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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
3/19



スコット・ケーシー
"Cowboy" Scott Casey
1947/3/19

アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ダラス出身。

カウボーイ・ギミックの正統派ベビーフェイスとして、アマリロやサンアントニオなど地元のテキサス地区を主戦場に活動した。

来歴

学生時代はレスリングで下地を積み、大学卒業後の1972年にプロデビュー。ファンク・ファミリーがプロモートするアマリロのNWAウエスタン・ステーツ地区にて活動し、1975年5月には全日本プロレスに初来日している。帰国後の10月にはフランク・グーディッシュからウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を奪取、翌1976年4月にもジェリー・ブリスコを破って同王座を獲得した。

1977年からは中西部のNWAセントラル・ステーツ地区に参戦、マイク・ジョージとコンビを組み、12月にカンザスシティにてクラッシャー・ブラックウェル&バック・ロブレイからNWA世界タッグ王座を奪取している。

1980年代に入るとサンアントニオのSCW(サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング)に定着し、ジノ・ヘルナンデス、ディック・スレーター、ボビー・ジャガーズ、タンク・パットン、キラー・ブルックスらヒール勢と抗争を展開。1983年は8月にアドリアン・アドニスから世界ヘビー級王座を、9月にタリー・ブランチャードからサウスウエスト・ヘビー級王座を奪取した。

1984年4月にはSCWのブッカーでもあったテリー・ファンクのブッキングにより、ボブ・スウィータンと共に旧UWFの旗揚げシリーズに来日、最終戦の蔵前国技館大会ではマッハ隼人と対戦している。翌1985年はフリッツ・フォン・エリックの主宰する故郷ダラスのWCCWに登場、4月にフォートワースにてデニス・コンドリーを破り、TVタイトルを獲得した。

1987年よりWWFと契約し、中堅ベビーフェイスのポジションでミッドカード戦線にて活動。9/21にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに登場し、スティーブ・ロンバルディ(ブルックリン・ブロウラー)を得意技のブルドッグで下しMSGデビュー戦を飾っている。1988/11/24に開催された『サバイバー・シリーズ』の第2回大会では、ジム・ドゥガン、ジェイク・ロバーツ、ケン・パテラ、ティト・サンタナとのチームで出場、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハーリー・レイス、ディノ・ブラボー、リック・ルード、ミスター・パーフェクトのヒール軍と対戦した。WWFでは活躍の機会に恵まれなかったものの、ベテランのジョバーとして1990年まで単発的に出場を続けた。

セミリタイア後はSCW時代の盟友イワン・プトスキーがヒューストンに開設したプロレスリング・スクールのヘッド・トレーナーを務め、ハーレム・ヒートのスティービー・レイとブッカー・T、アーメッド・ジョンソンらを育てた。

近年はネバダ州ラスベガスにてカジノのセキュリティに転身している。

獲得タイトル

NWAウエスタン・ステーツ
  • NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:2回
  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:1回(w / レジー・パークス)
NWAセントラルステーツ
  • NWA世界タッグチーム王座(セントラルステーツ版):1回(w / マイク・ジョージ)
WCCW
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • WCCW TV王座:1回
SCW
  • SCW世界ヘビー級王座:1回
  • SCWサウスウエスト・ヘビー級王座:1回





木村 響子
1977/3/19

きむら きょうこは、日本の女子プロレスラー。神奈川県横浜市出身。血液型AB型。フリーランス。1997年に結婚し一児をもうけたが、後に離婚。現在はシングルマザーである。アフロヘアーでバナナを持って「ウホ、ウホ」とゴリラのマネをするパフォーマンスを行なう。

所属

  • JWP女子プロレス(2003年 - 2005年)
  • フリーランス(2005年 - )

プロフィール

1993年にFMWにテスト生として入団するが、1年ほどで退団し、1994年にはメキシコに渡った。

WMFの営業などを経て、2002年にシャーク土屋の紹介でJWP女子プロレスに入門し、2003/7/20のディファ有明大会における、対渡辺えりか戦でデビュー。NEO女子プロレスや息吹など他団体にも参戦していた。

2005/12/18をもってJWPを退団し、フリーランスとなった。2006/6/4には大日本プロレスで初のデスマッチに挑戦した(vs. 尾崎魔弓・アブドーラ小林、パートナーは宮本裕向)。

2008年、江本敦子をパートナーに迎え、ヒールユニット「レボルシオン・アマンドラ」を結成。後に中川ともかがアマンドラに合流。同年12/31、江本と共にNEO認定タッグ選手権試合で、NEOマシンガンズを破り、タッグタイトル獲得に成功した。

2009/5/2、新木場1stRINGにて、アマンドラの自主興行を開催。自らも宮本裕向と共に、松永光弘考案の「蛍光灯スクリューデスマッチ(蛍光灯が括り付けられた巨大扇風機を使用)」に挑戦した(vs佐々木貴・竹田誠志)。

2010年5月、体調不良により休養を宣言するが、仮の姿で沖縄プロレスに参戦することを発表。

8/29のWAVE新宿大会で中川相手に本格復帰。

10/11のNEO後楽園大会にてヘイリー・ヘイトレッド、チェリーボムと組み、対下田美馬、チェリー、羽沙羅組の6人タッグ出場。ヘイトレッドの友人Xとして紹介されていた。

入場テーマ曲

  • BAILA CASANOVA」Paulina Rubio     
  •  「BORDER GIRL」収録 (UICU 9002)

木村響子Blog
木村響子Blog

 
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タイチ
1980/3/19

日本のプロレスラー。本名は牧 太一郎(まき たいちろう)。北海道石狩市出身。新日本プロレス所属。

来歴

高校時代はレスリング部に所属し、道大会で優勝。全国大会の出場経験もある。

2001年、全日本プロレスが夏に開催した第1回BATTキャンプに参加し合格。

2002/12/2、全日本プロレスの新潟・長岡市厚生会館大会にて土方隆司戦でデビュー。

全日本プロレスのジュニア戦線主要レスラーとして、2004年2月には大阪プロレス主催の『スーパーJカップ 4TH』に全日本プロレス代表で出場するも1回戦で大阪プロレスの村浜武洋に敗れた。

川田利明の付き人を務めながら試合を行っていた。2005年2月に川田が退団する際には、自分は川田の付き人であるという理由から石狩も全日本を退団し行動を共にしている。以降フリーランスとして活動し、多くの団体に登場している。主戦場の一つであるハッスルでは、不遜かつ非常識な言動で控え室で先輩選手に怒られまくるキャラクターで注目を集め、控え室のスーパースターと呼ばれる。しかし川田が高田モンスター軍に寝返ってしまい、川田の心を取り戻そうと愛憎師弟対決を4度行うも、全て返り討ちにあってしまった。また、女子レスラー風の衣装と化粧を施し「石狩太子(たいこ)」のリングネームを使ったこともある。

ハッスルとは契約を自ら打ち切り離脱。新日本プロレスの単発興行「WRESTLE LAND」に、邪道・外道とトリオを組み、「北海道」のリングネームを名乗った。

7/8にディファ有明で開催された総合格闘技イベント「MOVE ON! Kings!」で、総合格闘技に初挑戦する予定であったが腰のヘルニア悪化および右肩腱鎖関節損傷のため欠場となった。

その後、フリーとして旧友宮本和志のいるキングスロードへ登場。しかし団体解散後はしばらくZERO-ONE MAXに参戦。 最近は新日本プロレスに参戦し正規軍の一員として戦うことが多くなり2008年にはTNAへミラノコレクションA.T.とともに遠征することが決まった。しかしTNAでは一試合も試合をすることなく予定を早めて帰国をしたことを公式サイトで明らかになった。

帰国後、ミラノの技ロープパラダイスやギミックである透明犬(後に「ミケコ」と命名)を真似するようになり、ミラノとの抗争に発展し、シングルマッチが2度組まれるが、いずれも敗北。同年11月、犬猿の仲といわれたミラノと和解しタッグチームユニオーネを結成。G1 TAG LEAGUEに初出場するも1勝のみにとどまった。

2009年1月には東京ドーム第0試合に初参戦。同年より新日本プロレスの所属となった。4月には「石狩太一」から「タイチ」へと改名し6月のBEST OF THE SUPER Jrでは2年ぶりに出場。初めの4試合は全て敗北しいち早く予選落ちになったが、優勝候補とされていた田口隆祐、他団体出場のYAMATOを破り2勝4敗という結果となった。

6/20、IWGPジュニアタッグ王座次期挑戦者決定戦を賭け田口隆祐、プリンス・デヴィットの「Apollo 55」と対戦。奮闘を起こし、「タイチ」コールも沸き起こったのだが、最後は田口のどどんで敗北。それから1か月が経った7月20日、Apollo 55が見事王座奪還に成功。再びIWGPジュニアタッグ王座を懸けて激突するがここでも敗れた。

その後、パートナーであるミラノが目の負傷で長期欠場(後に引退)となり、11月下旬からは金本浩二とタッグを組んでいる。

海外遠征

2010/1/19、CMLLへの長期遠征が発表。2/15に同団体へ参戦するため、メキシコへ出発。同月19日(現地時間)にアレナメヒコ大会のセミファイナルに初登場。内藤哲也、レイ・メンドーサ・ジュニアと組んでストロングマン、ミステル・ニエブラ、マキシモ組と3本勝負で激突。これにストレート勝ちを収めた。

3/21のアレナコリセオ大会で対戦相手のラ・マスカラのマスクを剥いだことから因縁が勃発。5/7に棚橋弘至、OKUMURAと組んで、ラ・マスカラ、イホ・デル・ファンタズマ、エクトール・ガルサ組とCMLL世界トリオ王座を賭けて対決。これに勝利し同王座に載冠。また、自身初のベルト奪取となったが、5/21日の初防衛戦にて同王座に陥落し短命政権で終わる。

同5/23日にマキシモのキス攻撃を受けてしまったことから因縁勃発。6/6、CMLLのビッグイベントの一つとされているシン・サリダ興行のメインイベントでカベジェラ・コントラ・カベジェラマッチとしてマキシモと対戦。パワーボムで潰されピンフォール負けを味わい丸坊主に。試合後、「今日の恨みは絶対に果たす」と強くリベンジを誓った。

タイトル歴

  • CMLL世界トリオ王座(パートナーは棚橋弘至・OKUMURA)

入場テーマ曲

  • 「pageant」(Moi dix Mois)
  • 「forbidden」(Moi dix Mois)
  • 「pain〜wing」(Art Cube)
  • 「季節の中で」(松山千春) - デビュー当初に使用

その他

  • 自身のブログ「新・石狩生活」でミラノにブログジャックされたことがある。その後、後藤や岡田などにもジャックされた。
  • 趣味は競馬でブログでは度々このことが書き記されてはいるが、つくづく外れてしまっている。

タイチブログ





エヴァン・ボーン/マット・サイダル
Evan Bourne/Matt Sydal
1983/9/19

マット・コークランMatt Korklan)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。WWEのRAW所属、ミズーリ州セントルイス出身。ミズーリ大学コロンビア校卒業。

経歴

2000/10/10地元のセントルイスでプロレスデビューする。

2003年にTNAのリングに上がり、クリストファー・ダニエルズやエリックス・スキッパーなどと対戦する。

2004年にはROHに初登場。さらにはIWAミッドサウスのキング・オブ・ザ・デスマッチに初参戦をしたうえで、ミッキー・ナックルズやミスシェフなどの女子プロレスラーらを含む参戦者らと蛍光灯デスマッチを戦った。2005年にもこの大会に参戦したが、1回戦敗退という結果に終わった。

2002年から2005年にかけてレスラー活動を行いながらミズーリ大学コロンビア校を卒業した(マーケティングを専攻)。WWEではそれにちなんで、日本マットへ上がる前はマーケティング会社の役員だったというギミックが与えられている。2006年の5月にはDRAGON GATEに初登場。やがてBlood Generationと行動するようになった。

2007年2月にはオープン・ザ・ブレイブゲート王座を獲得。(対戦相手は吉野正人)外国人選手がシングルのベルトを獲得したのはDRAGON GATE史上初の出来事である。また自身も日本での初タイトルとなった。 同年8月にWWEと契約する。DRAGON GATEへの参戦は9/14の後楽園大会が最後となった。

WWE移籍後はファーム団体であるOVW、FCWを経て2008/6/3のECWでデビューする。翌週の放送からリングネームをエヴァン・ボーンと改め、持ち味の空中技を活かしてチャボ・ゲレロやマイク・ノックスらと抗争する。同年9月8日、RAWに登場し、レイ・ミステリオとタッグを結成する。

2008年10月のサイバー・サンデーではファン投票でECW王座の挑戦者に抜擢され、マット・ハーディーと対戦する。10/28のECWでの試合中、着地の際に足首の靭帯損傷の怪我を負い、戦線離脱する。12月のスラミー賞では最優秀フィニッシュムーブ賞を受賞する。

2009年3月に復帰し、復帰後はタイソン・キッド、マーク・ヘンリーなどと抗争する。6月のトレードでRAWへ移籍する。移籍後はコフィ・キングストンと共にビッグ・ショーと短い抗争をする。その後はジョバー的な役割での登場が多かったが2010年3月に開催したレッスルマニア26でマネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに初出場する。優勝は逃したものの観客を大いに沸かせた。

その後フェイタル・4ウェイではクリス・ジェリコ、5/31のRAWではジョン・シナにタッグパートナーとして指名され、シェイマス&エッジを破るなどの活躍を見せる。しかしたびたびネクサスの襲撃のターゲットとなってしまう。マーク・ヘンリーとタッグを組んで活動していたが、10月に肩を負傷しRAWに移籍してきたCMパンクに襲撃される形で欠場に入った。

タイトル歴

DRAGON GATE

  • オープン・ザ・ブレイブゲート王座 : 1回

ROH

  • ROH世界タッグ王座 : 1回 (∽クリストファー・ダニエルズ)

入場曲

  • Born To Win - WWE & Jim Johnston (feat. Mutiny Within)
  • Axeman





冬木 弘道
1960/5/11-2003/3/19

日本の元プロレスラー。東京都江東区生まれ、神奈川県横浜市育ち。横浜商科大学高等学校出身。身長181cm、体重128kg。

来歴

1979年に国際プロレスに入門。デビュー戦は1980/5/4、北海道紋別市スポーツセンターの米村勉戦。

1981/8/9に国際プロレスが解散し、その後全日本プロレスに移籍。天龍源一郎の付き人を務めた。この時期、同じ若手だった三沢光晴とは、一緒に海に遊びに行くなどして仲が良かったという。1984年に海外初遠征。1985年12月体重を増加させて帰国後、ジャイアント馬場の命名によりサムソン冬木に改名した。1987年に再び海外遠征。プエルトリコ地区では、風貌が似てたため、「リキ・チョーシュー」を名乗った。帰国後、天龍同盟に参加。川田利明とのコンビ「フットルース」を結成。ただ川田は、天龍源一郎とのタッグの機会が多くなり、冬木が次第に孤立していく様になった。

当時天龍同盟と対立していた全日本の正規軍のジャンボ鶴田はそんな伸び悩み孤立した冬木に手を差し伸べ握手をするが、冬木は1990年に全日本を離脱しSWSに移籍し、再度天龍と共にREVOLUTIONの一員として行動を共にする。1992年のSWS崩壊後はWARに移籍。ここでリングネームを本名に戻す。理不尽大王を自称し、リング上でコントを披露するなど愛嬌のあるヒールとしてのイメージを定着させる。冬木軍として邪道、外道とのトリオで活躍した。この頃、リングネームの読みを「こうどう」に変えた。

1996年にWARを離脱。1997年に邪道、外道と共に冬木軍プロモーションを設立。岐阜県大垣市で冬木軍の旗揚げ戦を開催。その後はFMWで活躍。ミスター雁之助、金村キンタローらとTNR(チーム・ノー・リスペクト)を結成し、大仁田厚をFMWから追放することに成功。その後もハヤブサら正規軍を苦しめる反面、ユニット「ブリーフブラザーズ」を結成し、白のバスローブにブリーフ姿(BADBOY非道だけ、彦根観光ホテル・現:コンフォートホテル彦根の浴衣を着用)でコントを披露(実際は冬木は黄金のブリーフ争奪戦に参加しただけで、コントは邪道、外道、金村キンタロー、ミスター雁之助、BADBOY非道が行った)した。TNR解散後も井上京子、チョコボール向井らとECW JAPAN軍を率いて活躍、またFMWのコミッショナーに就任するなど、リング内外で団体を牛耳るパフォーマンスは、リング上に留まらない新世代のヒールスタイルとも言われた。

1995年11月には早稲田大学「早稲田祭」で、「プロレス研究会“爆烈”」主催の「冬木軍理不尽道」と題する講演会に邪道、外道とともに出演した。自身の娘の小学校の講演会にも出席し「意外だと思うけど、体育と給食が大嫌いだった」とカミングアウトしている。なお、その際に沢山の児童に囲まれて「大仁田になった気分だよ」と発言している(ヒールなので大仁田のようにファンに囲まれるような機会が無かったため)。

2001/10/27、川田とシングルで対戦し敗北。その後全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に天龍と組んで出場。2002年2月のFMWの経営破綻後、3月に自ら主催する団体としてWEWを設立。

2002/4/7、プロレスリング・ノアで15年ぶりに三沢光晴とシングル戦を行い、正統派のプロレスでも改めて高い技術を見せて冬木健在を誇示する。だが、その2日後、冬木軍主催興行の試合後に大腸癌を理由に引退表明を行う。その一報と病状を聞いた三沢は、WEWがまだ立ち上がっていない冬木のために、ディファ有明のたまたま開いていた4/14をすぐさま確保、冬木の引退興行を開催することを発表し、ノアの全面協力を受けて、冬木はリングで引退試合を行った。

なお「ガンによる引退」という発表については、それまでの冬木が演じてきた理不尽ギミックもあって、当初は「アングルではないか?」という疑問視をする者が少なからず存在していたが、その直後に『引退』などのアングルを嫌う三沢光晴が、冬木のための引退興行を急遽組んだ。この引退試合のためにノアはファンに向けて黄色の紙テープを持参するように協力を依頼し、10カウントゴングの後、冬木に向けて無数の紙テープが飛んだ。この時の収益金は全て冬木に贈られた。また、引退興行にはノアの内外から多くのレスラーが協力しており、さらに会場には、新日本の永田裕志、FMWで袂を分かっていた邪道&外道、さらには天龍までもが現れた。

その後、5/5に川崎球場でWEWの旗揚げ戦を行い、WEWではプロデューサーとして活躍。だが、ガンは肝臓などにも転移しており、2003/3/19、横浜市民病院でがん性腹膜炎のため死去、42歳没。葬儀の場では、GOEMON、敵対していたハヤブサまでもが号泣していた。

2003/5/5の川崎球場で一夜のみ復帰、橋本真也と電流爆破マッチを行う予定だった。亡くなる8日前の3/11、病院から外出許可をもらい、橋本に直談判をして対戦許可をもらっていた。なお大会では、橋本は金村キンタローと電流爆破マッチを行ったが、橋本は試合前に対戦の約束を果たすかのように、冬木の遺骨を抱え、自ら電流爆破に身を投じた。

人物

  • リング上の理不尽キャラとは裏腹に面倒見のよい性格であり、リング外ではプロレス界の常識人としての一面も持っており、彼を慕う人間は多かったという。
  • ヒール扱いを受ける契機となったのは、SWS移籍前後の週刊プロレスの記事での扱いである。移籍前に、天龍同盟が再構築されることが既定路線化した際、その原因の一つに天龍と冬木の不仲がある、と取り上げられたり、SWSへの移籍を「条件(金)が良かったから」と語ったと書かれたことにより、全日ファンだけでなく、天龍ファンの多くからも反感を持たれ、SWS旗揚当初から、冬木の試合ではブーイングの嵐となった。この流れは、阿修羅・原の復帰により薄まりはしたが、その後のSWS崩壊→WAR設立以降も、正統派のファイトを続けている間は反感として持続していた。
  • 国際プロレス入門時は特に格闘技経験はなく、一ファンとして押しかけ同然で入門を果たした。入門後はマイティ井上、阿修羅・原に鍛えられた。
  • 彼には娘が2人いるが、いずれも「理」を頭文字にしている。冬木は「女の子は結婚したら姓が変わるから、自分の娘だという証拠を残せ」と、親交のあった友人に娘が産まれた時にアドバイスした。「理」は「理不尽大王」の理である。

獲得タイトル

FMW・WEW

  • FMW二冠統一王座(世界ブラスナックル、インディペンデント・ワールド世界ヘビー級)
  • 世界ブラスナックル・タッグ
  • WEWタッグ
  • FMW世界ストリートファイト6人タッグ

全日本プロレス

  • アジアタッグ王座

WAR

  • WAR世界6人タッグ

CD

  • 『理不尽』(キングレコード、1995年)

出演

  • 『コロッセオ』 - 番組の司会を数回担当した。

映像

  • 『冬木軍ロード 〜理不尽編〜』(EMIミュージック・ジャパン、1997年)

著書

  • 『理不尽大王の高笑い:Fighting for myself』(フットワーク出版、1998年)
  • 『鎮魂歌:FMWはなぜ倒産したのか』(碧天社、2003年)

関連書籍

  • 冬木薫著『マミー、そばにいて』(日之出出版、2004年)

Kodo Fuyuki Theme - FMW-Shoot It (Cover Version)

冬木弘道追悼~電流爆破~

F[ef] VOL.5
THE LEGEND DAWNS
Torn Shadows

  



テスト
Test
1975/3/17 - 2009/3/19

アンドリュー・テスト・マーチンAndrew "Test" Martin)は、カナダの男性プロレスラーである。オンタリオ州トロント出身。リングネーム()としての活動で最も知られる。かつてはミドルネームは異なる名前であったが、2005年に法的手続きを取り、ミドルネームに最も知られたリングネームを持つ形に改名した。最終所属はTNA。

来歴

1997年にプロレスデビュー。デビュー後まもなくWWF(現WWE)と契約した。WWFへの初登場は、モトリー・クルーがWWFでバンド演奏を行った際のボディーガード役である。1998年に、ビンス・マクマホンのボディーガード役でレスラーとしてWWF初登場を果たす。

ビンス率いるコーポレーションの一員として活動した後、1999年にはビンスの実の娘のステファニー・マクマホンの恋人役として活動する。RAWの番組にて、ステファニーとアングル上の結婚を予定していたがトリプルHにステファニーを奪われる形でストーリーは終わっている。

2001年にはアルバート、トリッシュ・ストラタスとタッグチームT&Aを結成して活動。2001年後半にはWCW/ECW連合軍であるアライアンスに加入した(ただしマーチンは両団体に所属した経験はない)。

2002年には、クリスチャン、ランス・ストーム率いる嫌米軍に加入しヒールとして活動した。同年10月からは、当時実生活においても恋人関係にあったステイシー・キーブラーが番組上でも恋人兼マネージャーとなり、共に行動するようになった。ステイシーとは2003年のロイヤルランブルまで共に行動した。ステイシーと別れた後はスコット・スタイナーとタッグチームを組んだ。

2004年に入り、首の怪我が悪化しWWEを欠場するようになる。同年11/1にWWEを解雇された。解雇後もしばらくはリングに復帰できないでいたが、2005年の5月にリング復帰。以降インディ団体を中心に試合を行っていた。

2006年に入り、WWEへの復帰話が浮上。同年3/22に、WWEより復帰への合意が発表された。その後はWWEのECWに所属し、トップ路線として活躍していたが、スタイナーとの抗争の頃と比べてもあまりレスリング技術が発達していない上にマイクアピールもイマイチだった為、レスリング技術やハードコア重視のECWにとってはあまり合わない存在となっていた。 ステロイド使用が発覚したため、2007年2月に解雇された。

2007/8/2のTNAに登場。"ザ・パニッシャー"アンドリュー・マーチンとして、スティング、アビスのフェイス軍に合流する。

2007/12/19、プロレスからの引退を発表した。2008年3月のアイルランド遠征で最後の試合を行う予定であった。

2009年2月、引退を撤回しビッグバン・ベイダーがプロデュースする興行に参戦。

2009年3月13日、フロリダ州タンパにある自宅で死亡しているのが発見された。

タイトル履歴

WWW (Wild West Wrestling)
  • WWWヘビー級王座 : 1回
WCW
  • WCW世界タッグ王座 : 1回(&ブッカーT)
WWE
  • IC王座 : 1回
  • 欧州王座 : 1回
  • ハードコア王座 : 2回
  • 世界タッグ王座 : 1回(&ブッカーT)

入場曲

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