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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/7


 
 


 
 

ハワード・フィンケル
Howard Finkel
1950/6/7

アメリカ合衆国のプロレス団体WWEのリングアナウンサー。愛称はザ・フィンクThe Fink)。

2002年までリード・リングアナウンサーを務め、近年はWWEのパブリケーション業務を担当している。

来歴

1975年、ビンス・マクマホン・シニアのWWWF時代からWWEに在籍し、1977年よりマディソン・スクエア・ガーデンにおける定期戦のリングアナウンサーを担当。以降は団体のリード・リングアナウンサーを任され、ブルーノ・サンマルチノ、ボブ・バックランド、ハルク・ホーガン、ブレット・ハート、ショーン・マイケルズ、ジ・アンダーテイカー、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、ザ・ロックなど、WWWF〜WWF〜WWEの歴代のトップスターをコールした。

1970年代末から1980年代前半にかけては新日本プロレスが当時のWWFと提携していたこともあり、アントニオ猪木、藤波辰巳、坂口征二、ストロング小林、キラー・カーン、ミスター・サイトー、リッキー・チョーシュー、タイガーマスク、前田日明、ザ・コブラなど、ニューヨークに登場した日本人選手も数多くコールしている。

ブレット・ハート全盛時のニュージェネレーション期のWWEでは悪徳マネージャーのハービー・ウィップルマンとの抗争アングルが展開され、1995/1/9には初めて試合に出場し、ウィップルマンを相手にタキシードマッチを行った。1999年からはトニー・チメルやリリアン・ガルシアに徐々に後任を譲るようになるが、アングルの上ではリード・リングアナウンサーの座を巡る彼らとのストーリーが組まれ、同年8月から10月にかけてはクリス・ジェリコの部下となり、ヒールのポジションでチメルと抗争。2002年にはリリアン・ガルシアとも争い、8/26のRAWでは彼女とのイブニングガウン&タキシードマッチが行われている。

以降はRAWのリングアナウンサーを正式にリリアンに任せて第一線から退き、近年はWWEの広報部門に携わりながら、レジェンド・セレモニーなどで時折アナウンスを担当している。30年以上に渡るWWEでの功績をたたえ、2009年にはWWE殿堂に迎えられた。WWE.comのトーク・コーナー "Byte This" のホストやコラム執筆を手掛けていたこともあり、リッキー・スティムボートのニックネーム "ザ・ドラゴン" の名付け親でもある。


 
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ミック・フォーリー
Mick Foley
1965/6/7

アメリカ合衆国のプロレスラー、作家、カラー・コメンテーター。インディアナ州ブルーミントン出身だが、育ちはニューヨーク州。ハードコア・レジェンドとして知られ、ハードコアマッチを得意とする。

複数のリングネームを使い分け、多重人格というギミックのもと、カクタス・ジャックCactus Jack)、マンカインドMankind)、デュード・ラブDude Love)などのキャラクターで活躍。両手でピストルの形を作って「バンバン!」と叫ぶのが定番アピールである。

現在は作家としての顔も持ち、自伝である『HAVE A NICE DAY!』(1998年)は全米でベストセラーになった。その他、小説や絵本など精力的に執筆活動を続けている。「HAVE A NICE DAY!」とは自身の決め台詞でもある。2007年には自叙伝『Hardcore Diary』を発表した。

WWEスマックダウンの解説を経て、2008年9月よりTNAへ移籍。

来歴

デビューまで

少年時代からプロレスに熱狂し、1983年の大学生時代、マディソン・スクエア・ガーデンでジミー・スヌーカが金網最上段からドン・ムラコに放った伝説のスーパーフライ・スプラッシュを前列3列目の客席で目撃している。この時の光景に衝撃を受けたことが、後の彼の試合スタイルに大きな影響を与えた(後年、ムラコがWWE殿堂入りした際はフォーリーがプレゼンターを務めている)。

初期

元WWWF世界タッグ王者の師匠ドミニク・デヌーチ(ドン・デヌーチ)に徹底的にバンプを叩き込まれ、1986/6/24にデビュー。9/13にはジャック・フォーリーの名でジョバーとしてWWF(現WWE)に出場し、ブリティッシュ・ブルドッグスと対戦。ダイナマイト・キッドを怒らせたために危険なスープレックスを掛けられ、顎を負傷。後日この怪我によって受身の際に歯を食いしばれず、前歯を失った。

その後、カクタス・ジャックのリングネームを名乗り、テネシー州メンフィスのCWAやテキサス州ダラスのWCWA(WCCW)に参戦。WCWAでは1989年5月にケリー・フォン・エリックとジェフ・ジャレットのチームからタッグ王座を奪取している。1989年にはWCWにも出場したが、引き続きインディー団体を主戦場とし、WCWAの後継団体GWFではスコット・アンソニーやマッカン・シンらと "ザ・カーテル" なるヒール・ユニットを結成していた。

1991年3月には全日本プロレスに初来日(表記はキャクタス・ジャック)。チャンピオン・カーニバルに参加するも無得点に終わった。

WCW登場

1991年9月よりヒールとしてWCWに本格参戦。ミッドカード戦線での活動を経て、1992年からはロン・シモンズやスティングなどWCW王者との抗争も組まれた。タッグではアブドーラ・ザ・ブッチャーやケビン・サリバンとコンビを組み、狂乱ファイターとしてのキャリアを積んだ。

1993年にはベビーフェイスに転向し、スティングやダスティ・ローデスともタッグを結成。ベイダーとの抗争もスタートさせた。

ハードコア路線への転身

1994/3/16、ドイツで行われたベイダー戦でロープが頭に絡まり、無理に抜け出そうとして右耳がちぎれてしまうアクシデントに襲われる。この頃から得意のバンプを活かした場外への自爆など過激な試合展開を多く織り込むようになり、ハードコア路線を自身のファイトスタイルとした。

同年、WCWとECWの提携路線からECWに参戦するようになり、同年のWCW退団後は引き続きECW、SMW(ジム・コルネット主宰)などのインディー団体を転戦した。1995年8月にはIWAジャパンに登場。日本でもハードコアマッチをこなし、同団体開催のキング・オブ・ザ・デスマッチ・トーナメントでテリー・ファンクを破り優勝した。

WWF参戦

1996年にWWF(現WWE)と契約し、マンカインドに変身。もっとも正体がフォーリーであることは多くのファンの知るところであったため、後にギミック上多重人格という設定がされ、その人格のバリエーションとしてカクタス・ジャックデュード・ラブとしても活動する。WWFでは主にマンカインドとして活動しつつ、ストーリーに応じてこの3つのリングネームを使い分けていた。1998年のロイヤルランブルではこの設定を利用してランブル戦に3回登場したことがある。なお、本名のミック・フォーリーでの試合は2009年現在で通算7回しか行っていない。

ECWやIWAジャパンで見せたようなハードコアスタイルはWWFでも変わらなかった。特に有名なのが1998年のPPVキング・オブ・ザ・リングで行われたジ・アンダーテイカーとのヘル・イン・ア・セル戦で約6mの高さの金網からテーブルに向かって落下したハードバンプである。

こうしたハードコア路線によってフォーリーはカルト的な人気を獲得し、同年12/29からWWE王座を通算3回獲得。ザ・ロックとは異色のタッグチーム「ロックン・ソック・コネクション」(The Rock & Sock Connection)でも活躍した。

最初の引退

長年のハードバンプにより身体が限界に達していたため引退を決意、1999年冬頃から試合数を減らし、2000年のWrestleMania 2000のメインイベントをもって現役を引退。2001年にWWFコミッショナーに就任し現場に復帰。同年にWWFコミッショナーを退いた後はプロレス界から離れ、作家活動に専念した。

2003年6月、トリプルHとケビン・ナッシュの抗争の中で行われたヘル・イン・ア・セル戦のレフェリーとして久々にWWEに登場、エヴォリューションとの抗争の火種を作る。またビンス・マクマホンからハードコア王座ベルトを贈呈された。同年末にRAWのGMとして復帰するも、翌週にはエヴォリューションのメンバーでもあるランディ・オートンによってGM退任に追い込まれる。

現役復帰

2004年に入り本格的にオートンとの抗争を開始。WrestleMania XXにてザ・ロックとのコンビを復活させ現役復帰。Backlash 2004ではオートンと壮絶なハードコアマッチを行った。翌月にはハッスルへ出場し三冠ヘビー級王座に挑戦した。その後も精力的にROHなど各地のインディー団体に登場してサイン会の開催や特別レフェリーを務めている。

2005年も前年同様試合はたまにしかしないがPPVや他団体への出演を行っている。6月のハードコア・ホームカミングではメインイベントのサプライズ・ゲストレフェリーを務め、2日後のWWEワン・ナイト・スタンドではジョーイ・スタイルズと共に解説を務めた。11月のタブー・チューズデイではファンのインターネット投票でギミックを決める試合を行い、マンカインドとしてカリートと試合を行った。12月のエリック・ビショフ解任ストーリーでもRawに登場している。2006年に入り、ロイヤルランブルにて王座をジョン・シナに奪われたエッジの王座戦再戦の際にレフェリーとして登場。この時のレフェリングをきっかけにエッジと抗争を開始し、WrestleMania 22にてエッジとハードコアマッチを行った。5月、エッジと結託してヒールターンしECW One Night Stand 2006では数年ぶりに師匠とも呼べるテリー・ファンクと対戦。またSummerSlamでは不仲で有名だったリック・フレアーとのアイ・クイット・マッチも実現させた。

2008年のバックラッシュよりジョナサン・コーチマンに代わり、スマックダウンの解説者として活躍していた。

2008年8月、契約満了をもってWWEを退団。直前にはGMのヴィッキー・ゲレロを使って王座戦線に絡もうとするエッジに対し、「レッスルマニアでオレと戦ったときのお前はそんなんじゃなかった」と活を入れるアピールを行ない、エッジによって負傷させられるアングルが組まれた。

TNA移籍

2008年9月、かねてより噂されていたTNAへの移籍が正式に決定する。当初はプロモやマイクアピールが中心であったが、試合にも復帰し、2009/3/19にはスティングからTNA世界ヘビー級王座を奪取した。

その後はアビスとの抗争やエリック・ビショフとのアングルを経て、2010年7月より、ロブ・ヴァン・ダム、レイヴェン、トミー・ドリーマー、スティービー・リチャーズ、ライノ、チーム3D、アル・スノーらとTNA版ECWオリジナルズであるEV 2.0Extreme, Version 2.0)を結成した。

ギミック

カクタス・ジャック
キャクタス・ジャックとも表記される。WWF入団以前から名乗っていたリングネーム。cactusはサボテンを意味する英単語である。サディストで、有刺鉄線が巻かれたバットのバービー(子供用着せ替え人形のバービーから名付けられた)を携えている。WWEでは彼の人格の中で最も残虐とされる。全日本プロレスやIWAジャパンに来日した時はこのギミックだった。カクタス・ジャックとはもともと父親のあだ名だった。

マンカインド
怪奇派ギミックで子供のときに醜さからマスクをかぶせられボイラー室に閉じ込められて育った自閉症の男という設定。顔が描かれた靴下のミスター・ソッコという友人がいる。当初は狂人キャラだったが、徐々に純真でコミカルなキャラクターに変わっていった。このギミックのままテレビCM(ラビオリの缶詰)にも起用されている。

デュード・ラヴ
ヒッピー風の衣装に身を包み、常にハイテンションで踊る男。マンカインドがストーン・コールド・スティーブ・オースチンにタッグの結成を持ちかけるも「暗い男は断る」と言われたことから変身したキャラクター。名前の元ネタは学生時代に自主制作した映画の主人公。

獲得タイトル

WCWA
  • WCWAタッグ王座 : 2回(w / スコット・ブラドック、ゲイリー・ヤング)
  • WCWAライトヘビー級王座 : 1回
ECW
  • ECW世界タッグ王座 : 2回(w / マイキー・ウィップレック)
WCW
  • WCW世界タッグ王座 : 1回(w / ケビン・サリバン)
WWF / WWE
  • WWF世界ヘビー級王座 : 3回
  • WWFハードコア王座 : 1回(初代王者)
  • WWF世界タッグチーム王座 : 8回(w / ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、チェーンソー・チャーリー、ケイン×2、アル・スノー、ザ・ロック×3)
TNA
  • TNA世界ヘビー級王座
IWAジャパン
  • IWA世界タッグ王座 : 1回(w / トレイシー・スマザーズ)
その他
  • ACWユニバーサルTV王座 : 1回
  • CWAタッグ王座 : 1回(w / ゲイリー・ヤング)
  • GLCWヘビー級王座 : 1回
  • MCW北米ヘビー級王座 : 1回
  • 中南部ヘビー級王座 : 1回
  • NAWヘビー級王座 : 1回
  • NWLヘビー級王座 : 1回
  • OMW北米ヘビー級王座 : 1回
  • SCWタッグ王座 : 1回(w / ブルー・ミーニー)

入場曲

デュード・ラブ
  • The Dudester
  • Dude Love
マンカインド
  • Schizophrenic
  • Ode To Freud
  • Wreck
    素顔のミック・フォーリー時も使用。

その他

  • 『TIME』が選出するパーソン・オブ・ザ・イヤーのインターネット投票において、1998年に組織票により1位になったことがある(その後投票結果は無効になっている)。前述の1998年キング・オブ・ザ・リングでのハードバンプに感銘を受けた一部ファンが、ネット投票を行ったと言われている。
  • 金網から突き落され、まったく動けなくなったフォーリーを見てアンダーテイカーは「殺してしまった」と思ったと語っている。
  • ビンス・マクマホンも含め共和党支持者の多いWWEにおいて、珍しく民主党支持を公言していた人物でもある。





ジョン・テンタ
John Anthony Tenta
1963/6/22 - 2006/6/7

カナダのブリティッシュコロンビア州サレー出身、佐渡ヶ嶽部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。

力士時代の最高位は幕下43枚目。プロレス転向後はアースクエイクビッグ・ジョン・テンタなどのリングネームで活躍した。得意技はヒップドロップ。

来歴

力士時代

元レスリング世界ジュニア選手権スーパーヘビー級チャンピオンという肩書きを持ち、1985年にルイジアナ州立大学を中退して佐渡ヶ嶽部屋に入門。琴天太(後に琴天山)の四股名で1985年11月場所にて初土俵。以降、序ノ口、序二段、三段目でいずれも7戦全勝で優勝し、21連勝を達成(前相撲を含めると24連勝)。しかし相撲界の雰囲気になじめず、1986年7月場所には幕下43枚目に昇進するも土俵に上がらず失踪し、初土俵後無敗のまま廃業した。

プロレス転向後

相撲廃業後、すぐに「プロレス入り」が噂され、新日本プロレスの興行に来場。ワールドプロレスリング中継でアントニオ猪木と握手する姿が生放送されるが、新日本プロレスを選ばずに全日本プロレスに入団する。この経緯には様々な説があるが、プロレスマスコミは「両団体が天秤にかけられるとはプロレスもなめられたものだ」という旨の皮肉をこめた記事を書いている。

デビュー戦は1987/5/1、ジャイアント馬場とタッグを組んで、ラッシャー木村&鶴見五郎と対戦した。このデビュー戦のリングコスチュームとシューズは天龍源一郎からプレゼントされた。同年9月には地元ブリティッシュコロンビア州のバンクーバーでUWAヘビー級王座を、11月には同カナディアン・ヘビー級王座を獲得している。

全日本在籍時の1987年には「世界最強タッグ決定リーグ戦」にも参加。テンタのパートナーはアメリカでの実績が豊富なザ・グレート・カブキが務めた。この時期、全日本に参戦していたブルーザー・ブロディはテンタと対戦した際、テンタが持つアマレス仕込みの基礎と相撲で培った瞬発力を見抜き、週刊プロレスの記者に「いい選手が入ったな。俺とアイツのシングルマッチで客が呼べる日も近いぜ」と漏らし、テンタのプロレスラーとしての素質を高く評価していた。

1989年よりWWFに参戦し、当初はカナディアン・アースクエイク、後にアースクエイクEarthquake)のリングネームでヒールとして活躍。マネージャーにジミー・ハート、パートナーにはディノ・ブラボーを迎え、ハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアーと抗争した。1991年からはタイフーンと「ナチュラル・ディザスターズ」なる超大型タッグチームを結成、リージョン・オブ・ドゥームとも激闘を展開した。

1991年には当時WWFと提携していたSWSにも登場し、北尾光司と対戦。1992年からはベビーフェイスに転向し、7月にタイフーンとのコンビでテッド・デビアスとIRSのマネー・インコーポレーテッドからWWF世界タッグ王座を奪取した。その後はヨコズナとの相撲マッチなども行うが、1993年にWWFを離脱する。

1994年からはWCWにジ・アバランシュThe Avalanche)として参戦。ケビン・サリバンのダンジョン・オブ・ドゥームに加入し、前年にWCWに移籍していたハルク・ホーガンとの抗争を再開する。WCWではザ・シャークThe Shark)とも名乗り、後に本名のジョン・テンタ名義で1997年上期まで在籍するが、WWF時代ほど活躍の機会には恵まれなかった。

その間、1990年代中頃から後期にかけて、日本ではWAR、新日本プロレス、UWFインターナショナルなどに参戦している。

1998年からは再度WWFに登場。マスクを被り覆面レスラーのゴルガGolga)に変身し、クルガンやジャイアント・シルバとの怪物軍団「ヒューマン・オディティーズ」で活躍するも、1999年に解雇される。その後はヨーロッパで活動するが、セミリタイア状態となりフロリダ州サンフォードでプロレスリング・スクールを運営していた。

2001年4月、WWFのレッスルマニアX-Sevenで行われたギミック・バトルロイヤルにアースクエイクとして出場。2002年からは新体制になった全日本プロレスに登場。主に天龍源一郎とのタッグで活躍した。

2006年6月7日、フロリダにて膀胱癌のため42歳で死去。

改名歴

  • 琴天太 俊克(ことてんた としかつ)1985年11月場所-1986年3月場所
  • 琴天山 俊光(ことてんざん としみつ)1986年5月場所-1986年7月場所(廃業)

戦歴

各段優勝

  • 三段目優勝:1回(1986年5月場所)
  • 序二段優勝:1回(1986年3月場所)
  • 序ノ口優勝:1回(1986年1月場所)

獲得タイトル

  • UWAヘビー級王座:2回
  • UWAカナディアン・ヘビー級王座:1回
  • SWSタッグ王座:1回(w / タイフーン)
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / タイフーン)

元幕下・琴天山・入団会見 
ジョン・テンタ/ジャイアント馬場vsラッシャー木村/鶴見五郎 1/2 / 2/2
WWF Earthquake誕生
この八百長野郎事件 - "極め”4月特集”シュートマッチ”より




  

















 
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