが、当時テキサス州アマリロでプロレス団体(NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ)を運営していたザ・ファンクス、ディック・マードック、ブラックジャック・マリガンに出会い、彼らに触発されてプロレスラーとなる。

1977年のデビュー後はエディ・グラハムが主宰するフロリダのCWFを主戦場に、ベビーフェイスのポジションで活躍。1979年10月にはテリー・ファンクからNWAフロリダ・ヘビー級王座を、1981年にはバロン・フォン・ラシクから同TV王座を奪取した。故郷のテキサスではサンアントニオのSCWにて同じメキシコ系のチャボ・ゲレロとコンビを組み、ジノ・ヘルナンデス&タリー・ブランチャードのダイナミック・デュオと世界タッグ王座を争った。

日本には1983年8月に全日本プロレスの『スーパー・パワー・シリーズ』に初来日。「まだ見ぬ強豪」の一人として注目されたものの、テリー・ファンクの引退試合に話題が集中し、ザ・ファンクス、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、キラー・トーア・カマタ、同じく初来日のテリー・ゴディなど豪華メンバーが集結した同シリーズにおいてはインパクトを残すことはできなかった。

1984年からはノースカロライナのミッドアトランティック地区に定着。フロリダCWF時代からの盟友ダスティ・ローデスのパートナーとなり、同年10月20日にイワン・コロフ&ドン・カヌードルから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取した。その後はワフー・マクダニエルとの抗争を経て、1986年よりヒールに転向。ポール・ジョーンズをマネージャーにリック・ルードとタッグチームを結成し(入場テーマ曲はクイーンの『ウィ・ウィル・ロック・ユー』)、12/6にロックンロール・エクスプレスを破り再びNWA世界タッグ王座を獲得。ロード・ウォリアーズとも同王座を巡る抗争を展開した。

NWA離脱後の1987年10月、新日本プロレスに初参戦。以降も新日本の常連外国人選手となり、翌1988年7月の来日からはバズ・ソイヤーとのコンビで活躍した。1989/12/31には新日本が主催した旧ソビエト連邦のモスクワでの興行にも出場し、サルマン・ハシミコフの母国凱旋試合の相手を務めている。

1980年代終盤は末期のAWA、1990年代初頭はプエルトリコのWWCで活動。以後はセミリタイアし、トレーナーとなって後進の指導・育成に着手。教え子にはロン・キリングス(K・クイック、R・トゥルース)、ネルソン・エラーゾ(ホミサイド)などがいる。近年はノースカロライナに居住し、各地のインディー団体に単発出場している。

獲得タイトル

NWAフロリダ(CWF)
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回
  • NWAフロリダTV王座:1回
NWAセントラル・ステーツ
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
NWAミッドアトランティック
  • NWAブラスナックル王座(ミッドアトランティック版):1回
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):2回(w / ダスティ・ローデス、リック・ルード)
SCW
  • SCWサウスウエスト・ブラスナックル王座:1回
  • SCWサウスウエスト・ヘビー級王座:1回
  • SCWサウスウエスト・タッグ王座:2回(w / チャボ・ゲレロ、アル・ペレス)
  • SCW世界タッグ王座:1回(w / チャボ・ゲレロ)
CWA
  • CWAインターナショナル・ヘビー級王座:1回
WWC
  • WWC北米ヘビー級王座:1回
  • WWCプエルトリコ・ヘビー級王座:1回
APW
  • APWユニバーサル・ヘビー級王座:1回





ドインク・ザ・クラウン/マット・ボーン
Doink the Clown/Matt Borne
1957/7/27

マシュー・オズボーンMatthew Wade Osborne)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ペンシルベニア州エルウッド・シティ出身。

WWEに登場する()のオリジナル版として知られる。

来歴

日本では「ゴリラ男」の異名で呼ばれた "タフ" トニー・ボーンことアンソニー・オズボーンの息子であり、父のトレーニングを受けて1980年にデビュー。同年6/2、NWAのジム・クロケット・プロモーションズにて若手時代のバズ・ソイヤーと組み、ジミー・スヌーカ&アイアン・シークを破りミッドアトランティック・タッグ王座を獲得した。

その後、トニー・ボーンも主戦場としていた太平洋岸北西部のNWAパシフィック・ノースウエスト地区に参戦し、1981/4/29にバディ・ローズからパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を奪取。同地区では当初はベビーフェイスのポジションだったが、1982年より "マニアック" マット・ボーン"Maniac" Matt Borne)を名乗ってヒールに転向、リップ・オリバーをパートナーにロッキー・ジョンソン&キング・パーソンズやラリー・ヘニング&カート・ヘニングとタッグ王座を争った。

以後はアメリカ南部を転戦し、ビル・ワットの主宰するMSWAではテッド・デビアスやハクソー・ジム・ドゥガンとラット・パックRat Pack)なるユニットを結成。1982年10月27日、デビアスとのコンビでジャンクヤード・ドッグ&ミスター・オリンピアからミッドサウス・タッグ王座を奪取している。1983年はアーン・アンダーソンと新チームのデストラクション・インクDestruction Inc.)を結成し、ジム・バーネットの運営するNWAジョージア地区で活動した。

1985年2月より、ヒールのジョバーとしてWWFに登場。3/31にMSGにて開催された『レッスルマニア』の第1回大会にも出場し、リッキー・スティムボートの対戦相手を務めた。翌4/22のMSG定期戦では、日本から遠征してきた藤波辰巳とも対戦している。同年6月には新日本プロレスに初来日。以降も中堅外国人のポジションで1980年代末まで新日本に度々来日した。

1986年からは新日本のブッキングでテキサス州ダラスのWCWA(旧WCCW)に参戦、9/1には旧友バズ・ソイヤーとのコンビでクリス・アダムス&ランス・フォン・エリックをトーナメントの決勝で破り、WCWA世界タッグ王座の初代チャンピオン・チームとなった。WCWAがテネシー州メンフィスのCWAと合併して1989年よりUSWAが発足すると、後継タイトルのUSWA世界タッグ王座にもジェフ・ジャレットと組んで戴冠。シングルでは、USWAの認定王座となったテキサス・ヘビー級王座を1990/5/25にケリー・フォン・エリックから奪取している。

1991年、ビッグ・ジョッシュBig Josh)なるランバージャック・ギミックのベビーフェイスとしてWCWに登場。同年8/5、ダスティン・ローデス&トム・ジンクとのトリオでファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ、ジミー・ガービン、バッドストリート)を破りWCW世界6人タッグ王座を獲得、1992/1/14にはロン・シモンズと組んでUSタッグ王座にも戴冠したが、成功には至らなかった。

1992年末にWWFと再契約し、翌1993年1月より、ピエロの扮装とフェイス・ペイントを施したヒール、ドインク・ザ・クラウンDoink the Clown)に変身して『マンデー・ナイト・ロウ』に出現。登場当初はリングサイドや花道に現れて観客を相手に悪ふざけをするだけだったが、次第にベビーフェイスの試合に干渉するようになり、子供に人気のあったクラッシュとの抗争がスタート。4月4日の『レッスルマニアIX』では2人目のドインクに扮したスティーブ・カーンの介入でクラッシュから勝利を収めた。ジェリー・ローラーとも共闘し、8/30の『サマースラム1993』では当時ローラーと抗争していたブレット・ハートと対戦。この試合での敗戦によりローラーと仲間割れしてベビーフェイスに転向するも、薬物(コカイン)の乱用が発覚して1993年末にWWFを解雇された。以後、ベビーフェイス版のドインク・ザ・クラウンはスティーブ・ロンバルディなどのジョバーが扮することとなった。

翌1994年はECWに参戦。WWF時代と同様にドインクのリングネームとギミックを用いて数試合を行った後、シェーン・ダグラスと結託し、"マニアック" マット・ボーンへの回帰とキリスト教の「新生」とのダブル・ミーニングであるボーン・アゲインBorne Again)に改名。コスチュームは変わらないものの、フェイス・ペイントは右眼の周囲だけに施して素顔を表し、サイコパス系のヒールに転じたが短期間で離脱している。以降はリングネームをマット・ボーンに戻してインディー団体を転戦。1996年11月にはドインク・ザ・クラウンとしてWARに来日、後楽園ホールにて怨霊とのペイントレスラー対決を行った。

セミリタイア後は2005/8/27、地元のペンシルベニアで開催されたリユニオン・イベント "WrestleReunion" にオリジナル・イーヴィル・クラウンThe Original Evil Clown)を名乗って登場、スティーブ・コリノ、アンドリュー "テスト" マーチン、マスクド・スーパースターと組み、ダスティ・ローデス、トム・プリチャード、ディーロ・ブラウン、ブルー・ミーニーとの8人タッグマッチに出場した。近年もインディー団体にてドインクのギミックを復活させており、2010/5/8にはラット・パック時代の盟友ハクソー・ジム・ドゥガンとのレジェンド対決がニューヨークのPWS(Pro Wrestling Syndicate)にて行われている。

なお、2000年代よりWWEでドインク・ザ・クラウンが単発的に復活しているが、2003年7月にニコラス・ディンスモアが演じた以外は正体が明らかにされていない。しかし、2007/12/10のWWE『ロウ』15周年記念特番のバトルロイヤルに出場したドインクは、オリジナルのマット・ボーンともされている。

獲得タイトル

ジム・クロケット・プロモーションズ
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / バズ・ソイヤー)
パシフィック・ノースウエスト・レスリング
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:1回
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:4回(w / スティーブ・リーガル×2、リップ・オリバー×2)
MSWA
  • ミッドサウス・タッグ王座:1回(w / テッド・デビアス)
WCWA / USWA
  • WCWA世界タッグ王座:2回(w / バズ・ソイヤー、ジェフ・ジャレット)
  • USWA世界タッグ王座:2回(w / ジェフ・ジャレット)
  • WCWA / USWAテキサス・ヘビー級王座:2回
WCW
  • WCW世界6人タッグ王座:1回(w / ダスティン・ローデス&トム・ジンク)
  • WCW USタッグ王座:1回(w / ロン・シモンズ)

  



渡嘉敷 勝男
1960/7/27
日本の元プロボクサー、タレント。沖縄県沖縄市出身、兵庫県宝塚市育ち。協栄ボクシングジム所属。元WBA世界ライトフライ級チャンピオン。





トリプルH
Triple H
1969/7/27

(、本名:ポール・マイケル・レヴェックPaul Michael Levesque)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。

WWE所属。正式のリングネームはハンター・ハースト・ヘルムスリーHunter Hearst Helmsley)だが、頭文字をとってトリプルHと略して表記、呼称される(J SPORTSのWWE系番組の字幕では、HHHと表記されていた)。ニューハンプシャー州ナシュア生まれ。公式プロフィールではコネチカット州グリニッチ出身。

D-Generation X後期、2000年夏頃、2002年前半(大腿四頭筋断絶による長期欠場から復帰した直後)などの一時期を除いては、一貫してヒールレスラーであり、ヒールにとっては勲章とも言える観客から浴びるブーイングは他のレスラーと比べ物にならないほど多かった(そしてまた、その裏に込められた賞賛の意も)。現在はWWEのトップベビーフェイスの1人である。レスラーとしての実力も当然一級品でリック・フレアーの後継者を自認しており、特に相手の技を受けた時の動き(受身)にはついては「芸術」とも評される。

ニックネームは「残忍な知能犯 or 知的な暗殺者 (Cerebral Assassin)」「ザ・ゲーム (The Game)」「王者の中の王者 (The King of Kings)」など。

来歴

初期

1986年に高校 (Nashua High School) 卒業後、地元のスポーツジムにトレーナーとして就職。共同マネージャーにまで出世する一方、14歳から始めたボディビルディングに努め、1988年にはアマチュア・ボディビルディングのタイトルである「ティーンエイジ・ミスター・ニューハンプシャー」を獲得した。

1992年からキラー・コワルスキーのもとで修行。プロレスのトレーニングを開始して3週間後の同年3月、コワルスキー主宰のインディー団体IWFでテラ・ライジング (Terra Ryzing) のリングネームでデビューし、半年後には同団体の王座を獲得した。

1994年からはWCWに所属。登場当初はIWF時代と同じくテラ・ライジングの名義でリングに上がっていた。その後、没落したフランス貴族の末裔と称し、リングネームをジャン=ポール・レヴェック (Jean-Paul Levesque) と改名。英国貴族を称する"ロード" スティーブン・リーガル(現ウィリアム・リーガル)とタッグチームを結成し、ヒールのポジションで頭角を現した。なお、フランス貴族のキャラクターは、彼の本名 "Levesque" がフランス系の名前だったことに起因している。

同年12月には年間最大のPPV『スターケード』にも出場し、第2試合でアレックス・ライトとのシングルマッチが組まれた。また、リーガルとのコンビでWCWタッグ王者となる路線も用意されるなど、WCWでの出世の道も開かれつつあったが、WWF(現:WWE)のトライアウトを受けて合格し、翌1995年からWWFに移籍した。

WWF/1995-2001

WWFでは1995年5月に、コネチカット州の似非貴族のギミックでデビュー。リングネームもハンター・ハースト・ヘルムスリー (Hunter Hearst Helmsley) に改名した。当初はアーカンソーの養豚農夫をギミックにしていたヘンリー・O・ゴッドウィンと抗争を展開。試合中に豚の餌を頭からぶちまけられたり、会場内に特設された豚小屋で戦ったりと、現在では考えられないような汚れ役を演じていた。翌年のWrestleMania XIIではアルティメット・ウォリアーの対戦相手としてレッスルマニア初出場。バックステージではクリックのメンバーとなり、5/19のカーテンコール (Curtain Call) と呼ばれる事件をきっかけにマネージメントの怒りを買ったが、10月には初のIC王座を獲得。1997年、キング・オブ・ザ・リングでの優勝後、ショーン・マイケルズ、チャイナと共にD-ジェネレーションX(略称DX)を結成、一気にトップレスラーの仲間入りを果たした。略称のトリプルHで呼ばれるようになったのもこの頃からである。

翌1998年、WrestleMania XIV後、腰の負傷のためリングから離れなければならなくなったマイケルズに代わり、リーダーとなって第二期DXを結成(構成メンバーはチャイナ、Xパック、ビリー・ガン、ロード・ドッグ)。その後、DXは次第にベビーフェイス的人気を得るようになったが、トリプルH自身はDXの事実上の解散を期に1999年にヒールに転向、WWF世界ヘビー級王座戦線に参入してライバルザ・ロックらとの抗争に入る。8/23にはマンカインドを下しWWF世界ヘビー級王座を初戴冠。WWF社長ビンス・マクマホンと抗争を開始し、彼に王座を奪われるも王座決定戦を制し奪回に成功。11/14"ビッグ・ショー" ポール・ワイトによって再び王座から陥落するが、11/29、まだ清純派だったステファニー・マクマホンとストーリー上強引に結婚し、ビンスとの遺恨をさらに深める。翌月ステファニーが父を裏切りトリプルHと組んだことで、いわゆる「悪の夫婦」が誕生しWWFにおける支配体制を確立した。2000年1月ビッグ・ショーを下し王座を奪回、2月にはカクタス・ジャックとしてのフォーリーをハードコア戦で激闘の末退け防衛、WrestleMania 2000のメインイベントでもWWF女子王者となったステファニーと共にロック、フォーリー、ビッグ・ショーの4人を相手に王座を守り切った。その後も勢いは止まらず王座を巡りロック、更には妻ステファニーの『不倫相手』カート・アングルと激しい抗争を展開、9月からはもう一人のWWFの絶対のヒーロー、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンとの抗争を繰り広げ、2001年のスリー・ステージ・オブ・ヘル戦ではWWE史に残る名勝負を演じた。WrestleMania X-Sevenでは前年5月以来の因縁を引きずるジ・アンダーテイカーに挑戦して敗れるも、これは名勝負揃いの同大会中でも出色の試合であった。しかし完全にWWFの顔となり全てがうまく行っているかに見えたが、5/21のRAWにてオースチンとのタッグでクリス・ベノワ&クリス・ジェリコ組を相手にタッグ王座の防衛戦中、左脚の大腿四頭筋を断裂する重傷を負い、長期欠場を余儀なくされた。

2002-2006

2002年1月、ロイヤルランブルのロイヤルランブル戦で復帰、優勝を果たしWrestleMania X8での王座挑戦権を獲得。2月には遂にステファニーと『離婚』し、レッスルマニアでは彼女と組んだクリス・ジェリコを下し、WWF統一ヘビー級王座を獲得。同年のブランド分割時には王者であったためどちらの番組にも属さず、7月にショーン・マイケルズの誘いでRAWを選択する。後日、マイケルズからDXの再結成を持ちかけられるが、突如彼に襲い掛かると絶縁を宣言、サマースラムではマイケルズの復帰戦の相手を務めた。翌日のRAWでアンダーテイカーを下しWWE王座への第一挑戦者権を獲得したが、WWE王座がスマックダウンの管轄になったために、9/2エリック・ビショフからWCW王座の系譜を汲む新設の世界ヘビー級王座初代王者に認定される。以降は同王座戦線の絶対的な主役として脅威の強さを見せる。

2003年、リック・フレアー、バティスタ、ランディ・オートンと共にヒールのユニットとして自らの派閥エボリューションを結成。しかし若手の2人が相次いで怪我で長期欠場したため、すぐにフレアーと2人で行動することになった。RAWでの中心的存在であり続けたが、この頃はどちらかといえば不遇の時期であるといえる。というのはスコット・スタイナー、ブッカー・T、ケビン・ナッシュやゴールドバーグ等元WCWのメインイベンターたち、タイプ的には不器用な選手ばかりが相手であり、彼の技術を持ってしても名勝負は生まれなかった。アンフォーギヴェンで一旦ゴールドバーグに王座を奪取されるが、バティスタとオートンの復帰と時を同じくしてアルマゲドンのトリプルスレット戦で再び王座に就く。

2004年、久々の技巧派との抗争になるショーン・マイケルズとの抗争が復活し、さらにWrestleMania XXでクリス・ベノワに敗れて王座を手放してからはベノワとも抗争を開始。しかしマイケルズと争って王座を自分の手で取り返す前にサマースラムでエボリューションのメンバーのオートンがベノワに勝利し王座戴冠となる。この事からオートンに嫉妬し(実際はオートンが単独で売り出せるまで成長した為)エボリューションから追放。以降はエボリューションとオートン、ベノワ、ジェリコ等ベビーのスーパースター軍との抗争がRAWのメインストーリーとなる。

2005/2/4のさいたまスーパーアリーナ大会ROAD TO WRESTLEMANIA 21 JAPAN TOURで、メインの世界ヘビー級選手権試合でエッジの挑戦を退け、試合後、「お前達(ファン)がWWEだ」というメッセージを残し、大会を締めた。さいたま大会以降、ロイヤルランブルで優勝したバティスタを脅威と感じ、SmackDown!へ移籍させようと画策したが、それに気づいたバティスタに造反され、(これもオートンと同じケースでバティスタが単独で売り出せるまで成長した為)WrestleMania 21で対戦。WrestleMania 21でバティスタに王座を奪われた後もバックラッシュ、ヴェンジャンスで再挑戦するがいずれも敗北。以降長期休養に入り、またフレアーもベビーターンしたためエボリューションは活動を終了した。10月のWWEホームカミングにてフレアーとのタッグで復帰。しかしフレアーに牙を向き抗争を開始。タブー・チューズデイでは敗れたが、翌月に行われたサバイバー・シリーズでのラストマン・スタンディング・マッチでは、勝利を収めた。ニュー・イヤーズ・レボリューションでビッグ・ショーに勝利した後、RAWで数週間に渡って開催されたWWE王座挑戦者決定トーナメントで優勝しWrestleMania 22でジョン・シナと対戦するが敗れる。その後バックラッシュでシナ、エッジとのトリプルスレット戦で再挑戦したが、ここでも敗れた。

D-X再結成

WrestleMania 22でのシナとの王座戦ではD-Generation Xのポーズ(DXチョップ)を取り、同大会でビンス・マクマホンと対戦したショーン・マイケルズもDXチョップを行った為、第三期D-Generation X結成の噂が流れた。WrestleMania 22以降のRAWでもマイケルズと抗争しているビンスとの確執が見え始め、特別レフェリーを命じられた試合でレフェリーを放棄し、その後マイケルズが代理のレフェリーとして登場する等数々の伏線が張られた後、ヴェンジャンスでついに第三期D-Generation Xが結成された。

復活後は再結成の発端となったビンスに標的を定め、ビンスの息子のシェイン・マクマホン、スピリット応援団、さらにビンスがECWから呼び寄せたECW世界王者のビッグ・ショーとの抗争を開始。サマースラムでビンス親子との直接対決で勝利し、続くアンフォーギヴェンで史上初となるハンディキャップ形式ヘル・イン・ア・セルでビンス親子&ビッグ・ショーとの2対3の苦しい戦いを強いられたが、大流血戦の末にビンスをピンフォールし、抗争は決着した。

その後10/2のRAWでWWE王者ジョン・シナ対エッジの王座戦に乱入し妨害した事でエッジが激怒。「DXを排除する」という共通目的の下結託したエッジ&ランディ・オートンの新タッグ「Rated-RKO」との抗争に突入した。サイバー・サンデーではエボリューション時代に共謀していた元RAWGMのビショフがスペシャル・レフェリーとなったが、ビショフはRated-RKOに加担し、結果スティール・チェアー上にオートンのRKOを受けて敗北。サバイバー・シリーズではトリプルH、マイケルズ、ハーディー・ボーイズ、CMパンクからなるTeam D-Generation Xで、Team Rated-RKOとの伝統の5対5エリミネーション・マッチに挑み史上初のスイープを達成した。しかし年明けのニュー・イヤーズ・レボリューションにて、Rated-RKOとの世界タッグ王座戦中に今度は2001年とは逆の右脚の大腿四頭筋を断裂する重傷を負ってしまい以降長期欠場に入る。(状況を察知したマイケルズの判断で試合はノーコンテストに)。

2007-2010

夏頃からトリプルHの復帰告知がされ始め、これにキング・ブッカーが反感を示しサマースラムにて『"King"の称号を巡り』トリプルH対キング・ブッカーの復帰戦が行われた。観客からは大歓声で迎えられ、DXチョップからのペディグリーで勝利し『王者の中の王者』としての貫禄を示した。その後ウマガとの抗争の後ノー・マーシーの第1試合でランディ・オートンとのWWE王座戦に挑み勝利、2年半ぶりの王座を手にする。第4試合でのウマガとの試合では王座を防衛。しかし最終試合でのオートンとのラストマン・スタンディング形式での再戦に敗れ数時間で王座を手放す。

2008年、2月のノー・ウェイ・アウトのチェンバー戦に勝利し、WrestleMania XXIVではオートン、ジョン・シナとの3つ巴のWWE王座戦に挑むが勝利を逃す。翌日のRAWではリック・フレアーの引退式のプレゼンターを演じた。4月のバックラッシュにてオートン、シナ、JBLとのフェイタル4ウェイ・エリミネーション形式王座戦を制し12度目の王座を獲得。その後行われたドラフトによって2ブランド制以降初めてスマックダウンへと移籍が決定。シナとのナイト・オブ・チャンピオンズでの防衛戦に勝利したため、WWE王座と共に移籍となった。

スマックダウン移籍以降は主にエッジなどと抗争。11月のサバイバー・シリーズではジェフ・ハーディー、ウラジミール・コズロフと三つ巴のWWE王座防衛戦の予定が、当日ジェフが何者かの襲撃に遭い病院へ搬送されたため試合開始から暫くコズロフとシングル戦で対決。しかし勝利目前でヴィッキー・ゲレロが現れサマースラムにおいてジ・アンダーテイカーに火葬されて以降姿を消していたエッジを参戦させ、更に病院に搬送されたはずのジェフも乱入。そしてジェフがエッジに放ったイス攻撃がトリプルHに誤爆してしまい、これが原因でエッジにWWE王座を奪取された。アルマゲドンではエッジ、ジェフとの三つ巴のWWE王座戦で王座奪還を狙うも、ジェフの初載冠を許した。

2009年に入り、ロイヤルランブルではレガシーの援護もあったランディ・オートンに優勝を譲るが、その後のノー・ウェイ・アウトでエリミネーション・チェンバー・マッチで13度目の戴冠となるWWE王座を獲得。時を同じくしてマクマホン家と抗争中だったオートンがステファニー・マクマホンを攻撃するに及んで、ついにストーリー上では離婚したとされていたステファニーとの夫婦関係を明らかにし、WrestleMania XXVでの対決を宣言、これに勝利し王座を防衛した。4月のドラフトでWWE王者のままRAWへ復帰。移籍後もオートンと抗争を続けるが4/26のバックラッシュでのオートン&レガシー対トリプルH&バティスタ&シェイン・マクマホンの変則WWE王座戦にてオートンのパントキックを受け王座陥落、休場に入る。その後6月に復帰、オートンにレガシーの介入で敗れてからは王座戦線から離れショーン・マイケルズとD-ジェネレーションXを再結成、レガシーのテッド・デビアスJrとコーディ・ローデスにターゲットを変更する。この抗争はヘル・イン・ア・セルで勝利し決着した。またこの頃DXグッズに身を包みDXの真似事をするホーンスワグルを煙たがっていたが最後には根負けしホーンスワグルをDXの公式マスコットとした。12月のTLC:テーブルズ・ラダーズ・アンド・チェアーズではクリス・ジェリコ&ビッグ・ショーに勝利し統一タッグ王座を獲得。

2010年、マイケルズがレッスルマニアでのジ・アンダーテイカーとの再戦に固執し始めたことでチームワークが乱れ始め、2月のRAWではマイケルズとの連携ミスでタッグ王座を失う。その後マイケルズとは和解しテイカーへの挑戦に理解を示した。エリミネーション・チェンバーではWWE王座奪回に挑むが敗れる。この試合でトリプルHにより敗退させられたシェイマスとの遺恨でWrestleMania XXVIで対決し勝利。翌日のRAWではテイカーに敗れ引退が決まったマイケルズのスピーチに現れ抱擁し、長年の親友を送り出した。その後4月のエクストリーム・ルールズでのシェイマスとの再戦にて頭部に5発のブローグ・キックを受けるなど猛襲に遭い長期離脱に入った(実際には首の手術、古傷である腿の治療、映画の撮影、ステファニーの出産、将来の舞台裏やクリエイティブチーム本格参加のための勉強など多くの要因が絡んだ休場であり、サマースラムでの復帰も予定されていたようだが、ダニエル・ブライアンに自らのポジションを譲り復帰は延期となったようである)。 10/30のRAW、SD共催"Fan Appreciation Day"では、一夜限りで復活。アルベルト・デル・リオにペディグリーを与え変わらない強さを見せつけた。その後も基本的にバックステージには居るがショーへの復帰はしないまま年を越した。

2011-

2011/2/21のRAWにて「2.21.11」のプロモーションを行い大々的に復帰したジ・アンダーテイカーの入場直後に突然登場し電撃復帰を果たす。そのままテイカーと対峙しレッスルマニアでテイカーの連勝記録への挑戦が決定した。翌週には長期離脱の原因となったシェイマスを実況席貫通のペディグリーでKOし貫禄を見せた。WrestleMania XXVIIでのテイカーとの一騎打ちでは客席からブーイングが起こるほどの激しい攻めでテイカーを圧倒するものの、最後はヘルズ・ゲートの前にギブアップ負けを喫し、連勝記録を止めることはできなかった。

4/26、WWEの新ブランド戦略の一環として発足したタレント開発部門の統括に就任。リング上での活動は大幅に減少するものと思われる。

バックステージ

DXの仲間であったチャイナとはプライベートで恋人同士であった。チャイナは2人が婚約していたと主張し、トリプルHがドラマ上で夫婦を演じていたステファニー・マクマホンが彼を奪ったのだと非難したが、実際には、トリプルHとチャイナは2000年には既に破局を迎えていた(2000年出版のチャイナの自伝「If They Only Knew」にトリプルHとの破局が既に書かれている)。ステファニーとトリプルHが現実に恋愛関係に発展したのは2001年以後である。トリプルHはストーリー上では2002年に離婚したステファニーと実際に2003年秋に結婚。マクマホン・ファミリーの一員となったことで、WWE幹部としてプロデューサーも務めるようになった。

スマックダウンのジ・アンダーテイカー同様、RAWのバックステージではボス格(選手会長的な立場)として知られている。後輩の面倒見もよいが、彼に「戦いたくない」と嫌われるとWWEでの出世の道は断たれるという説もある。現にビリー・ガンがTNAImpact放送中に(比喩を使っているものの)D-Xの有り方について批判している。

ベテランとなった現在では若手を熱心に指導しており、シェイマス、ドリュー・マッキンタイア、エヴァン・ボーンなど現在WWEで若手に活躍の場が多く与えられているのは彼の影響があると考えられる。

非常に高いプロ意識を持っていることでも有名。育成企画のタフイナフにおいて自身の業界への愛情を候補生たちに熱く語っており、その中で部屋にビル・ゴールドバーグのポスターを貼った候補生とゴールドバーグについて「この業界は楽じゃない。腹が痛かろうが、爪が痛かろうが絶対にリングに上がらなくてはいけないんだ。トップレスラーでありながら三ヶ月休む時間が必要だ、ストーリーラインが気に入らないからTVショーにも出ないなんてことを平気で言う奴を尊敬する奴はこの団体にはいらない」と激しく非難している。

タイトル履歴
WWF/WWE
  • WWE王座:8回
  • 世界ヘビー級王座:5回
  • IC王座:5回
  • WWE・ヨーロピアン王座:2回
  • WWFタッグ王座:1回(w / ストーン・コールド・スティーブ・オースチン)
  • 統一タッグ王座:1回(w / ショーン・マイケルズ)
  • 2002年ロイヤルランブル優勝
  • 1997年キング・オブ・ザ・リング優勝
  • グランドスラム達成(2001年)
IWF
  • IWFヘビー級王座:1回
  • IWFタッグ王座:1回(&ペリー・サターン:1回)

その他

  • 2000年、2009年、PWI500(ProWrestlingIllustrated誌が選ぶプロレスラーベスト500)で1位に選出。
  • 2001年、タッグ王座獲得を以て、ショーン・マイケルズに次ぐ二人目のグランドスラム(ヘビー級関連王座全制覇(当時は、ヨーロピアン王座、IC王座、WWF王座、WWFタッグ王座))を達成。
  • 2003年、初来日。
  • 2004年、ビリー・グラハム("Superstar" Billy Graham)のWWE殿堂入りに際し、盾を授与するプレゼンターを務めた。
  • 2004/12/8、初出演映画「Blade Trinity(邦題「ブレイド3」)」が 全米公開。
    • DVD・VHS日本語版の吹き替えは蝶野正洋(新日本・当時)が担当。
  • 2004年末、初の自著 Making of the Game 発売。
  • 2009年にWWE日本公演のプロモーションで来日。その際に「MTV Video Music Awards Japan」にゲスト出演して「最優秀映画ビデオ賞」のプレゼンターを務めた。
  • 2011/2/14、初主演映画「The Chaperone」公開。銀行強盗による服役を終えたムショ帰りの父親役。心を入れ替えて、10代の娘との絆を取り戻すファミリーコメディ。

特記事項

  • 入場時に行う「ペットボトルの水を口に含み、頭上に吹き出す」行為を、トリプルH自身は "spritz" と呼んでいる。彼自身が大ファンである「グレート・ムタ」の毒霧を参考にして思いついたらしい。
  • 入場時に「コネチカット州グリニッチ出身」とコールされるのは、似非貴族ギミック時代の名残。
  • ショーン・マイケルズ、ケビン・ナッシュ、スコット・ホール、ショーン・ウォルトマン(1-2-3キッド、Xパック)とは団体の垣根を超えた親友の間柄にあり、正式なユニットではないが「KLIQ」(クリック)と呼ばれる。
  • トリプルHは長年、イギリスのロックバンド「モーターヘッド(Motörhead)」のファンであり、彼の入場テーマ“The Game”、エヴォリューションのテーマ“Line in the Sand”、そして新しいテーマ曲“The King of Kings”はこのバンドの曲である。
  • 某誌のインタビューで、AWAの帝王であったニック・ボックウィンクルのスタイルをモチーフにしていると語っていた。
  • (出演CMで示されたデータによれば)、腕周り56cm、腿周り71cm、胸囲142cm、胴回り89cmらしい。
  • ハーストはウィリアム・ランドルフ・ハースト、ヘルムスリーはレオナ・ヘルムズリーのアメリカで最も嫌われている資産家両名から拝借したもの。ハンターには利を漁る者という意味がある。

入場曲

  • Break It Down (The DX Band)
  • My Time (The DX Band)
  • Higher Brain Pattern
    My Timeのインストルメンタル版
  • The Game (Motörhead)- 現在使用中
  • The Game (Drowning Pool)
  • Line in the Sand (Motörhead)
  • King of Kings (Motörhead)
  • The Game: イントロ部分がKing of Kings





赤野 仁美
1974/7/27

日本の総合格闘家。本名は平岩 仁美(ひらいわ ひとみ)。大阪府大阪市出身。AACC所属。「ガールファイト・モンスター」の異名を持つ。

来歴

中学1年から柔道を始め、夙川学院高校、日本体育大学でも柔道を続けた。

セコム柔道部時代は2000年のイタリア国際柔道大会で優勝、全日本の強化選手に選ばれるなど活躍。その後、柔道をやめライブ活動などをしていたが、高校の同級生だった藤井惠が在籍していたAACCにダイエット目的で入門した。

2004/5/16のスマックガール大森大会でデビュー(グラップリングルール)。

2004/11/26、G-SHOOTOでの藪下めぐみ戦で総合格闘技デビューするも判定負け。

2005年から国内無敗の快進撃を続け、同年8/17の国立代々木競技場第二体育館大会では端貴代に一本勝ちし「Next Cinderella Tournament 2005」ミドル級優勝。

2006/9/15、スマックガールでモーリー・ヘイゼルと対戦し、腕ひしぎ十字固めによる一本勝ちで第2代スマックガールミドル級王座を獲得した。

2007年5月、アブダビコンバット女子60kg未満級に出場。1回戦でカサンドラ・ブラソに勝利したものの、準決勝でキーラ・グレイシーに敗北。3位決定戦で端貴代に敗れ、第4位となった。

2007/9/6のスマックガールミドル級王座の初防衛戦でまたも端に判定で敗れ王座から陥落した。

2008/2/14に開幕したスマックガール無差別級トーナメントに出場し、1回戦で藪下めぐみに一本勝ち。4月25日の準決勝ではHIROKOに一本勝ちを収めた。決勝ではジュネル・マルケスと対戦予定であったが、スマックガールの活動停止により決勝は行われなかった。

2008/11/16、JEWELS 旗揚げ戦でHARIと対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。

2009/1/17、岡山県倉敷市で結婚式を行った。

2009/2/22、ADCC世界大会アジア予選女子60kg以上級に出場(2人参加で決勝のみ)。佐藤瑞穂にアームロックで一本勝ちし、日本代表となった。

2009/4/11、Strikeforce初参戦となったStrikeforce: Shamrock vs. Diazでクリスチャン・サイボーグと対戦し、TKO負け。この試合は146ポンド(約66kg)契約であったが、サイボーグが前日計量1回目で152ポンド(約69kg)となるなど計量オーバーとなった。試合を断る権利もあったが、最終的には試合を受諾した。

2009/9/26、アブダビコンバット2009・女子60kg以上級1回戦でアネッチ・スタックと対戦し、アームバーで一本負け。

2010/3/19、JEWELS 7th RINGのメインイベントでHIROKOと約2年ぶりに再戦し、1-2の判定負けを喫した。

2010/8/13、ShoMMA: Strikeforce Challengers 10で行なわれた女子ウェルター級トーナメントに出場。1回戦でカリーナ・ダムに腕ひしぎ三角固めで一本勝ちするも、決勝でミーシャ・テイトに0-3の判定負け。準優勝となった。

2010/12/30、戦極 Soul of Fightでロクサン・モダフェリと対戦予定であったが、ロクサンの体調不良(感染性の胃腸炎)によりドクターストップとなり不戦勝となった。試合中止は両者がリングインした後に発表された。

人物

趣味は曲作り。入場テーマ「空のすきまから」「reality」はいずれも本人作曲である。

タイトル歴

  • 第2代スマックガールミドル級王座
  • スマックガール GRAPPRING QUEEN TOURNAMENT 2006 ミドル(-52kg)級 優勝





シャノン・ムーア
Shannon Brian Moore
1979/7/27

アメリカ合衆国のプロレスラーである。ノースカロライナ州キャメロン出身。

来歴

マット・ハーディーとジェフ・ハーディーの団体であったオメガ・レスリングの出身で、1995/4/8プロレスデビューを果たす。

1999年にWCWへ所属し、クルーザー級戦線のレスラーの一人として活動した。

2001年のWCW崩壊後はWWF(現WWE)に移籍。引き続きクルーザー級のレスラーの一人として活動した。

2002年のWWEのテレビ番組分割時はスマックダウンに所属、そしてハーディー・ボーイズ解散後のマット・ハーディーの子分、つまりマッティテュード信者ギミックとして、ジョバーチームを結成して行動した。2004年にマットがロウに移籍すると共にチームは解散。そしてWWEでの活動機会が減りそのまま2005/7/5に解雇になった。

解雇後はWWEとの契約の関係で90日間は他団体に出場することはできなかったが、2005/11/16、TNAのダーク・マッチに登場。以降TNAを主戦場に活動を開始した。パンクキャラにギミックチェンジし、TNA Xディヴィジョン王座戦線のレスラーとして活動した。しかしながら王座獲得に至る前に2006/3/17のWWEのダーク・マッチに出場し、ECWへの復帰が決まった。

ECW復帰後もパンクロッカー風のギミックは変わらず、「社会のクズ」というニックネームが付く。新参時代のCMパンクと抗争するも敗北する。確かな技術も備え、迫力のある風貌だが、試合では勝ち星に恵まれないジョバーである。

プロレスラー以外の活動として、ジェフ・ハーディーのバンドでドラムを担当している。

2007年には、社会のクズというギミックを終え迫力のある風貌から普通の風貌となった。

2008年8月にWWEにより解雇される。

備考

  • ハーディー兄弟とは幼少からの幼馴染で親友である。
  • ジョバーとして使われることが多く、くじ引きで挑戦者を決めるという企画にて「くじに書かれた名前がすべて彼である」という八百長企画が当時WWE王座保持者であったブロック・レスナー(2003年)、ジョン・レイフィールド(2004年)と二度もあった。
  • タトゥーマニアとしても知られ、体中の至る箇所にタトゥーを入れている。また自身のタトゥーショップを経営している。

タイトル履歴

WCW
  • WCWハードコア王座 : 1回
OMEGA Pro Wrestling
  • OMEGA Pro Wrestlingヘビー級王座 : 1回
  • OMEGA Pro Wrestlingライトヘビー級王座 : 2回
  • OMEGA Pro Wrestlingニューフロンティア王座 : 1回
HWA
  • HWAクルーザー級王座 : 2回
  • HWAタッグ王座: 1回
NCW
  • NCWヘビー級王座 : 1回
  • NCWライトヘビー級王座 : 1回
  • NCWタッグ王座 : 1回(&シェーン・ヘルムズ)
SCW
  • SCWライトヘビー級王座 : 1回
その他
  • ACW ライトヘビー級王座 : 1回
  • NFWAヘビー級王座 : 1回





ドルフ・ジグラー
Dolph Ziggler
1980/7/27

ニック・ネメスNick Nemeth)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。オハイオ州クリーブランド出身。身長183cm、体重97kg。現在WWEのSmackDown!に所属しており、()のリングネームで活躍中。

経歴

高校、ケント州立大学時代はアマレスで活躍。2004年にWWEとディベロップメント契約を交わし、OVWで約1年ほど活動する。2005年の9月には当時白人至上主義の上流階級ギミックのカーウィン・ホワイトという名で活動していたチャボ・ゲレロの付き人役として登場し、チャボと共に活動する。しかし同年の11月にエディ・ゲレロが死亡し、それを受けてチャボがリングネームを本名に戻したため、活動の場を失いOVWへ送り返されることとなった。

OVWでスピリット・スクワッドの一員となり2006年1月のジェリー・ローラー対ジョナサン・コーチマン戦に乱入しRAWに登場する。その後ビンス・マクマホンや息子のシェインらの手先となり、当時会長親子と抗争中だったショーン・マイケルズと抗争する。4月にはメンバーのケニーとマイキーのビッグ・ショー&ケイン組からの世界タッグ王座奪取をアシストする。その後復活したD-ジェネレーションXと抗争を繰り広げた後、サイバー・サンデーでスピリット・スクワッドが世界タッグ王座を失い、仲間割れを起こしチームは解散する。そして再びOVWに戻ることとなった。

2008年9月頃から再びRAWに登場する。リングネームをドルフ・ジグラーと改め、誰彼問わず自己紹介し、自分のことをやたらとアピールするキャラとなった。デビュー戦ではバティスタに負けるものの、その後はRトゥルースやチャーリー・ハースに勝利を収めた。

その後はあまり目立った活動はなかったが、2009年の追加ドラフトによりSmackDown!へ移籍する。移籍が決定してからはMVPと争い、US王座に挑戦するも王座奪取とはならなかった。その翌週からグレート・カリと抗争を開始する。6/28のザ・バッシュでのノーDQ戦では試合中にケインが乱入し、カリを襲撃する。それによりカリからフォールを奪い勝利する。その後7/10のスマックダウンで試合後のレイ・ミステリオを襲撃し、それにより抗争を開始する。またこのころからマリアとの恋愛ストーリーが開始するが、自身が振る形で終了する。その後7月のナイト・オブ・チャンピオンズ、8月のサマースラムとミステリオの持つIC王座に挑むが、王座奪取とはならなかった。その後はミステリオの謹慎に伴い、新IC王者となったジョン・モリソンと抗争を開始する。その後はスリーパー・ホールドを多用するようになり、ケインやカリなどから勝利を奪っている。

2010年3月のWrestleMania XXVIではマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに出場するが優勝は逃す。この後からヴィッキー・ゲレロとの恋人アングルが開始する。8月6日のSmackDown!でコフィ・キングストンとIC王座戦を戦って勝ち、初の王座を獲得した。

NXTシーズン4ではジェイコブ・ノヴァックを指導するプロとして登場していた。しかし1月4日のNXTで勝てば好きなルーキーと自分のルーキーを交換できるランブル戦が行われ勝利、バイロン・サクストンを選んだためサクストンがジグラーのルーキーとなり、ノヴァックはクリス・マスターズのルーキーとなった。また、その日にノヴァックは脱落した。

2011/1/7のスマックダウンで行われたコフィとのIC王座戦に敗れ、王座を失った。しかし直後にヴィッキーにコーディ・ローデス対ドリュー・マッキンタイア対ビッグ・ショーの世界ヘビー級王座の第一挑戦者を決める試合に出場させてもらい、ローデスからフォールを奪って勝利した。

2/18のスマックダウンで、初の世界ヘビー級王座を獲得(ヴィッキーGM代行からの授与)しかし、直後に復帰したセオドア・ロングGMの命令で行われた王座戦であっさりエッジに敗北し、王座を失う。その後、ロングGMによって解雇される(アングル上)。その後ヴィッキーと共にRAWに移籍した。

RAW移籍後すぐにヴィッキー&レイ・クールと共に、モリソンとトリッシュ・ストラタスとスヌーキーの3名と抗争する。そして、4月3日のWrestleMania XXVIIでは男女混成の6人タッグマッチを行ったが、敗れてしまう。4/18のRAWで、エヴァン・ボーンと対戦。その時イメチェンなのか、長髪の金髪から短髪の黒髪にした。

その他

  • 弟のライアン・ネメスは元OVWに所属し、現在FCWでブライリー・ピアースのリングネームで活動している。

獲得タイトル

WWE

  • 世界ヘビー級王座:1回
  • IC王座:1回
  • 世界タッグ王座:1回

入場曲

  • Big Style
  • Time to Shout
  • I am Perfection(Cage 9)





モンスター・リッパー
Monster Ripper
1961/2/21 - 2001/7/27

カナダ・アルバータ州カルガリー出身の女子プロレスラー。本名:ロンダ・シンRhonda Sing)。

来歴

少女時代から地元カルガリーのスタンピード・レスリング(スチュ・ハート主宰)の大ファンであり、プロレスラーを目指しロサンゼルスにあるミルドレッド・バークが経営する養成所でトレーニングを積む。

その後、全日本女子プロレスにスカウトされ、来日。松永高司会長により「モンスター・リッパー」のリングネームを名づけられ、1979/1/4のジャッキー佐藤戦でデビュー。フォールを奪い勝利で飾る。同年7/31、佐藤が持っていたWWWA世界シングル王座に挑戦し奪取。

以降は100kgを超える巨体を武器にメキシコのUWAを主戦場とし、日本、カナダ、米国、欧州を転戦していた。そのパワフルなファイトスタイルから、日本の専門誌では「女ハンセン」などと形容されたこともある。日本ではジャパン女子プロレスに参戦していた時期もあったが、1991年に全女に戻りブル中野と抗争を展開した。

1987年には初代IWA世界女子王座に君臨。多くのタイトルを獲得していった。

1995年、WWFと契約。ベルサ・フェイBertha Faye)のリングネームでコミカルなヒールに変身し、アランドラ・ブレイズからWWF女子王座を奪取した。WWFではマネージャーのハービー・ウィップルマンとの恋愛アングルも組まれた。

1999年からは本名のロンダ・シン名義でWCWに移籍。ナイトロ・ガール・ビーフNitro Girl Beef)を名乗り、ナイトロ・ガールズのダンスに闖入したこともあったが、短期間で姿を消した。

2000年、WCW退団とともに引退。日本で引退試合を望んでいたものの、2001年7月27日、40歳で死去。死因は今もなお謎のままである。

2003年、カリフラワー・アレイ・クラブ(北米のプロレス・プロボクシング殿堂)の顕彰を受けた。また、日本でも全女が設置した女子プロレス殿堂に外国人で唯一殿堂入りを果たしている。

獲得タイトル

  • WWWA世界シングル王座
  • IWA世界女子王座
  • WWA女子王座
  • WWWWA世界シングル王座
  • WWC女子王座
  • WWF女子王座

 
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