剛 竜馬
1956/3/23 - 2009/10/18
東京都新宿区三光町出身、神戸育ちのプロレスラー、俳優。本名は八木 宏)。
人物と戦績
国際プロレス時代
母子家庭で苦労する妹たちに楽をさせたいと、中学卒業を待たずに上京。日本プロレスに数ヶ月練習生として通い、1970年の国際プロレス第1回新人選手公募に約2,000人の中から14歳の若さで選出される。1972年9月に群馬県藤岡市立体育館の米村勉(天心)戦でデビュー。
1973年になると、遅れて入団した大卒新人の鶴見五郎と共に、清美川梅之預かりの海外武者修行に出され、カナダで一緒になった吉田光雄(長州力)と3,4ヶ月間タッグを組んだこともある。1976年7月に凱旋帰国し、国プロと東京12チャンネル主催のファン投票によって新リングネームを『剛竜馬』と決定。若く容姿にも恵まれた人気者で、次代の国プロを背負う期待の星と目されていた。
新日本プロレス時代
1978年に突如フリー宣言して国際プロレスを退団し、当時売り出し中の藤波辰巳を中心にジュニアブームを起こしていた新日本プロレスに、藤波との一騎討ちを直訴する。この時の意気込みを「Do
my Best!」と語り、ヒロ・マツダ率いる『狼軍団』の一員として上田馬之助、マサ斎藤、サンダー杉山らと共闘。プレ日本選手権で長州に快勝し、藤波が保持するWWWF(WWF)ジュニアヘビー級選手権に同年7月と11月の2度挑戦したが、善戦虚しく連敗した。
フロリダ州タンパのマツダ道場に渡って改めて修行を積み、1979/10/2の3度目の挑戦(大阪府立体育会館)ではコーナーポスト上からの場外プランチャ・スイシーダを炸裂させ、逆さ押さえ込みで藤波に初勝利しタイトル奪取するも、リマッチ(蔵前国技館)に敗れ2日天下に終わった。これにより藤波を生涯のライバルと定め、新日本に正式入団する。
1981年、テレビ朝日系列の連続ドラマ『警視庁殺人課』に、菅原文太・鶴田浩二・梅宮辰夫ら東映豪華配役陣と共に刑事役で第13話までレギュラー出演したが、剛のみ途中降番し、俳優業はこの1作のみに留まった。
1982年5月には、国際プロレスの崩壊後『はぐれ国際軍団』の汚名を忍んで新日本に参戦していたラッシャー木村の渡米に帯同し、現地で『ライジング・サンズ』(ミスター・トヨ&ミスター・ゴー)を結成。同年7/23にラスベガスでエイドリアン・ストリート、ダイアモンド・ティモシー・フラワーズ組からNWAアメリカス・タッグ王座を奪取し、8/20にロサンゼルスでヘクター・ゲレロ、マンドー・ゲレロ組に敗れるまでの1ヶ月間防衛した。
帰国後は精彩を欠いて軍団入りも認められず、タイトルに絡むこともなく新日本の前座戦線に定着してしまい、1984年1月にはアブドーラ・ザ・ブッチャーに地獄突き一発で秒殺されるなど、同世代の長州、藤波、木村健吾らから大きく遅れを取った。新人の高田伸彦や山崎一夫らを道場でしごき、鬼教官として怖れられていたという。
第一次UWF時代
1984年、アントン・ハイセルを巡る新日本の内紛から分裂した第一次UWFの旗揚げメンバーに名を連ねたが、ラッシャー木村と共に在籍4ヶ月で退団。理由は「路線を巡る対立」とも「外国人レスラーのブッキング窓口を巡るトラブル」とも「新間寿への義理で協力していただけ」とも言われている。少ない試合数ながらもUWFでは無敗で、佐山聡(当時スーパータイガー)から入場テーマ曲『Eye
of the Tiger』を譲られている。
全日本プロレス時代
1984年11月からは全日本プロレスに転出し、ジャイアント馬場と仲間割れしたラッシャー木村以下、同門の鶴見五郎、アポロ菅原、高杉正彦と『国際血盟軍』を結成した。しかし、ラッシャーの試合後のマイクパフォーマンス以外に華のないファイトスタイルで尻すぼみになり、またジャパンプロレスの大量移籍で全日本における日本人選手が飽和状態となったため、カルガリーハリケーンズと入れ替わりに1986年3月をもって高杉・菅原と共に整理解雇された。全日本在籍中にはタイガー・ジェット・シンやハーリー・レイスらにシングルマッチで挑む機会を与えられたが、未勝利に終わっている。
解雇後は北沢幹之が経営する建築内装業の下働きをしていたが、ザ・グレート・カブキに続く忍者ギミックレスラーに欠員が出たため、出所直後のマサ斎藤のブッキングで緊急渡米し、高野俊二こと
THE SUPER NINJA のタッグパートナー THE NINJA GO としてAWAを転戦。1987年7月の全日本サマーアクションシリーズに1シリーズだけ復活招聘され、アジアタッグ争奪リーグ戦に鶴見五郎とのコンビで参戦したが、三つ巴の最下位に終わった。なお、ピンフォールを取られたのは総て剛である。最終戦の7/30、東村山市民スポーツセンター大会の対谷津嘉章、仲野信市組戦(パートナーはラッシャー木村)をもって、全日本マットから再び去った。心肺能力などは高い評価を受けていたが、体の硬さと不器用さが響き、第一線に出ることなくメジャー団体から放逐されることとなった。
パイオニア戦志時代
新間寿・寿恒親子の『世界格闘技連合』(WMA)構想に、主要メンバーとして当初大仁田厚らと名が挙がっていたが、バブル景気に乗じて単独スポンサー獲得に成功したため、全日本リストラ組で元同僚の高杉、菅原と1988/11/15にアニマル浜口ジムで『パイオニア戦志』の設立を発表。これは大仁田のFMWより半年早い、日本で2番目かつ20数年振りののインディー団体であった。
千葉県浦安市に道場兼合宿所『パイオニアGYMぽぱい』を確保し、プロレス志願者の養成にも注力。翌1989/4/30に、大仁田対剛のシングル対決をメインイベントとして行った旗揚げ戦は、藤波や北尾光司らを来賓に招き、物珍しさもあって後楽園ホールをほぼ満員にしたが、藤波に試合内容を酷評された。
半年後の10月の第2戦に菅原の姿は無く新倉史祐が代役を務め、更にメインの青柳政司戦では、当日のカード変更や両者レフェリーストップの裁定に客が暴動寸前になり、激怒した立会人のアニマル浜口が剛と青柳を控室からリングに引きずり戻し、往復ビンタして試合再開させる珍事まで起きた。剛は「(青柳に後頭部を)蹴られたら、目ん玉が飛び出したから手で押し戻したよ」と語り、その後飛蚊症に悩まされるようになる。
1990年からは『パイオニア軍団』の名で新日へ再参戦(青柳、栗栖正伸らとの共闘)し、5/4の緒戦(剛・高杉組対長州・佐々木組)では勝利したが、練習不足で主に高杉が試合中にグロッキーになる場面も目立ち、またもや藤波に内容を酷評され、マッチメーカーの長州からも冷遇された。
10月の移動中の交通事故を乗り越えて、12月にはヘビー級転向後の藤波と念願のシングル再戦(博多スターレーン、敗者追放マッチ)に漕ぎ着けたが、藤波が初披露したローリング・エルボー一発の前に沈み、生中継を実況した辻義就に「プロレスバカというよりもプロレスカバですね」と蔑まれた。藤波戦敗退、新日本との業務提携終了をもって、パイオニア戦志は活動休止した。
オリエンタルプロレス時代
1991年2月には、経営難に陥ったパイオニア戦志ごとSWSに1道場として吸収される動きもあったが、数々の因縁により選手会のほぼ全員から猛反対を喰らい立消えになったため、1年半の休止後に新スポンサーを獲得して1992年7月に新団体『オリエンタルプロレス』として再出発した。
ジェシー・バーをはじめ実力派外国人レスラーの参戦、『出前プロレス』『ほっかほかビデオ』などユニークな企画で滑り出し数戦は好調だったが、長州の人脈で借りたフロント陣が次々と去っただけでなく、4か月後の同年11月の千葉県船橋市大会(金網デスマッチ、対ブルースブラザース)を最後に、代表の剛までもが電撃退団。これは若手との軋轢とも、売り上げを巡って広報担当やスタッフと揉めたためとも伝えられた。オリプロには高杉、板倉広と新弟子だけが残され、W★INGプロモーションやユニバーサル・プロレスリング、宮川道場との交流戦で食い繋いだ。
剛軍団/冴夢来プロレス時代
三度フリーランスとなった剛は米マットに活路を求め、設立間もないECWでハードコアマッチにも挑んだ。帰国後はIWA格闘志塾の伝で『屋台村プロレス』で酔客相手にレスリング・ユニオンのセミプロとの試合をこなす有様だったが、一部マスコミの支援を受け、1993年8月に一人一党の『剛軍団』を旗揚げ。ジェシー・バーを相方に、クラシカルな正統派プロレスリングを標榜し、『厚木プロレス』名義で自主興行を地元で打ったり、小規模な地方巡業を細々と行ったりしたが、執拗に再戦を呼び掛けた藤波からは「二度と名前を出さないで貰いたい」と絶縁宣言されてしまう。
そんな苦境の中、1994/8/1の後楽園ホール自主興行で、自らの志向とは正反対の怪奇派レスラー・宇宙魔神Xとのシングルマッチを含むダブルヘッダーが決定。「あんなオモチャ野郎に負けるわけにはいかない」と昔ながらの山篭り特訓に励み、試合当日は場外乱闘で何度も「ショア」と叫び、椅子、モップやチリトリなどを掲げながらアピールしての攻撃に、会場のファンは大声援。『プロレスバカ』(PB)なるニックネームが定着したのは、この試合の前後である。
「プロレスバカ」のちょっとしたブームが起きる中で、格闘技バラエティー番組『リングの魂』(テレビ朝日)にも、数回連続で出演。これは同番組で注目を集めていた(剛自身の先輩でもある)アニマル浜口に挑戦する企画で、「出演を直訴する手紙を自筆で送った」ものだったが、宛先には『リングの塊』と書かれていた。
1994年は、これらのムーブメントの余勢を駆って、平成維震軍旗揚げ戦のメイン(越中対シン)に乱入しマイクアピールを行ったり、現役復帰した浜口とのタッグでWARにも出陣してリング内外で「気合ダー!」「ショア!」
の応酬を展開するなど、久方ぶりにその存在を印象付けた。
翌1995/4/2に週刊プロレスの発行元・ベースボールマガジン社が主催した、東京ドームでのオールスター興行『夢の懸け橋~憧夢春爛漫~』の第4試合に参戦した際には、6万人の観客席から「ショア!」「バカ!」「1,2,3,4,剛!」の掛け声が鳴り響き、レスラー人生の絶頂を極めた。同年5/4には、プロレスマニアのバカ社長率いるハードコアパンクバンド『猛毒』の単独ライブに登場。観客が弁当代わりに持参していたバナナを掲げつつ、曲に合わせてただ延々と「ショア!」と叫び続け、暗黒プロレス団体666設立の切っ掛けを作る。
1996/1/16のレスラー生活25周年記念後楽園ホール大会に向けて、妻と2人の子供と共にポスター貼りをする模様が専門誌や『バトルウィークリー』(テレビ東京『スポーツTODAY』の1コーナー)で取り上げられたことから、新スポンサーも獲得。個人プロダクション『冴夢来プロジェクト』を2/21に設立、4/17の後楽園ホール大会以降は新格闘プロレスと提携して『藤拓地所プレゼンツ・冴夢来プロレス』を名乗り、弁当付きの無料プロレスという太っ腹な企画で関東一円を巡業した。勢いでPRIDE参戦さえ表明したが、スポンサーと衝突して1年程で崩壊した。この時代に入門した美濃輪育久は、剛の最後の弟子である。
その後
数多のトラブルによって、鶴見五郎率いる国際プロレスプロモーション等しか上がるリングがなくなり、他には2000年にミスター・ポーゴのWWSに呼ばれた位だったが、金銭問題や体調不良により数戦だけで契約解除された。新日本への再々参戦を訴え続けたものの、マット界からフェードアウトしていたのは明らかで、2001/12/9には鶴見の計らいで引退試合を組まれたが、ギャラに納得できない剛が会場入りをドタキャンし、本人不在のままテンカウントゴングが鳴されるという、前代未聞の引退セレモニーとなった。
2003/1/15午後6時25分頃、JR新宿駅西口の自動券売機前にて69歳の主婦の財布をひったくり、逃亡するも会社員らに取り押さえられ、逮捕後も頑に犯行を否定したことで188日間の拘置所生活を送ったが、結局不起訴処分になった。一般紙報道時の肩書は「元プロレスラー、派遣会社員」だった。
この事件を伝えた1/18付の東京スポーツは、ひったくりに加えて、2001年のゲイビデオ『極太親父』に偽名で出演し、借金が原因で妻子とも別居中と1面写真入りですっぱ抜いたため、大騒動に発展した。他にも『格闘家~燃える肉弾~』『でかんしょ旋風児』『野郎四人衆』『侍、一本』『VG-men』などの作品に出演していたことが発覚したが、後に本人は「自分の体で稼ぐことの何が悪いのか」と事実を認めている。
釈放後の2004年5月、NPO法人『レッスル・エイド・プロジェクト』(WAP)のエース格になり、若手有望外国人レスラーとの連戦で一部マニアの注目を集めたが、腰痛を理由に欠場し、「金返せ」コールを止めない客の求めで担架に乗せられたまま「ショア!」させられたりするうち、1年後の後楽園ホール大会で自然消滅。半引退状態を経た2006年7月、DDTにて復帰戦(対マッスル坂井)が行われたが、過度の飲酒が原因で無惨なほど衰えており、あまり話題にならなかった。
2007年からは弟子の畠中浩旭が北海道で立ち上げた『アジアン・スポーツ・プロモーション』に遠征し、2008/12/18の力道山OB会&プロレス主催『昭和プロレス第2弾興行』第4試合のバトルロイヤルにも出場した。
2009/8/30、ユニオンプロレスにて竜剛馬と『夢のタッグ』を組み、小笠原和彦(元極真会館)・松崎和彦の『ダブル和彦』組と対戦。この竜剛馬は東京大学卒の唯一のプロレスラーで、本名「八本宏」が剛の本名と1字違いであることから、剛にあやかってアナグラムのリングネームを名乗っている。9/3新木場1stRINGの宮本和志自主興行(剛・松崎組対鶴見・佐野直組)が、生涯最後の試合になった。
2009/10/13、連絡がないことを心配した長男が神奈川県厚木市の自宅を訪ね、翌日再訪した長女が倒れている剛を発見し病院に搬送したが、4日後の10/18午前1時11分に敗血症のため死去した。享年53歳。
同月7日、自転車を運転中に交通事故に遭い、開放骨折した右手首の傷口から細菌が入り込み、アルコール性肝障害による体力低下も重なって、全身に感染したものとみられている。数日前、剛から幾人かのレスラー仲間に着信があったが、電話に出た者はなかったという。
死去当日の通夜には、アニマル浜口、鶴見五郎、三宅稜、松崎和彦、宮本和志らが、10/19の告別式には浜口ら約30名のプロレス関係者が参列した。戒名は『観照宏徳信士』。浜口は葬儀後、「彼(剛)はね、早く両親を亡くしたために、自分で妹さんの進学費用も出していた心優しい男だったんですよ」と涙ながらに想い出を語った。
主要獲得タイトル
- WWFジュニアヘビー級王座
- NWAアメリカス・タッグ王座(パートナー:ラッシャー木村)
- CWUSAタッグ王座(パートナー:ジェシー・バー)
ドラマ出演
- 警視庁殺人課(1981年、テレビ朝日) - 殺人課刑事・久保剛役(通称・ウルフ)
剛 龍馬ビデオ集
八木宏(剛竜馬)vsダイナマイト・キッド
馬鹿VS気合! 剛竜馬 対 アニマル浜口
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