本文へスキップ
 


 
 
”重要なお知らせ”


2011/9/1よりパワーアップでページ独立!

 
 


 
 
プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/26


 
 


 
 

J・J・ディロン
J.J. Dillon / James J. Dillon
1942/6/26

ジェイムズ・モリソンJames Morrison)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、マネージャー、ブッカー。ニュージャージー州トレントン出身。

ヒールの悪徳マネージャーとしての実績で知られ、日本では「極悪仕掛人」の異名を持つ。ブッカー業務などエグゼクティブとしても手腕を発揮し、1990年代はWWFとWCWの両団体で要職を務めた。

来歴

1962年、地元のニュージャージーでプロレスラーとしてデビュー。ジョニー・バレンタインを意識した金髪の若手ヒールとして売り出される。1968年からはオハイオなど五大湖地区に進出し、以降は1970年代全般にかけて、カナダ大西洋岸のマリタイム地区(ノバスコシア、ニューブランズウィック)やアメリカ合衆国南部のNWA圏(アマリロ、フロリダ、ジョージア、ミッドアトランティック)などを転戦。アマリロではザ・ファンクス、キラー・カール・コックス、テッド・デビアスらとタイトルを争い、モンゴリアン・ストンパーやカン・フー・リーのマネージャーも担当した。

1982年頃からフロリダ地区で本格的にプレイング・マネージャーとして活動するようになり、ブルーザー・ブロディ、ケンドー・ナガサキ、アウトロー・ロン・バスらヒール勢をコントロール、同地区のエースだったダスティ・ローデスとの抗争を指揮した。

1984年より、ローデスと共にフロリダからミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)に移籍。現役を引退してマネージャーおよびブッカー業務に専念し、リック・フレアーらが結成したフォー・ホースメンのブレインとなって活躍した。しかし、テッド・ターナーのクロケット・プロ買収後はWCWに留まらず、ビンス・マクマホンにヘッドハンティングされて1989年にWWFへ転出。タイタン・スポーツ社副社長のポストに就いて辣腕を振るった。

1996年、WWFを脱退してWCWに復職。「コミッショナー」の立場で現場にも復帰し、新生フォー・ホースメンと共闘してnWoやエリック・ビショフとの抗争アングルも行った。2001年のWCW崩壊後はTNAに「チーフ・ファイナンシャル・オフィサー」として登場。2003年にTNAを離れ、フルタイムのプロレスリング・ビジネスから引退した

近年も各地のインディー団体にゲスト出演しており、2006/7/15にはROHのPPV "Death Before Dishonor 4" に登場。2008/3/31にはWWEのRAWで行われたリック・フレアーの引退セレモニーに、かつてのフォー・ホースメンのメンバーと共に出席した。2009年下期からは再びROHに登場している。

日本には1974年1月にジム・デュランの名で全日本プロレスに初来日。以降も中堅ヒールのポジションで全日本の常連外国人となり、通算7回にわたって来日した。1977年末には、犬猿の仲だったアブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・シークに史上最凶悪コンビを結成させて世界オープンタッグ選手権にブッキングするなど、悪の仕掛人ぶりを発揮した。1983年2月の来日では、ザ・グレート・カブキの凱旋帰国第1戦の相手を務めている。

獲得タイトル

ESA(カナダ)
  • ESAインターナショナル・ヘビー級王座:1回
  • ESAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / フレディ・スウィータン)
  • ESA北米ヘビー級王座:1回
CWF(フロリダ)
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回
  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ロジャー・カービー)
  • NWAフロリダTV王座:1回
NWAウエスタン・ステーツ(アマリロ)
  • NWAインターナショナル・ヘビー級王座(アマリロ版):1回
  • NWAウエスタン・ステーツTV王座:1回
NWAセントラル・ステーツ(カンザスシティ)
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / バズ・タイラー)

担当選手

  • モンゴリアン・ストンパー
  • カン・フー・リー
  • ブルート・バーナード
  • アブドーラ・ザ・ブッチャー
  • ザ・シーク
  • ケビン・サリバン
  • バッド・バッド・レロイ・ブラウン
  • エイドリアン・ストリート
  • ザ・スポイラー
  • アイアン・シーク
  • ブルーザー・ブロディ
  • ビッグ・ジョン・スタッド
  • ケンドー・ナガサキ
  • ジミー・ガービン
  • オックス・ベーカー
  • アウトロー・ロン・バス
  • ブラック・バート

  • ドリー・ファンク・ジュニア
  • テリー・ファンク
  • デビッド・フォン・エリック
  • ボビー・ダンカン
  • アンジェロ・モスカ
  • カマラ
  • ワンマン・ギャング
  • バディ・ランデル
  • リック・フレアー
  • オレイ・アンダーソン
  • アーン・アンダーソン
  • タリー・ブランチャード
  • レックス・ルガー
  • バリー・ウインダム
  • ブッチ・リード

 etc.




 
広告


ラリー・シャープ
"Pretty Boy" Larry Sharpe
1951/6/26

アメリカ合衆国ニュージャージー州出身の元プロレスラー。本名はローレンス・ウェイルLawrence "Larry" Weil)。

プロレスラー養成所 "モンスター・ファクトリー" の主宰者としても知られる。

来歴

現役選手時代

ニュージャージー大学ではレスリングの選手として活躍。1974年、ゴリラ・モンスーンのトレーニングを受け、WWWF(現・WWE)エリアでプロデビューを果たす。以降、フロリダ、テキサス(ダラス)、ノースカロライナなどNWAの各テリトリーを転戦。1976年4月には全日本プロレスの第4回チャンピオン・カーニバルに初来日したが、キャリア不足もあって全敗の最下位に終わった。

その後、カナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングでリッパー・コリンズと金髪のヒール・タッグチーム、ボーディシャス・ブロンズThe Bodacious Blondes)を結成。1976年9月に同地区認定のインターナショナル・タッグ王座を獲得し、翌1977年1月にはコリンズとのコンビで国際プロレスに来日した。

1977年下期よりパートナーをジャック・エバンス(ROH所属の同名選手とは別人)に変えてWWFに登場。9/26にはマディソン・スクエア・ガーデンのリングで、WWF王者になる以前のボブ・バックランドとシングルマッチを行っている。同年12月、エバンスと共にハリウッド・ブロンズThe Hollywood Blondes)のチーム名でプエルトリコに遠征し、カルロス・コロン&ビクター・ジョビカを破りWWC北米タッグ王座を獲得。1978年末にエバンスとのコンビを解消してシングルプレイヤーとなり、同年11月にハワイでドン・ムラコからNWAハワイ・ヘビー級王座を奪取。1979年8月には全日本プロレスに再来日している。

以降もWWFを主戦場に、1980/8/9にニューヨークのシェイ・スタジアムで行われたビッグイベント "Showdown at Shea" において、アントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦(試合はWWFマーシャルアーツ・ヘビー級王座戦として行われた)。直後に新日本プロレスに初参戦し、外人サイドの2番手となってスタン・ハンセンのパートナーを務め、坂口征二の北米ヘビー級王座にも挑戦した。WWFには、1982年まで中堅ヒールとして出場している。

モンスター・ファクトリー

シャープは選手としてリングに上がる一方、ケビン・フォン・エリック、トニー・アトラス、キングコング・バンディらのトレーナーも務めていた。その実績を背景に、同郷のバディ・ロジャースの協力のもと、1983年に地元ニュージャージー州カムデン郡のベルマーにてプロレスラー養成所 "モンスター・ファクトリーMonster Factory)" を開設。ユニークな人材を次々と発掘・育成し、プロレス界に送り込むことになる。その第1号となったクラッシャー・ユーコフことバンバン・ビガロの出現は、モンスター・ファクトリーの名を世界中に知らしめた。シャープはビガロのマネージャーも担当し、1987年にはビガロに帯同して新日本プロレスへ久々に来日。ディック・マードックとの対立アングルも組まれた。

その後もパートタイムで東部地区のインディー団体に出場していたが、1991年に現役を引退してスクール運営に専念。以来、現在まで数多くのスターを輩出している。プロレスラーとしてのキャリアはB級のポジションで終わったものの、長期間に渡ってWWFで中堅を務めた試合運びの巧さやマイクパフォーマンスのスキルを有する名伯楽として、ビンス・マクマホンやブレット・ハートをはじめ彼の手腕に信頼を寄せる関係者は少なくない。

主な出身者

  • バンバン・ビガロ
  • クリス・キャンディード
  • バージル
  • レイヴェン
  • ジョニー・ホットボディ
  • ボールズ・マホーニー
  • ザ・ピットブルズ
  • ザ・ゴッドファーザー
  • タタンカ
  • ディーロ・ブラウン
  • ビッグ・ショー
  • ザ・ヘッドバンガーズ
  • パブロ・マルケス
  • ジョン・ザンディグ
  • ダイス・ドミノ
  • サンジェイ・ダット
  • シェイマス

 etc.

獲得タイトル

  • スタンピード・インターナショナル・タッグ王座:1回(w / "ラヴィシング" リッパー・コリンズ)
  • WWCノース・アメリカン・タッグ王座:2回(w / "ダイナマイト" ジャック・エバンス)
  • NWAハワイ・ヘビー級王座:1回





パウエル・ナツラ
Paweł Nastula
1970/6/26

パヴェウ・ナストゥーラは、ポーランド出身の男性柔道家、総合格闘家。チーム・ナツラ所属。アトランタオリンピック男子柔道95kg級金メダリスト。

一本背負投や朽木倒しを自在に使いこなす立ち技の腕もさることながら、その寝技の実力はヨーロッパ随一と言われ、バルセロナ、アトランタ、シドニーと、オリンピック3大会に連続出場。アトランタオリンピックでは、95kg級で金メダリストとなった。山下泰裕を上回る公式試合312連勝の記録を持つ、近代柔道史上屈指の名選手。

柔道競技からの引退後、長いブランクののち総合格闘技に転向したが、転向当初にいくつか勝ち星を挙げたもののその後低迷し、成績不振のまま終わった。

ポーランドの首都ワルシャワでフィットネスクラブ 『ナツラ柔道フィットネスクラブ』 を経営し、実業家として成功している。クラブには柔道場も併設されており、ナツラ自ら初心者、一般、女性、子供たちに柔道を教えるクラスがある。

ちなみに、名前の正しい発音はパヴェウ・ナストゥーラの方が近い。一時期、パウェル・ナスツラとも表記された。

人物

  • 母国ポーランドでは国民的英雄である。テレビの出演依頼がひっきりなしに訪れ、道を歩いていてもよくサインをせがまれるという。

来歴

1970年6月26日、ポーランドのワルシャワで生まれる。

1996年、アトランタオリンピック柔道95kg級で優勝し、金メダルを獲得。

2005年2月20日、ヨアンナ夫人とPRIDE.29をリングサイドで観戦した。

2005年6月26日、PRIDE初参戦となったPRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUNDでアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと対戦し、マウントパンチでTKO負け。

2005年12月31日、PRIDE 男祭り 2005でエメリヤーエンコ・アレキサンダーと対戦し、スリーパーホールドで一本負け。

2006年7月1日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUNDでエジソン・ドラゴと対戦し、腕ひしぎ十字固めでPRIDE初勝利を挙げた。

2006年10月21日、アメリカで開催されたPRIDE.32でジョシュ・バーネットと対戦し、アンクルホールドでタップアウト負け。試合後の薬物検査で陽性となり、9か月の出場停止と6,500ドルの罰金を受けた。

2008年8月24日、戦極初参戦となった戦極 〜第四陣〜でヤン・ドンイと対戦。2ラウンドに金的攻撃を主張し、股間を押さえてひざまついたところ、レフェリーに戦意喪失と判断されレフェリーストップ負けとなった。

主な獲得タイトル

  • 嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会95kg級 優勝(1992年)
  • フランス国際柔道大会95kg級(1995年、1996年)
  • 世界柔道選手権大会95kg級 優勝(1995年、1997年)
  • アトランタオリンピック 柔道95kg級 金メダル(1996年)
  • 嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会95kg級 準優勝(1999年)
  • パリ国際柔道選手権大会100kg級 3位(2000年)※フランス国際柔道選手権大会と同大会。日本での呼称が変わった。
  • ポーランド国際柔道選手権大会100kg級 優勝(2001年)
  • ドイツ国際柔道選手権大会100kg級 5位(2002年)
  • チェコ国際柔道選手権大会100kg級 優勝(2002年)
  • ヨーロッパ国際柔道選手権大会100kg級 7位(2004年)
  • ヨーロッパ選手権大会100kg級 7位(2004年)





マーク・ジンドラック
Mark Robert Jindrak
1977/6/26

アメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州オーバーン出身。ドロップキックの名手として知られる。

来歴

バスケットボール選手として活躍した後、WCWのパワープラントでトレーニングを積む。2000年、ショーン・オヘアとのタッグでプロレスデビュー。しばらくして、チャック・パルンボやショーン・ステイジャックらと共に若手軍団ナチュラル・ボーン・スリラーズ(NBT)を結成。オヘアとタッグ王座となった。その後オヘアがパルンボと組むことになり、ジンドラックはステイジャックとタッグを組む。しかし、オヘア&パルンボの影に隠れていたことで、ステイジャックと共に反旗を翻す。そしてNBTは解散し、元メンバー同士での戦いが始まる。

2001年のWCW崩壊後はWWF(現WWE)と契約。WCW&ECW連合軍であるアライアンスの一員として登場する予定だったが、怪我でほとんど出場の機会がなく、長い間下部組織のOVWやHWAで活動をすることになる。

2003年、WWEのRAWではギャリソン・ケイドとのタッグで活動。レッスルマニアで王座戦をするほどの活躍を見せた。その後ドラフトにてスマックダウンへ移籍することになり、セオドア・ロングをマネージャーにつけ、ナルシストキャラに変身。毎回リング上には鏡が置かれ、自分の筋肉美に酔いしれていた。それからはルーサー・レインズと共にカート・アングルの用心棒キャラになったりしたが、思うように活躍が出来ず2005年7月に解雇された。

その後、しばらく新日本プロレスに一時参戦した後、同じくWWEから解雇されていたマット・モーガンと共に、インリンの番犬ソドム・ゴモラのキャラクターでハッスルに参戦している。

2006年から参戦していたメキシコのCMLLでは、イタリア人ギミックマルコ・コルリオーネの名で、鈴木健想をパートナーに大活躍した。健想がいなくなった後も、CMLLには欠かせない選手として頑張っている。

獲得タイトル

  • WCW世界タッグ王座:2回(w / ショーン・オヘア)
  • GWU世界ヘビー級王座:1回

  



バディ・ロジャース
"Nature Boy" Buddy Rogers
1921/1/20 - 1992/6/26

アメリカ合衆国のプロレスラー。ニュージャージー州ケムデン出身。ニックネームは「ネイチャー・ボーイ野生児)」。出生時の本名はハーマン・ローデHerman C. Rohde Jr.)であったが、後年にリングネームのバディ・ロジャースを正式な名前とする法的手続きを取った。

ニック・ボックウィンクルやリック・フレアーなど後世の名選手に多大な影響を与え、ジャイアント馬場が憧れたレスラーとしても知られている。日本のリングに上がったことはなく、未来日のまま他界した。

来歴

1939年デビュー。いわゆる「ダーティー・チャンプ」の元祖となったヒール選手である。決め技の足4の字固め、レフェリーの影で反則を繰り返す小ずるい動き、ピンチに陥るとわざと反則負けを食らったり、怪我をしたふりをして王座を防衛するなど、その所作はニックネームの「ネイチャー・ボーイ」ごとリック・フレアーに受け継がれた。フレアー以前にもレイ・スティーブンスやニック・ボックウィンクルが彼のスタイルを継承している。

リングを降りても「悪役」だったようで、カール・ゴッチによる「襲撃事件」(長くゴッチの襲撃説が広まっていたが、ゴッチと口論になった後控え室からロジャースが出ようとした際、ゴッチに付き添っていたビル・ミラーがドアを蹴ってロジャースの腕が挟まれて負傷したというのが真相といわれている)など、ダーティーなイメージが付きまとった。しかしジャイアント馬場は、自分がアメリカ修行時代に見た中では人気と実力を兼ね備えた最高のレスラーと語っている。また、ビンス・マクマホン・ジュニアも最も憧れた選手と回想している。

全米一の観客動員力を誇るスーパースターであったが、NWA内部の権力闘争の影響でNWA王座に就くのは遅く、1961/6/30、シカゴのコミスキー・パークでパット・オコーナーを破りようやく第43代NWA世界ヘビー級王者となる。1963年1月ルー・テーズに敗れて王座転落後、自らのボスであったビンス・マクマホン・シニアのWWWF設立に協力し初代WWWF世界ヘビー級王者となったが、同年5月ブルーノ・サンマルチノに48秒で秒殺されて王座を失い、そのまま選手としては引退。1978年に一時期復帰し若手時代のリック・フレアーと対戦(フレアーの勝利)、「ネイチャーボーイ継承の儀式」を行った。1980年代にはWWFでジミー・スヌーカのマネージャーとしてプロレスの現場に復帰している。WWFではインタビューコーナー "Rogers' Corner" のホストも担当した。

1992/6/26、スーパーマーケットで床に落ちていたクリームチーズに足を滑らせ、頭部を強打して死去。1994年に、その生前の功績を称えられWWF殿堂入りを果たした(プレゼンターはブレット・ハート)。

オコーナーを破って世界チャンピオンになった試合は長くプロレスの観客動員記録だったもので、インタビューにおいて生涯のベストバウトと語っているが、この試合の記録とされるビデオでは1本目ロジャース(ランニング・ニーリフトからフォール)、2本目オコーナー(ローリング・バッククラッチホールド)、3本目ロジャース(オコーナーのドロップキック自爆からフォール)となっている。 一方、東京スポーツ新聞社刊『プロレス名勝負物語』によれば、1本目オコーナー(回転エビ固め)、2本目ロジャース(バックブリーカー)、3本目ロジャース(足4の字固め)とされる。

エピソード

  • 足4の字固めは、他のレスラーが使っていたフィギュア・4・ボディシザースという技をヒントにロジャースが考案した。
  • アトミック・ドロップもロジャースのオリジナル技。技の名称は、第二次世界大戦頃に用いていた自身のニック・ネーム "アトミック・ブロンド" から取られたという。
※上記は『月刊ゴング』1979年6月号掲載のバディ・ロジャース・インタビューに基づいたもの
  • 力道山はロジャースとアントニオ・ロッカの2人を何としても来日させたかったが、招聘することはできなかった。現役当時は両者共アメリカマット界の超人気レスラーだったため、日本に行く時間的余裕がなかったことが理由とされている。

獲得タイトル

NWA
  • NWA世界ヘビー級王座:1回
  • NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):1回(w / ロニー・エチソン)
  • NWA北米ヘビー級王座(アマリロ版):1回
  • NWA USヘビー級王座(シカゴ版):1回
WWWF
  • WWWF世界ヘビー級王座:1回
  • WWWF USタッグ王座:2回(w / ジョニー・バレンタイン、ジョニー・バレンド)
  • WWF Hall of Fame:1994年度
















 
   ↑ トップへヤフーオークション  


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system