"プレイボーイ" ゲーリー・ハート
"Playboy" Gary Hart
1942/1/24-
2008/3/16
ゲーリー・リチャード・ウィリアムス(Gary
Richard Williams、アメリカ合衆国のプロレスラー、マネージャー、ブッカー。イリノイ州シカゴ出身。
来歴
1963年にプロレスラーとしてデビュー。地元のイリノイ州やウィスコンシン州を中心にキャリアを積んだ後、フリッツ・フォン・エリックが運営していたテキサス州ダラスのNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW
/ WCWA)に参戦し、1967年10月にザ・スポイラーと組んでブルート・バーナード&マイク・パドーシスからアメリカン・タッグ王座を奪取。以降1968年にかけて、スポイラーとのコンビで同王座を通算3回獲得した。
その後、弁才を活かしヒールのプレイング・マネージャーを兼任。デトロイトやミッドサウス地区を転戦後、エディ・グラハムの主宰するフロリダのCWFに進出し、1973年下期から1974年上期にかけては極道ヒール時代のダスティ・ローデスを担当した(1974年5月にローデスとの仲間割れを演じ、彼のベビーフェイス転向~アメリカン・ドリーム誕生という一連のアングルにおいて重要な役割を担っている)。並行して選手活動も続けていたが、1975/2/20、アイアン・マイク・マッコードらと小型飛行機で移動中に墜落事故に遭遇。現役引退を余儀なくされ、マネージャー業務に専念するようになった。
1979年より古巣のダラス地区にてブッカー業務も担当。1981年には、後のペイントレスラー・ブームの先駆けとなったザ・グレート・カブキをプロデュースしている。1980年代前半はカブキの専任マネージャーとなってNWAの他地区にも遠征し、ジム・バーネットの主宰するジョージアのGCWでは、1982年にロディ・パイパーとも悪の同盟を結んだ。
以降、1980年代全般に渡りダラスのWCCWにてマネージャー兼ブッカーとして活動。フォン・エリック兄弟(ケビン、デビッド、ケリー)とファビュラス・フリーバーズの抗争劇などを手掛け、同団体の隆盛を支えた。また、自身もスカンドル・アクバやパーシー・プリングル3世を相手に、悪徳マネージャー同士の抗争を展開したことがある。
USWAへの移行期にあった1988年にWCCWを離れ、末期のジム・クロケット・プロモーションズ(旧NWAミッドアトランティック地区)に移籍。同団体がテッド・ターナーに買収されWCWが発足した1989年からは、「グレート・カブキの息子」という設定だったグレート・ムタのマネージャーを担当、テリー・ファンクとタッグチームを組ませ、リック・フレアー&スティングの頂上コンビとの抗争も指揮した(ムタとテリーのタッグは、日本人とテキサス人のチームとして「J・テックス(J-Tex)」と名付けられた)。
WCW離脱後はダラスに戻り、1990年代前半はWCCWの後継団体ともいえるGWFで活動。1999年にフルタイムのプロレスリング・ビジネスから引退した。以後は2004年にフィラデルフィアのMLWに登場し、ロウ・キーやホミサイドのマネージャーを務めている。
2008年3月16日、心臓病のためテキサス州ユーレスの自宅にて死去。66歳没。没後の2009年、自著 "My Life In Wrestling...With
A Little Help From My Friends" が発表されている。
カブキやムタをはじめ、日本人や東洋系選手をマネージメントすることが多かったが、来日は一度も実現していない。
担当選手
- ザ・カンガルーズ
- アンジェロ・ポッフォ
- ボビー・シェーン
- ゴージャス・ジョージ・ジュニア
- ザ・スポイラー
- ダスティ・ローデス
- パク・ソン
- ボビー・ダンカン
- ジョージ・スティール
- ワイルド・アンガス
- ボブ・オートン・ジュニア
- ディック・スレーター
- プロフェッサー・タナカ
- キラー・ブルックス
- マーク・ルーイン
- キング・イヤウケア
- ブルーザー・ブロディ
- アーニー・ラッド
- イワン・コロフ
- ロディ・パイパー
- ザ・グレート・カブキ
- ザ・マジック・ドラゴン
- ジノ・ヘルナンデス
- クリス・アダムス
- ジェイク・ロバーツ
- キラー・カーン
- ワンマン・ギャング
- バズ・ソイヤー
- ディンゴ・ウォリアー
- ジェリー・ローラー
- ラリー・ズビスコ
- ケビン・サリバン
- アブドーラ・ザ・ブッチャー
- テリー・ファンク
- ザ・グレート・ムタ
- ザ・ドラゴンマスター
- エボニー・エクスペリエンス(スティービー・レイ&ブッカー・T)
- ロウ・キー
- ホミサイド
etc.
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