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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/20


 
 


 
 


上田 馬之助
1940/6/20

上田馬之助

愛知県海部郡(現在の弥富市)出身で追手風部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。大相撲時代は、海部錦(あまにしき)の四股名で最高位は序二段12枚目。プロレス時代は、頭髪をまだらに金髪に染めていたことから「まだら狼」「金狼」と呼ばれた。全盛期は身長190cm、体重118kg。本名は上田 裕司(うえだ ひろし)。

来歴

1958年、大同工業高校を中退して追手風部屋に入門、1958年5月場所に初土俵を踏み、同年9月には部屋付き親方の間垣親方が分家独立するのに伴って間垣部屋に移る。当時の四股名は上田山(うえだやま)であったが、のちに海部錦に改名した。

1960年、追手風部屋に同期入門した林幸一(のちのミスター林)の誘いで力士を廃業して日本プロレスに入門、1961年4月に名古屋市金山体育館における平井光明戦でプロデビュー。若手時代は実力はありながらも、ほぼ同時期に入門したジャイアント馬場やアントニオ猪木の影に隠れ地味な存在だった。だがダブル・リストロックを得意技とし、道場内での関節技スパーリング(上田いわく「極めっこ」)や真剣勝負(同「冷たい試合」 通称「ガチンコ」)には自信があったと本人は語っている。しかし、当時の上田の試合には派手さがなかったため、観客が眠ってしまうことがしばしばあったらしく、そのために眠狂四郎というあだ名をつけられていた。

1966年にアメリカに渡り「プロフェッサー・イトー」のリングネームで悪役レスラーとして活躍した。1970年3月に帰国したが、ここでも馬場、猪木、坂口征二らの影に隠れ、大きな活躍はできなかった。1971年末の猪木追放騒動では、猪木の計画を日プロ幹部に密告したといわれる(後述)。馬場に次いで坂口も日プロ離脱を表明した1973年3月、大木金太郎とのタッグでインタータッグ王座を獲得、念願の国内初戴冠を果たしたが、まもなく日プロは崩壊した。

その後、大木らとともに全日本プロレスへ参戦したが、前座扱いだったため(異説あり。後述の「人柄」の項目も参照されたい)フリーとなり渡米、南部地区を中心に転戦した。1976年、アメリカから馬場、猪木、ラッシャー木村への挑戦を表明、木村が応じたため、同年5月に国際プロレスに参戦した。この時から前髪を金色に染め竹刀を振り回す「まだら狼」へと変身(のちに髪全体を染め、「金髪の狼」「金狼」と呼ばれるようになる)、ヒールとして凶悪ファイトに徹するようになった。木村と金網デスマッチなどで激闘を繰り広げIWA世界ヘビー級王座を獲得。日本マットでは初の本格日本人ヒールとして注目を集めた。

1977年1月に新日本プロレスへ参戦、タイガー・ジェット・シンと凶悪タッグを結成して北米タッグ王座を獲得し、一躍トップヒールとなった。その後、シンとは仲間割れもあったが、長く悪の名コンビとして日本マットを血で染め続けることになる。1978/2/8には因縁深い猪木と釘板デスマッチを実現(11分2秒 上田のTKO負け)。シンと仲間割れした決着戦では、猪木がレフェリーを務めるも、上田・シンとも猪木を急襲、試合は無効試合になるが、対猪木の共闘戦線としてシンと和解する。同年暮れにはヒロ・マツダ、マサ斎藤、サンダー杉山らフリーの日本人レスラーたちと狼軍団を結成、新日勢と抗争を展開した。斎藤とのコンビでは国際プロレスにも参戦した。その後も主にシンとのコンビで新日本プロレスに参加したが、1979年以降はやや戦績を落とし、坂口との北米ヘビー級王座をめぐる抗争がメインとなった。

1981年に再び全日本プロレスへ、先に移籍したタイガー・ジェット・シンを追うように参戦した。ここでもインタータッグ王座を獲得するなど、ヒールとして大いに暴れた。しかし、またしてもシンと仲間割れをし全日本プロレスを去る。そして新日本プロレスの試合会場に突如スーツ姿で現れ、猪木に花束を渡すなどをして新日に再参戦。一時期はマシン軍団やヒロ斎藤と共闘していたが仲間割れし、カルガリーハリケーンズの離脱後に新日正規軍入り、UWF軍との5対5のイリミネーション・マッチでは、前田日明と心中して場外に飛び降り引き分けるという活躍をした。そのファイトでは前田のミドルキックの連発どころか側頭部へのハイキックさえも平然と受けて見せ倒れず、勢いをつけたフライング・ニールキックでようやく倒れた。(当時は上田のシュートでの強さはさほど認知されておらず、その上田が当時最強といわれた前田の蹴りを平然と受けきって見せたことで観客席からは大きなどよめきが起こった。ちなみに当時の上田の入場テーマは、のちに三沢光晴も使った「スパルタンX」である。また、前述の全日本プロレスにおけるシンとの仲間割れを起こした試合は、全日正規軍+プリンス・トンガvs.シン軍団の4対4で行なわれた日本初のイリミネーション・マッチであり、両団体の歴史的試合にまたがって参加したのは上田だけである)。その後はNOW、IWAジャパンといったインディー団体を転戦した。

1996年3月に東北自動車道で、西濃運輸との不慮の交通事故に遭遇。フロントガラスを突き破り、車外に投げ出されアスファルトに叩きつけられ、普通の人なら即死だっただろうと言われる大事故だったが、レスラーとして体を鍛えていたことに加え、叩きつけられる直前、無意識に受身をとっていたことで一命を取り留めた。本人は車が衝突した瞬間以降のことは覚えていないらしい。

その事故により脊椎損傷の大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされた。1998/4/16に上田がリハビリ中の熊本県で「力道山OB会」主催の引退記念大会が開かれ、車椅子姿でファンの前に現れ喜ばせた。

その後、妻の故郷の大分県臼杵市へ移り、「リサイクルショップ上田屋」を経営。地元でプロレス興行が行われると夫婦で会場に激励に行ったり障害児施設を訪問するなど、妻と二人三脚の生活を送っている。2008年には近年のリハビリ生活がドキュメンタリー番組「生きる×2」で放映された。

2009年には、大分のローカルプロレス団体であるプロレスリングFTO所属のプロレスラーであるVINNIが、初代の同意の下「上田馬之助」の名前を襲名することを発表。同年7月5日に大分市内で襲名式が開かれ、上田本人は体調不良のため姿を見せなかったものの、立会人を真樹日佐夫が務めたほか、夫人より上田が現役当時使用していた竹刀とガウンが手渡された。

人物

常に竹刀を片手にし、レスラー人生の大半を悪役で貫いたが、素顔は以下のエピソードにも見られるように非常に真面目で、周囲の人間を大事にする人物であった。また、高いプロ意識の持ち主であったことが言動の随所に表れている。

  • 相撲時代に毛筆(相撲字)の訓練を受けたために、能筆としても知られていた。
  • サインの筆跡を似せるほど力道山に傾倒し、日本プロレス時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を、後年になっても肌身離さず持ち歩いていたという。「力道山先生の頃の本格的なプロレスを復活させるのが夢」「統一コミッショナーの下、プロレスにライセンス制度を復活させるべきだ」というような発言もしている。
  • 全日本プロレスを離脱してフリーとして渡米した理由を「前座扱い」としていたが、親しいプロレス関係者には、プロレス草創期からの日本プロレスのレフェリーだった沖識名がハワイへ帰国する際に、全日本プロレスが沖識名の「ありがとう興行」を実施したのに、全日本サイドが売上から餞別を沖識名に一切渡さなかった為(上田と松岡巌鉄が自分のファイトマネーの中から沖識名に餞別を渡した)、『馬場は沖(識名)さんに昔からあれだけ世話になったのに…… 恩知らずじゃないか』と激怒したことがきっかけだったと語り、後にその逸話はプロレス雑誌に紹介された。
  • アナウンサーの徳光和夫とはお互いの若手時代から親しく、徳光は上田のことを「馬さん」と呼んでいる。上田が大事故による障害を負った後に日本テレビの『24時間テレビ』に出演した際、徳光が「馬さんもこんな辛いことになってしまって…」と語りかけると、上田も眼を潤ませながら「徳光さん、私は大丈夫です。元気ですよ」と応じた。
  • ライバルを問われると「お客さん」と答えた。観客の目を意識できないものは評価されないプロレスの世界において、まったくの正論である。
  • 場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老女を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。
  • 徹底したヒールキャラを通していたため、親類の幼い子供から「おじちゃんは家に来ないで!」と言われたことがあるらしい。プロとしてヒールを演じていた上田は後に「あれが精神的に一番辛かった」と述べたという。しかし、現在行っている施設慰問は現役当時から続けているもので、訪問先では「上田のおじちゃんが来た!」と子供たちに大喜びで迎えられていたという。施設慰問のことを取材したマスコミが「このことを記事にしてもいいか?」と聞いたら上田は「そんなことしたら俺の悪役のイメージが壊れるからやめてくれ」と断った。
  • また茅ヶ崎のダウン症の子供たち向けに焼き物を作ることを通して、コミュニケーション能力を教えている施設の遠足会には「荷物持ちのおじちゃん」として参加。川原でのバーベキュー等でも活躍。
  • 以上のことから家族にアンチファンからの危害が及ぶことを懸念して、アメリカ・フロリダ州ペンサコーラに移住していた時期がある(ラッシャー木村は猪木ファンからの攻撃で愛犬が脱毛症になるなどの被害を受けており、決してありえないことではなかった)。
  • 入場時には、スポンサーであるキャピタルエース(合同商事)のジャージを永年着用していた。
  • 自身の隆盛期が過ぎた頃に、海外で顔にペイントをし「テング」のキャラクターとリングネームでも活躍していた。なお日本では全日で一回だけ、ザ・グレート・カブキとのシングルが組まれた際にこのキャラクターで試合をした。
  • NOWに参戦してた時にアメリカ在住の息子が大学の長期休暇を使って日本に来ていた際、プロレスラーとして限定参戦させていた(リングネームは「ヒロ上田」最初だけ「上田馬之助Jr.」だった)、なお幼少の頃から父の手ほどきを受けていたのと、大学ではアメフトの選手でレスラー並の体格だった為、何も支障はなく、新人とはおもえないくらいのレスリングセンスだった。
  • 引退のきっかけとなった交通事故で、運転していたIWAジャパンの営業部員は死亡した。その話を聞き「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若い奴が死ななきゃならないんだ」と号泣したという。
  • 交通事故の直後は首から下が動かない状態であったが、リハビリを経て、プロレス会場に車イスで来場できるほどまで回復した。また、往年のファンのために来場時にはトレードマークの金髪に染めている。
  • 外国人レスラーのギャラが日本人レスラーより極端に偏っていたことに警鐘を鳴らしていたことでも有名で、上田のギャラは相方のタイガー・ジェット・シンと比べ物にならないくらい安かったという。
  • 上田馬之助はSWSが失敗した原因について、「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを喰らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。
  • 5歳のときに手品師のまねをしようとして左耳に大豆を入れたのが原因で鼓膜を失い、それ以降左耳は全く聞こえない状態だったという。また右耳もその後中耳炎を患ったため聴力が低下しており、聴力にかなりのハンデがあったが、現役時代はそのことを伏せて戦っていた。
  • 深夜、出待ちの中学生に隠し撮りをされたことがあった。気付いた上田は「こら!」と叱ったが、少年の自宅に「必ず息子さんをお返しします」と電話した上で、「写真を撮りたいときはな、まず相手の人にお願いするんだぞ」と優しく諭し、その場で書いたサインを持たせて家まで送り届けたという。
  • 筆まめという一面もあった。日本プロレス時代に長期海外遠征を行った際には、親しい記者などに丁寧な文体で書かれた近況の手紙を定期的に送っていたという。
  • 上田が新日正規軍から離れ(前述)セミリタイヤ状態となった後、新日本は「ニューリーダー対ナウリーダー」という世代闘争に入ったが、ある時上田が突如会場に現われ「何がニューリーダーだ、お前らの立場を考えろ」というマイクアピールを行った。この模様は「言いたいことだけ言って上田は去っていった…」という見出し付きで、当時の週刊プロレスの表紙を飾った。後日の同誌のインタビューでは「団体に育ててもらい、今も世話になっている身で、それに刃向かうべきではない」とニューリーダーの姿勢を批判、さらに「そんな人間を勘違いさせる、おたくらマスコミも悪い」とも語っていた。
  • 1990年頃の週刊プロレスのインタビューで、初代タイガーマスクのことを「お子様ランチ」と言い、初代タイガーの登場以降プロレスを好きになる世代が広がり、それに合わせるようにプロレス自体が空中技や派手な技に片寄りつつある中、プロレスの凄味はもっと違うところに有ると警鐘を鳴らしていたが、それ以降もプロレスは派手な技の応酬、危険な技が連続するものになっていった。

密告事件

力道山が亡くなった後の日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようと密かに画策していた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員がサインをしていたという。

ところが、仲間だと思っていた上田が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告したため、慌てた幹部連中の懐柔工作によって選手達は次々と寝返り、猪木のみが孤立し選手会を除名され、日本プロレスから永久追放される事件が起きた。

一方で、猪木と腹心の仲でありサイドビジネスの手伝いもしていた経理担当の某氏が、不透明な小切手を切ったり、猪木を社長に祭り上げて日本プロレスの経営権を握ろうと画策しているかのような動きを見せたため、このことに気付き危機感を持った上田が馬場に相談したのが発端であったともいわれている。

当時の日本プロレスは暴力団との関係が取り沙汰されたり(ただし当時の「興行」は良くも悪くも現在の価値観で言う暴力団の影響を免れることは有り得なかった)、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。猪木自身は自著である『アントニオ猪木自伝』の中でこの件について触れ「経営陣の不正を正したかったことに嘘はない」としているが、誤解を与える行動があったのは事実で100%非がないとは言い切れない。また、馬場の自伝においては、猪木の行動は日本プロレス経営改善の名を借りた乗っ取り計画だったとされ、これに関係していた上田を馬場が詰問したら「上田が全部しゃべったんです」との記述がある。雑誌ゴングの元編集長竹内宏介(馬場の側近としても有名だった)も「馬場が上田を詰問・上田が真相を告白・馬場が幹部に報告」という経緯で著書を書いている。

ただ2007年1〜5月にかけて東京スポーツにて連載されていた「上田馬之助 金狼の遺言」において、上田は「実はあの事件で最初に裏切り首脳陣に密告を行ったのは馬場であるが、当時の社内の状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪を被らざるを得なかった」と語っている。上田は「証拠となるメモも残っている」と語っており、これが事実なら定説が覆ることになるが、今となっては馬場を含め当時の関係者の多くが亡くなっていて事実関係を検証するのは困難であり、真相は藪の中というのが現状である。

いずれにせよ、この事件が発端となり馬場と猪木の決裂は決定的なものとなり、「新日本プロレス」を旗揚げした猪木、「全日本プロレス」を起こした馬場が日本プロレスから離脱、客の呼べる両エースを失った日本プロレスは崩壊した。慎重派といわれた馬場は、この事件についてその後一切語らず、以降信頼関係を第一に考えるようになった。「裏切り者」の汚名をきせられた猪木は、以降攻撃的な策士の面をみせる一方でその行動にはスキャンダルが付きまとった。元来お人好しで馬場より猪木と気が合ったといわれる上田は、以降孤独の身となりフリーとして悪役レスラーを貫き通した。馬場・猪木・上田のみならず日本のプロレス界にとっても重要な出来事であり、三者の心に暗い影を落としたことも事実である。

上田は引退興行の際「猪木さんにお詫びしたい」と語ったといわれ、後に和解したものの、猪木は「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。

山本小鉄は「こんなことあろうがなかろうが、馬場と猪木は遅かれ早かれ決別していた」と語っている。また1992年に大熊元司が没した際、上田に不信感を抱く馬場は大熊の訃報すら伝えなかったため、「祝儀不祝儀の付き合いも断つのか」と涙ながらに激怒した。


 
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ココ・B・ウェア
"Birdman" Koko B. Ware
1957/6/20

ジェームズ・ウェアJames Ware)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テネシー州ユニオンシティ出身のアフリカ系アメリカ人。

全盛時は地元のテネシー地区やWWF(現・WWE)を主戦場に活躍。身長173cmという小兵ながら、跳躍力を活かした空中殺法と陽気なキャラクターで子供ファンの支持を集めた。

来歴

1978年、ジェリー・ジャレット(後のTNA創設者)とジェリー・ローラーが主宰するテネシー州メンフィスのCWAでデビュー。翌年にはアメリカの専門誌『プロレスリング・イラストレーテッド』のルーキー・オブ・ジ・イヤーに選出されている。以降も1980年代半ばまでCWAを主戦場に、ベビーフェイスとヒールの両方のポジションで活動。ミッドアメリカ・ヘビー級王座を通算6回獲得し、ソニー・キング、ボビー・イートン、トミー・リッチ、オースチン・アイドル、ジミー・バリアント、ビル・ダンディーらと激闘を繰り広げた。覆面を被り、黒人マスクマンのスタッガー・リーStagger Lee)またはスウィート・ブラウン・シュガーSweet Brown Sugar)に変身したこともある。タッグではノーベル・オースチンとの黒人コンビ、プリティ・ヤング・シングスPretty Young Things、別名PYTエクスプレス)で活躍、NWA圏のダラスやフロリダにも遠征し、1985年2月にはジェイとマークのヤングブラッド兄弟からフロリダ地区のUSタッグ王座を奪取した。

1986年にWWFと契約。バードマンBirdman)のニックネームを与えられ、オウムのフランキーFrankie)を帯同して入場するショーマン派のベビーフェイスとして売り出される。1987年からはブッチ・リードとの黒人同士の抗争を展開し、3月29日のレッスルマニアIIIで決着戦が行われるも敗退。以降もヒール勢相手のジョバーなど、主にミッドカード専門の前座要員となり、タイトルには縁がなかったものの1994年まで8年間にわたってWWFに在籍した。

その間、1991年1月に当時WWFの日本での提携先だったSWSに来日。1992年からは、同じく空中戦を得意としていた "ザ・ロケット" オーエン・ハートとハイ・エナジーHigh Energy)を結成しタッグ戦線に進出、マネー・インク(テッド・デビアス&IRS)やヘッドシュリンカーズ(サムー&ファトゥ)と抗争した。また、同時期にWWFとの提携を開始したメンフィスのUSWA(CWAの後継団体)にも参戦。ジェリー・ローラーやカマラとタイトルを争った。

WWF退団後はインディー団体を転戦し、1995年6月にはニューイングランド地区のIWCCWでグレッグ・バレンタインを破り同団体認定のヘビー級王座を獲得。その後はセミリタイアしていたが、2000年代よりプロレスリング・ビジネスへのスポット参戦を再開。メンフィス周辺のインディー団体にレジェンドとして登場し、時折試合も行っている。2005年10月には久々にWWEのリングに上がり、『Heat』の枠内にてロブ・コンウェイと対戦した。2008年6月にはジェイク・ロバーツらWWF時代の仲間と共にTNAにも登場。2009年4月、WWE殿堂入りを果たしている。

エピソード

  • 1980年代後半にWWFを共にサーキットしたダイナマイト・キッドは、小柄な黒人選手であるココを「バックウィート」と呼んでいた。これは1930年代に製作されたアメリカのTVシリーズ『リトル・ラスカルズ』(日本では1960年代初頭に『ちびっこギャング』の邦題で放送)に登場する黒人の子供の名前である。バックウィート(Buckwheat)とは「そばの実」の意味で、黒人を指す隠語でもある。キッドには差別的な意思はまったくなく、ココもそのことを理解して、彼らの間でのみ通じるジョークとして受け入れていた。ある晩、ホテルのバーで酒に酔ったポール・ローマがココに向かってこの呼び名を叫び、叩きのめされたことがあるという。
  • 1999年、ハイ・エナジーのパートナーだったオーエン・ハートがブルー・ブレイザーのギミックをヒール・バージョンで復活させていた際、覆面レスラーの"ブラック" ブルー・ブレイザー"Black" Blue Blazer)となってオーエンと対峙するというアングルが組まれた。オーエンの事故死により、このアングルは自然消滅している。
  • リングネームの「B」はジム・ロスが付けたものであり、現在でもお互い友人であると語っている。

獲得タイトル

CWA / USWA
  • NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:6回
  • NWAミッドアメリカ TV王座:1回
  • AWA南部タッグ王座:7回(w / ノーベル・オースチン×3、ボビー・イートン×2、スタン・レーン×1、ダッチ・マンテル×1)
  • USWAユニファイド世界ヘビー級王座:2回
  • USWA世界タッグ王座:1回(w / Rex Hargrove)
その他
  • NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / ノーベル・オースチン)
  • IWCCWヘビー級王座:1回
  • RWFヘビー級王座:1回
  • WWE Hall of Fame:2009年度(プレゼンターはホンキー・トンク・マン)





クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン
Quinton "Rampage" Jackson
1978/6/20

アメリカ合衆国の総合格闘家、俳優。テネシー州メンフィス出身。ウルフスレアMMAアカデミー所属。元UFC世界ライトヘビー級王者。「ランペイジ(暴れん坊)」のニックネームを持つ。ランペイジ・ジャクソンと表記されることが多い。

スラムを多用するパワフルかつ荒々しいファイトで注目されたが、堅実なボクシングテクニックやレスリングの攻防にも優れている。かつては粗暴な発言が多かった(後述)。

来歴

17歳でレスリングを始めるが、競技大会に出場することはなかった。その後、大学時代に友人の勧めで総合格闘技に転向した。

1999/11/13、メンフィスで行われたISCFでプロデビュー。マイク・パイルと対戦し、判定勝ち。

PRIDE

アメリカのローカル大会で連戦連勝していたところ、桜庭和志の相手に抜擢され、2001/7/29のPRIDE.15でPRIDEに初参戦。試合には負けたものの、投げ技で桜庭を追い詰め高い評価を獲得し、PRIDEレギュラーの座を手に入れた。PRIDE参戦当時は廃バスに住んでいるという触れ込みで「暴走ホームレス」というギミックが付与された。実際に廃バスに住んでいた事実はなく、トレーニングのため一時期カリフォルニアに移住した際に経済的に苦境に陥り、アパートを引き払ってキャンピングカーに住んでいたにとどまる。

2001/12/23、PRIDE.18で松井大二郎と対戦するも試合開始早々膝蹴りが松井の金的に入り、反則負け。このことが不満だったらしく後に松井との再戦を度々希望していた。

2002/7/14、K-1に参戦。K-1 WORLD GP 2002 in FUKUOKAでシリル・アビディと対戦し、1Rに右フックでKO勝ち。同年12月31日にINOKI BOM-BA-YE 2002でアビディと再戦するも、再び判定勝ち。

2003/3/16、ヴァンダレイ・シウバの持つミドル級王座挑戦権を賭けたケビン・ランデルマン戦に勝利し、PRIDEミドル級のトップファイターとして認知されるようになった。そして試合終了後シウバへのマイクアピールから大乱闘へと発展、次回大会での王座挑戦は確実になったかのように見えた。

しかし、その後のPRIDE.26ではイリューヒン・ミーシャ、PRIDEミドル級GP1回戦ではヒカルド・アローナ(後にムリーロ・ブスタマンチに変更)、準決勝ではチャック・リデルと続くが、これらの試合にも全て勝利した。長い前哨戦を終えようやくGP決勝にて因縁のシウバと対決。序盤は有利に試合を運んだが、最後はシウバの膝蹴りの連打の前に敗北。準優勝となった。

2004/6/20、柔術世界一の実力者ヒカルド・アローナと対戦。アローナの執拗な寝技の前に完全に試合の主導権を握られるが、三角絞めを狙ったアローナをパワーボムでマットに叩き付け失神KO勝ち。王者シウバへの挑戦権を再度獲得した。

2004/10/31、PRIDE.28で約1年ぶりにシウバと再戦。リングイン後、携帯電話で日本人の彼女にプロポーズするという前代未聞の行動を起こした(プロポーズは成功し結婚していたが、のちに離婚)。試合では王者をあと一歩まで追い詰めるも、またもシウバの膝を顔面に喰らってKO負けを喫した。

2005/2/20、PRIDE.29でシウバの同門ムリーロ・ニンジャを僅差の判定で破った。

そして念願のタイトル獲得に向けて挑んだ4/23のPRIDE GP 2005では、シウバの弟弟子であり、ニンジャの実弟であるマウリシオ・ショーグンの打撃で肋骨を骨折し、1回戦で敗北してしまう。後日、試合中に「肋骨が折れた」と自陣にアピールしたが、タオルを投入してくれなかったセコンドと衝突、長年所属してきたチームオーヤマを離脱することとなった。この試合後にファニート・イバラを正式にトレーナーに迎え入れた。

復帰戦となった同年10/23のPRIDE.30では、横井宏考にTKO勝ち。

2006/2/26、PRIDE.31でユン・ドンシクと対戦し、判定勝ち。この試合でDSEとの契約が終了し、PRIDEを去ることとなった。

WFA

同年7/22に行われたWFA(World Fighting Alliance)でマット・リンドランドと対戦。スラムをお互い繰り出すなどして、判定勝ち。

次戦は、総合3戦目(当時2戦2勝)のランペイジを総合初戦ながら破ったマーヴィン・イーストマンとのリベンジマッチがWFAで予定されていたが、WFA自体がUFCを運営するズッファ社に買収されたため、イーストマン戦はそのままUFCへスライドされることとなった。

UFC

2007/2/3、UFCデビュー戦となるUFC 67で改めてイーストマンと対戦。2ラウンド、クリンチアッパーの連打でイーストマンをKOし、7年越しのリベンジを成功させた。

2007/5/26、UFC 71で王者チャック・リデルと対戦。リデルに強烈なパンチを浴びせ、1ラウンドでTKO勝利。第7代UFC世界ライトヘビー級王者となった。同時にノックアウト・オブ・ザ・ナイトも受賞した。

2007/9/8、UFC 75で初のライトヘビー級王座防衛戦としてPRIDE二冠王者ダン・ヘンダーソンと対戦。全体として試合を優勢に進め、3-0の判定勝利により初防衛に成功した。

2008/1/3、UFC公式サイトにおいてThe 2007 Fighters of The Year第1位に選ばれた。

2008年4月から放送されたリアリティ番組「The Ultimate Fighter」のシーズン7でチーム・ランペイジのヘッドコーチを務めたが、シーズン中はチーム・ランペイジの選手は準決勝までで全員敗退。相手チームに失格者が出たことによりCBダラウェイが敗者復活を果たすも、CBは決勝でアミール・サダローに敗れた。シーズン後の同年7/5に行われたUFC 86では同じくコーチを務めたフォレスト・グリフィンとライトヘビー級タイトルマッチで対戦。0-3の判定負けにより防衛に失敗し王座から陥落した。敗れたもののファイト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。

2008/7/15、アメリカ合衆国カリフォルニア州で当て逃げと無謀運転の疑いで逮捕された。ダナ・ホワイトが25,000ドルの保釈金を払い釈放されるも、再び拘束された。

2008/12/27、UFC 92でPRIDEで2連敗したヴァンダレイ・シウバと3度目の対戦。左フックで失神KO勝ち。ノックアウト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。

2009/3/7、UFC 96でキース・ジャーディンと対戦し、3-0の判定勝ち。ファイト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。

2009年9月から12月にかけて放送された「The Ultimate Fighter」シーズン10でヘッド・コーチを務めた。同じくヘッド・コーチを務めたラシャド・エヴァンスとはシーズン中から舌戦を繰り広げるなど因縁を深めたが、シーズン終了後映画出演(「特攻野郎Aチーム THE MOVIE」)を優先しエヴァンスとのコーチ対決を拒否した。2010/5/29、UFC 114でエヴァンスと対戦し、0-3の判定負けを喫した。

2010年6月にアメリカで公開された「特攻野郎Aチーム THE MOVIE」でバラカス軍曹(コング)役で出演。同年8月の日本公開に合わせ来日も果たし、今後は俳優と格闘家の活動を平行して行いたいと語っている。

2010/11/20、UFC 123のメインイベントでリョート・マチダと対戦し、2-1の判定勝ちを収めたが、戦った両者がこの判定に驚き、ランペイジがマチダに自ら再戦を申し出るという後味の悪い結末になった。。

2011/5/28、UFC 130のメインイベントでマット・ハミルと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

人物

  • 首からチェーンを下げて入場する。
  • 下品で粗野な行動が多かったが2004年にキリスト教に入信、以前よりは大人しくなった。
  • ミルコ・クロコップ、マイク・タイソンと友人である。
  • 怪力ぶりで有名だが、本人曰く、幼い頃、父親の工房で荷物運びを手伝っていたため怪力が身に付いたという。また、ウエイトトレーニングはほとんどやっておらず、ウエイトトレーニングの際、扱うウエイトが軽すぎるため、他の者から笑われたというエピソードすら持つ。

獲得タイトル

  • PRIDE GP 2003 準優勝
  • 第7代UFC世界ライトヘビー級王座

出演

  • 『ミッドナイト・ミートトレイン』(en:The Midnight Meat Train)(2008年) - カメオ出演。
  • 『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』(2010年) - バラカス軍曹(コング)役。




  

















 
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