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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/25


 
 


 
 

水本 豊
1967/6/25

ミヤギテレビの社員で元アナウンサー。
全日本プロレス中継

 
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中尾"KISS"芳広
1972/6/25

日本の総合格闘家、元レスリング選手。東京都出身。TEAM TACKLER所属。

来歴

東京工業高校、東洋大学卒業後、陸上自衛官として自衛隊体育学校に在籍し、レスリングフリースタイルの選手として活躍。国内では数々の優勝実績を残し、アテネオリンピックのレスリング代表の有力候補であった。だが2003年末にオリンピック出場を断念、格闘家に転向した。

総合格闘技デビューとなった2003年12月31日のK-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!では、バルセロナオリンピック柔道95kg級金メダリストであるダビド・ハハレイシビリと対戦し、パウンドによりタップアウト勝ち。

2004年5月22日、K-1 ROMANEXでドン・フライと対戦するも、偶然のバッティングによるフライの出血によって無効試合となった。その後大晦日のK-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で再戦し、判定勝ちを収めている。

2005年6月14日、K-1ルール初挑戦。K-1 WORLD GP 2005 in HIROSHIMAで開催されたJAPAN GPの1回戦でボブ・サップとK-1ルールで対戦し、判定負け。

2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!でヒース・ヒーリングと対戦。試合前のリング中央での睨み合いの最中に、中尾はヒーリングの唇にキスをしてしまう。これによって激怒したヒーリングから不意の右フックをまともに顎に受け失神。試合続行不可能となり、担架で控室へ運ばれた。裁定はヒーリングの反則負けであったが、その後K-1イベントプロデューサー谷川貞治が「過剰な挑発をした中尾選手にも非がある」とし、無効試合に改められた。

中尾は過度のダメージのせいで病院のベッドで年越しを迎えるハメになったが、病院のベッドで中尾が見た初夢はまたもや「ヒーリングにキスをした」夢であった。ヒーリングへの復讐に燃えており、「KO勝ちした後で、ダウンしているヒーリングにキスをすることが目標だ。」と週刊誌の取材に答えた。だが、2006年3月に再戦のオファーがあるも断った。

2006年6月、PRIDEへの電撃参戦を表明。このころから中尾は「キス魔」「バイセクシュアル」のキャラクターを前面に出すようになり、移籍直後の会見でも対戦相手についてニヤリと笑いながら「カッコいい男がいい」とコメント。DSE榊原信行社長もこれを受けて「いい男を用意するように言われた。またキスがしたくなる様なイケメン選手を用意したい」と返し、日本人選手である中村和裕を対戦相手に指名した。また中尾は前述の「キス騒動」を受けて、リングネームを中尾"KISS"芳広と改名した。なお、中尾の同性愛的言動はキャラクターであり、実際にゲイというわけではない。

2006年7月1日、PRIDEデビューとなるPRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUNDのワンマッチでイ・ウンスと対戦し、膝蹴りで左目下を負傷させTKO勝ち。

2006年9月10日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 決勝戦のワンマッチで中村和裕と対戦。両者が噛み合わず全く盛り上がらない試合となり、判定0-3で敗北し会場から激しいブーイングを浴びた。さらに、試合後の高田延彦に「最低とは言わないが、あのような試合を見なければならないハメになってしまったことは課題と受け止めて、今後に向けてはしっかり修正していきたい」と苦言を呈された。

2007年4月8日、PRIDE.34でエジソン・ドラゴと対戦。1R終盤、袈裟固めからの絞めで一本勝ち。

2008年5月18日、戦極初参戦となった戦極 〜第二陣〜でBIG・ジム・ヨークと対戦。2R右フックでダウンを奪いパウンドで追撃しTKO勝ち。2008年12月22日に結婚。

2009年1月4日、戦極の乱2009でアントニオ・シウバと対戦し、左膝負傷によりTKO負け。

2010年3月7日、SRC12で戦闘竜と対戦し、パウンドによるTKO勝ち。

2010年12月30日、戦極 Soul of Fightでデイブ・ハーマンと対戦し、0-3の判定負けを喫した。

人物

  • 以前は、エドワード・エルガーの「威風堂々」を入場曲に使用していた。SRC12から自身のリングネームである、「キス」という歌詞が多用されている現在のものに変更している。

主な獲得タイトル

  • 天皇杯全日本選手権 フリースタイル 97kg級 優勝(2001年)
  • 明治乳業カップ全日本選抜選手権 フリースタイル 97kg級 優勝(2002年)
  • 天皇杯全日本選手権 フリースタイル 97kg級 優勝(2002年)
  • 明治乳業カップ全日本選抜選手権 フリースタイル 96kg級 優勝(2003年)





白鳥 智香子
1973/6/25

日本の元女子プロレスラー。身長165cm、体重58kg。血液型B型。東京都目黒区出身。本名は長谷川 智香子(はせがわ ちかこ。ただし現在は結婚しており、姓は別になっている)。

経歴・戦歴

1991年
  • 10/4、東京・後楽園ホールにおいて、対玉田りえ戦でデビュー。
  • 大阪プロレスにも所属していた時期もあり、現役引退後は同団体のフロント入りし、現在はゼネラルマネージャーを務めている。

テレビ

  • 仮面ライダークウガ(2000年、テレビ朝日) - ズ・メビオ・ダ人間体役

タイトル歴

  • 初代CMLL JAPAN女子

エピソード

  • 『新婚さんいらっしゃい!』(朝日放送系)に夫のタイガースマスクと一緒に一般人として出場したことがある。

白鳥智香子
引退記念
白鳥 智香子1





レイラ・エル
Layla El
1978/6/25

イングランド出身のダンサー、モデル、プロレスラーである。現在はアメリカ合衆国のプロレス団体WWEに所属している。2006年のディーヴァサーチ優勝者である。

来歴

2006年のディーヴァサーチに優勝後、WWEと契約。9月よりバックステージのインタビュアーとしてスマックダウンに登場した。

2007年1月、ECWに移籍。ECWではケリー・ケリー、ブルックと共にエクストリーム・エクスポーゼExtreme Exposé)というユニットを組み、主に試合の合間などにダンスを披露していた。6月にザ・ミズがECWへ移籍してくると、他のメンバーと共にミズと行動を共にするようになるが、11月頃からケリーと仲間割れして抗争を開始。同時期にブルックが解雇となったため、エクストリーム・エクスポーゼは自然消滅した。

2008年、追加ドラフトによりRAWに移籍。ジェイミー・ノーブルに言い寄られるストーリーが展開された後、9月からは同じ英国人のウィリアム・リーガルに付きそって行動した。

2009年の追加ドラフトではスマックダウンに復帰。移籍後はダンスバトルで敗れたことをきっかけにイヴ・トーレスと抗争を開始した。10月にスマックダウンにミッキー・ジェームスが移籍してくると、ミシェル・マクールと共にミッキーに対して執拗な嫌がらせを行った。

2010年3月からはベス・フェニックスと敵対。ミシェルと行動を共にするようになってから、主にミシェルを手助けするポジションにいたが、5/14に行われた2対1のハンディキャップマッチで女子王者のベスからフォールを奪い、自身初のWWE女子王座を獲得。後にミシェルとの共同王座となり、王座戦ではどちら一方が闘うことになった。

NXTシーズン2ではカヴァルを指導するプロを担当し、ミシェルと共にレイ・クールLay-Cool)として登場した。

8月からミシェルと共にRAWのディーヴァズ王者のメリーナと抗争。9月のナイト・オブ・チャンピオンズにてミシェル対メリーナの王座統一戦でミシェルが勝利し、共同統一ディーヴァズ王者となった。その後はナタリヤと抗争しタイトルを防衛していたが、11/21のサバイバー・シリーズでのハンディキャップマッチ形式の統一ディーヴァズ王座戦で敗れ、王座から陥落した。

獲得タイトル

  • 2006年ディーヴァサーチ優勝
  • WWE・女子王座 : 1回

  



後藤 洋央紀
1979/6/25

新日本プロレス所属。三重県桑名市出身。

来歴

三重県立桑名工業高等学校時代は柴田勝頼と同級生であり、共にレスリング部を立ち上げていた。

国士舘大学へ進学後、レスリングで上位入賞を果たした。大学時代の後輩にプロレスリング・ノアの伊藤旭彦、先輩にプロレス同期入門の山本尚史がいる。大学卒業後新日本プロレスに入団するが、肩の怪我のため一旦新日本を退団した。新日本が経営する闘魂ショップ名古屋店併設の道場でトレーニングを重ねた後に2002年11月に新日本プロレスに再入団を果たした。2003/7/6の岐阜産業会館における田口隆祐戦でデビュー。

同年にはデビュー戦で対戦した田口と組み、邪道、外道とIWGPジュニアタッグ王座決定戦を争うなどタッグで活躍。2004年のヤングライオン杯ではその田口に敗れ涙を飲んだが、翌年2005年ヤングライオン杯で見事優勝を果たした。

同年4月にC.T.Uに加入すると天然キャラを見出され、先輩の獣神サンダー・ライガー、邪道、外道らを差し置いてリーダーとして(形の上だけ)活動。5月に稔と組んで金本浩二&井上亘組からIWGPジュニアタッグ王座を獲得。エル・サムライ&田口組に敗れるまで3度の防衛を果たした。12月の「夢☆勝ちます」では棚橋弘至の持つIWGP U-30無差別級に挑戦するも敗北。

2006年の4月と5月にそれぞれTNAへ遠征。8月にはメキシコへ無期限海外遠征に出発。

2007年に髪を伸ばし今の容姿に。同年3/4にはウルティモ・ドラゴン、TAJIRIらが参戦した闘龍門MEXICO自主興行で行われた8人参加トーナメント「〜YAMAHAカップ NWAインターナショナルJrチャンピオンシップトーナメント〜」でショッカーを破り優勝。22年ぶりに復活したNWAインターナショナルジュニア王座を載冠した。それまで91kgだった体重を同年の6月に103kgまで増量。8/26「LAST OF C.T.U」興行で凱旋帰国予定だったが、棚橋弘至の欠場を受け日程が前倒しとなり、8/25の大会で凱旋試合。ヘビー級転向を宣言した。

2007年の10月に両国国技館でかつての師匠天山広吉とシングルで対戦。大流血の末、必殺の昇天で勝利。この試合で後藤が繰り出した変形バックブリーカー(後の牛殺し)で天山は頸椎負傷し長期欠場に。11月にはついに棚橋弘至が持つIWGPヘビー級ベルトに初挑戦。31分を超える文字通りの死闘を繰り広げたが、テキサス・クローバーホールドで敗北。

2008年の1月にあっては、7年と8か月ぶりに新日本へ降臨したグレート・ムタと初遭遇を果たし、変幻自在の極悪殺法に敵わずムーンサルトプレスであえなく敗北を喫した。3月に行われたNEW JAPAN CUP(NJC)では棚橋弘至との対戦がいきなり1回戦で実現。“事実上の決勝戦”と称された戦いだけあって両者激しい攻防戦を繰り広げたが、最後は首固めで敗れリベンジは失敗に終わった。

同年8月にG1 CLIMAXに初出場。自身も「初出場・初優勝を狙う」と発言しており優勝候補と目されていた。初戦の川田利明戦で黒星を喫するも、その後は着々と白星を重ねていき、8/17に見事決勝進出を果たした。決勝戦では真壁刀義と対戦。場外でのイス攻撃とG・B・Hのセコンドの介入などにより流血を負いながらも最後は昇天・改で勝利。2003年7月にデビューしてからわずか5年のキャリア、そして初出場ながら“夏男”の称号を獲得した。後日8/31、全日本プロレスでは史上初となるIWGPヘビー級王座戦が行われ、王者武藤敬司と対戦。追い込む場面がいくつか見られたもののキャリアの差もあったのか、最後はムーンサルトプレスで敗退。

その後、真壁刀義、矢野通が所持するIWGPタッグ王座に的を絞り、9/5に中邑真輔とタッグを組み挑戦。ところが、試合終盤同じRISEメンバーだったはずのジャイアント・バーナードとリック・フーラーが乱入しG・B・Hと結託し、最後は真壁のキングコングニー・ドロップを受け惨敗。試合後、G・B・H勢とバーナード、フーラーに袋叩きされるもここで救出に駆けつけた棚橋弘至と握手を交わす。本隊と共に打倒G・B・Hをアピールすると10月13日にRISEを裏切ったバーナードと一騎打ちを行う。あと一歩のところまで追い詰めたが、やはりセコンドの介入があり最後はバーナードライバーで沈んだ。

2009年の1月にプロレスリング・ノア対抗戦に出陣。中邑と共に“ノアの象徴”三沢光晴、杉浦貴組と対戦。最後は中邑が杉浦を飛びつき式腕ひしぎ逆十字固めでタップを奪った。「文句があるならいつでもやってやる」という中邑の発言に対し、三沢もホームアウェイ問わず団体対抗戦継続の意思を表した。

3月に行われたNJCには2年連続で出場。1回戦でカール・アンダーソンを下し、2回戦では同期の中邑、準決勝で第三世代最後の砦とも言われた永田裕志に勝利し、決勝戦でジャイアント・バーナードを変型腕固めで1本勝ちを収め、昨年のG1優勝に続き春夏連覇を果たした。

5月になると8年振りに“レスリングどんたく”と冠が付けられ、3年ぶりに開催した福岡国際センターでNJC覇者として棚橋弘至とIWGPヘビー級王座を賭けて再び対戦。3度目の正直を誓うもやはり執念が棚橋の方が上だったかハイフライフローであえなく敗戦。5/5では岡田かずちかと組み、杉浦貴、青木篤志組と対抗戦を行う。ハードヒットな打撃戦が展開され、最後は岡田が杉浦のオリンピック予選スラムで轟沈。6月20日では杉浦とのシングルマッチが組まれたが、敗北を喫す。さらに8月のG1 CLIMAX 2009公式戦で再び対決するも、やはり最後は雪崩式オリンピック予選スラムで惨敗。この敗戦で屈辱の予選落ちとなった。

それから程なくして真壁刀義と組み矢野通、ZERO1の田中将斗とハードコアルールマッチで対戦。今年のG1覇者と昨年の覇者の強力タッグだったが、矢野と田中が凶器をうまく使いこなし、終始ペースを握った。最後は田中のスライディングDの前に撃沈した。リベンジを誓うべく11/8、田中と初のシングルマッチ。一気に攻め込んでいき必殺技を狙うも田中は全てクリアし、最後は側頭部へのスライディングDを叩き込み敗戦。「もう一回やらしてくれ」と後藤はさらに対戦を要求し、12月ついに田中から昇天3連発でピンフォール勝ちを収めた。

2010年の1月から杉浦貴とGHCヘビー級王座を賭けて対戦するも足首固めで敗退し3連敗を喫した。2月にはハードコアルールで再び田中将斗と対戦。エルボーパッドに鉄パイプを仕込んだスライディングDをまともに喰らい無念の敗北。3月のNEW JAPAN CUPでは前年度優勝者だったことからシード権を獲得し出場。高橋裕二郎に勝利に収め、準決勝で改めて田中を撃破した後、決勝戦で真壁刀義と対戦。これに勝利し史上初となる2連覇を達成した。 4月4日、IWGPヘビー級王者中邑真輔に挑戦。同期のライバル対決として注目を浴びるも最後はボマイェで防衛を許し、試合終了後のバックステージで田中が現れ再戦を言い渡される。 5/3、博多で田中と4度目の対戦を行い、昇天・改で勝利し田中との抗争は2勝2敗の戦績で終える。 10/11に両国で中邑真輔と対戦。昇天・改で勝利してIWGPへ名乗りを上げる。小島聡が真壁からIWGPを奪取した際、新日プロレスの管林社長の指名で小島に挑戦者表明をするも、小島がこれを頑なに拒否し続ける。結局会社側が当時のIWGP王者小島聡の指名をのむ形で、挑戦者が中邑に変わってしまう。 12/11の大阪で棚橋弘至を相手に、2011年1月4日のレッスルキングダムでのIWGP王者決定戦の挑戦者決定戦を行うも、棚橋のハイフライフローに敗れてしまう。

2011年1月4日、東京ドームのレッスルキングダムにて、12月に密かにTNA無期限修業から帰国した岡田かずちかをタッグパートナーにして、杉浦貴・高山善廣組と対戦するも、岡田が高山のエベレストジャーマンで敗北してしまう。 2/20の仙台大会で、一度もIWGPのベルトを巻いていないことに怒りを抱き、「あんたは新日の四天王にふさわしくない」と真っ向から後藤を全否定した後輩、内藤哲也と対戦し、これに勝利する。その後、3連覇達成を目指しNJCに出場するも、中邑真輔に敗れた為予選敗退、3連覇実現は失敗に終わってしまう。また、タッグを組んでいた棚橋と確執が発生、試合後棚橋にヘッドバッドをお見舞いし、単身メキシコのCMLLに修業へ向かった。CMLLでは同年4/29にウルティモ・ゲレーロの持つCMLL世界ヘビー級王座に挑戦。奪取は失敗するも、CMLLにおけるベストバウトクラスの闘いを見せた。

5/3のレスリングどんたくにて電撃帰国、CMLL時の黒袴姿で新しい入場曲と共にタマ・トンガをパートナーにしたチーム「荒トンガ」で出場、NOHAの杉浦貴・橋誠組と対戦。昇天・改で橋から3カウントを取り、IWGP戦で中邑真輔から防衛を果たした棚橋弘至にヘッドパッドをお見舞いして挑戦者表明する。

人物

  • 「週刊プロレス」で邪道が執筆する「CTU珍遊日記」では笑いを提供するキャラとして毎回登場し、「アホの後藤」呼ばわりされている。
  • 趣味は『pop'n music』をすることと「週刊プロレス」で発言している(海外遠征前)。
  • 2009/10/15に結婚・入籍していたことが、翌2010年1月の契約更改の際に明らかになった。2010年中に結婚式を挙げたいとの意向を示している。

タイトル歴

  • IWGPジュニアタッグ王座(第15代、パートナーは稔)
  • NWAインターナショナルジュニアヘビー級王座
  • 第10回ヤングライオン杯 優勝
  • G1 CLIMAX2008 優勝
  • NEW JAPAN CUP 2009・2010 優勝
  • J SPORTS CROWN 2010 優勝(パートナーは田口隆祐・プリンス・デヴィット)

入場テーマ曲

  • 「覇道」 作曲:石川一宏(KAZSIN)
    2011年のCMLL修業の最中に自身の全てを変えるという意味で
    入場曲をこの曲にする。2011年5月3日の福岡大会にて初披露する。
  • Rock Me Wild
  • 「秀吉」テーマ音楽
  • Where Are We Runnin' ? / Lenny Kravitz
  • ヤングライオン時代は1972年 - 1979年の新日本プロレスのオフィシャルテーマ曲であった。






ミスター珍
1932/10/12 - 1995/6/25

ミスター珍


日本のプロレスラー。

本名は、出口 雄一(でぐち ゆういち)。兵庫県宝塚市出身。身長168cm、体重83kg(全盛期)。

くちひげがトレードマーク。プロレス界から離れていた一時期、テレビタレントや俳優としても活動した。

経歴

現役前期時代(国際柔道協会・全日本プロ協会・日本プロレス)

兵庫県警察の機動隊に勤務し柔道の選手として活躍した後、木村政彦や山口利夫が立ち上げた国際柔道協会(プロ柔道)に参加。その後、山口利夫と行動を共にし全日本プロレス協会に参加、P・Y・チャン(トージョー・ヤマモト)とのタッグで人気を呼ぶも、同団体は興行に失敗し崩壊。1955年に日本プロレスへ入団した。チャイナ服を着た中国人スタイルや日の丸に神風と書かれた鉢巻を締める和風スタイルで、下駄を凶器として使用する悪役レスラーとして一世を風靡した。知名度が上がったこの時期、テレビタレントや俳優としても活動するようになり、1971年に日本プロレスを退団。

現役中期時代(国際プロレス)

胃潰瘍の手術の影響で事実上引退したと思われていたが、国際プロレスに参戦し現役復帰。この時期に初のアメリカ遠征を経験し、テネシー州でトージョーと再会しアメリカ南部地区を転戦して人気を博し、テキサス州にて同州認定世界タッグ王座を獲得する。カナダではミスター・ヨトとして活躍。凱旋帰国の際もミスター・ヨトとして外人側で出場した。1980年には鶴見五郎と大位山勝三の「独立愚連隊」のマネージャー役も務めた。しかし、国際プロレスは1981/8/9の北海道・羅臼大会で活動を中止したため、再び事実上引退した(この時の対戦相手は冬木弘道)。

その後、「現役最古参・最高齢レスラー」という肩書きで、週刊プロレスにコラムを連載した。

晩年時代(FMW)

1993/7/16、60歳を超える高齢でFMWに参戦し、正式デビューを控えた練習生の田中正人(現:田中将斗)と対戦(田中の正式デビュー戦は1993/7/23のリッキー・フジ戦)。突如現役復帰を果たし、日本人現役最高齢レスラーとなった。

第一級身体障害者に認定される程、重度の糖尿病を長年患っており、人工透析を頻繁に受けなければ生命の維持が困難な身体であるとマスコミで公表。度々、現役の引退と復帰を繰り返した原因であることを明かした。大仁田厚の厚意で、人工透析を続けながらイレギュラーでFMWの前座試合に参加。孫のような世代の若手選手を相手に、全盛期の下駄以外にもゴムを凶器として使用するコミカルな試合を展開し、ミスター珍の全盛期を知らない若い世代のファンも喜ばせていたが、病状が悪化し、1995年6月25日に慢性腎不全により死去。62歳没。

死後、そのレスラーとしての壮絶な半生が驚きももの木20世紀で特集された。

獲得タイトル

  • テキサス州認定世界タッグ王座

出演作

映画

  • こんにちは赤ちゃん(1964年、日活)
  • 暗黒街全滅作戦(1965年、東宝)
  • 昭和残侠伝 一匹狼(1966年、東映) 他

テレビドラマ

  • 忍者部隊月光 第25、26話「黒豹作戦 - 前・後篇 - 」(1964年、フジテレビ / 国際放映) - レオ
  • ザ・ガードマン 第24話「ガードマン空へ」・第25話「続ガードマン空へ」(1965年、TBS / 大映テレビ室)
  • 泣いてたまるか 第1話「ラッパの善さん」(1966年、TBS / 国際放映)
  • キイハンター 第68話「殺されに来た黄金の男」(1969年、TBS / 東映)
  • 宇宙鉄人キョーダイン 第18話「出たーっ!! 闇から襲う狼人間」(1975年、毎日放送 / 東映) - 狼人間
  • 非情のライセンス 第2シリーズ 第89話「兇悪犯指名手配」(1976年、NET / 東映) - 赤根組幹部
  • ベルサイユのトラック姐ちゃん 第16話「女は裸で一人旅」(1976年、NET / 東映)
  • ザ・カゲスター 第21話「ゴリラ怪人大あばれ作戦!」(1976年、NET / 東映) - 珍田
  • 快傑ズバット 第7話 「悪い風だぜ港町」(1977年、東京12チャンネル / 東映) - グレートコング
  • ジャッカー電撃隊 第22話「赤い大逆転!!自爆軍団を攻撃せよ」(1977年、テレビ朝日 / 東映) - スクラップ軍団員
  • 西部警察PART-Ⅲ第2話「護送」(1983年、テレビ朝日 / 石原プロ)- 小坂啓造

著作

  • 糖尿地獄からの生還―失明の危機、人工透析、白内障…26年におよぶ糖尿病との執念の闘い(1994年、ザ・マサダ刊 )













 
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