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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/3


 
 


 
 

八田 一朗
1906/6/3 - 1983/4/15

日本のレスリング選手・指導者、政治家である。日本レスリング界の父であり、参議院議員も務めた。また、東京オリンピック招致にも尽力した。広島県安芸郡江田島町(現・江田島市)出身。

 
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ドリー・ファンク・シニア
Dory Funk, Sr.
1919/5/4 - 1973/6/3

アメリカ合衆国のプロレスラー兼プロモーター。プロレスのマネージャーとしても活躍した。

本名はドランス・ウィルヘルム・ファンクDorrance Wilhelm Funk)。インディアナ州ハモンド出身。

息子のドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクも著名なプロレスラーである

来歴

少年時代はアメリカンフットボールをはじめ万能アスリートとして活躍。第二次世界大戦後、プロレスラーとしてデビュー。1949年にテキサス州アマリロに本拠地を移す。当初はドリー・ファンクDory Funk)のリングネームでザ・シーク等と対戦しているが、悪役レスラーとして活動していたらしい。また、一時期マスクド・マーヴェルMasked Marvel)という覆面レスラーとしても活動している。

梶原一騎原作の漫画「プロレススーパースター列伝」では最初プロボクサーを目指していたと描かれているが、ボクシング経験はなく空手の道場に通っていたことを初来日の際に、スポーツ紙に語っている。

現役時代は1958年にNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得するなど活躍したが、アマリロに本拠を構えて二人の息子に幼少の頃から英才教育を施しトップレスラーに育て上げたことにより名声は一気に高まり、息子のドリー・ファンク・ジュニアと区別する為ドリー・ファンク・シニアとして活動するようになる。

その後、ドリー・ファンク・ジュニアが1969年2月にNWA世界ヘビー級王座を獲得(テリー・ファンクもシニアの死後1975年に獲得)したことによりプロレス界で一目置かれる存在となり、南部地区のプロモーターとしても活躍。アマリロ地区を一代で有力テリトリーに育て上げた。NWA内部でも実力者として知られ、死去する直前の1973年2月にはNWA臨時総会を開催させてジャイアント馬場の加盟を(一つの地区からの加盟プロモーターは原則一人だったにもかかわらず)押し込んでいる。この件などのドリー・ファンク・シニアの恩義を馬場は長く忘れず、社長室の机にはシニアの写真が置いてあったという。

1969年11月に日本プロレスに参戦するため来日したドリー・ファンク・ジュニアのマネージャーとして同行し初来日。1972年10月に来日した時は、全日本プロレス旗揚げシリーズにレスラーとして参戦している。アマリロには多くの若手レスラーが集い、「ファンクス一家」の長として確固たる地位を築いたが、1973年6月3日にパーティー中に余興でレスリングをしていて心臓発作で急死。なお、このパーティーにはアメリカ武者修行中のジャンボ鶴田(当時は鶴田友美)も居合わせていたという。

人物

現役時代はヒールとして知られていたが社会人としては非常に常識はしっかりしていたと言う。スカウトされた、スタン・ハンセンによると現職の中学校教員を辞めてプロレスラーに転職する際も「せめて1学期までは(教員を)続けなさい。でないと周り(学校)が迷惑する。」と忠告した。その忠告通りにしたハンセンは学校側からも代わりをみつけられる時間が出来て助かったと感謝されたと言う。






片岡幻亮
1973/6/3

片岡 亮(かたおか りょう)は、日本の格闘家、ジャーナリスト。千葉県生まれ。身長193cm、体重105kg。拳論所属。

人物

格闘家としてリングに上がりながら、取材活動を続けている珍しいジャーナリスト。K-1、プロレス、キックボクシング、総合格闘技などで試合をしており、格闘技界の内側・外側に精通する。

夕刊フジや週刊朝日、サンデー毎日、実話ナックルズなどで格闘技や社会事件、芸能、アングラ話などに関する取材・記事を手がけることが本業。綾瀬女子高生コンクリート殺人事件の犯行少年のその後を追跡、オウム真理教の地下鉄サリン事件に関与したとして警察から指名手配され、現在も逃亡中の菊地直子についても海外取材を行っている。プロレス・格闘技に関しては過去、ナイタイスポーツなどで現場記者として取材をしており、自らが出場するプロレス興行では試合と取材とを兼任していたこともあった。

かねてから熱心なボクシングファンとしても知られ、近年の格闘技取材はプロボクシング中心で、特に亀田三兄弟に関してはデビュー間もない2004年から問題を指摘した批判記事を連載、夕刊フジでも同様の記事や連載コラムを配信、さらにテレビのニュース番組、ワイドショー番組にも多数出演し事態の内幕を語っている。そのため、亀田家からは名指しで取材拒否を受けている。亀田興毅が2度目の世界タイトルマッチを延期したことや、暫定タイトルマッチ出場の計画があったことなどは真っ先にスクープしている。また、自身のブログは高いアクセス数を誇り、アンチ亀田を中心とするボクシングファンが集まることでコメント欄が盛況となっている。

学生時代にアマチュアキックボクシングで都大会ライトヘビー級3連覇。プロでは全日本キックボクシング連盟でプロデビューも、所属ジムがJ-NETWORKとして独立したため試合数が減少、所属の早稲田ジム閉鎖もあって、アメリカに渡って試合を行なっていた。アメリカではIKF王座などのタイトル獲得経験もある。プロレスラーとしてはWAR、オリエンタルプロレス、新格闘プロレス、喧嘩プロレス二瓶組などに所属。一時は国際プロレスにてマスクマン「幻(まぼろし)」として登場していた。一時期、アメリカやメキシコでホームレスでのヒッチハイク放浪生活を数年に渡って行なっていたことが雑誌LAPOOのインタビュー記事などで明かされている。キックボクシングのプロ戦績は48戦以上も無敗だったが、K-1、ムエタイなど他の競技では負けが多かった。

DDTプロレスリングの地方興行においては、木村浩一郎とのセメントマッチ(頭突きあり)に挑んで失神KOされ、その興行を報じた記事では当該試合以降のレポートが書かれていなかった、という逸話もある。

2002年にはプロレス活き活き塾・無限の旗揚げ記者会見に取材記者として登場したが、マッチメイクなどを批判する辛口の質問をしたことを理由に団体代表である久世和彦塾長と論争になり、このバトルが旗揚げ興行への参戦に発展。現実とリンクした絶妙なアングルが話題になり、同団体のトップヒールとして数々の話題を提供した。会場の観客に対しても挑発的で「帰れ帰れ、家にじゃねぇぞ…世間にだ」という名セリフは大いに場内を沸かせた。ただ、旗揚げ戦のメインイベントではブック無視で対戦相手の佐野直をリアルに失神KOさせた上で「打ち合わせのないプロレスっていいね」と問題発言したことで週刊プロレスの鶴田倉朗記者にその場で「今後一切掲載拒否する」と通達されている。実際に試合映像を見ても蹴りがプロレス風には見えない角度で佐野の顔面などに入っていた。

また、K-1に数回の出場歴があり、1998/12/13「K-1 GRAND PRIX '98 決勝戦」(東京ドーム)においては、鈴木政司に1R1分25秒TKO負け。近年はプロレスから格闘技の世界に戻って小さな興行などで試合出場を続けており、ムエタイ元ラジャダムナンジュニアフェザー級王者のテーワリットノーイSKVに判定負け。サンボ王者の鈴木光浩に一本勝ちなど。他にサムライカタナなどのリングネームでタイやカンボジアでのムエタイ出場経験もある。総合格闘技ではキングダムなどに出場。大塚裕一、木村悦也、大杉勇らを下してメガファイトトーナメント優勝の実績を残した。

妹はタレントの片岡優香(フロム・ファーストプロダクション所属)である。従兄弟は元レーサー・モータージャーナリストの中谷明彦。

主な著書

  • 『マッキントッシュPage Maker4.5J入門』
  • 『スポーツマスコミが隠し続ける「あの事件」の闇と真相』
  • 『芸能界黒い噂の真相』
  • 『死の真相―有名人50人のDEATH REPORT』
  • 『危ないミクシィ―大流行!SNSの闇』
  • 『アイドルタブー黒い噂の真相』
  • 『消えた殺人者たち』
  • 『劇画死の真相』
  • 『恐怖の都市伝説』
  • 『THE 都市伝説』
  • 『最凶怪奇譚こわい話』
  • 『日本恐怖伝説』
  • 『日本怪奇伝説』
  • 『暗黒都市伝説』
  • 『恐怖の都市伝説ファイナル』
  • 『格闘伝説』
  • 『怖い噂の真相』
  • 『日本の黒い事件?封印された恐るべき真相』
  • 『都市伝説完全ファイル』





ステファン"ブリッツ"レコ
Stefan "BLITZ" Leko
1974/6/3

ドイツクレーフェルト出身(現クロアチア国籍)のキックボクサー。ゴールデン・グローリー所属。モデルのような甘いマスクながら、超一流のテクニックを持ち合わせている。ブリッツ(ドイツ語で稲妻の意)の異名を持つ。

ちなみに、所属ジムをゴールデン・グローリーに変えたあたりから髪型をブリッツヘアーにしている。

来歴

K-1時代

来日当初はK-1のリングに参戦、初期から次世代を担う選手として期待される。ヘビー級トップクラスのスピードとテクニックを持ち味に、GP予選で優勝したりするなど、期待通りの活躍を見せてはいたが、トップファイターにはあと一歩及ばず、伸び悩んでいた。

しかし21世紀に入ってボクシング技術の向上を図ったり、所属ジムをマスターズジムからゴールデン・グローリーに移すなどしたのが実を結んだのか、ようやくその真の実力を発揮し始め、ピーター・アーツ、レミー・ボンヤスキー、アレクセイ・イグナショフ、マイク・ベルナルド、フランシスコ・フィリォらに白星を挙げ、快進撃を続ける。

2000年10月9日、K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKAのトーナメント1回戦でアンドリュー・トムソンに右ローキックでKO勝ちするも、右拳骨折のためマイク・ベルナルドとの準決勝を辞退した。ジェロム・レ・バンナの欠場により、12月10日の決勝トーナメントに参戦。1回戦でフランシスコ・フィリォと対戦し、判定負け。

2003年に入ると、ピーター・アーツにTKO勝ち、マイク・ベルナルド、フランシスコ・フィリォに判定勝ちと連勝を重ね、K-1 WORLD GP 2003の決勝戦では優勝候補最有力とまで言われていたが、主催者(FEG)との契約が合意に至らず、決勝大会直前に棄権することになった。

PRIDE時代

2003年のトラブル以後、その影を潜めていたが、2004年に総合格闘技PRIDEのリングに登場、同年開催のヘビー級GPに電撃参戦を果たした。

2004年4月25日、PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦の1回戦で小川直也と対戦、スタンドで左フックを受けダウンし肩固めによるタップアウト負けを喫した。

その後も美濃輪育久に開始27秒ヒールホールドで一本負け、中村和裕にはパウンドによるTKO負けで連敗を喫し、友人であるミルコ・クロコップにも「PRIDEでは生き残れないからK-1に戻れ」と忠告を受けるなど、PRIDEでは3戦3敗となった。

K-1復帰?現在

2005/5/14、ハンガリーのブダペストで行われたWKNフリースタイル世界スーパーヘビー級王者決定戦で、フローリアン・オグネイド(ドイツ)を3RTKOで下し王者になる。立ち技復帰戦は白星スタート。6/12、オランダの格闘技イベントIt's Showtimeにおいて久々のキックルールでバダ・ハリと試合を行う。レコはバックスピンキックをハリのレバーに突き刺し、KO勝ちを飾った。11/19、K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦のリザーブファイトでK-1に復帰。6月に続き、再びハリと対戦するも、この試合は2Rにハリの右バックスピンキックを顔面に受け失神KO負けした。

2006/4/29、K-1 WORLD GP 2006 IN LAS VEGASでルスラン・カラエフと対戦。2度ダウンを奪われるが、3R終了間際に得意の右ストレートでダウンを奪い返すも、判定負け。8月12日、K-1 WORLD GP 2006 IN LAS VEGAS IIで行われた世界最終予選を全試合KOで制し、4年ぶりのグランプリ出場を決めた。9月30日のGP開幕戦ではレイ・セフォーに僅差の判定勝ち。12月2日のGP準々決勝ではレミー・ボンヤスキーに2度も下腹部に蹴りを入れてしまう。ダメージを負ったレミーを追い詰めるもカウンターをくらいダウンを奪われ、パンチのコンビネーションやバックブローも虚しく判定負けを喫した。レミーが前述のダメージにより準決勝出場にドクターストップがかかるも、自身も足を負傷しておりドクターストップとなった。試合後のインタビューでは、リスタートが2度もあったためモチベーションを保つのが大変だったとコメントし、風邪気味でベストな状態でなかったことも明かしていた。

2007/3/10、K-1クロアチア大会にて新星マゴメド・マゴメドフに僅差の判定負け。5/4、K-1ルーマニア大会にてカタリン・モロサヌに判定勝ち。8/11、K-1 WORLD GP 2007 IN LAS VEGASでマイティ・モーと対戦し、判定勝ち。9/29、K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16にてレミー・ボンヤスキーと対戦。右跳び膝蹴りでダウンを奪われ立ち上がるも、レフェリーが試合続行不可能と判定しTKO負け。レコはこれに抗議したが聞き入れられなかった。

2008/1/12、セルビアで行われたLord Of Ringにてマイケル・アンドレードと対戦しKO勝ち。なお試合後レコは膝の手術のため最低7か月はリングから遠ざかることを宣言した。

2008/8/9、K-1 WORLD GP 2008 IN HAWAIIのリザーブファイトでジュニア・スアと対戦し、1RKO勝ち。

2010/9/12、IT'S SHOWTIMEでヴォルカン・ダズガンと対戦し、判定勝ちを収めた。10/16、Ultimate GloryのKickboxing World Series1回戦でウェンデル・ロチェと対戦し、TKO負けを喫した。

ファイトスタイル

ブリッツの異名通り、稲妻の如く鋭い右ストレートが最大の武器。そのほかバックハンドブロー、バックスピンキックなどの即効性のある技をカウンター気味に繰り出し、KOの山を築いてきた。また「欧州の稲妻」とも呼ばれる。スピードもヘビー級の中ではトップクラスであり、パワーではなく手数とスピードを活かしたインファイトを得意とする。その反面、典型的なグラスジョーであり、途中まで試合を優位に進めていながら一発で逆転KO負けすることも多い。好例はマーク・ハント。


  



内藤メアリ
1974/6/3

埼玉県春日部市出身の日本の女子プロレスラー。

所属

  • アイスリボン(2011年 - )

経歴

2011年
2/26、アイスリボン268・イサミレッスル武闘館にて、対都宮ちい戦でデビュー。プロレス教室での1年間の練習を経てデビューすることになった。
4/1、19時女子プロレス初参戦。対つくし、宮城もち戦で初勝利(パートナーは真琴)。

人物

  • 蕨の現道場におけるプロレス教室出身レスラー第1号である。
  • 選手代表さくらえみを抜いてアイスリボン最年長選手となった。また、36歳での女子プロレスデビューは島崎晴子(DEP)の42歳、成国晶子(エスオベーション)の39歳に次ぐ記録となる。
  • 新田猫子とは同じ職場の同僚。





櫻井健介
1977/6/3

テレビ朝日スポーツ局ディレクター、元アナウンサー。順天堂大学スポーツ健康科学部卒業後、2000年入社。茨城県日立市生まれ。5歳のころからサッカーをはじめ、高校は名門武南高等学校に進学したが、全国大会には出場していない。ちなみに足は速く、50mを6秒台で走れるほどである。入社後、主にサッカー実況に力を注ぐ。「Qさま!!」の鬼ごっこに助っ人として参加したことがある。2008年6月末日でアナウンス部から転出し、スポーツ番組の制作部署に異動。

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