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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
3/21



小島 貞二
1919-3/21 -2003-6/14

愛知県豊橋市出身の著作家、相撲・プロレス・演芸評論家にしてそれらの歴史研究者、作詞家。相撲関係の雑誌などでは大須 猛三(おおす もうさん)のペンネームを使っていたことがある。

来歴

旧制豊橋中学校(現:愛知県立時習館高等学校)を卒業後、漫画家を志して上京し、川原久仁於に師事して絵を描いていたが、身長182cmの体格を見込まれて大相撲の出羽海部屋に入門することになり、1938年夏場所に本名で初土俵を踏む。  双葉山の70連勝を阻止した、平幕時代の安芸ノ海の付け人を経験し、その70連勝阻止の瞬間を裏方からの目線で見た著作がある。(別冊1億人の昭和史 昭和大相撲史)

1942年春場所限りで廃業し、その後は博文館に入社して雑誌『野球界』の編集部に所属し、相撲の記事を担当する。戦火が激しくなると「国内必勝勤労対策」のため編集の仕事が続けられなくなり、炭鉱会社の麻生鉱業に入る。会社の命令で南方のセレベス島へも赴き、この地で終戦を迎える。

終戦後は芸能新聞『スクリーン・ステージ』の演芸記者になり、1950年5月にスクリーン・ステージが休刊した後は東京日日新聞(現在の毎日新聞とは別)に移り相撲・演芸担当の記者として働く。

1955年8月に東京日日新聞が休刊した後は放送作家に転身。コロムビア・トップ・ライトのラジオ番組『起きぬけ漫才』(ニッポン放送)などの台本を書いた。また、小林旭を初めとするコミック・ソングの作詞も手がけている。

その後は著作業の世界にも身を置き始める。正岡容から演芸を、長谷川伸から作家としての心得を学び、力士・記者・放送作家の経験も生かして評論・研究を重ね、多数の著書を出版。その総数は160冊を超えている。5代目古今亭志ん生の有名な自伝『びんぼう自慢』の聞き書きも担当した。

『11PM』女相撲コーナー解説者を経て、日本初の女子プロレス解説者にも就任。テレビでも毎週お馴染みの顔になった。

1977年には放送作家たちの笑芸研究の団体「有遊会」を設立している。また「千葉笑い」を朝日新聞千葉版で復興し、笑文芸を身近な存在に引き上げた。

2003年6月24日、地元中山の落語会清華亭にて解説中に脳出血のため死去。享年84。

2004年、長らく居を構えていた千葉県の市川市から名誉市民の称号が贈呈された。

長男は音楽・映像・マルチメディアプロデューサーの小島豊美。小島が編集に参加したCD-ROM「古今東西噺家紳士録」は、息子の豊美が経営する会社から発売されている。






豊登 道春
1931/3/21 -1998/7/1

福岡県田川郡金田町(現在の福智町)出身で立浪部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。本名は、定野道春(さだの みちはる)。最高位は、前頭15枚目。大相撲時代の体格は、身長173cm、体重105kg。レスラー時代の体格は身長174cm、体重114kg。

来歴

日本プロレス時代まで

立浪部屋に入門し、1947年6月場所初土俵。豊登の四股名に改め、1953年9月場所で十両優勝を果たし、1954年3月場所で幕内昇進して3場所勤めるが、親方との不仲により廃業。幕内成績は21勝19敗5休。得意手は、右四つ、出し投げ。力任せの強引な取り口だったという。

1954年10月、大相撲の先輩、力道山率いる日本プロレスに入団、11月千葉県茂原市にて、宮島富雄を相手にデビュー。1956年10月、全日本ウェート別選手権に出場し準決勝進出、頭角を現す。

その後力道山のタッグパートナーとして海外遠征に帯同したことで実力をあげ1960/6/7、第3代アジアタッグ王者につく。同王座は力道山の死後吉村道明、ジャイアント馬場とともに数回獲得した。

1963年の力道山の死を受け、1965年には日本プロレスの2代目社長に就任。

ポスト力道山のエースとして1964年と1965年、春のワールドリーグ連覇を果たした。

1964年12月にはザ・デストロイヤーを破りWWA世界ヘビー級王座を獲得した。

しかし生来のギャンブル好きから来る数々の横領が発覚して吉村道明らから非難を受け、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座獲得(力道山の死後封印されていたのが馬場にシングルの王座を与えるために復活)によりエースの地位が危うくなったこともあって1965年末に社長を退任、日本プロレスからも退社することになった。

猪木略奪事件

1966年3月、アメリカ遠征から帰国の途についていた当時日本プロレス所属のアントニオ猪木とホノルルで密会。「日本プロレスに帰ってもお前は馬場の2番手だ。俺の団体に来たら社長エースにしてやる」と口説き落とし、猪木を伴い帰国。俗に「太平洋上の略奪」と呼ばれる。同年10/12、蔵前国技館で東京プロレス旗揚げ戦を挙行した。

しかしここでも豊登は会社を私物扱いしており、売上金をわしづかみにして競輪場へ直行するという有様であった。テレビ放送が付かなかったこと、営業力が弱体であったこと、さらにこれらのトラブルから豊登と猪木の信頼関係が失われたことなどでわずか3か月で団体は消滅。猪木は日本プロレスに復帰した。

現役後期・引退後

東京プロレス消滅後、豊登は国際プロレスに入団。1969年パリにてIWA世界タッグ王座を獲得した(パートナーはストロング小林)。

1970年2月に一旦引退するが、1972年3月、新日本プロレス旗揚げ戦に登場。その後も継続参戦する。これは豊登からの申し出によるもので、テレビ放映がつかず苦しい台所事情で団体を興した猪木を、知名度がある自分が参戦することで助けようとした行動であり、東京プロレスで迷惑をかけた猪木への償いであったとされる(門馬忠雄『ニッポン縦断プロレスラー列伝』)。

1年後NET(現在のテレビ朝日)が新日本の放映を開始し経営の先行きが明るくなると、豊登はリングを去り、選手としては完全に引退した。

その後は1974/10/10の猪木VS大木金太郎戦でレフェリーを務めたり、1989/2/22、新日本『スペシャルファイト・イン国技館』で行なわれたユセフ・トルコ引退セレモニーに来賓として登場した以外は、ファンの前に姿を見せることはなかった。

1998年7月1日、急性心不全で死去。67歳没。晩年は糖尿病を患っていた。

逸話

豊登伝説

力道山が手を焼くほど奇行が多く、残された伝説、逸話は数多い。代表的なものを挙げる。

  • 数度の金銭トラブルを起こすほどのギャンブルマニア。特に競輪に凝っていた。藤波辰爾に競輪選手への転向を本気で勧めたり、自ら自転車を手に入れて、トレーニングと称し乗り回したりした。
  • 競馬にも詳しく「俺は馬語が解る」と語っていたという。
  • 常軌を逸した大食漢であり、好物の握り寿司を250個食べたという記録がある。早食いでも周囲を驚かせており、山本小鉄は「一緒にラーメンを食べに行って、こっちが一杯目を食べ終わる前に三杯目を注文していた」「色々なレスラーの中で、胃袋に関しては別格」と述懐している。
  • 日本で初めての覆面レスラーとされる「覆面太郎(ストロング小林)」登場以前に、「ミスターZ」という青覆面のマスクマンになったことがある。
  • 十八番は自らの手で替え歌にした「ソーラン節」。ほとんど猥歌と化していた。
  • 失踪癖があった。これは現役引退後も続き、OB会を組織する動きが出た際、豊登の消息を知るものは誰一人としていなかった(後に判明)。
  • 数多くのレスラーの名付け親。「アントニオ猪木」も彼の命名。名づけの傾向としては、
    • 時代劇の登場人物や侠客をイメージしたもの(例・田中忠治、上田馬之助、小鹿雷三・後のグレート小鹿、山本小鉄、星野勘太郎など)
    • 出身地からの連想(例・高千穂明久・後のザ・グレート・カブキ)
    • 動物(例・高崎山猿吉・後の北沢幹之)
があげられる(北沢は大分県出身なので、出身地からの連想でもある)。
  • 両腕を前で交差させ、脇の下から「パコン、パコン」と音を鳴らすパフォーマンスは非常に有名で、豊登の代名詞。桑田佳祐は1983年、小林克也率いるナンバーワンバンドに「プロレスを10倍楽しく見る方法〜今でも豊登を愛しています」という曲を提供したが、歌詞中にもやはり、「パコン、パコン」と小林克也が絶叫する部分がある。外国人レスラーがこの音を気持ち悪がったため、技として通用するともいわれた。
  • 山下財宝伝説を信じており、周囲のレスラー仲間に採掘の話を持ちかけたこともあった。
  • 筋肉だけでなく骨も物凄く丈夫で、文字通り筋骨隆々であった。レスラーとしては上背がさほど無く、晩年は一般人のような体格に見えたといわれるが、遺骨拾いの際、その骨の大きさで周囲を驚かせた。

その他

  • 現代のプロレスラーにおいては、大日本プロレス所属の関本大介を豊登二世と呼ぶことが多く、身長があまり高くなく筋骨隆々で、ずんぐりむっくりな体系をしリング狭しと暴れまくるファイトスタイルからそう呼ばれる。(関本はブルーノ・サンマルチノ二世とも呼ばれる)
  • 豊登が死去した際、日本テレビの情報番組『THE・サンデー』にて豊登の追悼コーナーを組み、かつてのプロレス実況アナウンサーでもあった徳光和夫が豊登のエピソードを語っていた。
  • 映画『キングコング対ゴジラ』で、怪獣ゴジラが腕を左右に振って「パコンパコン」と音を鳴らすシーンがあるが、これは豊登の十八番を採り入れたものである。

タイトル履歴

  • WWA世界ヘビー級王座
  • アジアタッグ王座
  • TWWA世界タッグ王座
  • IWA世界タッグ王座

 
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クリス・キャンディード
Chris Candido
1972/3/21 -2005/4/28

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名クリストファー・ラウル・キャンディートChristopher Raul Candito)。ニュージャージー州カルテレット出身。

祖父は元WWWFの前座レスラー、チャック・リチャーズ。妻はマネージャーとして活躍したサニーことタミー・リン・シッチ(1972/12/7)。弟のジョニー・キャンディードもプロレスラー。

来歴

ラリー・シャープ主宰のモンスター・ファクトリーでトレーニング後、1986年に14歳でデビュー。シャープの運営するインディー団体WWAでキャリアを積む。この当時、高校時代の同級生で後に妻になるタミー・リン・シッチと再会する。

1992年1月、ブロンド・ボンバーThe Blonde Bomber)のリングネームでFMWに初来日。その後、クリス・キャンディードの名義でECWに登場。1993年4月にはジョニー・ホット・ボディとのコンビでECWタッグ王座を獲得、後にクリス・マイケルズを加えたユニットを結成し、防衛戦には3人のうちのどの組み合わせで出場しても認められるという通称「フリーバード・ルール」を採用してタイトルを3者共有のものとした。

その後、タミーを連れてジム・コルネットの主宰するSMWに参戦。1994年9月には全日本プロレスに来日した。帰国後の11/9、SMWにて行われた復活版のNWA世界ヘビー級王座次期王者決定トーナメントに出場し、アル・スノー、ダーティー・ホワイト・ボーイ、トレーシー・スマザーズらを退け王座獲得。1995/2/24にダン・スバーンに敗れるまでタイトルを保持した。

1995年11月、サニーと改名したタミーと共にWWFへ進出。スキップSkip)のリングネームを名乗り、フィットネスのインストラクターをギミックとしたサニーとの男女デュオ、ザ・ボディードナーズThe Bodydonnas)で活動。後にジップをタッグパートナーに迎え、1996/3/31の『レッスルマニア12』にてWWF世界タッグ王座を獲得した。しかし、当時クリックのリーダーとしてバックステージでの発言力を増大させていたショーン・マイケルズと諍いを起こし、マイケルズによってタイトルを取り上げられ、5/19のマディソン・スクエア・ガーデン大会にてヘンリーとフィニアスのザ・ゴッドウィンズに王座を明け渡している。

1996年10月、当時WWFと提携していたECWに再登場し、ランス・ストームと抗争を展開。後にストームとコンビを組み、1997/12/6、ダグ・ファーナス&フィル・ラフォンとアクセル・ロッテン&ボールズ・マホーニーとの3ウェイ・ダンスを征し、世界タイトルとなったECWタッグ王座を再び獲得、1998/6/27にサブゥー&ロブ・ヴァン・ダムに敗れるまで保持した。同年下期からは、シェーン・ダグラスやバンバン・ビガロとのヒール・ユニット、トリプル・スレットTriple Threat)の一員となって活動した。

2000年にWCWに移籍し、3月にWCWクルーザー級王座を奪取。その間にXPWにも参戦、XPW世界ヘビー級王座を獲得した。2001年5月には新日本プロレスに来日し『ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアVIII』に出場している。

WCW崩壊後はインディー団体を転戦し、2005年1月よりTNAに登場。しかし、4/24のPPV『ロックダウン』に出場した際に足首を骨折。翌日に手術を行い、経過は良好のように見えたが、手術の結果できた血栓が原因で4月28日に死去。享年33歳。

獲得タイトル

  • ECW
    • ECWタッグ王座 / ECW世界タッグ王座:3回(w / ジョニー・ホット・ボディ&クリス・マイケルズ×2、ランス・ストーム×1)
  • LWE
    • LWE世界ヘビー級王座:1回
  • MAW
    • MAWヘビー級王座:1回
  • NWA
    • NWAニュージャージー州ヘビー級王座:1回
    • NWA世界ヘビー級王座(復活版):1回
  • NWAミッドウェスト
    • NWAミッドウェスト・ヘビー級王座:1回
  • SMW
    • SMWビート・ザ・チャンプ・テレビジョン王座:2回
    • SMWヘビー級王座:1回
    • SMWタッグ王座:2回(w / ブライアン・リー×2)
    • SMW USジュニアヘビー級王座:3回
  • USWE
    • USWE USヘビー級王座:3回
  • USAプロレスリング
    • USAプロレスリングUS王座:1回
  • WCW
    • WCWクルーザー級王座:1回
  • WWC
    • WWC世界テレビジョン王座:1回
  • WWF
    • WWF世界タッグ王座:1回(w / ジップ×1)
  • XPW
    • XPW世界ヘビー級王座:1回





市井 舞
1980/3/21

日本の女子プロレスラー、総合格闘家。埼玉県上尾市出身。

来歴

  • 2004/4/10、NEO女子プロレス・北沢タウンホール大会において、対さくらえみ戦でデビュー。2005年に春日萌花と『舞組』なるユニットを結成し世界征服を目指す。ユニットはその後早乙女未来も加わり3人となった。2006/4/22に市井がサイン会をドタキャンする事件が発生。これをきっかけに1週間後に『舞組』の活動停止が発表され、のちに市井の移籍および早乙女の引退とともに舞組は事実上の解散となった。4月から6月まで格闘美の「LEAGUE PRINCESS」に参戦、2勝3敗の成績でAブロック3位となった。
  • 我闘姑娘を率いるさくらえみとの不仲が伝えられ、2006/7/30の新木場1stRING大会を最後に遂に我闘姑娘を退団、伊藤薫プロレス教室(伊藤道場)に移籍。「追い出されるようにして我闘姑娘を出たが伊藤さんに拾ってもらった」とは本人の談。9月23日に移籍第1戦を行った。2008年2月にはさくらえみが主催するアイスリボンに参戦したが、引退した石井美紀との同期という間柄からである。常々、伊藤道場を世界一にすると公言していたが、2008/9/4、伊藤道場リレーブログなどで伊藤道場退団が伝えられた。
  • 格闘技志向が強く、2006/11/29のスマックガール後楽園ホール大会で総合格闘技に初挑戦するも、2年半ぶりの試合となった藤野恵実に判定負け。2008/1/19、新宿FACEで行われた初代UKF女子総合格闘技インターコンチネンタル王者決定戦では関友紀子(日本)を破り、初代王者になる。同年3/9、かきだみし8(沖縄、club ECHO)でさくら子(真樹ジムオキナワ)と対戦、善戦するも判定にて敗れる。5/19、DEEP 35 IMPACTに参戦し、DEEP女子フライ級王者しなしさとこに2-0の判定で勝利。試合決定の発表が直前の5/9で、しかも試合数日前に点滴を打つほどの体調不良に陥ったにもかかわらず、大金星を挙げた。
  • 2009/8/21、アイスリボン預かりとなることが発表され、8/23後楽園大会より、伊藤道場退団以降中断していたプロレス活動を再開。
  • 2010/3/19、JEWELS 7th RINGで長野美香と対戦し、0-3の判定負けを喫した。
  • 2010年5月23日、JEWELS 8th RINGのメインイベントで石岡沙織と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫した。
  • 2010/7/31、JEWELS 9th RINGのJEWELS初代ライト級女王決定トーナメント1回戦でハム・ソヒと対戦し、0-3の判定負けを喫した。
  • 2010/8/29、Girls S-cup 2010のリザーブマッチで山田純琴と対戦し、2-0の判定勝ちを収めた。
  • 2010/9/23、アイスリボン後楽園大会でGENTAROと組み、都宮ちい・木高イサミの持つインターナショナル・リボンタッグ王座に挑戦し、勝利。王座を獲得するが、2日後の9/25、アイスリボン道場大会でさくらえみ・高橋奈苗組との初防衛戦に敗れ王座から陥落した。
  • 2010/10/10、JEWELS 10th RINGのROUGH STONE GP 2010 -52kg級 準決勝で吉田実代と対戦し、3-0の判定勝ち。JEWELS4戦目での初勝利となった。
  • 2010/12/17、JEWELS 11th RINGのROUGH STONE GP 2010 -52kg級 決勝で北村ヒロコと対戦し、0-3の判定負けを喫した。
  • 2010/12/29の道場大会を最後にアイスリボンを退団。フリーとなる。
  • 2011/4/28の「Beginning」新宿FACE大会華名戦を最後に引退を表明。

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vol.1

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アビスモ・ネグロ
Abismo Negro
1971/7/1 - 2009/3/22

メキシコ・タバスコ州ビヤエルモサ出身の覆面レスラー。本名はアンドレ・アレハンドロ・パロモケ・ゴンザレス(Andrés Alejandro Palomeque González)。

来歴

ディアブロ・ベラスコの道場で出身。1990年ペケーノ・サムライの名でデビュー。その後CMLL入りした。

AAAに登場するのはルチャ・リブレ・ラティーナ(Lucha Libre latina LLL)のメンバーとして2004年にはTNAに参戦しチーム・メキシコ(Team Mexcio)にメンバー入り。AAAとTNAと関係が悪くなりAAAに復帰。2000年にスーパーJカップに特別参戦、2005年にはプロレスリング・ノアにも参戦した。

2009/3/22朝に川で行方不明になり、昼に遺体で発見された。37歳没。

獲得タイトル

  • ナショナルミドル級王座
  • ナショナルタッグチーム王座(w / エレクトロ・ショック)
  • AAAマスコットタッグチーム王座(w / ミニ・アビスモ・ネグロ)

  

















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