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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/2


 
 


 
 

レックス・ルガー
Lex Luger
1958/6/2

アメリカ合衆国のプロレスラー、ボディビルダー。ニューヨーク州バッファロー出身。

体脂肪率4%の肉体美を誇る。レスリングテクニックは稚拙であるため、技術面での評価は低い。

来歴

フットボーラー時代

マイアミ大学在籍中はフットボール選手として知られていた。卒業後の1979年、カナディアン・フットボール・リーグ(CFL)にてプロデビューし、1981年まで同リーグにてプレーした。その後、NFLのグリーンベイ・パッカーズに移籍したが、キャンプ中に負傷して出場なしに終わり、1983年シーズン中に同チームを解雇された。1984年はUSFL メンフィス・ショウボーツにてプレーし、その年限りでプロフットボールを引退した。

プロレスデビュー〜NWAフロリダ在籍時

1985年、フロリダ州においてボブ・ループとヒロ・マツダの元でトレーニングを行い、同年9月、NWAフロリダにてプロレスデビューした。

同年11月、ワフー・マクダニエルを破り、サザンヘビー級王座を獲得した。

1986年、ブルーザー・ブロディとのスチール・ケージ・マッチを最後に、ジム・クロケット・プロモーションズ(のちのWCW)へ移籍した。

WCW在籍時(第1期)

1987年7月、ニキタ・コロフを破り、USヘビー級王座を獲得。その後、同王座を4度獲得した。

1988年3月、バリー・ウインダムと組み、アーン・アンダーソン、タリー・ブランチャード組を破り、NWA世界タッグチーム王座を奪取した。

同年4月、第3回ジム・クロケット・シニア・メモリアル・カップにスティングと組んで出場し、優勝を果たした。

1988年から1989年に掛けて、リック・フレアーの持つNWA世界ヘビー級王座に幾度も挑戦したがタイトル奪取には至らず、ライバルであり、プライベートでは親友でもあるスティングに先を越される形となってしまった。

1991年7月、リック・フレアーがNWA世界ヘビー級チャンピオンのままWWEに移籍したことと、訴訟によりWCWが"NWA"の名称を使えなくなったことから、同団体の看板タイトルとしてWCWヘビー級王座が新設された。レックス・ルガーとバリー・ウインダムとの間で王者決定戦が行われ、ルガーが勝利して初代WCWヘビー級王者となった。王者時代は、ハーリー・レイスをマネージャーに就けていた。

1992年2月、スティングに敗れて王座から転落した後、WCWを退団した。

WBF、WWE在籍時

ルガーはWWEと契約した。しかし、WCWとの契約期間を残したまま移籍した為、プロレスの試合に出場することはできなかった。WWEは、契約満了までの間、ルガーをWWE傘下のボディビル団体WBFのスターとして売り出すことにした。しかし、バイク事故で負傷してしまい、復帰できないままWBFそのものが閉鎖されてしまった。

1993年、WCWとの契約期間満了を待って、ルガーはプロレスラーとしてWWEに出場した。その際、入場時に鏡を持ち込み、自分の肉体美を誇示する「ナルシシスト」のギミックが与えられた。

同年7月、ヨコズナをボディスラムで投げたことをきっかけに、「オール・アメリカン」にギミックチェンジした。同年8月、サマースラムにてヨコズナの持つWWE王座に挑戦し、リングアウト勝ちしたが、タイトルマッチの規定により王座獲得はならなかった。

1994年1月、ロイヤルランブルにて、ヨコズナの持つWWE王座への挑戦権を賭けた時間差バトルロイヤルに出場し、ブレット・ハートと同体で転落し、両者優勝となった。

1994年3月、レッスルマニアXにてヨコズナに挑戦するも、レフェリーを務めたカート・ヘニングの不可解な裁定によりまたもや王座獲得ならず。同日、ブレット・ハートがヨコズナに勝利し、WWE王座はブレット・ハートの手に渡ることとなった。そして、その後は低迷が続き、王座獲得を期待していたファンの関心も次第に薄れていった。

1995年9月、ルガーはWWEを退団した。

WCW在籍時(第2期)

1995/9/4、WCWはマンデー・ナイトロの放送を開始した。WCWは、第1回放送から視聴者にインパクトを与えることを狙い、前日までWWEに出場していたレックス・ルガーを裏番組の「ナイトロ」に出演させるという演出を行った。

しかし、WCWがルガーを獲得したのはスティングの意向によるものであり、フロントサイドはルガーを厚遇したわけではなかった。WCWはWWEから次々とスター選手を引き抜き、視聴率や興行成績でWWEを圧倒するようになったものの、ルガーの存在感は次第に薄れていったのである。

1999年頃より、WCWは莫大な赤字を計上するようになっていた。また、WCWの親会社であったテッド・ターナー率いるターナー・ブロードキャスティング・システム(TBS)は、1996年タイム・ワーナーに買収された。これらの事情により、不採算部門であるWCWの売却が検討されることとなった。

2001年、WCWはWWEに買収された。WWEが欲していたのは、過去の映像資産であり、かつてのスター選手ではなかった。若手を中心に数十名のレスラーの契約が引き継がれたが、そこにルガーの名前はなかったのである。

リタイア

WCW崩壊後は、フリー選手としてローカル団体を転戦した他、WWAに参戦し、かつての盟友スティングとの一戦で世界王座を奪取した。

2003年にランディ・サベージの元妻、エリザベスがルガーの自宅で変死した事件のため事情聴取を受けた。

その後TNAに短期参戦した後、完全に現役を引退し暫く公に姿を見せなかったが、2010年になりTV番組等へ出演、引退して時が経ったせいか、かつての筋肉美や厳つい表情は完全に消え、別人の様になっている。


 
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アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ
Antônio Rodrigo Nogueira
1976/6/2

ブラジルの総合格闘家、ブラジリアン柔術家。バイーア州ヴィトリア・ダ・コンキスタ出身。チーム・ノゲイラ所属。また、母国ブラジルにてチームブラックハウスチーム・ミノタウロを主宰。元PRIDEヘビー級王者、元UFC世界ヘビー級暫定王者。ブラジリアン柔術黒帯。

ニックネームは牛頭人身の怪物「ミノタウロ(Minotauro)」。さらに、PRIDEでは総合格闘技における柔術の技術の高さや極めの強さから「柔術マジシャン」と称された。なお、打撃においてもピーター・アーツやペドロ・ヒーゾ、ボクシングのキューバオリンピック代表らと練習を積んだ経験がある。

一卵性双生児の弟アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラも総合格闘家である。

来歴

幼少期から総合デビューまで

1976年、ヴィトリア・ダ・コンキスタの農場で父アミルトン、母マリーナの間に生まれる。4歳から柔道を始め、10代半ば頃にはブラジルのボクシングオリンピックコーチのルイス・カルロス・ドリアからボクシングを学んでいた。11歳の頃、トラックの下敷きになるという事故で両肺が潰れ、肋骨1本と肝臓の一部を失う大怪我を負い、丸4日間生死の境を彷徨う。当時の医者には2度と歩けなくなるとまで宣告されたが、懸命のリハビリによって回復した。背中の右肩甲骨下に大きく凹んだ傷跡がその事故の名残りである。

1993年、アメリカで開催されたUFCでのホイス・グレイシーの活躍に憧れ、17歳の時ヒカルド・デラヒーバの弟子ギリェルメ・アサッドのもとでブラジリアン柔術を始める。その後はデラヒーバに直接師事して実力を伸ばした。

1999年1月、パンナムに出場し、茶帯ペサディシモ(+97kg)級で優勝、またアブソルート(無差別)級では決勝でジヴァニウド・サンターナを下し2冠を達成し、22歳でデラヒーバからブラジリアン柔術黒帯を授与された。その後アメリカに移住し、パンナムの活躍によりWEF(ワールド・エクストリーム・ファイティング)のプロモーターにスカウトされる。6/12にデビッド・ドッド戦でプロ総合格闘技デビュー。また7月にはムンジアルに出場し、黒帯無差別級でベスト4に進出するも、準決勝でホベルト・"ホレッタ"・マガリャエスに敗れている。また、この年に柔道の黒帯も取得している。

リングス

1999/10/28、リングス参戦のために初来日。『KING OF KINGS 1999トーナメント』ではヴァレンタイン・オーフレイム、コーチキン・ユーリ、アンドレイ・コピィロフを破るも、準決勝のダン・ヘンダーソンとの対戦では、延長ラウンドで数度のテイクダウンを奪い、かつマウントポジションを何度も取る等、終始優勢に試合を運んだにもかかわらず、審議委員判定という判定によって敗れる。試合後、ノゲイラの部屋にヘンダーソンからビールが1ダース届けられた。

2000/1/15、ジョージア州のロームフォーラム・シビックセンターで行われた「WEF 8」のWEFスーパーヘビー級王者決定戦(8分3R)で、ジェレミー・ホーンを判定で破り、WEFスーパーヘビー級王者となった。試合自体は、両者の猪木アリ状態が見られるなど膠着状態が続き、格闘技雑誌では「見所なき凡戦」と書かれてしまっている。同年3月には第3回アブダビコンバット99kg以上級に出場。1回戦でショーン・アルバレスにポイント勝ちするものの、2回戦でリコ・ロドリゲスに膝十字固めで敗退した。『RINGS KING OF KINGS 2000トーナメント』ではラバザノフ・アフメッド、田村潔司、ヴォルク・ハン、金原弘光、ヴァレンタイン・オーフレイムを立て続けに破り優勝を果たした。同年、カーウソン・グレイシー柔術アカデミーの分裂に際してマリオ・スペーヒー、ムリーロ・ブスタマンチらと共にブラジリアン・トップチームとして独立する。

PRIDE

2001年より総合格闘技イベントPRIDEに参戦。緒戦の相手ゲーリー・グッドリッジを三角絞めで破ると、2戦目には前年のPRIDEグランプリの覇者、マーク・コールマンと対戦。三角絞めでコールマンが立ち上がったのに合わせ腕ひしぎ三角固めに移行し、タップアウト勝利を収めた。PRIDE.17では新設されたヘビー級王座を賭けヒース・ヒーリングと対戦、立ち技・寝技の両方で主導権を握り判定で勝利し、初代PRIDEヘビー級王者となった。

2002/2/24、PRIDE.19でエンセン井上の引退試合の相手を務める。試合はガードからアームロックを極めたが、エンセンがタップしないため三角絞めに切り替え、最後は絞め落とした。8/8にはUFO LEGENDに出場し菊田早苗と対決、寝技の攻防で一本は奪えなかったものの、スタンドの打撃で攻勢に立ち、最後は右ストレートで失神させた。8/28、Dynamite!でボブ・サップと対戦。実に50kg以上にも及ぶ体重差とサップのパワーに苦しめられるが、腕ひしぎ十字固めにより逆転一本勝利を収めた。11/24、PRIDE.23のセーム・シュルト戦ではタックルを切られるなどてこずる場面もあったが、最後はマウントからの三角絞めで勝利した。1か月後のPRIDE.24にも出場、リングス時代に敗北を喫したダン・ヘンダーソンと再戦し、オモプラッタで主導権を握り、腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めた。

2003/3/16、PRIDE.25でエメリヤーエンコ・ヒョードルとの初防衛戦に挑んだが、ノゲイラの寝技を研究し尽くしたヒョードルの戦略と強烈なパウンドの前になす術がなく、判定で敗れ王座陥落。8/10、PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦のワンマッチで元UFC世界ヘビー級王者リコ・ロドリゲスと対戦。判定により勝利を収めたが、PRIDEとUFCの判定基準の相違により物議を醸す結果となった。後に英語版公式サイトにて判定に関する説明が行われた。11/9、ヒョードルの怪我によるミルコ・クロコップとのヘビー級暫定王座をかけた一戦では、テイクダウンを奪えずスタンドで劣勢に立ち、1R終了間際には左ハイキックでダウン、かろうじてゴングに救われた。2Rは開始早々テイクダウンからマウントを奪い、ミルコのブリッジに合わせて腕ひしぎ十字固めを極め、逆転勝利を飾った。

2004年に開催されたPRIDEヘビー級GP(グランプリ)では、1回戦で横井宏考、2回戦でヒース・ヒーリングにいずれも新技スピニングチョークで一本勝ちを収め、ベスト4に進出する。なお、この技を最初に考案したのはホアン・"ジュカオン"・カルネイロであり、ジュカオンがホジェリオに教えた後にホジェリオからホドリゴへ伝わったとされる。8月15日、グランプリ準決勝でセルゲイ・ハリトーノフを判定で下し、決勝では因縁のヒョードルと再戦するも、偶然のバッティングによりヒョードルが出血したため、無効試合に終わる。

2004年大晦日のPRIDE 男祭り 2004のメインイベントでPRIDEヘビー級王座と同ヘビー級GP王座の両タイトルを賭けて再々戦するが、またも判定で敗れリベンジに失敗している。なお、この日は会場入りが大幅に遅れてしまい、オープニングセレモニーに間に合わなかった。そのため、双子の弟のホジェリオに代打でセレモニーに参加してもらっていた。

2005/は6/26のPRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUNDでパウエル・ナツラにマウントパンチでTKO(テクニカルノックアウト)勝利を収めた。この年は1試合の出場にとどまった。

2006年はPRIDE無差別級GPに出場、順当に勝ち上がる。9/10、準決勝のジョシュ・バーネット戦ではPRIDE史上に残る寝技対決の末、僅差の判定1-2で敗れるも、12/31の再戦では3-0の判定勝利を収め、リベンジを果たした。

UFC

2007/4/5のUFC Fight Night 9をUFCのダナ・ホワイト社長とともに観戦し、続く4/8のUFC 69でオクタゴンに登場。ダナ・ホワイト社長からUFCに参戦することが正式に発表された。また、これに前後して長年在籍したブラジリアン・トップチームを脱退。アメリカン・トップチームやブラック・ハウスでトレーニングを積みながら、アメリカに自身の新しいチーム「チーム・ノゲイラ」を発足。7/7、UFCデビューとなるUFC 73のヒース・ヒーリングとの3度目の対戦では、1R終盤にヒーリングのハイキックでダウンを奪われるも、それ以外では終始試合を支配して判定勝ちを収めた。

2008/2/2、UFC 81のUFC世界ヘビー級暫定王者決定戦でティム・シルビアと対戦。1Rにはダウンを奪われるなど劣勢であったが、3Rにスイープからのギロチンチョークで一本勝ちを収め、UFC世界ヘビー級暫定王者となった。また、この試合は同大会のファイト・オブ・ザ・ナイトに選ばれた。

2008/12/27、初の暫定王座防衛戦となるUFC 92でフランク・ミアと対戦。左フックで倒されたところにパウンドを連打されTKO負け。UFC世界ヘビー級暫定王座から陥落した。ダナ・ホワイトによると、一週間前まで熱で入院していたと言う。また、この試合を終えてすぐに膝の手術を行った。

2009/8/29、復帰戦となるUFC 102では、二度のダウンを奪ってランディ・クートゥアに判定勝ちを収め、レスナーへの王座挑戦、ミアとの再戦をアピールした。また、この試合は同大会のファイト・オブ・ザ・ナイトに選ばれた。

2010/2/20、UFC初進出オーストラリア・シドニーで開催されたUFC 110のメインイベントでケイン・ヴェラスケスと対戦。1R2分20秒、右ストレートからのパウンドでKO負け。

人物

  • 日本贔屓で、好きな日本食は寿司、好きな街は六本木。
  • 趣味はサーフィン。
  • リングス時代はブラジルのサッカークラブであるCRヴァスコ・ダ・ガマのテーマ「COME WITH ME」を入場曲にしていたが、曲の入ったCDを無くしてしまったらしい。PRIDEでは、ZZの「NO WAY OUT」を入場曲にしていた。これは、PRIDE王者時代に彼を称えるために作られた曲である。また、2002年8月28日、Dynamite!でのボブ・サップ戦ではDragon Ashの「Revolater」を入場曲として使用した。
  • 一卵性双生児の弟アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラも総合格闘家である。2人の外見的な見分け方は、ホドリゴの方が若干体格が大きく、向かって右耳がホジェリオより湧いている点にあり、また背中の傷跡の有無も2人を見分けるポイントである。加えて、スタンドでの構えがホドリゴがオーソドックスであるのに対し、ホジェリオはサウスポーである。
  • 2006年5月頃より右眼の黒い部分に白濁が発見され、眼疾が懸念されていた。治療は完了し、現在はまったく問題はないとノゲイラ自身は雑誌のインタビューで語っている。
  • 母国ブラジルでは自身のニックネームを冠した「Minotauro Fight」を主催しており、後進の育成にも非常に積極的。将来の夢には、恵まれない子供たちを選手と育成する道場を構えることを挙げている。
  • アンデウソン・シウバとの親交が深く、アンデウソンにブラジリアン柔術を教授し、ブラジリアン柔術黒帯を授与している。
  • 2004年から2005年にかけて日本テレビで放送されたバラエティ番組「アフリカのツメ」に、旅館に勤める外国人板前「ノゲイラ」役で準レギュラー出演した。

獲得タイトル

  • UFC世界ヘビー級暫定王座(2008年)
  • PRIDE GP 2004 準優勝(2004年)
  • PRIDEヘビー級暫定王座(2003年)
  • 初代PRIDEヘビー級王座(2001年)
  • RINGS KOK 2000トーナメント 優勝(2001年)
  • WEFヘビー級王座(2000年)
  • 世界柔術選手権(ムンジアル)黒帯アブソルート級 3位(1999年)
  • ブラジリアン柔術リオデジャネイロ選手権 優勝7回
  • ブラジリアン柔術ノースイースタン選手権 優勝6回





アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラ
Antônio Rogério Nogueira
1976/6/2

ブラジルの総合格闘家、ブラジリアン柔術家。バイーア州ヴィトリア・ダ・コンキスタ出身。チーム・ミノタウロ所属。ブラジリアン柔術黒帯。

一卵性双生児の兄アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラも総合格闘家である。また、アマチュアボクシングにおいてもブラジル選手権・南米選手権優勝の実績を持つ。

来歴

総合格闘技

2001/8/18、DEEP2001で日本初登場。藤井克久と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。

2002/4/28、PRIDE初参戦となったPRIDE.20で今村雄介と対戦し、フロントチョークで一本勝ち。

2002/8/8、UFO LEGENDでウラジミール・マティシェンコと対戦し、判定負け。

PRIDEでは、ガイ・メッツァー、アリスター・オーフレイム、ダン・ヘンダーソン、桜庭和志、中村和裕などのミドル級選手に勝利を収めた。

PRIDEミドル級GP2005では、1回戦でダン・ヘンダーソンに腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。準々決勝でマウリシオ・ショーグンと対戦し、判定負け。試合ではショーグンからパンチでダウンを奪い、また得意の踏みつけ攻撃を長い脚を使って防御した。

2007/2/24、PRIDE.33においてPRIDE初参戦のソクジュに1ラウンド23秒で初のKO負けを喫した。

2007年、UFCから試合のオファーを受け、参戦のために渡米する予定があることをインタビューにて明かしていたが、9月にカナダのHCFと契約した。初参戦となった2008/2/1の「HCF: Destiny」ではトッド・ゴーウェンバーグをスタンドのパンチと膝蹴りで攻め立て、TKO勝利を収めた。

2008/7/19、Affliction旗揚げ戦「Affliction: Banned」でエドウィン・デューウィーズと対戦。1ラウンドに首相撲からの膝蹴りと左フックでダウンを奪い、追撃のパウンドでTKO勝ち。

2008/11/1、戦極初参戦となった戦極 〜第六陣〜でモイス・リンボンと対戦し、判定勝ち。

2009/1/24、「Affliction: Day of Reckoning」でウラジミール・マティシェンコと対戦。TKO勝ちを収めリベンジを果たした。

2009/5/9、Jungle Fightに初参戦し、メインでディオン・スターリングと対戦し一本勝ち。この試合はキャリア初めての地元ブラジルでの総合格闘技の試合であった。

2009/11/21、UFC初参戦となったUFC 106でルイス・カーニと対戦し、左フックでダウンを奪い、追撃のパウンドでTKO勝ち。ノックアウト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。

2010/5/29、UFC 114でジェイソン・ブリルズと対戦し、2-1の判定勝ち。UFC3戦目となる9/25のUFC 119ではライアン・ベイダーに0-3の判定で敗れた。

アマチュアボクシング

2006年、アマチュアボクシングのブラジル選手権スーパーヘビー級で優勝。同年の南米選手権でも同階級で優勝を果たした。

2007年のブラジル選手権でも同階級で優勝を果たし、2連覇を達成した。南米選手権では3位となった。

エピソード

  • 2004/12/31、「PRIDE 男祭り 2004」に出場予定の兄ホドリゴの会場入りが大幅に遅れたため、そっくりの容貌という一卵性双生児の特徴を生かし、オープニングセレモニーに遅刻したホドリゴの影武者を務めた。
  • ブラジリアン・トップチームの選手の中でも特に遅刻がひどく、練習終了の10分前に顔を出すことも日常茶飯事であった。かつてトップチームに出稽古に赴いていた美濃輪育久は、その度に後発のクラスが始まる中、道場の隅でホジェリオの居残り練習に付き合わされた。

獲得タイトル

  • ブラジリアン柔術世界選手権(ムンジアル) 茶帯ペサード(-91kg)級 3位(2000年)
  • アマチュアボクシングブラジル選手権 スーパーヘビー級 優勝(2006年、2007年)
  • アマチュアボクシング南米選手権 スーパーヘビー級 優勝(2006年)
  • アマチュアボクシング南米選手権 スーパーヘビー級 銅メダル(2007年)





AJスタイルズ
AJ Styles
1978/6/2

アレン・ジョーンズAllen Jones)は、アメリカ合衆国の男性プロレスラー。

来歴

NCWトレーニングスクール出身でデビューは1998年。初めは、エアー・スタイルズの名で活躍。末期のWCWのリングで初めてTVマッチに参戦、主にエアー・パリスとのタッグチームで活躍していた。また、WWEの前座試合に登場したこともある。2002年、TNAに登場。初代Xディビジョン王者となった。また、その頃からジェリー・リンとのタッグでも活躍し、NWA世界タッグチーム王座を獲得した。後に仲間割れ。

2003年には、ジェフ・ジャレットを破ってNWA世界ヘビー級王座を獲得。これで、TNAに存在する3つの王座をすべて制覇することとなった。その頃からビンス・ルッソーが統括するグループS.E.Xに属し、ヒールとして名を馳せるが、ハルク・ホーガンがTNAに参戦するのではという噂を巡るストーリーの流れを受けてジャレットと立場が入れ替わり、その後は絶対的なベビーフェイスのポジションを貫くようになった。

2004年2月、当時のDOA(ディレクター・オブ・オーソリティーの略で、コミッショナーのような役割を担う)だったドン・ハリスの陰謀で、抗争相手だったアビスとタッグを組んでNWA世界タッグチーム王座に挑戦。試合中に仲間割れを起こすが、結果としては王座を獲得することになった。

それ以降、しばらくXディヴィジョン王座戦線の看板選手として大活躍していたが、2006年にLAX(ラテン・アメリカン・エクスチェンジ)が台頭してきたことにより、クリストファー・ダニエルズとタッグを組んで名勝負を繰り広げる。その後はXディヴィジョン王座戦線から一歩引きNWA世界ヘビー級王座戦線へ進出、ヒールターンを決行。クリスチャン、トムコを手を組み、トムコとはTNA・世界タッグ王座を獲得。トムコとともにカート・アングル側に寝返る。

他にもROHに参戦しており、また日本への来日経験も豊富で、2003年にZERO-ONEに参戦した時は、ロウキーと勝負を展開。2005年には、WRESTLE-1に登場し、カズ・ハヤシと対戦するが敗戦している。同年CIMAとも対戦している。

2008年1月、新日本プロレスに参戦。クリスチャン・ケイジ・ピーティー・ウィリアムズと組み、稔・ミラノコレクションA.T.・プリンス・デヴィットと戦い、スタイルズクラッシュでミラノコレクションA.T.に勝利。

2008年2月、タイガーマスクに勝利。しかし、棚橋弘至に敗れる。

2009年10月、PPV Bound For Gloryメインイベントの4WAY世界王座戦でカート・アングルを破り、TNA世界ヘビー級王座を奪取。

2010年1月、PPV Genesisのカート・アングル戦でリック・フレアーの持ち込んだベルトでカート・アングルを殴りTNA世界王座防衛。この試合を機にヒール転向。

2010年8月、リック・フレアー、ビアマネー・インクらとヒールユニット「フォーチュン」を結成。

タイトル歴

TNA
  • NWA世界ヘビー級王座 : 3回
  • NWA世界タッグ王座 : 4回
  • TNA Xディヴィジョン王座 : 6回
  • TNA レジェンズ/TV王座 : 2回
  • TNA 世界ヘビー級王座 : 1回
  • TNA世界タッグ王座 : 2回
ROH
  • ROHピュアレスリング王座 : 1回
  • ROHタッグチーム王座 : 1回
その他
  • IWAミッドサウスヘビー級王座
  • NWAワイルドサイド・ヘビー級王座
  • NWAワイルドサイド・TV王座
  • WWAインターナショナル・クルーザー級王座
  • IPWヘビー級王座

その他、米インディ団体を中心に多数のタイトルを獲得。


  



ザ・ジャンクヤード・ドッグ/"JYD"
The Junkyard Dog
1953/12/13 - 1998/6/2

アメリカ合衆国のプロレスラー。ノースカロライナ州ウェイズボロ出身のアフリカ系アメリカ人。本名はシルヴェスター・リッターSylvester Ritter)。生年は1952年ともされる。

1980年代を全盛期に、WWFや南部エリアを中心に活躍、陽気なキャラクターを持つベビーフェイスのブルファイターとして、主に子供の観客からの人気を集めた。

来歴

初期

地元ノースカロライナのフェイエットヴィル州立大学ではアメリカンフットボールの選手として活躍し、オール・アメリカンに2度選ばれている。卒業後はNFLのグリーンベイ・パッカーズにスカウトされるが、トレーニングキャンプで膝を故障し、プロレスラーへの転向を決意。黒人レスラーのソニー・キングのトレーニングを受け、1977年にテネシー地区でリロイ・ロチェスターLeroy Rochester)のリングネームでデビューする。

1978年、テネシーと提携していたカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングへの参戦を機にビッグ・ダディ・リッターBig Daddy Ritter)と改名。1979年4月にはこのリングネームで国際プロレスに初来日している。スーパースター・ビリー・グラハムや上田馬之助などの大物選手が同時参加していたため、タイトルへの挑戦権は与えられなかったものの、大木金太郎ばりの一本足頭突きを武器に好ファイトを展開した(来日の前年、海外武者修行でカルガリーに遠征していた阿修羅・原との試合も東京12チャンネルの『国際プロレスアワー』で放送されている)。

カルガリーではジェイク・ロバーツらを破り、同地区の看板タイトルである北米ヘビー級王座を2度に渡って獲得している。また、タッグでは後にWWFでもサーキットを共にするダイナマイト・キッドとのコンビで活躍した。当時のエピソードは、キッドの自著『PURE DYNAMITE』に詳しい。

JYD

1980年、ビル・ワットの主宰するミッドサウス地区(ルイジアナ、ミシシッピ、オクラホマ、アーカンソー)のMSWAに参戦。ワットのアイデアでリングネームをジャンクヤード・ドッグJYD)と改め、ブルーカラー色を強調したキャラクターに変身する。彼が鎖のつながれた首輪を付けて登場すると、観客は一斉に犬の吠え声を真似て呼応。異色のベビーフェイスとしてアーニー・ラッド、テリー・ゴディ、ザ・グレート・カブキ、テッド・デビアス、カマラ、ブッチ・リードらと抗争し、南部マットを代表する黒人スターとなった。

ファイトスタイルは直線的なラフ&パワーが主体で、キングコング・バンディやワンマン・ギャングなどのスーパーヘビー級の巨漢をボディスラムで投げたこともある。また、現在のハードコアマッチにも通じる "ゲットー・ストリート・ファイト"、双方の首をチェーンでつないで行う "ドッグ・カラー・マッチ" などの荒っぽい試合でも本領を発揮、ラフファイトの強さを見せた。一時、スタッガー・リーStagger Lee)を名乗り覆面レスラーに変身したこともある。

1984年、WWFと契約。ハルク・ホーガンの盟友となり、グレッグ・バレンタイン、アドリアン・アドニス、テリー・ファンクらヒール勢と抗争を展開、ティト・サンタナやリッキー・スティムボートとのタッグチームでも人気を博した。コンバット・スタイルになってサージェント・スローターのパートナーを務めたこともある。1987年に始まったハーリー・レイスとの「キング対ドッグ」の抗争アングルは、9万3173人の大観衆を集めたレッスルマニアIIIで決着戦が行われた。

1988年末にWWFを離れ、翌1989年からはWCWに移籍。当時WCWの管理下にあったリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。1992年にはジェリー・ローラーが主宰するメンフィスのUSWAに参戦し、エディ・ギルバートからUSWAユニファイド王座を奪取した。その後も各地のインディー団体に大物ゲストとして出場していたが、1998年6月2日、交通事故で帰らぬ人となる。45歳没。

その功績を称え、2004年にはWWE Hall of Fameに迎えられた。顕彰セレモニーには娘のラトーヤ・リッターが出席。翌3月14日のレッスルマニアXXで彼女が紹介された際、観客はJYDの選手時代と同様に犬の吠え声をあげて歓迎した。

獲得タイトル

リロイ・ロチェスター
  • NWAミッドアメリカ・タッグ王座:1回(w / ジプシー・ジョー)
ビッグ・ダディ・リッター
  • スタンピード北米ヘビー級王座:2回
ジャンクヤード・ドッグ
  • ミッドサウス北米ヘビー級王座:4回
  • ミッドサウス・ルイジアナ王座:3回
  • ミッドサウス・タッグ王座:8回(w / バック・ロブレイ、テリー・オーンドーフ、キラー・カール・コックス、ディック・マードック×3、マイク・ジョージ、ジェリー・スタッブス)
  • WCW世界6人タッグ王座:1回(w / リッキー・モートン&トミー・リッチ)
  • USWAユニファイド世界ヘビー級王座:1回
  • WWE Hall of Fame:2004年度(プレゼンターはアーニー・ラッド)





フレッド・ブラッシー
Fred Blassie
1918/2/8 - 2003/6/2、

アメリカ合衆国のプロレスラー、プロレス・マネージャー。本名はフレデリック・ブラスマンFrederick Blassman)。ミズーリ州セントルイス出身。

ニックネームはクラッシーClassy、お洒落な)。ハリウッド・ファッション・プレートThe Hollywood Fashion Plate)の異名を持ち、オシャレには非常に気を遣ったことでも知られる。近年でもザ・ロックやクリス・ジェリコらが彼のファッションの影響を受けている。日本では「銀髪鬼」と呼ばれ黎明期の日本プロレス界に衝撃を与えた。

決め台詞は自伝のタイトルにも使われた「Listen, You Pencil Neck Geeks!」(「よく聞け、この虚弱野郎ども!」といったような意味)。

夫人は日本人。

来歴

高校時代はボクシングや野球をしていたが、精肉所で働きながらトレーニングを積み1935年にプロレス入り。その後アメリカ海軍に入隊し第二次世界大戦へ出征した。戦後1947年に活動を再開し、正統派レスラー「フレッド・マクダニエル」としてNWAジュニアヘビー級王座を獲得するなど活躍していたが人気はいまひとつで、1959年に赤毛の髪を銀色に染め、ロサンゼルスを拠点として噛みつき攻撃を得意技とするヒールに転向してから大ブレイクした。

1961年ロサンゼルスに新たに設立された初代WWA認定世界ヘビー級チャンピオンとなるが、力道山に敗れタイトルを奪われた。1962年4月にタイトルを奪回すべく日本プロレスに参戦するため初来日。このとき力道山、グレート・東郷らとのタッグ戦でブラッシーの噛みつき口撃が炸裂、額から激しく血を滴らせるグレート・東郷の姿をテレビで見た老婆がショック死したこともあるが、当のブラッシーは気にかける様子もなく「アメリカでは5〜60人はショック死させた。」と言い放った。彼のヒールとしての嫌われようは半端ではなく、地元ロサンゼルスでは、幾度となくナイフを持ったファンに襲われ、硫酸をかけられたことすらあるという。投げつけられたゆで卵が眼に命中し、片方の視力はほとんど失われたともいわれる。

当時、1959/4/10の皇太子明仁親王(今上天皇)成婚の中継をきっかけにテレビのカラー放送が一部開始された時期で、人気番組のプロレス中継もカラー放送(1960/9/10開始)されていたが、カラーテレビが高価であったため、多くの一般家庭ではグレート・東郷の額から滴る黒光りするグロテスクな流血をモノクロテレビで視聴することになった。前述のように1962/4/27には、カラーテレビでブラッシーの試合を視聴した老人4名(諸説あり)が流血シーンを見てショック死する事件が起きている。

1962年7月にロサンゼルスで力道山を破りタイトルを奪回し以後タイトルを防衛した後、1972年にも全日本プロレスに参戦しジャイアント馬場と対戦した。1974年には新日本プロレスにも参戦しアントニオ猪木と対戦したが、視聴者が噛みつき口撃を見慣れたこともあって、初来日のときの迫力は失われていた。

1973年にWWF(現・WWE)で現役引退後は悪役レスラーのマネージャーとして活躍した。新人レスラーの発掘にも尽力し、ハルク・ホーガン、スタン・ハンセンらを大スターへと導いた。1994年にはそれまでの功績を称え、WWF殿堂(現・WWE殿堂)に迎えられた。

2003年4月に自伝を上梓し、5/12にWWEのRAW大会にゲスト出演したが、直後の5/24に倒れ6/2にニューヨーク郊外の病院で死去。死因は、長い間心臓と腎臓に疾患を抱えており、これが悪化したためといわれている。

ビンス・マクマホンが父親からWWEを買い取る際、父ビンス・シニアから出された条件がブラッシーとジェームス・ダッドリーの永久雇用であった。そのため彼は現場から退いた後も、生涯WWEのテレビ放送の在宅モニターを勤め、またビンスもブラッシーが亡くなる最期の日まで「ファイトマネー」を払い続けていた。

日本プロレス界における影響

フレッド・ブラッシーは黎明期の日本プロレス界において、最も衝撃を与えた悪役レスラーである。前歯は差し歯だったと言われているが、この前歯をヤスリで研ぐパフォーマンスを見せたうえで、序盤から終盤まで噛みつき口撃で対戦相手を「血まみれ」にする悪役に徹した。ヤスリは、実のところ、爪を研ぐための目の細かいヤスリで、歯を削る真似をしただけだった(しかもこのパフォーマンスは力道山の指示による日本限定の物だったらしい)。異様な目つきで銀髪の外人レスラーが、当時のヒーロー力道山をはじめ人気レスラーの額に噛みつく姿は「吸血鬼」を連想させ「噛みつき魔」とも呼ばれた。

マネージャーとしてのブラッシー

ブラッシーは現役引退後もマネージャーとして活躍した。1976/6/26に行われたアントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦では、アリのマネージャーを務めた。プロレス出身でありながらボクシング陣営に加わったことで、プロレス関係者の反感を買った。また、無名だったハルク・ホーガンやスタン・ハンセンを売り出すにあたって、キャラクター作りにアドバイスを与え大スターへと導いた。一貫してヒールのマネージャーを務めており、ニコライ・ボルコフとアイアン・シークの反米軍マネージャーなどを務めた。ユーゴスラビアからの亡命者であったニコライ・ボルコフはギミック上ソ連出身の共産主義者として登場する際に、共産主義者のギミックを拒否していた。だがブラッシーの「演じることで嫌っていることを表現せよ」とのアドバイスでこのギミックを受け入れた、というエピソードもある。

主な担当選手

  • ニコライ・ボルコフ
  • アイアン・シーク
  • スタン・ハンセン
  • ハルク・ホーガン
  • キラー・カーン
  • キラー・トーア・カマタ
  • ブラックジャック・マリガン
  • ジェシー・ベンチュラ
  • アドリアン・アドニス
  • ディック・マードック
  • アレン・コージ
  • プロフェッサー・タナカ
  • ミスター・フジ
  • ミスター・サイトー
  • タイガー・チャン・リー
  • ストロング小林
  • バロン・フォン・ラシク
  • ワルドー・フォン・エリック
  • スパイロス・アリオン
  • ピーター・メイビア
  • スウェード・ハンセン
  • ジョージ・スティール
  • ザ・ハングマン
  • ビクター・リベラ
  • クラッシャー・ブラックウェル
  • ビッグ・ジョン・スタッド
  • レイ・スティーブンス
  • カマラ
  • ミッシング・リンク
  • ハーキュリーズ


人物

  • 大の親日家として知られる。2度の離婚の後、1965年、小倉駅にて当時20歳だった日本人の三耶子さんと出会い一目惚れし、1968年に結婚した。三耶子夫人はブラッシーの最期まで添い遂げた。存命中に『あの人は今!?』(日本テレビ系)の取材に夫婦で笑顔で出演し、自宅でミヤコさんがブラッシーの散髪をする姿が放映されたこともある。三耶子さんは、2003年7月のWWE横浜アリーナ大会開催時のパンフレットに手記を寄せている。
  • 1978年に藤波辰巳(現・藤波辰爾)がニューヨークでWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を獲得した際、公私にわたり尽力した。ブラッシー死去の知らせを受けた藤波は「とても寂しい。自宅に招待され食事をご馳走になった。当時(ニューヨークでの王座獲得)があるから今の僕がある。とても感謝している」とコメントを寄せている。
  • 噛み付きギミックのせいで、肝炎になったことがある。
  • 引退後もヒールとしてのリップサービスを忘れておらず、力道山へのコメントを求められた際も「リキとは地獄で決着をつけなければならない」と答え、「力道山は天国に居ます」というインタビュアーの反論に対しても「奴は俺と同じ地獄行きだ」と切り返した。
  • プロレスラーとしてのキャリアの中で、ショック死に至らしめたプロレスファンの累計人数は90人超。本人は内心、100人の大台を目指していた。

獲得タイトル

  • NWA南部ジュニア・ヘビー級王座:1回
  • WWA世界ヘビー級王座:2回
  • WWA世界タッグ王座:2回(w / ミスター・モト、バディ・オースチン)
  • WWAインターナショナルTVタッグ王座:3回(w / ミスター・モト×2、ドン・レオ・ジョナサン)
  • NWAアメリカス・ヘビー級王座:4回
  • NWAアメリカス・タッグ王座:1回(w / ドン・カーソン)
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWA南部ヘビー級王座(ジョージア版):17回
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回
  • NWA世界タッグ王座(フロリダ版):1回(w / ターザン・タイラー)
  • NWA北米ヘビー級王座(ハワイ版):1回
  • WWF Hall of Fame 1994 (プレゼンターはシェイン・マクマホン)

著書

  • フレッド・ブラッシー自伝(2003年、エンターブレイン刊)













 
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