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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/15


 
 


 
 


スコット・ノートン
Scott Michael Norton
1961/6/15

スコット・ノートン

アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州ミネアポリス出身。超竜の異名を持つ。主に新日本プロレスで活躍し、WCWにも参戦した。

平成に入ってからの日本マットでもっとも活躍した外国人レスラーの1人であり、新日本プロレスではIWGPヘビー級王座を2度獲得している。同王座の戴冠は外国人としては3人目であった。ロード・ウォリアー・ホークは高校時代の同窓生で、エディー・シャーキーのジムでも同期であった。

マイクパフォーマンスをそれほど得意としていなかったため、どちらかといえば本国アメリカでよりも、日本で人気の高かったプロレスラーの一人である。

来歴

少年時代からアームレスリングに熱中し、世界大会優勝、全米選手権3度優勝という輝かしい成績を残した。小さな大会等を合わせると、実に30もの大会を制覇してきたという。閃光のように素早く相手を片付けるところから「フラッシュ」の異名を取り、1987年にはシルベスター・スタローン主演の映画『オーバー・ザ・トップ』にも出演。その後、友人であるロード・ウォリアー・ホークに勧誘され、レイガンズ道場にてプロレスのトレーニングを始める。ブラッド・レイガンズやバーン・ガニアから手解きを受け、マサ斎藤からもレスリングを教わった。

1989年にAWAにてプロレスラーとしてデビュー。翌1990年に初来日。アームレスリングの活躍や映画出演などの話題性で来日前から注目度は高かった。入場曲は出演映画のテーマソングを使用した。日本初試合では、馳浩、佐々木健介のダブル攻撃を食らっても倒れず、長州力のラリアットを何度食らってもすぐにケロっと立ち上がるタフさを見せ、観客を沸かすと共に勝利も手にした。

その後も新日本に継続参戦し、トップ外人に登りつめる。1992年にはトニー・ホームと組んでIWGPタッグ王座を獲得(第20代)、翌年にもヘラクレス・ヘルナンデスとの「ジュラシック・パワーズ」で同王座に輝いている。新日本のレスラーはいつしかノートン越えがトップレスラーの証だといわれるようになった。ニックネームの「超竜」は週刊ゴングの金澤克彦が命名。初来日以前は、怪豪と呼ばれていた。

1996年よりWCWに登場し、nWoのBチームに所属。1998年には蝶野正洋が負傷で返上したIWGPヘビー級王座の王者決定戦で永田裕志を倒し、その第23代王者となった。外国人としては、ベイダー、サルマン・ハシミコフに次いで3人目の戴冠であった。2001年にも佐々木健介を破り第28代王者に返り咲いたが、直後に藤田和之に敗れてタイトルを失った。

2004年10月からはブラックニュージャパンの一員となり、2006年3月の新日本参戦で通算100回目の来日を果たした。同年12月にはUWAI STATIONの旗揚げ戦に出場し、2007年11月にはハッスルのハッスル・マニア2007に参戦。川田利明が対戦を拒否したケロロ軍曹と試合を行い、パワースラムでフォール勝ちした。近年は体力的な問題から来日回数は減少しているが、アメリカでワイルド・ウエスト・チャンピオンシップ・レスリング(WWCW)というインディ団体を立ち上げるなどプロモーターとしての活動も行っている。

2008年10月にプロレス・エキスポに参戦。

入場テーマ曲

  • 映画『オーバー・ザ・トップ』のテーマ曲
  • サミー・ヘイガー(Sammy Hagar)の『Winner Takes It All』

獲得タイトル

新日本プロレス
  • IWGPヘビー級王座 : 2回
  • IWGPタッグ王座 : 2回(w / トニー・ホーム、ヘラクレス・ヘルナンデス)
  • G1 TAG LEAGUE(SGタッグリーグ) : 1996年優勝(w / 橋本真也)、1999年優勝(w / 武藤敬司)
  • 2003年度新日本プロレス外国人No1受賞
PNW(Pacific Northwest Wrestling)
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:1回(1990年5月にオレゴン州ポートランドでブライアン・アダムスから奪取)

エピソード

  • ミネアポリスおよびセントポール出身のレスラーは多いが、女子プロレスラーのメデューサとは仲が悪いらしい]。新日本プロレス側からの指示には一度たりとも逆らったことがないのが誇りだとコメントしたことがある。
  • 原田芳雄と共にサントリーのビール「シャウト」のCMに出演した。

 
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チャック・パルンボ
Chuck Palumbo
1971/6/15

Chuck Palumbo

アメリカ合衆国のプロレスラー。ロードアイランド州ウエストワーウィック出身のイタリア系アメリカ人 。本名はチャールズ・ロナルド・パルンボCharles Ronald Palumbo)。愛称は「チャッキー」、または「チャック」。苗字は正確には「パランボ」と発音する(FBI時代はイタリア語風にパルンボとアナウンスされていた)。

来歴

WCW

プロレスデビューは1998年。ザ・デュードの名でインディー団体で試合をしていた。その頃に一度だけWCWのマンデー・ナイトロに出場している。それから6か月後にWCWパワープラント入り。その抜群の身体能力で、わずかな期間のトレーニングでWCWデビューを許されたスーパールーキーであった。デビューまでは密林の野生児ギミック、ジャングル・ジムとしてテスト試合をしていた。しばらく若手や中堅選手主体の番組で活躍した後、WCWの生放送番組にも呼ばれるようになり、早くからレックス・ルガーのライバルに抜擢され、「The Main Event」のニックネームをつけられるなど将来を嘱望されていた。

ショーン・ステイジャックとのタッグ(ザ・パーフェクト・イベント)ではWCWタッグ王座に3度輝き、ビンス・ルッソーが仕掛けたエリート・ルーキー集団NBTナチュラル・ボーン・スリラーズ)のメンバーとしても活躍。同メンバーでもあったショーン・オヘアとのタッグでもチャンピオンとして君臨した。その後、パルンボ&オヘアに嫉妬したステイジャックとマーク・ジンドラックが反発し、NBTは解散する。

WCW最後のマンデーナイトロでは、マイク・アッサム&ランス・ストーム(チーム・カナダ)との試合に見事勝利し、WCW最後のタッグ王者となった。

WWF / WWE

WCWが買収され、新境地をWWFに移す。シェイン・マクマホンがオーナーとなった新生WCWの所属となり、WCW&ECW連合軍アライアンスのメンバーとして活動。WCW時代からのパートナー、ショーン・オヘアとともにタッグ戦線に殴り込みをかけるが、層の厚いWWFの中では活躍できず、オヘアが2軍行きを自ら志願しタッグを解消することになる。WCWタッグベルトもジ・アンダーテイカー&ケインに奪われた。

その後パルンボは、しばらくしてアライアンスを追放されてWWF軍に入り、ビリー・ガンに弟子入りすることになる。2人の関係は次第に深まり、師弟の関係を通り越し、男同士でありながら愛し合うようになってゆく。髪を金髪にし、お揃いの赤いパンツに赤い鉢巻をしたゲイ・ギミックのタッグチーム「ビリー&チャック」がこうして誕生した。互いの美しさ(主に筋肉)を褒め合い、時には怪しげに絡み合う男と男の筋肉ワールドを展開。トリー&ステーシーのディーヴァ・コンビとポージング対決を行ったり、男同士で結婚式を挙げたり、バレンタインデーでは互いにチョコをプレゼントしあうなどの路線に進んでいたが、WWF世界タッグ王座を2度に渡って奪取する活躍を見せた。

しかしビリーの長期欠場によりタッグ解消。しばらくシングルプレーヤーとして活動し、ナンジオ、ジョニー・スタンボリーと共に、旧ECWを発祥とする“純血イタリアン”小規模マフィアF.B.I.フル・ブラッデッド・イタリアンズ)を結成する(その時にヒールターン)。3人の絶妙なチームワークで徐々に人気を得て、ベビーフェイスに転向する。

F.B.Iの人気がで始めた頃、自身のRAW移籍によりF.B.I.を離れ、またシングルプレーヤーに戻る。途中から「カスタム・チャッキーP」のリングネームで活動するも、あえなく解雇される。

全日本プロレス

WWE解雇後、2005年2月に全日本プロレスの「ジャイアント馬場七回忌追善興行」に参加。その後本格的に全日シリーズにも参戦し、TARUが首領を務めるVOODOO-MURDERSの一員として大暴れ。先に参戦していたWWE時代のタッグパートナーであったスタンボリーと再び合体し、息の合ったタッグプレーを見せた。また、入場テーマ曲はFBI時代と同じである。2005年のチャンピオン・カーニバルでは、武藤敬司を破る活躍を見せた。その間にも、イタリアやメキシコの団体に参戦するなど精力的に活動していた。

WWE復帰後

2006年3月初頭に、ダーク・マッチでロブ・ヴァン・ダムと対戦。その結果、3月12日にWWEと正式に再契約を結ぶ。しかし、その後はダーク・マッチや下部団体で数回試合を行う程度で、1年以上経っても本格復帰はしていなかった。クリエイティブから長い期間自宅待機の指示を受けていた時期もあり、いわゆる飼い殺し状態にされていたことになる。

2007年4月末頃から、毎週のようにダーク・マッチで試合するようになる。そして、5月25日にWWE前座番組ヒートで復帰。再契約から実に約1年2か月という長い期間を経て、ようやくTVショーに姿を見せた。以前よりビルドアップしており、長ズボンにリストバンド・肘サポーターを黒に統一させた格好でバイクに乗って入場するなど、アメリカン・バッド・アス時代のジ・アンダーテイカーのようなスタイルに変身。この復帰戦では多くの歓声を受け、チャーリー・ハースをフルスロットル(変形フェイスバスター)で撃破。7月よりスマックダウン所属として登場した。

その後、表立った抗争相手がいない状態が続いたが、9月にミシェル・マクールをマネージャーにつけて登場。2008年2月に行われたロイヤルランブルに10番手として出場し、ジェイミー・ノーブルをジャングルキックでリング外に落としたがCMパンクに脱落させられた。

この頃からマクールとの仲が微妙なものとなり、マクールがノーブルに接近したことからノーブルとの抗争に入った。同年3月、レッスルマニア24のダークマッチとして行われたECW王座への挑戦権をかけた24人バトルロイヤルに参戦するも脱落、挑戦権は得られなかった。

6月の追加ドラフトではRAWへの移籍が決定。スマックダウンでのライバルでもあったノーブルも共に追加ドラフトで移籍してきたが、RAWにて抗争を再現することはなかった。移籍後は鳴かず飛ばずの状態となり、抗争相手ができないまま11月7日に再び(2度目)解雇された。

カスタム・チャッキーP

RAWの前座番組「HEAT」に登場した、超短命に終わった自動車整備士ギミック。自動車整備士とはいうものの、普段のパルンボのショートパンツ姿を長ズボンにして、手袋のようなものをはめただけの格好であった。登場回数は2回だけであった。

2004/10/31に放送されたHEATに初登場するが、この放送からわずか3日後の11/3に解雇されることになる。7日に放送されたHEATには、試合日が解雇前だったということもあり登場している。

  • ※10/19に行われたタブー・チューズデイにて、クリス・ジェリコの持つIC王座挑戦者にエントリーされたものの、15人中14位という投票結果に終わっている。

獲得タイトル

WCW

  • WCW世界タッグ王座:4回
    第55代、第61代、第63代(w / ショーン・ステイジャック)
    第65代(w / ショーン・オヘア)

WWE

  • WWF世界タッグ王座:2回
    第122代、第124代(w / ビリー)

Pro Wrestling Illustrated

  • 2002年最優秀タッグチーム賞(w / ビリー)

入場テーマ  

  • 「AVALANCHE」(ナチュラル・ボーン・スリラーズ)
  • 「Freestyle Hombre」(パルンボ&オヘア)
  • 「I've got it All」(シングルプレーヤー)
  • 「You Look so Good to me」(ビリー&チャック)
  • 「Tear It Down」(ビリー&チャック)
  • 「Diggin with a Spoon」(シングルプレーヤー)
  • 「F.B.I.」(フル・ブラッデッド・イタリアンズ)
  • 「Depth Charge」(カスタム・チャッキーP)

その他

  • 全日本プロレスでWWE復帰直前には、顔全体を白塗りにし、目の周りは赤く、シルクハットを被った道化師のような姿で試合をしていた(おそらくモデルは『チャーリーとチョコレート工場』のウィリー・ウォンカと思われる)。
  • WWEに籍を置いてから1年以上も出番がなかった。怪我で離脱した選手やレジェンド選手以外では、こんなに長期間飼い殺し状態にすることは異例である。
  • バイカーギミックをやっているが、プライベートでも大のバイク好きとして知られ、彼のカスタムしたバイクは、アメリカで発行されているバイク雑誌「American Iron Magazine」の表紙を飾ったこともある。レスラー仲間からも製作依頼も多く、最近ではバティスタのバイクをオーダーメイドした。

スコット・ノートンTwitter






ディック・マードック
Dick Murdoch
1946/8/16 - 1996/6/15

ディック・マードック

リングネームで知られるリチャード・マードックHoyt Richard Murdoch)
アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ワクサハチー出身。

来歴

父のフランキー・マードックもプロレスラーだったことから、幼少期からレスリングの英才教育を受け1965年テキサス州アマリロの「ファンク道場」に入門しプロレス入り。そのほかにもウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボールの選手として活動したが、実際には大学には入学しておらず、勝手に出入りしていたらしい。また、ボクシングの心得もあったとされ、そのキャリアはアメリカ海兵隊時代に身につけたものといわれている。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクとは幼なじみである。

キャリア開始直後はドン・カーソンの弟と称しカーソン・ブラザースでデビュー、その後キラー・カール・コックスとタッグを組み、垂直落下式ブレーンバスターを伝授されている。

1968年2月に日本プロレスに初来日。同年10月にダスティ・ローデスとタッグチーム「テキサス・アウトローズ」を結成し、全米各地区を転戦し活躍した。また、1971/12/4には、アントニオ猪木の持つUNヘビー級王座に挑戦している。

1971年7月、「チェーン・デスマッチの鬼」グレート・ボリス・マレンコとチェーン・デスマッチを行ったことがある。この試合でマードックは豪快な勝ちを収め、怖いもの知らずのアウトロー振りを発揮した。

1973年6月、国際プロレスに参戦しストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。同年10月には全日本プロレスにも参戦した。全日本ではローデスと組んでジャイアント馬場・ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦(1975年)したほか、1980年には鶴田を破りUNヘビー級王座を獲得。目立たないが、オープン選手権でのパット・オコーナー戦、ホースト・ホフマン戦。コックスとのブレーンバスター対決(1976年12月)。ハーリー・レイスとのNWA世界選手権(1974年5月)。キラー・トーア・カマタ(1980年3月)との凄惨な流血戦など名勝負も多く残している。

また、覆面レスラーザ・トルネードに変身してのザ・デストロイヤー戦(1974年)覆面十番勝負などもある。1974/11/5に馬場のPWFヘビー級王座に挑戦した際には回転エビ固めで敗れている。なお、覆面が結構気に入ったのか持ち前の茶目っ気故か、新日本時代にはアンドレ・ザ・ジャイアントがジャイアント・マシーンになったのを見て「俺もマシン軍団に混ぜてくれ」と言っていたという。

1981年に新日本プロレスに移籍。以降も常連レスラーとなり、猪木や藤波辰巳らと激闘を展開した。新日本時代はタッグでの活躍が目立ち、スタン・ハンセン、アドリアン・アドニス、マスクド・スーパースターらとのチームでは日本勢を大いに苦しめた。シングルでは1986年には猪木とIWGP優勝戦を争っている。また、当時は幻とされていたローデスとのアウトローズも復活させファンの喝采を浴びている。

1984年にWWF(現・WWE)入りし、同年4/17にアドニスとのタッグでWWF世界タッグ王座を獲得した。

1989年にFMWに参戦し、以降1990年代の日本での活動はインディー団体を中心に転戦した。アメリカではWCWでディック・スレーターと「ハード・ライナーズ」を結成した。

晩年はテキサスのプロレス復興に取り組んでいたが、その矢先の1996/6/15に心臓麻痺により急死。49歳没。

獲得タイトル

シングルタイトル
  • UNヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:2回
  • NWA南部ヘビー級王座:1回
  • NWAインターナショナル・ヘビー級王座:3回(アマリロ版)
  • NWAブラスナックル王座:3回(アマリロ版)
  • NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAミズーリ・ヘビー級王座:3回
  • NWA北米ヘビー級王座:2回(ミッドサウス版)
  • WWCユニバーサル・ヘビー級王座:1回
  • WWC世界TV王座:2回
タッグタイトル
  • NWF世界タッグ王座:1回(w / ダスティ・ローデス)
  • IWA世界タッグ王座:2回(オーストラリア版)(w / ラーズ・アンダーソン、ダスティ・ローデス)
  • NWA世界タッグ王座:1回(デトロイト版)(w / ダスティ・ローデス)
  • NWA北米タッグ王座:3回(セントラル・ステーツ版)(w / ダスティ・ローデス、ボブ・スウィータン×2)
  • NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / ダスティ・ローデス)
  • NWAフロリダ・タッグ王座:2回(w / ダスティ・ローデス、ボビー・ダンカン)
  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:2回(w / ボビー・ダンカン、ブラックジャック・マリガン)
  • NWA USタッグ王座:1回(ミッドアトランティック版)(w / イワン・コロフ)
  • NWA USタッグ王座:2回(ミッドサウス版)(w / キラー・カール・コックス、テッド・デビアス)
  • MSWAタッグ王座:3回(w / ジャンクヤード・ドッグ)
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / アドリアン・アドニス)

入場テーマ曲

  • Texas Fight(Texas Longhorn Band) - テキサス大学オースティン校フットボール部の応援歌






シェリー・マーテル
"Sensational" Sherri Martel
1958/2/8 - 2007/6/15

シェリー・マーテル

アメリカ合衆国の女子プロレスラーおよびマネージャー。ルイジアナ州ニューオーリンズ出身。本名はシェリー・ラッセルSherri Russell)。選手としては1980年代にAWAやWWF(現・WWE)の女子王座を獲得。マネージャーでは主にヒールのポジションに回り、WWFではランディ・サベージやショーン・マイケルズ、WCWではリック・フレアーやブッカー・Tなどのトップスターを担当した。現在のWWEで活躍するディーヴァの礎を築いた人物である。

来歴

初期 / AWA

少女時代はサーカスのピエロになろうと家出をしたこともあるが、ビル・ワットらが運営していた地元ミッドサウス・エリア(ルイジアナ、ミシシッピ、オクラホマ)のプロレスを見てプロレスラーになることを決意。ナイトクラブで働きながらプロレスラーのブッチ・ムーアのトレーニングを受け、1979年にはファビュラス・ムーラのプロレスリング・スクールに入門、翌1980年にデビューする。ジェリー・ジャレットとジェリー・ローラーが主宰するメンフィスのCWAなどでキャリアを積み、1982年1月には全日本女子プロレスに初来日している。

1985/9/28よりバーン・ガニアのAWAに登場し、デビュー戦でキャンディ・ディバインを破りAWA女子王座を獲得した。1986年からは男性ヒールのマネージャーも兼任し、バディ・ローズとダグ・サマーズの金髪コンビと結託、ミッドナイト・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)を相手にAWA世界タッグ王座を巡る抗争を繰り広げた。女子王者としての活動も並行させ、1987/5/2にはメデューサ・ミセリーを相手に女子王座を防衛している。なお、同時期にスーパー・ニンジャのリングネームでAWAに遠征していた高野拳磁とは同じアパートに住んでいたという。

WWF

1987年下期より、ジェシー・ベンチュラの仲介でWWFに移籍。当初はベビーフェイスとして登場し、7/24のデビュー戦で師でもあるファビュラス・ムーラからWWF女子王座を奪取、以降1988/10/7にロッキン・ロビン(ジェイク・ロバーツの妹)に敗れるまで、1年以上に渡って同王座を保持した。

その間にヒールに転向し、1988年初頭にホンキー・トンク・マンの恋人役、ペギー・スーPeggy Sue)に変身。このネーミングはホンキーのギミックに合わせ1950年代のロックンロールの曲名から付けられたもので、コスチュームもフィフティーズ調だった。

以降は本格的に男性レスラーのマネージャーを務めるようになり、1989年のレッスルマニアV以降はエリザベスとの決別でヒールターンした"マッチョマン" ランディ・サベージと合体。センセーショナル・シェリーSensational Sherri)の名前で毒々しいメーキャップを施し、ハルク・ホーガン&エリザベスとの熾烈な抗争を展開する。1989年にサベージがジム・ドゥガンを破りマッチョ・キングを名乗るようになってからは、自身もクイーン・シェリーSensational Queen Sherri)と改名し、サベージとの "キング&クイーン" として悪名を轟かせた。

1990年4月13日には東京ドームで行われた日米レスリングサミットに来日。サベージ対天龍源一郎戦のセコンドに付き、サベージを援護射撃して試合を盛り上げた。試合中、彼女の騒々しさに業を煮やしたゲスト・アナウンサーの徳光和夫と一触即発の状態にもなっている。

1991年3月24日のレッスルマニアVIIでサベージがアルティメット・ウォリアーとの敗者引退マッチに敗れると、サベージを見限って"ミリオンダラー・マン" テッド・デビアスと合体。100万ドルに目がくらんだ悪女となり、ロディ・パイパーやバージルとの抗争に介入した。

1992年からはAWA時代からの盟友でもあるショーン・マイケルズのヒールターンに伴い、若いツバメの姐さん的な存在となって年下のマイケルズと合体。マーティ・ジャネッティとのロッカーズを解散し、"ボーイ・トーイ" の新キャラクターでシングル転向を果たしたマイケルズの売り出しにおいて重要な役割を担う(マイケルズのテーマ曲『Sexy Boy』の1stバージョンはシェリーがボーカルを担当していた)。同年夏には"ザ・モデル" リック・マーテルとの浮気アングルもあったが、インターコンチネンタル王座を巡るマイケルズとブレット・ハートの初期抗争にも関わり、彼のヒール人気を醸成させた。

1993年、マイケルズが前パートナーのマーティ・ジャネッティに急襲された際にシェリーを盾に使ったことで、彼との関係に亀裂が生じベビーフェイスに転向。ジャネッティやタタンカなど、マイケルズの抗争相手のセコンド役を買って出ることもあった。同年はWWFの提携団体だったジェリー・ローラーのUSWAにも転戦し、レスラーとしてミス・テキサスと対戦している。また、USWAではローラー対ランディ・サベージの抗争にも介入し、サベージとのコンビを一時的に復活させた。その後、WWFではルナ・バションと抗争するが、ドラッグテストに引っ掛かり1993年夏にWWFを解雇される。

WCW

WWF解雇後はジム・コルネットのSMWやポール・ヘイマンのECWを経て(この間、タミー・リン・シッチやマリア・ホサカと抗争)、1994年にセンシュアス・シェリーSensuous Sherri)の名前でWCWに登場。リック・フレアーのマネージャーとなり、同時期にWCWに移籍してきたハルク・ホーガンやスティングとの抗争をサポートした。

その後、シスター・シェリーSister Sherri)と名乗り黒人タッグチームのハーレム・ヒート(スティービー・レイ&ブッカー・T)を担当、彼らをWCW世界タッグ王者に導いた。1995年下期にはハーレム・ヒートのライバルチームだったディック・スレーター&バンクハウス・バックのマネージャー、カーネル・ロバート・パーカーとの恋愛アングルが組まれ結婚式も執り行われるが、メデューサの乱入で式はぶち壊しになり、以降はレスラーとしてメデューサとの抗争を展開した。

1996年からは再びハーレム・ヒートと合体し、nWoのジ・アウトサイダーズ(ケビン・ナッシュ&スコット・ホール)とのタッグ抗争にも介入。1997年にはフォー・ホースメンのマネージャーだったデブラ(2000年にストーン・コールド・スティーブ・オースチンと結婚し、後に離婚したデブラ・マーシャル)とのキャットファイトも行うが、同年夏、エリック・ビショフとの軋轢がもとでWCWを離脱する。

なお、1995年初頭には貴族ギミックのブルー・ブラッズ(ロード・スティーブン・リーガル&ジャン=ポール・レベック)のマネージャーになるというストーリーも企画されたが、レベックのWWF移籍により実現しなかった。

晩年

1990年代後半からはインディー団体を中心に活動し、1999/7/17にミネソタ州のAWAスーパースターズ・オブ・レスリングで新設のAWA女子王者に認定された。2000年には短期間WCWに復帰し、メデューサと試合を行っている。

2002/7/12にはWWEの下部団体OVWに出場、ロブ・コンウェイのマネージャー役を務め、ビクトリアと争う。2005/3/24の『スマックダウン』では、レッスルマニア21に向けてのショーン・マイケルズ対カート・アングルのプロモーションにおいて久々にWWEへ登場、リング上でカートとスキットを演じた。翌2006年4月、WWE殿堂に迎えられている。同年9月にはTNAにも登場した。

2007/6/15、過失による過量投薬のためアラバマ州バーミングハムの母親の自宅で死去。49歳没。晩年は腰痛に悩まされ、オキシコドンによる薬物治療を行っていた(前年、腰痛の悪化によりROHからの出演オファーを断っている)。葬儀にはブッカー・Tとシャーメル、ショーン・マイケルズ、マーティ・ジャネッティ、メデューサ、ジェイク・ロバーツなど、かつての仲間たちが参列した。

獲得タイトル

  • AWA女子王座:3回
  • WWF女子王座:1回
  • AWA女子王座(AWAスーパースターズ・オブ・レスリング版):1回
  • WWE Hall of Fame:2006年度(プレゼンターはテッド・デビアス)

担当選手

  • バディ・ローズ
  • ダグ・サマーズ
  • ケビン・ケリー
  • ホンキー・トンク・マン
  • ランディ・サベージ
  • テッド・デビアス
  • ショーン・マイケルズ
  • タタンカ
  • テリー・ファンク
  • シェーン・ダグラス
  • ケビン・サリバン
  • ジェイク・ロバーツ
  • リック・フレアー
  • ハーレム・ヒートスティービー・レイ & ブッカー・T
  • ロブ・コンウェイ

etc.


  




テッド・タナベ
1962/11/5 - 2009/6/15

テッド・タナベ

本名:田邉 哲夫(たなべ てつお)は日本のレフェリー、リングアナウンサーである。愛知県名古屋市出身。旧表記はテッド田辺

経歴

  • 国際プロレスにフロントスタッフとして入社の後、全日本プロレスを経て1987年にジャパン女子プロレスでレフェリーとしてデビュー。その後、FMWを経てジャパン女子でコーチを務めていたグラン浜田が1990年に旗揚げしたユニバーサルプロレスに参加、1992年からはザ・グレート・サスケが旗揚げしたみちのくプロレスに参加しメインレフェリーとして数々の試合を裁く他、闘龍門などみちのくプロレスと交流のあった団体へもしばしば出張した。2006年にみちのくプロレスと大阪プロレスの抗争が勃発すると、GAINAと共に大阪プロレスへ移籍。悪徳レフェリーとしてデルフィンやGAINAと組み、サスケらを苦しめる。デルフィンとサスケの抗争終了後はベビーフェイスに戻る。
  • 晩年は地元・名古屋で学校給食の配達として働きながら、土曜休日に大阪で試合を裁く日々が続いた。
  • 2009年6月14日、大阪プロレス大阪ミナミムーヴオンアリーナ大会のメインイベント(「大阪タッグフェスティバル2009」公式戦 ビリーケン・キッド&ペロvsヲロチ&タダスケ戦)を終えてリングを下りた直後に倒れ、意識不明に陥り、すぐに病院へ搬送されるも翌6月15日の午後12時23分に急性心筋梗塞により死去。46歳没。奇しくも13日にはプロレスリング・ノアの三沢光晴が亡くなったばかりで、さらに2人は同じ年齢でもあった。

人物

  • いくつもの団体を渡り歩いただけでなく、所属団体の選手が出場する対外試合での出張レフェリングも数多く務めたため、「多団体男」がキャッチフレーズであった。
  • ハードコアマッチ、デスマッチからコミカルな試合までスタイルを選ばず幅広くこなすレフェリングが特徴。「反則を見逃させたら日本一」と自評する通り、肝心なところで誤爆でダウンしていたり反則を見逃して選手と小競り合いを起こすシーンは名物化していた。お笑い系の試合では選手と絡みを見せるほか真面目に試合をしない選手にキレることもあった。
  • 身長が低く太った体型をしばしば選手にいじられる。
  • レフェリーだけでなくリング設営や運転手、営業などレスラー以外のほとんどの業務を経験しており、後輩のレフェリーやフロントスタッフの指導にも心血を注ぎ尊敬を得ていた。
  • 1999年にデルフィンらの大量離脱が起こると退団会見の席で対立するサスケ(当時:SASUKE)とデルフィンの間に入り、デルフィンらへの説得や会見後に号泣するSASUKEをなだめた。
  • 2004年に万引き犯を捕まえたことがある。
  • 表向きは引き抜きに等しい形で大阪プロレスに移籍後は、みちのくプロレスを批判する言動もあったが、その後もみちのくプロレスと大阪プロレスの関係は崩れておらず、実際には円満移籍だった事が窺える。
  • 公式ブログは死の2日前(6月13日)で更新が止まった状態だが、現在でも月命日になる度にファンによるコメントの書き込みが絶えない。中にはTAKAみちのく(K-DOJO)やMIKAMI(DDT)といった選手からの書き込みもある。
















 
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