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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
7/31






ジョニー・エース
Johnny Ace
1962/7/31

ジョン・ロウリネイティスJohn Laurinaitis)は、アメリカ合衆国の元プロレスラーで、現在はWWEの副社長の1人である(他にジム・ロス、シェイン・マクマホンなど)。「ジョン・ラリナイダス」などと表記される場合もある。生年は1965年ともされる。

主に全日本プロレスで活躍した。「カッター」「スタナー」と呼ばれるムーヴの創始者として知られている。

ジョセフ・ロウリネイティス(ロード・ウォリアー・アニマル)は兄、マーク・ロウリネイティス(ターミネーター / フューリー)は弟にあたる。

来歴

1986年、NWAフロリダ地区のFCW(フロリダ・チャンピオンシップ・レスリング)においてデビュー。当時はザ・シープハーダーズのマネージャーとして、ヒールのポジションにいた。その後、ノースカロライナのジム・クロケット・プロモーションズ(WCWの前身)に転戦し、シェーン・ダグラスとのアイドル系タッグチーム "ダイナミック・デューズ" で活動する。1989年には古巣のFCWにて、弟のザ・ターミネーターとのコンビでナスティ・ボーイズとタッグ王座を争った。

その間の1988年8月、全日本プロレスに初来日。以降も全日本の常連外国人レスラーとして、小橋健太、スティーブ・ウィリアムス、マイク・バートン、スタン・ハンセンらとコンビを組んで活躍する。1990年代全般は主戦場を全日本マットに絞り、1998年には三沢光晴の三冠ヘビー級王座に挑戦。敗れたものの各種のエース・クラッシャーで三沢を苦しめた。

リングネームのエースにちなんで、入場時にオリジナルのトランプのエースカードを撒くというパフォーマンスを行った時期もある。また、ピースサインをパフォーマンスとして用いた時期もあり、その当時のタイツにはピースサインが施されていた。

2000年に全日本から三沢らが離脱したのをきっかけにレスラーを引退。全日本ではアメリカ人選手の招聘窓口も兼務していたことから、その人脈と手腕を見込まれ、引退後はWCWのブッキング部門の責任者となる。WCW崩壊後はWWF(現WWE)に移籍。同様にブッカーとして活躍し、2004年にタレント・リレーション部担当副社長、2007年には同上席副社長となるなど、エグゼクティヴとしてのキャリアを重ねている。

全日本との繋がりは現在でも強く、WWEを解雇されたレスラーが彼の紹介で全日本プロレスに参戦することも多い。また、仲田龍とも旧知の仲であるため、ノアのレスラーがWWEのダーク・マッチへ出場する場合もある。

獲得タイトル

全日本プロレス
  • 世界タッグ王座:4回(w / 小橋健太×2、マイク・バートン、スティーブ・ウィリアムス)
  • アジアタッグ王座:2回(w / 小橋健太)
FCW
  • FCWタッグ王座:2回(w / ザ・ターミネーター)
その他
  • ICWAフロリダ・ヘビー級王座:1回
  • OWFヘビー級王座:1回

入場テーマ曲

  • Kickstart My Heart(モトリー・クルー)

 
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キッド・キャッシュ
Kid Kash
1969/7/31

デビッド・キャッシュDavid Cash)は、アメリカ合衆国のプロレスラーである。テネシー州ジョンソンシティー生まれ。元WWEのSmackDown!所属。キャッシュはアメリカのミュージシャン、キッド・ロック(Kid Rock)に容姿が似ていることからのこのリングネームになった。またキャッシュのエントランステーマ曲もキッド・ロックの代表曲「Bawitdaba」に似ている。左腕に「過心」のタトゥーがある。

経歴

1990年プロレスデビュー。インディ団体で活動後1995年から1997年までECWで活動する。1997年にWWF(現WWE)へ入団するが6か月で退団。ECWへ戻り、団体が消滅する2001年まで在籍する。なお、最後のECW TV王座でもあった。 2002年にTNAが設立されると同団体を活動の中心とし、TNAディビジョンX王座戦線やタッグ王座戦線で活躍した。

2005年

2005/4/19にTNAを退団後WWEと契約、同年5/25にOVWに登場する。6/19にはヒートに登場してタジリと試合をするが、8/3にはギミックの調整のためにWWEの下部団体DSWへ送られた。8月中にスマックダウンの下部番組ヴェロシティに再登場。以降スマックダウンのクルーザー級戦線のレスラーとして活動を開始し、2005年のアルマゲドンにおいてクルーザー級王座を獲得した。

2006年

2006年、ジェイミー・ノーブルとピットブルズというタッグチームを組んで活動していたが同年9/27付けで素行不良によりWWEを解雇された。

2007年

TNAに参戦した。

リング・ネーム

  • デビッド・タイラー・モートン・ジェリコ
  • デビッド・キャッシュ
  • キッド・キャッシュ

タイトル歴

TNA
  • TNA Xディヴィジョン王座 : 1回
WWE
  • WWE・クルーザー級王座 : 1回
ECW
  • ECW・TV王座 : 1回


小杉 夕子
1980/7/31

日本の元女子プロレスラー。吉本女子プロレスJd'に所属していた。北海道札幌市出身。

経歴・戦歴

1996/7/30、東京・後楽園ホールにおいて、対阿部幸江戦でデビュー。

2000/8/3、後楽園ホールの対ザ・ブラディー戦を最後に引退した。

タイトル歴

  • AWF世界女子王座
  • TWFタッグ王座
  • 全日本タッグ王座

入場テーマ曲

  • 「Wannabe」(スパイス・ガールズ)
  • 「Scudetto」

 




東富士 欽壹
1921/10/28 - 1973/7/31

本名:井上 謹一(いのうえ きんいち)は、大相撲の第40代横綱、元プロレスラー。東京市下谷区(現在の東京都台東区)出身、富士ヶ根部屋(後に高砂部屋に移籍)所属。身長180cm、体重は最高で178kg。得意手は左四つ、寄り、上手出し投げ。

来歴

「怒涛の寄り」と形容された速攻相撲の実力者だったが、全勝も連続優勝もなく、師匠の高砂親方(横綱・前田山)との不和などもあり、一時代を築くにはいたらなかった。しかし、初優勝以来6年間毎年1回は優勝を果たしており羽黒山らとともに、栃・若時代までの相撲界を支えた功績は大きい。速攻に加え、ヒジをおっつけ全体重を乗せるようにして打つ上手出し投げは東富士ならではの強烈なものであった。横綱土俵入りは巨体だけに迫力と貫禄に満ち、「鼻息が桟敷まで聞こえる」とも言われた。

子供時代からの巨躯、怪力。大人に交じり家業の鉄工所を手伝うなどで “下谷に怪童あり”と評判になる。
最初富士ヶ根部屋に入門し、1936年(昭和11年)1月場所初土俵。前相撲を通過して番付に載るまで2年を要したが、幕下にあがる頃から双葉山に目をかけられ「キン坊こい」と呼ばれては鍛えられた。1943年(昭和18年)5月場所に新入幕、たちまち上位にあがり、新関脇の1944年(昭和19年)11月場所、東西の編成替えで初めて双葉山と敵方となり、6日目その双葉山を初顔合わせで上手投げに破って恩を返した。これは結果的に双葉山の土俵に上がっての最後の敗戦にもなった。若い頃目をつけ稽古相手になってくれた双葉山には日ごろから感謝しており恩に報いるべく双葉山の弟子には積極的に稽古をつけていた。1944年1月場所7日目には双葉山の土俵入りで露払い(太刀持ちは前田山)を務めた。

戦後最初の場所となった1945年(昭和20年)11月場所で大関に昇進、1948年(昭和23年)5月場所で初優勝し、翌10月場所は関脇増位山との優勝決定戦に敗れたものの場所後に横綱に推挙された。

最初の東京出身横綱で「江戸っ子横綱」と呼ばれた。気風の良い人柄で知られ、それにまつわるエピソードは数多い。当時二所ノ関と高砂で合同の巡業を打つことが多く、初代若乃花に目をかけて可愛がった。若乃花によれば、巡業中に自分を倒したら一番ごとに1万円やると発破をかけられていたという。当時の1万円は大変な高額で、それを自分の身銭から出す懐の大きさに打たれ、若乃花は自身が横綱になってからも東富士の態度を手本にした。逆に、物事に拘泥しない淡白な性格は、勝負師向きでなかったかもしれない。また横綱昇進のころ灰田勝彦、別所毅彦と3人で義兄弟の契りを結ぶ、という交友もあった。

1951年(昭和26年)9月場所で優勝を果たした際に、力道山のオープンカーを借りて優勝パレードを個人的に行った(これが、大相撲における優勝パレードの始まりで1952年(昭和27年)1月場所以降は日本相撲協会の公式行事として行われている)。この場所は途中急性肺炎による高熱に悩まされ11日目から3日間土俵入りを休み、12日目の吉葉山との一番で水入りを挟む2度の物言いの末に勝負預りとなる死闘を演じた末の優勝だった。

1954年(昭和29年)9月場所、大関栃錦が連続優勝で横綱昇進を問われることになったが、当時すでに東富士、千代の山、鏡里、吉葉山の4横綱がおり、前例のない5横綱時代が実現してしまう。このために栃錦の昇進は見送られかけたが、その気配を察した東富士は自ら引退を申し出たと言う。 栃錦もこれを察し「どうか引退しないでください」と東富士に伝えた。東富士も最初のうちは考えたようだが、「栃錦からの申し出で、逆に気持ちが吹っ切れた」と、後年語っている。

戦中~戦後の一時期、出羽海部屋に身を寄せ、巡業や稽古をともにした。移籍の話も持ち上がり、当人も出羽海側もそのつもりだったが、高砂一門の総帥である前田山が認めず、なかば脱走するように出羽海部屋を去らなくてはならなかった。その背景を知らない出羽海系の力士たちとの間に遺恨を残すことにもなり、これも本場所で実力を発揮しきれなかった一因と考えられている。大関昇進後の1946年(昭和21年)の巡業で右足に重傷を負い、その後遺症が成績不安定の原因ともいわれている。

彼が入門した富士ヶ根部屋では四股名に富士(または冨士)がつく場合上につけるのが伝統であり本来は冨士東になるはずだが見ての通り逆の四股名になっている。これは親方の期待の大きさを表すものとされた。現在でもこの伝統は、当時の富士ヶ根部屋を吸収した高砂部屋に継承されている。

引退後は高砂一門内の派閥争いを嫌って相撲界を去った。襲名した年寄・錦戸は立浪部屋出身の双見山の所有者名義であったが、それを知らずに襲名してしまったため、当時の立浪親方(横綱・羽黒山)からクレームがつき、一門間での争いにも巻き込まれたという。その人柄を惜しんだ双葉山の時津風親方が相撲界に残れるよう便宜を図ろうとしたが、現在よりさらに一門同士のへだたりの大きかった時代であり、双葉山の令名をもってしてもこれも叶わなかった。引退相撲も行われなかった。

相撲界を去り、まだ断髪もしないまま力道山に誘われてプロレスに転向した。力道山の伝手でハワイでレスラー修業を積み、デビュー早々に力道山と組んでハワイ・タッグ選手権を獲得した。1955年(昭和30年)10月には各団体の主力が参加した「ウェート別日本選手権」のヘビー級部門で山口利夫を破って優勝、日本ヘビー級王者力道山への挑戦権を獲得するが、力道山VS東富士の選手権試合は実現しなかった。この後実力的に伸び悩み、結局力道山の脇役に終わった。プロレス引退後は、フジテレビ、TBSテレビなどの相撲解説者を経て、消費者金融「ファイナンス・フジ」を営んでいたが、結腸癌のため51歳で逝去した。






テハノ・ジュニア
1984/7/31

ホアン・アギラール・レオスJuan Aguilar Leos)は、メキシコ・メキシコシティー出身の男性プロレスラー。CMLL所属。

来歴

エル・テハノの実子で1999年2月に「ケンポー・キッド」名のマスクマンでデビュー。のち「テハノ・ジュニア」を名乗る。2005/10/7にマキシモ、サグラドと組みドクトルX、ニトロ、サングレ・アステカを破りメキシコナショナルトリオ王座を奪取。2005年から2007年まで新日本プロレスに参戦、2007年3月には稔の持つIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦。2008/8/26にエル・テリブレと組みレイマン、サグラド組を破り連邦区タッグチーム王座奪取。2009年にはNO LIMIT(高橋裕二郎&内藤哲也)と抗争を繰り広げる。2010年2月にはエル・テリブレと組んでIWGPタッグ王座に挑戦した。またG1 TAG LEAGUEにも出場した。12/13にはショッカーを破りNWA世界ヒストリックライトヘビー級王座奪取。

獲得タイトル

  • メキシコナショナルトリオ王座
  • 連邦区タッグチーム王座
  • NWA世界ヒストリックライトヘビー級王座

  



梶原慧
1988/7/31

デビュー戦:2007年10月14日メキシコ・アレナ・コリセオにてデビュー


高校時代はレスリング部に所属。2007年9月にメキシコに渡り、1ヶ月後の10/14に闘龍門メキシコのリングでデビュー。同年12/9に開催されたヤングドラゴン杯では、デビュー2ヶ月ながら決勝戦に進出。闘いの場を日本に移すと、ドラディション、健介オフィスなどで活躍。この1/24に健介オフィスに入団。

















 
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