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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
3/1

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長谷川悟史
1976/6/19 - 1999/3/1

日本の総合格闘家。神奈川県横須賀市出身。パンクラス所属。

来歴

高校卒業後、パンクラスの第4回入門テストを受け合格。

1996/7/22、パンクラスネオブラッドトーナメント1回戦・山宮恵一郎戦でデビュー。当時パンクラス最軽量ながら引き締まった肉体とスピードを武器に独特のファイトスタイルで人気を得た。

1998/2/6、パンクラスでセーム・シュルトと対戦し、アンクルホールドでタップアウト勝ちを収めた。ギブアップ勝ちをしたのにもかかわらず本人は小さなガッツポーズをするだけだった。

1999/3/1、道場近くのマンションから転落し、骨折に基づく外傷性出血ショックで22歳で死去。

人物像

関節技が極まっても決してギブアップすることがなく(一回だけしたが)ロープエスケープもしない。よくレフェリーストップをくらって悔しそうな顔をしていた。

ロープエスケープ0という記録も持っている。

転落事故

彼の転落事故には謎が多く残っている。当時は自殺も囁かれたが、転落の数日前にプロレス雑誌の記者に「今ウエイトトレーニングに力を入れているんです。」と話しており、また転落の直前にはバイクを修理に出しており自殺と考えるのは難しい。パンクラスの大先輩・船木誠勝の趣味のひとつに、後輩たちに危険なスタントを行わせ、それをホームビデオで撮影するという、通称「アクション映画」と呼ばれるものがある。当時、長谷川は船木の「アクション映画」と称するゲームでたびたび「主演」を務めさせられていた(事件前、長谷川、船木の双方が「アクション映画」について格闘技通信やゴング格闘技などのインタビューでコメントしている)。長谷川は、この遊びの最中に転落したのではないかと言われている。長谷川がなぜ本人とは関係ない(とパンクラスは発表している)転落場所のマンションにいたのかもわからないままである。

なお、船木は「後輩を使ってスタントシーンを撮影するのが趣味」と公言していたが、長谷川の死去後は一切その類の発言をしていないことも疑問である。

なお上記のような状況から匿名掲示板などで「船木が殺した」との悪意のある誹謗中傷も散見されるが、事故当時、船木は現場には居なかった(車を運転中に尾崎社長から事故の連絡を受けた)。また団体の責任者として尾崎社長や船木は警察からの事情聴取も受けており、事件性は無いと見るのが妥当である。






デイビー・リチャーズ
Davey Richards
1983/3/1

本名:デイビッド・リチャーズは、アメリカ合衆国のプロレスラー。

経歴

トニー・コジーナのコーチを受け、2004年6月にプロレスデビュー。主に西海岸の独立系団体を渡り歩き、PWGでは2005年10月に、スーパー・ドラゴンとのコンビでPWGタッグ王座を獲得した。

2006年4月8日、アメリカの独立系団体で活動する若手の登竜門とされるECWAスーパー8トーナメントに出場。チャーリー・ハースら強豪を次々と破って優勝し、一躍スターダムにのし上がる。

2006年5月にPWGタッグ王座を失うものの、同年9月3日にPWGで開催されたバトル・オブ・ロサンゼルス2006トーナメントでCIMAを破って初優勝。日本でもその名前が知られるところとなる。

2006年6月3日、ジミー・レイヴ戦でROHに初出場。以後、レギュラーとして継続参戦を果たした。同年8月5日には待望のKENTA戦が実現し、敗れたものの高い評価を得た。

2007年初頭、ロドリック・ストロング率いるノー・リモース・コープスへの加入に伴いヒール・ターン。以後、主にロッキー・ロメロとのタッグで活躍し、2008年にはROH世界タッグ王座を獲得した。

2007年7月、プロレスリング・ノアに参戦。ブライアン・ダニエルソンとのコンビで日テレ杯争奪ジュニアヘビー級タッグリーグ戦に参加した。2008年も同ジュニアヘビー級タッグリーグ戦にダニエルソンと出場した。

2010年、新日本プロレスベスト・オブ・ザ・スーパージュニアに参戦し以降、新日に継続出場している。

タイトル歴

ROH
ROH世界タッグ王座: 1回
PWG
PWGタッグ王座: 3回

他多数


 
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奥野"轟天"泰舗
1977/3/1

おくの"ごうてん"たいすけ、日本の総合格闘家。大阪府和泉市出身。CAVE代表。

来歴

2004年9月20日、第11回全日本アマチュア修斗選手権・ライトヘビー級に出場。決勝で武田光博に判定勝ちし優勝を果たした。

2005年7月14日、プロ修斗デビュー戦で金太郎にマウントパンチでTKO勝ち。

2006年12月2日、2006年ミドル級新人王決定トーナメント決勝で小西"獅子"優樹と対戦し、0-3の判定負けで準優勝となった。

2007年12月8日、修斗で杉浦"C坊主"博純と対戦し、下からの蹴り上げで額をカットさせTKO勝ち。

2008年3月16日、オーストラリアでのプロ修斗公式戦でザビアー・ルーカスと対戦し、判定ドロー。

2009年5月、GUTSMAN・修斗道場を離れ、フリーランスとなった。

2009年6月30日、DEEP初参戦となったDEEP 42 IMPACTで岩瀬茂俊と対戦し、0-3の判定負け。この試合から奥野"轟天"泰舗にリングネームを変更した。

2009年8月30日、修斗のメインイベントで久米鷹介と対戦し、0-0の判定ドロー。

2010年2月28日、DEEP 46 IMPACTで長谷川秀彦と対戦し、グラウンドパンチでTKO勝ち。試合後に自らのジムをオープンさせることをマイクで発表した。

2010年4月、東京都墨田区向島に自らが代表を務める総合格闘技道場CAVEをオープンさせた。5月21日、修斗・DEEPからの推薦選手としてSRCウェルター級グランプリへ参戦することが発表された。

2010年8月22日、SRC初参戦となったSRC14のSRCウェルター級グランプリ1回戦でニック・トンプソンと対戦し、右フックでKO勝ちを収めた。

2010年10月30日、SRC15のSRCウェルター級グランプリ準決勝でYasubei榎本と対戦し、0-3の判定負けを喫した。

2010年12月30日、戦極 Soul of Fightで行なわれた「SRC VS DREAM 交流戦」で長南亮と対戦し、開始19秒右フック一撃で失神KO勝ち。当初長南はダン・ホーンバックルと対戦予定であったが、インフルエンザによる欠場で開催3日前となる12月27日に奥野の代理出場が発表された。しかし、奥野は契約体重をクリアできずレッドカード2枚が提示された状態で試合が開始された。

獲得タイトル

  • 第11回全日本アマチュア修斗選手権 ライトヘビー級 優勝(2004年)





ブッカー・T
Booker T
1965/3/1

ロバート・ブッカー・ティオ・ハフマンRobert Booker Tio Huffman)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ヒューストン出身のアフリカ系アメリカ人。

WCW、WWE、TNAの各団体において黒人選手のトップスターとして活躍。マイクパフォーマンスにおいても数々の決め台詞が存在する。

来歴

17歳の時にウェンディーズに強盗に入り逮捕、19か月間の懲役を経て更生し、イワン・プトスキーのプロレスリング・スクールに入門、スコット・ケーシーのトレーニングを受け1989年にデビューを果たした。1992年よりダラスのプロレス団体GWFに加入。実兄スティービー・レイとのタッグチーム、エボニー・エクスペリエンスThe Ebony Experience)を結成してGWFタッグ王座を獲得。同年10月、ケンドー・ナガサキこと桜田一男が主宰していたNOWにレイとのタッグで初来日(名義はブラック・ボンバーズ)、翌1993年3月には単独で参戦している。

1993年6月にWCWに登場。同時にチーム名をハーレム・ヒートHarlem Heat)に改め、以後1999年にかけて、WCW世界タッグ王座を10回に渡って奪取する活躍を見せた。マネージャーにはWWFから移籍してきたシスター・シェリー(センセーショナル・クイーン・シェリー)がついていたことがある。

1995年11月、当時WCWと提携していた新日本プロレスに単独で来日。翌1996年3月にはスティービー・レイとのハーレム・ヒートとして参戦し、名古屋で橋本真也&平田淳嗣のIWGPタッグ王座にも挑戦した。

1997年下期からはシングル・プレイヤーとして活動し、1998年にはクリス・ベノワとWCW世界TV王座を巡り抗争を展開。2000年にはジェネラル・レクション率いるミスフィッツ・イン・アクションに加入し、GWF時代に一時使っていた軍人ギミックのG.I. Broというキャラクターに変身したこともある。 以後、ハーレム・ヒートの再結成・再解散を経て、同年7月9日の『バッシュ・アット・ザ・ビーチ』にてジェフ・ジャレットからWCW世界ヘビー級王座を奪取。以降はWCWの主役級のポジションを獲得し、スティング、ゴールドバーグ、ケビン・ナッシュ、スコット・スタイナーといった大物達から白星を挙げ、WCW世界ヘビー級王座にも通算5回(うち2回はWWF版)載冠している。

WCWからWWFへ

WCW崩壊時、WWFに契約をテイクオーバーされたため『マンデー・ナイトロ』最終回で4度目のWCW世界ヘビー級王座を獲得。WCW王者としてのWWF登場当初はダイヤモンド・ダラス・ペイジらと共に試合への乱入を繰り返すも、顔見世的に行われたバフ・バグウェルとの王座戦が、バグウェルが原因で稀に見る凡戦となったこと、その他諸般の事情(WCWのTVマッチを放映する局やスポンサーが見つからなかった等)からWWF首脳陣はWCWをWWF傘下のブランドとして位置付けるのを諦め、新たにWCW/ECW連合軍のアライアンスを創り上げ、そのWCW側のエースとしてWWFに本格参戦。WWF側エースのザ・ロックと抗争を展開した。

連合軍崩壊後も、ヒールとして引き続きWWEに参戦。アライアンス側の人間はストーリー上全員解雇されたことになっていたため、WWFへ共同経営者というアングルで登場したリック・フレアーとストーン・コールド・スティーブ・オースチンに対抗すべく、ビンス・マクマホンがブッカー・Tを呼び戻すというストーリーで復帰する。オースチンとの抗争では、スーパーマーケットの中でストリートファイトを展開したこともある(試合は最後にブッカー・Tがレジに通されて終了)。WCW時代とは一変してコミカルなキャラクターを演じ、スマックダウンの試合ではリキシのスティンク・フェイスで嘔吐したこともあった。

WWFのテレビ番組分割後はRAWに参戦した。2002年にはnWoにメンバーとして参加するも、ショーン・マイケルズ加入に際してnWoを離脱。同時にベビーフェイスに転向、2003年の『レッスルマニア19』ではトリプルHの世界ヘビー級王座に挑戦した。

2004年3月にRAWからスマックダウンへ移籍。再度のヒールターンを行うも、その後ジョン・ブラッドショー・レイフィールドおよびオーランド・ジョーダンとの抗争でベビーフェイスに戻る。ブッカーがレイフィールドを裏切った瞬間、場内は瞬く間に歓声へと変わった。

私生活では2005年3月、元WCWのナイトロ・ガールスのシャーメルと結婚。なお、シャーメルもディーヴァとしてWWEに出演している。

WWEではベビーフェイスとヒールを頻繁に行き来し、シャーメルのWWE登場時にカート・アングルと抗争していたときはベビーフェース、クリス・ベノワからUS王座を獲得して以降はヒールとして活動。そのUS王座を賭けたクリス・ベノワとの七番勝負の最中に負傷し、ランディ・オートンに代理参戦を依頼。結果、戦わずしてUS王座を手に入れた。2006年の『ノー・ウェイ・アウト』でベノワにUS王座を奪還された後はブギーマンと抗争。5月の『ジャッジメント・デイ』でのキング・オブ・ザ・リング決勝戦においてはボビー・ラシュリーを破って優勝。その後、「国王」を自称しリングネームをキング・ブッカーKing Booker)と改めた。

王座獲得からTNAへ

その後ウィリアム・リーガル、フィンレーと手を組み、世界ヘビー級王者のレイ・ミステリオと抗争。『グレート・アメリカン・バッシュ2006』にて王座戦を行い、ミステリオに味方していたチャボ・ゲレロの介入により王座を奪取した。

2007年6月11日、RAWで行われたドラフトによりスマックダウンから再びRAWに移籍。約3年ぶりにRAWに戻ることとなった。その後、RAW解説者であるジェリー "ザ・キング" ローラーとキングの称号を巡り抗争したが、同年8月の『サマースラム2007』でのトリプルHとの試合を最後に、9月にシャメールと共にWWEを解雇された。

2007年11月よりTNAに参戦。スティングのミステリー・パートナーとして登場し、観客からも大きな声援で迎えられ、リングネームもブッカー・Tに戻した。

同年12月20日、IGF興行『GENOME2』に参戦予定だったが、IGFの書類不備により出場がキャンセルされた。2008年2月16日に来日が実現し、IGF興行『GENOME3』にてTAJIRIに勝利した。

2009年10月26日、TNAを離脱。2010年9月にはメキシコのPerros del Malに登場した。

WWE復帰

2011年1月30日、WWEの『ロイヤルランブル2011』にて21番目にサプライズ登場。リング上を制圧していたネクサス相手に一人で立ち向かう形となるも、ブック・エンドスピン・ルーニーを見せ健在ぶりをアピールした。しかし、直後にメイソン・ライアンによってリング外へ落とされ、短時間での退場となった。その後WWEと長期契約を交わし、2月4日のスマックダウンにおいてカラー・コメンテーターとして登場した。

2011年4月より復活したタフイナフ(日本では未放送)ではトレーナーを担当。6月6日のRAWではシングル戦に復帰し、ジャック・スワガーからリングアウト勝ちを収め、最後はエヴァン・ボーンとのダブル・スピンルーニーで会場を沸かせた。

決め台詞

以下は代表的な決め台詞。括弧内は日本語訳。

  • Save the drama for your mama!
  • Don't hate the player, Hate the game!
  • Tell me you didn't just say that!(言ってないよな? そんなこと言ってないと言ってくれ)
  • Can you dig it, Sucka?!(判ったかこのタコッ!)
  • I am the 5 time, 5 time, 5 time, 5 time, 5 time WCW Champion!

獲得タイトル

WCW

  • WCW世界ヘビー級王座 : 5回
  • WCW世界タッグ級王座 : 11回(w / スティービー・レイ×10、テスト×1)
  • WCW世界TV王座 : 6回
  • WCW・US王座 : 1回

WWE

  • 世界ヘビー級王座 : 1回
  • IC王座 : 1回
  • US王座 : 2回
  • 世界タッグ王座 : 3回(w / テスト、ゴールダスト、ロブ・ヴァン・ダム)
  • ハードコア王座 : 2回
  • 2006年キング・オブ・ザ・リング優勝

その他

  • GWFタッグ級王座 : 3回(w / スティービー・レイ)
  • UWFヘビー級王座 : 1回

入場曲

  • Can You Dig It?
  • Rap Sheet
  • All Hail, King Booker

その他

  • 2002年4月に、ヒューストンに自身の経営する店を開業させた。音楽、テレビゲーム、ヒップホップ関連商品を取り扱っている。
  • 2006年2月に、SmackDown!日本公演でWWEとして初来日の予定だったが、ケガのため不参加。なお前年同時期に行われた公演は自身の結婚のため不参加。WWE在籍時の来日は実現しなかった。
  • 2006年より、地元のヒューストンにてインディー団体 "Pro Wrestling Alliance" を兄のスティービー・レイと共に主宰している。
  • 決め台詞の「5 time WCW champion」が定着していることが災いしてか、WWE移籍後にWCWヘビー級王座から陥落して以降は、後継王座であるWWE・世界ヘビー級王座には一度も戴冠できていなかったが、The Great American Bash 2006にて王座戴冠を果たした。






アドナン・アル=ケイシー
Adnan Al-Kaissie
1939/3/1

イラク・バグダッド出身の元プロレスラー。

インディアン・ギミックのビリー・ホワイト・ウルフBilly White Wolf)、アラブ人ギミックのシーク・アドナン・アル=ケイシーSheik Adnan Al-Kaissie)などのリングネームを名乗り、アメリカ合衆国の各メジャー団体で活躍した。

来歴

イスラム教のイマームを父に持ち、10代の頃に家族でアメリカのオクラホマ州に移住。州立大学でレスリングの選手となり、1959年にオクラホマ地区にてアドナン・ケイシーの名前でプロレスラーとしてデビューする。

その後、インディアン・ギミックのベビーフェイス、ビリー・ホワイト・ウルフに変身。1960年代は太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト地区を主戦場に、ハワイやテキサスでも活動。海外にも遠征し、オーストラリアでは1967年2月11日にレイ・スティーブンスからIWA世界ヘビー級王座を奪取。日本には1964年4月、チーフ・ホワイト・ウルフのリングネームで日本プロレスの第6回ワールドリーグ戦に初来日。1969年1月には国際プロレスにも参戦している。

1974年8月、本来の出自であるアラブ人ギミックのシーク・オブ・シークス・オブ・バクダッドSheik of Sheiks Baghdad)を名乗り新日本プロレスに登場。ニコライ・ボルコフとタッグを組み、アントニオ猪木や坂口征二を相手にヒールとして狂乱ファイトを演じた。

アメリカ帰国後はベビーフェイスのビリー・ホワイト・ウルフに戻り、ニューヨークのWWWFでチーフ・ジェイ・ストロンボーとインディアン・タッグを結成。1976年12月7日にはフィラデルフィアでジ・エクスキューショナーズ(1号=キラー・コワルスキー、2号=ビッグ・ジョン・スタッド)を破りWWWF世界タッグ王座を獲得、翌1977年9月27日にプロフェッサー・タナカ&ミスター・フジに敗れるまでタイトルを保持した。WWWFを離れてからはハワイを主戦場とし、キラー・トーア・カマタらと抗争を展開した。

1981年、アラブ人ヒールのシーク・アドナン・アル=ケイシーに変身してAWAに登場。クラッシャー・ブラックウェルを配下に引き入れ、シーク・スタイルのアヤトーラ・ブラックウェルを名乗らせる。その後、AWAの悪徳マネージャーだったボビー・ヒーナンから「アラブ・マネー」でケン・パテラのマネージメント権を購買し、ブラックウェルのパートナーに起用。自らはプレイング・マネージャーとなって彼らを指揮し、1983年6月から1984年5月までAWA世界タッグ王座に就かせた。以降もマネージャーとしてAWAに定着し、ブルーザー・ブロディやアブドーラ・ザ・ブッチャーなど特別参戦の大物選手も担当。AWA末期の1990年まで、リングサイドに欠かせない存在であり続けた。

1990年下期、AWAでの抗争相手でもあったサージェント・スローターのマネージャーとして、ジェネラル・アドナン(アドナン将軍)を名乗ってWWFに登場。同時期に勃発した湾岸戦争を追い風に、「サッダーム・フセインの友人」という設定でスローターと共に大ヒールを演じる。後にイラン出身のアイアン・シークもカーネル・ムスタファ(ムスタファ大佐)の名で加わり、ハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアーを相手に「WWF版湾岸戦争」を繰り広げた。

WWF退団後は1994年頃にシカゴのAWFでカウボーイ・ボブ・オートンらのマネージャーを担当。近年は在住先のミネソタ州にて、ケン・パテラと共同でインディー団体 "World All-Star Wrestling Alliance" をプロデュースした。

獲得タイトル

以下はすべてビリー・ホワイト・ウルフ名義での戴冠。

ミッドパシフィック・プロモーションズ
  • NWA USヘビー級王座(ハワイ版):1回
  • NWAハワイ・タッグ王座:1回(w / ピーター・メイビア)
パシフィック・ノースウエスト・レスリング
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:2回
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:4回(w / シャグ・トーマス、ペッパー・マーティン、ベアキャット・ライト、ジョニー・ウォー・イーグル)
NWAビッグタイム・レスリング
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • NWA世界タッグ王座(テキサス版):1回(w / Hogan Wharton)
ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア)
  • IWA世界ヘビー級王座:1回
  • IWA世界タッグ王座:2回(w / マリオ・ミラノ、テキサス・マッケンジー)
WWWF
  • WWWF世界タッグ王座:1回(w / チーフ・ジェイ・ストロンボー)

  

















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