本文へスキップ
 


 
 
”重要なお知らせ”


2011/9/1よりパワーアップでページ独立!

 
 


 
 
プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/10


 
 


 
 

石井 和義
1953/6/10

いしい かずよし、石井 教義(読み同じ)に改名は、日本の空手家。正道会館宗師。立ち技格闘技イベントK-1の元プロデューサー・解説者、元格闘技プロモーター。愛媛県宇和島市(旧三間町)出身。愛媛県立宇和島東高等学校卒業。

概説

1969年、極真会館芦原道場宇和島支部に入門。後に芦原英幸の片腕として関西一円に芦原道場の支部を広げた。

1980年6月、大阪・岸里の西成産業会館内にてフルコンタクト空手の新日本空手道連盟正道館(後に正道会館と改称)を設立。館長を経て、現在の肩書きは宗師。K-1の企画・運営会社「ケイ・ワン」の元社長。K-1のプロデューサーとして格闘技ブームを巻き起こした。K-1のテレビ解説を行った他、テレビなどのメディアに積極的に出演し、2001年の秋からはニッポン放送でラジオ番組「allnight nippon-r」木曜日のパーソナリティを務めた。

2003年以降は、ケイ・ワンの脱税事件により表舞台から姿を消した。ただし、正道会館専門誌の「正道」において、石井宗師として記事内に登場し、K-1と総合格闘技イベントHERO'Sの商標権を所有している。

略歴

  • 1969年 - 「極真会館四国支部芦原道場」に入門、芦原英幸へ弟子入りする。
  • 1975年 - 大阪球場で「極真会館芦原道場大阪支部」を設立。関西地区総責任者になって道場拡大に手腕を奮い、神戸、京都、奈良、堺、岡山に支部を拡大し門下生10万人を指導する。
  • 1980年 - 芦原英幸と訣別し、新たに自流派の「新日本空手道連盟正道館、新日本学生空手道連盟」を設立。翌年に正道会館に改称。以後、佐竹雅昭、角田信朗、柳沢聡行を中心とする門下生が他流派の大会に参戦し、正道会館は「常勝軍団」の異名を取る。
  • 1990年6月 - 全日本キックボクシング連盟の大会に参加したのを皮切りに興行の世界へ進出する事になる(それ以前からプリンスジムという名称でキックボクシングの試合に選手を細々ながら出場させていた。)
  • 1991年から1993年まで - 前田日明の総合格闘技興行「リングス」と提携し、興行のノウハウを吸収した。その間の1992年3月には様々なルールを取り入れた「格闘技オリンピック」を開催し、今ではK-1の前身として評価されている。
  • 1993/4/30 - フジテレビのイベント「LIVE UFO」の一環で「K-1 GRAND PRIX '93」を開催。当初は深夜放送だったが、1996年にゴールデンタイムに昇格。以降は視聴率を取れる人気ソフトとして、フジテレビのみならず日本テレビ、TBSと民放各局で放送が開始された。
  • 1997/4/12 - 映画『ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影』に角田信朗、アンディ・フグと共に本人役で出演。
  • 2001年12月 - 「INOKI BOM-BA-YE 2001」にK-1軍を率いる総帥的立場として参加。のちDynamite!へと発展していく流れを生む。
  • 2002年8月 - 日本格闘技史上最大規模の格闘技イベント「Dynamite! SUMMER NIGHT FEVER in 国立」をTBS主催の元、PRIDE主催のDSE、アントニオ猪木らと共催。INOKI BOM-BA-YE 2001同様、実質的運営はDSEによって執り行われ、K-1としては協力というスタンスであったが、石井和義個人として総合プロデューサーを務める。
  • 2002年11月 - プロレスイベント「WRESTLE-1」を開催し、プロレスへ進出。
  • 2002/12/27 - 法人税法違反の容疑で在宅起訴。翌2003/2/3に同容疑で逮捕。5/22に保釈金4,000万円を支払い保釈される。
  • 2004/1/14 - 脱税と証拠隠滅教唆について東京地方裁判所は懲役1年10か月の実刑判決を下す。同年12/6の控訴審でも地裁の判断を支持し石井の控訴を棄却。
  • 2006/11/21 - 最高裁の上告棄却により懲役1年10か月の実刑が確定したが、健康状態が悪かったため収監は先送りとなり、2007/6/11に収監された。
  • 2008/8/7 - 静岡刑務所を出所(模範囚であったため、刑期が短縮された)。
  • 2009/6/9 - 動画共有サイトYouTubeにて『館長チャンネル』を立ち上げ。「大会の舞台裏の映像とか、ファンの皆さんが見たい・話したいという人達の対談とか、僕にしか出来ないような企画を流していく」と明言した。
  • 2009/6/10 - 自叙伝『空手超バカ一代』を出版。同12日の出版記念パーティでは、「これからは現状のK-1に関して、リングに上がって挨拶をしたり、解説席に座る事やプロデューサーに携わることは基本的にありません。K-1のアマチュア組織を世界的に広げるために、FIFAやIOCのような組織作りとして国際K-1連盟(FIKA=フィカ)設立に力を注ぎます」と語った。
  • 2009/12/5 - K-1 WORLD GP 2009 FINALの開会式前のK-1ルール実技説明で業務停止処分中の角田信朗に代わり「特別競技統括プロデューサー」としてリングに上がった。2002年以来7年ぶりの現場復帰となった。
  • 2009/7/22から夕刊フジのWebサイトZAKZAKにて、自身が刑務所に収監されていた時に与えられた健康的な食生活と収監中に読書に励んだことで得た知識を活かしたダイエット方法について語る「【石井館長の魁!ダイエット塾】」というコラムの週間連載を開始した。しかし、実際のコラムの内容ではダイエットに関する話題から脱線することが多く、またその脱線した内容が読者に好評であったため、2010年からは「【石井館長の魁!人生塾】」と改題して様々な物事や格闘技界の裏話などについても書いている。

著書

  • 実戦正道カラテ(スポーツライフ社、1983年)
  • 勝つための空手(ベースボール・マガジン社、1991年)
  • 空手超バカ一代(文藝春秋、2009年)

解説・その他エピソード

  • ファン(お客さん)を大事にすると言う商売の基本中の基本を守ってきたからこそK-1は発展したという見方もある。一番安い席に座る人を「一番K-1が好きな人たち」として照明・音響設備などの陰に隠れてリングが見えない事のないように入念に座席のチェックを怠らない。またファンが試合会場で「館長!」と声をかければ一人残らず必ず手を振って返す。
  • 上記のような細かい配慮や、格闘技ブームを巻き起こしたマッチメイクなどはファンからの評価が高く、多くの選手達からも多大な尊敬を集めるなどカリスマ的なプロデューサーだった。石井が脱税罪で逮捕された後、後任のプロデューサーとなった谷川貞治がいわゆる“モンスター路線”のマッチメイクを乱発して(詳細は谷川貞治の項を参照)、K-1の人気を落としたため、現在でも谷川の解雇と石井のプロデューサー復帰を望むファンの声は少なくない。しかし、本人は「プロデューサーとして表舞台に上がる事は無い」と明言している。
  • 個人の力で格闘技を世界的ビジネスに成長させたその商才は、高校卒業後大阪で始めた百貨店の配送業務のアルバイトをしていた頃から既に抜きん出ていたと言われている。(業績は常にトップだった)
  • 百貨店でのアルバイトから自分で軽トラックを持ち込み「請負業」としてのやり方が儲かる事に気付き、アルバイトから請負に変わった数か月後には数百万円の貯金ができていたという。
  • K-1のKは喧嘩のKと言った事がある。正道会館の門下生達にはK-1のKは和義のKと言っていた。
  • 大方の予想を覆すような試合結果になった時、「これがK-1!」「東京ドームには魔物がいる」等、とにかくファンに何が起きるかわからない、誰も結果を予想できないと言うドキドキ・わくわくさせる煽りを徹底し、飽きのこない雰囲気を作っていた。
  • 口癖は「一番見たいもの(試合カード)を一番見たい時にみる」「自分が見たい、と思う試合こそがファンの望むカード」
  • 後にK-1GP三連覇を果たす、セーム・シュルトをK-1解説時に「この選手嫌いなんです」と言った。これはシュルトの「掴み」による打撃を「見ている側からすれば面白くない」と酷評したもので、シュルト本人の人間性を否定するものでは勿論無い。
  • 「日本のリングには華が無い」として、リングサイドに大物女優をゲストに迎えたりとしてリングを彩ってきた。
  • 1998年にジェロム・レ・バンナが世界的なボクシングプロモーターのドン・キングと契約して、プロボクシングに参戦したが、契約問題で揉めてドン・キングらと対立した事によって干されて試合が組まれなくなり、「K-1に戻りたいが、プロモーター(ドン・キング)との関係上K-1で試合ができない」と相談された際には、アメリカまで飛んでドン・キングと直談判の交渉を行った。その際に使った手法は「バンナ負けビデオ総集編」というものをわざわざ作って見せ、「バンナは終わった選手」と思わせるというもの。功を奏し、ドン・キングはバンナを手放した。しかしその後、K-1でのバンナの活躍は実に華やかなものとなり、今もって現役最前線のK-1ファイターとなっている。この手法は、当時のボクシングヘビー級は黒人選手が支配していたため、当時のドン・キングが白人ヘビー級ボクサーのホープを探しており、さらには自身のボクシング興行でキックボクシングマッチを組むなどムエタイビジネスにも進出していたため、キックボクシングのトップファイターでボクシング戦績も全勝だった白人ハードパンチャーのバンナはキングにとって理想的な人材であり、普通に交渉しただけではバンナの獲得は困難であるが故に考え出された手法だった。

 
広告


エフェスト
Ephesto/Efesto
1965/6/10

メキシコのプロレスラー。ドゥランゴ州ゴメスパラシオ出身。

経歴

アステリオン、ハルカン・スリアーノ、ブルー・パンテル、サタニコの指導の受け、16歳でルチャデビュー。最初のリングネームはパンテーラ・デル・リングの名のマスクマン。1980年代にはCMLLでテクニコで活躍。1992年にアントニオ・ペーニャが独立して旗揚げしたAAAに移籍。1996年6月にはラテン・ラバーと組んでフェルサ・ゲレーラ、フベントゥ・ゲレーラ組みを破りナショナルタッグ王座を奪取。1997年にプロモ・アステカに移籍しルードに転身。同団体ではミドル級王座を奪取。2000年にCMLLに復帰しリングネームをサファリと改名。2005年にはオンブレ・シン・ノンブレを襲名。2006年12月にギリシャ神話のヘーパイストスのギミックのエフェストの名で登場。2008年12月にはラ・ソンブラの持つNWA世界ウェルター級王座に挑戦も敗退。2009年5月にはレイ・ブカネロの持つCMLL世界ライトヘビー級王座に挑戦し奪取。現王座。

タイトル歴

  • アステカスミドル級王座
  • ナショナルタッグチーム王座
  • ナショナルトリオ王座(&オリンピコ、ミステル・ニエブラ &ボラドール・ジュニア、フェリーノ)
  • CMLL世界ライトヘビー級王座





HANZO
1967/6/10

日本の男性プロレスラーである。忍者をモチーフとした覆面レスラーとして活動する。ユニバーサル・プロレスリング~みちのくプロレスと活動し、現在は地元・福山市を拠点とするローカルプロレス団体「レッスルゲート」およびレスラー養成ジム・フィットネスクラブを運営している。

来歴

  • 1986年 - 広島県立福山葦陽高等学校卒業。
  • 1986年 - 帝京大学入学、中退。
  • 1987年 - 日本大学レスリング部在籍中、新日本プロレス・プロレス学校インストラクターを務める。
  • 1992年 - 大学卒業後、ユニバーサル・プロレスリングに入門。
  • 同年6月 - 後楽園ホール大会にてブラックマジックの名でプレデビュー。
  • 同年8月 - 後楽園ホール大会にて覆面レスラーのレオパルド・ネグロとしてデビュー。対戦相手はダイナミック・リン。
  • 1993年 - みちのくプロレスに設立より所属し、旗揚げに参加。
  • 1994/10/31 - マスクを脱ぎ中島一学(なかしま かずみち)で活動開始。後に中島半蔵(なかじま はんぞう)に改名し忍者スタイルとなる。
  • 1995年11月 - ブラックマンとのコーナーポスト倒立合戦を行う。
  • 1997年2月 - イギリス遠征。
  • 1998年9月 - 帰国。海援隊☆DXに電撃加入する。
  • 同年 - 新日本プロレスのトップ・オブ・スーパージュニアに参戦。
  • 同年 - 膝のケガによる長期欠場。
  • 1999年5月 - 福山市にてフィットネスジム「フィットネスアリーナNAKASHIMA」を設立。
  • 2000年12月 - ジム主宰によるみちのくプロレス福山大会を開催。
  • 2001年 - HANZOに改名し、みちのくプロレスにはOBとしてスポット参戦する。
  • 2003年 - 福山市を拠点に活動するプロレス団体「レッスルゲート」およびプロレスラー養成ジム(プロレス教室・ボクシング教室)を開設。

エピソード

  • レオパルド・ネグロ時代、リングネームを和訳すると「黒豹」なのに全然関係ない「Red Wolf(赤い狼)」と刻印されたマントを羽織って入場していた。
  • 現在、福山市、木之庄町にてフィットネスラブ「フィットネス アリーナ ナカシマ」を経営。トレーナーとして学生から大人まで指導を行っている。きちんと整頓されたクラブの様子はHANZOの性格を現している。
  • 月に一度レッスルゲートのイベントを行い、プロレス興行を行っている。地元には子どもを中心とした根強いファンもいる。





ムーン章子
1969/6/10

本名:月井 章子は、日本の元女子プロレスラー。

身長166cm、体重65kg、血液型AB型。埼玉県川口市出身。

来歴・戦歴

1987年
  • 4/11、東京・後楽園ホールにおいて、対スマイリー真美戦でデビュー。

タイトル歴

  • 太平洋タッグ(パートナーはイーグル沢井)

  



大神 いずみ
1969/6/10

おおがみ いずみ、本名:元木 いずみ(旧姓・大神)は、日本の女性フリーアナウンサー、タレント、声優。所属事務所はケイダッシュ。血液型はB型。

新人スポーツアナとして「全日本プロレス中継」に配属され、同番組内の「プロレスニュース」でお披露目された際は、まだ化粧も上手ではなく、緊張で顔がこわばり険しい表情をしていたため、福澤朗から「こちら、妖怪人間ベラではありませんよ? 新人アナウンサーの大神いずみです」と紹介された。





吉原 功
1930/3/2- 1985/6/10

日本のレスリング選手、プロレスラー、実業家。元国際プロレス社長。岡山県出身。

来歴

早稲田大学レスリング部出身。1953年に日本プロレスに入門してプロレスラーとして活動した。1956/10/24には新設された日本ライトヘビー級王座の決定トーナメント決勝戦で芳の里淳三と戦うものの0-2で敗退。後に芳の里の王座返上を受けて1960/10/19に行われた決定戦で大坪清隆を破り第2代日本ライトヘビー級王者となる。ただし、芳の里も吉原もほとんど防衛戦をやっていない(当時日本人同士の対戦は今ほど一般的でなかった。またマッチメイクも「力道山VS大物外国人」が中心だった)ので王者としての印象は薄い。

後にフロントに転じて取締役営業部長となるが、力道山の死後の日本プロレスの経営を巡り遠藤幸吉らと対立し同社を退社。ちょうどその頃日本に戻っていたヒロ・マツダをエースに立て国際プロレスを設立した。TBSなどの国際プロレス中継では解説者として放送席にも座り、辛口の評論で知られていた。

国際プロレスは1981年に消滅したため、その後は新日本プロレスの顧問を務めていたが、1985年に胃癌のため死去。

元々レスリング出身という経歴のため、日本レスリング協会、中でも第3代会長の八田一朗とのつながりがあり、八田の人脈を通じて国際プロレスで初来日した選手も多く、ビル・ロビンソン、モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)など、後にブレイクした選手も少なくない。ロビンソン、ロシモフ、ジョージ・ゴーディエンコ、ホースト・ホフマンといったヨーロッパの強豪が数多く来日し、日本プロレスのアメリカルートとは一味違ったレスリングをファンに提供したのも大きな功績である。また、トップ団体の日本プロレスに対抗するため、文書による選手契約の導入、金網デスマッチ、会場でのBGM、総当たりリーグ戦でのバッドマーク・システム(リーグ戦で、各選手一定の持ち点でスタートし、負け・引き分けのたびに持ち点を減らしていき最も多くの得点が残った者が優勝、という方式。消化試合がなくなり好カードは多く実現できる、という触れ込みだった)など数々の新機軸を案出し、その中には近年のプロレス界で広く受け入れられているものも多く存在する。














 
   ↑ トップへヤフーオークション  


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system