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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/17


 
 


 
 

高杉 正彦
1955/6/17

日本のプロレスラー。神奈川県平塚市出身。175cm、110kg。

経歴

日本大学在学時はアメリカンフットボールの選手として活動。卒業後国際プロレスに入門、1977/9/4 に東京・後楽園ホールでのスネーク奄美戦でデビュー。その後、1981年に国際プロレスが解散後、単身メキシコに渡る。

メキシコ遠征後の1982年、新日本プロレスでタイガーマスクがブームだったこと、ウルトラマンが地方巡業で人気だったことから、全日本プロレスでもテレビ番組のヒーローをモデルにした覆面レスラーを登場させようと高杉自らがジャイアント馬場に売り込んで、覆面レスラーのウルトラセブンとして帰国。日本テレビから全日本プロレスに出向していた松根光雄が円谷プロダクションを説得して正式に許可を得て、ウルトラセブンとして全日マットに登場することになった。

当時ジュニア王者だった大仁田厚の対戦相手として全日本プロレスのリングに上がり、王座に挑戦するが敗退。以後、全日本プロレスを主戦場にジュニア戦線にて活動するが、その後は二代目タイガーマスクが誕生した事で、素顔に戻され、特に目立った活躍もないまま1986年3月、人員整理の為、剛竜馬・アポロ菅原と共に全日を解雇される。

以降、フリーランスとして全日の前座で様々な謎の覆面レスラーに扮して時折活動していたが、1989年に上記の、剛・菅原と共にパイオニア戦志を旗揚げし、剛に次ぐNO.2として新日本プロレスに出場し、剛と組み長州力&佐々木健介組に勝利するが、地味な勝ち方で評価が低く、自主興行において獣神サンダー・ライガーと対戦するも惨敗。

サンダーライガー戦の際にタイガーマスクの佐山聡がスーパータイガーに名乗っていたことに倣って、高杉もウルトラセブンからスーパーセブンと改名した[1]

その翌年の1990年にパイオニア戦志が崩壊、再びフリーランスとして活動する中、1992年に剛が旗揚げしたオリエンタルプロレスに参加するが、剛が若手選手達とのトラブルで同団体を退陣した事により、自動的にエース格となるものの、団体は崩壊。1993年にインディー団体の統括組織であるレスリング・ユニオンに加盟し、IWA湘南を旗揚げ。自主興行のみならず、他の加盟団体にも上がるが、レスリング・ユニオンが活動を停止するに伴い、1996年に湘南プロレスと改称し、現在も活動している。湘南プロレス旗揚げと同時にリングネームを本名の高杉正彦から高杉政彦に改名している。

現在は、地元の平塚市でトレーニングジムを経営する傍ら、自主興行の他にも時折インディー団体に出場し、高杉政彦とウルトラセブン(スーパーセブンから元に戻す)のリングネームを使い分けながら小規模ではあるが活動している。

全日本プロレス退団後もウルトラセブンのリングネームを使っていることについては、当時の関係者は既に亡くなっており、プロレスラーとしてテレビに登場もしないから大丈夫ではないかとしている。

こぼれ話

全日本プロレスに出場していた頃、他のレスラー達とバラエティー番組に出演。その際「正体・国籍不明の謎のマスクマン」と紹介されたが、テレビ収録時のトイレで、共演したビートたけしに「うぅ~ちゃっぷい(寒い)タケちゃ~ん、たいへんだねぇ~」と思い切り日本語で話しかけ、後にギャグのネタにされている。

マスクを脱いだら眉毛が剃られていたことがある。当人曰く「最近低迷しているので、八田イズム(負けたら全ての毛を剃る)を見習って剃ってみた」そうだが、真偽の程は定かではない。

W★INGが1993/2/3に後楽園ホールで行った興行にて、ジプシー・ジョーの引退試合の相手を務めた際(5分間のエキシビジョン)、ジョーが最後、高杉に得意技であるダイビングニードロップを放ってフォールしたが、カウント2で返して、結局引き分けで試合は終了。このときすでに5分を経過していたのに「ニードロップを見るまでは試合を終わらせられない」と時計を止めた(ゴングを鳴らさなかった)。

リングに上がる際に、ロープを掴んだ手がすべり、後方に転倒するという失敗を2回以上している(一度は、1984/2/23の全日本プロレス蔵前国技館大会)。当然、観客は失笑。

パイオニア戦志時代、若手のデビュー戦を務めるも体格差で圧倒され、最後に原爆固めで勝利するも「何年レスラーやってんだ、バカ」とファンに罵られた経験がある。


 
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鈴木 みのる
1968/6/17

本名:鈴木 実)は、日本のプロレスラー。神奈川県横浜市出身。パンクラスMISSION所属。

ファイトスタイル

プロレスラーながら、相手の技をよけることを得意(信条)としている。だがこれは総合格闘技のように短時間で相手を倒すためや試合の組み立てを無視した行為ではなく、本人なりの緩急の付け方や観客の盛り上げ方である。小橋建太とのGHCヘビー級選手権でも、序盤は小橋選手の打撃をかわし続けたが、試合中盤以降はしっかりと受けている。

とにかく試合前・試合中・試合後全てで卓越した話術・レスリング技術を用い相手をおちょくり続ける根っからのヒールを演じている。

来歴

新日本・UWF時代

横浜高等学校時代はレスリング部に所属。国体2位という実績を残して新日本プロレスに入門。

1988年に飯塚孝之戦でデビュー。翌1989年3月には、デビューから1年という一介の若手にもかかわらず、アントニオ猪木と対戦する機会を与えられ、新日本プロレスから期待されていた存在であったが、当時隆盛を極めていた新生UWFへ移籍。

同年5月には田村潔司のデビュー戦の相手を務め、新生UWF初白星。その後、高田延彦や前田日明といった大物とのシングルが実現した。特に安生洋二との対戦は常に白熱したものとなった。11月には骨折した船木誠勝の代打として東京ドーム大会「U-COSMOS」で、モーリス・スミスと異種格闘技戦で対戦。5ラウンドでKO負けを喫するが、周囲から絶賛を浴びる(ただし、鈴木は後に、「実はビビっていた」と述懐している。周囲が手放しで褒める中、そんな鈴木の内心を見抜いていたのは前田日明ただ一人だった)。この試合が鈴木の格闘技人生において大きなターニングポイントとなった。その後にスミスに雪辱を果たし注目される。

1990年末から1991年初頭にかけてUWF分裂騒動が起き、鈴木は盟友の船木らとプロフェッショナルレスリング藤原組へ参加。1990/4/1、SWSとの提携で行われた神戸ワールド記念ホール大会におけるアポロ菅原戦は、アポロ菅原サイドがプロレスの定義を越えるセメント行為を仕掛け、それに対した鈴木がリング上で激怒し泥試合に、結局菅原がリングを降りて試合放棄、鈴木の勝ちとアナウンスされる。

1991年7月、東京ベイNKホール大会における佐野直喜戦は、佐野が鈴木のスタイルに適応したこともあり大きな反響を呼んだ(30分時間切れ 引き分け)。

1992年10月の東京ドーム大会ではソウルオリンピックレスリング金メダリストのゴベリシビリ・ダビッドと対戦、裸絞めで勝利。

藤原組はカール・ゴッチを顧問として据えており、ゴッチが直接指導することもあったため、ゴッチに傾倒したのもこの時期である。アメリカ人選手がゴッチのレクチャーを受けた際、「痛い、これじゃ鈴木じゃないか」とクレームをつけると、「私が鈴木であり、鈴木が私なのだ!」と返答したこともあるなど、ゴッチもまた鈴木に大きな期待を寄せた。

パンクラス時代

1993年1月に船木と共に藤原組を離脱、同年8月パンクラスを旗揚げ。11月の神戸大会ではモーリス・スミスとキックボクシング・ルールで対戦、KO負けを喫するも、1994年5月に行われた武道館大会のリベンジマッチでは腕ひしぎ十字固めで勝利し、U-COSMOSから5年越しの雪辱を果たした。

1995年5月のNKホール大会ではケン・シャムロックを破り、第2代キング・オブ・パンクラシストとなった。しかし、同時期に台頭してきたブラジリアン柔術の技術を導入しようと試行錯誤を試みる船木を「ツキハギだらけ」と公然と批判。この時期から船木に対する反感を露にするなど、盟友の船木とソリが合わなくなっていた。

同年9月の日本武道館大会では、バス・ルッテンを相手にキング・オブ・パンクラシスト初防衛戦を行うが、フロントチョークで敗退、王座から転落。

1996年1月、ルッテンが負傷により王座を返上し、空位になったキング・オブ・パンクラス王座の暫定王者決定戦をフランク・シャムロックと行うが敗退する。以降、首の負傷(ヘルニア)が原因で連敗を重ね、6月にはデビュー半年の近藤有己にまで敗退。船木からは「もう両雄ではない」と見切りをつけられてしまう。同年10月より長期欠場した。

1997年5月にジョエル・サトゥン戦で復帰。続くジャグジット・シン戦は、21秒で勝利したが、7月には負傷が再発し再び欠場。以後、山宮恵一郎や、冨宅飛駈などに敗北。この頃の鈴木は、リングスとパンクラスとのトラブルの発端を生み出し、リングスの前田日明に挑発されたり(鈴木は黙殺)、当時シュートボクシングに在籍していた村浜武洋に「(言動が)ダサい」とインタビューで発言され、当時蜜月だったフリーライターの安田拡了経由で村浜に圧力をかけるなど、トゲトゲしい言動が目立っていた。

ほぼ1年の欠場を経て、1999年に唯一行われたパンクラス公式戦である菊田早苗戦はなす術なく敗北。

2000年9月のデニス・ケイン戦では、試合中に腰痛が再発しギブアップ負け。

その後は「キャッチレスリング」という組み技限定ルールとエキシビションを中心に活動。2002年6月にはDEEP2001に出場し、ルチャドールのエル・ソラールと対戦するが、試合中のアクシデントで(金的蹴りを食らい)反則勝ち。

DEEP2001で愛弟子である窪田幸生に勝利した元リングスの坂田亘に「横浜の大将」とリング上で挑発されたり、パンクラスのリング上で猛威を奮っていたGRABAKAの郷野聡寛に「美濃輪とやるのは早い」と発言したことに対してリング上で「目をさましてくださーい!」と皮肉混じりにアピールされた。

指導者としても「柔術が嫌いだから」という個人的な理由で「出稽古禁止」などのルールを設け、ますますパンクラスとその他の総合格闘技団体との技術的なギャップを広げる原因を作ったことから、引退していた船木にも「鈴木を切った方がいい」と言われてしまう。

2002年、パンクラスのリングで獣神サンダー・ライガーと対決し勝利する。本来はライガーではなく、新日本時代前座で激闘を繰り広げてきた佐々木健介と対決する予定だったが、同年9月に健介が負傷し、試合出場が不可能に。さらに健介は新日本フロント陣と対立し、結局退団してしまう。健介戦が流れ「もうやめようかなぁ」と思っていた鈴木に、ライガーが「俺じゃダメか?マスク脱いででもやる」と強烈にアピール。鈴木は心を打たれたと後に語っている。また、負けたライガーの評価がむしろ上がったことに、「対相手」だけではなく「対客」というスタンスもあるプロレスに再び興味を持った。

プロレスへの再復帰

ライガー戦を最後に、パンクラスを含めて総合格闘技の試合は行っていない(エキシビション・マッチ=非公式試合は有)。この頃にはハイブリッド・ボディと決別し、プロレスラーらしい脂が乗った体型に変化していた。なお、本文中で名前が挙がった選手のほか、セーム・シュルトやガイ・メッツァーらとの対戦経験がある。

パンクラスの新ブランドである、プロレス部門「MISSION」を立ち上げ、2003/6/13、日本武道館での成瀬昌由戦より古巣の新日本マットに参戦。2004年にはIWGPヘビー級王座を懸けて健介と対戦した。

2004/4/25、プロレスリング・ノアの日本武道館大会に、IWGPタッグパートナー・高山善廣のセコンドとして初登場。同年7/10に行われた東京ドーム大会で初参戦を果たし、2005/1/8の武道館大会では、小橋建太とGHCヘビー級タイトルマッチを行う。敗戦後、不敵な笑みを浮かべながら「おもしれえ」と何度も呟き、以後2005年4月からノアに継続参戦する。

2005/6/18には、シングル戦以来お互いに興味を持った丸藤正道と共に、スコーピオ&ダグ・ウィリアムス組が持つGHCタッグ王座に挑戦し奪取する。その後は丸藤を正パートナーとして、「ベルトには興味が無いが、ベルトで面白いことをする」と宣言し、イギリスでの防衛戦を成功させた。しかし、10月28日に挑戦者として迎えた森嶋猛&モハメド・ヨネ組に奪取されてしまう。なおヨネとはその後シングルマッチを行い、ヨネに関しては「歯ごたえがある。またやってみたい」という発言し、ある程度実力は認めているようだが、森嶋に関しては「暗い」と発言。

ノア所属の秋山準との初対戦で秋山を締め落とし失神に追い込んで以降、鈴木は「世界一性格の悪い男」、秋山は「NOAH一性格の悪い男」と称され、キャラもかぶっていることからお互いに舌戦を繰り広げ、試合が組まれればえげつなく攻め立てる関係と発展していた。

全日本プロレス参戦・現在

2006年には佐々木健介20周年自主興行に参戦。全日本プロレス所属選手の不甲斐なさに吼え、それでも絡んでこない全日本に罵声を浴びせたが、怪我欠場中である本間朋晃が反応したことで全日本参戦へのきっかけを作り上げ、同年3月全日本大田区体育館大会で、チャンピオン・カーニバル参戦に向け全日本内外の選手が続々と名乗り出る中、当時の三冠王座小島聡を背後からスリーパーで奇襲し、衝撃的な全日本参戦表明。2006年4月以降は全日本を主戦場とする。全日本では東京愚連隊のNOSAWA論外が勝手に『みのる軍団』を名乗ったりと、嫌々そうな顔をするものの、実は楽しんでいる姿も見られる。なお、みのるは「NOSAWAはパシリだ」と言っており、論外が『みのる軍団』と言うたびに「『鈴木みのるwith東京愚連隊』だ」と修正している。

同年6/23にはメカマミーと戦う(ウルティモ・ドラゴン主催興行)。当初は記者会見などで「メカ」という存在を否定していたが、試合の終盤にセコンドから奪ったペットボトルの水でショートさせ、スリーパーで「機能停止」させた。 9/3の全日本札幌メディアパーク・スピカ大会で太陽ケアを破り、三冠ヘビー級王座を奪取(第35代)。12/12のリアルジャパンプロレス後楽園大会では、初代タイガーマスクとシングルで対戦し勝利。

2007年1月4日の新日本東京ドーム大会で永田裕志とシングルマッチ(三冠統一ヘビー級王座防衛戦)を行い、スリーパーホールドで勝利。2/17、全日本両国国技館大会で小島聡を破り、三冠王者として3度目の防衛を果たした。

3月からのチャンピオン・カーニバルを「挑戦者決定戦」とし出場を否定したが、TAJIRIの挑発を受け一転して出場を宣言。小島・川田利明・RO'Z・TAJIRIと戦ったが、1勝2敗1引き分けという、不本意な戦績で幕を閉じた。

12/24には、ZERO1-MAXに初参戦。

2008/1/26の大阪大会を最後に全日本を離脱したという噂が流れていたが、3/1の両国大会ではテレビ解説者として登場。試合後、チャンピオン・カーニバルへの参戦を表明し、結果は西村修とジョー・ドーリングに敗れたものの、優勝者でもある諏訪魔、そして佐々木健介から初勝利を収めるなど充実した戦いぶりを見せつけた。

4/20の後楽園大会では、スランプ状態で悩める太陽ケアを独特の熱い言葉で説得し、緊急合体。「もう一度この団体のてっぺんに行く」と宣言し、NOSAWA論外・MAZADA・TAKEMURAと共に「GURENTAI」を結成した。

6/17の後楽園ホールで、鈴木みのるデビュー20周年興行「風になれ」が開催された。鈴木のレスラー人生において、最重要人物とも言えるモーリス・スミスとのエキシビションマッチや、友人であり後輩の高山との2度目のシングルマッチなどが行われた。

2009/8/30の全日両国大会で、プロレス復帰した船木とタッグマッチで対戦(パートナーは鈴木が蝶野正洋、船木が武藤敬司)、9/26横浜大会ではシングルで対戦し、敵意むき出しで反則負け。

2010/3/22に両国大会で「金網マッチ」で船木と再戦したがレフェリーストップによるKO負けを喫した。

同年4/11、チャンピオンカーニバル決勝で船木を破り、大会史上3人目の連覇を達成した(対船木戦初勝利)。

同年5/2、愛知県大会で浜亮太を破り第42代三冠ヘビー級王者となる。

2011年1月4日のレッスルキングダムで因縁の相手である永田裕志と対戦するも敗北。

同年3/21にプロレスリング・ノアの杉浦貴が、GHCヘビー級選手権10度目の防衛戦の試合後バックステージインタビューで次期挑戦者に鈴木を逆指名。しかしそのインタビュー内の、3月11日に発生した東日本大震災の被災者に対する杉浦のコメントに激怒。3月27日NOAH 東京・ディファ有明大会の6人タッグマッチで対戦し、杉浦をパイルドライバーで撃破した直後に約4分近くに渡ってマイクを片手に杉浦を叱責した。このマイクによって一時は逆指名を拒否したかと思われたが4月16日、NOAH後楽園ホール大会に来場、杉浦の試合後にマイクを取りあらためて鈴木から挑戦表明。その後正式にGHCヘビー級選手権への次期挑戦者に決定。鈴木自身はバックステージインタビューで「(一連の行動について)言いたくない、」と言及を避け、18日付けで更新された公式ブログには、「(一連の行動について)今何かを話しても、」と、あえて曖昧なコメントを公開した。5/8の、NOHA有明コロシアム大会でのGHCヘビー級選手権試合は、杉浦に敗れるも、試合後リング上で握手を交わし遺恨を清算。バックステージでのインタビューの最後に「スッキリした。」とコメントし、杉浦との「繊細な抗争」は、ひとまず終結する。

5/3、新日本博多大会に突如出現し、小島聡を襲撃。「小島軍(仮)」のメンバーであったTAKAみちのくと事前に結託しており、同軍団を「鈴木軍(仮)」と改名し新日本にも継続参戦すると宣言。

人物

  • プロレスに再進出してからはヘアスタイルを頻繁に変えるようになり、凝った剃り込みが入っている。常連である横浜の美容室の美容師を「おらが村のカリスマ美容師」と呼び、大きな大会の前にはヘアスタイルを変えている、ちなみにそれ以前のヘアスタイルはリーゼントか坊主だった。
  • 普段は黒のショートタイツに黒のリングシューズといういでたちであるが、パンクラス時代から現在に至るまで、ここ一番の大舞台では白のショートタイツを着用する(近年では先述のパンクラスでのライガー戦、ノアでの秋山戦、全日本での武藤戦など)。
    • 白のショートタイツについては、一時期は本人も「願掛け」のように縋り、わけのわからない試合でも着用していたが、高橋和生に、「昔は特別な時にしか履いていなかったものを、特別ではない時も履いているのはカッコ悪いですよ」と指摘されていたことを語っている。
  • 2005/7/18のノア東京ドーム大会に息子を連れてきたり、「息子に自慢するから」とノアの5周年記念パーティでネブ博士と写真を撮ったりしている。
  • 2007年1月には、全日本沖縄大会に参戦するため沖縄を訪れたが、その際に与那原警察署で一日署長を務めた。しかし東京スポーツに「みのる逮捕」なる見出しが載っていた。
  • 中村あゆみの大ファンであり、入場テーマ曲は中村あゆみに直接製作を依頼したオリジナル曲『風になれ』である。会場ではリング・インする瞬間にくる「かっぜにぃなれー♪」の部分で大合唱が起こるようになってきている。2006年5月21日に参戦した、全日本後楽園ホール大会からは、ニューバージョンの『風になれ Rough-Mix』を使用している。後述のデビュー20周年興行のメインイベントでは、中村の生演奏をバックに入場した。
  • 一部のビッグマッチなどでは、稀に2番の歌詞でリングインすることがある。2007年東京ドーム大会で永田と対戦したときも2番のサビでリングインしたが、解説の高山が実況アナウンサーから「今日の試合はどう御覧になりますか?」と聞かれたときに「それよりもさぁ、2番の歌詞って『駆けて行け』なんだね」と呑気に答えていた。
  • 最近は役者としてテレビドラマや映画に出演するようになってきたが、“役者・鈴木みのる”について本人は『週刊プロレス』2008年4月16日号掲載の連載コラム「鈴木みのるの独り言」にて、「大根役者だな〜」とダメ出ししている。
  • 趣味に釣りがある。東京スポーツのインタビューによれば、元々実家が海に近いことから子供時代は兄弟でよく釣りに出ていたとのことだが、本格的に趣味としてのめりこみ始めたのは「28歳の時にパンクラスで大きなケガをして、ついでに離婚もして(笑)。一人で家でボーっとしていたら友達から誘われて」とのこと。同インタビューでは「引退したら釣り船屋か釣具屋をやろうかな。たぶん一生続けていくだろうな」とも語っている。なお、テレビ東京系列の釣り番組『釣り・ロマンを求めて』にパンクラスMISSIONの後輩佐藤光留と共に出演したことがある。
  • 漫画『ONE PIECE』のファンだと公言しており、ジャンプの巻末コメントでは作者の尾田栄一郎から親交があることも明かされている。





入江 秀忠
1969/6/17

日本の総合格闘家、プロレスラー。長崎県出身。福祉施設の副施設長や、投資家としての側面もある。キングダムエルガイツ代表、総合格闘技ジム聖蹟桜ヶ丘ファーストスピリット代表。総合格闘技ジム立川#2ND SPIRIT代表。オールジャンル融合イベントGRAND SLUM総合プロデューサー。

一時期、リングネームを入江 大和(いりえ やまと)としていた。

来歴

高校中退後、18歳で大相撲の佐渡ヶ嶽部屋に入門、琴入江(こといりえ)の四股名で1988年5月場所に初土俵を踏むが、1989年3月場所を最後に廃業。新弟子の頃、勝利した相手に土俵上からドロップキックをお見舞いするという前代見聞の大事件を起こしたこともある。

大相撲廃業後、日本大学に相撲特待生として入学、当時の先輩には、舞の海秀平や、肥後ノ海直哉らがいた。途中から国士舘大学に編入。卒業後、修斗に入門しわずか7か月で1995年全日本アマチュア修斗選手権ヘビー級優勝。1回戦の対戦相手予定だったのは村上和成(欠場)、決勝戦の相手は藤井克久である。

アマチュア修斗はヘビー級の選手層が薄く、同じ選手との対戦ばかりやその選手が欠場すれば代替選手が見つからずに試合自体がなくなる状況に憂いを感じ、他の格闘技への転向を計る。1997年に全日本コンバットレスリング大会優勝。1998年にUWFの直系団体キングダムに練習生として入門。しかし、わずか数か月で団体が実質的に崩壊したため、キングダム代表者であった鈴木健の許可を得て、名称を受け継ぎ、キングダムエルガイツに団体名称変更。「ガチンコで戦ってくれるプロレスラー」を呼んで対戦を繰り返すが、入江に負けて名が傷つくのが嫌な選手(U系含む)は対戦を拒否。結局、埼玉プロレスのサバイバル飛田やプロレスリング求道軍の幸村ケンシロウなどと戦って勝利する。

2000 - 2001年頃は盛んにヒクソン・グレイシーとの対戦を標榜するが、ヒクソンにはまったく無視される。「ヒクソンと戦った経験のある日本人と対戦して勝つことがその目標に近づくこと」と考えるが、ほとんどの対戦希望選手には無視・拒否をされる(DDTプロレスリング参戦時、木村浩一郎は対戦アピールを受けたが、実現せず)。唯一、対戦に応じた西良典も対戦数日前になって欠場(拒否?)し、その後は関係断絶(詳細は西良典の記事を参照)。さらに大会運営の問題(入場テーマ曲が途中で終わってしまう、テーマ曲を間違える、選手管理の甘さ、など)が次々と露呈し、弟子である選手が大量離脱する。

2001/11/21、パンクラスの稲垣克臣とキングダムエルガイツのリングで戦い判定勝ちし、パンクラス・DEEPなどの他団体にもキングダムを背負って上がるようになる。同時に、DEEP代表佐伯繁との長きに渡る関係が始まる。

2004/6/26、韓国の格闘技イベント「Gladiator Fighting」に参戦して、ダン・スバーンと対戦するも判定負け。その後、ビデオテープの映像でスバーンのタップが公式に認められ、主催者のCMA代表諸岡が入江勝利を発表した。現在、DEEP非公認ヘビー級王者である。

2007/2/25、K-1 JAPAN TRYOUTに参加。2/1に起こした交通事故で頸椎を損傷していたのにもかかわらず、腕立て伏せ、腹筋、スクワットの基礎体力テストでは全参加者中断トツの体力数値を残すもドクターストップによりスパーリングを受けられず、落選となった。

2007/6/16の「club DEEP 東京」「おやじDEEP」、6月17日の「DEEP X」と、格闘技史上初となる2日間で3連戦3連勝した。

2007/12/12、DEEP 33 IMPACTの桜木裕司戦ではついにメインイベントに登場したが、ドローに終わった。

2009/1/4、戦極初参戦となった戦極の乱2009のオープニングファイトで加藤実と対戦し、マウントパンチによりTKO勝ちを収めた。

2010/1/21、自身がオーガナイザーを務める新宿区歌舞伎町のイベントスペースPINK BIG PIGで記者会見を行い、UFC代表ダナ・ホワイト、K-1谷川貞治イベントプロデューサー、SRC稲村角雄営業統括本部長、DREAM笹原圭一イベントプロデューサー、Strikeforce代表スコット・コーカーのメジャー5団体に「格闘家としての遺書」を送りつけると宣言。さらには石井慧への挑戦を表明した。

2010/6/20、SRC本戦初出場となったSRC13で川村亮と対戦し、TKO負け。7/22、SRC13での試合内容が評価され、SRC向井徹社長から敢闘賞として試合で使用したグローブをあしらったオブジェを贈られた。

2011年4月29日、初進出となったキングダムエルガイツ渋谷O-EAST大会で、自身が発案した戦<fight>技術力<skill>芸術性<art>3部門のオブザーバーによる評価点で試合を争う格闘技でもプロレスでもない新競技「ARCADIAルール」を発表し、自らメインを務めた。

トピック

  • 尾崎豊の曲で入場するだけでなく、マイクパフォーマンスも真似ている。しかし、悲壮感と涙を流しての叫びは観客をドン引きさせることも度々ある。
  • 本人の作詞、作曲でバンド活動も行っている。
  • 2010年より、ロックバンド、ビフォア・クライシスト・バタフライのボーカリスト、ビリーのプロデュースで『B・C・KING』(ビフォア・クライシスト・キングダムの略であり、紀元前の王国という意味)というロックバンドを結成して、DEEP50回記念大会となる10月24日の『DEEP 50 IMPACT 〜10年目の奇跡〜』でもLIVEをおこなった。
  • 2007年よりスポーツナビで「インディー格闘家・入江秀忠 〜メジャーへの道〜」を執筆。
  • 2010年よりスポーツナビで旧キングダムの聖地代々木第2体育館を目指す道を描く「ミスターインディー・入江秀忠〜メジャー団体への道〜」を執筆中。
  • すべてのジャンルの若手達を育成するプロジェクトGRAND SLUMの総合プロデューサーにも就任。格闘技・音楽・ダンス・お笑い・萌え系アイドルなどの若手育成も手がける。
  • 古くからの友人である 柴野宏正の愚行にうんざりしている。





長谷川 咲恵
1970/6/17

栃木県上都賀郡出身。

リングアナウンサーのオッキー沖田(1973/9/9)と1999年に結婚し2子をもうけたが、2008年離婚。現在、宇都宮市内の花卉店で働いている。
1989/12/7、磐田市体育館での興行においての、対吉永恵理子(バット吉永)戦

経歴

1989年
12/7、全日本女子プロレスの静岡・磐田市体育館での興行においての、対吉永恵理子(バット吉永)戦でデビュー。
空手出身(名門、宇都宮女子商業高校(現宇都宮文星女子高校)出身で、インターハイ団体戦優勝、全国選抜大会団体戦優勝、個人戦第3位の実績がある)で、端整なルックスと背も高く、体格の良さから将来のエース候補として期待される。一時期、ブル中野率いる『獄門党』に加入しヒール修行を行うが、当時全女と業務提携を結んでいたユニバーサル・プロレスリングへのゲスト参戦で男性ファンからも注目されるようになる。その後会社の方針からベビーフェイスに転向。
1994年
11/20、東京ドーム大会において、覆面レスラー『ブリザードYuki』として、対吉田万里子戦でデビュー。だが、キャラクターレスラーとしての期待がプレッシャーとなり、本人にとっては不満の残る内容だった。
1995年
試合中のアクシデントにより首を痛め、以後後遺症に苦しみ、不本意な試合が多くなってしまう。
1996年
3/31、神奈川・横浜アリーナで引退。
1998年
新団体アルシオン旗揚げに広報として参加。
1999年
全女時代の後輩の大向美智子に裏投げとローリング・ソバットを伝授し5月に退社。その後オッキー沖田と結婚。
2001年
11/25の東京ベイNKホール大会で一日復帰。大向美智子と対戦。
2006年
8/6、東京・新宿FACE「豊田真奈美自主興行」において、伊藤薫、渡辺智子、吉田万里子、豊田真奈美組のセコンドとして登場。試合中、永島千佳世に謝りながら逆水平チョップを放ち、日向あずみに豊田との合体フェイスクラッシャーを決める。

戦歴

  • 技のレパートリーこそそれほど多くなかったものの、恵まれた体を生かしたスケールの大きなファイトを見せた。単純な蹴り、エルボー、チョップだけでも十分に破壊力があった。ただし、ソバットと裏投げ以外に決定的なフィニッシュ・ホールドを持てなかった。
  • 相手の技を真正面から受け続け、かなりのダメージを食ってから狂ったように反撃するのが定番のパターンであり、その豪快なやられっぷり、あるいは負けっぷりがファンを惹きつけた。大舞台では、相手の入場の際に相手に突っかかって、そのまま試合開始のゴングを聞くことも多かった。豊田真奈美を破るなど、時折金星をあげることもあったが、エース格としての試合運びをする前にキャリアを終えることとなった。
1992年
  • デビー・マレンコとの「日米新世代タッグ」での戦い、先輩であるが手の合うライバルとなった吉田万里子との対決で注目を集めるようになった。
  • 6/21 後楽園ホールでのジャパン・グランプリ公式戦で、吉田万里子と対戦。ノンストップで技を出し合い続ける激しい戦いを見せて、30分時間切れ引き分けの名勝負を演じる。吉田にはローリング・ソバットが面白いように命中し、長谷川も吉田のルチャ殺法を受けきり、不思議とかみあう組み合わせであった。
  • 7/15 大田区体育館での「大田区女王伝説'92」では、吉田万里子の保持する全日本シングル選手権に挑戦。すぐ前の試合で全日本タッグ選手権を防衛したばかりの吉田万里子は2試合連続で臨んだ一戦であり、長谷川が有利かと思われたが、吉田の場外への三角跳びプランチャを受けた際に膝を痛めてしまい動きが落ちる。そこで吉田が一気に攻め込んだものの、最後は長谷川が意地の猛攻を見せ、最後は15分41秒、ローリング・ソバットで吉田が弓なりに崩れ落ち、涙の初戴冠となった。
  • 11/2 博多スターレーンでのタッグリーグ・ザ・ベスト公式戦には、デビー・マレンコと「日米新世代軍」タッグとして、WWWA世界タッグ王者である山田敏代・豊田真奈美組と対戦。2人はそろいのTシャツと水着を着用、ポーズを決めてアピールするなどタッグチームらしい動きを行った。試合でもチャンピオン相手にかみ合った動きを見せつけ、ソバットで山田の歯を欠けさせるなど奮戦、30分時間切れ引き分けに持ち込む大健闘を見せた。この3日後、長谷川とデビーはメキシコ遠征に出発した。
1993年
  • 対抗戦時代は、JWPの福岡晶が同期であることから、福岡とのライバル関係がクローズアップされることになった。また、タッグマッチでは、デビー・マレンコの負傷に伴い、同期の伊藤薫と組み、LLPW勢と全日本タッグ王座をめぐる抗争を行った。
  • 4/2 横浜アリーナでの夢のオールスター戦では、デビー・マレンコが負傷欠場したため、同期の伊藤薫と組んで、JWPのプラム麻里子、福岡晶と第1試合、20分1本勝負で対戦。4人がともに持ち味を生かし切った好勝負となり、観客のボルテージも上がっていった。試合は16分31秒、全女勢の攻撃を耐え切ったプラムの、この日が初公開となる必殺技、トップロープからの雪崩式フランケンシュタイナーで長谷川がフォール負けを喫したが、オールスター戦の開幕にふさわしい熱戦となった。
  • 4/11 大阪府立体育会館での夢のオールスター戦第2戦では、第1試合20分1本勝負で福岡晶と今度はシングル・マッチで対決。この試合も白熱した好勝負となったが、最後は18分5秒、福岡のDDT、ムーンサルトを耐えきった長谷川がローリング・ソバットでフォール勝ち。将来の両団体のエース候補同士らしい、未来を予感させる試合であった。敗れた福岡は、ビデオ解説をしていた山本代表に、全女へ参戦して修行することを直訴、代表も快く認め、福岡のジャパン・グランプリ'93への参加が決定した。
  • ジャパン・グランプリ'93では、並み居る強豪の前に苦戦したものの、山田敏代、井上貴子から大金星をあげるなど、着実に力をつけていることを証明し始めた。
  • 8/25 日本武道館での「武道館女王列伝93」では、豊田真奈美、堀田祐美子と組んで、尾崎魔弓・プラム麻里子・福岡晶と対戦。好勝負となったが、最後は福岡のクロスアーム式ジャーマン・スープレックス・ホールドに敗れ、リベンジを許した。
  • 9/29 愛知県体育館での「名古屋超旋風」では、伊藤薫と組んで、全日本タッグ選手権の初防衛戦。相手はLLPWの二上美紀子・レオ北村組。ほぼ初対決となったタイトルマッチは、LL勢がある程度追い込んだものの、すぐに体力を回復。二上、レオは共にスタミナ切れ気味で明らかに動きが落ちていき、最後は伊藤のダイビング・フットスタンプ→長谷川の裏投げで16分30秒フォール勝ち、余裕の初防衛となった。
  • 10/9 東京ベイNKホールでの「レッスル・マリンピアード'93」では、第3試合で井上貴子・LLPWの神取忍・紅夜叉組と対戦。神取とは初対決となり、ソバットなどで善戦したものの、最後は神取のスリーパー・ホールドで失神、レフェリーストップ負けを喫した。
  • 11/28 大阪城ホールでの「大阪美神王国」では、伊藤薫と組んで、全日本タッグ選手権、2度目の防衛戦。相手はLLPWの二上美紀子・紅夜叉組。二上はパートナーを替えての再度の挑戦。事前の記者会見でも乱闘となり、特に紅との遺恨が深まっての対戦だったが、二上が膝、紅が肩を痛めていることもあり、終始優勢。最後は16分41秒、長谷川の裏投げ→伊藤のトップロープからのダイビング・フットスタンプ→裏投げで紅をフォールして勝利。
  • 12/9 両国国技館で、伊藤薫と組んで、全日本タッグ選手権、3度目の防衛戦。相手はLLPWの半田美希・紅夜叉組。この日も、紅のコールの途中で伊藤が仕掛けて試合開始。2度目の挑戦となる紅夜叉は、実力者の半田と組んでの執念の挑戦。一進一退の攻防の末、最後は紅と半田の、アーム・ボンバーとジャーマン・スープレックス・ホールドの合体技で15分23秒、長谷川がフォール負けし王座陥落。
1994年
  • 徐々に、メインイベントに組み込まれる頻度も高くなっていった時期。また、フォールなしの格闘技スタイルの試合でも好試合を見せた。しかし、ブル、アジャ、北斗、豊田、山田、京子といった先輩達の壁を打ち破るまでには至らなかった。
  • 3/3 後楽園ホールで、山田敏代と格闘技スタイル(ギブアップ、KOのみのプロレスという意味)で30分一本勝負を行う。稀に見る激しい打撃戦の末30分時間切れ引き分けだったが、試合終了後には「これからは長谷川の時代だ!」と声がかかるほど、将来のエースとしての輝きを見せ始めた試合となった。
  • 5/2 後楽園ホールで、WWWA世界シングル王者のアジャ・コングとのシングルマッチ。アジャの入場時に先制攻撃を加えて、場外でフェイスクラッシャーを放ったが、アジャは終始余裕で対応し、ペースを把握しつつ、長谷川の技を受けてみせる、長谷川はトップロープでの攻防で足を痛めてから失速、15分58秒、裏拳からの高角度バックドロップの前に完敗した。アジャは試合後のインタビューで「まだまだ詰めの甘さがあるし、途中で足を痛くして得意技が打てなくなったりしているのも甘い。その辺の甘さを克服しないとメインではまだまだ」と語った。
  • 8/24 日本武道館での「武道館女王列伝MAX」では、吉田万里子の復帰戦のパートナーとなり、長与千種・山田敏代の師弟タッグと対戦。この時も、長与の入場時に長谷川がエプロンからボディ・アタックをかけて仕掛けた。長与にも臆せず向かっていったが、最後は16分8秒、長与の強烈なスリーパー・ホールドで失神KO負け。
  • 10/9 川崎市体育館での「レッスル・マリンピアード'94」では、セミファイナルで、レジー・ベネットと対戦。レジーの圧倒的なパワーに真っ向から勝負を挑んだが、腰を痛めていた長谷川は動きに精彩を欠き、フライング・ボディ・プレスやシリー・スラムをまともに食らい、最後は10分56秒、レジー・ラックでレフェリーストップ負け。
  • タッグリーグ・ザ・ベストでは、井上京子と組み、巴戦に残って優勝を争ったが、タイトルには届かなかった。
1995年
  • 豊田真奈美の率いる、フリーダム・フォースに参加、ブリザードYukiとして豊田とのタッグでWWWA世界タッグ王座に挑戦するも戴冠には至らず。
  • 後楽園ホールで、雷神隊のライオネス飛鳥とシングル対決するも、パワーボム2連発に完敗。
  • 3/21 大阪城ホールでの「大阪美神王国Success」では、第100代WWWA世界タッグ選手権王座決定トーナメントに、豊田真奈美のパートナーとして、ブリザードYukiで参戦。不本意だった東京ドームでのデビュー戦から数えて3試合目のYukiであり、試合前には「反省することはあっても、後悔することのないように戦いたい」と語っていたものの、試合中も下を向くことが多く、素顔での元気なファイトは影を潜めがちであった。
1回戦では、雷神隊のライオネス飛鳥・ジャガー横田組と対戦。フリーダム・フォースと雷神隊という、新旧軍団対決となった。ベテラン勢の老獪かつパワフルなファイトに苦しんだものの、ドラゴン・スープレックスを極め、ブリザード・スパイラルは失敗したものの、最後はトップロープからの回転エビ固めを切り返して、Yukiがジャガーからフォールを奪った。
準決勝では、三田英津子・下田美馬のラス・カチョーラス・オリエンタレスと対戦。前の試合で痛めた手首を攻め込まれるが、20分56秒、豊田がジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックス・ホールドで三田を沈めて決勝進出。ビデオ解説で、斎藤文彦は長谷川のYukiについて「長谷川自体が発展途上期にあるところで、Yukiも発展させていかなければならない、というのは難しいところがある」という趣旨の発言をしている。
決勝では、王座を返上した前王者、井上京子・井上貴子のダブル井上コンビと対戦。準決勝直後の試合というハンデもあり、この試合でもYukiは素顔の試合と同様、技をもらいすぎてダメージを蓄積。厳しい闘いとなった。それでも終盤は乱戦となり、高度な技が飛び交った。Yukiは、裏投げ4連発で京子を追い込む。しかし、京子の雪崩式ブレーンバスターを切り返しての雪崩式アバランシュ・ホールド、三角跳び式雪崩式ヘッドシザース・ドロップ、スパイダーズ・ネスト、駆け込み式ラリアット、三角跳び式エルボー・ドロップ、ナイアガラ・ドライバーの猛攻の前にフォール負け、14分41秒、王座を逸した。試合後は豊田がYukiをかばい「こうやって、これから、みんなでやっていく第一歩だったのに取れなかったのが残念」、Yukiは一言「反省して成長していきます」と下を向いたまま語った。
  • 3/26 横浜アリーナで、雷神隊のエース格としてカムバックしたバイソン木村と対戦。大場所では初めて、黒を基調としたガウンを着用して登場したが、バイソンがリングインしようとした長谷川に突っかかり、そのまま試合が始まった。バイソンのトンファーを奪って攻撃したが、切れたバイソンは固定式であるアリーナの椅子を破壊するなど場外戦を挑む。しかしバイソンは復帰して1か月で万全とは言えず、袈裟切りチョップをローリング・ソバットで迎撃し、最後はカウンターのローリング・ソバットで沈め、10分5秒、大金星をあげた。
  • WWFに参戦、ロコモーション・ダブルアーム・スープレックスなどで喝采を浴びた。
  • 9/3 日本武道館で、ブリザードYukiで出場、フリーダム・フォースの伊藤薫、吉田万里子と組んで、山田敏代・井上貴子・渡辺智子組との6人タッグ。Yukiの裏投げとダブル・フットスタンプのコンビ攻撃から、トップロープからの伊藤のダイビング・フットスタンプ、Yukiの旋回式セントーンから吉田の飛び技と渡辺を攻め込むが、連携が今ひとつで、渡辺が粘り抜いて勝利を収めた。試合後長谷川は「結んでいた髪を解いたことで動きやすかったが、まだYukiのペースがつかめない」と話していた。
  • 12/4 両国国技館で、初めてセパレートのコスチュームで登場、同期の盟友、伊藤薫とシングル・マッチ。長谷川はかねがね、自己のベスト・バウトはジャパン・グランプリにおけるJR橋本駅前広場での伊藤戦(30分時間切れ引き分け)であると公言しており、この日はその試合を越える内容にしたいと試合前に語っていたが、その表情には今までに見られなかったような固い決意が宿っていた。同期ならではの心と心のぶつかり合いとなった重い試合は、伊藤が場外へのダイビング・フットスタンプ、長谷川がノータッチ・トペ・コン・ヒーロなど得意技を出し切ったハイスパートな展開。最後は11分55秒、伊藤がトップロープからの雪崩式フィッシャーマンズ・バスターで長谷川にシングル初勝利。大の字となった長谷川の頬には一筋の涙がつたっていた。勝った伊藤も試合後のインタビューで、珍しく感極まった表情を見せていた。
  • 12/10 後楽園ホールの試合後、翌年3/31での引退を表明。
1996年
  • 「長谷川咲恵シングルカウントダウン7番勝負」と題して、1/3に同期の渡辺智子、1/4 山田敏代、1/22 ブル中野、2/3 吉田万里子、2/11にJWPの興行でかつてのライバル福岡晶、2/12 バイソン木村、3/20 豊田真奈美と対戦。このほか3/12のLLPWの興行で同期の長嶋美智子とも対戦した。なお、引退二日前にはアジャ・コングと対戦し、裏拳で口の中を縫って引退試合を迎えるという、最後まで長谷川らしい戦いぶりだった。
  • 3/31 横浜アリーナで開催された「横浜美神王国Highest Wars」で、パートナー伊藤薫、相手は渡辺智子・LLPWの長嶋美智子組という、全て同期とのタッグマッチで引退。タッグマッチであるが、試合開始時に3対1となって同期達の技を受けきり、その後通常のタッグマッチに戻った。場外でのノータッチ・トペ・コン・ヒーロも見せた。最後は10分24秒、試合開始時から半泣き状態だった渡辺が「最後は私が決める!」と絶叫してのキャノンボール・バスター2連発に沈み、選手生活に幕を下ろした。

タイトル歴

  • 第16代全日本シングル王座
  • 第13代全日本タッグ王座(パートナーはデビー・マレンコ)
  • 第16代全日本タッグ王座(パートナーは伊藤薫)

入場テーマ曲

  • 「Hard-Beat Runner」「完全版全日本女子プロレス選手別テーマ曲集」に収録。<長谷川咲恵>
  • 「YAMATO組曲PART4」「プロレスQ10番勝負」に収録。<ブリザードYuki>

  

















 
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