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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
3/2



吉原 功
1930/3/2- 1985/6/10

日本のレスリング選手、プロレスラー、実業家。元国際プロレス社長。岡山県出身。

来歴

早稲田大学レスリング部出身。1953年に日本プロレスに入門してプロレスラーとして活動した。1956/10/24には新設された日本ライトヘビー級王座の決定トーナメント決勝戦で芳の里淳三と戦うものの0-2で敗退。後に芳の里の王座返上を受けて1960/10/19に行われた決定戦で大坪清隆を破り第2代日本ライトヘビー級王者となる。ただし、芳の里も吉原もほとんど防衛戦をやっていない(当時日本人同士の対戦は今ほど一般的でなかった。またマッチメイクも「力道山VS大物外国人」が中心だった)ので王者としての印象は薄い。

後にフロントに転じて取締役営業部長となるが、力道山の死後の日本プロレスの経営を巡り遠藤幸吉らと対立し同社を退社。ちょうどその頃日本に戻っていたヒロ・マツダをエースに立て国際プロレスを設立した。TBSなどの国際プロレス中継では解説者として放送席にも座り、辛口の評論で知られていた。

国際プロレスは1981年に消滅したため、その後は新日本プロレスの顧問を務めていたが、1985年に胃癌のため死去。

元々レスリング出身という経歴のため、日本レスリング協会、中でも第3代会長の八田一朗とのつながりがあり、八田の人脈を通じて国際プロレスで初来日した選手も多く、ビル・ロビンソン、モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)など、後にブレイクした選手も少なくない。ロビンソン、ロシモフ、ジョージ・ゴーディエンコ、ホースト・ホフマンといったヨーロッパの強豪が数多く来日し、日本プロレスのアメリカルートとは一味違ったレスリングをファンに提供したのも大きな功績である。また、トップ団体の日本プロレスに対抗するため、文書による選手契約の導入、金網デスマッチ、会場でのBGM、総当たりリーグ戦でのバッドマーク・システム(リーグ戦で、各選手一定の持ち点でスタートし、負け・引き分けのたびに持ち点を減らしていき最も多くの得点が残った者が優勝、という方式。消化試合がなくなり好カードは多く実現できる、という触れ込みだった)など数々の新機軸を案出し、その中には近年のプロレス界で広く受け入れられているものも多く存在する。






浅子 覚
1971/3/2

日本の元プロレスラーであり、現在はプロレスリング・ノア所属のプロレスのメディカルトレーナーである。埼玉県大宮市(現・さいたま市)出身。愛称はリーダー

来歴

新日本プロレス学校卒業生。元々から全日本プロレスに憧れていたが、事情あって新日本プロレス学校に入学。一緒に練習していた西村修の話によると、非国民的な扱いを受けながらも黙々と練習に励んでいたそうである。1990年に全日本プロレス入門。背も低く、体も小さかったので、ジャイアント馬場は当初入団に難色を示していたが、丁度SWSへの選手の大量離脱があり、レスラー不足から入門を認められたと言われている。1991/4/4岡山武道館でのリチャード・スリンガー、浅子覚組対百田光雄、井上雅央組でプロレスデビューを飾る。

全日本プロレス時代は、三沢光晴率いる超世代軍の一員として活動。ジュニアのエースとして期待され、二代目タイガーマスク時代の必殺技・ウルトラタイガードロップを伝授された。その後大森隆男、高山善廣が結成したノーフィアーに、リーダーとして加入。ノーフィアーにおける浅子のリーダーとしての仕事は、サプリメントの支給、キャプテン大森、ボス高山のメンタル面のケアが主だった、と後に高山善廣は語っている。

全日本プロレスが分裂した際、浅子は三沢らに続いてプロレスリング・ノアに移籍する。ノアに移籍後は全日時代以上にノーフィアーのリーダーとして活躍した。

2001/9/5には当時GHCジュニアヘビー級王者だった金丸義信とタイトルマッチを行う。結果は23分27秒、垂直落下式ブレーンバスターで敗北。

2001年11月に試合中、首を負傷。その後復帰を目指してリハビリに努めていたが、2002年7月に引退を発表。2002/7/26に引退試合を代々木第二体育館にて実施。浅子本人の希望で、超世代軍時代の仲間である三沢、小橋建太とのタッグを結成し、田上明、井上雅央、橋誠組と対戦した。引退試合の入場は、三沢、小橋、浅子とも、その当時既に用いていなかった超世代軍時代の衣装・入場曲を用いた。試合は怪我をしている首を狙われ、終始苦戦を強いられたが、三沢、小橋との連携から雪崩式フランケンシュタイナー、SDAとたたみかけ、25分42秒橋からピンフォールを奪い取った。

引退後はノアのトレーナーとして、選手の試合後のケアなどを行っている。また、プロレスリング・ノア中継の解説も担当している。また、今までに二度ほどレフェリーも務めており、転向をささやかれているが、レフェリングはコメディタッチである。

2006年、柔道整復師の試験に合格した。必死の猛勉強だったらしく、試験当日の夜には高山や鈴木みのるらから「お疲れ様会」が開かれたと言う。この資格により、臨機応変にトレーナーとして働くことが出来るようになった。

また、この浅子の資格を取得する間の猛勉強は、プロレスラー廃業した後の転職の難しさを物語り、三沢や秋山準らがレスラー引退後の土台作りが必要であると考えさせられ、秋山の副業を興す理由の一つともなっている。

入場テーマ曲

  • VIBRATIONS
  • CRYING IN THE BLAZE
  • SDA

 
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豊田 真奈美
1971/3/2

日本のプロレスラー。一時期豊田 魔波を名乗っていたこともある。島根県益田市出身。身長167cm、体重74kg。血液型A型。

所属

  • 全日本女子プロレス(1987年 - 2002年)
  • フリーランス(2002年 - )

来歴

1989年
  • 5/6 横浜アリーナの大舞台で、スイート・ハーツのパートナーである下田美馬と組んで、三田英津子・山田敏代の「ドリーム・オルカ」組との対戦。同期の4人がそろい踏みで、第一試合のタッグマッチに出場。通常は大技が見られない、第一試合であるにもかかわらず、豊田は美しいジャーマン・スープレックス・ホールドを山田に決めてフォール勝ち。ビデオ解説陣を驚かせた。
  • 12/9 後楽園ホールでの全日本選手権試合で、王者として山田敏代の挑戦を受ける。ジャーマン・スープレックス・ホールド、タイガー・スープレックス・ホールドで攻め込み、山田もドラゴン・スープレックス・ホールドで応戦するなど大熱戦となるが、30分時間切れ引き分け。この試合は1989年度女子プロレス大賞ベストバウト賞に輝いた。
1990年
  • 6/17 ジャパン・グランプリ90に参戦、決勝で2年先輩の堀田祐美子を破って初優勝、一躍スターダムにのし上がる。
  • 7/21 ジャパン・グランプリ優勝者として、大田区体育館のメインイベントでブル中野の保持するWWWA世界シングル王座に挑戦。圧倒的不利と言われる中、デビュー3年に満たないキャリアで当時絶対的な王者に君臨していたブルに正面から挑んだが、10分と持たず敗れる。
1991年
  • オールパシフィック選手権を獲得。
  • 1/11 川崎市体育館で、2年先輩である北斗晶の挑戦を受けたオールパシフィック選手権試合。右肘を痛めて片腕で臨んだ北斗を容赦なく攻め込みレフェリーストップで退ける。試合後、海狼組として北斗のタッグ・パートナーであるみなみ鈴香がマイク・アピールし、挑戦を表明。
  • 3/17 後楽園ホールで、同じく2年先輩であるみなみ鈴香の挑戦を受けたオールパシフィック選手権試合。スピード、テクニックが拮抗した好試合となったが、みなみが先輩の意地を見せた、だるま式ジャーマン・スープレックス・ホールドに敗れて王座陥落。
  • 526 後楽園ホールで、アジャ・コングとセミファイナルでシングル対決。二人のシングルは1989年3月のルーキー時代以来で、メイン・イベンターとなってからは初の対戦となった。アジャ有利とみられていたが、豊田が最後まで食い下がり、30分フルタイム引き分けの激闘となった。
  • 9/7 大宮スケート・センターで、宿命の同期ライバル、山田敏代との2度目の大場所でのシングルマッチ。トップロープから場外へのラ・ケブラーダを見せるなど攻め込んだが山田も粘り抜き、30分時間切れ引き分け。
1992年
  • IWA世界女子シングル王座を獲得、さらに同期の山田敏代とのタッグでのUWAタッグ王座およびWWWA世界タッグ王座獲得。そして、昨年に引き続き、山田とのシングル対決がテーマとなった。
  • 1/4 後楽園ホールで山田敏代と3度目の対決。お互い全く譲らず、5分延長が認められたがそこでも決まらず、再度の5分延長。それでも勝負が決まらず、合計40分間フルタイムの引き分け。これで3試合連続、時間切れ引き分けとなった。
  • 6/21 後楽園ホールでのメインイベント、時間無制限一本勝負で山田敏代との4度目の対決。過去3度、ビッグマッチでの引き分け(89/12/9、91/9/7、92/1/4。この他地方でも対戦はあったが、全女では通常、いわゆる「大場所」と呼ばれる大会場での対戦回数でカウントする)を経て、完全決着戦に臨んだ。ノンストップの熱戦の末26分20秒、山田が日本海式竜巻原爆固めに対抗するための切り返し技である、初公開となるリバース・ゴリー・スペシャル・ボムで勝利。敗れた豊田は、IWAベルトと髪の毛を賭けての再戦をマイク・アピール。山田も快く受けて、前代未聞のベビーフェイス同士の髪切りマッチが実現することとなった。
  • 7/5 後楽園ホールでのメインイベントで、ジャパン・グランプリ公式戦、メインイベントで、アジャ・コングと対戦。場内・場外を縦横に駆使し、後楽園ホールのバルコニーからアジャに投げ落とされそうになるなど、激しい攻防が続いたが、最後はトップロープからの前方回転エビ固めでアジャから初フォールを奪取。
  • ジャパン・グランプリ'92では決勝に進出するものの、アジャ・コングに敗れ準優勝に終わる。
  • 8/15 後楽園ホールのメインイベントで、山田敏代とのIWA選手権および敗者髪切りマッチ。山田はこの日2試合目であり、不利が予想されていたが、山田も意地を見せた。最後は二人の対決の定番である、リバース・ゴリー・スペシャル・ボムとジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックス(日本海式竜巻原爆固め)の打ち合い・切り返し合いの末、19分44秒、日本海式竜巻原爆固めで勝利。勝ったものの、豊田は山田の髪を切ることを拒み自分の髪にハサミを入れ、泣き崩れ、山田の髪切りを体を張って食い止めようとまでした。いっぽう、山田は堂々と髪切りに応じ、結果として二人の友情はさらに深まる結果となった。
  • 11/26 川崎市体育館でのJWPとの団体対抗戦第一弾として、メインイベントで山田敏代と組み、王者として尾崎魔弓・ダイナマイト・関西とのWWWA世界タッグ王座の防衛戦を行う。60分3本勝負で、激戦の末2-1で王座を防衛。ベスト・バウトを獲得し、対抗戦時代の幕開けを象徴する一戦となった。
1993年
  • 対抗戦時代に入ると、尾崎魔弓・ダイナマイト・関西組とのWWWA世界タッグ王座をめぐる攻防、豊田を目標とする若手の福岡晶、テクニシャンのプラム麻里子とのシングルなどが注目された。
  • 4/2 横浜アリーナでの夢のオールスター戦では、メインイベントで山田敏代と組んで、FMWの工藤めぐみ・コンバット豊田組と60分1本勝負で対戦。セミファイナルでの北斗晶対神取忍戦が伝説的な死闘となったこと、試合途中で午前0時を回り席を立つ観客も多かったこと、初対決となったFMW勢の老獪なファイトと手が合わず、スイングしきれなかったこと、などが重なって、内容的には不満が残った。最終的には、合体のシャトルループ・バスター→驚異的なブリッジでのジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックス・ホールドという必殺フルコースで勝利したものの、二人は記者会見を拒否、豊田は控室のドアに顔を伏せて号泣していた。
  • 4/11 大阪府立体育会館のセミファイナルで尾崎魔弓・ダイナマイト・関西組の再度の挑戦を受け、1-2で敗北、王座を失う。1本目はわずか12秒で山田が関西にフォールされ、3本目は豊田が合体技で尾崎にフォールを喫した。全日本女子プロレスの王座が史上初めて、他団体へ流出した歴史的な瞬間であった。
  • 6/3 札幌中島体育センターで、豊田を目標とするJWPの福岡晶と対戦。ともに長髪、黒いコスチューム、白とシルバーを基調としたリングシューズの美形レスラー同士の対戦。ムーンサルトプレス(この試合で豊田は、立っている状態の福岡にも敢行)、ローリング・クレイドル、ぐるぐるパンチ(福岡の得意のムーブ)などを出し合ったが、豊田が終始余裕を見せて、ジャパニーズ・オーシャン・スープレックスで勝利を収めた。
  • 9/29 愛知県体育館でLLPWとの対抗戦に参加、山田敏代と組んでハーレー斉藤・半田美希組と対戦し勝利。この時の序盤で半田に見舞ったドロップキックの映像は、角度や照明の関係からか、半田にヒットする際の足の伸び具合やヒットする瞬間の鈍い衝撃音などをよく見聞きすることができる。
  • 10/9 東京ベイNKホールでJWPの尾崎魔弓とシングル・マッチ。パートナーの山田はダイナマイト・関西とシングル・マッチが組まれており、WWWA王座を奪われた二人がシングルでリベンジをはかる機会となった。山田は関西に敗れたが、豊田は尾崎に場外でのジャーマン、ラ・ケブラーダ(この時の飛距離と高さは特筆ものであった)を放つなど気合い十分のファイトを見せた。尾崎も見事な切り返しと一瞬のラッシュで反撃したが、最後はスタミナの切れかけた尾崎を肩に載せ、カメラマンの正面へと180度振り向いて歩いて見せ、ジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックス・ホールドで勝利。
  • 11/28 大阪城ホールのセミファイナルで山田敏代とのオールパシフィック選手権王座決定戦。4月以降タッグを一時凍結していた二人が、翌月のリターン・マッチを控えての対決となった。ライバル対決の集大成となったが、最後は山田が30分40秒、リバース・ゴリー・スペシャル・ボムで勝利を収めて王座奪取。負けた瞬間、豊田はマットを叩き、突っ伏したまま悔し涙を流していた。表彰式の後、二人は正座して礼をし、抱き合って健闘をたたえ合った。
  • 12/6 両国国技館のセミファイナルで尾崎・関西組とのリターン・マッチに挑む。この試合は通常と同タイトル戦と異なり、60分1本勝負で行われた。25分33秒、豊田が尾崎を、リバースのジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックスの姿勢からマットに叩きつけて王座奪回。
1994年
  • 山田とのライバル関係、タッグが解消に向かう。シングル・プレイヤーとしての成長が著しく、山田に代わって新たなライバルとなった井上京子、WWWA王座をめぐるアジャ・コング、ダイナマイト・関西との戦いが中心となっていく。
  • 8/24 日本武道館のセミファイナルで、IWA王者として、オールパシフィック王者である井上京子とダブル・タイトルマッチ。ジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックスを返されるなど、後一歩のところまで追い詰められるが、京子の三角跳びからの雪崩式フロント・スープレックス、ナイアガラ・ドライバーをしのぎ切る。両者フィニッシュ・ホールドを出し尽くした死闘となったが、カウンターでのロープの反動を利用しての飛び付き式高角度回転固めで23分31秒、勝利をもぎとりシングル二冠王となった。
  • 10/9 川崎市体育館のメインイベントで、井上京子・井上貴子を相手にしたWWWA世界タッグ王座防衛戦。1-2で敗れ、王座陥落。
  • 11/20 東京ドーム、憧夢超女大戦でのV☆TOP WOMAN日本選手権トーナメントでは、1回戦でアジャ・コングと対戦。放送席の机を持ち出し、場外でアジャを机の上に載せて、トップロープからボディ・プレスを放ち机を割った。白熱した好勝負となったが、最後は17分17秒、アジャの、意表を突いたスタイナー・スクリュードライバーに沈む。WWWA王者であり、負けるわけにいかなかったアジャの執念が勝った結果となった。同興行での隠れベストバウトという評価もあった。
  • 12/10 タッグリーグ・ザ・ベスト'94では、井上貴子と組んで、巴戦の末優勝。
1995年
  • 吉田万里子、伊藤薫、長谷川咲恵と「フリーダム・フォース」を結成。ブリザードYuki(長谷川)とのタッグでWWWA世界タッグ王座にも挑戦した。
  • 3/26 横浜アリーナで、アジャ・コングからWWWA世界シングル王座を奪取。アジャに場外の机の上で、机が真っ二つに割れるパイル・ドライバーを食うなど激しく攻め込まれるが耐え抜き、28分10秒、雪崩式→通常型のジャパニーズ・オーシャン・サイクロン・スープレックス・ホールドの連発で王座初戴冠。92年11月から続いた、アジャの2年4か月にわたる長期政権を遂に終わらせた。
  • 5/7 後楽園ホールのメインイベントで井上京子を迎えたWWWA世界シングル防衛戦。全女では10年ぶりとなる60分フルタイムの名勝負を展開する。
  • 6/27 札幌中島体育センターで、アジャ・コングに20分越えの死闘の末、カウンター気味の裏拳でWWWA世界シングル王座を奪回される。
  • 9/2 日本武道館のメインイベントで、北斗晶とシングルマッチ。ドームでのアジャ戦と同じ、机割りの場外ボディ・プレスを見せたが、北斗も執念を見せて白熱の好試合となった。掟破りの逆ノーザンライト・ボム2連発で北斗からフォールを奪う。
  • 9/3 ジャパン・グランプリ95で、5年ぶり2度目の優勝。
  • 12/4 両国国技館のメインイベントで、ダイナマイト・関西からWWWA世界シングル王座を奪取。2度目の王座に就く。
  • 12/25 後楽園ホールのメインイベントで、「豊田真奈美クイーンズロード トライアル30」と題して、30人掛けを敢行。見事に戦い切る。1人1分1本勝負で、アジャらのエース級から最上真理、納見佳容など当時の前座まで20人が入れ替わり立ち替わり相手となった。戦績は9勝3敗18引き分け。この様子はビデオ『飛翔天女』で見ることができる。
1996年
  • 3/31 横浜アリーナのメインイベントで井上京子の挑戦を受けたWWWAシングル選手権試合。怪我を抱えており体調は万全ではなかった京子に対して、あえて痛めている右肩を攻めないクリーンな試合を貫いた。94/8/24、95/5/7のタイトル戦同様、お互いに持ち技を出し切る熱戦となったが、最後は21分29秒、ジャパニーズ・オーシャン・ボムで京子を沈めた。試合終了後のマイクアピール、表彰式後のインタビューでは京子の健闘を素直にたたえた。
2006年
  • 4月 ZERO1-MAXのS-ARENA大会に於いて、男女混成出身地別都市対抗戦が行われ、島根県益田市出身同士というよしみで日高郁人とのタッグを結成した。
  • 5/28 JWP認定無差別級王座をエネミーとして初獲得。
  • 8/6 20周年記念興行開催。第1試合からメインイベントまで全5試合に出場した。
2008年
  • 8/10 OZアカデミー興行でアジャ・コングとのリングネーム改名シングルマッチに敗れ、リングネーム改名を余儀なくされたが、「自分のことは自分でやる」と新リングネームを「豊田魔波」(魔は尾崎魔弓から取った)と発表し、尾崎軍団入りを表明した。
2009年
  • 9月 OZアカデミー興行でアジャ・コングの持つOZアカデミー認定無差別級王座に挑戦し、勝利。「昨年8月にアジャ・コングにリングネーム(豊田真奈美)を剥奪されたものの、9/21札幌にて、そのアジャ・コングを倒し『OZアカデミー認定無差別級』のベルトを巻いたことにより屈辱は果たした」というマイクアピールを行い、10/11付けでリングネームを本名に戻し、尾崎軍を脱退した。
2010年
  • 9月 北米のインディ団体「チカラ」に遠征。アメリカ初勝利を挙げる。この遠征は現地に住む師匠・山崎五紀の尽力で実現した。

人物

1987/8/5、全日本女子プロレスでの対中村幸子戦でデビュー。同期の下田美馬とスイート・ハーツとしてタッグを組んでいたこともある。その後山田敏代とタッグを組み大活躍したが、1992年には髪切りマッチで対決を行った。その後、シングルマッチタイトルの頂点であるWWWA世界シングル王座まで上りつめ、1990年代の全女の象徴として君臨した。現在もなおマットで活躍を続ける女子プロレス界のトップスター。そのテクニックは評価が高く、WWEディーヴァからもリスペクトを受けている(ナタリアはサバイバー・シリーズで組みたいレスラーの一人に挙げている)。

豊田の使う技は難易度が高く、彼女のオリジナル技が他のレスラーに使われることはほとんどない(全くないわけではないが、身体能力の問題で他人にはできないことが多い)。それらオリジナル技には出身地にあやかって「ジャパニーズ・オーシャン」の名を冠し、いずれも相手の腕をロックした状態で使うのが特徴的である。また女子プロレスには男子プロレスの影響が技などの面で少なからず及ぶことがあるが、豊田は全く男子プロレスを見ないタイプでその影響は全くといって良いほどなく、むしろ頑として拒否していた程であった。この辺りにも彼女の孤高さが見え隠れする。また、本気で勝負する選手であり、手加減はしないと断言している。特に「ラスタとんねるず'94」のジャイアント将棋では、本気さを見せつけ木梨憲武扮する憲王と3度に渡り死闘を繰り広げ2勝1敗の成績を残している。さらに同番組最終回のジャイアント将棋インテグラルでは、全女時代のかつての先輩・ライオネス飛鳥と相撲対決(実質はレスリング勝負)で壮絶な死闘を繰り広げた末に敗れている(豊田は現役選手である自分が引退した飛鳥に敗れたことを大変悔しがった)。

また1993年、山田敏代と豊田真奈美による「POWER ON THE DREAM」という曲でCDデビューも果たす(8cmシングルCD「Deep Up!」に収録。ポニーキャニオン)。

試合ではプランチャなどの華麗な飛び技を多用し、「飛翔天女」の異名をとる。しかしほとんどの飛び技は練習では怖くて飛べず、試合中の勢いに任せて飛んでいるらしい。

全日本女子時代の彼女のイメージ・カラーはピンクだったため、ピンク色の紙テープが飛んでいた。コスチュームの色もごく初期を除いてピンク×白→ピンク×黒と変化していき、最終的に黒を基調としたものとなった。一時期赤×金を着ていたが再び黒を基調としたものに変えている。なお、ガウンも黒が基調だったがコスチュームの色を変える以前から赤や白を取り入れている。 本人によると黒を好む理由は「全ての色を内包した一番派手な色だと思っている」から。また、一時期コスチュームを赤に変更した理由は当時全女から選手が大量離脱し、残ったレスラーの殆どが(黒を含む)暗色系のリングコスチュームだったため。

極度の打たれ強さとスタミナから「ゾンビ」という異名をとる。女子プロレス界の歴史において打たれ強さは人間離れをしており工藤めぐみと双璧をなしている。また、自分も怪我しそうな技を多く使うわりには負傷することが少ないのも特徴。全日本女子プロレスでは対抗戦初期までは場外にマットを敷いていなかったが、他の主力選手達と同様、平気でケブラーダやプランチャ、ミサイルキックを場外に放っていた。

体が非常に柔軟である。そのため高い身体能力と合わせ、後述のような難易度の高いオリジナル技を多数持つ。さらに相手の関節技が十分な威力を発揮しないことも多い。

トップロープから場内、場外へ飛ぶときの決まり文句が「よっしゃ行くぞー!」である。また、トップロープから場外へ飛ぶ際には、しばしば飛ぶ直前に手を合わせて拝むような格好をしていた。

入場テーマ曲

  • 「GRIND」(響野夏子)
  • 「Mystic Eyes」(完全版 全日本女子プロレス選手別テーマ曲集)
  • 「QUEEN OF QUEENS」(バクバクKissの世界)





藪下 めぐみ
1972/3/2

日本の総合格闘家、プロレスラー、柔道家。北海道旭川市出身。旭川大学高等学校卒業。FIGHT CHIX所属。柔道家藪下由香は妹。

経歴

旭川大学高等学校、ミキハウスと柔道で活躍。

1993年
  • 全日本実業柔道個人選手権大会優勝。
1994年
  • 福岡国際女子柔道選手権大会3位などの成績を残す(階級はいずれも52kg級)。
1995年
  • 世界柔道選手権大会千葉大会出場。
1996年
  • 吉本女子プロレスJd'入団。
1997年
  • 4/20、東京・後楽園ホールにおいて、対坂井澄江(ミキハウス時代の同僚)戦で25歳にしてプロレスデビュー。
1997年
  • 12/8、「CMAオクタゴンチャレンジ」にてユ・ジヘイを腕ひしぎ十字固めで破り、総合格闘技デビューを白星で飾る。
1999年
  • 6/13、中西百重(当時全日本女子プロレス)との総合格闘技戦に臨み、60分時間切れ引き分け。
2000年
  • 12/5、女子総合格闘技興行「Re-MIX」に出場。準決勝でスベトラーナ・グンダレンコ(ロシア)を判定で下すも、決勝でマルース・クーネン(オランダ)に判定で敗れ優勝を逃す。
2002年
  • 12月にJd'を退団。以後、総合格闘技に力点を置くようになる。
2003年
  • SOD女子格闘技道場の講師に就任。後進の指導にも当たるようになる。
2004年
  • 12/19、初代スマックガール無差別級王者決定1dayトーナメントに参戦。1回戦でシャノン・フーパー(アメリカ)に1R0:29脇固めで一本勝ち。準決勝でロクサン・モダフェリ(アメリカ)に3-0で判定勝ちした。決勝戦でエリン・トーヒル(アメリカ)と対戦。トーヒルが亀状態の藪下に脊髄部分へ肘を落とし、ドクターが藪下の試合続行を無理と判断。1R2:39反則勝ちで優勝(ただし先に藪下がトーヒルのグローブを掴むという反則を犯していた)。
2006年
  • 2/15、スマックガール・後楽園ホール大会でアマンダ・ブキャナーに敗れ、無差別級王座から転落。
  • 5月末を以てSOD女子格闘技道場は閉鎖。所属選手は新たに「巴組」を結成。
2007年
  • 11/30付で巴組が活動休止(発表では「全員卒業」)となり、12月からフリーランスとして活動。
2010年
  • 3/19、JEWELS 7th RINGのリング上で、新しいチーム「FIGHT CHIX」として活動していくことを発表した。
  • 4/11、VALKYRIE初参戦となったVALKYRIE 05で葛西むつみと対戦し、アームロックで一本勝ち。
  • 6/19、VALKYRIE 06で中井りんと対戦し、0-3の判定負け。
  • 12/12、J-GIRLSライト級王者村上リエに挑戦し、3RKO負けで王座獲得ならず。
戦績(総合)
36試合19勝17負





ヒース・ヒーリング
Heath Herring
1978/3/2

アメリカ合衆国の総合格闘家。テキサス州ウェーコ出身。ラスベガス・コンバットクラブ所属。ニックネームは「テキサスの暴れ馬(The Texas Crazy Horse)」。
レスリング、サンボで培ったグラウンドテクニックを有し、ほぼ毎試合変わる髪型や、テンガロンハットを被りながらの入場などで人気を博す。

来歴

プロファイターになる前の職業はコンピュータプログラマだった。

全米サンボ選手権で優勝。

1999/9/27、アメリカのWorld Vale Tudo Championship 9で優勝を果たした。

PRIDE

2000/6/4、PRIDE.9でPRIDE初参戦。PRIDE.11でトム・エリクソン、続くPRIDE.12ではエンセン井上に勝利し、さらにPRIDE.15では、当時「霊長類ヒト科最強の男」と呼ばれたマーク・ケアーにTKO勝ち。

2001/11/3、PRIDE.17ではアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと初代PRIDEヘビー級王座を賭けて対戦。スタンド・グラウンド共に試合のペースを掴まれ、判定負けで王座獲得には至らず。

その後はイゴール・ボブチャンチンには判定で勝利を収めるものの、エメリヤーエンコ・ヒョードルにはパウンドでドクターストップに追い込まれ、ミルコ・クロコップ戦ではミドルキックからのパウンドでTKO負けを喫するなど、ヘビー級の3強(ヒョードル、ノゲイラ、ミルコ)に差をつけられる状況に追い込まれた。

2004年、トップ戦線復帰を目標にヘビー級グランプリに出場。1回戦でパンクラスの高橋義生に鉄槌で失神KO勝ち。2回戦でノゲイラとのリベンジマッチが組まれたが、2R開始直後にノゲイラの新技スピニングチョークの前にタップアウト。リベンジは果たせなかった。

2004/10/21、PRIDE.28で横井宏考と対戦し、1RでKO勝ち。この一戦でPRIDEとの契約が切れた。

HERO'S

2005/3/26、HERO'SでK-1選手のサム・グレコと対戦。試合をリードしていたが、ローキックを放った際に軸足を負傷しTKO負けとなった。

さらに2005/12/31、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!のリングに登場し、中尾芳広と対戦。しかし、中尾は試合前の睨み合いでヒーリングを挑発しようと唇にキスをしてしまう。これに激怒したヒーリングは試合開始前であるにもかかわらず中尾に右フックを見舞い、中尾が失神してしまったためヒーリングの反則負けとなった。この後にヒーリング側が抗議し、裁定の結果、「非常識な挑発をした中尾にも責任はある」として当試合は無効試合となった。この時の行動が元になり中尾はリングネームを「中尾"KISS"芳広」と変更した。

2006/3/15、HERO'Sのリングでゲーリー・グッドリッジと対戦し、右フックでKO勝ち。この試合を最後にHERO'Sのリングを去ることになり、アメリカの格闘技団体WFAに移籍。その後UFCを運営するズッファ社がWFAを買収したため、自動的にUFCへ参戦することとなった。

UFC

2007/1/25、UFC Fight Night 8においてジェイク・オブライエンと対戦。判定負けによりUFCでは黒星デビューとなった。4/7のUFC 69ではブラッド・アイムズを3-0の判定で下し、UFC初勝利を挙げる。

2007/7/7のUFC 73で、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと3度目の対戦。1R終盤ではハイキックでノゲイラからダウンを奪うが、それ以外では試合を支配され、判定で敗れた。

2008/3/1、UFC 82でシーク・コンゴと対戦し、2-1の判定勝ち。8/9のUFC 87ではブロック・レスナーに判定負けを喫した。

2009/6/13、UFC 99でケイン・ヴェラスケスと対戦予定であったが、気管支炎により欠場となった。

戦績
43試合28勝14負1無効

  



ランス・ケイド
Lance Cade
1980/3/2 - 2010/8/13

本名:ランス・カーティス・マクノートLance Kurtis McNaught
アメリカ合衆国のプロレスラー。ネブラスカ州オマハ出身。
来歴
1999年、ショーン・マイケルズが作ったサンアントニオにあるTWA(テキサス・レスリング・アカデミー)にてトレーニングを始める。FMW横浜アリーナ大会(1999/11/23)にレフェリーとして来日したショーン・マイケルズに伴われて初めて来日。1週間後に開幕のFMW12月シリーズにアメリカン・ドラゴンとのタッグで参加。翌2000年2月シリーズには単独で来日した。
2001年にWWEと契約。下部組織MCWやHAWで活動した後に、OVWへと居場所を移す。OVWではレネ・デュプリーとタッグ王座を獲得した。その後デュプリーがWWEへ昇格したため、マーク・ジンドラックとタッグを組むことになり、その活躍が認められ、ケイド自身も2003年にWWE昇格を果たした。
WWEではギャリソン・ケイドと名前を改め、同じく昇格したジンドラックとのコンビでロウを舞台に活動する。アルマゲドンやレッスルマニアで、世界タッグ王座争いをするまでの成長をみせるが、一度も獲得はできなかった。その後、ドラフトにてパートナーのジンドラックがスマックダウンに移籍したためタッグは解消。それからはジョナサン・コーチマンの護衛にあたり、TAJIRIやライノと抗争するも、目立った活躍はできずOVWに戻されることになった。
再びOVWにて活動した後、2005年8月にトレバー・マードックをパートナーにケイド&マードックとしてWWEに再昇格。同年に行われたアンフォーギヴェンでは念願の世界タッグチーム王座を獲得。その後はWWEのタッグ部門の扱いからか、主に前座番組HEATでの登場が多くなる。それからビンス・マクマホンとエッジと共にDXと対戦し、徐々にWWE幹部からも好評価を得ていく。2007年5月には再び世界タッグ王座を奪取した。
2008年、マードックとのタッグを解散した後はクリス・ジェリコのパートナーとなり、ヒールとしてジェリコと共にショーン・マイケルズと抗争したが、10月にWWEを解雇された。
2009/2/22、カウボーイ・ランス・ケイドのリングネームで、ハッスルに参戦。以降もハッスルやベイダータイムで活動後、同年10月にWWEと再契約してFCWにてトレーニングを続けていたが、翌2010年4月、1軍のリングに一度も上がること無く再び解雇された。
以後、5月からは全日本プロレスに登場し、VOODOO-MURDERSの一員として活躍していた。
2010/8/13、心不全にて急死。30歳没。訃報はWWE公式ホームページでもアナウンスされた。
















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