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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/23


 
 


 
 


ジョージ高野/ザ・コブラ
1958/6/23

ザ・コブラ

高野 讓治、福岡県北九州市出身のプロレスラー、元俳優、元大相撲力士。大相撲時代の四股名は高野。正統派のストロングスタイルで、アントニオ猪木らとも臆することなく挑んでいったファイティングスピリットは往年のレスリングファンに知られている。ただし、「宇宙人」と呼ばれるほどの奇行の多さ、プロレスセンスの決定的な欠如がレスラーとしての大成を阻んだ。近年youtubeやテレビ朝日系『アメトーーク』プロレス特集などでかつてのファイトが再評価される機会が多くなり、幻の悲劇の名選手として再注目されている。

来歴

新日本プロレス入門前

父は岩国基地に所属していたアメリカ海兵隊員で、隊内のボクシング王者にもなっている。大相撲の大鵬部屋に15歳で入門し、高野の四股名で1974年3月場所で初土俵を踏む。しかし1976年1月場所では番付外となり、そのまま廃業する。最高位は序二段34枚目。

新日本プロレス在籍時

大相撲廃業後、1976年8月に新日本プロレスへ入団。デビュー前からTV特撮番組『プロレスの星 アステカイザー』に主人公のライバル役として出演した。この時、菅原文太の弟子として俳優に本格転向する予定もあったが、新日へ復帰し、1977年2月10日にデビューした。そして抜群の運動能力と端正な顔立ちで若手の注目選手となる。その人気には前田日明も強く嫉妬したほどだった。なお、前田や平田淳二(現平田淳嗣)らと同期扱いをされる事が多いが、これは上記の俳優転進〜新日復帰の経緯によるブランクのためである。実際は佐山サトルと同期であり、デビュー戦の相手も彼である。

1982年1月にメキシコへ遠征。二年連続最優秀外国人選手賞を受賞するなど墨国マット界で活躍の後、翌年カルガリーに転戦。自身のヒール志向の実現のため覆面レスラーのザ・コブラとしてダイナマイト・キッドらと抗争を展開する。1983年夏の初代タイガーマスクの突然の新日本プロレス退社によって、その新日本Jr戦線の後継者として凱旋帰国を促されるも一度は辞退。その後師匠アントニオ猪木自らの説得により帰国を決意、11/3の日本デビュー戦でNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得した。その後もジュニア戦線のトップとして活躍した。ザ・コブラとしての詳細な活動については別項で述べる。

1986年6月にザ・コブラは姿を消して海外へ。すぐに覆面を脱いだジョージ高野の姿でヘビー級として「凱旋」。凱旋試合では後楽園ホールの2階席からスポットライトを浴びて登場し、テレビ放映もされた。しかしその後はタイトル戦線に絡むことがなく、活躍の機会もなかった。

1989年にスーパー・ストロング・マシンとユニットを結成。ユニット名はテレビで公募されていたが、結局ジョージ自らが発案した烈風隊という名前となった。3/16、長州力・マサ斎藤組を破り、IWGPタッグ王座を獲得した。ヘビー級転向後初のタイトルである。しかし7/16に長州力と若手の飯塚孝之組に敗れて陥落。その後烈風隊は、目立った活動が見られないまま自然消滅する。

SWS移籍後

1990/4/27のNKホール大会でマシンvsコブラがマッチメイクされたが、高野は4/1に新日本プロレスからSWSへ移籍した。SWSでは3つの道場が設立され、高野は弟で全日本プロレスに移籍していた高野俊二(現高野拳磁)ら主に元新日本勢と「パライストラ」を結成し、道場主(エース)となる。旗揚げ戦のメインイベントにおけるタッグマッチでは、「REVOLUTION」道場主である天龍源一郎からピンフォール勝ちを奪うなど活躍した。

1992年のSWS解散後、ケンドー・ナガサキたちとNOWを旗揚げする。しかし旗揚げ戦後にジョージと俊二は離脱し、二人で1993年にPWCを設立したが、翌年にジョージが離脱。1995年に妻の実家がある北海道釧路市でFSRを設立し、タイガーマスク(佐山サトル)との一騎打ちで旗揚げ戦を行なった。しかしFSRは選手がジョージと若手しかいなかったこともあり、1997年に活動を停止。その後は故郷である九州に戻り、リングから離れた。

2001/4/18のZERO-ONE日本武道館大会で星川尚浩を相手にリングへ復帰。覆面を被りザ・コブラの名前で参戦したが、体重はかつての細身の身体とは見違えるほどに増加していた。以後、同団体に数回参戦。同年の第1回火祭りにはジャスティン・マッコリーの代打として、ジョージ高野の名で覆面を被ったまま参戦。同じブロックの田中将斗と両者リングアウトで引き分けただけの2敗1分に終わった。

2002/4/24の新日本プロレス西日本総合展示場大会で、「30周年スペシャルマッチ」として素顔で登場。SWS移籍後、初めて古巣のリングに上がった。蝶野正洋とタッグを組み、中西学・吉江豊組と対戦し勝利。ジョージ高野としてはこの試合を最後に、リングには上がっていない。(なお、ザ・コブラとしては2004年7月10日PVVC博多スターレーンにおける初代タイガーマスク、ザ・コブラVS維新力、折原昌夫が現時点でのラストマッチとなっている。)同年10/13に東京ドームホテルで開かれた「新日本プロレス創立30周年記念パーティー」ではOBとして壇上で挨拶した。

2004年3月に別冊宝島の企画で受けたインタビュー(『プロレススキャンダル事件史3』所収)において、外壁の施工工事の仕事に関わっている事、レスラーの活動がほとんど出来ていないが、引退はしていない事、活動を休止しているがFSRは消滅していない事を語った。しかし、2007/10/4放送のアメトーーク!(ANN系列)「昭和プロレス芸人」の放送の中で、現在はプロレスラーを引退し、電柱を埋める仕事に就いていることが報じられた。同年12/7にイノキ・ゲノム・フェデレーション公式サイトで「猪木ミニ・ミュージアム」の館長に就任したことが発表されている。またNPO法人設立などを経て、2009年に福岡市にあるシステム開発会社の統括ジェネラルマネージャーに就任している。

ザ・コブラ

ザ・コブラ(The Cobra)は、かつて高野が名乗っていた覆面レスラーのリングネームである。初代タイガーマスクが突如引退を表明し新日本プロレスのリングを去ったため、その穴を埋めるべく用意された。カナダ・カルガリーマットでデビュー。ニックネームは「謎のアストロノーズ」、入場曲は「THE HEAT GOES ON」(エイジア)。

当初、『ワールドプロレスリング』で日本デビュー前から正体不明の謎のマスクマンとして紹介され、帰国時には成田空港でマスク姿のザ・コブラに突撃インタビューをする等、団体の期待は高かった。しかし、一部マスコミがザ・コブラ誕生の経緯を報じており、少なからず正体は知られていた。日本デビューは、1983/11/3に蔵前国技館で行われたザ・バンピート戦で、空位となっていたNWA世界ジュニアヘビー級王座が掛けられた。コブラは白いタキシードを身につけ、白煙の中をタイガーマスクやミル・マスカラスなどの有名覆面レスラーのマスクを被った若手選手が担ぐ神輿に乗って入場し、コーナーのトップからバック宙返りでリングインした。

しかし対戦相手のデイビーボーイ・スミスが、試合開始前に新日本プロレスに命じられたギミックに納得しておらず、「ザ・バンピート」なる覆面レスラーのマスクを自ら脱ぎ捨て正体を明かし、そのままコブラをリング下に投げ捨て、攻撃を加えるなど、波乱を予想させる出だしを見せた。

田中秀和リングアナによってスミス、コブラのコールがされた後、ようやく試合が開始。しかしグラウンド戦が続くうちにスミスがコブラの技を受けようとしない行為が目立ちはじめ、さらにはコブラが仕掛けたトップロープ越しのノータッチプランチャをスミスが交わしたため、コブラは鉄柵と床へ激突し、両膝に大ダメージを受けた。両者共に決め手を欠く試合展開は長期戦となり、技の失敗もあって結果的にこのデビュー戦は凡戦となる。このことが初代タイガーマスク対ダイナマイト・キッド戦の再来を期待したファンや関係者を落胆させ、いかに初戦のインパクトが重要であるかを示した格好となった。

後日のテレビ放映では、試合途中からダイジェストとなっている。またプランチャを仕掛けたところでは、スミスが交わしたところでストップし、鉄柵に衝突する場面がカットされた。またテレビではカットされているが、このデビュー戦で場内から「高野コール」が起き、必然的に正体が知られることとなった。

コブラはその後NWA世界ジュニアヘビー、WWFジュニアヘビー級の二冠王となるが、団体の都合や業務提携の解消から1985年に2本とも返上。それを受け、IWGPジュニアヘビー級王座が創設。リーグ戦が開かれ、1986年2月6日に両国国技館で越中詩郎と初代チャンピオンの座をかけて対戦するが、あえなく敗退。さらに越中を破って第2代チャンピオンとなった高田伸彦とも同年6/17に愛知県体育館で対戦したが、両者リングアウトでタイトル獲得はならなかった。この試合を最後に、「キング・コブラになって帰ってくる」と言い残し、ザ・コブラは消えた。しかし実際は、結婚を発表し素顔に戻っただけだった。

デビュー戦で期待以上のインパクトを残した初代タイガーマスクと、スミスのギミック破りに遭い怪我をしたザ・コブラは常に比較され、アニメも同時放送されメディアミックスが成功した初代タイガーマスクのようなチビッコファンのアイドルにはなれなかった。しかし、その美しい体格と群を抜く運動能力で20代のファンには人気が高かった。また、キッドやスミス、小林邦昭、ヒロ斎藤などの好敵手が相次いで他団体へ移籍していったことよる挑戦者不足や、185cmという長身がジュニア戦士としてはマイナスとなり、キャラクターとしては大成しなかった。なお「スコードロン・サンダー」なる必殺技を持つことがプロレスマスコミによって報道されていたが、その完成形は一度も披露されなかった。

逸話

  • 端正な顔立ちだが鼻骨がない。若手時代に前田日明にキックで砕かれ、骨を抜いてしまった。昔の新日本の激しさを象徴する逸話となっており、押すとグニャグニャしているためインタビューなどで記者を驚かせる。
  • 若手時代、風呂上りに鍛え抜かれた肉体を鏡の前で誇示していた。
  • ザ・コブラ時代には膝の怪我に悩まされていた。知人より「よく効く整体がある」と骨法整体を勧められたことをきっかけに通い始め、後に、猪木の骨法特訓(対レオン・スピンクス戦の前)、山田恵一・船木優治らの骨法入門へと繋がる。
  • 初対面のアントニオ猪木をストロング小林と間違えた。
  • タッグリーグ戦に木村健悟と組んでエントリーした際、アントニオ猪木はこのチームとの対戦を非常に嫌がった。また高野のツームストーン・パイルドライバーで猪木は数日間首を痛めたことが、田中秀和の旅日記で紹介されている。
  • 『プロレスの星 アステカイザー』では当初、主役を予定されていたが、スケジュール的に不可能という事で断念したという。最終的に主人公のライバルという形で出演した。

獲得タイトル

  • IWGPタッグ王座
  • NWA世界ジュニアヘビー級王座
  • WWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座
  • 英連邦ミッドヘビー級王座

 
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ニック・トンプソン
Nick Thompson
1981/6/23

アメリカ合衆国の総合格闘家。ミネソタ州ミネアポリス出身。ミネソタ・マーシャルアーツ・アカデミー所属。元BodogFightウェルター級王者。

来歴

高校時代にレスリングを始め、ウィスコンシン大学では哲学と経済学を専攻する傍ら、レスリングの練習を続けていた。この時期に総合格闘技に初めて触れ、デイブ・ストラッサーやロン・フェアクロスらと練習を始め、バーなどで試合をこなしていた。卒業後はウィスコンシン大学法科大学院(2008年に博士課程修了)に進学、ミネソタ・マーシャルアーツ・センターに練習環境を移し階級もウェルター級に落とした。

2005/6/11、D.O.G IIで岡見勇信と対戦し、1R序盤に肘のケガによりギブアップ負け。

2007/4/14、BodogFightでエディ・アルバレスと対戦し、パウンドでTKO勝ち。BodogFightウェルター級王座を獲得。

2008/3/5、戦極旗揚げ戦戦極 〜第一陣〜の第1試合でファブリシオ・"ピットブル"・モンテイロと対戦し、判定勝ち。

2008/7/26、「EliteXC: Unfinished Business」でジェイク・シールズと初代EliteXCウェルター級王座決定戦で対戦。変形のフロントチョークで一本負け。

2010/8/22、SRC14のSRCウェルター級グランプリ1回戦で奥野"轟天"泰舗と対戦し、右フックでKO負けを喫した。

獲得タイトル

  • BodogFightウェルター級王座





クレイジー・ルーク・グラハム
"Crazy" Luke Graham
1940/2/5 - 2006/6/23

ジェイムズ・グラディ・ジョンソンJames Grady Johnson)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ジョージア州ユニオンポイント出身。生年は1936年ともされる。

ゴールデン・グラハムズGolden Grahams)ことグラハム四兄弟(ジェリー、エディ、ルーク、ビリー) の「三男役」として活躍した。兄弟の中では一番の巨漢だが、彼らが「兄弟」であることはギミック上の設定であり、実際には血縁関係はない。

来歴

1963年、ドクター・ジェリー・グラハムの弟としてルーク・グラハムを名乗り、スチュ・ハートが主宰するカナダのカルガリー地区で活動。フロリダに転戦したエディ・グラハムに代わるジェリーの新パートナーとなり、1964年6月にはニューヨークのWWWFでUSタッグ王座を獲得した。

1965年にジェリーとのコンビを一時解消し、同年3月に日本プロレスに初来日。帰国後はロサンゼルスのWWAに定着し、7/23にペドロ・モラレスからWWA世界ヘビー級王座を奪取する。同時期、日本の豊登も1964年12月にザ・デストロイヤーから奪取した同王座のベルトを保持しており、2本のベルトが混在する事態を招いた(飛行機嫌いの豊登が渡米を渋りロサンゼルスでの防衛戦を行わなかったため、WWA本部が豊登の王座奪取を無効にしたとされる)。同年9月20日、ロサンゼルスに遠征してきた豊登を下し、王座統一を果たしている(しかし、豊登の在位はWWAのタイトル史には記録されていない)。

1970年代に入るとWWWFに復帰し、キャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーにターザン・タイラーと金髪の野獣コンビを結成。1971年6月には、ルイジアナ州ニューオーリンズで行われたとされる架空のトーナメント決勝戦において、ディック・ザ・ブルーザー&ザ・シークを破り優勝したとして、WWWF世界タッグ王座の初代チャンピオン・チームに認定された。同年11/12にもザ・モンゴルズ(ジート&ベポ)からインターナショナル・タッグ王座を奪取し二冠王となったが、12/6のMSG定期戦でカール・ゴッチ&レネ・グレイに敗れ世界タッグ王座から陥落。

以降はジョージアのGCW(ジム・バーネット主宰)やテネシーのNWAミッドアメリカ(後のCWA)などNWAの南部テリトリーを転戦し、リッパー・コリンズとの金髪タッグなどで活動。1974年1月にはNWAルートで全日本プロレスに来日している。全日本には1978年の第6回チャンピオン・カーニバルにも出場したが、勝ち星は大熊元司からの1勝のみという惨憺たる戦績に終わった。

1980年はプエルトリコのWWCやビル・ワット主宰のMSWAで活動。1981年2月には、当時MSWAと接点を持っていた国際プロレスに来日。ラッシャー木村との金網デスマッチも行われた。

キャリア末期の1984年には中西部のセントラル・ステーツ地区でバズ・タイラーやテッド・オーツとセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を争った。1980年代後半に引退し、タクシードライバーに転身。近年では2001年にアーカンソー州のインディー団体 "Galaxy Championship Wrestling" に登場し、彼の「息子」という設定のルーク・グラハム・ジュニアとチームを組んだ。

2006年6月23日、心不全により死去。66歳没。

獲得タイトル

WWA
  • WWA世界ヘビー級王座:1回
  • WWA世界タッグ王座:1回(w / ゴリラ・モンスーン)
WWWF
  • WWWF USタッグ王座:1回(w / ドクター・ジェリー・グラハム)
  • WWWF世界タッグ王座:1回(w / ターザン・タイラー) ※初代王者
  • WWWFインターナショナル・タッグ王座:1回(w / ターザン・タイラー)
NWA
  • NWAハワイ・ヘビー級王座:1回
  • NWAハワイ・タッグ王座:1回(w / リッパー・コリンズ)
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWAジョージアTV王座:1回
  • NWAメイコン・タッグ王座:1回(w / ムーンドッグ・メイン)
  • NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:2回
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(w / カール・フォン・ブラウナー)
  • NWAテネシー・タッグ王座:1回(w / リッパー・コリンズ)
  • NWAアラバマ・タッグ王座:1回(w / リッパー・コリンズ)
  • NWA世界タッグ王座(デトロイト版):1回(w / リッパー・コリンズ)
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
WWC
  • WWCカリビアン・ヘビー級王座:1回
  • WWC北米タッグ王座:2回(w / ゴージャス・ジョージ・ジュニア、ブルドッグ・ブラワー)




  

















 
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