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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
3/20



スティング
Sting
1959/3/20

本名:スティーブ・ボーデンSteve Borden)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ネブラスカ州オマハ出身。1990年代のWCWを代表するスーパースターである。現在はTNAに所属。

顔中に塗られた派手なペイントが特徴のレスラーとして名を馳せているが、ごく稀にペイント無しの素顔で登場する場合もある。入場曲はメタリカの『SEEK AND DESTROY』。

来歴

ロサンゼルス郊外ベニスビーチの「ゴールド・ジム」に入会した際、そこでインストラクターをしていたジム・ヘルウィッグ(後のアルティメット・ウォリアー)と共に元AWA世界タッグ王者レッド・バスチェンにスカウトされる。1985年11月、ヘルウィッグとのタッグチーム、ジャスティス&フラッシュの「フリーダム・フォース」としてカリフォルニア地区でデビュー。後にスティング&ロックの「ブレード・ランナーズ」にチーム名を改め、当時大人気だったロード・ウォリアーズのフェイク版となって活動した。

その後、ルイジアナ州のUWF(ビル・ワット主宰)に参戦するが、ヘルウィッグがUWFを離脱したことでチームは解散。単身でUWFに残り、ヒールとしてエディ・ギルバートやリック・スタイナーらとユニットを組む。1987年の夏にUWFがNWAジム・クロケット・プロモーションズに買収され、翌年に同団体がWCWに移行してからはベビーフェイスに転向。以降、NWA世界ヘビー級王者リック・フレアーやグレート・ムタとの抗争で人気を博す。1988/3/27、WCWがWWFのレッスルマニアIVと同日に開催した「クラッシュ・オブ・ザ・チャンピオンズ」でのフレアーとのNWA世界タイトルマッチは45分時間切れの名勝負となり、トップスターの仲間入りを果たした。

1989年、全日本プロレスへのワンマッチ参戦で初来日。アメリカでの活躍が知れ渡っており期待されたが、ダニー・スパイビーに敗れここでは評判倒れに終わった。1990年7月にはフレアーからNWA世界ヘビー級王座を奪取。1991年1月にフレアーに敗れ王座転落。その後は8月25日、トーナメントを制してWCW USヘビー級王座を獲得した。1992/2/29には盟友レックス・ルガーを破ってWCW世界ヘビー級王座を獲得した。1995/1/4には、新日本プロレスの格闘技トーナメントに参加。決勝でアントニオ猪木と激突した。

1996年、レックス・ルガーとのタッグでWCW世界タッグ王座を獲得。nWoとの抗争をきっかけに長期欠場し、復帰後は映画『ザ・クロウ』(邦題『クロウ - 飛翔伝説』)の主人公・エリック・ドレイベンをモチーフとした白黒ペイントを施しギミックチェンジを果たした。

その後もnWoに対抗できる唯一の存在として活躍、nWoがハルク・ホーガン派とケビン・ナッシュ派に分裂すると、ナッシュ派のnWoである「ウルフパック」に加入し、ペイントも同チームのテーマカラーである赤バージョンに変更した。WWF(現WWE)から移籍して来たブレット・ハートに敗退してからは長期欠場。復帰後は白黒ペイントにリターンし、ベビーフェイスの立場を貫き続けてた。

2001年春、WCWは崩壊。しかしスティングはWWEへの移籍を選ばず、WCWの残党が多く集まったWWAに参戦。同団体の活動停止後はTNAにも度々ゲスト参戦(試合はほとんど行わず)。2004年には、ハワイのプロレス団体HCWに、グレート・ムタとのタッグなどで試合している。その後ケン・シャムロックやミック・フォーリーらと、プエルトリコに新団体GCWの旗揚げを計画し、2005年8月の開催とカードも決定していたが、前売りチケットの売れ行きの不振から中止になった。2005年12月にTNAと正式契約し、ジェフ・ジャレットが率いるヒール軍団と抗争を開始。その際、レックス・ルガーとバフ・バグウェルを登場させ、ジャレット達を挑発した。2006/10/22、ジャレットを下しNWA世界ヘビー級王座を獲得。現在はカート・アングルとTNA世界ヘビー級王座(TNAのNWA脱退によって新設されたベルト)を巡って抗争している。

獲得タイトル

  • TNA世界ヘビー級王座:2回
  • TNA世界タッグ王座:1回(w / カート・アングル)
  • NWA世界ヘビー級王座:2回
  • WCW世界ヘビー級王座:6回
  • WCW世界タッグ王座:3回(w / レックス・ルガー、ザ・ジャイアント、ケビン・ナッシュ)
  • WCWインターナショナル世界ヘビー級王座:2回
  • WCW USヘビー級王座:2回
  • WCW TV王座:1回
  • UWF世界タッグ王座:3回(w / エディ・ギルバート×2、リック・スタイナー)
  • WWA世界ヘビー級王座 : 1回

その他インディ団体のベルトを含め多数獲得。

逸話

  • WCW時代に、新日本に参戦した際武藤敬司とタッグを組んだ時は、武藤に自分と同じようなペイントをさせて試合していたが、決して自分より上手に描かなかったらしい。当時誌面では『ムティング』と呼ばれており、闘魂Vで武藤が解説で出ていた際に『あいつ、自分のよりかっこよく書いてくれないんですよ』と語っている。
  • 多くのトップレスラーがWWEと旧NWA系団体(WCW、TNAなど)を行き来している中、スティングは一度もWWEに籍を置いたことがない数少ないレスラーである。






村山 大値
1964/3/20

全日本プロレス専属のレフェリーである。東京都世田谷区出身。女子プロレス界では、Tommyと評価を二分する名レフェリーである。リングアナ紹介のあとは「ダイチー!」と掛け声をかけるのが定番である。

経歴

1988/4/22に全日本女子プロレスでデビュー。選手の巡業バスを運転しながら、WWWA世界シングル・オールパシフィックなどの主要タイトルマッチを裁く。

その後アルシオンの専属レフェリーになり、退団後はZERO-ONEに所属している。

2005/1/1付けで全日本プロレス所属となった。全日では菊タローとの絡みで会場に笑いを誘う一方、タイトル戦では持ち前のレフェリング技術をいかんなく発揮している。

その他

  • 和田京平のレフェリングに私淑している。
  • 菊タローと荒谷望誉の試合を裁くと攻防に巻き込まれることがあり、平手打ちや高速カウントで制裁することがあるが、リング外では仲が良い。
  • 身長180cmと大きめのレフェリーだが、体型はかなりシャープである(公式プロフィールは身長181cm・体重66kg)。
  • メインレフェリーの和田京平の失神により、小島聡 vs. TARUの三冠ヘビー級選手権試合のレフェリーを務めたことがある。その後、グレート・ムタ vs. 高山善廣の三冠ヘビー級選手権試合で最初から最後まで試合を裁き切った。


 
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ホミサイド
Homicide
1977/3/20

ネルソン・エラーゾNelson Erazo)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ノートリアス187の異名をとる。

経歴

1993/2/17に地元・ブルックリンでプロレスデビュー。数々のインディ団体で活動し、自らもJAPW(ジャージー・オールスター・プロレスリング)を主催している。

ROHへのレギュラー参戦を開始した2002年には、大日本プロレスへの参戦を通して初来日。11月にニューヨークのクイーンズを舞台に大日本プロレスのジュニアヘビー級王座を獲得し、結果としてこの王座の最終保持者となった。

2003年にはZERO-ONE(現ZERO1)に参戦。また、2004/3/7開催のハッスル2にスポット参戦し、14日の札幌では天下一ジュニア&3団体ジュニア王座に挑戦した。

2005年にTNAと契約し、コナン、ヘルナンデスらと「LAX」(ラテン・アメリカン・エクスチェンジ)を結成。ヘルナンデスとのコンビではAJスタイルス・クリストファー・ダニエルズ組を破り、NWA世界タッグチーム王座を獲得している。

2006年にはブライアン・ダニエルソンを破りROH世界ヘビー級王座を獲得。

2007年、ROHおよびその他のインディ団体から撤退し、TNA専属となる。

タイトル歴

ROH
  • ROH世界ヘビー級王座 : 1回
TNA
  • TNA Xディヴィジョン王座 : 1回
  • NWA世界タッグチーム王座 : 2回(どちらもLAXとして)
  • TNA世界タッグ王座 : 1回
大日本プロレス
  • BJW認定ジュニアヘビー級王座 : 1回

その他、米インディ団体を中心にベルト獲得歴多数。

その他

  • 選手としてだけではなく指導者としても活躍。ロウキー、Bボーイといった選手たちを育てた。
  • 「プロレスの勉強に精進する」という志を共にすることから、ロウキーは肩に「勉」の刺青を、エラーゾは首に「強」の刺青を彫っている。
  • 大日本プロレスへの初来日の際に、後楽園ホールの2階席バルコニーからダイビング・エルボーを放った。
  • 2003年のZERO-ONE参戦時に葛西純を後楽園ホールの2階席バルコニーから突き落とした。
  • エラーゾの異名にある「187」とは、カリフォルニア州刑法第187条が殺人を取り上げていることから転じた殺人を表すスラングである。また、TNAでエラーゾがよく口にする「5150」は、ロサンゼルス市警察における「犯罪を起こす可能性のある狂人」を表す暗号である。





ビッグ・ジョン・スタッド
Big John Studd
1948/2/19 - 1995/3/20

アメリカ合衆国のプロレスラー。ペンシルベニア州バトラー出身。本名はジョン・ウィリアム・ミントンJohn William Minton)。

来歴

カンザス州立大学卒業後、プロフットボール球団を経てキラー・コワルスキーに師事。1972年にコワルスキーの縁故により、ニューヨークのWWWF(現・WWE)でチャック・オコーナーChuck O'Connor)のリングネームでデビュー。その後、インディアナポリスのWWAに参戦。1976/3/13、オックス・ベーカーとのコンビでディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーを破り、WWA世界タッグ王者となる。王座陥落後はニューヨークに戻り、黒覆面のマスクマン、ジ・エクスキューショナー2号The Executioner #2)に変身して1号のコワルスキーと「ジ・エクスキューショナーズ」を結成、同年5月11日にWWWF世界タッグ王座を獲得した。

1977年からはキャプテンUSACaptain USA)なる覆面レスラーとしてテキサス州のダラス地区に登場し、ブルーザー・ブロディからNWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取する。その後は素顔に戻り、ジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区でビッグ・ジョン・スタッドと改名。1978年にはリック・フレアーをパートナーにリッキー・スティムボート&ポール・ジョーンズを破りミッドアトランティック・タッグ王座を獲得した。以降も同地区に超大型のヒールとして定着し、ケン・パテラとのタッグやブラックジャック・マリガンとのスーパーヘビー級抗争などで活躍。マスクド・スーパースターの相棒となって再び覆面を被り、マスクド・スーパースター2号Masked Superstar #2)を名乗ったこともある。

1980年にはAWAに進出し、クラッシャー・ブラックウェルとの巨漢コンビでグレッグ・ガニア&ジム・ブランゼルのハイ・フライヤーズと抗争。同年10月には全日本プロレスに初来日している。1981年からはジョージア(ジム・バーネット主宰のGCW)、フロリダ(エディ・グラハム主宰のCWF)、ルイジアナ(ビル・ワット主宰のMSWA)など南部一帯の各プロモーションを転戦。フロリダではブルーザー・ブロディとも共闘し、同地区のヒーローだったダスティ・ローデスやブッチ・リードと抗争した。

1983年よりWWFと再契約し、フレッド・ブラッシーをマネージャーに当時のWWF王者ボブ・バックランドに挑戦。アンドレ・ザ・ジャイアントとの大巨人対決もドル箱カードとなった。同年には新日本プロレスのIWGPリーグ戦第1回大会にアメリカ代表として再来日。リングネームはそのままだが、覆面を被りマスクマンとして試合を行った(当時スタッドはWWFでアンドレと抗争中であり、日本で両者がタッグを組んでいる写真などがアメリカで報道されることを危惧したためといわれている)。

以降も新日本の常連外国人として度々来日し、IWGPリーグ戦には1984年の第2回大会にも連続出場している。この第2回大会はWWFでのスケジュールのため序盤のみの参加だった(公には怪我による途中帰国とされていた)。開幕戦ではマスクド・スーパースターとの「マスクド・スーパースターズ対決」が行われている(結果は両者リングアウト)。

1984年からはビンス・マクマホン・ジュニアによるWWFの全米侵攻がスタートし、スタッドも主力メンバーの一人として全米サーキットに参加。ボビー・ヒーナンを新しいマネージャーに付け、新WWF王者ハルク・ホーガンと各地で対戦した。アンドレとの抗争も継続させ、1985年3月31日のレッスルマニア第1回大会では1万5千ドル争奪のボディスラム・マッチを行っている。

以降もキングコング・バンディとの超大型コンビでタッグ戦線でも活躍したがタイトル奪取の機会には恵まれず、1987年からしばらくリングを離れ俳優業に進出。1988年の後半にベビーフェイスとしてWWFに復帰し、1989/1/15のロイヤルランブルでは優勝を飾ったが、全盛期のような活躍は果たせず、同年の夏にWWFを離れ1990年に引退した。その後も単発的に俳優活動を続け、ミッキー・ローク主演の映画『ハーレーダビッドソン&マルボロマン』などに出演している。

1995年3月20日、ホジキンリンパ腫による悪性腫瘍のため死去。47歳没。2004年には長年の功績を称え、WWE Hall of Fameに迎えられた。

エピソード

  • 怪物的な巨体と強面の持ち主だが、素顔は温和な好人物で知られており、新日本プロレスへの来日時もミスター高橋や田中秀和ら関係者は一様にスタッドの人柄を称えていた。
  • その一方、腕っぷしの強さも認められており、ブラックジャック・マリガンやブルーザー・ブロディもスタッドには一目置いていたという。
  • 引退後は何人かの若手レスラーの育成も手掛けている。新日本の留学生だった巨漢のロン・リースもその一人で、後にリースはWCWで「ビッグ・ロン・スタッド」を名乗ったことがある。
  • 2004年の殿堂入り式典には息子のジョン・ミントン・ジュニアが亡父に代わって出席した。父親同様の巨体の持ち主であり、WWEデビューを目指してタフイナフの第4シーズン(100万ドル・タフイナフ)にも参加したが、予選落ちとなっている。

獲得タイトル

チャック・オコーナー
  • WWA世界タッグ王座:1回(w / オックス・ベーカー)
ジ・エクスキューショナー2号
  • WWWF世界タッグ王座:1回(w / ジ・エクスキューショナー1号)
キャプテンUSA
  • NWAアメリカン・ヘビー級王座:1回
  • NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / ブル・ラモス)
ビッグ・ジョン・スタッド(マスクド・スーパースター2号*)
  • NWA北米ヘビー級王座(ハワイ版):1回
  • NWAハワイ・タッグ王座:1回(w / バディ・ローズ)
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座:4回(w / リック・フレアー、ケン・パテラ、マスクド・スーパースター1号*、ロディ・パイパー)
  • NWAカナディアン・ヘビー級王座(トロント版):1回
  • NWAサザン・ヘビー級王座(テネシー版):1回
  • NWAナショナル・タッグ王座(ジョージア版):1回(w / スーパー・デストロイヤー)
  • NWAフロリダ・グローバル・タッグ王座:1回(w / ジミー・ガービン)
  • EWU世界スーパーヘビー級王座:1回
  • WCW Hall of Fame:1995年度
  • WWE Hall of Fame:2004年度(プレゼンターはビッグ・ショー)





"バロン" マイケル・シクルナ
"Baron" Mikel Scicluna

1929/7/29 - 2010/3/20

マルタ共和国出身のプロレスラー。元WWWF世界タッグ王者、WWE殿堂者。

来歴

カナダに移住後、1950年代にオンタリオ州トロントにてデビュー(当時のトレーニング仲間にはワルドー・フォン・エリックらがいる)。マイク・バレンティノMike Valentino)をリングネームに、1960年代前半までカナダやNWAサンフランシスコ地区を主戦場に活動した。

1965年にニューヨークのWWWF(現在のWWE)に進出し、バロン・マイケル・シクルナBaron Mikel Scicluna)と改名。マルタ十字の施されたマントをまとった大型ヒールとして頭角を現し、1966/1/24にマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に初挑戦、マルタ式背骨折りでサンマルチノを半失神に追い込んだ。同年9/22にはスマッシャー・スローンとのコンビでジョニー・バレンタイン&アントニオ・パリシーからWWWF USタッグ王座も奪取している。

1967年11月には日本プロレスに初来日。日プロには1968年2月にも再来日している。同年はオーストラリア(ジム・バーネットが主宰していたWCW)にも遠征し、6/1日にシドニーでスパイロス・アリオンを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得した。

1970年代に入ると再びWWWFに参戦し、キャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーにキング・カーティス・イヤウケアと "キング&バロン" のタッグチームを結成。1972/2/1、カール・ゴッチ&レネ・グレイの独仏コンビからWWWF世界タッグ王座を奪取し、第3代の王者チームとなった。

王座陥落後の1972年6月には国際プロレスに来日。翌1973年3月と1974年8月には全日本プロレスに参戦している。1973年の来日時は『チャンピオン・カーニバル』の第1回大会に参加。トーナメント1回戦でサムソン・クツワダを下したが、2回戦でザ・デストロイヤーに敗退した。

以降もWWWF / WWFを主戦場に、1976/6/1には、モハメド・アリがゴリラ・モンスーンに喧嘩を売ったアングルにおいてモンスーンのジョバーを務めている(アリは同年6/26にアントニオ猪木との異種格闘技戦が決定しており、そのプロモーションとしてWWWFのリングに登場した)。

1978年4月には当時のWWFの提携ルートで新日本プロレスに初参戦し、『MSGシリーズ』の第1回大会に出場。すでに体力的なピークを過ぎていたこともあり決勝リーグ進出は果たせなかったものの、予選トーナメント1回戦ではチーフ・ジェイ・ストロンボーとの本場MSGでの定番試合が実現している(このストロンボー戦に敗退後、敗者復活戦の1回戦でマーティン・ジョーンズ、2回戦で藤原喜明を破り勝ち進んだが、決勝リーグ進出を賭けた3回戦で坂口征二に敗れた)。

その後も中堅ヒールのポジションでWWFに定着し、ベテランのジョバーとして活動。1984年の現役引退後はWWFの重要拠点の一つだったペンシルベニア州フィラデルフィアに居住し、ニューヨーク・タイムズのトラック・ドライバーの職に就いた。1996年にはWWF殿堂に迎えられている。

2010/3/20、癌のため死去。享年80歳。


  



サー・オリバー・フンパーディンク
Sir Oliver Humperdink
1949/1/16 - 2011/3/20

ジョン・サットンJohn Suttonアメリカ合衆国のプロレスリング・マネージャー。ミネソタ州ミネアポリス出身。

1970年代から1980年代にかけて、フロリダを中心にNWAの主要テリトリーで活躍。ハウス・オブ・フンパーディンクHouse of Humperdink)なるヒール軍団を組織し、悪徳マネージャーとして観客のブーイングを浴びた。キャリア末期は、WWFやWCWでも活動した。

来歴

少年時代からのプロレス・ファンであり、1965年に地元ミネアポリスの興行で会場の案内員を務めたことを機に業界入り。バーン・ガニアのAWAにて、雑用係のリングボーイやセキュリティ・ガードとなって働きつつ、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、パット・パターソン、ボビー・ヒーナン、ディック・ベイヤーなどプロレスラーとの人脈を築いた。

1973年、マッドドッグ・バションらが主宰していたカナダ・モントリオールのグランプリ・レスリングに活動の場を移し、レフェリーを経て、ブッチャー・バションの勧めでヒールのマネージャーに転向。特徴的な赤毛のため当初はレッド・サットンRed Sutton)と名乗り、後にドン・ジャーディンの提案により、ハンプティ・ダンプティを思わせる体型であったことからサー・オリバー・フンパーディンクSir Oliver Humperdink)と改名。ジェリー・ブラウンとバディ・ロバーツのハリウッド・ブロンズのマネージャーとなり、モントリオールを皮切りにフロリダ、ロサンゼルス、オクラホマなど各地を転戦した。

1976年にブロンズと別れ、エディ・グラハムの主宰するNWAフロリダ地区に定着。以降、スーパースター・ビリー・グラハム、オックス・ベーカー、アーニー・ラッド、イワン・コロフ、ザ・ファンクスなどのヒール勢をマネージメントし、同地区のヒーローだったダスティ・ローデスとの抗争を指揮した。1982年から1983年にかけては、ジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区にて活動し、グレッグ・バレンタイン、ポール・ジョーンズ、ワンマン・ギャングらを担当。その後フロリダに戻り、ケビン・サリバンと結託してローデスやブラックジャック・マリガンと抗争を展開した。

彼自身はレスラーではないが試合にも時折出場しており、フロリダでは1980年にプレイング・マネージャーのロード・アルフレッド・ヘイズと抗争。1987年2月24日にはバッドニュース・アレンからNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取している(1981年には、NWAセントラル・ステーツ地区でデューイ・ロバートソンを破りTV王座を獲得したともされている)。

1987年、長く主戦場としていたフロリダ地区がジム・クロケット・プロモーションズに買収されたことを機に、NWAを離れてWWFと契約。バンバン・ビガロのマネージャーとなり、共にベビーフェイスのポジションでハルク・ホーガンとも共闘した。WWFでは、リック・ルードと抗争していたポール・オーンドーフのマネージャーも務めている。

1988年にNWAへ復帰し、ヒールに戻ってサモアン・スワット・チーム(サムゥ&ファトゥ)などのマネージャーを担当。1990年代初頭のWCWでは、ビッグ・ダディ・ディンクBig Daddy Dink)の名義でファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&ジミー・ガービン)のローディーを演じた。しかし、彼はこのギミックに不満を持ち、当時のWCWの舞台裏における政治的な軋轢に疲弊したこともあり、1993年にプロレスリング・ビジネスから引退した。

2001年、大動脈弁の置換手術を受け心臓ペースメーカーを移植。その費用は、プロレス関係者のOB会であるカリフラワー・アレイ・クラブの有志によって集められ、彼に寄付された。2011年3月20日、肺炎による合併症で死去。62歳没。

















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