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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
3/12



鬼塚勝也
1970/3/12

元プロボクサー。本名は鬼塚 隆(おにづか たかし)。福岡県北九州市出身。WBA世界スーパーフライ級王者として5度の防衛に成功した。愛称は「SPANKY(スパンキー)K」。

プロデビュー時は本名の"鬼塚隆"であったが、「どんな形でも勝つことにこだわりたい」との願いから、リングネームを"隆"から"勝也"に改めた。端整な顔立ちで、女性ファンも多かった。






斗猛矢
1973/3/12 

本名:足立知也、1996/1/25デビュー。道産子プロレス道場 元気に所属し、PWCなどのインディー団体で経験を積む。コンドル(当時は「ヘブン」)、アジアン・クーガー、ファントム船越とZIPANGプロモーションを結成。1997年10月18日、出身地である北海道登別市でプレ旗揚げ戦、翌1998年3月に旗揚げ戦を行う。しかし同年9月、クーガーと船越が、西野勇喜、ザ・グレート・タケルと、当時参戦していたIWA JAPANを中心に活動するユニット「Jolt Jokers」を結成を興行中に宣言した事を受けて離脱(団体追放処分)した事から、団体活動は徐々に縮小化、他団体参戦が中心となる(2003年3月、団体は活動休止。)

2001年以降の主な活動

2002年12月、WMFに参戦。初試合が登別市での凱旋興行として挙行される。

2003年7月25日、王座決定トーナメントで優勝し、WMF認定ジュニア・ヘビー級王座獲得。

2005年より、改めて登別市に拠点を持ち、EMMA(エンマ)を結成。プロレス教室を開き、選手の育成を開始。当初は公共施設を借りる形での練習であり、本人は首都圏を中心に活動。

2007年4月29日、北海道夕張市で開催された、大仁田厚興行(チャリティープロレス)に、プロレス教室の練習生と共に参戦。活動拠点を登別市に移した事、道場を設立し、団体としての旗揚げを予定している事を正式宣言。

2007年10月21日、当時三冠ヘビー級王座にあった佐々木健介を招聘してのEMMA旗揚げ戦を、道場である「アレナノボリベツ」で開催。2008年4月、第2弾興行を開催。

旗揚げ戦に絡んで判明した北海道のプロレス団体への認知度

北海道を拠点として旗揚げしたプロレス団体としては、(拠点が別地域に移ったものなどを含めると)若松市政が興し、斗猛矢自身も所属した道産子プロレス道場 元気を嚆矢として、ジョージ高野のFSR、畠中浩旭のアジアン・スポーツ・プロモーション、佐山聡の掣圏道、クレイン中條率いる北都プロレスがある。

しかし、北海道地元テレビ局(札幌テレビ放送)が制作し、EMMA旗揚げ戦を取り上げ、2007年11月4日に放映されたドキュメント番組「D!アンビシャス」では、「道内初のプロレス団体!」と番組紹介でも、番組中のテロップでも流された。(現在同局のHPでは表現が少し柔らかくなり「道内発のプロレス道場」と掲載されているが、設立当時のFSRを紹介した北海道新聞の記事でも「道内初の道場」と銘打たれていた。)


 
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KENTA
1981/3/12

日本のプロレスラー。埼玉県草加市出身。本名は小林 健太。本名が小橋建太と一文字違いのため「コケンタ」と呼ばれている。プロレスリング・ノア所属。

経歴・戦歴

入門前

小学校高学年の頃、ファミコンのプロレスゲームで自分と一文字違いの名前のプロレスラー・小橋健太(現・小橋建太)の存在を知り、プロレスに興味を持つ。以降テレビ・雑誌を通じて小橋の、ひいてはプロレスファンとして成長する。
高校野球の強豪・修徳高校時代には野球に打ち込みつつ、小橋がアマチュア時代に体を作るために通っていた遠藤光男(日本アームレスリング連盟会長)の主宰するエンドウズジムの存在を知り、入会。卒業にあたり、遠藤氏にプロレスラー志望の意を伝えると、小橋と旧知の遠藤氏が小橋宛に履歴書を送り、「一般公募オーディションに参加するように」との返事を貰う。オーディション参加には、一面識もないにもかかわらず小橋の推薦が付いていて本人も驚いた、というエピソードがある。

デビュー

1999年、全日本プロレスが初めて行った一般公募オーディションに参加し、合格する。練習初日、余りの練習の厳しさに合格者が次々と倒れこんでいく中、テレビのインタビュアーに「後悔していませんか?」と訊ねられたところ、「いえ、していません」ときっぱり答えていた。2000/3/11、後楽園ホールでのバトルロイヤルでプレ・デビュー。合格者7名の中で唯一5/24青森県総合運動公園体育館にて、丸藤正道を相手に本名の「小林健太」でデビューする。その直後に全日本が分裂しそのまま三沢が設立した新団体プロレスリング・ノアに移籍する。この頃、小橋がリーダーのチーム「バーニング」が崩壊、初代付き人の金丸義信も小橋の元を離れ、KENTAが2代目付き人となり、3代目の潮﨑豪に引き継ぐまでの約4年間行動を共にすることになる。

新人時代

ジュニア戦士らしく飛び技主体のスタイルで戦っていたが、その路線には天才と名高い丸藤正道が居たためいま一つ印象が薄く、当時練習生であった鈴木鼓太郎が自分が出来ない跳び技を軽々やってみせていたことから自分のスタイルに迷いが出てくる。師匠である小橋にオレンジ色を譲り受けるも度重なる怪我で戦列を離れた。自分はジュニア戦士なのだから飛び技を使えなければならないと思い意図的に飛び技を出していたためである。小橋に師事しトレーニングに励み、スタイルもパワーを強調したものになっていった。2002/5/27、第5代ジュニアヘビー級トーナメント決勝で金丸義信に肉薄し、それ以降、積み重ねてきたキックボクシングを取り入れたキック中心のスタイルを確立していく。

イケメンタッグ

トップに近づくため、丸藤正道とタッグを組み始める。性格はバラバラで特に仲良くもなかったが、タッグの相性は抜群であり、2002/7/16、外敵タッグの獣神サンダー・ライガー・村浜武洋組を退け初代GHCジュニアヘビー級タッグ王座を獲得した。丸藤の魅せる動きと受け、KENTAのハードヒットという両極端だが非常に分かり易いスタイル、そしてルックスの良さから「イケメンタッグ」と称されるようになり、多くの女性ファンを呼び込むことに成功した。ただ見た目が良いだけではなく、試合をすれば必ず名勝負を演じ納得のフィニッシュで勝利を掴むことから、同時期のGHCヘビー級王者の小橋建太と並んで「名勝負製造機」「ジュニア版絶対王者」と賞され、ノアにおけるジュニアの台頭を生んだ。2004年、KENTAは「蹴撃七番勝負」を行なう。初戦のフベントゥ・ゲレーラ以外は全敗という結果に終わる。2戦目の相手小川良成の持つGHCタッグ王座に挑戦を表明していたが、敗れてしまったために小川から鈴木鼓太郎とのタッグでGHCジュニアヘビー級タッグ王座挑戦が決定するもこれを返り討ちにする。この実績から三沢光晴・小川良成組が持つGHCタッグへの挑戦が2004/4/25に決定した(結果は敗北)。
5/7・5/8に行われた第2回ディファカップに丸藤とのタッグで出場。決勝戦でタッグ歴6年を誇る日高郁人・藤田ミノル組と35分24秒にも及ぶ激闘を繰り広げ、最後にはブサイクへの膝蹴りで藤田を撃破し見事優勝を果たした。6/5には金丸義信・杉浦貴組に敗れ、約2年に渡り9度の防衛に成功したGHCジュニアヘビー級タッグ王座から陥落。

GHC ジュニアヘビー級王者時代

2005/7/18東京ドームにて金丸義信が保有するGHCジュニアヘビー級王座に挑戦し奪取に成功する。その後日本国外での防衛戦を経て、2006年1月、先輩である丸藤正道を相手に防衛戦を行い、同年のベストバウト候補に挙がるほどの死闘を繰り広げ、ついに丸藤越えを果たした。この防衛戦の高い評判により丸藤正道と共に対ヘビー級路線に駆り出されるようになる。
直後の3月には師である小橋建太とこれまた激闘を繰り広げるも、リストクラッチ式バーニングハンマーにより敗れた。
その後も防衛戦を続けるも同年6月杉浦貴に敗北し1年近く在位していた王座から陥落した。

ROH参戦・対ヘビー級路線

GHCジュニアヘビー級王座からは陥落したものの、かつてタッグを組んでいた丸藤正道が2006年9月に秋山準を破りジュニアでありながらGHCヘビー級王座を戴冠。同年1月にGHCジュニアヘビー級王座の防衛戦で丸藤に勝利していた経緯から初防衛戦の相手として指名され、初のジュニアヘビー級同士によるGHCヘビー級選手権試合が行われた。1月の試合を超え、プロレス大賞にて2006年のベストバウトに選ばれる程の死闘を繰り広げたものの敗北する。
また2005年末よりアメリカのインディ団体ROHに定期的に遠征するようになり、当時ROH世界王者だったブライアン・ダニエルソンとライバル関係になる。現地にてROH世界王座に挑戦して敗北することもあったが、2006年12月にノアマット初上陸を果たしたダニエルソンとリマッチを行い初勝利を収めた。
2006年から断続的に続いていた対ヘビー級路線は2007年に入り森嶋猛とのシングルという形に結実した。2006年12月にSEMで引き分けたことに続き、2007年3月には日本武道館のメインイベントでROH世界王座戦(2007年1月に森嶋がROH世界王者になっていた)という形で森嶋に挑むも敗北。その後、下記に示す石森太二とのタッグ結成により再びジュニアヘビー級戦線に戻るかと思われたが、対ヘビー級の能力も高く評価されており、アメリカで三沢光晴を相手にGHCヘビー級選手権試合を行ったりする等、時々ヘビー級戦線に参戦している。

石森太二とのタッグ結成

2007年初夏頃から石森太二とタッグを組むようになり、ジュニアヘビー級戦線の活発化のためノア初のジュニアタッグリーグ戦を提唱し実現する。ジュニアヘビー級タッグ王者の鈴木鼓太郎&リッキー・マルビンの他、ROHの強豪タッグチーム:ブリスコ・ブラザーズや、丸藤正道がDDTの飯伏幸太と組んで参戦したことにより大成功を収めた上、王者チームを差し置いて優勝をも果たした。
同年8月にはジュニアタッグリーグ優勝の勢いを駆ってGHCジュニアヘビー級タッグ王座に挑戦するも敗北。その後しばらく目立った活動は無かったが、2008/3/20,、THE GATE OF GENERATION DRAGON GATE大田区体育館大会、DRAGON GATEに流出したGHCジュニアヘビー級タッグ王座へ挑戦し、勝利して第9代GHCジュニアタッグ王者になる。しかし7月にはヒールファイトに目覚めた金丸義信・鈴木鼓太郎組に敗れて王座陥落してしまう。ここから両者の抗争がスタートし、2008年のジュニアタッグリーグの優勝決定戦で再び激突し、勝利を収め2年連続の優勝を決めた。

シングル王座返り咲き〜現在

また10月にブライアン・ダニエルソンの持つGHCジュニアヘビー級王座に挑戦。勝利を収めて3年ぶりにベルトを巻いた。初防衛戦は世界ジュニアヘビー級王座(全日本プロレスのタイトル)を奪取していた丸藤正道とのダブルタイトルマッチだったが、長年ライバル関係にある両者は一歩とも引かずGHC史上初の60分フルタイムドローという結果になり防衛に成功する。
2009/5/17には自身初となるプロデュース興行「CROSS ROAD」を開催し、メインで因縁浅からぬ秋山とシングルマッチを実現させた。激闘を展開するも、結果は敗北。
2009/10/28に第1回ジュニアヘビー級リーグ戦の鈴木鼓太郎戦で右ひざ前十字靭帯を断裂し、外側半月板を損傷した。10/31には負傷に伴う長期離脱のため、GHCジュニアヘビー級王座を返上した。

人柄

相手がヘビー・格上・師匠であろうが物怖じせず、そのまま突っ込んでいくストレートさと、相手を小馬鹿にした動作や「すかす」クレバーさを備えたタイプのレスラーである。ルックスが良いためにプロレスとは関係のない雑誌にも数多く登場し、丸藤正道と共に女性ファン新規開拓の牽引役となっていた。

童顔であるためか初期の頃は女性ファンに「ケンタきゅん」と呼ばれていたが、最近の急成長を前にそう呼ばれることは殆どなくなってきている。ムシキング・テリー戦以降から、子供達の人気も上昇している。

2006年の5月に入籍を発表。

周りからイケメンイケメンと騒がれ、自分もそれを逆手にとって「ブサイクへの膝蹴り」という技も使用しているが、本人曰く「自分を本気で『イケメン』だなんて思っている人は居ませんよ」。

人間関係

丸藤とタッグを組み、ジュニアタッグ王者の長期政権を築いていたが、KENTAは「丸藤さんとは仲が良くない」「タッグを組んでいるのは、あくまで上を獲る為」と平気で言っている。柴田勝頼のことは「ソウルメイト」と言い、趣味も同じことから公私ともに気の合う仲であることを公言している。

オッキー沖田を嫌っていた。理由は、オッキーがNOAH社長である三沢光晴のことを「緑」と呼び捨てにしているのを目撃したためで、「自分には例える色もないくせに」と憤慨していた。

師匠である小橋をめぐる関係で、秋山準とはそりが合わないとされていた。普段の興行ではタッグを組むことはまず無かった上に、対戦カードが組まれるとKENTAは秋山に対し普段以上の猛攻を浴びせ、秋山も何時も以上の冷徹さでこれに応戦していた。確執が決定的になったのは、2004年に行われたKENTA蹴撃七番勝負の秋山戦である。雑誌等の取材で秋山のことに話が及ぶと、KENTAは敢えて「秋山氏」「白パン」(秋山のリングコスチュームが白のショートタイツであることから)と呼んでいた。 しかし2009年の自身プロデュースによる興行でメインイベントで秋山と対戦した際は、試合後にKENTA自ら秋山に握手を求め、秋山もそれに応じた。その興行終了後に行われた週刊プロレスでのインタビューでは「秋山さん」と呼び、ある程度確執は解消されたようである(そのインタビューの際、インタビュアーから「秋山さん、でいいんですか?」と逆に心配されたがKENTAは「いいです、いいです(笑)」と答えている)。

エピソード

  • 「第二回ディファカップ」優勝後、リング上で優勝賞金100万円を受け取ると、ZERO1-MAXのオッキー沖田を呼び出し、「オッキー、これ、おまえが責任持って星川選手に渡しな」と、クモ膜下出血のリハビリを続けている星川尚浩へ渡すよう告げる。沖田はリング上で号泣した。
  • 第2回SEMのボーナスマッチの後、菊タローが「これからは菊KENタッグでタッグベルトを狙います。森嶋、ヨネ、待っていろ!」と言われ、菊タローをつまみ出して「組むことはない」と言っているが、このネタも楽しんでいるのではないのかと言われている(KENTAはお笑い好きである)。
  • SUWA、金丸義信、平柳玄藩などヒールレスラーとの対立が多く団体内では急所攻撃を受けることが多い。
  • 北海道が鬼門。GHCジュニア、ジュニアタッグ両方のタイトルを北海道で手放している。

趣味

大変な好角家でもある。大相撲の話になると饒舌になり、力皇猛と仲が良いこともあって二人で両国国技館にて観戦したり、力皇の弟分である幕内力士などと食事をすることもある。また毎場所の場所前には力皇から番付表を貰い、自分の部屋に飾っていると言う。

師匠「小橋建太」

プロレス界入りの経緯の通り、KENTAは小橋建太に多大なる影響を受けている。

  • 練習生時代には小橋から「俺と一文字違いということで周りから色々と言われるかもしれないけど、お前はお前で小林健太を確立していけばいい」とアドバイスを受けた。
  • KENTAという改名の理由は「小橋建太に似ているから」ではなく、NOAH旗揚げ前に小橋が膝の手術で入院していた頃、お見舞いに来ていたTHE YELLOW MONKEYの菊地英昭から「KENTAという名前はどうだ?」という話が出ていたという。その後小林名義で怪我の絶えなかったことから、小橋がその「KENTA」という名前を提案、吹っ切る意味で変えたという。
  • NOAH時代、小橋が膝の怪我悪化で長期離脱を余儀なくされた頃、小橋はバーニング解散を宣言する。その旨をKENTA(当時小林)に告げ、付け人も辞めて別のチームにでも行けと言うと「絶対嫌です」と固辞し続け、結局一人だけバーニングに残ることになった。

タイトル歴

  • GHCジュニアヘビー級王座:3回(第10代・第16代・第18代)
  • GHCジュニアヘビー級タッグ王座:2回(初代・第9代)
    パートナー:丸藤正道→石森太二
リーグ戦・トーナメント
  • ディファカップ優勝(2005年)
    パートナー:丸藤正道
  • 日テレ杯争奪ジュニアヘビー級タッグリーグ戦優勝:3回(2007年・2008年・2010年)
    パートナー:石森太二(2007年・2008年)
    →青木篤志(2010年)

入場テーマ曲

  • FOR ONE'S LIFE / BRAHMAN (- 2002年)
  • NO LIGHT THEORY / BRAHMAN (2002年 - 2004年)
  • The Champ Is Here (remix) 〜Art And Life Chi-Roc (2004年 - 2006年)
  • What You Know (Instrumental) / T.I. (2007年1月8日 - )






佐々木義人
1982/3/12

日本の男性プロレスラー。埼玉県川口市出身。大日本プロレスに所属。

経歴

高校時代はレスリングを経験し、アニマル浜口レスリング道場、高校卒業後、FMWに入団。入団から半年経った2000/9/7、チョコボール向井戦にて18歳という若さでデビュー。田中将斗を師として仰ぎ、ゼロワンジュニアの道場長だった高岩竜一に鍛えられる。田中を目標としている。

2008/4/6のJCBホール大会以降怪我のため欠場していたが、10/20付けでZERO1-MAXを退団、10/27大日本プロレス後楽園ホール大会開始前の登坂栄児統括部長の挨拶で、所属ではなくフリー参戦選手として大日本を主戦場とすることを発表。11/1桂スタジオ大会・対井上勝正戦で復帰した。

2009/5/5付で、大日本プロレスに正式入団。 12月にはパートナー石川晋也とともに、第28代BJW認定タッグ王座を得るが、2010年1月、石川の膝の手術による欠場によりベルト返上となった。

入場テーマ曲

  • FMWのテーマ

タイトル歴

  • NWA認定UNヘビー級
  • BJW認定タッグ王座(第23代・28代、パートナーは前者が関本大介、後者が石川晋也)
  • 天下一ジュニア





  

















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