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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/19


 
 


 
 

ワフー・マクダニエル
Wahoo McDaniel
1938/6/19 - 2002/4/19

アメリカ合衆国オクラホマ州バーニス出身のプロレスラー、アメリカンフットボール選手。本名はエドワード・ヒュー・マクダニエルEdward Hugh McDaniel)。

プロレスラーとしての現役選手時代は、羽飾りのコスチュームや得意技のトマホークチョップなど、自身の出自であるインディアン・スタイルで活躍。ラフファイトにも強いベビーフェイスとして絶大な人気を誇った。日本では「狼酋長」の異名を持つ。

来歴

チョクトー・チカソー族インディアン。学生時代からレスリングとアメリカンフットボールを両立させながら活躍。大学卒業後にAFLのヒューストン・オイラーズ(現・テネシー・タイタンズ)に入団。アメフトと並行してドリー・ファンク・シニアからレスリングのトレーニングを受け、1961年にプロレスラーとしてデビュー。以降1968年までAFLのオフシーズンにプロレスの試合を行うという二足のわらじで活動する。

1969年からはプロレスに専念し、AWAでスーパースター・ビリー・グラハムらと抗争を繰り広げる。1973年11月に国際プロレスに初来日、ストロング小林を破りIWA世界ヘビー級王座を奪取。グレート草津を相手に得意のインディアン・ストラップ・マッチも行った。1974年よりジム・クロケット・ジュニアの主宰するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に転戦し、ジョニー・バレンタイン、ブラックジャック・マリガン、リック・フレアーと抗争。1975年7月にはフレアーを破りNWAミッドアトランティック・ヘビー級王座を獲得した。

1976年に全日本プロレスに来日し、ジャイアント馬場の持つPWFヘビー級王座に挑戦。1979年の世界最強タッグ決定リーグ戦ではフランク・ヒルとのインディアン・コンビで参戦、ヒルが狙い打ちにされ戦績は振るわなかったものの、アブドーラ・ザ・ブッチャーとの抗争は話題を呼んだ。1980年からはテキサスのサンアントニオ地区に定着し、テリー・ファンクとも抗争を展開している。

1982年1月、新日本プロレスに来日。前年に新日本へ移籍してきたブッチャーとはここでも抗争を続けた。アントニオ猪木とのシングルマッチも行われたが全日本参戦時ほど本領を発揮できなかった。

以降もミッドアトランティックやジョージア、フロリダなど南部マットを主戦場に活躍。ダスティ・ローデスやリッキー・スティムボートとタッグチームを結成し、ロディ・パイパー、イワン・コロフ、サージェント・スローターらとタイトルを争った。1985年にはマーク・ヤングブラッドとのコンビでNWA世界タッグ王座を獲得。1980年代後半は末期のAWAやプエルトリコのWWCで活動した。

最晩年の1992年5月にはW★INGプロモーションの興行に参戦。ザ・グラップラーとインディアン・ストラップ・デスマッチで戦い、KO勝ちしたのが最後の来日となった。

1995年、NWAの後継団体であるWCWで殿堂入りを果たす。現役晩年は持病の糖尿病との戦いになり1996年に引退。2002年4月19日、糖尿病の合併症で死去。63歳没。

タイトル

CWF(フロリダ)
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回(1967年にLouie Tilletから獲得)
  • NWA南部ヘビー級王座:2回(1978年にザ・スポイラー、1985年にリック・ルードから獲得)
  • NWA TV王座:1回(1981年にエディ・マンスフィールドから獲得)
  • USタッグ王座:1回(w / ビリー・ジャック・ヘインズ)
  • NWA世界タッグ王座:2回(w / ホセ・ロザリオ)
WCCW(ダラス)
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:2回(1969年にジョニー・バレンタインから2度獲得)
  • NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / トニー・パリッシ)
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:2回(1971年にトール・タナカ、1979年にザ・スポイラーから獲得)
  • NWAアメリカン・タッグ王座:3回(w / ジョニー・バレンタイン×2、サンダーボルト・パターソン)
IWA(国際プロレス)
  • IWA世界ヘビー級王座:1回(1973年にストロング小林から獲得)
NWAミッドアトランティック地区
  • ミッドアトランティック・ヘビー級王座:5回(1975年から1977年にかけてリック・フレアーとグレッグ・バレンタインから獲得)
  • USヘビー級王座:5回(1981年から1984年にかけてロディ・パイパー、サージェント・スローター、リッキー・スティムボートから獲得)
  • NWA世界タッグ王座:4回(w / マーク・ヤングブラッド×2、ルーファス・ジョーンズ、ポール・ジョーンズ)
GCW(ジョージア)
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:2回(1979年にマスクド・スーパースターから2度獲得)
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / トミー・リッチ)
  • NWAナショナル・ヘビー級王座:1回(1986年にタリー・ブランチャードから獲得)
SCW(サンアントニオ)
  • SCW南部ヘビー級王座:2回(1980年にタリー・ブランチャード、1981年にテリー・ファンクから獲得)
  • SCW南部タッグ王座:1回(w / テリー・ファンク)
  • SCW世界タッグ王座:1回(w / イワン・プトスキー)
CCW
  • NWA南東部タッグ王座:1回(w / リッキー・マクダニエル)

etc.


 
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エル・カネック
El Canek
1952/6/19

メキシコ・タバスコ州フロンテラ出身の覆面レスラー。ニックネームは『仮面の魔豹』。

リングネームの「カネック」はマヤ王の名前である。弟はプリンシペ・マヤ、実子がカネック・ジュニア。

来歴

タバスコ州立大学で、経済、政治を学んだインテリでボディビルで鍛えた後ハム・リーのジムに入門し、1973年3月にプロレスラーとしてデビュー。

1978/8/27、バラシオ・デ・ロス・デポルテスでルー・テーズを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得(第2代王者)。

以降、タイガー・ジェット・シン、藤波辰巳、長州力、初代タイガーマスク、エンリケ・ベラ、スコルピオ、ビッグバン・ベイダー、スタン・ハンセン等を相手に防衛戦を展開。特に1977年の藤波メキシコ遠征にはじまる、ジュニアヘビー級時代の藤波との抗争は有名。

日本には1978年3月に新日本プロレスに初来日を果たす。1979年にはメキシコでアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦したほか、1983年にはIWGPリーグ戦にも参戦している。長い間メキシコマット界の第一人者として活躍し、ミル・マスカラスの最大のライバルと謳われた。

1983年にアンドレ・ザ・ジャイアントをボディスラムで投げたことで一躍有名になる。

1985年のIWGPタッグ・リーグ戦ではドス・カラスとのコンビを結成した。

2001/12/23、DEEP2001に出場予定だったドス・カラス・ジュニアの代理で総合格闘技に初挑戦。大刀光と対戦し、パウンドでTKO勝ちを収めた。

「敵前逃亡」事件

カネックは初来日の1978年3月、いわゆる「カネック敵前逃亡事件」を起こしている。これは3/30に予定されていた藤波とのWWFジュニアヘビー級王座戦をカネックが当日になっていきなりキャンセル、そのまま帰国してしまったものである。仮にも一流と評価される選手が、負傷や交通事情ならともかくいきなり帰国してしまったというのは前代未聞で、「敵前逃亡」として大いに話題になった。当日藤波はイワン・コロフとノンタイトルのシングルマッチを行った。この事件の背景には、直前数試合を欠場するほど悪化していた膝の負傷のほか、新日本サイドがカネックの覆面と藤波の髪の毛を賭けて戦う「マスカラ・コントラ・カベジュラ」ルールを通告してきたこと、また同じシリーズに参戦していた複数のアメリカ人レスラーがメキシコ人に対する差別意識からカネックに暴行を加えていたことも発覚している。これらの事情が判明したことから、これほどの不祥事を起こしたにしては非常に珍しいことに、カネックは翌年以降も新日本にたびたび来日し、新日本の看板外国人の一人となっていった。

獲得タイトル

  • CMLL世界タッグチーム王座(w / ドクトル・ワグナー・ジュニア)
  • CMLL世界トリオ王座
  • UWA世界ヘビー級王座

「敵前逃亡」事件





長谷川 悟史
1976/6/19 - 1999/3/1

日本の総合格闘家。神奈川県横須賀市出身。パンクラス所属。

来歴

高校卒業後、パンクラスの第4回入門テストを受け合格。

1996/7/22、パンクラスネオブラッドトーナメント1回戦・山宮恵一郎戦でデビュー。当時パンクラス最軽量ながら引き締まった肉体とスピードを武器に独特のファイトスタイルで人気を得た。

1998/2/6、パンクラスでセーム・シュルトと対戦し、アンクルホールドでタップアウト勝ちを収めた。ギブアップ勝ちをしたのにもかかわらず本人は小さなガッツポーズをするだけだった。

1999/3/1、道場近くのマンションから転落し、骨折に基づく外傷性出血ショックで22歳で死去。

人物像

関節技が極まっても決してギブアップすることがなく(一回だけしたが)ロープエスケープもしない。よくレフェリーストップをくらって悔しそうな顔をしていた。

ロープエスケープ0という記録も持っている。

転落事故

彼の転落事故には謎が多く残っている。当時は自殺も囁かれたが、転落の数日前にプロレス雑誌の記者に「今ウエイトトレーニングに力を入れているんです。」と話しており、また転落の直前にはバイクを修理に出しており自殺と考えるのは難しい。パンクラスの大先輩・船木誠勝の趣味のひとつに、後輩たちに危険なスタントを行わせ、それをホームビデオで撮影するという、通称「アクション映画」と呼ばれるものがある。当時、長谷川は船木の「アクション映画」と称するゲームでたびたび「主演」を務めさせられていた(事件前、長谷川、船木の双方が「アクション映画」について格闘技通信やゴング格闘技などのインタビューでコメントしている)。長谷川は、この遊びの最中に転落したのではないかと言われている。長谷川がなぜ本人とは関係ない(とパンクラスは発表している)転落場所のマンションにいたのかもわからないままである。

なお、船木は「後輩を使ってスタントシーンを撮影するのが趣味」と公言していたが、長谷川の死去後は一切その類の発言をしていないことも疑問である。

なお上記のような状況から匿名掲示板などで「船木が殺した」との悪意のある誹謗中傷も散見されるが、事故当時、船木は現場には居なかった(車を運転中に尾崎社長から事故の連絡を受けた)。また団体の責任者として尾崎社長や船木は警察からの事情聴取も受けており、事件性は無いと見るのが妥当である。






スタン・ステイジャック/スタン・スタージャック
Stan "The Man" Stasiak
1937/4/13 - 1997/6/19

カナダ・ケベック州モントリオール出身のプロレスラー。本名はジョージ・スティピッチGeorge Stipich

第5代WWWF世界ヘビー級王者として知られる。息子のショーン・ステイジャックもプロレスラーであり、WWEやWCWで活動した。

来歴

1958年に地元のモントリオール地区でデビュー。カナダ各地を転戦し、1965年にはカルガリーでドン・レオ・ジョナサンからNWAカナディアン・ヘビー級王座を奪取する。同年より太平洋岸北西部をサーキット・エリアとするPNW(Pacific Northwest Wrestling)に進出し、マッドドッグ・バションを破りパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を獲得。以降、キャリア末期の1980年代までPNWを主戦場に活動し、看板タイトルである同王座には通算6回載冠した。

1970年はオーストラリアにも遠征し、キング・イヤウケアからIWA世界ヘビー級王座を奪取。1972年にはテキサスのダラス地区に参戦してブラスナックル王座を獲得するなどヒールのラフファイターとしてのステイタスを高め、1973年よりニューヨークのWWWFに登場する。

WWWFではグラン・ウィザードをマネージャーに悪名を売り、チーフ・ジェイ・ストロンボーやトニー・ガレアら人気スターを撃破、ブラックジャック・ランザと結託してアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した。そして1973/12/1、フィラデルフィアでペドロ・モラレスを破りWWWF世界ヘビー級王座を獲得。9日後の12/10にMSGでブルーノ・サンマルチノに敗れ短命王者に終わったものの、モラレス政権から第2次サンマルチノ政権への「橋渡し役」を担ったことで、彼の名はプロレス史に永久に刻まれることとなった。

その後も各地で活躍し、五大湖地区ではザ・シークと流血戦を展開。トロントでは1975年にジャック・ブリスコ、1976年にテリー・ファンクのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。1977年にはWWWF王座返り咲きを狙って新王者スーパースター・ビリー・グラハムとも対戦し、1978年はニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座にも挑んだ。本拠地のPNWでは、若手時代のロディ・パイパーやリック・マーテルとも激闘を繰り広げている。

1980年は久々にダラス地区に登場し、ブルーザー・ブロディを相手にブラスナックル王座を争う。その後はPNWに定着し、ベビーフェイスに転向してバディ・ローズやロン・バス、ザ・シープハーダーズと抗争。1982年12月にはビリー・ジャック・ヘインズをパートナーにタッグ王座を獲得している。同団体ではカラー・コメンテーターも兼任していた。1984年に現役を引退し、トロントでセキュリティ・ガードに転身した。

1997年6月19日、心不全により死去。60歳没。

日本での活躍

初来日は1966年12月、東京プロレスの旗揚げ第2弾(および最終シリーズ)となる『チャンピオン・シリーズ』に外国人エースとして参戦。アントニオ猪木のUSヘビー級王座(10月の旗揚げシリーズで猪木がジョニー・バレンタインから奪取したタイトル)に連続挑戦した。再来日となる1969年3月の国際プロレス『ワールド選抜シリーズ』では、ビル・ロビンソンのIWA世界ヘビー級王座に挑戦している。

1973年2月にはクラッシャー・スタージャック名義で全日本プロレスの『ジャイアント・シリーズ結集戦』に3度目の来日。しかし、ブルーノ・サンマルチノ、ハーリー・レイス、ボボ・ブラジル、パット・オコーナーら大物が参加した同シリーズでは目立った活躍は果たせず、同年12月のWWWF王座奪取は関係者を驚かせた。

翌1974年4月、「元WWWF世界王者」という肩書のもと、新日本プロレスの『第1回ワールド・リーグ戦』に参加。外国人選手の招聘ルートがまだまだ脆弱だった当時の新日本にとっては大物中の大物であり、東京プロレス以来の猪木との再戦も注目された。公式戦では予選リーグを通過し決勝リーグに進出したが、戦績は振るわなかった(星野勘太郎とジート・モンゴルを下し、キラー・カール・クラップとは引き分けるも、猪木、坂口征二、マサ斎藤、ジ・インベーダーに敗退)。新日本には1979年2月の『ビッグ・ファイト・シリーズ』にも来日しており、タイガー・ジェット・シンともタッグを組んでいる。これが通算5回目の最後の来日となった。

獲得タイトル

WWWF
  • WWWF世界ヘビー級王座:1回
PNW
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:6回
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:8回(w / マッド・ラシアン、マイティ・アーサス、ハル佐々木、トニー・マリノ、ダッチ・サベージ、プレイボーイ・バディ・ローズ、ビリー・ジャック・ヘインズ×2)
スタンピード・レスリング
  • NWAカナディアン・ヘビー級王座(カルガリー版):3回
  • スタンピード北米ヘビー級王座:1回
NWAビッグタイム・レスリング
  • NWAブラスナックル王座(ダラス版):2回
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / キラー・ブルックス)
その他
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(トロント版):1回(w / マンマウンテン・キャンベル)
  • NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):2回(w / ダッチ・サベージ)
  • NWAブラスナックル王座(アマリロ版):1回
  • IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):1回
  • NWF北米ヘビー級王座:1回

  

















 
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