本文へスキップ
 


 
 
”重要なお知らせ”


2011/9/1よりパワーアップでページ独立!

 
 


 
 

プロレス/格闘技
誕生日/忌日
3/13



AKIRA
1966/3/13

日本の男性プロレスラー、俳優。本名、野上 彰(のがみ あきら)。プロレスラーとしてはSMASHに所属、俳優としては浅井企画に所属している。妻は女優の佐伯玲子。

プロレス

1984年、新日本プロレスに入門する。同期には、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、船木誠勝らがいた。久留米県立体育館における武藤敬司戦でデビュー。船木誠勝と組み、タッグでU.W.F.の安生・中野組と好試合を連発し、前座を沸かせる。その後欧州武者修行を経て、凱旋帰国と同時に第16代IWGPジュニアヘビー級王座を奪取。この頃、東京ドーム大会で、隈取を施しAKIRAとして試合を行ったこともある。その後、体重を上げてヘビー級に転向、飯塚高史と「J・J・JACKS」を結成した(さらにエル・サムライを加え、「新世代闘魂トリオ」の名を付けられた時期もある)。1996年にコンビを解消し、平成維震軍の一員となった。

1998年以降、試合(主に橋本の蹴り)の影響で網膜剥離を患う。レスラーとしてはセミリタイア状態となり、俳優業を開始(後述)。しかし、当時欠場中だった蝶野に誘われ、TEAM 2000に「ムービースター」の二つ名で参加。AKIRAと完全に改名し、オブジェを顔面に接着したような風変わりな覆面で試合に乱入、俳優経験を生かした高いアピール力と弾けたファイトぶりで、高い会場人気を得た。その後はジュニア戦線に主戦場を移し、金本浩二や稔(当時は田中稔)との対決は常に名勝負となった。

2004年には新日本プロレスから離脱、フリーとなって全日本プロレスにスポット参戦し、当時カズ・ハヤシが保有していた世界ジュニアのタイトルに挑戦した。AKIRAが初めて全日マットに上がった際、二足の草鞋を履いているからといってどちらもおざなりにせずプロレスをしていた姿を見た渕正信は絶賛しきりであった。それ以後は週刊プロレスの当時のインタビューコーナー『蝶野王国』で、司会の蝶野に対し「全日本で自分の居場所を見つけた」と発言、全日マットをメインに活躍した。

その後和泉元彌のプロレス進出にあたりトレーナーとなった。これを足がかりとしてハッスル・マニアでセッチー鬼瓦軍団の一人としてハッスルに初上陸、クリスマススペシャルでハッスルに正式参戦した。

2006年に近藤修司の保有する世界ジュニアタイトルに挑戦、敗退するものの、その日のベストバウトとして高い評価を受けた。ビッグマウス・ラウドにも参戦している。また、知人の紹介でマッスル坂井、鶴見亜門と遭遇しマッスル名物のスローモーションを見て「俺ならもっと上手くできる」と発言し、「マッスル11」にも参戦した。

2007/8/26に行われた新日本プロレスのC.T.U解散興行で3年ぶりに新日本に参戦。また蝶野正洋、長州力率いる新たなユニットの『レジェンド軍』のメンバーとして活動している。

2008/2/17、フリーとなってから初タイトルとなるIWGPジュニアタッグ王座を奪取(ライガーとのタッグ)。2008年4月、内藤哲也、裕次郎組から防衛するも、現在はタイトルを落としている。

2010/5/29に新宿FACEで行われたSMASH.3より、TAJIRIからの要請で「ワールド・トライアウト・マッチ」の査定官役を任されることになり、以降SMASHにレギュラー参戦。同年9月24日に同じ新宿FACEで行われたSMASH.8ではメインイベントに出場し、スター・バックの保持するFCF王座に挑戦するも敗れる。

2010年12月にはフィンランドに遠征し、11日にヘルシンキで行われたFCFの大会「Talvisota V」にてスター・バックと再戦し、勝利する。

入場曲

  • 「Break on through」 (The Doors)
  • 「浮舟」 (GO!GO!7188) 歌舞伎役者のような和風のコスチュームの時に使用
  • 「Attero Dominatus」(Sabaton) SMASHでの試合時に使用

芸能活動

女優・タレント兼演出家の佐伯玲子と結婚したこととプロレスの試合の影響で網膜剥離となったことにより、役者を志す。1998年から役者として数多くの舞台、映画、ドラマに出演している。2000年に放送した特撮ドラマ、「仮面ライダークウガ」ではその屈強な体を生かし、サイ種怪人「ズ・ザイン・ダ」の人間体を好演した。

プロレスラー復帰後も芸能活動は続けており、プロレスラーのH(エイチ)・ファッションブランドのZUCCaとのコラボレートユニット「ZAH(ザッチ)」の結成、パラパライベントのプロデュースなど、多方面にわたり活躍している。

2006年度のNHK外国語講座スペイン語会話に生徒役の一人として出演していたが、面接試験が苦手だったことが響き、5月25日付の放送で2人目(長谷川恵美に次ぐ)の追放者に決定してしまった。

出演

映画

  • いかレスラー
  • お父さんのバックドロップ

テレビドラマ

  • 仮面ライダークウガ(本名の「野上彰」名義で出演 ズ・ザイン・ダ(人間体・怪人体の声)役)
  • 大河ドラマ 武蔵 MUSASHI(砲術師役)
  • セクシーボイスアンドロボ(チンピラ役)

その他のテレビ番組

  • タモリ倶楽部 さよなら20世紀SPECIAL 「新幹線各駅停車うどんつゆの旅」(2000年12月22日、テレビ朝日): 天山広吉と共に出演。東海道新幹線の駅のうどんつゆの色はどこから関西風に変わるのか検証する回のゲスト。
  • NHK外国語講座 スペイン語会話(2006年度4月 - 5月)
  • オールスター感謝祭(2008年3月29日): ぬるぬる相撲で出演しフットボールアワー岩尾望と対決した。

ゲーム

  • 仮面ライダークウガ(本名の「野上彰」名義で出演 ズ・ザイン・ダ)






船木誠勝
1969/3/13


日本のプロレスラー、総合格闘家、俳優。プロレスラーとしては全日本プロレス、総合格闘家としてはARMS所属。

若手時代は本名でリングに上がっていた。バツイチで再婚、現在の妻は元舞台女優、喜山いづみ。弘前大学教育学部附属中学校卒業。

完全実力主義を標榜するプロレス、総合格闘技団体であるパンクラスを設立し、自らエースとして第一線で活躍した。2000年の引退後も運営や方向性の面で積極的な寄与を行う。俳優業や、HERO'S等格闘技番組のコメンテーター等で活動し、かつて絶縁宣言をした前田日明との関係を復活させた。2005年9月には前田の前で、プロレス復帰を匂わせていたが2006年2月で立ち消えとなった。

ケン・シャムロックから影響を受け、「ハイブリッド・ボディ」と呼ばれるナチュラルな肉体の鍛錬方法を提唱。これは、レスラーがあるべき食生活とトレーニング方法を述べたもので、後に書籍、ビデオとしてまとめられた。またコロシアム2000の際、対戦相手のヒクソン・グレイシーが練習に取り入れているクンダリーニヨーガ(火の呼吸)を自らも取り入れその後のパンクラスの練習メニューにも行われている。これらのハイブリッド理論は新日本時代にステロイド剤を使用し後遺症に悩まされた経験を糧にしたものである。

来歴

母子家庭出身。生活破綻者であった父親には今でも激しい恨みを抱いているが、度々映画館に連れて行かれており(敬愛するブルース・リーを知ったのもこの時である)、その頃から映画に興味を持ち、後に自主映画の製作を趣味とするようになる。

新日本プロレスは一度不合格になっているが、高校入学の前日に山本小鉄に気に入られ入団、同期に武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、野上彰(現AKIRA)。日本の男子プロレスとしては当時史上最年少記録である15歳11か月でデビュー(現在の最年少記録は中嶋勝彦の15歳9か月)、26歳で入門した同じヤングライオンの後藤達俊との年齢差が話題になった。

第1次UWFとの抗争では野上彰とのタッグで前座の名勝負を繰り広げ、新日サイドからは次代のエースとして期待された。しかし、1989年に、前田日明、藤原喜明の誘いに応じヨーロッパ遠征中に第2次UWFに入団。このことに関してアントニオ猪木は「プロレスに移籍は無いが、特例で移籍とした」と話している。UWFでは真剣勝負での興行を直訴するが前田ら上層部に時期尚早として却下され、後に理想の団体の設立を盟友鈴木みのると模索するようになる。

1990年12月に第2次UWFが崩壊すると、藤原組の旗揚げに参加。1992/4/19には東京体育館での藤原組の旗揚げ一周年記念興行でロベルト・デュランと異種格闘技戦を行った(3ラウンド腕固めで勝利)。藤原組のエースとして試合を重ねるも、より格闘技的な路線を志向したために、次第に藤原の志向との溝が深まり、1992年12月に藤原組を離脱した。

藤原組離脱後は、どの団体にも所属せず、鈴木みのる、高橋義生(現高橋和生)らとともに練習を重ね、パンクラスを組織。1993/9/21、パンクラス旗揚げ戦を行う。船木はメインイベントでケン・シャムロックに肩固めで一本負け。

1996/9/7、バス・ルッテンの持つタイトル、キング・オブ・パンクラスに挑戦し、KO負け。試合後に「明日また生きるぞ」と発言した。

1996/12/15、新王者決定トーナメントで近藤有己、ジェイソン・デルーシアを破り第4代キング・オブ・パンクラシストとなった。

1997/4/27、近藤有己とタイトル防衛戦を行い、腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫しタイトル防衛に失敗した。

1997/12/20、近藤有己とタイトルマッチを行い、アームロックで一本勝ちを収め王座再戴冠に成功した。

1999/3/1、長谷川悟史が道場近くのマンションから転落し、骨折に基づく外傷性出血ショックで死去。転落の状況が不自然だとして船木は事情聴取を受けた。

2000/5/26、「コロシアム2000」にてヒクソン・グレイシーと対戦し、チョークスリーパーで失神負け。試合後のインタビューで「格闘技は勝負は1回だけなので、失神したら終わりですから。潔く足を洗う決心をしました」と発言し、引退を表明した。

2000年9月27日、自身のテーマ曲『船木誠勝〜RED ZONE 引退記念シングル』が発売された。

2000/12/4、地元青森県で行われたパンクラス「船木誠勝 引退記念興行」で全試合終了後に引退セレモニーが開催され、藤原喜明、佐山聡、藤波辰爾、山本小鉄、獣神サンダー・ライガー、夢枕獏らがリングに駆けつけた。師匠・藤原とお互い涙しながら抱擁しあった。最後は船木の胴上げが行われた。

2005年9月、前田日明がスーパーバイザーを務めるプロレス団体『ビッグマウス・ラウド』旗揚げ戦で、リング上から挨拶、全面協力を宣言した。柴田勝頼を気に入っており、彼と対戦するためにプロレス復帰を匂わせていた。

2006/2/26、新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行でビッグマウス・ラウドを脱退。プロレス復帰に関する整合性の指摘に関しては、インタビューなどで総合に戻ることはないと常々断言していたが結局あやふやなままだった。BML脱退後も柴田との関係は続け、2007年3月には「チームARMS」を結成して総合格闘技のできるプロレスラーにするためにコーチしていた。

2007/7/16、HERO'Sミドル級トーナメント開幕戦において、休憩時間中に前田日明と共にリングに上がると、大晦日の現役復帰を宣言。8月28日の記者会見では復帰戦の対戦相手に桜庭和志を希望し、同席した桜庭も対戦を希望した。同時に船木への批判とともに対戦を要求されていた北岡悟に関しては、「そういう闘いには興味がない」「自分をボコボコにする選手は他にいると思う」などとして対戦拒否した。

2007/12/31、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!のメインイベントで桜庭和志と対戦し、チキンウィングアームロックで一本負け。入場時には、ラッセ(ねぶたをモチーフにしたみちのくプロレスの覆面プロレスラー)のマスクを被って姿を現した。

2008/4/29、DREAM.2のミドル級トーナメント1回戦で田村潔司と対戦し、パウンドでTKO負け。

2008/9/23、DREAM.6でかつての弟子ミノワマンと対戦し、踵固めで一本勝ち。現役復帰後、初勝利となった。試合後、「やっと復活できました。こんな自分でも、体が使える限り格闘技を支えていきたい」とコメントした。

2009/8/30、全日本プロレス両国大会でプロレス復帰を果たし、メインイベントで武藤とタッグを組み、蝶野正洋・鈴木みのると対戦。ドロップキックを繰り出したり、トペ・スイシーダを狙おうとするなどの動きを見せた。翌31日に全日本プロレスと1年契約を締結。9/26、鈴木みのるとシングルで対戦するも鈴木のレフェリー暴行により反則勝ち。

2010/1/3、武藤と組んで世界タッグ王座王者を奪取。3/21両国大会で「金網マッチ」で鈴木と再戦し、レフェリーストップによるKO勝利を収めた。

2010年4月、チャンピオン・カーニバルに出場し決勝まで進出したが、決勝で鈴木に敗れ準優勝に終わった(対鈴木戦初の敗北)。

2010/8/30、1年間の契約満了の更新に際して「継続参戦」とした上で全日本プロレスに正式に所属。

タイトル歴

  • 全日本プロレス
    • 第56代世界タッグ王座 (パートナーは武藤)
    • 2009年世界最強タッグ決定リーグ戦優勝(パートナーは武藤)
  • パンクラス
    • 第4代無差別級キング・オブ・パンクラシスト
    • 第6代無差別級キング・オブ・パンクラシスト

人物

  • 一見クールなイメージだが、激情家の一面を持っており、一度火がつくと後先を考えずに驚くような言動をすることがある。
  • 性格的には熱く燃え上がる一方で、熱が冷めると冷酷に他人と縁を切る傾向があり、ケン・シャムロックとはギャラの支払いなどをめぐって絶縁。パンクラス時代に、鈴木みのるに対しても、専門誌で「もう両雄じゃない、鈴木のことはライバルとは思っていない」と語った。現在、鈴木とは全日本プロレスで激闘を経て、和解し、共闘している。
  • 盟友鈴木みのるとは厚い友情で結ばれていた。新日本の若手時代に鈴木と飲みに行って素人相手に喧嘩をして現行犯逮捕され警視庁麻布警察署に留置された際、このことで鈴木だけが解雇になりそうになったので船木は「鈴木を首にするのなら俺も首にしてください」といって2人で謹慎処分を受けた。
  • 先輩であった獣神サンダー・ライガーとも仲が良く、一緒に骨法を習っていた。
  • また、ヒクソン・グレイシーとの対戦前に行った須藤元気とのスパーリングの際、須藤のパンチで船木の左眉の辺りをカットしたことで船木が激高し、須藤に何度も蹴りを入れ、その後バットで殴ろうとしたことがある(お互いがパンクラスを退団した後、専門誌で対談するなど深い確執には至らず)。
  • 2度目の王座陥落後に今の妻が所属していた劇団の『旅の途中 〜oh!マイフレンド〜』に主演で出演した(それ以前にも端役で違う劇に出演したこともある)ことがある、また同じ劇に元パンクラスの渋谷修身も出演していた。
  • 俳優業の他、旅番組やバラエティ番組に出演することもある。2007/2/25放送の「田舎に泊まろう!」(テレビ東京)では、俳優、元格闘家の片鱗を全く感じさせない素朴さを良くも悪くも醸していた(北海道夕張市の理髪店宅に宿泊)。
  • 2003年11月30日、当時低迷していたパンクラスism所属選手に対し、「正直言って、ismはどうしようもない」「来年からismは解散して欲しい」と三行半を突きつけた。この発言に対し、当時道場長を務めていた國奥麒樹真は「改善を進めている」と冷静にコメントしたが、伊藤崇文がこれに反発し、2003年12月14日の大会で「パンクラスismは強くなろうとするやつらの集まり。坊主頭からやってんだ。解散なんか、するか。11年目の反撃、しっかり見とけよ。パンクラスismは最後に笑うからな。しっかり見とけよ」とマイクアピールした。最終的にパンクラスismが解散することはなかった。

著書

  • 「船木誠勝のハイブリッド肉体改造法」 - シリーズでI、II、IIIとある。基本的にトレーニングによる肉体改造を目的とした本であるが、新しくなるにつれて徐々に掲載されるトレーニングの項は少なくなる。
    • Iは船木自身の経験から編み出された格闘家としての本格的な筋力トレーニングとパンクラスで行われる実践トレーニングを掲載。それまでの間違った肉体改造についてふれ、プロレスラーとしてあるべきトレーニングを示唆している。掲載されたトレーニングは格闘技を志す者への手引きという形になっている。
    • IIは一般向けで有酸素運動と基礎的な筋力トレーニングを総合的に行い、生活に便利な体を作る方法を掲載。
    • IIIはダイエットをしたいが時間がない男性向けに有酸素運動なしの短時間でできる簡単な筋力トレーニングで基礎代謝を上げ、筋肉質な体を作る方法を掲載。
  • 「船木誠勝の格斗誠書」
  • 「船木誠勝の真実」

出演作品

  • 五条霊戦記 GOJOE
  • シャドー・フューリー - 役柄がクローン人間であったため、肉体を極限まで絞り込んだ。この体験が「肉体改造法シリーズ」第三弾を出版するきっかけとなった。
  • 新・影の軍団(2003年、シネマパラダイス)
  • 新・日本の首領
  • 筋肉番付
  • サラリーマン金太郎3
  • Dr.コトー診療所
  • 力道山
  • ゴジラ FINAL WARS
  • デビルマン
  • 筋肉番付シリーズ
  • ストリートファイターII MOVIE - フェイロン役(声優)
  • ザ・ハード(声優・主題歌)
  • 高校鉄拳伝タフ - 宮沢静虎役(声優)
  • 富豪刑事
  • 龍が如く 〜序章〜 - 桐生一馬(ゲーム1作目の実写版ムービー)
  • 真説タイガーマスク - タイガーマスク役
  • 岸和田少年愚連隊 カオルちゃん最強伝説 中華街のロミオとジュリエット


パンクラス ビデオ紹介
U系DVD紹介
船木誠勝vsヒクソン・グレイシー動画

船木誠勝ブログ
船木誠勝ブログ

 
広告


高橋義生
1969/3/13

日本の総合格闘家。本名は高橋 和生。SRC本部道場ヘッドコーチ。

人物

1969年3月、千葉県市川市生まれ。1984年4月、八千代松陰高校入学、レスリング部に入部。国民体育大会優勝の実績を残した。1987年3月、八千代松陰高校卒業。1987年4月、スポーツ推薦で日本大学に入学、国際大会で入賞し、体育会レスリング部主将も務めた。

1991年3月に日本大学文理学部を卒業すると、プロフェッショナルレスリング藤原組に新弟子として加入しデビュー。現在のリングネームを名乗る。1993年9月、船木誠勝・鈴木みのるらと共に、パンクラスの旗揚げメンバーとなった。2007/7/9、パンクラス退団、フリー転身を発表。リングネームも本名に戻した。2008年に戦極に参戦。2010年、新設されたSRC本部道場ヘッドコーチに就任。

エピソード

  • 漫画「高校鉄拳伝タフ」の登場人物のモデルとなっている。作者はこのキャラクターを「高義生」と名付け、別名を人食い義生とした。

来歴

プロフェッショナルレスリング藤原組

1992/2/24、後楽園ホールでバート・ベイルと対戦し、11分22秒KO負け。

1992/8/15、徳島市民体育館でウェイン・シャムロックと対戦し、9分10秒スリーパーホールドで一本負け。

1992/10/4、東京ドームでムエタイ選手スパマン・オー・ソットサバーと異種格闘技戦を行い、1R腕ひしぎ首固めで一本勝ち。

1992/11/3、浜松市体育館でウェイン・シャムロックにリベンジ戦を挑むも、1分27秒TKO負け。

パンクラス

1993/9/21、パンクラス旗揚げ戦でジョージ・ワイングロフと対戦し、KO勝ち。

1993/10/14、ウェイン・シャムロックと3度目の対決。ヒールホールドで一本負け。

1993/12/8、船木誠勝と対戦し、TKO負け。

1994/1/19、稲垣克臣と対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。

1994/1/30、カラテ・ジャパン・オープンの第3回トーワ杯カラテトーナメント選手権大会に出場、グローブ空手ルールで村上竜司相手に他流試合を挑むが敗北し、ベスト16に終わる。

1994/5/31、バス・ルッテンと対戦し、TKO負け。

1995/9/1、渋谷修身と対戦し、肩固めで一本勝ち。

1996/1/28、ウェイン・シャムロックと4度目の対決、判定負け。

1996/4/7、ランキングトーナメント1回戦でヴァーノン"タイガー"ホワイトと対戦、判定負け。

1997/2/7、UFC 12でヴァリッジ・イズマイウと対戦し、判定勝ち。UFCにおける日本人初勝利となった。

1997/3/22、セーム・シュルトと対戦、TKO負け。

1997年9月、リングスとのトラブルが勃発、リング上で「俺が前田日明を殺す」とアピール。リングスや全日本キックボクシング連盟でのマッチメイクがプランされたが、鈴木みのるとの対戦を要望する前田サイドと調整がつかずに消滅。

1997/11/16、近藤有己と対戦、肩固めで一本負け。

1998/5/12、セーム・シュルトと対戦、TKO負け。

1998/9/14、鈴木みのると対戦、TKO勝ち。

2000/4/30、セーム・シュルトと無差別級キング・オブ・パンクラス タイトルマッチで対戦、TKO負け。

2000/12/4、菊田早苗と対戦、肩固めで一本負け。

2001/9/30、ヘビー級トーナメントに出場。1回戦では高田浩也と対戦し、フロントチョークで一本勝ち。準決勝ではマルセロ・タイガーと対戦、サミングにより反則勝ち。

2001/12/1、ヘビー級トーナメント決勝戦で藤井克久と対戦し、KO勝ち。パンクラス初代ヘビー級王座を獲得した。

2002/12/21、小澤強と対戦、0-3の判定負け。

2003/7/27、ヘビー級キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチで小澤強と再戦し、1R終了時TKO勝ち。初防衛に成功。

2003/10/13、新日本プロレスの東京ドーム大会でジョシュ・バーネットの保持するキング・オブ・パンクラス無差別級タイトルに挑戦、三角絞めで一本負け。

2004/4/25、PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦に出場。トーナメント1回戦でヒース・ヒーリングと対戦し、TKO負け。

2005/2/20、PRIDE.29でイゴール・ボブチャンチンと対戦し、KO負け。

2006/7/1、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUNDのワンマッチでビクトー・ベウフォートと対戦し、KO負け。

2007/3/12、HERO'Sに初参戦。メルヴィン・マヌーフと対戦し、TKO負け。

フリー

2007/7/14、BodogFightに参戦。マイク・バーチと対戦し、KO負け。リングネームを本名の高橋和生に変更。

2007/12/20、IGFの第3弾興行『GENOME 2』に「人喰い義生」のリングネームで参戦。小原道由と対戦し、TKO勝ち。

SRC

2008/6/8、戦極初参戦となった戦極 〜第三陣〜でファビオ・シウバと対戦し、右膝蹴りでKO負け。8/24、戦極 〜第四陣〜でヴァレンタイン・オーフレイムと対戦し、右跳び膝蹴りでKO負けを喫した。

2010年7月、SRC本部道場のヘッドコーチに就任。

2010/10/30、SRC15でイ・チャンソブと対戦し、アームバーで一本勝ち。2005年10月以来5年ぶりの白星となった。また、この試合よりリングネームを高橋義生に戻した。

獲得タイトル

  • 初代ヘビー級キング・オブ・パンクラシスト


パンクラス ビデオ紹介
U系DVD紹介
IGF DVD紹介





ナム・ファン
Nam Phan
1983/3/13

アメリカ合衆国の総合格闘家。カリフォルニア州ウェストミンスター出身。Ma Duアカデミー所属。ナム・ファーンとも表記される。

数少ないベトナム出身の総合格闘家でもある。柔術家のイメージが強いが、近年はプロボクシングにも出場するなど打撃にも磨きをかけている。

来歴

2001/10/6、総合格闘家デビュー。2005年からKOTCに参戦し、6連勝を飾る。

2006/12/8、Strikeforceに参戦し、ジョシュ・トムソンと対戦。判定負けを喫した。

2007/6/2、Dynamite!! USAに参戦し、ジェシアス・カバウカンチと対戦。TKO負けを喫した。

2009/3/20、1階級下のフェザー級に落とし戦極に初参戦。戦極 〜第七陣〜のフェザー級グランプリ1回戦で門脇英基にパウンドでTKO勝ち。5月2日、のフェザー級グランプリ2回戦で小見川道大にパウンドでTKO負けを喫した。

2010/2/4、TPF世界フェザー級タイトルマッチでアイザック・デジーザスと対戦し、左スーパーマンパンチでダウンしたところにパウンドで追撃されTKO負けを喫し王座獲得はならなかった。

2010年、リアリティ番組「The Ultimate Fighter」シーズン12に参加。チームコスチェックに所属。






クルト・フォン・ヘス
Kurt Von Hess
1942/4/10 - 1999/3/13

カナダのプロレスラー。オンタリオ州ハミルトン出身。本名はウィリアム・E・テリーWilliam E. Terry)、通称ビル・テリーBill Terry)。

全盛時はナチ・ギミックのドイツ系ヒールとなって、カナダを主戦場に活躍。日本でも昭和期の各団体に参戦し、主にタッグ・プレイヤーとして実績を残した。

来歴

1968年、地元オンタリオのトロントを本拠とするメープル・リーフ・レスリング(フランク・タニー主宰)にて、ビッグ・ビル・テリーのリングネームでデビュー。その後、ナチ・ギミックのクルト・フォン・ヘスに変身し、カルガリーのスタンピード・レスリングに参戦。1971年末に同地区のメインタイトルである北米ヘビー級王座を獲得し、翌1972年2月にキラー・トーア・カマタに敗れるまで保持した。

1972年より、モントリオールにて同じギミックのカール・フォン・ショッツ(ジョン・アンソン)とタッグチームを結成。ザ・シークが牛耳っていたアメリカのNWAデトロイト地区にも進出し、同年12月にザ・ストンパー&ベン・ジャスティスからデトロイト版のNWA世界タッグ王座を奪取、以降1974年にかけて、ショッツとのコンビで同王座を再三獲得した。1974年5月には新日本プロレスに揃って初来日している(後述)。なお、ヘスとショッツのタッグチームは、日本では「戦犯コンビ」と呼ばれた。

コンビ解散後、ヘスはビッグ・ジョン・クイン、ショッツはリングネームを本名のジョン・アンソンに戻してドン・レオ・ジョナサンを新パートナーに、1976年にバンクーバー地区でカナディアン・タッグ王座を争っている。以降はシングル・プレイヤーとなって各地を転戦し、アラバマ地区では1977年にガルフ・コースト・ヘビー級王座を2回獲得。ミッドサウスのトライステート地区では、1978年に当時のドイツ系ヒールの新鋭ジークフリート・スタンキーと組み、レイ・キャンディ&スティーブン・リトルベアからルイジアナ・タッグ王座を奪取した。1980年代初頭は、テネシー州メンフィスのCWAに登場している。

キャリア晩年は古巣のトロント地区(メープル・リーフ・レスリング)に定着し、同地区と提携する各メジャー団体にもベテランのジョバーとして出場。1983年はNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)にてNWA世界ヘビー級王者のリック・フレアーと対戦。同年12/6にはWWFでレネ・グレイと組み、当時のWWFタッグ王者チームのロッキー・ジョンソン&トニー・アトラスと対戦するなど、チャンピオン・クラスの大物選手のジョバーを務めた。1984/1/8にはバズ・ソイヤーの代打として、トロントにてロディ・パイパーとドッグ・カラー・マッチを行っている。

1986年に腎臓病を患い現役を引退。6年以上に及ぶ人工透析を受け、1996年に臓器移植を行ったものの、1999年3月13日、心臓発作により故郷のハミルトンにて死去。享年56歳。

日本での活躍

初来日は1974年5月、カール・フォン・ショッツと共に「NWA北米タッグ王者チーム」として新日本プロレスに参戦している(初代王者チームのパット・パターソン&ジョニー・パワーズを破り、戴冠したとされる。当初はNWFの世界タッグ王者チームとして来日する予定だった)。6/7の札幌大会でアントニオ猪木と坂口征二の黄金コンビの挑戦を退けタイトルをアメリカに持ち帰るも、8/16にロサンゼルスにて猪木&坂口に敗れて王座から陥落。以降、北米タッグ王座は新日本に定着した。

再来日は1977年2月、国際プロレスの『第6回IWAワールド・シリーズ』。同シリーズではシングルのリーグ戦と並行してIWA世界タッグ王座を賭けたタッグ・トーナメントが行われ、ヘスはバンクーバーでもタッグを組んでいたビッグ・ジョン・クインとのコンビで出場。3/25の横浜大会でアニマル浜口&寺西勇を破って優勝しタイトルを獲得したが、翌26日のシリーズ最終戦(東京・蔵前国技館大会)でグレート草津&浜口に敗れ、1日天下に終わった。国際には翌1978年にも参戦し、5/2にマスクド・インターン(トム・アンドリュース)と組んで草津&浜口のIWA世界タッグ王座に挑戦している。

1979年1月には新日本プロレスに再登場。2/25に札幌にてボブ・ループとのコンビで坂口&ストロング小林の北米タッグ王座に挑むも、タイトル奪回は果たせなかった。

1980年8月には全日本プロレスに初参戦。シリーズ中に行われた『PWF杯争奪タッグ・トーナメント』にカール・フォン・スタイガーと組んで出場、1回戦でマスカラス・ブラザーズ(ミル・マスカラス&ドス・カラス)に敗退している。全日本には1982年5月にも来日し、前年のレスリング・ウォーにより新日本から移籍してきたタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンのタッグ・パートナーを務めたが、体力的な衰えは隠せず、これが最後の来日となった。


  



アーノルド・スコーラン
"The Golden Boy" Arnold Skaaland
1925/1/21 - 2007/3/13

アメリカ合衆国の元プロレスラー、プロレスリング・マネージャー。ニューヨーク州ホワイト・プレインズ出身のノルウェー系アメリカ人。

来歴

1946年にアーノルド・スコーラン名義でデビュー。1950年代はジョージア州でボビー・ウィーバーBobby Weaver)の名で活動していた。WWWF(現WWE)の発足前からニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンを拠点に活躍。1962年4月には日本プロレスの第4回ワールドリーグ戦に来日している。1967年6月には前王者の離脱により、WWE世界タッグ王座の前身であるWWWF・USタッグ王座に認定された(パートナーはスパイロス・アリオン)。

レスラー引退後はベビーフェイス陣営のマネージャーに転向し、通算11年間に渡りWWWF世界ヘビー級王座を保持したブルーノ・サンマルチノのマネージャーとして活躍。時折サンマルチノのパートナーなどでリングに復帰することもあった。サンマルチノの事実上の引退後は、新たにWWFの主役となったボブ・バックランドのマネージャーを担当。1983/12/26、バックランドがアイアン・シークに敗れてWWFヘビー級王座から転落した試合で、ギブアップを示すセコンドのタオル投入を行ったのが彼であった。その後は表舞台から退き、WWFの裏方として働いていた。

1994年、長年の功績によりWWF殿堂入りを果たした(プレゼンターはボブ・バックランド)。2007年3月13日死去。享年82歳。

日本には新日本プロレスにアンドレ・ザ・ジャイアントのマネージャーとしても登場し、1981/9/23の田園コロシアムでのアンドレVSスタン・ハンセンの試合などで映像にも登場している。また、高森朝雄(梶原一騎)の『ジャイアント台風』では、ジャイアント馬場がサンマルチノの世界王座に挑戦するところで、サンマルチノのマネージャーとしてスコーランが登場し暗躍する。

息子のジョージ・スコーランもプロレスラーとなり、1988年3月に全日本プロレスに来日している。

マネージメントを担当したレスラー

  • ブルーノ・サンマルチノ
  • トニー・パリシー
  • ボブ・バックランド
  • アンドレ・ザ・ジャイアント
  • リック・マグロー


アンドレ・ザ・ジャイアントおまとめ動画集
WWFビデオ集





アンドリュー・テスト・マーチン
Andrew "Test" Martin
1975/3/17 - 2009/3/13


カナダの男性プロレスラーである。オンタリオ州トロント出身。リングネームテスト(Test)としての活動で最も知られる。かつてはミドルネームは異なる名前であったが、2005年に法的手続きを取り、ミドルネームに最も知られたリングネームを持つ形に改名した。最終所属はTNA。

来歴

1997年にプロレスデビュー。デビュー後まもなくWWF(現WWE)と契約した。WWFへの初登場は、モトリー・クルーがWWFでバンド演奏を行った際のボディーガード役である。1998年に、ビンス・マクマホンのボディーガード役でレスラーとしてWWF初登場を果たす。

ビンス率いるコーポレーションの一員として活動した後、1999年にはビンスの実の娘のステファニー・マクマホンの恋人役として活動する。RAWの番組にて、ステファニーとアングル上の結婚を予定していたがトリプルHにステファニーを奪われる形でストーリーは終わっている。

2001年にはアルバート、トリッシュ・ストラタスとタッグチームT&Aを結成して活動。2001年後半にはWCW/ECW連合軍であるアライアンスに加入した(ただしマーチンは両団体に所属した経験はない)。

2002年には、クリスチャン、ランス・ストーム率いる嫌米軍に加入しヒールとして活動した。同年10月からは、当時実生活においても恋人関係にあったステイシー・キーブラーが番組上でも恋人兼マネージャーとなり、共に行動するようになった。ステイシーとは2003年のロイヤルランブルまで共に行動した。ステイシーと別れた後はスコット・スタイナーとタッグチームを組んだ。

2004年に入り、首の怪我が悪化しWWEを欠場するようになる。同年11/1にWWEを解雇された。解雇後もしばらくはリングに復帰できないでいたが、2005年の5月にリング復帰。以降インディ団体を中心に試合を行っていた。

2006年に入り、WWEへの復帰話が浮上。同年3/22に、WWEより復帰への合意が発表された。その後はWWEのECWに所属し、トップ路線として活躍していたが、スタイナーとの抗争の頃と比べてもあまりレスリング技術が発達していない上にマイクアピールもイマイチだった為、レスリング技術やハードコア重視のECWにとってはあまり合わない存在となっていた。 ステロイド使用が発覚したため、2007年2月に解雇された。

2007/8/2のTNAに登場。"ザ・パニッシャー"アンドリュー・マーチンとして、スティング、アビスのフェイス軍に合流する。

2007/12/19、プロレスからの引退を発表した。2008年3月のアイルランド遠征で最後の試合を行う予定であった。

2009年2月、引退を撤回しビッグバン・ベイダーがプロデュースする興行に参戦。

2009/3/13、フロリダ州タンパにある自宅で死亡しているのが発見された。

タイトル履歴

WWW (Wild West Wrestling)
  • WWWヘビー級王座 : 1回
WCW
  • WCW世界タッグ王座 : 1回(&ブッカーT)
WWE
  • IC王座 : 1回
  • 欧州王座 : 1回
  • ハードコア王座 : 2回
  • 世界タッグ王座 : 1回(&ブッカーT)

入場曲

  • This Is A Test














 ↑ トップへヤフーオークション
 


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system