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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/6


 
 


 
 

ブルート・バーナード
Brute Bernard
1921/6/6 - 1984/10/21

カナダ・ケベック州モントリオール出身のプロレスラー(生年については諸説あり)。本名はジェームズ・バーナードJames Bernard)、通称ジム・バーナードJim Bernard)。ニックネームは「野獣」。

来歴

1956年にプロレス入り、1962年にアメリカ東部地区でスキンヘッドの野獣スタイルに変身。全身無毛の怪奇派スカル・マーフィーとタッグチームを結成して、その凶悪ファイトで全米を席巻した。奇人で有名だったマーフィーとのタッグを長続きさせたのはカール・フォン・ヘスとバーナードくらいだったといわれる。シングルでは、1967年3月にテキサスにてフリッツ・フォン・エリックからNWA USヘビー級タイトル(後のNWAアメリカン・ヘビー級タイトル)を奪取、同王座の2代目のチャンピオンとなった。

1968年11月、日本プロレスに初来日。最初は単なる中堅レスラーと見られていたが開幕戦で3本勝負のタッグマッチながら日本側のエースジャイアント馬場をピンフォールし、アントニオ猪木とのシングル戦でも敗れたものの名勝負を展開、一躍有名になる。また「ウーウーウー!」と奇声を発しながら(「人間サイレン」なる異名を与えられた)、ギクシャクと歩いて入場するパフォーマンスも怪奇ムードたっぷりで、ヒール人気を博した。

大木金太郎との対戦で、角材で大木の耳をそぎ落とす「大木金太郎耳そぎ事件」を起こしたのもこの1968年の来日時であり、日本マット史上に残る戦慄の事件として伝えられている(真相は大木が角材で殴られる直前に頭を動かしたことによるアクシデント)。1969年にはマーフィーとのタッグが日本で実現、BI砲のインターナショナル・タッグ王座に2回挑戦している。日本プロレスには合計3回来日した。

1975年以降は猪木の新日本プロレスに登場。すでに全盛期を過ぎていたが、外人ルートが乏しかった当時の新日本では準エース級の扱いを受けており、猪木とのシングルマッチも何度か組まれた。シングルでのタイトル挑戦はなかったものの、新日本草創期を支えたレスラーの一人である。

晩年となる1980年代初頭は、ジム・クロケット・ジュニアの主宰するNWAミッドアトランティック地区で活動、TVマッチにおいてオックス・ベーカーなどとタッグを組んでいた。1984年10月21日、拳銃自殺。年とともに動かなくなる肉体を憤ってのことだといわれている。

獲得タイトル

  • WWWF USタッグ王座:1回(w / スカル・マーフィー)
  • NWA世界タッグ王座(フロリダ版):2回(w / スカル・マーフィー)
  • NWA USヘビー級王座(テキサス版):1回
  • NWAブラスナックル王座(テキサス版):2回
  • IWA世界タッグ王座(オーストラリア版):5回(w / スカル・マーフィー)

 etc.

エピソード

  • ジャイアント・バーナードが「ブルート・バーナードの息子」を名乗っていたことがあるが、ギミック上のものであることが判明している。
  • タイツの尻のところに外見でもわかる特製のパッドを入れていた。腰が悪いのでそれを保護するため、ということだったそうだが、そういうものを入れていたレスラーは歴代来日レスラーでもバーナードだけで、どれぐらい効いていたのかは定かでない。
  • 実生活では非常に優しい性格で、バスでの移動中に眠ることの出来ない運転手の隣の席で雑談に付き合ったり、ベトナム難民の写真が掲載されたグラビアを見て人目を憚らず号泣したというエピソードもある。
  • 一方、リック・フレアーの自著では悪質で口汚い人種差別主義者として書かれており、車での移動中は黒人を蔑称で罵り続け、橋で釣りをしている黒人をミズーリ・モウラー(ラリー・ハミルトン)と共謀して川に放り投げたこともあったという。
  • 日本では1934年生まれとされており、それが正しければ初来日時は34歳ということになるが、「とてもそんな若さには見えない、年をごまかしているのではないか」という声が当時のファンや関係者の間で囁かれていた。

 
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レイ・メンドーサ
Ray Mendoza
1929/6/6 - 2003/4/16

ホセ・ディアス・ヴェラスケスJosé Díaz Velazquez)は、メキシコの元ルチャドール(プロレスラー)。

実子が順にビジャノ1号、2号、3号、5号、4号、義理の娘はラ・インフェルナル(3号の妻)。彼らのユニット名は「ロス・ビジャノス」と呼ばれる。

来歴

1950年にプロボクサーとしてデビュー。1954年に「チャト・ディアス(Chato Diaz)」のリングネームでプロレスデビュー。また「エル・ラヨ・ロホ」(El Rayo Rojo)のリングネームで覆面レスラーだった時期もある。

1955年より「レイ・メンドーサ(Ray Mendoza)」のリングネームを用いるようになる。

1959/9/11にドリー・ディクソンを破りNWA世界ライトヘビー級王座を奪取を皮切りに以降1967年、1968年、1970年、1972年、1973年と計6度の王座についた。

1963/11/30にエスパント1号を破りメキシコナショナルライトヘビー級王座を奪取。1967/3/11にレネ・グアハルドを破りNWA世界ミドル級王座を奪取。

1970/12/4にジョン・トロスを破りユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座を奪取。1971年1月にミル・マスカラスと組んでブラック・ゴードマン&エル・ゴリアスを破りNWAアメリカスタッグ王座を奪取。1972年にラウル・マタ、1973年にはラウル・レイエスと組んで同ベルト奪取を。1971年3月に日本プロレスに来日。1975年1月には長らく所属だったEMLLを離れフランシスコ・フローレス、ベンジャミン・モーラらとともに新団体ユニバーサル・レスリング・アソシエーション(UWA)を旗揚げ。11月には新設されたUWA世界ライトヘビー級王座の初代王者となる。

1982年にリタイア。2003年4月に病死。

タイトル歴

  • NWA世界ライトヘビー級王座 : 6回
  • メキシコナショナルライトヘビー級王座 : 3回
  • NWA世界ミドル級王座
  • ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座 : 1回
  • NWAアメリカスタッグ王座 : 3回





松永 高司
1936/6/6 - 2009/7/11

日本の実業家。東京都目黒区出身。松永4兄弟で全日本女子プロレスを創業し、社長・会長を務めた。「女子プロレスの父」の異名を持つ。

人物

妹が女子プロレスラーとしてデビューしたのを機に兄弟4人で女子プロレスの世界に飛び込む。

全日本女子プロ・レスリング協会にてレフェリー、コーチを務め、いくつかあった団体を自身が中心となって日本女子プロレスに纏め上げた。

NWAと提携を結び、ファビュラス・ムーラの来日を実現させた。

その後、1968年に万年東一とともに「全日本女子プロレス」を旗揚げして社長に就任。日女のほとんどのレスラーが松永を慕い旗揚げに参加した。万年の辞任後は会長を歴任した。「ピストル(男子プロレスでのガチンコ)」「三禁」「25歳定年制」を提唱し、さらにフジテレビでの試合中継も実現させて女子プロブームを興した。

また、地方興行やガレージマッチ(全女事務所車庫での大会)で自ら焼きそばを焼く姿も名物であった。

2005年4月、資金繰りの悪化と体調不良のため全女会長を勇退し解散。以降は療養に入る。

2009年7月11日午後4時56分、間質性肺炎のため死去。73歳。

松永家

全女は松永家による同族経営であり、高司が中心を担い4兄弟及びその親族が役員に名を連ねていた。さらに配偶者や女性の親族にも元レスラーが多い。

  • 長男の妻:奄美百合子(元レスラー)
  • 次男:松永健司(副会長。「ミスター郭」のリングネームでレフェリーも務めた)
    • 長男:ボブ矢沢(レフェリー)
    • 妻の姪:京愛子(元レスラー)
  • 三男:松永高司(会長)
    • 妻:遠藤恵子(元レスラー)
  • 長女:吉葉礼子(元レスラー)
    • 長女:影かほる(元レスラー)
  • 次女:山口洋子(元レスラー)
  • 四男:松永国松(解散時の社長。「ジミー加山」のリングネームでレフェリーも務めた)
    • 妻:赤木マリ子(元レスラー・後に離婚)
  • 五男:松永俊国(元社長)
    • 次男:松永正嗣(取締役・渉外担当)
  • 従姉妹:ジャンボ宮本(元レスラー)
  • 遠戚:赤城マリ子(元レスラー)

なお長男は経営に関わっていない。

著書


女子プロレス終わらない夢全日本女子プロレス





コナン
Konnan
1964/6/6

カルロス・アシュノフCarlos Ashenoff)は、キューバ・サンディアゴ出身のプロレスラー。メキシコやアメリカのプロレス団体で活躍している。

来歴

6歳でキューバからアメリカに亡命。幼少期をフロリダ州マイアミで過ごす。1982年に地元の高校を卒業後、ストリートギャングの一員となった。更生後にアメリカ海軍に4年入りボクシングを習得。

除隊後はカリフォルニア州のサンディエゴに移住しボディビルを始める。同地のプロモーターに見出され、1987/1/6にバハ・カリフォルニア州ティフアナの団体でデビュー。以降、1989年よりメキシコのUWA、1990年にはEMLLと転戦。1992年にはAAA入りした。1992年はサイボーグをモチーフとしたマスクマン、マックス・ムーンに変身してアメリカのWWFにも登場するが短期間で離脱(後任としてポール・ダイヤモンドが2代目マックス・ムーンに扮した)。

1995年のECW出場を経て、1996年からはWCWをアメリカでの主戦場に活動。参戦早々の1/29、ワンマン・ギャングを破りWCW USヘビー級王座を獲得した。WCWでは1997年より「nWo」のメンバーとなって活躍。nWo消滅後の1999年はエディ・ゲレロ、レイ・ミステリオ・ジュニア、ビリー・キッドマンらと「フィルシー・アニマルズ」なるユニットを結成、10月18日にミステリオ・ジュニアとのコンビでハーレム・ヒートからWCW世界タッグ王座を奪取している。

1996年にはプロモ・アステカを旗揚げするも2004年に崩壊。同年にTNA入りし、BG・ジェイムス&ロン・キリングスと「3Live Kru」を、仲間割れしてからは「L・A・X」を結成。2006年に長期の病気で欠場後、同団体を離脱し2007年にはAAAに復帰した。

日本には1990年2月、マスクマンのコナン・エル・パルパロ(コナン・ザ・バーバリアン)としてFMWに初来日。当時FMWにコナンを紹介したレッド・バスチェンは「第二のマスカラスになりうる男」とコナンを評価している。その後、1994年11月には新日本プロレスの『AAAルチャ・ワールド』に参戦した。

獲得タイトル

  • LAWAヘビー級王座:1回
  • CMLL世界ヘビー級王座:1回
  • IWAS世界ヘビー級王座:1回
  • IWC世界ヘビー級王座:1回
  • AAAアメリカヘビー級王座:1回
  • CW US北西タッグ王座:1回(w / アート・バー)
  • IWAS世界タッグ王座:1回(w / レイ・ミステリオ・ジュニア)
  • WCW USヘビー級王座:1回
  • WCW世界TV王座:1回
  • WCW世界タッグ王座:2回(w / レイ・ミステリオ・ジュニア、ビリー・キッドマン)
  • WWCユニバーサル・ヘビー級王座:1回
  • WWC世界タッグ王座:1回(w / カーリー・コロン)
  • NWA世界タッグ王座(TNA版):2回(w / BG・ジェイムス、ロン・キリングス)

  



アーメッド・ジョンソン
Ahmed Johnson
1970/6/6

アンソニー・ノリスAnthony Norris)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ミズーリ州セントルイス出身のアフリカ系アメリカ人(ギミック上の出身地はミシシッピ州パール・リバー)。生年は1966年ともされる。

1990年代半ばのWWF(現・WWE)において、近年のボビー・ラシュリーにも通じるヘビー級の硬派な黒人ベビーフェイスとして活躍。黒人初のWWFインターコンチネンタル王者であり、一時はWWF世界ヘビー級王座載冠も有力視された。

巨体ながら空中技も軽々とこなすなど優れた身体能力の持ち主だったが、病気や怪我が相次ぎ、レスラーとして大成することはできなかった。

来歴

NFLのダラス・カウボーイズを経て軍隊に入り、除隊後はサーカスのライオン使いなどの職に就いていた。テキサス州ヒューストンのイワン・プトスキーのスクールでトレーニングを積み、1994年(1992年説もある)にダラスのインディー団体GWFにてデビュー。当時はモアディブMoadib)なるリングネームを名乗り、スカンドル・アクバをマネージャーにイスラム系アフリカ人ギミックのヒールとして活動した。1995年3月には大日本プロレスの旗揚げ興行に来日。7月の再来日を経て、同年9月にWWFと契約。

WWFではベビーフェイスのアーメッド・ジョンソンAhmed Johnson)に改名し、11/6には提携団体であるメンフィスのUSWAでジェリー・ローラーからユニファイド世界ヘビー級王座を奪取。11/19のサバイバー・シリーズではショーン・マイケルズのパートナーとなって活躍し、翌1996年上期はジェフ・ジャレットと抗争を展開した。

1996/6/23のキング・オブ・ザ・リングでゴールダストを破り、WWFインターコンチネンタル王座を獲得。WWFの歴史上、黒人レスラーとしては初のシングル王座載冠を果たした(周囲の風当たりは強く、車に差別的な言葉を落書きされたり、嫌がらせの手紙を送られたりしたこともあったという)。腎損傷のためにタイトルは返上することになったものの、その後もロール・モデルRole Model)をニックネームに、不良少年から更生したアスリートというキャラクターのもとトップ戦線で活躍。久々に登場したブラック・ヒーローの新星として日本でも注目を集め、黒人初のWWF世界ヘビー級王座奪取も期待された。

1997年、ネーション・オブ・イスラムやブラックパンサー党をモチーフとした、ファルーク率いる黒人至上主義軍団ネーション・オブ・ドミネーション(NOD)との抗争が勃発。融和を訴えるジョンソンvs暴力主義を唱えるファルークという「WWF版黒人思想闘争」が展開される。3/23のレッスルマニア13ではリージョン・オブ・ドゥームをパートナーに、ファルーク、クラッシュ、サビオ・ベガとのシカゴ・ストリート・ファイトが行われた。一時は短期間ながらNODと行動を共にするも、すぐに離脱して抗争を継続、新メンバーのマーク・ヘンリーやカマ・ムスタファ、ヒール修行時代の“ザ・ロック”ロッキー・メイビアらと激闘を繰り広げた。

1998年2月のRAWにおけるケイン戦を最後にWWFを脱退(離脱の原因は諸説あり)。その後しばらく近況が聞かれなかったが、1999年の末にWCWと契約。翌2000年1月にヒールのビッグ・TBig T)として登場し、当時ブッカー・Tと仲間割れしていたスティービー・レイとハーレム・ヒート2000を結成する。しかしながら、WWF時代の筋肉隆々とした肉体は長期間の欠場中に劣化しており、腹周りに贅肉がつきパワーもスピードも激減、かつてのブラック・ヒーローの面影はなかった。

同年3月にWCWを解雇されてからはセミリタイアとなり、2001年に俳優としてテレビドラマ『M.C.ハマー ストーリー』にマリオン“シュグ”ナイト役で出演。2003年3月7日にはインディー団体のMXPWに登場、モンティ・ブラウンと組んでサブゥー&ギャングレルと対戦した。近年は、旧友ブッカー・Tの主宰するPWAのアカデミーにて、トレーナーとして後進の指導・育成にあたっている。

獲得タイトル

  • USWAユニファイド世界ヘビー王座:1回
  • WWFインターコンチネンタル王座:1回





ドリュー・マッキンタイア
Drew McIntyre
1985/6/6

ドリュー・ギャロウェイDrew Galloway)は、イギリス・スコットランド出身のプロレスラー。現在はアメリカ合衆国のプロレス団体WWEに所属。

来歴

15歳の頃からプロレスのトレーニングを開始し、2007年中頃までヨーロッパで活動。2006/8/27にはアイルランドのダブリンにて、シェイマス・オショネシーからIWW(Irish Whip Wrestling)インターナショナル・ヘビー級王座を奪取している。

2007年9月、当時WWEの下部組織であったOVWでデビュー。同年10月頃から同じ英国出身のデイブ・テイラーのタッグパートナーとしてスマックダウンに登場し、メジャー・ブラザーズなどと抗争を繰り広げる。その後再びOVWに戻り活動を続けたが、2008年2月にWWEとOVWが関係を解消したためFCW所属となった。同じくイギリス出身のステュー・ベネットとエンパイアThe Empire)というタッグチームを結成し、5月にエディ・コロン & エリック・ペレスからFCWフロリダタッグチーム王座を奪取。タッグ王座陥落後にベネットとタッグを解消し、シングルで活動。2009/3/19にジョー・ヘニングからFCWフロリダヘビー級王座を奪取した。6/11にタイラー・レックスに王座を奪われた。

2009年6月頃からスマックダウンのダーク・マッチに頻繁に登場するようになり、8月のスマックダウンにて入場中のRトゥルースを試合開始前に急襲。これによりRトゥルースとの抗争が展開された。9月には会長のビンス・マクマホン自らが彼と契約を交わすというアングルのもと、未来の世界王者になる男と紹介された。

11月からはIC王者のジョン・モリソンと抗争を開始、12/13のTLC:テーブルズ・ラダーズ・アンド・チェアーズにてモリソンを破り、インターコンチネンタル王座を獲得した。その後も無敗を継続していたが2010年2月のSmackDown!でのマネー・イン・ザ・バンク予選試合でケイン敗れ無敗記録がストップする。しかし、ビンスが負けた記録を抹消し(ケインのマネー・イン・ザ・バンクへの出場は決定)もう1度無敗のままマネー・イン・ザ・バンク予選試合でマット・ハーディーと戦う。しかしこの試合でも負けてしまうが再びビンスが記録を抹消し、翌週、IC王座とマネー・イン・ザ・バンク出場権の総取り戦をアーロン・ボロと行う。これに圧勝したがレッスルマニアの直前にジ・アンダーテイカーに破れて、さらにレッスルマニアでのマネー・イン・ザ・バンクでも負けてしまう。

レッスルマニア以降はマネー・イン・ザ・バンクで負けた原因をつくったマット・ハーディーを毎週のように襲い続ける。そして5月7日のスマックダウンではGMのセオドア・ロングの制止を振り切りマットに暴行を加えたため謹慎処分となる。それでも暴行をやめなかったため続いてIC王座を剥奪される。それでもさらにマットに暴行を加えたためロングからクビを言い渡されることとなる(もちろんアングル)。しかし翌週のスマックダウンにロングの決定を取り消すという会長からの手紙を持って登場し、スマックダウンに復帰し、王座剥奪もなかったこととなる。その結果トーナメントを勝ち抜き新王者になるはずだったコフィ・キングストンとの抗争が展開する。そして5/23のオーバー・ザ・リミットでコフィを相手に王座防衛戦をするが試合に敗れ王座を失う。王座陥落後からコーディ・ローデスと共に行動し始める。

9/19のナイト・オブ・チャンピオンズではタッグチーム・ターモイル形式のWWEタッグ王座戦にローデスと共に出場し、マーク・ヘンリー & エヴァン・ボーン組を破り、王座を獲得する(王者であったハート・ダイナスティはすでにウーソズに敗れていたため、王座から陥落していた)。

10/24のブラッギング・ライツでジョン・シナ & デビッド・オタンガ組に敗れ、王座を失う。王座陥落後のスマックダウンでは王座再冠を目指しビッグ・ショー & コフィ・キングストン組と対戦したが終盤にローデスを見捨てて敗北。試合後のバックステージでも口論になりタッグを解散した。

11月に二年ぶりに開催されたキング・オブ・ザ・リングトーナメントでは予選でMVPを破るが、1回戦でエゼキエル・ジャクソンとダブルカウントアウトで引き分けたため両者共に敗退した。

獲得タイトル

WWE

  • WWEインターコンチネンタル王座 : 1回
  • WWEタッグ王座 : 1回(w / コーディ・ローデス)

FCW

  • FCWフロリダヘビー級王座 : 1回
  • FCWフロリダタッグチーム王座 : 1回(w / ステュー・サンダース)

その他

  • IWWインターナショナル・ヘビー級王座 : 1回
  • BCWヘビー級王座 : 2回
  • ICWヘビー級王座 : 1回

その他

  • シェイマスと共に、トリプルHとショーン・マイケルズの2人に大変気に入られており、共にトレーニングをしているとのこと。
  • 2010年にECWのGMであるティファニーと婚約した。
  • リッキー・スティムボートがエージェントとして指導している。2009年のスマックダウン再登場前はハウスショーでスティムボート自ら胸を貸し、テストマッチを行なっていた。

入場曲

  • Metal Heart A
  • Seeing Red
  • Broken Dreams (Shaman's Harvest)













 
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