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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
6/27


 
 


 
 

ディック・ザ・ブルーザー
Dick The Bruiser
1929/6/27 - 1991/11/10

アメリカ合衆国のプロレスラー。インディアナ州インディアナポリス出身。

来歴

アメリカンフットボールの名選手として活躍し、7つの大学から声がかかったが、すべて喧嘩による放校処分で棒に振った。1951年、NFLグリーンベイ・パッカーズに入団(酒場やカジノの用心棒をしていたという説あり)した後、1955年にプロレス転向。その年にルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。

経歴そのままに殴る蹴るの喧嘩ファイトを押し通し、1957年にウィルバー・スナイダーを破りUSヘビー級王座を獲得したのをはじめ、1963年にはクラッシャー・リソワスキーとのコンビでAWA世界タッグ王座を獲得。1964年にはフレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を、1966年にはマッドドッグ・バションを破ってAWA世界ヘビー級王座を奪取している。WWAのベルトはそのまま故郷のインディアナポリスに持ち帰り、それを元にして自らの団体インディアナポリスWWAを設立。プロモーター業にも携わるようになる。

日本には1965年に初登場し、ジャイアント馬場と第3代インターナショナル・ヘビー級王座決定戦を戦う。その後も日本プロレス、そして全日本プロレス・国際プロレスに登場。1969年にはリソワスキーとのコンビでジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲からインターナショナル・タッグ王座を奪取している。1972年11月には国際プロレスで、リソワスキーと組んでのストロング小林&グレート草津戦で日本初のタッグでの金網デスマッチを実現している。もっともこの時には、アメリカでは一般的な「先に金網から脱出したほうが勝ち」というルールだと誤解していたブルーザー&クラッシャーが小林&草津を完全KOして場外脱出したのが元で暴動騒ぎになった。1975年4月には全日本プロレスに登場して馬場のPWFヘビー級王座に挑戦。1976年1月にはリソワスキーとのコンビで馬場&ジャンボ鶴田のインター・タッグに2度挑戦している。1980年3月の国際への参戦が最後の来日となった。

1991年11月10日、心臓発作(動脈瘤破裂とも伝えられている)で死去。62歳没。

逸話

生傷男の異名は伊達ではなく、数多くの武勇伝がある。

  • 上記の馬場との選手権へ向けた調印式で、ブルーザーは馬場に対し「おい小僧! とうとうお前とやることになったな!」と凄んで見せ、電話帳を破ったり、ビール瓶の栓を指で抜いて見せるなどのパフォーマンスを敢行。あまりの迫力に馬場は本気でビビッてしまったという。
  • なお、1980年代にアメリカで馬場と再会した時にも、当時NWA屈指の大プロモーターになりNWA世界王者も経験していた馬場に「よう、小僧」と呼ばわって馬場を苦笑させた。また、ブルーザー・ブロディも彼からは常に「小僧(キッド)」と呼ばれており、親交がある年下の人物への一種の愛情表現だったものと思われる。
  • インター王座決定第一戦で、ブルーザーのあまりのタフさにあきれ果てた馬場が、師匠力道山から「相手が死んでしまうぞ」と止められていた脳天チョップを「まあブルーザーなら死なんだろう」と解禁したという逸話がある。
  • 1957/11/19、マディソン・スクエア・ガーデン(以下MSG)での試合中、場外乱闘中に複数の観客や警察官を殴り倒して負傷させ、傷害罪で告訴された。その後も何度か同様の罪状で裁判沙汰になっている。しかしこの振る舞いには、ヒールとしての「役作り」の要素があることは否定できない。
  • 翌1958/2/24、MSGに再登場するが、今度はパワーボムで相手レスラーを危篤状態に追い込んでしまう。度重なるニューヨークでの不祥事に、ビンス・マクマホン・シニア(現在のビンス・マクマホンの父)は二度とブルーザーを呼ぼうとはしなかった。もっともこの事件はブルーザーにとってもまったくのアクシデントであり、「レスラー人生最大の失敗だった」と語っている。
  • プロモーターになってからも、ブルーザー・ブロディ相手にバックステージで大喧嘩をするなど、血気盛んなところは変わらなかった。
  • 葉巻をくわえつつビールをラッパ飲みし、低い声でがなりたてるパフォーマンスがトレードマークだった。それがたたったのか、晩年のブルーザーは喉が潰れ、話し声が聞き取りづらくなってしまった。

獲得タイトル

NWA
  • NWAミズーリ・ヘビー級王座:3回
  • NWA USヘビー級王座(ハワイ版):1回
  • NWA USヘビー級王座(デトロイト版):4回
  • NWA USヘビー級王座(シカゴ版):1回
  • NWA世界タッグ王座(シカゴ版):1回(w / ジン・キニスキー)
AWA
  • AWA世界ヘビー級王座(オマハ版):1回
  • AWA世界タッグ王座:5回(w / クラッシャー・リソワスキー)
WWA
  • WWA世界ヘビー級王座(ロサンゼルス版):1回
  • WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版):11回
  • WWA世界タッグ王座(インディアナポリス版):14回(w / クラッシャー・リソワスキー×6、ウイルバー・スナイダー×3、ブルーノ・サンマルチノ、ビル・ミラー、スパイク・ヒューバー、ジェフ・ヴァン・キャンプ、ボビー・コルト)
日本プロレス
  • インターナショナル・タッグ王座:1回(w / クラッシャー・リソワスキー)

 
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チェ・ムベ
Choi Mu Bae
1970/6/27

崔 武培は、韓国の総合格闘家。釜山市出身。チーム・タックル所属。

総合格闘技イベント「PRIDE」に初めて出場した韓国人選手。試合で勝利した際は、「サタデー・ナイト・フィーバー」のような独特のポーズをとる。

来歴

グレコローマンレスリング出身であり、現PRIDE王者エメリヤーエンコ・ヒョードルとのスパーリングにおいてヒョードルを本気にさせたというエピソードにより、2004年2月15日の「PRIDE 武士道 -其の弐-」においてデビューを果たした。

デビュー戦以降白星を重ね、特に2004年10月31日の「PRIDE.28」においては、窮地に追い込まれながらも逆転勝利を収めた。

2005年2月20日、「PRIDE.29」ではセルゲイ・ハリトーノフに敗北を喫した。

その後、自身のジムを韓国に開くためにリングから遠ざかっていたが、2005年11月5日に韓国で開催されたHERO'Sに参戦。米国のプロレスラーであるザ・プレデターに判定負けを喫した。

2006/12/2、初参戦となったパンクラスで河野真幸と対戦し、肩固めで一本勝ち。

2007年6月2日、Dynamite!! USAでマイティ・モーと対戦予定であったが、欠場となった。当日開会セレモニーで行われた聖火リレーに参加した。

2008年6月8日、戦極初参戦となった戦極 〜第三陣〜でマーシオ・"ペジパーノ"・クルーズと対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本負け。

2009年1月4日、戦極の乱2009でデイブ・ハーマンと対戦し、TKO勝ち。13戦13勝であったハーマンに初黒星を与えた。

2009/6/7、2年6か月ぶりとなったパンクラスで藤井勝久と対戦し、判定勝ち。








  

















 
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