本文へスキップ
 


 
 
”重要なお知らせ”


2011/9/1よりパワーアップでページ独立!

 
 


 
 

プロレス/格闘技
誕生日/忌日
3/15



黒崎 健時
1930-3/15

日本の武道家・元空手家・元キックボクシング目白ジム会長で、現在は黒崎総合格闘スクールを主宰している。別名は黒崎 明。自ら限界に挑戦した事、弟子への指導も限界を見極めさせようとした指導をした事から、「鬼の黒崎」と呼ばれた。




百田 義浩
1946/3/15 - 2000/11/22

日本のプロレスラーで、元全日本プロレス所属のリングアナウンサー兼取締役、元プロレスリング・ノア取締役。京都府京都市伏見区出身。

日本プロレス界の父・力道山の長男であり、百田光雄の実兄。娘はプロレスリング・ノアにおいて広報兼通訳担当。

経歴

リングアナ

慶應義塾大学法学部卒業。父の意志を継ぎ藤猛らがいた「リキ・ボクシングジム」のオーナーとなる。その後、1972年に全日本プロレスの旗揚げに参加。以降、取締役兼リングアナウンサーを務めた。

レスラーに

しかし、1975年に日本武道館で行われた「力道山十三回忌特別興行」では大木金太郎 vs. アブドーラ・ザ・ブッチャーの一戦が行われたが場外乱闘となり、エキサイトしたブッチャーが百田に暴行を加え、流血する事件が起こる。この時「ファンに(力道山の長男なのに)だらしない息子と思われたのではないだろうか」と考え、リングアナの座を原軍治に譲りアメリカへレスラー修行に出る。帰国後の1980年、弟である光雄との初兄弟タッグでプロレスラーに転向。以降、前座選手ではあったが、1987年まで現役を続けた。

引退後

引退後はリングアナには戻らず、取締役に専念。全日のフロントとしてジャンボ鶴田黄金期や四天王プロレス時代を支えたことから、昭和プロレス界の重鎮と呼ばれた。

2000年に起こった三沢光晴らの全日大量離脱→NOAH旗揚げの一連の動き(全取締役がオーナー馬場元子へ辞表を提出)にも弟・光雄共々参加。6月に株式会社プロレスリング・ノアが設立され、全日時代と同じく取締役ポストとして、会社を影から支えるはずだった。

死去

しかし、旗揚げ興行後の9月に体調を崩し入院。闘病生活を続けたが、肝不全で11月22日に死去。葬儀はプロレスリング・ノアの社葬も兼ねて行われたが、馬場元子も弔問に訪れた。父・力道山も眠る池上本門寺に納骨されている。

彼の動きにより、百田家が関わっているプロレス団体は日本プロレス→全日本プロレス→プロレスリング・ノアへと変わっている。その点でも、大きな影響を与えている。

著書

  • 百田義浩,百田光雄著『父・力道山 : 初めて明かす父の実像、父への愛』(勁文社,1983年)


 
広告


アイアン・シーク
The Iron Sheik
1943/3/15

コシロ・バジリペルシア語:حسین خسرو علی وزیری ; Ḥoseyn Khosrow ʿAlī Vazīrī)は、イラン・テヘラン出身の元プロレスラー。

来歴

イランでは実際にクシュティの強豪、レスリング選手として知られた存在であったらしい。メキシコシティオリンピックのイラン代表であるとされるが、これは虚構である。1970年にイランからアメリカ合衆国に亡命。翌年のAAU選手権に優勝し、1972年のミュンヘンオリンピック、1976年のモントリオールオリンピックには米国代表チームのアシスタント・コーチとして参加(つまり、選手としての五輪出場経験は無し)。

1972年にAWAの代表兼プロモーターであったバーン・ガニアに見出されてプロレスラーとしてデビュー。同じ時期にガニア・キャンプでトレーニングしていたメンバーには、リック・フレアー、ケン・パテラなどがいる。コーチは主にビル・ロビンソンが務めたが、当時の様子はフレアーの自著に詳しい。デビュー後しばらくは本名で活動し、またそのレスリングの実力からガニア・キャンプのコーチも務めた。

1976年にアイアン・シークと改名して各エリアをサーキット後、1979年にWWF(現・WWE)デビュー。しかし、当時はまだ現在のようにアメリカと中東の間での政治的衝突は無かった上、アラブ系ギミックの大御所としてザ・シークの存在が知られていたため、観客の反応は鈍かった。しかし同年11月、テヘランでアメリカ大使館人質事件が発生、皮肉にもこれが彼をトップ・ヒールの地位に押し上げることとなった。

以降はミッドアトランティック、フロリダ、ジョージアなどNWAの南部テリトリーを転戦し、1983年にWWFと再契約。フレッド・ブラッシーをマネージャーに付け、同年12/26、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦。得意技のキャメルクラッチにより、バックランドのセコンドのアーノルド・スコーランからタオル投入を引き出し勝利、第11代のWWF王者となる。

ベルト獲得から約4週間後の1984/1/23にハルク・ホーガンに敗れてタイトルを失うが、ビンス・マクマホン・シニアからビンス・マクマホン・ジュニアへの体制移行の橋渡し役を担った存在意義は大きく、WWEの歴史にその名を残すことになった。王座転落後は、同年よりスタートしたWWFの全米侵攻に主力ヒールとして参加。その過酷さから伝説化している「3グループ全米同時サーキット」が始まると、Cチームのメインとしてサージェント・スローターとの熾烈な抗争を展開した。1985年のレッスルマニア第1回大会では、ロシア系のニコライ・ボルコフとの反米タッグでバリー・ウインダム&マイク・ロトンドのUSエクスプレスを破り、WWF世界タッグ王座を獲得している。しかし1987年、薬物検査でコカインの陽性反応が出たため、WWFを解雇された。以後はAWA、WCCW(フリッツ・フォン・エリック主宰)、プエルトリコのWWCなどに出場。

1991年の湾岸戦争時、カーネル・ムスタファ(ムスタファ大佐)の名でWWFに復帰。「フセインに魂を売った男」としてヒールターンした旧敵サージェント・スローターのパートナーとなり、ハルク・ホーガンやハクソー・ジム・ドゥガンと抗争を繰り広げた。1992年に現役を引退したが、インディー団体などで単発的に活動を続け、1997年にはザ・サルタンのマネージャーとして再度WWFに登場している。

2001年のレッスルマニア17では、過去のWWF系レスラーが参加したギミック・バトルロイヤルにおいて優勝を飾っている。この優勝の際、それまで一貫してヒールとしてブーイングを浴び続けたアイアン・シークに対して、観客は大きな喝采を送った。

2005年にはWWE Hall of Fameを受賞。レッスルマニア21の前日に行われた表彰セレモニーでは、長年のライバルであったサージェント・スローターが殿堂入りのプレゼンターを務めた。

日本には1974年4月に新日本プロレス、1976年5月には全日本プロレスにコシロ・バジリとして来日したが、目立った活躍は残していない。1979年のWWF参戦時は、同年12/17にマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、アントニオ猪木のNWFヘビー級王座にハッサン・アラブHussein Arab)のリングネームで挑戦、凄絶な流血戦を展開した。翌1980年2月、WWFの提携ルートで新日本へ久々に来日。スーパー・デストロイヤーと組んで坂口征二&長州力の北米タッグ王座に挑戦している。1982年3月には新日本の第5回MSGシリーズに参加したが、アメリカでの実績からすれば戦績は振るわなかった。1992年にはUWFインターナショナルに来日し、安生洋二と試合を行っている。

獲得タイトル

WWF
  • WWFヘビー級王座 : 1回
  • WWFタッグ王座 : 1回(w / ニコライ・ボルコフ)
NWA
  • NWATV王座 : 1回
  • NWA中部大西洋王座 : 1回
  • NWA2000アメリカ伝承(American Heritage)王座 : 1回
その他
  • ニュージーランド英連邦王座 : 1回
  • 北西太平洋タッグ王座 : 1回(w / ブル・ラモス)
  • カナダヘビー級王座 : 2回
  • WWSタッグ王座 : 1回(w / ザ・シーク)
  • Can-Amヘビー級王座 : 1回
  • IAWタッグ王座 : 3回(w / Brian Costello)





成瀬 昌由
1973/3/15

日本のプロレスラー、総合格闘家。東京都杉並区出身。

来歴

科学技術学園高校時代に空手部で空手を始め、松涛館空手で初段を獲得。1991年、前田日明主宰のリングスの第一回新人テストに合格し入門、1992/8/16、有明コロシアムでの山本宜久戦でプロデビュー(対戦相手の山本も同日デビュー)。軽量級ながら、空手仕込みの打撃と、前田直伝の関節技を武器に体格差のある相手と対戦。1993年頃盛んに開催されたリングス「実験リーグ」では、名勝負を数多く製造し、「実験リーグ男」の異名を取った。

1997年、リングス軽量級王者を決める「トーナメント21」で優勝し、初代王者に君臨。以後、2度の防衛を果たした(2001年2月に返上)。しかし、度重なるケガに悩まされ、欠場と復帰を繰り返し、1999/6/24の金原弘光戦を最後に椎間板ヘルニアのために長期欠場を余儀なくされる。手術とリハビリの末、2001/3/20、リカルド・フィエート戦で1年9か月ぶりに復帰。KOKルールとなってから初の試合となったが、アンクルホールドで一本勝ちを納める。

同年5月に山本宜久と共にリングスを退団。その後は新日本プロレスに主戦場を移す。7/20の札幌ドーム大会で行われたIWGPジュニアヘビー級選手権での田中稔戦で初参戦を果たし、この試合に勝利してIWGPジュニア王座を獲得。しかし10/8の東京ドーム大会の石澤常光戦で開始26秒で敗れ王座を失う。以降は本格的に参戦を果たし、ジュニア戦線で活躍。後に「無差別級」を合言葉にヘビー級とも渡り合った。2002年に正式に入団。2004年11月、リングス時代の先輩長井満也とアジアタッグ王者となり、以後2度の防衛を果たした。

2006年1月、新日本を退団しフリーになった[1](現在はインストラクターや総合のセコンドなどプロレス以外の仕事をしている)。

総合格闘技では、フリー参戦の2001年から新日本選手の参戦に際し、その練習パートナーとして常に帯同。永田裕志、ケンドー・カシン、安田忠夫、獣神サンダー・ライガー、矢野通、ブルー・ウルフ、ジョシュ・バーネットといったメンバーの練習や本番のセコンドに就き、徹底したバックアップを行った。これは当時新日本にセコンドを務められる人材が非常に不足していたため、リングス時代の長い経験を持つ成瀬が多くセコンドに付いている。自らも、2003/12/31のK-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!でK-1の大巨人ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤと対戦。身長差38cm、体重差50kgのハンデをひっくり返し、チョークスリーパーで一本勝ちを納めている。なぜかこの時は同日参戦した新日本選手の中で唯一の勝利者であったにもかかわらずリングスのバスタオルを掲げていた。また、新日本プロレスの総合ルールULTIMATE CRASHルールの作成にも携わった。

人物

  • ファンクラブがあり、不定期に「成瀬教室」と言う運動セミナーを開いている。
  • 2009年3月22日のNHK大河ドラマ「天地人」第12話に出演。「チョイ役」ではあるが役者デビューを果たした。
  • 株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約。

新日本プロレス時代の略歴

  • 2001/7/20、札幌ドームでの田中稔戦に初登場。IWGPジュニアヘビー級選手権として行われたこの試合で勝利し、第40代IWGPジュニア王者となった。以後1度の防衛を果たした。
  • 2001/10/8、東京ドームでのケンドー・カシン(この時は素顔で登場)とのIWGPジュニアヘビー級選手権に王者として参戦。26秒跳びつき腕ひしぎ逆十字固めに敗れ王座陥落。
  • 2001/12/31、INOKI BOM-BA-YE 2001に参戦したケンドー・カシン、永田裕志、安田忠夫のセコンドに(それ以前に、永田、ドン・フライの総合特訓にも帯同している)。安田の勝利に貢献。
  • 2002年1月、新日本プロレス入団。
  • 2002/6/7、フリー参戦していたバス・ルッテンと対戦。KO負けを喫した。
  • 2002/8/29、当時大阪プロレスに所属していた村浜武洋と対戦。時間切れ引き分けに終わる。
  • 2002/10/14、佐々木健介退団騒動によって空席となった村上和成(当時は村上一成)の対戦相手に立候補し、東京ドームの新日本VS外敵軍7番勝負の第3戦に登場。黒のオープンフィンガーグローブを着けた村上に対抗して青色のグローブを着けて試合に臨むが、敗北を喫した。
  • 2002/11/30、獣神サンダー・ライガーのパンクラス参戦のセコンドに。
  • 2002年12月、ヒート派と反ヒート派の抗争でヒート派に組する。
  • 2003年1月、東京ドーム大会後、右肩の手術の為欠場。その間にULTIMATE CRASHルール作成に携わり、また同大会の運営に関わる。
  • 2003/6/13、鈴木みのるの新日本復帰戦に自ら名乗りを挙げ、日本武道館で対戦するも敗戦。試合後、魔界倶楽部星野総裁に魔界マスクを手渡される。また、この戦い以後、鈴木とのタッグを組まれることが多くなった。
  • 2003年7月、執拗な魔界倶楽部の勧誘に遭う。同時に当時魔界5号を名乗っていた長井満也との抗争が勃発した。この抗争は2年近くに渡り、幾度かのタッグ結成を経て両者の退団まで続いていた。8月には成瀬にそっくりな覆面レスラー「スズキくん」が現れる。
  • 2003/8/31、矢野通、飯塚高史のパンクラス参戦のセコンドに。
  • 2003年11月、成田空港でアントニオ猪木にINOKI BOM-BA-YE 2003参戦を直訴。
  • 2003/12/31、K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!でヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤと対戦。勝利。
  • 2004/1/4、安田忠夫と対戦し、開始30秒スリーパーホールドによりレフェリーストップ勝ち。
  • 2004/1/28、棚橋弘至の持つIWGP・U-30無差別級王座に挑戦するもドラゴン・スープレックス・ホールドにより敗北。
  • 2004/3/28、獣神サンダー・ライガーの持つGHCジュニアヘビー級王座に挑戦するも敗北(GHC王座が初めてNOAH以外の団体でタイトルマッチを行った試合)。
  • 2004/5/22、ブルー・ウルフのK-1 ROMANEX参戦のセコンドに。
  • 2004/9/19、アントニオ猪木の命令で、垣原賢人、長井満也、柳澤龍志、中邑真輔と共に北朝鮮で行われた第1回国際武道大会に参加。エキシビションマッチで垣原と対戦した。
  • 2004年10月、真壁刀義と下克上宣言を行う。
  • 2004/10/23、ブラジルで行われたJungle Fight 3に参戦。トニー・ウィリアムスに勝利。
  • 2004/10/31、ジョシュ・バーネットのPRIDE参戦のセコンドに。
  • 2004/11/3、抗争を続けていた長井満也と組み、天龍源一郎、渕正信の所持していたアジアタッグ王座に挑戦(7月26日にも挑戦したが奪取失敗)。勝利し、第77代アジアタッグ王座となった。その後、2度の防衛に成功し、2005/2/2にベルトを失う。
  • 2004/11/13、「闘魂祭り」でのハッスル軍による新日マットでのハッスルポーズを阻止。小川直也にチョップを叩き込む。リング上で「今日は『闘魂祭り』。ハッスルしていい場じゃない。」とアピールした。
  • 2005/1/4、アルティメットロワイヤルに登場。1回戦でロン・ウォーターマンと対戦するが、パワーボムからのマウントパンチでレフェリーストップ負け。
  • 2005年、度重なるケガにより欠場と復帰を繰り返す。下克上宣言を行った真壁刀義、矢野通がBNJ(ブラックニュージャパン)に加入するとこれと争う。長州力が現場監督に就任すると、ケガも重なって試合数が激減した。
  • 2006年1月、契約更改せずに新日本を退団し、フリーランスとなった。

テーマ曲

自分が大好きだと言うB'zの曲を数多く使用。前田日明の話では、本人たちからの使用許可を貰っているそうである。

  • THE GAMBLER(リングス時代)
  • ultra soul(新日本時代)
  • IT'S SHOWTIME!!(同上)
  • F・E・A・R(同上)
  • ギリギリchop(同上)
  • さまよえる蒼い弾丸(同上)
  • Jap The Lipper(同上、実は稔も同じ曲を使用していた時期あり)
  • Real Thing Shakes(同上、やはり稔も使用時期あり)

獲得タイトル

  • リングス・トーナメント21(初代)
  • IWGPジュニアヘビー級王座(第40代)
  • アジアタッグ王座(第77代、パートナーは長井満也)






山本"KID"徳郁
1977/3/15

日本の総合格闘家。神奈川県川崎市出身。本名は岡部 徳郁。学歴は桐蔭学園高校中退〜アメリカ留学〜山梨学院大学中退。KRAZY BEE主宰。HERO'Sミドル級トーナメント2005世界王者。

ニックネームは「神の子」または「KID」。ニックネームの由来は本人曰く、「ミュンヘンオリンピックに出場した父親(山本郁榮)は自分の中では神。だから俺は神の子(KID)」「格闘の神様の子供」というもの。しかし、この発言以前に、「大学時代、俺の小柄な身体を見たレスリング部の先輩から、まるで子供みたいだから、KIDだ。と綽名されたのが最初」とも本人が語っている。

全身に多くのタトゥーを彫っている。総合格闘技における師匠であり、姉・美憂の前夫であるエンセン井上の代名詞「大和魂」のタトゥーを右上腕に彫っていたが、2009年4月にそれを覆い隠すように別のタトゥーを彫った。肩には「狂」「蜂」、胸には「海」「鈴」「郁」「愛」と漢字のタトゥーを彫っている。

レスリング一家のサラブレッドとして培ったオリンピックレベルのレスリング技術と身体能力、パワーとスピード溢れる強烈な打撃、特にサウスポースタイルから放つ一撃必殺の右フックを武器とし、総合格闘技の軽量級世界最強と評価されていた。

適性階級は60kg前後の階級でありながら、総合格闘技とK-1では本来より2階級も上の70kg級でも大活躍し、70kg級ではHERO'S世界王者に輝き、K-1 WORLD MAX世界王者魔裟斗からK-1ルールでダウンを奪うなど驚異的な実績を残した。

人物
ミュンヘンオリンピックレスリング・グレコローマン日本代表だった山本郁榮を父親に持ち、姉・美憂、妹・聖子は世界レスリング選手権大会を制覇している。祖父は水泳のオリンピック選手だったと自身のブログで写真付きで公開している。
2004年8月にモデルのMALIAと結婚し、2005年1月には男児、2006年11月には女児をもうけるも、2009年8月に離婚。子供はMALIAが引き取った。
来歴
幼い頃よりレスリング(フリースタイル)で活躍。全日本学生レスリング選手権大会優勝(フリースタイル58kg級)など数多くの実績を残した。シドニーオリンピック出場を目指していたが、1999年の全日本レスリング選手権大会(同級)で惜しくも準優勝。
オリンピック出場への道が絶望的になったのと同時期に姉・美憂の夫(当時)であるエンセン井上に師事して総合格闘技に転向。2000年に第7回全日本アマチュア修斗選手権大会ライト級で優勝。翌2001年にプロデビューし修斗で活躍、ライト級世界ランク2位まで登り詰めた。
2002/9/16、プロフェッショナル修斗公式戦で勝田哲夫と対戦。試合前に勝田がKIDに対して「彼はレスリングの実績があるけど、総合におけるレスリングってものを俺が教えてあげますよ」と挑発したことに対してKIDは不快感を露にしていた。試合ではKIDがパウンドの連打で勝田をKOしたが、レフェリーストップがかかったにもかかわらずレフェリーの制止を無視して舌を出して笑顔で勝田を殴り続けたため120日間のライセンス停止処分を受けた。この悪癖はK-1転向初期にもしばしば見られた。
2003/12/14、修斗で王者アレッシャンドリ・フランカ・ノゲイラと修斗世界ライト級チャンピオンシップで対戦予定であったが、練習中に右手人差指を骨折し、全治2か月となり欠場した。
2004/2/24、K-1初参戦となった「K-1 WORLD MAX 2004-日本代表決定トーナメント」1回戦で村浜武洋と対戦。大会前に畑山隆則と魔裟斗から優勝候補本命と評価されていた村浜を相手にK-1ルール初挑戦ながら圧倒的なスピードとパンチ力を発揮、ノーガードで村浜のパンチを避けまくり、殺気を放ちながらダウンを奪った後も笑顔で舌なめずりして追撃するなど戦慄の2RKO勝利。潜在能力の高さを見せつけ、一気に人気選手となった。だが、試合前から負傷していた右手第二中指骨を骨折し、準決勝を棄権した。
その後トニー・バレント、安廣一哉、ジャダンバ・ナラントンガラグを総合ルール(安廣のみミックスルール)にて一本・KO勝ち。そしてナラントンガラグ戦後、リング上からマイクで魔裟斗に対戦を要求。魔裟斗もこれを受け、2004/12/31のK-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で対戦。1Rに魔裟斗からダウンを奪った直後、金的を貰いダウン。リプレイが流れた会場では悲鳴が上がるほどのダメージを受け、実況席からも続行は無理と言われる程であった。また、完全に視線が下にいっている魔裟斗のリプレイ映像を見て解説の船木誠勝が故意であることを匂わせる発言をした。インターバルの後に試合は再開されたものの、精彩を欠いたKIDは2Rにダウンを取り返され、判定負け。
2005/3/3のHERO'S旗揚げ発表会見に出席し、HERO'S参戦が発表されるも、怪我のため、3/26のHERO'S旗揚げ戦は欠場となった。
2005/5/4、K-1 WORLD MAX 2005のスーパーファイトにてK-1ルールで出場。しかしマイク・ザンビディスの右フック一撃で生涯初のKO負けを喫した。
2005/7/6、HERO'S 2005にスーパーファイトで出場。イアン・シャファーと対戦し、TKO勝利。
2005/9/7、HERO'S 2005 ミドル級世界最強王者決定トーナメント準々決勝でホイラー・グレイシーを右フック一撃で失神KO勝ち、準決勝で宇野薫をパンチで出血させ、TKO(レフェリーストップ)勝ち。
2005/12/31、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!にてトーナメント決勝を須藤元気と対戦し、右フックのダウンからパウンドの連打で1RKO勝ち。HERO'Sミドル級王者となり、キャリア初のベルト戴冠となった。この試合の決着場面において「レフェリー・ストップが早かったのでは?」という指摘が須藤とファンから挙がったが、後日にTBSで放送された格闘王で、レフェリー・ストップ直後に立ち上がった須藤の脳が揺れて足元がふらついてコーナーまでよろめいている映像が放送され、事なきを得た。須藤も後に「ストップされた時は、(ダメージがあったため)あまり覚えていない」と語っている。
2006/2/17、修斗代々木大会に出場した同門の菊地昭の試合後にドクターチェック中であった中山健児リングドクターに対し暴言を吐いた上、足先で臀部を小突いた。事態を重く見た日本修斗協会は2/21、山本に修斗全公式戦会場立入禁止、山本が代表を務めるKILLER BEE(現・KRAZY BEE)所属全選手および関係者へ修斗全公式戦出場停止処分を下した[4]。翌2/22にKIDが中山リングドクターに謝罪し和解したが、3/6付けでインターナショナル修斗コミッション(ISC)よりKIDへの無期限ライセンス不許可処分およびKILLER BEEへの厳重注意処分を受けた。10/12にKIDがISCおよび日本修斗協会に謝罪し、10/13付けで無期限ライセンス不許可処分が解除された。
2006/5/3、HERO'Sで宮田和幸と対戦し、開始4秒の跳び左膝蹴り一発で失神骨折KO勝ち。この膝蹴りで宮田は下顎骨を骨折する重傷を負った。
2006/7/23、レスリングに復帰し、2008年の北京オリンピック出場を目指すことを宣言。プロ格闘家活動を一時休止する。
2006年12月、スポーツ用品ブランド「リーボック」とのパートナー契約を締結。
2006/12/31、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!で総合格闘技のリングに一時復帰。アテネオリンピックレスリング・グレコローマン55kg級金メダリストのイストバン・マヨロシュと対戦し、1RKO勝ち。
2007/1/28、天皇杯平成18年度全日本レスリング選手権フリースタイル60kg級2回戦でアテネオリンピック銅メダルの井上謙二(自衛隊)の巻投げで右肘を脱臼、試合開始16秒でフォール負けを喫した。なお、大会前に同階級の有力選手からは「(山本に)1ポイントも与えるつもりはない」「7年もブランクがあっては通用しない」など、長期のプロ活動から復帰した山本を見下した発言が相次いだ。これは日本レスリング界の伝統の一つである「試合前はマスコミには大口を叩いて、自分を追い込め!」というモットーに則ったものといわれている。(記事アマチュアレスリングに関連記載有り)
2007年6月、北京オリンピック出場に望みをかけレスリング明治乳業杯全日本選抜選手権に出場を予定していたが、肘の脱臼が完治せず、練習も満足に出来ていないため出場を取りやめた。
2007/9/17、HERO'Sでビビアーノ・フェルナンデスと総合格闘技復帰戦を戦った。腕ひしぎ十字固めをかけられ回転して逃げるなど危ないシーンもあったが、スタンドでのローキックなどでダメージを与え、判定勝ち。試合の1週間前に左手首の豆状骨を骨折した。
2007/12/31、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!でハニ・ヤヒーラと対戦。ヤヒーラのグラウンドには付き合わずスタンドでの攻防となり、最後は左フックでKO勝ち。ヤヒーラがダウンした後の頭部へのサッカーボールキックに対してイエローカードが提示された。
2008/7/21、DREAM.5でジョセフ・ベナビデスと対戦予定であったが、練習中に右膝前十字靭帯を断裂し、欠場となった。同年8月1日に手術を受け、成功した。同時に前年に骨折していた左手首の手術も受けた。この怪我以降、急激にKIDの実力が下降していった。
2009/4/5、DREAM.8のテレビ放送の解説を務め、メインイベントの桜井"マッハ"速人 vs. 青木真也でマッハが勝利後、桜井を「強くてカッコいい」と賞賛した。
DREAM.7から開幕したDREAMフェザー級グランプリでは実績を考慮されて1回戦をシードされた。
2009/5/26、約1年5か月ぶりの復帰戦となるDREAM.9のフェザー級グランプリ2回戦でジョー・ウォーレンと対戦。ムエタイ・スタイルへと変貌を遂げた打撃をヒットさせるが、グレコローマン・レスリング世界選手権優勝というKIDを上回るレスリング実績を誇るウォーレンに何度もテイクダウンを奪われてパンチを浴び判定負け。総合格闘技ルールでの敗戦は実に7年ぶり2度目。
2009/7/13、約4年2か月ぶりのK-1参戦となったK-1 WORLD MAX 2009 FINAL8でチョン・ジェヒと対戦し、1Rに先に有効打をヒットさせて追撃したところを右アッパー、左フックの連打を受け失神KO負け。
2009/12/31、Dynamite!! 勇気のチカラ2009のDREAM vs SRC 対抗戦でSRCフェザー級王者金原正徳と対戦。リーチ差に手を焼き、2Rには金原のパンチを受けてジェヒ戦を思い起こすようなダウンを喫したが、最終3Rに打撃で猛反撃。試合終了直後に腕立て伏せをしてダメージの無さをアピールしたが、判定負け。復帰後、K-1ルールを含め3連敗となった。
2010/5/29、ケージ開催となったDREAM.14でキコ・ロペスと対戦し、KO勝ち。2007年12月31日以来、2年5か月ぶりの勝利となった。
2011/2/5、UFC初参戦となったUFC 126でデメトリアス・ジョンソンと対戦し、パンチにタックルをカウンターで合わされるなど再三テイクダウンを奪われ、0-3の判定負けを喫した。
エピソード
KIDの知名度が急上昇し、一躍スターダムへと駆け上がったきっかけとなったK-1 WORLD MAX 2004 日本代表決定トーナメントの同日には、姉・美憂と妹・聖子のアテネオリンピック出場が懸かったジャパンクイーンズカップが開催された。しかし、美憂は3位、聖子は準優勝に終わって共にオリンピック出場を逃した。敗れた二人はショックを堪えてそのままKIDの応援に駈けつけ、KIDの衝撃的なKO勝利を見届けた。後に美憂と聖子は「私達がオリンピック出場を逃したのは物凄く辛かったけど、今思えば私達のオリンピック出場の代わりに神様が徳郁をスターへと導いてくれたのかな」と語っている。
K-1ルール初挑戦の際、ボクシングの世界フェザー級統一王者ナジーム・ハメドのファイトスタイルを参考にしたと語っている。実際、KIDのK-1デビュー戦のテレビ解説を務めた畑山隆則は、相手を挑発しながらノーガードで相手のパンチを避け続けて強烈なパンチでKO勝ちしたKIDを見て「KID選手の戦い方はハメドみたいですね」と評価した。また、雑誌「smart HEAD」の「ボウズヘアの似合う有名人1位」にKIDが選ばれてインタビューを受けた際には「ナジーム・ハメドのサイドとバックは刈り上げで、トップ前髪だけ残して髪がペタって乗ってる感じがいい」と髪型も参考にしてることも明かした。
テレビ番組に出演した際、父の郁榮から「心の優しい真面目な子」と評されていた。
シュートボクシングで活躍し、技術解説に定評がある吉鷹弘は「総合格闘技界とキックボクシング界の両方を通じてナンバーワンの右フックの使い手はKID」と絶賛した。
ハメドのスタイルを参考にしたり、パンチによる豪快なKO勝ちが多いKIDだが、ムエタイの熱烈なファンでもある。M-1ムエタイチャレンジをはじめとした多くのムエタイ大会を観戦しており、ワンロップ・ウィラサクレックとの対談・技術交流では喜びを露にしていた[9]。怪我からの復帰戦となる2009年5月のDREAM.9を前にしてのインタビューでは再三に渡って「今のMMAはボクシング+レスリングってスタイルが主流だけど、俺はそれを超えるためにムエタイ+レスリングのスタイルをマスターしたい」と語っており、実際に復帰後の2試合では復帰前のクラウチング・スタイルの構えとは正反対のアップライト・スタイルでミドルキックを主体とする戦いを披露した。また、魔裟斗は2004年にKIDと対戦した直後の会見で、「試合前はパンチが強い印象があったけど、意外と綺麗なフォームの良い左ミドルキックを蹴ってきたんでビックリした」とコメントしている。
レスリング一家に育ち、幼少の頃から試合のための体重調整のために食事節制をしたことにより、体重が増えにくい体質となっている。にもかかわらず、適性階級は60kg前後の階級でありながら、総合格闘技とK-1では本来より2階級も上の70kg級でも大活躍したことがKIDの評価を不動のものとした。全盛期には「俺より体重が20kg重い奴とでも戦う。体重差なんて関係ねえ!」とまで言い放っていた。しかし、2007年1月のレスリング挑戦の際に右肘を脱臼してから総合格闘技に復帰した際に「今までは総合格闘技のメジャー団体で俺に合う階級が無かったから仕方なく中量級(70kg級)で戦ってきた。でも、これからは俺が軽量級を世間に広める」と宣言し、以降は以前とは正反対に極端に契約体重にこだわって試合の交渉が難航することが増えた。修斗時代と同じ65kg契約の試合でも拒否するようになり、「俺のベストはWECにおけるバンタム級(61.2kg級)。この階級を作ってほしい」と明言したため、フェザー級を65kg級に設定することを予定し、KIDをフェザー級GPの主役として参戦させようとしていたDREAMとの交渉が難航。結局、双方が譲歩し、DREAMのフェザー級は63kgに設定された。
戦績
23試合18勝4負1無効試合
開催年月日 対戦相手 勝敗
UFC 126: Silva vs. Belfort
2011/2/5
デメトリアス・ジョンソン
5分3R終了 判定0-3
×
DREAM.14
2010/5/29
キコ・ロペス
1R 1:41 KO(右フック→パウンド)
Dynamite!! 勇気のチカラ2009
2009/12/31
金原正徳
5分3R終了 判定0-3
×
DREAM.9 フェザー級グランプリ2009 2nd ROUND
2009/5/26
【フェザー級グランプリ2009 2回戦】
ジョー・ウォーレン
2R(10分/5分)終了 判定1-2
×
K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!
2007/12/31
ハニ・ヤヒーラ
2R 3:11 KO(左フック)
HERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント決勝戦
2007/9/17
ビビアーノ・フェルナンデス
3R終了 判定3-0
K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!
2006/12/31
イストバン・マヨロシュ
1R 3:46 TKO(レフェリーストップ:パウンド)
HERO'S 2006
2006/5/3
宮田和幸
1R 0:04 KO(跳び左膝蹴り)
K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!
2005/12/31
【ミドル級 決勝】
須藤元気
1R 4:39 TKO(レフェリーストップ:パウンド)
HERO'S 2005 ミドル級世界最強王者決定トーナメント 準決勝
2005/9/7
【ミドル級 準決勝】
宇野薫
2R 4:04 TKO(ドクターストップ:左眉尻カット)
HERO'S 2005 ミドル級世界最強王者決定トーナメント 準決勝
2005/9/7
【ミドル級 準々決勝】
ホイラー・グレイシー
2R 0:38 KO(右フック)
HERO'S 2005 ミドル級世界最強王者決定トーナメント
2005/7/6
イアン・シャファー
3R 1:23 TKO(レフェリーストップ:パウンド)
K-1 WORLD MAX 2004 世界王者対抗戦
2004/10/13
【総合ルール】
ジャダンバ・ナラントンガラグ
1R 1:55 KO(右ストレート)
K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメント開幕戦
2004/7/7
【ミックスルール】
安廣一哉
2R 2:40 腕ひしぎ十字固め
K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメント開幕戦
2004/4/7
【総合ルール】
トニー・バレント
1R 0:58 チョークスリーパー
修斗
2003/9/5
ケイレブ・ミッチェル
1R 0:40 TKO(レフェリーストップ:右フック)
SuperBrawl 29
2003/5/9
ジェフ・カラン
5分3R終了 判定3-0
修斗
2002/9/16
勝田哲夫
1R 2:45 TKO(レフェリーストップ:パウンド)
修斗
2002/5/5
ステファン・パーリング
1R 0:30 TKO(ドクターストップ:額カット)
×
Shogun
2001/12/15
ジョシュ・トムソン
2R 2:00 無効試合(ローブロー)
修斗 SHOOTO TO THE TOP
2001/9/2
門脇英基
1R 4:02 TKO(レフェリーストップ:右フック)
修斗 SHOOTO TO THE TOP
2001/7/6
亀田雅史
1R 4:17 KO(パンチ)
修斗 SHOOTO TO THE TOP
2001/3/2
塩澤正人
5分2R終了 判定3-0

獲得タイトル

レスリング]

  • 1998年・全日本レスリング学生選手権フリースタイル58kg級 優勝
  • 1998年・内閣総理大臣杯全日本大学レスリング選手権大会 準優勝
  • 1999年・全日本学生レスリング選手権大会フリースタイル58kg級 優勝
  • 1999年・全日本レスリング学生選手権フリースタイル58kg級 優勝
  • 1999年・内閣総理大臣杯全日本大学レスリング選手権大会 優勝(最優秀選手賞)

総合格闘技

  • 第7回全日本アマチュア修斗選手権 ライト級 優勝(2000年)
  • HERO'Sミドル級トーナメント2005世界王座

Kid Blog
Kid Blog


  



アントニオ・ロッカ
Antonio Rocca
1927/4/13- 1977/3/15

アメリカ合衆国で活躍したアルゼンチンのプロレスラー。

本名:アントニーノ・バイアセットンAntonino Biasetton)。日本ではアントニオ・ロッカとして知られるが、正式なリングネームはアントニーノ・ロッカAntonino Rocca)である。イタリア系アルゼンチン人。

来歴

イタリア・トレヴィーゾで生まれ、幼少期に家族でアルゼンチンへ移住。アルゼンチン時代はレスリング・陸上競技・ボクシングなどスポーツ万能だった。

プロレスデビュー後アメリカへ渡り、南部地区からニューヨーク地区へ転戦し、華麗な空中殺法を武器に大活躍。特にイタリア系移民とヒスパニック系移民から圧倒的な支持を得る。

1950年代初頭から1960年代前半にかけてビンス・マクマホン・シニアがプロモーターを務めるWWWF(現・WWE)で活躍。「マディソン・スクエア・ガーデンの帝王」としてトップレスラーの地位に長期間君臨した。

ニューヨークマットでは、若き日のジャイアント馬場と対戦した記録が残っている。

現役時代は日本に縁が無く日本のプロレス団体に参戦することはなかったが(全盛期の頃はアメリカ国内で大人気だったため、スケジュールの都合がつかず、招聘したくてもできない状況だった)、アントニオ猪木対ルー・テーズのNWFヘビー級選手権のレフェリーとして1975年10月に初来日。

「幻の名選手が遂に来日した」と日本のプロレスファン・プロレス関係者に歓迎されたが、これがロッカの生涯で最初で最後の来日となった。

往年の輝きは失せていたものの晩年までリングに上がり続け「75歳まで現役を続け、150歳まで生き続ける」と宣言していたが、1977年3月15日にニューヨークの病院で肝臓ガンにより死去。享年49歳。

1995年、その功績をたたえてWWE殿堂に迎えられている。

獲得タイトル

  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • NWA世界タッグ王座(キャピトル版):1回(w / ミゲル・ペレス)
  • NWA USタッグ王座(ノースイースト版):1回(w / ミゲル・ペレス)
  • AWA世界ヘビー級王座(オハイオ版):1回
  • AWA世界ヘビー級王座(モントリオール版):1回
  • WWC北米タッグ王座:1回(w / ミゲル・ペレス)

また、WWFインターナショナル・ヘビー級王座を保有していたともされている。

その他

  • アントニオ猪木のリングネームの由来となった人物ともされるが、諸説あり信憑性は定かではない。
  • ブルーノ・サンマルチノやロッカに鎖骨を叩き折られ引退したプリモ・カルネラは、ロッカが同じイタリア出身であることを信じていなかった。彼らによると「臭いが違う」そうである。
  • 漫画『ジャイアント台風』では試合中に日本人を殺害したり、ジャイアント馬場戦に敗退後その人気を失い寂しく故郷に帰った等の描写がされているが、ほぼすべて原作者梶原一騎の創作であり、真実ではない。
  • アントニオ猪木vsルー・テーズ戦のレフェリーを務めるため初来日を果たした際、インタビューをしにホテルを訪れた記者に対し怯え切った表情で「とうとう来たか…お前はFBIか…?」と呟き、そしてハッキリと「俺をまだ…連れて行くな…」と呟いた。このことから「アントニオ・ロッカは実は宇宙から来たインベーダーでは?」という噂が一部で流れた。





トラヴィス・ビュー
Travis Wiuff
1978/3/15

アメリカ合衆国の総合格闘家。ミネソタ州ロチェスター出身。エリート・パフォーマンス所属。

レスリングベースの粘り強いグラウンドテクニックを持つ。

来歴

30歳にして60戦以上を経験、また、2002年は14試合、2003年は16試合を経験。2003年3月から2005年4月レナート・ババルに敗れるまで、19連勝していた。

2008/4/11、新興団体「YAMMA Pit Fighting」旗揚げ戦のヘビー級トーナメントに出場。準決勝でリコ・ロドリゲスに、決勝で当時13戦無敗であったクリス・トゥクシェラーに判定勝ちするなど、3試合すべて判定勝ちで優勝を果たした。

2008年6月8日、戦極初参戦となった戦極 〜第三陣〜で藤田和之と対戦し、KO勝ち。9月28日、戦極 〜第五陣〜で当初対戦予定であったホジャー・グレイシーの負傷欠場により代役で出場したキング・モーと対戦し、KO負け。

2009年5月2日、戦極 〜第八陣〜でスタニスラブ・ネドコフと対戦。右ストレートからのパウンドでTKO負けを喫した。







中台宣
1981/3/15

元パンクラス所属
身長180cm 体重 89kg
千葉県大網白里町出身





芳賀和昭
1931/3/17- 1995/3/15

 






 ↑ トップへヤフーオークション
 


 Copyright(c) Mitsuishiya, Inc. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system