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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/14


 
 


 
 

バズ・ソイヤー
Buzz Sawyer
1959/6/14 - 1992/2/7

ブルース・ウェインBruce Woyan)は、アメリカ合衆国のプロレスラーである。フロリダ州セントピーターズバーグ出身。"マッドドッグ(狂犬)"の異名で知られる。

試合スタイルはラフファイトが中心で、急に雄叫びをあげたり、ニヤニヤ笑ったりと異色のレスラーでもあったが、レスリングの上手さには定評があり、試合巧者としても認知されていた。

来歴

高校時代はスポーツ万能で、レスリング、アメリカンフットボール、陸上競技で活躍。1979年、地元フロリダのNWA傘下団体でプロレスラーとしてデビュー。その後ジョージア地区のGCWを活動拠点とし、トミー・リッチとのNWAナショナル・ヘビー級王座を巡る抗争で名を馳せる。また、実弟ブレット・ソイヤーとの兄弟タッグでも活躍し、ロード・ウォリアーズとも抗争を展開。ウォリアーズからはNWAナショナル・タッグ王座を奪取している。

1984年にWWF(現・WWE)に参戦するも、待遇の不満を訴え短期間で離脱。当時、WWFには大ベテランのマッドドッグ・バションが所属していたために、ソイヤーは "ブルドッグ" のニックネームをつけられている。同年10月には全日本プロレスに初来日しており、得意技のパワースラムなど持ち味を出した試合をしていたが、当時外国人選手の引き抜き事件などの影響からか、まだ日本ではネームバリューがそれほど高くはなかったソイヤーは活躍の機会に恵まれなかった。同年の世界最強タッグ決定リーグ戦にもワンマン・ギャングとのタッグで出場予定であったが、直前に来日中止となり、結局全日本には一度限りの参戦となった。

その後、フリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCW(WCWA)に進出し、同団体のヘビー級王座、タッグ王座、TV王座を奪取してトップ戦線で活躍。1987年からはWCCWとの提携ルートで新日本プロレスに参戦し、ブレットとの兄弟タッグでアントニオ猪木&坂口征二の黄金コンビとも対戦。以降も藤波辰巳とのシングルマッチでの名勝負や、お互いの股間に噛み付く武藤敬司とのユニークな試合などでファンの支持を獲得。また、レイジング・ブルことマニー・フェルナンデスとのタッグでも活躍した。

1989年にNWA(WCW)に主戦場を戻し、テリー・ファンク、グレート・ムタ、ディック・スレーター、ドラゴン・マスター(ケンドー・ナガサキ)とヒール・ユニットを結成し、フォー・ホースメンと抗争する。解散後はシングル・プレイヤーとして戦っていたが、1992年2月7日に自宅前にて急性麻薬中毒のため死去。

エピソード

  • 武藤敬司とケンドー・ナガサキの対談で、ソイヤーは周りから変人扱いされ、敬遠されていて誰も彼と行動を共にしなかったことを話している。当時から痛み止め薬を大量に飲み、さらに酒好きであったのが原因だという。
  • 新日参戦時、兄弟タッグで藤原喜明&木戸修とTVマッチで対戦し、旧UWF系のファイトにも十分に対応できる実力を見せたが、弟は藤原の脇固めですぐにタップした(しかし、レフェリーのミスター高橋はそれを無視し、藤原が技を外して試合を続行した)。

 
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田畑 祐一
1960/6/14

テレビ朝日アナウンサー。
ワールドプロレスリング実況





アップルみゆき
1985/6/14

日本の女子プロレスラー。所属フリー。奈良県天理市出身。身長155cm、体重53kg、血液型O型。『アップルみゆき』はリングネームであり、本名は前所属団体の規定により非公開。愛称は「アポたん」。

経歴

2002年
  • 1/4、プエルトリコ・パリオトツゴにおいて、対お船戦でデビュー。
  • KAIENTAI-DOJOの旗揚げに合わせて帰国、頬が赤い産地直送娘として人気を集める。「ロス・クワトロ・タバスコス」の一員となり「パルプンテ」と熾烈な対抗戦を繰り広げた。
2005年
  • 抗争していたYOSHIYAと和解しスラムローズを結成。
  • 12/23にはWEWハードコアタッグ王座を獲得する。
  • 年末のK-AWARDでは年間最高試合賞(タッグマッチ部門)を獲得するなどし注目された。
2006年
  • 4/5にWEWハードコアタッグ王座を失う。
  • 7/8に再びWEWハードコアタッグ王座を獲得。
2008年
  • 4/13に再びWEWハードコアタッグ王座を獲得。(第20代)
  • 6/20大阪大会でデビューインディーズCD即売会を開催。
  • 9/14、後楽園ホール大会にてK-DOJOからの退団を発表。以降フリーになる。WEWハードコアタッグ王座を失う。
  • 9/15、グレートプロレスリングにて、フリー転向後初の試合。
2009年
  • 5/20大阪プロレス10周年!in後楽園!の6人タッグマッチに出場。

タイトル歴

KAIENTAI-DOJO
  • WEWハードコアタッグ王座
K-AWARD
  • 年間最高試合賞(タッグマッチ部門)(2005年)

入場テーマ曲

  • 「アップルバスター」(MAKIKO)※キングレコード「KAIENTAI DOJO」に収録
  • 「天下無敵」(Masaki)※キングレコード「KAIENTAI DOJO3 SUPER BEST」に収録
  • 「セフィーロ・レディオ・カムバック~青春最下位~」(マキシマムザホルモン)「糞盤」に収録

特記

  • リングネームは会社側から決められ、デビュー当時は青森県出身という設定であった。
  • フリー後は改名も考えていたが、「アボたん」の愛称から存続している。
  • 好きな漫画は「みこすり半劇場」であり、たびたびブログでもネタとなる。

その他

写真集

  • Delicious」(日本スポーツ出版社)※撮影は加納典譲、DVD付。

CD

  • 「パワフルハニー」(インディーズCD)

テレビ出演

  • プロレスKING(GAORA)
  • 中居正広の金曜日のスマたちへ(TBS)

外部リンク


アップルみゆきTwitter





中之上 靖文
1986/6/14

日本のプロレスラーである。本名は中上 靖文(なかうえ やすふみ)。大阪府箕面市出身。全日本プロレス所属。アニマル浜口ジム出身。

経歴

アニマル浜口ジムを経て2008/1/27に行われた武藤塾番外編の新人オーディションに合格。また武藤敬司はその時の新人オーディションに対して「上から目線になってしまうけど、どうしても物足りなさを感じてしまう。」と不満を述べて「預かったからには誠心誠意、情熱をぶつけて未来のスターを生み出したいね。」と語っていた。またその時の3人の合格メンバーの中には全日の練習のキツさに耐えかねて退団、その後DRAGON GATEで1年ほど早くプロレスデビューした近野剣心(当時・近野健一)がいた。

2008年4月に全日入団。他の同期メンバーが次々と辞めていく中で1人厳しい練習に耐える毎日を送る。しかしその3か月後に浜亮太が全日入団。大相撲出身という経歴と日本人最重量という超巨体を武器にすぐさまトップ戦線で活躍。そんな中、中上自身は長い間デビューを待つこととなる。

2009/12/13、ファン感謝デーにて翌2010/1/2に中之上靖文の名前でのデビューが発表された。入団から1年9か月後の2010/1/2、近藤修司相手にデビュー戦を果たした。

新人時代

デビュー年は連敗街道が続き、入門もデビューも後輩である曹駿にシングルマッチで破れることもあった。しかし、その不屈の精神で経験を積み、台湾興行では付き人を勤める西村修とのタッグで、アジアタッグ次期挑戦者決定トーナメントに出場。一回戦で破れたものの、翌日のバトルロイヤルではその西村からフォールを奪う。

2011年、大日本プロレスから参戦した、関本大介と岡林裕二の対戦相手に抜擢される。入門は同期である浜亮太とのタッグで挑み、これまでの新人ファイトを払拭する気迫溢れる試合を見せたが、関本のパワー殺法に完敗し、バックステージでは悔しさのあまり涙を流した。

人物

  • 周囲の先輩レスラーから可愛がられているようで、頻繁に先輩レスラーのブログに登場する。
  • なぜか周囲からは「永平寺」と呼ばれている。
  • 学生時代には、野球に打ち込み『強打のファースト』として名を馳せていた。
  • あしたのジョーが好き。登場キャラクターはみんな好きとのこと。内容についても意外に詳しい。
  • アニマル浜口ジムでトレーニングを積んでいる時、後に先輩となるKAIとも数回一緒に練習をしている。しかしKAIはそのことを全く覚えていなかったという。
  • KAI,大和ヒロシ,BUSHI,真田聖也達が合格した武藤塾公開オーディション第1回に、中之上も見に行っている。
  • 後に入団して同期となった浜亮太の相撲取りとしての豪快さにビックリしたと、入門当時の思い出として語っている。

入場曲

  • God Knows(平野綾) この曲は木原文人リングアナが選んだ曲であり、涼宮ハルヒの憂鬱が好きだからではない(本人曰く)。

  



小島 貞二
1919-3/21 -2003-6/14

愛知県豊橋市出身の著作家、相撲・プロレス・演芸評論家にしてそれらの歴史研究者、作詞家。相撲関係の雑誌などでは大須 猛三(おおす もうさん)のペンネームを使っていたことがある。

来歴

旧制豊橋中学校(現:愛知県立時習館高等学校)を卒業後、漫画家を志して上京し、川原久仁於に師事して絵を描いていたが、身長182cmの体格を見込まれて大相撲の出羽海部屋に入門することになり、1938年夏場所に本名で初土俵を踏む。  双葉山の70連勝を阻止した、平幕時代の安芸ノ海の付け人を経験し、その70連勝阻止の瞬間を裏方からの目線で見た著作がある。(別冊1億人の昭和史 昭和大相撲史)

1942年春場所限りで廃業し、その後は博文館に入社して雑誌『野球界』の編集部に所属し、相撲の記事を担当する。戦火が激しくなると「国内必勝勤労対策」のため編集の仕事が続けられなくなり、炭鉱会社の麻生鉱業に入る。会社の命令で南方のセレベス島へも赴き、この地で終戦を迎える。

終戦後は芸能新聞『スクリーン・ステージ』の演芸記者になり、1950年5月にスクリーン・ステージが休刊した後は東京日日新聞(現在の毎日新聞とは別)に移り相撲・演芸担当の記者として働く。

1955年8月に東京日日新聞が休刊した後は放送作家に転身。コロムビア・トップ・ライトのラジオ番組『起きぬけ漫才』(ニッポン放送)などの台本を書いた。また、小林旭を初めとするコミック・ソングの作詞も手がけている。

その後は著作業の世界にも身を置き始める。正岡容から演芸を、長谷川伸から作家としての心得を学び、力士・記者・放送作家の経験も生かして評論・研究を重ね、多数の著書を出版。その総数は160冊を超えている。5代目古今亭志ん生の有名な自伝『びんぼう自慢』の聞き書きも担当した。

『11PM』女相撲コーナー解説者を経て、日本初の女子プロレス解説者にも就任。テレビでも毎週お馴染みの顔になった。

1977年には放送作家たちの笑芸研究の団体「有遊会」を設立している。また「千葉笑い」を朝日新聞千葉版で復興し、笑文芸を身近な存在に引き上げた。

2003年6月24日、地元中山の落語会清華亭にて解説中に脳出血のため死去。享年84。

2004年、長らく居を構えていた千葉県の市川市から名誉市民の称号が贈呈された。

長男は音楽・映像・マルチメディアプロデューサーの小島豊美。小島が編集に参加したCD-ROM「古今東西噺家紳士録」は、息子の豊美が経営する会社から発売されている。

















 
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