本文へスキップ
 


 
 
”重要なお知らせ”


2011/9/1よりパワーアップでページ独立!

 
 


 
 
プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/28


 
 


 
 

ミスター・レスリング
Mr. Wrestling
1934/7/28 - 2002/11/30

ニューヨーク州出身の覆面レスラー。本名はジョージ・バレル・ウッディンGeorge Burrell Woodin)、通称ティム・ウッズTim Woods)。日本では「ティム・ウッド」と表記されることもあった。覆面レスラーには珍しく正統派のレスラーで、日本での異名は正義の白覆面

ミシガン州立大学ではレスリングで活躍し、1955年と1957年にAAUのナショナル・チャンピオンとなり、1958年と1959年にはミシガン州におけるビッグ・テン・カンファレンスに選ばれている。

来歴

  • 1963年 - ティム・ウッズをリングネームに、素顔でプロレスデビュー。
  • 1965年 - ネブラスカ州のプロモーターの勧めでミスター・レスリングを名乗り覆面レスラーに変身。
  • 1966年1月 - 素顔のティム・ウッズとしてマッドドッグ・バションのAWA世界ヘビー級王座に挑戦、フォール勝ちを収めるが、ロープが足にかかっていたとしてタイトル奪取は無効とされる。
  • 1970年12月 - テキサス州ダラスにてジョージ・スコットと組み、ジ・アウトローズ(ダスティ・ローデス&ディック・マードック)からNWAアメリカン・タッグ王座を奪取。
  • 1970年代はフロリダ、ジョージア、ミッドアトランティック地区を転戦。フロリダ地区では素顔で戦っていた時期もある。
  • 1972年7月 - フロリダにてヒロ・マツダと組みフロリダ・タッグ王座を獲得。
  • 同年9月 - トーナメント決勝でジャック・ブリスコを下しフロリダ・TV王座を獲得。
  • 1973年8月 - グレート・メフィストからフロリダ・ヘビー級王座を奪取。
  • 1974年4月 - 全日本プロレスの『第2回 チャンピオン・カーニバル』に初来日。決勝でジャイアント馬場に敗れる。
  • 同年8月 - ミスター・レスリング2号(ジョニー・ウォーカー)と組んでミネソタ・レッキング・クルー(ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソン)からジョージア・タッグ王座を奪取。
  • 1975年4月 - 『第3回 チャンピオン・カーニバル』に再来日。
  • 同年10月 - セスナ機で移動中に墜落事故に遭遇、短期間で奇跡的な復帰を果たしたが、同乗していたジョニー・バレンタインやリック・フレアーは背骨を骨折する重傷を負った(バレンタインはこの事故により引退)。
  • 同年12月 - 『オープン選手権』に来日。当時主戦場としていたミッドアトランティック地区のジム・クロケット・ジュニア推薦という触れ込みだった。
  • 1976年5月 - ディノ・ブラボーと組んでミネソタ・レッキング・クルーからミッドアトランティック版NWA世界タッグ王座を奪取。
  • 同年10月 - アンジェロ・モスカを破りミッドアトランティック・TV王座を獲得。
  • 同年11月 - ディノ・ブラボーとのコンビでミッドアトランティック・タッグ王座争奪トーナメントに出場、決勝でジャック・グレイ&ミシェル・デュボアを破り王者チームとなる。
  • 1977年1月 - ミスター・レスリング2号との覆面コンビでミネソタ・レッキング・クルーからジョージア・タッグ王座を再度奪取。
  • 1978年3月 - ブラックジャック・マリガンを破りNWA・USヘビー級王座(後のWCW・US王座、現在のWWE・US王座)を獲得。
  • 1979年11月 - 『世界最強タッグ決定リーグ戦」にマスクド・ストラングラー(ホセ・ルイス・リベラ)をパートナーとして参加。しかしパートナーが弱体だった(当初はザ・デストロイヤーと組んで参加する予定だった)ことと、同じ覆面コンビでマスカラス・ブラザーズ(ミル・マスカラス&ドス・カラス)が参戦していたこともあり、人気・戦績とも今ひとつで、これが最後の来日となった。
  • 1980年 - ミスター・レスリング2号と組んでジ・アサシンズからジョージア・タッグ王座を奪取。これが最後のタイトル戴冠となった。
  • 1983年 - 引退。
  • 2002年 - ノースカロライナ州シャーロットの自宅にて心臓発作で死去。

エピソード

  • 力自慢の素人の挑戦を受けた道場破り的な試合で、左手の薬指を噛みちぎられたことがある。なお、この事故の1週間後には、NWA世界王者のジン・キニスキーに挑戦して時間切れ引き分けの死闘を演じている。
  • 1975/10/4のセスナ機事故は、ベビーフェイスの彼がヒールのバレンタインやフレアーと一緒に移動していたことが公になってしまう問題も孕んでいた。そのため、会場ではミスター・レスリングは別の事故で負傷したと観客にアナウンスし、入院の際も名前や職業を偽っていたという。フェイスとヒールの敵同士が行動を共にしていたという噂を打ち消すために、彼は事故から2週間後にはリングに復帰し、怪我(肋骨のヒビ)が完治していない状態のままサーキットに参加した。フレアーは自著において、業界を救った男として彼を称えている。

獲得タイトル

  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版): 4回
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座: 1回
  • NWAフロリダ・タッグ王座: 2回(w / ヒロ・マツダ、ビッグ・バッド・ジョン)
  • NWAフロリダ・TV王座: 1回
  • NWAジョージア・ヘビー級王座: 2回
  • NWAジョージア・タッグ王座: 4回(w / ミスター・レスリング2号×3、サンダーボルト・パターソン)
  • NWAメイコン・タッグ王座: 2回(w / ミスター・レスリング2号)
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座: 1回(w / ディノ・ブラボー)
  • NWAミッドアトランティック・TV王座: 1回
  • NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版): 1回
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版): 1回(w / ディノ・ブラボー)
  • NWAアメリカン・タッグ王座: 1回(w / ジョージ・スコット)

 
広告


阿部 四郎
1940/7/28

福島県出身の実業家。「極悪レフェリー」としてプロレス界に一時代を築いた。一度引退するもダンプ松本の依頼で復帰。全女解散後はIWA・JAPANを主戦場としたが、2008年引退。

経歴

東村山市で芸能プロダクション『大和プロ』を、江古田駅前でスナックを経営。北島音楽事務所や全日本女子プロレスの興行にプロモーターとして関わっていた。

1970年代から全女のレフェリーを兼任し、フジテレビの人気番組「オレたちひょうきん族」の一コーナー「ひょうきんプロレスアワー」のごく初期にも、レフェリー兼リングアナウンサー役を務めている。

1980年代初頭、デビル雅美が率いたヒール軍団「ブラック・デビル」の末期に、突如としてデビル軍団側に肩入れする不公正なレフェリングをし始めたため、植田信治コミッショナーは凶器使用禁止令を下すと共に、阿部にも暫くの出場停止と減給処分を言い渡した。

その後、凶器使用禁止令を遵守しようとするデビルと、凶器の使用にこだわるダンプ松本、マスクド・ユウとの間で対立が発生。業を煮やしたデビルは、デビル軍団の解散を宣言する(その後デビルは山崎五紀を帯同し、ベビーフェイス寄りでこそあれ、一匹狼の道を歩むこととなる)。

デビルに謀反した松本とユウが、新たなヒール軍団「極悪同盟」を結成すると、今度は「下積みを強いられてきたダンプがかわいそうだから」と極悪同盟に加担、以後は度重なるコミッショナーの警告を受けながらも、極悪同盟側が行う反則を見ていなかったことにして黙認、極悪同盟側を有利にカウントする可変速カウントは当たり前の極悪同盟を徹底的に贔屓する極悪レフェリングを展開し、果ては極悪同盟とお揃いのコスチュームで一緒に現れる極悪レフェリーとして、当時、人気絶頂にあったクラッシュギャルズを始めとするベビーフェイス勢を大いに苦しめ、会場のファンからの怒号を集めた。ダンプも阿部に関して「阿部四郎は今でも私にとって、とても大切な仲間です。」と語っている。

阿部の悪行を実況席から指弾し続けたアナウンサーの志生野温夫とは、実は旧知の仲である。

「めちゃ×2イケてるッ!」の「格闘女神MECHA」コーナーで岡村隆史扮するレフェリー「岡村四郎」のモデルになり、また、同コーナーでの極楽とんぼ扮する「極楽同盟」と現役女子プロレスラーとのタッグ対決では、本人が登場して往時を髣髴とさせる極楽同盟贔屓のレフェリングを披露した。

近年はIWAジャパンを主戦場としていた。日刊ゲンダイのインタビュー「あの人は今こうしている」(2005年と2010年の2度登場)では、レフェリーとしてギャラの支払を殆ど受けていなかった事、松永兄弟に対して巨額の売掛金があり、うやむやのまま結局未収になったのみならず、全女の借金の保証人だったため、2008年に東村山市の自宅を差し押さえられた事などを愚痴っている。

ZERO1-MAXのメインレフェリーを務めた阿部信輔は息子で、父とは異なり公平で正統派なレフェリングである。

2009/7/9、新宿FACEで行われた「NOSAWA-BON-BA-YE 5」の、クラッシュギャルズ25周年メモリアルマッチ・長与みのる&ライオネス高山VSダンプ菊&ブル坂井の試合をもってレフェリーを引退し、芸能プロダクションと、立川駅前のスナックの経営に専念している。






ライオネス飛鳥
1963/7/28

日本の元女子プロレスラー、タレント、実業家。本名は北村 智子(きたむら ともこ)。東京都生まれ、埼玉県蓮田市育ち。シンクバンク所属。

人物・来歴

蓮田市立黒浜中学校を経て、埼玉県立蓮田高等学校を中退後、1980年に全日本女子プロレスに入団、同年5/10にデビュー。後にリングネームを改めて、長与千種とのクラッシュギャルズで一大ブームを巻き起こす。1981年には全日本ジュニア王座、1982年には全日本シングル王座を獲得した。1984年8月にはクラッシュギャルズがWWWA世界タッグ王座を獲得、さらに同年8月、「炎の聖書」で歌手デビュー。1989年春に現役を引退。

引退後は女子プロレスの解説をしながらタレント活動を始め、1990年には「のぞみウィッチィズ」で映画デビュー。また日本自動車連盟(JAF)の国際A級ライセンスを取得し、カーレースにも出場。1994年10月に行われた全女の東京ドーム大会にて女子プロレスラーとして現役復帰、ジャガー横田・バイソン木村と共に『雷神隊(ライディーン・アレイ)』を結成するが、ブランクと甲状腺疾患による体調不良から思うように試合が出来ず、苦しい日々を過ごす。

その後、吉本女子プロレスJd'にフリーランスとして戦いの場を移し、ブランクと甲状腺疾患を克服しヒールに転向。イーグル沢井やシャーク土屋と組み、Jd'のみならず、FMWやLLPWでも活躍の場を広げる。この時期に幾度となく繰り広げられた井上京子とのハードコアシングルマッチは評価が高い。1998/12/27後楽園ホール大会にてGAEA JAPAN初登場。1999/4/4、9/15に行なわれた長与千種との2度に渡る凄絶なシングルマッチを経て、2000/3/12に再結成を宣言。2000/5/14に行なわれたGAEA旗揚げ5周年記念有明コロシアム大会で「クラッシュ2000」として再始動。この有明大会での観客動員数は8,000人を超え、クラッシュ復活を観ようと観戦バスツアーも組まれた。その後はアルシオンに参戦し、浜田文子からクイーン・オブ・アルシオンのベルトを奪う。アルシオン消滅後は主にGAEAに活動の場を戻すが、首の故障により2004/11/3の後楽園ホール大会で引退を発表。翌年2005/4/3、GAEA JAPAN横浜文化体育館大会にて引退。

現在は会員制高級クラブを経営したり、GAORAなどでの解説を主としてタレント活動している。

主なタイトル歴

  • WWWA世界シングル王座
  • WWWA世界タッグ王座
  • オールパシフィック王座
  • 全日本シングル王座
  • 全日本ジュニア王座
  • 世界統一グローバル王座
  • TWF世界女子王座
  • クイーン・オブ・アルシオン

歌手活動

  • 「炎の聖書」で歌手デビュー。今までにシングル8枚、アルバム4枚、マキシシングル2枚を発表。

主な出演

映画・Vシネマ

  • のぞみウィッチィズ
  • 極道ステーキシリーズ

テレビ

  • 一枚の写真(1990年6月22日、フジテレビ)
  • 私が愛したウルトラセブン(1993年、NHK)
  • プロ格KING - レギュラー解説(GAORA)
  • シルシルミシル





マイケル・ショーン・ベルナルド
Michael Shawn Bernardo

1969/7/28

南アフリカ共和国出身の元キックボクサー、元ボクサー。南アフリカ共和国・ケープタウン出身。スティーブズジム所属。

一撃必殺の豪腕パンチに優れたボクシングテクニックと強力なローキックを武器に数々の名勝負を繰り広げ、ピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、アンディ・フグと共に創世記のK-1四天王として君臨した。1996年には、当時絶対的な強さで時代を築いていたピーター・アーツにKO勝ちし、ワンマッチ最強の男、初代無冠の帝王などというニックネームもついた。

来歴

1995年、K-1 GRAND PRIXで初来日。開幕戦で優勝候補のアンディ・フグをKOすると、2回戦でもスタン・ザ・マンに上段蹴りでKO勝ちし、ベスト4の成績を収めた。ジェロム・レ・バンナとともに、衝撃のK-1デビューを飾ることとなった。翌1996年のグランプリ準決勝ではピーター・アーツに KO勝ち。決勝でアンディ・フグに敗れ準優勝に終わるが、彼の登場によってK-1最強は誰なのかわからなくなった。その後もピーター・アーツをKOで退け ると、彼の人気は急上昇することになり、CMやバラエティ番組にも出演。フグやアーツとともに、K-1の人気・知名度を向上させるのに大いに貢献した。

彼の快進撃は以降も続き、佐竹雅昭らK-1草創期の選手を圧倒していく。1998年のグランプリでは、フランシスコ・フィリォに生涯初のKO負けを体験させるが、準決勝でアーツに敗れてベスト4に終わる。翌1999年にミルコ・クロコップに左ハイキックでKO負けを喫すると、それ以降はボクシングに専念。だが、急死したアンディ・フグの遺言通り再びK-1のリングに舞い戻り、K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKAで見事優勝を果たした。2001年には、マイナーではあるがプロボクシング団体・WBFの世界ヘビー級王者に輝いている。

そして、この頃から彼のファイトスタイルも変化し、積極的に前に出る姿勢は影を潜めていった。また、長年のダメージの蓄積から試合中ダウンするシーンが目につくようになり、戦績は低迷することとなった。1999年からグランプリは開幕戦どまりで、2000年は出場権を得ていたにもかかわらず、怪我で決勝大会出場を逃す。2001年の名古屋大会では、決勝まで勝ち進んだものの、負傷のためリタイア。同年の福岡大会(敗者復活戦)では、アダム・ワットにKO負けを喫し、初戦敗退。2002年にはゲーリー・グッドリッジに一方的なKO負け。続く開幕戦ではマーク・ハントに、2003年開幕戦ではアレクセイ・イグナショフに敗れる。グッドリッジへのリベンジは果たしたが、2004年には、かつての弟弟子であるヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤに敗北。JAPAN GPにはプライドを捨て出場したが、富平辰文にKO負け。日本人相手に初の黒星となった。

2002年のラスベガス大会以降、コーチであったスティーブ・カラコダとは別れていたが、2004年に電撃和解。かつての豪腕を取り戻すため必死にトレーニングを続けていた。しかし、2006年に現役引退を表明し、同年9月30日のK-1 WORLD GP 開幕戦で引退セレモニーが開催され、斎藤佑樹を意識して青いハンカチで汗をふくパフォーマンスを見せた。

引退後はコーチを務め、アーネスト・ホーストと共に、日本人選手の育成に励んでいる。

エピソード

  • スキンヘッドがトレードマーク。
  • 剃刀メーカーシックの「プロテクター」のCMに出演し、「切れてなーい」のフレーズでお茶の間にも広く親しまれる。
  • 日本で一時流行ったギャグを披露するなど、サービス精神旺盛な一面もある(「だっちゅーの」など)。
  • 敬虔なクリスチャンとしても有名で、試合用トランクスには十字架が描かれていた。また、バンテージチェック後マジックでバンテージにも十字架を書いていた。
  • とても人柄が良いことで知られている。2001年のジェロム・レ・バンナとの試合前日会見の際、バンナが脛を14針も縫う怪我を負っていたことを 知っていたベルナルドは「ジェロムが足を怪我しているというなら、パンチだけで勝負してもいいよ。僕らはお互いに素晴らしいパンチャー同士だからファンも 喜ぶだろうからね」と発言したほどである(しかし、プライドの高いバンナは「そんな気遣いは無用だ!ニヤニヤしてんじゃねえ!」と逆に怒ってしまった)。
  • 親日派でもあり、日本で行われた自身の結婚式では袴を着用し、婦人は文金高島田の出で立ちであった。
  • 2004年、入場テーマ曲に自ら参加したSEALの「マイ・セルベイション」を使用する。
  • 2005年に開催された愛知万博では、南アフリカ館親善大使に任命された。
  • 弟のカール・ベルナルドも、K-1のリングにあがっている(K-1 REVENGE '96にて初来日。アーネスト・ホーストに2RKO負け)。

ボクシング略歴

  • 1993年2月28日、デリス・ムセムワに3RKO勝ちでプロデビュー。
  • 1993年4月6日、アントン・ネルに1RTKO負け。
  • 2000年5月12日、ダニエル・ジェリングと空位のWBF世界ヘビー級王座決定戦を争い、6RTKO勝ちし、タイトル獲得。ジェリングの王座決定戦時の戦績(1勝5敗)が物議を醸す。
  • 2001年6月8日、ピーター・マクニーリーに1RTKOで同王座初防衛。

獲得タイトル

  • 第10代WBF世界ヘビー級王座
  • ワールド・オリンピック キックボクシングスーパーヘビー級王座
  • 第3代WAKO-PRO世界ムエタイスーパーヘビー級王座
  • WKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座
  • K-1 GRAND PRIX '96 準優勝
  • K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA 優勝

  



ダナ・ホワイト
Dana White
1969/7/28

デイナ・ホワイトDana White)は、アメリカ合衆国のスポーツプロモーション会社「ズッファ(Zuffa, LLC)」の代表であり、同社の運営するアメリカ随一の総合格闘技イベント「UFC」の代表である。コネチカット州マンチェスター出身。WOWOWのUFC放送ではデイナ・ホワイトと表記されている。

来歴

元はアマチュアボクサーであったが、1992年、ネバダ州ラスベガスに自身の会社「ダナ・ホワイト・エンタープライゼス」を設立。アマ時代の経験を活かし、ボクシングの指導やボクササイズのジムを経営する。

経営が軌道に乗り、プロボクサーのマネージメント業に乗り出すうちに、いつしか総合格闘技の選手のマネージメント業も行うようになった。その中には後のUFCライトヘビー級王者ティト・オーティズやチャック・リデルもいた。

そのような状況の中、当時SEG(Semaphore Entertainment Group)社が運営していたUFCが暴力性への批判等から規模を縮小させた際に、身売り先を探していたことを知り、かつてネバダ州アスレチック・コミッションにおいてコミッショナーを務めていたハイスクール時代の同級生ロレンゾ・フェティータ(ステーション・カジノ経営者)にコンタクトを取る。

ほどなくしてロレンゾとその兄フランクはUFCに関する一切の権利を買収し、ズッファ社がUFCを運営することとなった。ダナ・ホワイトはその社長に任ぜられる。

その後、交渉とルール整備によってCATVの放送を復活させ、UFCを全米随一の格闘技イベントへと成長させた。

現在、主にヨーロッパを主軸に全世界に進出中であるが、積極的な姿勢であらゆる格闘技イベント関係者から注目されている。

人物

この世には総合格闘技イベントはUFCとPRIDEの2つしかないと語っていたが、買収直後の2007年5月にはPRIDEの名称を「下らない名前」と語った(一方で「PRIDE Fighting Championship」であれば最高の名称であるとしている)。

2007年にPRIDEを買収した後、PRIDEの大会開催を目指していたが開催できずにPRIDEが消滅したことについては「我々にはPRIDEのための計画があったし、日本大会を開催するつもりだった。しかし、そこにはヤクザ、マフィアが横行していた。あそことビジネスをするのは実に面倒だ。ヤクザのせいでPRIDEというブランドが消滅することになってしまったのは非常に残念だ」と語っている。

UFC以外の他の総合格闘技団体に対しては批判的な姿勢をとっており、BodogFightやEliteXCなど、2006年以降に勃興した多くの新興イベントを「ジョーク」と発言し、さらに、六本木でのMMA版スーパーボウル構想においての会見では「PRIDEとUFC以外はジョーク」と発言した。日本のHERO'Sのアメリカ興行であるDynamite!! USAを例に挙げて嘲笑するなど、UFCへの自負が強い。また、地上波のNBCでも放送されていてUFCに次ぐMMA団体と評価されているStrikeforceについては「UFC以外のMMA団体はジョークばかりだが、Strikeforceのことだけは認めている。スコット・コーカーは素晴らしいマッチメイカーだし、リスペクトに値する」と賞賛していた。しかし、2009年8月にUFCがエメリヤーエンコ・ヒョードルとの契約交渉が決裂し、ヒョードルがStrikeforceと正式契約した途端に「あそこは(Strikeforceじゃなくて)Strike-Farce(茶番劇)だ!彼らは田舎でドサ回りをしているだけで、金もなければファイターもいない。取るに足らない団体だ」と態度を急変して猛烈に批判している。後に「Strikeforceは素晴らしい団体だが、Strikeforceを放送しているShowtimeの連中がクソなんだ」と発言を訂正している。

また、UFC以外の他団体と契約しているファイターについても批判的な姿勢は変わらず、世界中の格闘家や専門家から「世界最強」と評価されているエメリヤーエンコ・ヒョードルに対しても、ヒョードルとUFC参戦の交渉している最中には高く評価するコメントを残していたものの、ヒョードル側とUFCの交渉が決裂した途端に「ヒョードルは2005年にミルコ・クロコップと対戦して以来、トップファイターと呼べる選手と対戦していないじゃないか!そんな奴が世界最強だなんて馬鹿げたジョークだ!」と手の平を返すように批判し始めた。しかし、2008年にヒョードルが元UFC世界ヘビー級王者ティム・シルビアに秒殺勝ちした一戦を目の当たりにしてからは「ヒョードルに対する考え方が変わった」と驚愕していた。しかし、その後もヒョードルに対しての批判は連日のように続けている。ヒョードルを獲得できない苛立ちが影響しているのか、支離滅裂な発言も目立つようになってきている。カーマイケル・デイブのインタビューでヒョードルについて突っ込まれた質問をされた際には遂に激怒してブチキレてしまい、デイブから「ファンはヒョードルにUFCに上がって欲しいと思ってます。あなたは“ヒョードルは強い”とばかり言われてウンザリしているだけでは?なぜヒョードルをUFCで戦わせようとしないのですか?」と言われると、「なぜだ? 彼はパウンド・フォー・パウンドには程遠い存在だ。それに彼がUFCで戦わないのは私のせいではなく、彼のせいだ」と責任逃れし、「サンボに愛着を持っているヒョードルに対して“サンボの試合をやらずにUFCに専念しろ”とか、チャンピオンでいる限りは自動的に契約延長、といったおかしな契約方針を変えた方がいいのでは?あなたはファンが望むことは私が望むことだって言ってますよね。だったらヒョードルvsUFC王者の試合は1試合契約でもいいから実現させないと」と言われると、「くだらない!それがファンの望む試合か?彼がとても強いというのなら1試合じゃおかしいだろう!こちらは大金を払っているんだからUFC以外の試合をして怪我されたら困るんだ!」とコメント。さらには「ヒョードルはUFCの歴代王者にも勝ってますよ。アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに2回、アンドレイ・アルロフスキー、シルビア、その他のUFC王者にも」と言われると、「ノゲイラ戦なんて大昔じゃないか。シルビアなんて元々強くないし、アルロフスキーはアゴが弱い」とUFC歴代王者達の実績さえも全否定するかのような発言するなど支離滅裂ぶりが現れている。ちなみに、かつてダナはアルロフスキーがUFCを離脱した件について「契約を更新できなかったことが悔やまれる唯一のファイターがアルロフスキーだ。彼はトップファイターだから、またUFCに戻ってきて欲しい」と語っていたので、自身の発言をも否定していることになる。また、シルビアはアルロフスキーに2勝1敗と勝ち越している。

前述のように他団体のファイターに対して辛辣な批判を繰り返しているが、その一方でエディ・アルバレス、五味隆典、山本"KID"徳郁、ジェイク・シールズ、ゲガール・ムサシといったファイター達については「彼らの実力は紛れも無いトップファイターだ。だからこそジョーク団体とは縁を切って早くUFCに参戦するべきだ」と語っている。

桜庭和志のUFC参戦を熱望している。記者から「近年の桜庭の戦績はトップファイターとは呼べないものだが、なぜ参戦を望むのか?」と聞かれると、「それは彼がサクラバだからだ。サクラバがMMAの人気に絶大な貢献をした偉大な生ける伝説であることは今更説明する必要もないだろう」と語っている。

MMAのパウンド・フォー・パウンドについては「アンデウソン・シウバこそが間違いなくパウンド・フォー・パウンド世界最強王者だ。彼は常に強敵と戦い続け、常に圧勝し続けている。ジョルジュ・サンピエールも素晴らしい王者だが、後にリベンジしたとはいえマット・セラに一度不覚を取ってしまったことがアンデウソンとの差だな。ヒョードルはパウンド・フォー・パウンドではない。UFCファイターは常に最高の相手と対戦しているが、ヒョードルは大抵ロシアのビュッフェにいる。彼が覚悟を決めて世界最高のファイターと対戦しない限り、彼をパウンド・フォー・パウンドと言っている連中は正気の沙汰じゃない」とコメントしている。しかし、2010年4月10日のUFC 112でアンデウソンが相手を圧倒しているにもかかわらず、相手に対しての度重なる挑発行為と、後半の消極的な試合運びに対して激怒し、「このビジネスを始めて10年になるが、これまでで最低の出来事だった。メインイベントの最中にアンデウソンのマネージャーにチャンピオンベルトを投げつけて帰ったのは初めてだ」「俺以上にアンデウソンを応援してきた人間はいない。ずっと彼をパウンド・フォー・パウンドだと言い続けてきたし、不甲斐ない試合をした時もサポートしてきた。才能があるならマイク・タイソンのように早く試合を終わらせてほしい」と怒りを露にし、「次のアンデウソンの試合はメインイベントではなく、アンダーカードにするかもしれない。もしアンデウソンがもう一度あんな試合をしたら彼が現役UFC世界ミドル級王者であろうとパウンド・フォー・パウンド王者であろうとも即座に解雇する」とまで発言している。

アンデウソン・シウバが、パウンド・フォー・パウンド最強のボクサーとして知られる伝説の元ボクシング世界王者ロイ・ジョーンズ・ジュニアと、ボクシングルールで対戦することを熱望しており、ロイ・ジョーンズもこの対戦に関して意欲的だが、UFCは選手に対して独占契約を結んでおり、UFC系列の試合以外には一切出場させないことにしているため、実現していない。それを受けてロイ・ジョーンズが「UFCでのMMAルールでも構わないからアンデウソンと対戦したい」と言ったが、ダナ・ホワイトは「私はロイ・ジョーンズの悪口は言いたくないし、彼のことが好きだしファンだった。しかし彼の全盛期は約15年前だ。今の彼は世界最高レベルのボクサーではない。もうお釣りも残っていない。もちろん試合をやろうと思えばやれるし、大々的に宣伝して儲けることも可能だろう。でもそれは我々がお金に困っていた2000年代前半までの話だ。稼ぐことは出来たとしても、長期的に見ればMMAに悪影響を及ぼすことになる。我々はこのMMAというスポーツが好きだからそういう試合はしたくない。K-1やPRIDEと同じになってしまうからね」とコメントし、総合格闘技に対する愛着を示している。

ティト・オーティズはUFCのファイターであり、かつてはダナがティトのプロモーターを務めていたが、ダナはティトを激しく嫌っており、記者からティトについて聞かれる度に「ティト・オーティズは地球上最大の大馬鹿野郎だ!」などと散々なまでに罵っている。一方のティトもダナを激しく嫌っており、ティトのUFC最後の試合となったUFC 84の試合前日会見などでは「DANA is my Bitch」とプリントしたTシャツを着てダナを挑発した。その後ティトとダナは契約交渉を重ねて和解し、ティトはUFCと再契約。再契約した直後のUFCファンイベントでは、来場したファンが持参した「DANA is my Boss」とプリントしたTシャツをティトが着るパフォーマンスを行った。

また、女性が総合格闘技をすることを嫌がっていることでも知られている。しかし、ジーナ・カラーノについては「私はジーナ・カラーノが優秀なファイターだと思っているし、スター選手だと思っている。EliteXCのようなジョーク団体にはもったいない」「EliteXC: Heatでは彼女がメインイベンターを務めるべきだった」「もしジーナと契約できるのであればWECに女子部門を作る」と高く評価している。

YouTubeの公式ビデオブログやTwitterなどで大会の裏側や会見の予告をしている。Twitterでは「今から30分後に俺は○○に行くから、そこに来たファンにはUFCの招待券をプレゼントしよう」などとツイートしてファンに招待券をプレゼントすることが多い。また、UFCの大会だけでなく、ボクシングのマニー・パッキャオの試合の招待券をファンに配ったこともある。






ブライアン・ジョンストン
Brian Johnston
1969/7/28

アメリカ合衆国の元総合格闘家、プロレスラー。カリフォルニア州サンノゼ出身

来歴

1996年7月12日、UFC 10に参戦。トーナメント1回戦を勝ち抜いたが、準決勝でドン・フライに敗れた。

1996年9月20日、UFC 11に連続参戦。トーナメント1回戦を勝ち抜いたが、準決勝でマーク・コールマンに敗れた。

1997年9月、新日本プロレスに初出場。ドン・フライと共闘し、新日本マットで活躍。

2000年4月、中西学、永田裕志、吉江豊のユニット「G-EGGS」に加入(「G-EGGS」は2001年7月解散)。

2001年8月19日、『K-1 ANDY MEMORIAL 2001』で行われた藤田和之対ミルコ・クロコップ戦で藤田のセコンドについたが、試合中に体調不良を訴え病院に入院。脳梗塞と判明した。

2003年にはWJプロレス主催の金網の総合格闘技大会「X-1」の企画・プロデュースに携わる。






北村 ヒロコ
1972/5/26

きたむら ひろこは、日本の総合格闘家。本名は北村 裕子(きたむら ひろこ)。大阪府出身。禅道会小金井道場所属。

2人の娘を持つ「ママさんファイター」である。また、大の猫好きであり、家では6匹の猫を飼っている。

来歴

結婚・出産を経験後、34歳で夫・娘2人とともに自宅の近所にあった禅道会小金井道場に入門。当初の目的はダイエットのためであった。

2008/10/5、リアルファイティング空手道選手権大会・女子52kg以下級に出場。決勝で小澤深岬に勝ち、優勝を果たした。

2009/4/19、JEWELSのアマプロ大会「ROUGH STONE 1st RING」に出場。アマチュア総合ルールで大矢裕子に判定勝ち、浜崎朱加には判定ドロー。

2009/5/16、JEWELS 3rd RINGのオープニングファイトで村田恵実とJEWELSアマチュアルールで対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。

2009/7/11、初のプロマッチとなったJEWELS 4th RINGでHARUMIと対戦し、三角絞めで一本勝ちを収めた。

2009/10/4、リアルファイティング空手道選手権大会・女子57kg以下級に出場。決勝で杉山しずかに0-3の判定負けを喫し、準優勝となった。

2009/12/11、JEWELS 6th RINGで浜崎朱加と対戦予定であったが、直前になって浜崎が怪我をしたため試合が中止となった。

2010/1/31、ROUGH STONE 2nd RINGのメインイベントで鹿児島陽子と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

2010/2/11、初めてのケージでの試合となったVALKYRIE 04でsakuraと対戦し、パウンドでTKO勝ち。この試合は負傷欠場となったSACHIに代わる緊急出場となり、前戦からわずか11日後という連戦となった。

2010/3/19、JEWELS 7th RINGでセリーナと対戦し、アームロックで一本勝ち。プロデビュー以来4連勝となった。

2010/6/5、プロ5戦目で日本国外での試合に抜擢。アメリカ合衆国で行なわれたLegends MMA女子125lbsタイトルマッチでサリー・クラムディアックと対戦し、グラウンドでの肘打ち連打によりタオルが投入されTKO負け。プロ初黒星となった。

2010/8/29、禅道会主催の武道総合空手道選手権東海大会のワンマッチで井上瑞樹(魅津希)と対戦し、判定負けを喫した。

2010/10/10、JEWELS 10th RINGで開幕したROUGH STONE GP 2010 -52kg級に出場。準決勝で富田里奈に3-0の判定勝ち。12/17、JEWELS 11th RINGの決勝で市井舞に3-0の判定勝ちを収め優勝を果たした。

獲得タイトル

  • JEWELS ROUGH STONE GP 2010 -52kg級 優勝
  • 2008 リアルファイティング空手道選手権大会 52kg以下級 優勝
  • 2009 リアルファイティング空手道選手権大会 57kg以下級 準優勝





畑山 隆則
1975/7/28

日本の元プロボクサー、元WBA世界スーパーフェザー級、ライト級チャンピオン。青森県青森市出身。血液型A型。日本人4人目の世界2階級制覇者。

青森山田高校を一度中退し、再入学し卒業。現在、太田プロダクション所属のタレント・俳優で、青森大学経営学部在学中。

K-1 WORLD MAXの解説者。






ソルデティグレ・ヨースケ
Sol-de-tigre Yosuke
1981/7/28

日本の元キックボクサー、プロボクサー。東京都出身。U.W.F.スネークピットジャパン所属。ボクシング時代はヨネクラボクシングジム所属。

「ソルデティグレ」は「太陽の虎」という意味であり、高山善廣によって付けられた。

来歴

2001/4/4、プロボクシングデビュー戦でKO勝ち。

2004/10/2、粟生隆寛と対戦し、4Rにダウンを奪うもダウンを奪い返されるなどして判定負け。

2005/7/28の試合を最後にボクシングを引退した。

2006/8/27、プロキックボクシングデビューとなった全日本キックボクシング連盟で野間一暢と対戦し、判定ドロー。

2007/2/2、全日本キックボクシング連盟で橋本城典と対戦し、判定勝ち。転向3戦目で初勝利となった。

2008/4/26、全日本キックボクシング連盟で上松大輔と対戦し、1・2Rにダウンを奪われるなどして判定負け。

2008年は全日本キックボクシング連盟最多7試合を戦った。

2009/2/1、Krush! Rookies Cup 〜K-1 Rule 60kg Tournament〜に出場予定であったが、右尺骨骨折により欠場となった。

2009/7/24、Krushライト級グランプリに出場。1回戦で梶原龍児にTKO負け。

2010/4/29、Krush.6で野杁正明と対戦し、右跳び膝蹴りでKO負けを喫した。

2010/5/17、自身のブログで現役引退を発表した。






カール・ゴッチ
Karl Gotch
1924/8/3 - 2007/7/28

プロレスラー、プロレスコーチ。日本においてはプロレスの「神様」と称される。本名はカール・イスターツKarl Istaz)。1961年まではリングネームとしてカール・クラウザーKarl Krauser)と名乗っている。プロフィール上はドイツ・ハンブルク出身とされているが、実際はベルギー出身と言われている。得意技はジャーマン・スープレックス。
来歴

レスリングでは、グレコローマンおよびフリースタイルレスリングのベルギー王座を7回ずつ獲得。ロンドンオリンピック(1948年)のグレコローマンおよびフリースタイルレスリングにベルギー代表として出場。1950年"Karel Istaz"のリングネームでプロレスデビュー、ヨーロッパ各地のトーナメントへ参戦。同年、ウィーンでのトーナメントでハープ・ガーウィッグ(後のキラー・カール・コックス)に敗れ準優勝。1951年より"Snake Pit"(蛇の穴)の通称でも知られるイギリスのビリー・ライレージムでビリー・ジョイスについてランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)を練習する。

1959年にカナダへ進出、モントリオールでの興行へ参戦。1960年にアメリカへ進出、プロフィール上はドイツ人となり、リングネームとしてカール・クラウザーを名乗る。オハイオ州のMidwest Wrestling Association(MWA)へ参戦すると、1961年にNWAイースタンステーツヘビー級王座を獲得。同年、リングネームをフランク・ゴッチにあやかりカール・ゴッチへ改める。1962/8/31オハイオ州コロンバスにおいて、友人であるビル・ミラーと共に、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースと控え室でトラブルを起こす。同年、ドン・レオ・ジョナサンを破り、American Wrestling Alliance(オハイオ版AWA)世界ヘビー級王座を獲得。1963年9月から1964年11月にかけて、ルー・テーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座に9回挑戦するが、王座は獲得できず。1967年カリフォルニア州ロサンゼルスのWWAに参戦すると、同年"アイアン"マイク・デビアスをパートナーとしてWWA世界タッグ王座を獲得。同年6/30、大木金太郎が保持していたWWA世界ヘビー級王座にデビアスが挑戦した試合へ乱入し、デビアスの王座獲得を助けたと言われている。1968年アメリカ市民権を取得。1971年WWWF(後のWWE)へ参戦すると、レネ・グレイをパートナーとしてWWWF世界タッグ王座を獲得。しかし、ルー・テーズから「私をもっとも苦しめた挑戦者」と評されながらもとうとう主要王座は獲得できず、「無冠の帝王」の異名を持つ。

日本においては、1961年4月日本プロレスの第3回ワールドリーグに出場するために、カール・クラウザー(Karl Krauser)のリングネームで初来日。吉村道明を相手にジャーマン・スープレックス・ホールドを日本初公開する(試合は引き分け)。力道山とも対戦し、引き分ける。なお、来日中、ビル・ミラー(覆面レスラーのミスター・Xとして来日)と共に控え室でグレート・アントニオへ制裁を加えたという噂がある。1966年7月に再来日、ジャイアント馬場のインターナショナル選手権に挑戦が決まっていたが怪我で断念。1968年1月日本へ移り住み、日本プロレスのコーチに就任。「ゴッチ教室」を開き、アントニオ猪木に卍固め、ジャーマン・スープレックスを伝授。さらに山本小鉄、星野勘太郎といった当時の若手・中堅選手を厳しく鍛えた。ヨーロッパ仕込みのテクニックから「プロレスの神様」と称される。

その後はハワイで清掃の仕事などをしていたが、1971年3月国際プロレスの吉原功社長の招きで、第3回IWAワールドシリーズに参加。ビル・ロビンソンと5回対戦し、全試合とも時間切れで引き分ける。モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)とも対戦し、ジャーマン・スープレックス・ホールドを決めるが、レフェリーがリング外でダウンしていたためフォールは認められず、ロシモフの逆襲に不意を突かれ敗れる。国際プロレスに所属していたアニマル浜口らを指導する。

1972年1月の新日本プロレス設立に選手及びブッカーとして助力。1972年3月から1974年8月にかけて、アントニオ猪木と5回対戦し、3勝2敗。1973年10月ルー・テーズをパートナーとしてアントニオ猪木&坂口征二組と3本勝負で対戦し、1-2で敗れる。その後、フロリダ州タンパの「ゴッチ道場」において、藤波辰巳、木戸修、藤原喜明、佐山聡、前田日明らプロレスラーを数多く育成する。1982/1/1後楽園ホールにおいて藤原喜明とエキシビション・マッチで対戦、同年1月8日後楽園ホールにおいて木戸修と対戦したエキシビション・マッチが、プロレスラーとして最後の試合である。

その後は、第一次および第二次UWF、藤原組の顧問に就任し、所属プロレスラーを指導。佐山聡が設立したスーパータイガージムでも指導をする。シーザー武志へはシュートボクシング創設につながるアドバイスを与える。また、船木誠勝、鈴木みのるが1993年5月に設立した団体に「パンクラス」の名を与えている。2006年7月より藤波辰爾、西村修が設立した無我ワールド・プロレスリングの名誉顧問に就任。晩年は、タンパの自宅に西村修が度々訪ね、既に夫人を亡くしていたゴッチの世話を西村が行っていた。二人で夜な夜なワインを酌み交わしながら、プロレス談義に花を咲かせていたという。

2007/7/2821時45分、アメリカ合衆国フロリダ州タンパ市にて82歳で死去した。2007/7/30発行の東京スポーツ紙の記事では『大動脈瘤破裂』が死因だったとしている。

来歴についての疑問点
  • ゴッチの生年月日についてはいくつかの説が伝えられていたが、2000年代になってからは「1924年8月3日生まれ」でほぼ統一されている。「ドイツ・ハンブルク出身」とされているが、「ベルギーのアントウェルペンまたはブリュッセルの生まれで、後にハンブルクへ移住した」とも言われている。また、「父はハンガリー人、母はドイツ人」「"Gotch"というリングネームは母方の姓に由来する」とも「オランダ系でドイツ人の血は引いていない」とも言われている。このため、「ゴッチは(かつて第二次世界大戦においてアメリカと戦った『ヒール』としての)ギミックとしてドイツ人を演じているだけではないか」という意見もあるが、一方で、「ゴッチはナチスについて肯定的な発言を本気でしている」とも言われている。
  • ゴッチのアメリカ進出以前の経歴については、出典により異なった情報が伝えられている点が多い。例えば、以下のような経歴が紹介されたことがある。
    • ナチス統治下のドイツにおいて、9歳よりレスリングを始める。
    • 16歳でアマチュアレスリング全ドイツ・ヘビー級王座を獲得。
    • ヘルシンキオリンピック(1952年)のグレコローマンスタイルレスリングに出場、銀メダルを獲得。
    • 1954年より2年間、ビリー・ライレージムでランカシャーレスリングを練習する。
    • 1956年ヨーロッパでプロレスデビュー。
  • ゴッチが初来日の時に「クライザー」と名乗っていたのは、元々来日する予定であったクライザーというプロレスラーが来日できなくなり、代役として来日したためであるという「ゴッチ代役説」が伝えられている。この説では、ゴッチが「クラウザー」という類似したリングネームを使っていた事実はなかった(もしくは単なる偶然)とされる。また、代役としてゴッチを推薦したのは、ビル・ミラーとも言われている。この説とは別に、「クライザー」というプロレスラーが来日するはずが、なんらかの手違いにより「クラウザー」ことゴッチが来日してしまったという「ゴッチ人違い説」も伝えられている。元々来日する予定であったプロレスラーは、カロル・カルミコフのリングネームも使っていたカロル・クラウザー(Karol Krauser)とも言われている。
  • 1962/8/31にオハイオ州コロンバスのフェアグラウンズ・コロシアムにおいて、ジョニー・バレンドと対戦予定であったNWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースが「控え室でカール・ゴッチとビル・ミラーに襲われて負傷した」と訴え、その日の試合を欠場した(公演自体は行われ、ロジャースの代役としてジャイアント馬場がバレンドと対戦したが、入場料の一部は払い戻しとなった)。ゴッチとミラーは警察署に出頭し、逮捕されたが、保釈金を支払って釈放された。ロジャースが「急に閉じられたドアに手を挟まれて負傷した」と主張したのに対し、ゴッチとミラーは「平手で一発ずつロジャースの顔を殴っただけで、負傷させるつもりはなかった」と反論した。ゴッチとミラーは「ロジャースには、次にオハイオを訪れた時にわたしたちの挑戦を受けることを要求したのに、負傷させては意味がない」「わたしたちがロジャースを負傷させるつもりであれば、手を負傷した程度で終わるはずがない」とロジャースを負傷させたことを否定したが、ロジャースは複数のプロモーター、プロレスラーから恨まれていたため、何者かがゴッチとミラーに依頼してロジャースを負傷させたという憶測が絶えなかった。なお、ロジャースはしばらくして試合に復帰したが、1963年1月24日、ルー・テーズに敗れ、NWA世界ヘビー級王座を奪われた。一方、ゴッチはこの事件の2週間後にオハイオ版AWA世界ヘビー級王座を獲得すると、その後はテーズと互いの王座を懸けて対戦するなど、アメリカにおける全盛期を迎えた。この逸話はかつては梶原一騎などによって「ロジャースは人気ばかりで実力がなかったからゴッチに控室でKOされた男として最低の恥をかかされた(『プロレススーパースター列伝』でのリック・フレアーの台詞)」などと誇張して伝えられ、ロジャースが未来日だったこともあって日本でのある時期のロジャースの印象を一部で低下させた。
プロレスラーとして
  • ゴッチはプロレスラーとしてそれほど大きな成功を収めておらず、アメリカでの知名度は低い。しかし、レスリングの技術とトレーニングに対する拘りから、日本では尊敬を集めている。インドのクシュティ、日本の柔道、ロシアのサンボを含む世界中のあらゆるレスリングに精通しており、「朝目覚めてから夜眠るまで常に『素手でいかに効率良く人を殺せるか』を考え続けている」と言われている。
    • ゴッチはレスリングを最も古く、最も難しいスポーツと考えており、キャッチアズキャッチキャンをレスリングの中で最強のスタイルとしている。打撃を含む総合格闘技に関しては一貫して否定的である。
    • ゴッチの行うトレーニング方法はインドに由来するものが多い。レジスタンストレーニングとしてはフリーウエイトを使うことは好まず、自重によるトレーニングを多用している。
    • 柔道出身のプロレスラーであった木村政彦とゴッチは友人であった。ゴッチはグレイシー柔術については「自分も知っている昔の柔道以上のものではない」と語っており、あまり評価していない。
    • ゴッチは宮本武蔵を尊敬しており、五輪書を愛読している。武蔵の心境に近づくために、プロレスラーとして試合をすることがなくなってもトレーニングを続けていた。
    • 左手の小指の大部分を欠損している。この欠損の原因は、レスリングとは関係ない事故とされている。本人の弁では船員時代折れた船の煙突が友人を下敷にしそうになったのを庇って失ったとのことである。
  • ゴッチのファイトスタイルは、レスリング技術を主体とする「正統派」で、派手さが無く、興行が盛況に至らないという理由から、一部プロモーターには煙たがられていた。見る人間によって「独り善がりでプロレスを理解していない人間」か「妥協無き真のプロレスラーでありシューター」という風に、評価が真っ二つに分かれるプロレスラーである。プロレスラー間でも、日米問わず賛否が分かれており、ルー・テーズやビル・ミラーから高い評価をされている一方、新日本プロレスの道場での稽古で再会したザ・グレート・カブキはゴッチが関節を極める際に指を眼に入れるなどの妥協なき「技術」を駆使して来るために「ずるい」と語り、ジャイアント馬場も「コーチとしての腕は認めても良いが、レスラーとしては駄目」と発言している。
  • ゴッチがルー・テーズの保持するNWA世界ヘビー級王座に6回目の挑戦をした試合(1964/5/2、ミシガン州デトロイト)において、ゴッチはテーズからバックドロップを仕掛けられた時に、自分の体重をテーズにあずけ、テーズの肋骨5本を骨折させた。テーズはダブルリストロックで試合には勝ったものの、この骨折から回復するのに7か月間かかり、特に骨折直後の2か月間は、後に人生で最悪の時間であったと語るほど苦しんだ。テーズはゴッチがこの試合でダブルクロスを試みて自分を傷付けたと信じており、そのことが2人の仲違いにつながったとも言われている。
  • ゴッチのジャーマン・スープレックス・ホールドはもっとも軌道が美しいと称えられており、ミスタージャーマンのスープレックスを投げられるレスラーは、ある意味勲章であった。
  • ゴッチのライバルは数多い。ビル・ロビンソンやドン・レオ・ジョナサンなど多くのライバルと戦って来たが、最強のライバルと言うと「鉄人」ルー・テーズを置いて他に無い。1961年から1964年までに7回戦って来たが、何れも引き分けであった。大方のパターンはジャーマン→バックドロップ→時間切れ引き分け……と言うのが大体の試合パターンであった。なおゴッチはテーズに対してライバル心と同様、ある種の憧れも抱いており、敢えてテーズと同じ様なファイティングポーズを取っていたと言う。

獲得タイトル

  • ヨーロッパ認定世界ヘビー級王座
  • NWAイースタンステーツヘビー級王座
    • 1961年獲得。
    • 1961/12/29、オハイオ州コロンバスにおいてドン・カーティスに奪われる。
  • AWA世界ヘビー級王座(オハイオ版)
    • 1962/9/14、オハイオ州コロンバスにおいてドン・レオ・ジョナサンより獲得。
    • 1964年9月7日、オハイオ州コロンバスにおいてルー・テーズに奪われ、NWA世界ヘビー級王座へ吸収。
  • IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版)
    • 1965/8/18、メルボルンにおいてスパイロス・アリオンより獲得。
    • 1965/8/25、メルボルンにおいてスパイロス・アリオンに奪われる。
    • この頃のオーストラリアでは、ゴッチはリングネームをカール・クラウザーに戻している。
  • WWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版)
    • パートナーは "アイアン" マイク・デビアス。
    • 1967年、ミスター・モト&大木金太郎組より獲得。
    • 1967年、ペドロ・モラレス&ビクター・リベラ組に奪われる。
  • WWWF世界タッグ王座
    • パートナーはレネ・グレイ。
    • 1971/12/6、ニューヨーク州ニューヨークにおいてルーク・グラハム&ターザン・タイラー組より獲得。
    • 1972/2/1、ペンシルベニア州フィラデルフィアにおいてマイケル・シクルナ&キング・カーティス組に奪われる。
    • 新日本プロレスの設立に協力するために、短期間で王座を譲り、WWWFから離脱する。
  • 世界ヘビー級(認定団体不明)
    • フランク・ゴッチゆかりのベルトと言われていたが、上記のオハイオ版AWAベルトを流用したものと思われる。
コーチとして
  • コーチとしてのゴッチは、豊富な知識から様々な練習方法を提案し、やる気を出させる教え方が上手なため、慕っているプロレスラーが多い(ただし、スパーリングは非常に厳しいらしい)。ゴッチの教えは「ゴッチイズム」と呼ばれ、ゴッチの指導を受けたアントニオ猪木が新日本プロレスで「ストロングスタイル」を確立したため、特に新日本プロレス出身のプロレスラーの間では畏敬の念を抱かれている。もっとも、これはアングルの一種でもあり、弟子たちの多くはゴッチを利用して有名になるとゴッチの下を訪れなくなったため、ゴッチがインタビューでかつての弟子たちに苦言を呈したこともある。なお、全日本プロレスの渕正信がゴッチの下を訪れた際にもゴッチは熱心に指導しており、指導するプロレスラーの所属団体についての拘りはないようである。
    • 長州力がデビュー戦から使用し続けているサソリ固め(スコーピオン・デスロック)は、ゴッチが伝授したと言われている。
    • 藤波辰爾の得意技だったドラゴンスクリュー、ドラゴン・スープレックス(フルネルソン・スープレックス)は、ゴッチが元祖である。
    • ゴッチは「12種類のスープレックス」を新日本プロレス期待の若手であった当時の前田日明に伝授している。
    • ゴッチは小沢正志のためにモンゴル人のギミックを考案し、「テムジン・モンゴル」と命名したが、小沢がアメリカへ進出する際に「キラー・カーン」と改名したために破門している。その後、ゴッチと小沢が和解したかどうかは不明である。
  • 第2次UWFブーム当時、ゴッチは週刊ゴングのインタビューで「日本には私のファイトスタイルを忠実に再現しているレスラーが1人だけいる」と発言し、記者から「それは誰ですか?やはり前田(日明)さんですか?」と尋ねられたのに対して、「木戸修だよ」と答えている。この発言からも分かるように、蹴りを多用する前田日明、高田延彦には、「彼らはキック・ボーイになってしまった」とやや冷水を浴びせるところがあった。ただし、ゴッチは来日時に山本小鉄へ見事なソバットを決めたこともあり、キックを嫌う傾向はあるが、必ずしも否定はしていないという見方もある。また、鈴木みのるがUWF時代にこだわりを持って使用したドロップキックやストンピングを批判していないところから、繋ぎ技、裏技、奇襲として足の裏で蹴ることは否定していないのではないかと思われる。
    • なお、木戸修に対するゴッチの思い入れは若手時代からであり、新日本旗揚げシリーズ前の道場での公開練習では、ゴッチは当時22歳であった木戸を専属パートナーとして指名している。
  • ゴッチはレスリングをするために筋肉増強剤は有害であると考えており、ケン・シャムロックが筋肉増強剤を使用していると批判している。パンクラスがゴッチの批判を無視してケン・シャムロックを重用したため、ゴッチはパンクラスと決別したと言われている。
  • ゴッチは1999年からしばらくの間マット・フューリーを指導したことがあり、2000年にトニー・チチーニーがフューリーを批判した時にはチチーニーを非難したが、その後はフューリーを厳しく批判している。かつての弟子とのトラブルについて、ゴッチは「魂だけは教えることができないものであり、本人が生まれながらに持っているものである」と述べている。
  • グレコ特有のロックアップしてからの展開を基本としていたため、自ら飛び込んでの片足タックルを全く教えなかった。ゴッチの技術体系では現在の総合格闘技に対応できないことは明らかであり、パンクラスがゴッチから訣別した一因ともなっている。
  • 前田日明によればゴッチはUWFの選手にタックルの有効性を訴えていたが、選手たちは理解せず見栄えのよいキックばかり練習していたと言う。
エピソード
  • 1986年「INOKI 闘魂 LIVE」前田日明vsドン・中矢・ニールセン戦のセコンドとしてUWFサイドの招きで来日した際、「これまで何度も飛行機で日本に来ているが、ファーストクラスを用意してくれたのは初めてだ。ありがとう。」とコメントした。これをUWFサイドは、「プロレスの神様と持ち上げておきながら、これまで関わった団体はその程度の扱いしかしなかった!」と、雑誌等で喧伝した。しかし、後にゴッチが第2次UWFの顧問から外れた際、実は新日も日本に呼ぶ際はファーストクラス料金を送金していたのに、ゴッチ自らが下のクラスの座席を取って来日していた事が明かされた。
  • 第一次UWF崩壊後も、来日の度に団体が用意したホテルではなく第一次UWFの社長であった浦田昇の家に宿泊していた。これは、1996年5月に浦田が修斗コミッショナーに就任した後に受けたインタビューで述べている。
  • 日本プロレスに来日した際、歯が痛くなったゴッチは「歯があるから痛くなる」と言い張って、歯医者に無理矢理痛くない歯も含めて全部の歯を抜かせたという。当然ながら抜いた直後は体調が悪化して練習を休みにせざるを得なくなり、猛特訓に辟易していたレスラー連中を大喜びさせたという。
  • 渕正信が雑誌「Gスピリッツ」(週刊ゴングの後継誌の一つ)に語ったところによると、渕がゴッチの元で修業していた1982年に「新日本とは何の契約もないので全日本が呼んでくれるのなら行ってもいい」とゴッチが言い出し、ちょうど米国遠征中だった馬場も興味を示したという。このゴッチ全日本登場は、「新日本の象徴であるゴッチを全日本が引き抜いてどう使うかが非常に難しい」ということなどから幻に終わった。渕によるとゴッチは馬場のことを「あの身体の大きさであれだけ動けて身体も柔らかいのは素晴らしい」と語っていたという。
  • ルー・テーズはゴッチについて晩年に「彼の動きはロボットを連想させる」と述べたことがある。
  • 死去する直前、テレビの取材で坂口征二とともに自宅に訪れた俳優の坂口憲二に「ゴッチ式トレーニング」を直接指導した。当初坂口は、10分程度の練習のつもりだったが、ゴッチの指導に熱が入り1時間以上練習するハメに。
  • アントニオ猪木が自他共に認めるゴッチの弟子としてレスラーとして尊敬していたこと、新日本プロレス旗揚げの際にNWAから締め出されていた新日に実力あるレスラーをブッキングしたことは有名だが、猪木自伝によれば「新日旗揚げ時のブッカー料は業界抹殺のリスクに見合う巨額を請求してきた」「ギャラの札の枚数を目の前で数えられた」として、金銭にシビアな面に猪木が幻滅した描写がある。

ゴッチが指導した主なプロレスラー

  • ヒロ・マツダ
  • アントニオ猪木
  • 坂口征二
  • キラー・カーン
  • アニマル浜口
  • 藤原喜明
  • 木戸修
  • 長州力
  • 藤波辰巳
  • 佐山聡
  • 渕正信
  • 前田日明
  • 高田延彦
  • 石川雄規
  • 鈴木みのる
  • 船木誠勝
  • 西村修
  • ジャック・ブリスコ
  • ボブ・バックランド
  • エル・カネック
  • ジョー・マレンコ
  • ディーン・マレンコ
  • ジョシュ・バーネット

流智美 Presents
プロレスの神様
カール・ゴッチ
その真実と真髄
流智美 Presents プロレスの神様 カール・ゴッチ その真実と真髄


 
   ↑ トップへヤフーオークション  


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system