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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
3/23



ビジャノ3号 
Villano III
1982/3/23

メキシコシティ出身のプロレスラー。ビジャノとは日本語で『極悪』の意味を持つ。本名:アントゥーロ・ディアス・メンドーサ。父はレイ・メンドーサ、兄弟は兄に1号、2号、弟に4号、5号、妻はラ・インフェルナル。

「メキシコの鉄人」と言われた父のレイ・メンドーサの三男。父やハム・リー、兄のビジャノ1号、ビジャノ2号にルチャを学び、1962年からはレスリングを始める。1970/1/29にメヒコ州ネツァワルコヨトルでルチャデビュー。いくつかの改名の後に、1973年1月よりアレナ・ナウカルパンにてビジャノ3号の名で登場。1981年6月に新日本プロレスに初来日。以後定期的に来日を果たした。

1993年1月よりAAA入り。1996年1月にプロモ・アステカを経てWCWにも参戦。1998年7月にはCMLL入り。CMLLではルードに転向。2000年にはアトランティスとのコントラ戦に破れ素顔になる。

現在CMLL所属。

兄弟の中でも一番の実力者でシングル向き、多くのシングルベルトを奪取している。

タイトル歴

  • UWA世界ウェルター級王座
  • UWA世界ライトヘビー級王座 : 2回
  • UWA世界ジュニアライト級王座
  • WWF世界ライトヘビー級王座 : 7回
  • WWCプエル・トリカン
  • CMLL世界ライトヘビー級王座 : 2回
  • ナシヨナルトリオ王座(パートナー:ビジャノ5号、ドス・カラス)
  • ナシオナルアトミコス王座(ビジャノ4号、ビジャノ5号、ピエロス・ジュニア)
  • AAAアメリカストリオ王座(ビジャノ4号、ビジャノ5号)
  • IWRGトリオ王座(ビジャノ4号、ビジャノ5号)
  • アレナ・ナウカルパンライトヘビー級王座
  • アレナ・ナウカルパンミドルウエイト級王座
  • WWA世界トリオ王座(ビジャノ4号、ビジャノ5号)

ユニバーサル&ルチャ ビデオ集





剛 竜馬 
1956/3/23 - 2009/10/18

東京都新宿区三光町出身、神戸育ちのプロレスラー、俳優。本名は八木 宏)。

人物と戦績

国際プロレス時代

母子家庭で苦労する妹たちに楽をさせたいと、中学卒業を待たずに上京。日本プロレスに数ヶ月練習生として通い、1970年の国際プロレス第1回新人選手公募に約2,000人の中から14歳の若さで選出される。1972年9月に群馬県藤岡市立体育館の米村勉(天心)戦でデビュー。

1973年になると、遅れて入団した大卒新人の鶴見五郎と共に、清美川梅之預かりの海外武者修行に出され、カナダで一緒になった吉田光雄(長州力)と3,4ヶ月間タッグを組んだこともある。1976年7月に凱旋帰国し、国プロと東京12チャンネル主催のファン投票によって新リングネームを『剛竜馬』と決定。若く容姿にも恵まれた人気者で、次代の国プロを背負う期待の星と目されていた。

新日本プロレス時代

1978年に突如フリー宣言して国際プロレスを退団し、当時売り出し中の藤波辰巳を中心にジュニアブームを起こしていた新日本プロレスに、藤波との一騎討ちを直訴する。この時の意気込みを「Do my Best!」と語り、ヒロ・マツダ率いる『狼軍団』の一員として上田馬之助、マサ斎藤、サンダー杉山らと共闘。プレ日本選手権で長州に快勝し、藤波が保持するWWWF(WWF)ジュニアヘビー級選手権に同年7月と11月の2度挑戦したが、善戦虚しく連敗した。

フロリダ州タンパのマツダ道場に渡って改めて修行を積み、1979/10/2の3度目の挑戦(大阪府立体育会館)ではコーナーポスト上からの場外プランチャ・スイシーダを炸裂させ、逆さ押さえ込みで藤波に初勝利しタイトル奪取するも、リマッチ(蔵前国技館)に敗れ2日天下に終わった。これにより藤波を生涯のライバルと定め、新日本に正式入団する。

1981年、テレビ朝日系列の連続ドラマ『警視庁殺人課』に、菅原文太・鶴田浩二・梅宮辰夫ら東映豪華配役陣と共に刑事役で第13話までレギュラー出演したが、剛のみ途中降番し、俳優業はこの1作のみに留まった。

1982年5月には、国際プロレスの崩壊後『はぐれ国際軍団』の汚名を忍んで新日本に参戦していたラッシャー木村の渡米に帯同し、現地で『ライジング・サンズ』(ミスター・トヨ&ミスター・ゴー)を結成。同年7/23にラスベガスでエイドリアン・ストリート、ダイアモンド・ティモシー・フラワーズ組からNWAアメリカス・タッグ王座を奪取し、8/20にロサンゼルスでヘクター・ゲレロ、マンドー・ゲレロ組に敗れるまでの1ヶ月間防衛した。

帰国後は精彩を欠いて軍団入りも認められず、タイトルに絡むこともなく新日本の前座戦線に定着してしまい、1984年1月にはアブドーラ・ザ・ブッチャーに地獄突き一発で秒殺されるなど、同世代の長州、藤波、木村健吾らから大きく遅れを取った。新人の高田伸彦や山崎一夫らを道場でしごき、鬼教官として怖れられていたという。

第一次UWF時代

1984年、アントン・ハイセルを巡る新日本の内紛から分裂した第一次UWFの旗揚げメンバーに名を連ねたが、ラッシャー木村と共に在籍4ヶ月で退団。理由は「路線を巡る対立」とも「外国人レスラーのブッキング窓口を巡るトラブル」とも「新間寿への義理で協力していただけ」とも言われている。少ない試合数ながらもUWFでは無敗で、佐山聡(当時スーパータイガー)から入場テーマ曲『Eye of the Tiger』を譲られている。

全日本プロレス時代

1984年11月からは全日本プロレスに転出し、ジャイアント馬場と仲間割れしたラッシャー木村以下、同門の鶴見五郎、アポロ菅原、高杉正彦と『国際血盟軍』を結成した。しかし、ラッシャーの試合後のマイクパフォーマンス以外に華のないファイトスタイルで尻すぼみになり、またジャパンプロレスの大量移籍で全日本における日本人選手が飽和状態となったため、カルガリーハリケーンズと入れ替わりに1986年3月をもって高杉・菅原と共に整理解雇された。全日本在籍中にはタイガー・ジェット・シンやハーリー・レイスらにシングルマッチで挑む機会を与えられたが、未勝利に終わっている。

解雇後は北沢幹之が経営する建築内装業の下働きをしていたが、ザ・グレート・カブキに続く忍者ギミックレスラーに欠員が出たため、出所直後のマサ斎藤のブッキングで緊急渡米し、高野俊二こと THE SUPER NINJA のタッグパートナー THE NINJA GO としてAWAを転戦。1987年7月の全日本サマーアクションシリーズに1シリーズだけ復活招聘され、アジアタッグ争奪リーグ戦に鶴見五郎とのコンビで参戦したが、三つ巴の最下位に終わった。なお、ピンフォールを取られたのは総て剛である。最終戦の7/30、東村山市民スポーツセンター大会の対谷津嘉章、仲野信市組戦(パートナーはラッシャー木村)をもって、全日本マットから再び去った。心肺能力などは高い評価を受けていたが、体の硬さと不器用さが響き、第一線に出ることなくメジャー団体から放逐されることとなった。

パイオニア戦志時代

新間寿・寿恒親子の『世界格闘技連合』(WMA)構想に、主要メンバーとして当初大仁田厚らと名が挙がっていたが、バブル景気に乗じて単独スポンサー獲得に成功したため、全日本リストラ組で元同僚の高杉、菅原と1988/11/15にアニマル浜口ジムで『パイオニア戦志』の設立を発表。これは大仁田のFMWより半年早い、日本で2番目かつ20数年振りののインディー団体であった。

千葉県浦安市に道場兼合宿所『パイオニアGYMぽぱい』を確保し、プロレス志願者の養成にも注力。翌1989/4/30に、大仁田対剛のシングル対決をメインイベントとして行った旗揚げ戦は、藤波や北尾光司らを来賓に招き、物珍しさもあって後楽園ホールをほぼ満員にしたが、藤波に試合内容を酷評された。

半年後の10月の第2戦に菅原の姿は無く新倉史祐が代役を務め、更にメインの青柳政司戦では、当日のカード変更や両者レフェリーストップの裁定に客が暴動寸前になり、激怒した立会人のアニマル浜口が剛と青柳を控室からリングに引きずり戻し、往復ビンタして試合再開させる珍事まで起きた。剛は「(青柳に後頭部を)蹴られたら、目ん玉が飛び出したから手で押し戻したよ」と語り、その後飛蚊症に悩まされるようになる。

1990年からは『パイオニア軍団』の名で新日へ再参戦(青柳、栗栖正伸らとの共闘)し、5/4の緒戦(剛・高杉組対長州・佐々木組)では勝利したが、練習不足で主に高杉が試合中にグロッキーになる場面も目立ち、またもや藤波に内容を酷評され、マッチメーカーの長州からも冷遇された。

10月の移動中の交通事故を乗り越えて、12月にはヘビー級転向後の藤波と念願のシングル再戦(博多スターレーン、敗者追放マッチ)に漕ぎ着けたが、藤波が初披露したローリング・エルボー一発の前に沈み、生中継を実況した辻義就に「プロレスバカというよりもプロレスカバですね」と蔑まれた。藤波戦敗退、新日本との業務提携終了をもって、パイオニア戦志は活動休止した。

オリエンタルプロレス時代

1991年2月には、経営難に陥ったパイオニア戦志ごとSWSに1道場として吸収される動きもあったが、数々の因縁により選手会のほぼ全員から猛反対を喰らい立消えになったため、1年半の休止後に新スポンサーを獲得して1992年7月に新団体『オリエンタルプロレス』として再出発した。

ジェシー・バーをはじめ実力派外国人レスラーの参戦、『出前プロレス』『ほっかほかビデオ』などユニークな企画で滑り出し数戦は好調だったが、長州の人脈で借りたフロント陣が次々と去っただけでなく、4か月後の同年11月の千葉県船橋市大会(金網デスマッチ、対ブルースブラザース)を最後に、代表の剛までもが電撃退団。これは若手との軋轢とも、売り上げを巡って広報担当やスタッフと揉めたためとも伝えられた。オリプロには高杉、板倉広と新弟子だけが残され、W★INGプロモーションやユニバーサル・プロレスリング、宮川道場との交流戦で食い繋いだ。

剛軍団/冴夢来プロレス時代

三度フリーランスとなった剛は米マットに活路を求め、設立間もないECWでハードコアマッチにも挑んだ。帰国後はIWA格闘志塾の伝で『屋台村プロレス』で酔客相手にレスリング・ユニオンのセミプロとの試合をこなす有様だったが、一部マスコミの支援を受け、1993年8月に一人一党の『剛軍団』を旗揚げ。ジェシー・バーを相方に、クラシカルな正統派プロレスリングを標榜し、『厚木プロレス』名義で自主興行を地元で打ったり、小規模な地方巡業を細々と行ったりしたが、執拗に再戦を呼び掛けた藤波からは「二度と名前を出さないで貰いたい」と絶縁宣言されてしまう。

そんな苦境の中、1994/8/1の後楽園ホール自主興行で、自らの志向とは正反対の怪奇派レスラー・宇宙魔神Xとのシングルマッチを含むダブルヘッダーが決定。「あんなオモチャ野郎に負けるわけにはいかない」と昔ながらの山篭り特訓に励み、試合当日は場外乱闘で何度も「ショア」と叫び、椅子、モップやチリトリなどを掲げながらアピールしての攻撃に、会場のファンは大声援。『プロレスバカ』(PB)なるニックネームが定着したのは、この試合の前後である。

「プロレスバカ」のちょっとしたブームが起きる中で、格闘技バラエティー番組『リングの魂』(テレビ朝日)にも、数回連続で出演。これは同番組で注目を集めていた(剛自身の先輩でもある)アニマル浜口に挑戦する企画で、「出演を直訴する手紙を自筆で送った」ものだったが、宛先には『リングの』と書かれていた。

1994年は、これらのムーブメントの余勢を駆って、平成維震軍旗揚げ戦のメイン(越中対シン)に乱入しマイクアピールを行ったり、現役復帰した浜口とのタッグでWARにも出陣してリング内外で「気合ダー!」「ショア!」 の応酬を展開するなど、久方ぶりにその存在を印象付けた。

翌1995/4/2に週刊プロレスの発行元・ベースボールマガジン社が主催した、東京ドームでのオールスター興行『夢の懸け橋~憧夢春爛漫~』の第4試合に参戦した際には、6万人の観客席から「ショア!」「バカ!」「1,2,3,4,剛!」の掛け声が鳴り響き、レスラー人生の絶頂を極めた。同年5/4には、プロレスマニアのバカ社長率いるハードコアパンクバンド『猛毒』の単独ライブに登場。観客が弁当代わりに持参していたバナナを掲げつつ、曲に合わせてただ延々と「ショア!」と叫び続け、暗黒プロレス団体666設立の切っ掛けを作る。

1996/1/16のレスラー生活25周年記念後楽園ホール大会に向けて、妻と2人の子供と共にポスター貼りをする模様が専門誌や『バトルウィークリー』(テレビ東京『スポーツTODAY』の1コーナー)で取り上げられたことから、新スポンサーも獲得。個人プロダクション『冴夢来プロジェクト』を2/21に設立、4/17の後楽園ホール大会以降は新格闘プロレスと提携して『藤拓地所プレゼンツ・冴夢来プロレス』を名乗り、弁当付きの無料プロレスという太っ腹な企画で関東一円を巡業した。勢いでPRIDE参戦さえ表明したが、スポンサーと衝突して1年程で崩壊した。この時代に入門した美濃輪育久は、剛の最後の弟子である。

その後

数多のトラブルによって、鶴見五郎率いる国際プロレスプロモーション等しか上がるリングがなくなり、他には2000年にミスター・ポーゴのWWSに呼ばれた位だったが、金銭問題や体調不良により数戦だけで契約解除された。新日本への再々参戦を訴え続けたものの、マット界からフェードアウトしていたのは明らかで、2001/12/9には鶴見の計らいで引退試合を組まれたが、ギャラに納得できない剛が会場入りをドタキャンし、本人不在のままテンカウントゴングが鳴されるという、前代未聞の引退セレモニーとなった。

2003/1/15午後6時25分頃、JR新宿駅西口の自動券売機前にて69歳の主婦の財布をひったくり、逃亡するも会社員らに取り押さえられ、逮捕後も頑に犯行を否定したことで188日間の拘置所生活を送ったが、結局不起訴処分になった。一般紙報道時の肩書は「元プロレスラー、派遣会社員」だった。

この事件を伝えた1/18付の東京スポーツは、ひったくりに加えて、2001年のゲイビデオ『極太親父』に偽名で出演し、借金が原因で妻子とも別居中と1面写真入りですっぱ抜いたため、大騒動に発展した。他にも『格闘家~燃える肉弾~』『でかんしょ旋風児』『野郎四人衆』『侍、一本』『VG-men』などの作品に出演していたことが発覚したが、後に本人は「自分の体で稼ぐことの何が悪いのか」と事実を認めている。

釈放後の2004年5月、NPO法人『レッスル・エイド・プロジェクト』(WAP)のエース格になり、若手有望外国人レスラーとの連戦で一部マニアの注目を集めたが、腰痛を理由に欠場し、「金返せ」コールを止めない客の求めで担架に乗せられたまま「ショア!」させられたりするうち、1年後の後楽園ホール大会で自然消滅。半引退状態を経た2006年7月、DDTにて復帰戦(対マッスル坂井)が行われたが、過度の飲酒が原因で無惨なほど衰えており、あまり話題にならなかった。

2007年からは弟子の畠中浩旭が北海道で立ち上げた『アジアン・スポーツ・プロモーション』に遠征し、2008/12/18の力道山OB会&プロレス主催『昭和プロレス第2弾興行』第4試合のバトルロイヤルにも出場した。

2009/8/30、ユニオンプロレスにて竜剛馬と『夢のタッグ』を組み、小笠原和彦(元極真会館)・松崎和彦の『ダブル和彦』組と対戦。この竜剛馬は東京大学卒の唯一のプロレスラーで、本名「八本宏」が剛の本名と1字違いであることから、剛にあやかってアナグラムのリングネームを名乗っている。9/3新木場1stRINGの宮本和志自主興行(剛・松崎組対鶴見・佐野直組)が、生涯最後の試合になった。

2009/10/13、連絡がないことを心配した長男が神奈川県厚木市の自宅を訪ね、翌日再訪した長女が倒れている剛を発見し病院に搬送したが、4日後の10/18午前1時11分に敗血症のため死去した。享年53歳。

同月7日、自転車を運転中に交通事故に遭い、開放骨折した右手首の傷口から細菌が入り込み、アルコール性肝障害による体力低下も重なって、全身に感染したものとみられている。数日前、剛から幾人かのレスラー仲間に着信があったが、電話に出た者はなかったという。

死去当日の通夜には、アニマル浜口、鶴見五郎、三宅稜、松崎和彦、宮本和志らが、10/19の告別式には浜口ら約30名のプロレス関係者が参列した。戒名は『観照宏徳信士』。浜口は葬儀後、「彼(剛)はね、早く両親を亡くしたために、自分で妹さんの進学費用も出していた心優しい男だったんですよ」と涙ながらに想い出を語った。

主要獲得タイトル

  • WWFジュニアヘビー級王座
  • NWAアメリカス・タッグ王座(パートナー:ラッシャー木村)
  • CWUSAタッグ王座(パートナー:ジェシー・バー)

ドラマ出演

  • 警視庁殺人課(1981年、テレビ朝日) - 殺人課刑事・久保剛役(通称・ウルフ)

剛 龍馬ビデオ集

八木宏(剛竜馬)vsダイナマイト・キッド

馬鹿VS気合! 剛竜馬 対 アニマル浜口

 
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スカル・マーフィー
Skull Murphy
1930/12/7 - 1970/3/23

ジョン・ジョセフ・マーフィーJohn Joseph Murphy)、アイルランド・コーク州生まれ、カナダ・オンタリオ州ハミルトン出身のプロレスラー。

スキンヘッドに全身無毛の怪奇派ヒールとして、1950年代から1960年代にかけて活躍した。その怪異な風貌から、日本では「海坊主」の異名で呼ばれた。

来歴

幼少時にアイルランドからカナダへ移住後、病気で頭髪をはじめ全身の体毛を失う(日本では猩紅熱が原因とされている)。後に日本マットでも共闘した友人のムース・ショーラックによると、彼は全身無毛であることに生涯悩まされ続け、わずかでも毛が生えてくると、それを神経質なくらいに剃り落していたという。

学生時代にプロレスラーのチャック・モルナーからプロレス入りを勧められ、ハミルトンのユダヤ系YMCAでジミー・シムズのトレーニングを受け、1952年にデビュー。以降、ラリー・カサボスキーが主宰していた地元オンタリオのNWE(Northland Wrestling Enterprises)を主戦場にキャリアを積んだ。

1960年代初頭はアメリカ南部のNWAジョージア地区(後のGCW)でメインイベンターとなって活動し、1961年にガイ・ミッチェルらを破り南部ヘビー級王座を3回に渡って獲得。1962年には日本プロレスに来日し、ゴリラ・マコニーと組んで力道山&豊登のアジアタッグ王座に挑戦。タイトル奪取は果たせなかったものの、試合後にムース・ショーラックらを呼び込んで力道山をリンチし、右胸鎖関節を亜脱臼させるというアングルで悪名を売った。

1963年、同じくカナダ出身のブルート・バーナードと凶悪タッグを組み、ニューヨークのWWWFに参戦。同年5/16にバディ・オースチン&グレート・スコットからWWWF・USタッグ王座を奪取し、11/14にゴリラ・モンスーン&キラー・コワルスキーに敗れるまで保持した。戴冠中の6月5日には、バディ・ロジャースからWWWF世界ヘビー級王座を奪取して間もないブルーノ・サンマルチノにも挑戦している。

以降もバーナードとのコンビで活動し、1964年にフロリダ地区でNWA世界タッグ王座を2回獲得。1966年にはジム・バーネットが運営していたオーストラリアのWCWに揃って遠征し、タッグ戦線を荒らしまくった。バーナードの帰国後も単身でオーストラリアに定着し、同年8月にマーク・ルーインからIWA世界ヘビー級王座を奪取している。以降1960年代後半は豪州マットを主戦場に、キラー・コワルスキーやキラー・カール・コックスを新パートナーにIWA世界タッグ王座を再三獲得、1969年にはバーナードとのタッグチームを再結成し、12月にディック・マードック&ラーズ・アンダーソンを破り通算9度目の(および生涯で最後の)戴冠を果たした。

この間、日本には1968年7月に日本プロレスに再来日し、クロンダイク・ビルと組んで吉村道明&大木金太郎からアジアタッグ王座を奪取。1969年5月にはバーナードとのコンビで来日、日本勢を相手に狂乱ファイトを繰り広げ、札幌と大阪でBI砲(ジャイアント馬場&アントニオ猪木)のインターナショナル・タッグ王座に連続挑戦した。

1970/3/23、ノースカロライナ州シャーロットにて死去。死因は心臓発作と報じられたが、睡眠薬の過剰摂取による服薬自殺ともいわれている(日本ではノイローゼによるピストル自殺とされている)。当日はシャーロットにて、バーナードと組んでミスター・レスリング&ザ・ケンタッキアン(ルーク・ブラウン)と対戦する予定だった。

獲得タイトル

  • NWA南部ヘビー級王座(ジョージア版):3回
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(ジョージア版):1回(w / ジプシー・ジョー) ※国際プロレスや全日本プロレスに来日した同名選手とは別人
  • NWA世界タッグ王座(フロリダ版):2回(w / ブルート・バーナード)
  • WWWF USタッグ王座:1回(w / ブルート・バーナード)
  • IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):3回
  • IWA世界タッグ王座(オーストラリア版):9回(w / ブルート・バーナード×5、キラー・コワルスキー×2、キラー・カール・コックス、トール・タナカ)
  • アジアタッグ王座:1回(w / クロンダイク・ビル)


 




天山 広吉
1971/3/23

日本のプロレスラー。京都府京都市出身。新日本プロレス所属。血液型O型。本名および旧リングネームは山本 広吉

来歴

京都市立北野中学校、京都府立山城高等学校卒業、学生時代にボディビルとバスケットボールに打ち込み、新日本プロレス学校を経て1990年5月に新日本プロレスに入門。1991/1/11に今治市公会堂にて松田納(現・エル・サムライ)戦でデビュー。

1993年3月の第4回ヤングライオン杯に優勝し、欧州武者修行へ出発。カルガリーの大剛鉄之助の元で肉体改造を果たし、1995年に凱旋帰国。凱旋直後に長州力からピンフォールを奪い、トップレスラーの仲間入りを果たすと同時に蝶野正洋、ヒロ斎藤と狼群団を結成。1997年にnWoジャパン軍に入った。

小島聡とのタッグは「天コジ」と呼ばれ、当時の日本人タッグでは日本1、2を争えるほどで、IWGPタッグ王座獲得やG1タッグリーグ戦優勝という輝かしい実績を残したが、2002年1月、小島の全日本プロレス移籍によりタッグを解消した。

2003年、これまで何度も優勝候補とさわがれながら優勝ができなかった天山は、一念発起して再びカルガリーの大剛の元で肉体改造を行い、帰国後コスチュームを変更し髪の色も黒髪に戻した(すぐに金髪に戻る)。そしてG1 CLIMAXに挑み、初戦こそ秋山準(プロレスリング・ノア)に敗れるも決勝で雪辱し優勝。

その後IWGPヘビー級タイトル奪取と、これまでタッグ中心だったがシングルプレーヤーとしての確固たる地位を築いた。さらに2004年のG1 CLIMAXでは当時成長著しかった新三銃士の中邑真輔、柴田勝頼、棚橋弘至を決勝トーナメントで順に3タテして連覇を成し遂げた。

2005/2/20、調印式で「負けたら引退する」との決意で臨んだ小島聡との三冠・IWGP、2つの王座を賭けたタイトルマッチを行うが、59分45秒脱水症状によるKO負けを喫し、負けた直後に引退撤回というファンと小島を激怒させた結末を迎えた(以後、“脱水牛”と揶揄される)。

同年3/26、次期IWGP挑戦者決定トーナメントで優勝するものの、中邑真輔と引き分けによりベルトを死守した王者小島が激怒、挑戦者失格の烙印を押される。しかし同年5月に小島からIWGPを奪取する。翌6月にイタリアで行われたスコット・ノートンとのIWGPシングルの防衛戦では、ノートンのパワーに苦しめられるも防衛に成功するが、その後藤田和之に王座を奪われた。

2006年はG1 CLIMAXを初日から全勝を続け、決勝で小島聡を破り3度目の優勝を果たした。そして、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に天コジで初挑戦する。序盤は武藤敬司、川田利明組に敗れるが決勝進出決定戦でリベンジし、そして優勝を果たした。

長らく「蝶野の子分」「No.2」と揶揄されてきたが、その状況を打破するために、2006年10月、真壁刀義、越中詩郎らと共に、新たなヒール軍団G・B・H(グレート・バッシュ・ヒール)を立ち上げる。ただし、前述の世界最強タッグリーグにおいてはヒールキャラを封印している。

他に適任者のいない場合、シングル王座戦線に出て獲得し、次の王者に良い試合を経て渡す役目を負うことが多い。そのため「リリーフ王者」と揶揄されることもある。しかし、角海老宝石ジムでのボクシング練習、2006年契約更改時の「嫁が怖い」と硬軟織り交ぜたアングルを展開する幅の広さを持ち、さらに今のヘビー級では数少ない受けの名手であり、危険な技も数多く受けている。

2007年はG・B・Hのリーダーとして軍団を引っ張っていたが5月から6月にかけ再三にわたり休場勧告。さらに昨年12月に負傷した首の状態が最悪であることも発覚した。このせいがあり、8月のG1 CLIMAXでは昨年の優勝者とは思えない不本意な成績に終わり、なおかつ越中のG・B・H脱退により本人も「もうアカン、気力だけで通用せぇへん」と休場とも思われる発言をしている。そして10月8日、かつての付き人後藤洋央紀と下克上マッチに敗北。この試合で、後藤が放った変形バックブリーカー(後の牛殺し)によってとうとう頸椎を損傷し長期欠場に追い込まれた。

2008/2/17、両国国技館で復帰するもタッグパートナーの石井智宏が天山の誤爆により敗北し試合後にG・B・Hを追放された。蝶野正洋がすぐさまレジェンド軍へ勧誘したが、張り手で拒否した。

3/9、NEW JAPAN CUP1回戦でG・B・Hの石井智宏と対戦。流血させられたが勝利。試合後、G・B・Hが天山をメッタ打ちにしているときに飯塚高史が救出。最初は、飯塚に冷たくあたっていたが、後に分かり合い合体。後に友情タッグと命名。4月27日、同タッグで真壁刀義、矢野通が持つIWGPタッグに挑戦。試合終盤に飯塚からのまさかの裏切りにあい、敗戦。試合後飯塚は天山をイスでメッタ打ち。そしてG・B・Hに加入した。

7/8、裏切りの飯塚とランバージャック・デスマッチで対決。場外でG・B・Hメンバーからの攻撃で流血、後半はレフェリーを不在にさせ無法地帯と化すも最後は天山がアナコンダバイスで勝利。試合後納得のいかないG・B・Hが天山を奇襲。その時、盟友である小島聡が救出し、天コジ復活を遂げた。

G1 CLIMAXでは、初戦の川田利明をアナコンダバスターで勝利を奪ったが、G・B・Hの襲撃にあい、担架で運ばれる(2戦目の矢野通戦でも担架で運ばれた)。その後何度も襲撃にあい首が悪化。結果、1勝5敗と不本意な戦績で終わった。

10/13、飯塚高史と2度目のデスマッチ、チェーン・デスマッチで激突。セコンドの介入も小島が阻止したが、飯塚にチェーンで首を絞め上げるとレフェリーが危険とみなしTKO負けを喫した。後日行われたG1 TAG LEAGUEでは小島と組み天コジとして挑む。初戦こそ飯塚高史、石井智宏組相手に黒星を飾るものの、その後は無傷の連勝を重ね見事Aブロック1位通過。決勝戦で真壁刀義、矢野通組と対戦。小島の大流血、飯塚の乱入などで窮地に追い込まれたが、最後はアナコンダクロスを解禁。これで矢野をギブアップさせ、7年ぶり2度目の優勝を果たした。

さらに全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦では諏訪魔・近藤修司組を破り、2年ぶりの優勝を遂げ、初のメジャー大会ダブル優勝を飾り、2009/1/4に行われるIWGPタッグ王座に挑戦を決意。ところが12/29に右目の上半分が見えなくなるという異常を訴え、病院で検査を受けたところ網膜剥離と診断された。12/31に手術が行われ、休場を余儀なくされた。

2009/5/3に小島とのタッグ「天コジ」で復帰。復帰戦でいきなりジャイアント・バーナード・カール・アンダーソン組とIWGPタッグ次期挑戦者決定戦で戦うも敗北。試合後、天コジの解散を宣言。その後、飯塚からの度重なる暴徒により7/21、3度目のチェーン・デスマッチを行い、リベンジを果たした。

8月、脊椎管狭窄症と右肩亜脱臼により無期限の欠場を発表。その後千葉県の病院に入院して9月24日に首の痛みの原因である頸椎後縦靭帯骨化症の手術を受け、10/2に退院しリハビリを開始したが、その後都内の病院での検査の結果、新たに右肩の腱板断裂が判明した。このため右肩も改めて手術することになり長期休養に入った。

当初は2010年春にも復帰予定だったが、頚椎の状態の回復が遅れた結果復帰は大幅に遅れ、同年11/18に若手中心の興行『NEVER.4』で復帰を果たす。アントーニオ本多を相手にアナコンダバイスで復帰戦を勝利で飾った。試合後、記者会見で感極まって号泣した。

タイトル歴

新日本プロレス
  • IWGPヘビー級王座 : 4回(第33・35・40・42代)
4回も取得しているが1回目、3回目は初防衛戦で敗れており、2回目、4回目も1回しか防衛できず、非常に短命政権なことで知られている。
  • IWGPタッグ王座 : 8回(第25、28、34、36、40、43、45、48代)
最多戴冠数の記録を持っている。パートナーは蝶野3回→小島2回→蝶野→西村→蝶野という変遷を遂げており、特に蝶野や小島とは名タッグとして知られている。
  • G1 CLIMAX優勝 : 3回(2003年・2004年・2006年)
  • G1 TAG LEAGUE優勝 : 3回(1995年・2001年・2008年)
全日本プロレス
  • 世界最強タッグ決定リーグ戦優勝 : 2回(2006年・2008年)
パートナーは小島聡。
CWA
  • CWA世界ジュニアヘビー
プロレス大賞
  • 1995年度プロレス大賞 最優秀タッグ賞
  • 1996年度プロレス大賞 最優秀タッグ賞
  • 2000年度プロレス大賞 最優秀タッグ賞
  • 2004年度プロレス大賞 敢闘賞

その他

  • 練習生から新日に正式入門した頃、あまりの練習の厳しさに耐えられなくなって(橋本真也の破天荒ぶりに耐えられなかったとも言われる)、脱走し京都の実家に一旦帰ったことがある。その時、練習生時代に一緒だった金原弘光から「俺たちは体が小さいから新日に入れないのにお前は入れたんだから頑張れよ。連絡すればまだ戻れるよ」と慰留の電話がかかり、また元ボクサーの父親に「自分で選んだことで、ケツ割るとは何事や」と怒られ、新日道場に帰ってきたことがある。
  • 新人の頃、橋本真也に(食器の)レンゲ持ってきてくれと言われたが、彼は蓮華草をたくさん取ってきて、橋本を呆れさせた。
  • ボクシング特訓よりも昔に、ITFテコンドーのジムで特訓するというアングルがあったが、すぐ無かったことになった。
  • テレビ朝日のドラマ、『逮捕しちゃうぞ』にチンピラ役として出演したことがある。
  • 元祖!でぶや(テレビ東京系)に以前よく出演していた。
  • おでこにつまようじが刺さるという持ち芸がある。元は橋本真也のいたずらがきっかけであり、一時はこの芸をやらされすぎて死にそうになったことも。
  • 小川直也・橋本真也のタッグ(当時OH砲と呼ばれていた)を「チキンとポークだよ」「CP砲」と揶揄した第一人者である。また西村修を「モヤシ」と呼んでいた。
  • 師匠・蝶野正洋の教育の成果からか、非常に好青年である。また天山自身も、幼少期は病弱で入退院を繰り返していた経験が元で、高齢者等の施設に慰問をしている。
  • 根っからのプロレスファンで、16歳頃からプロレス中継によく観客として映っていた。実家が京都なのに東京での興行も見に来るほどであった。
  • 以前は、たどたどしい標準語で喋っていたが、結婚してからは地元の関西弁で喋るようになった。最近は、自分のことを「ワシ」と呼ぶことも多くなった。
  • 京都から親戚が東京に来た際、京都に帰る親戚を自身も一緒に新幹線に乗って京都駅まで送っていったことがある。
  • 美人の妹がおり、一時期馳浩が狙っていたと言われる。
  • 佐々木健介の嫁・北斗晶が鬼嫁と呼ばれることに対して「同じ恐妻家でも、こっちの方が上なんや!」と自身の恐妻家ぶりをアピール。なお、夫人をちゃん付けで呼んでいるにもかかわらず、彼自身は呼び捨てで呼ばれている。また、新日本プロレスウェブサイト上の公式選手名鑑で、苦手なものに「機嫌の悪い時の嫁さん」と掲載したり、2006年G1 CLIMAXでは「嫁さんの前で、ヘンな所を見せたくなかった」と発言したり、小島聡との3冠、IWGP、それぞれのベルトを賭けたタイトルマッチに59分45秒脱水症状によるKO負けの後、「意識を取り戻したら、嫁さんにこっぴどく説教された」、2008年10月に路線バスと原付で接触事故を起こした際の記者会見でも「帰る時間が遅れ、嫁さんに叱られた」と発言するなど、自他共に認める恐妻家。ただ、夫人が一般人のために佐々木健介や蝶野正洋のように、恐妻家を表立ってウリにはしていない。
  • ノーザンライトボムの生みの親が北斗晶夫人のように、バッファロースリーパーの生みの親は理絵夫人である。
  • デビュー当時は必殺技がないことに悩んだという。唯一の必殺技は「しゃちほこ固め」という深めの「逆エビ固め」だったが、この技は体の柔らかい西村修にしか決まらないという最大の弱点があった。
  • 上記の反動からか新技、オリジナル技の開発に余念が無く結果次々と新たな必殺技を生みだしたため、今度は逆に「お前はもう少し技を大事に使え」と先輩に怒られたことがある。
  • 天野ひろゆきがブラックビスケッツの際に天山(あまざん)というギミックで、天山と同じ型の角型マスクをした。
  • ムーンサルトプレスを放った際、回転仕切れず脳天からマットに落下するも、数日後には復帰するタフネスぶりを見せた。復帰後、記者から失敗についてのインタビューには質問内容に関係なくガナリ立てることで、うやむやにするという器用な面を見せた。また、1995年頃、武藤敬司と「敗者ムーンサルトプレス封印マッチ」で敗北するも、「天山プレス」と称してほとぼりが冷めた頃にまた使い始めた。
  • 曙に対して、「プロレスも総合格闘技も中途半端」と批判した。
  • 2008/10/8、原付バイクを運転中に右折してきた東急バスの路線バスと衝突するという事故を起こす。直後の検査では右肩の打撲と擦過傷という軽傷と診断され、翌日IWGPタッグ調印式前に謝罪会見を行ったが、1年以上経過した2009年10月に改めて検査した結果右肩の腱板が断裂していたことが判明した(ただし事故との因果関係は不明である)。
  • 2010/11/18に長期休養から復帰した天山であるが、怪我の程度はかなり深刻であったと語り、奥さんからは他の仕事を探すように助言されたり、自殺も考えたほどであった。

パチンコ

天山はパチンコ好きでも有名で、その面でのメディア露出も多い。

  • 原作を連載していたパチンコマンガが単行本になっている。
  • スポーツ報知でもパチンコのコラム『天山の激録!!玉取ったる』を月1回で連載している(ただし、怪我の治療のため、2009年10月から2010年3月にかけては4代目タイガーマスクが代わりに担当していた)。
  • テレビでも『銀玉王 リーチボーイズが行く!』(テレビ神奈川・テレビ埼玉・千葉テレビ)に準レギュラー出演していたほか、ゲストとしてパチンコ・パチスロ番組へ出演することも多い。
  • 最近では新日本プロレスのマットにパチンコメーカーの広告が出されているため、自分の試合中にそれが目に入り思わずパチンコのことを考えてしまうほどだという(『銀玉王』出演時の発言より)。
  • 2010年に発売されたパチンコ機『CR江戸の始末屋〜最強新日烈伝』(平和)では、蝶野・棚橋・中西学と共に「始末屋」の一人として液晶演出に登場している。


新日本プロレスDVD紹介





マーク・ハント
Mark Hunt
1974/3/23

ニュージーランドのキックボクサー、総合格闘家。オークランド出身。

K-1オセアニア地区予選を2000年、2001年と2連覇し、2000年2月のK-1オセアニア地区予選でのデビューから2年足らずで、K-1 WORLD GP 2001を制し、欧州以外、また地区予選から勝ち上がった最初のGP優勝者となった。

格闘技界屈指のタフネスぶりと積極果敢なファイトスタイルから、「サモアの怪人」という異名を持つ。


PRIDE DVD紹介

  



レイ・ゴディ
Ray Gordy
1979/3/23

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名テリー・レイ・ゴディ・ジュニアTerry Ray Gordy, Jr.)。テネシー州チャタヌーガ出身。

父親はパワーボムを日本に定着させたテリー・ゴディであり、従兄弟にリチャード・スリンガーがいる。

来歴

父・テリー・ゴディの遺言を受けた三沢光晴の計らいによって、2001年にプロレスリング・ノアに選手寮住み込みの半所属扱いで参戦。しかし負傷による欠場後はアメリカへ帰国し、復帰後はインディー団体に参戦した。

2005年8月にWWEと契約し、2006年に元傘下のDSWにてレイ・ジージィRay Geezy)のリングネームでデビュー。2007年5月、フェスタスとタッグチームを組み、ジェシー&フェスタスJesse and Festus)としてスマックダウンに登場。一度ギミック調整のためOVWに送り返されるも、9月にスマックダウンに再登場し、再びフェスタスと共にタッグ戦線で活動した。

2009年の追加ドラフトによりフェスタスがRAWに移籍したためタッグは解散。その後目立った活動はなかったが6月頃からHIP HOPキャラにギミックチェンジし、クライム・タイムのコーナー "Word Up" に登場。8/7のスマックダウンではスラムマスターJSlam Master J)を名乗ってリングに上がり、チャーリー・ハースに勝利。しかしその後出番はほとんどなく、2010/4/22にWWEを解雇された。

入場曲

  • Biscuits & Gravy(フェスタスとのタッグ時)
  • Thug Bug(Slam Master Jを名乗ってからの入場曲)





飯田 美花 
1992/3/23

日本のプロレスラー。青森県東津軽郡出身。

経歴・戦歴

2010年
  • 11/14、名古屋スポルティーバアリーナにおいて、エキシビションマッチでプレデビュー。
  • 11/21、大阪府立体育会館第2競技場において、田村欣子戦でデビュー。8分2秒ダブルリスト・アームサルトで敗戦。
  • 12/12、昼に新宿FACEで開かれた栗原あゆみ5周年興行と夜のNEO板橋大会に参戦。新人では異例のダブルヘッダー。
  • 12/26、板橋大会で野崎渚と対戦。6分3秒スリーパーホールドで敗戦。
  • 12/31、後楽園ホールでのNEO最終興行に出場。第1試合で学年こそ1年下だがキャリアでは先輩となる花月と対戦し7分34秒体固めで敗戦。
2011年
  • 1/8、アイスリボン初参戦。道場大会(イサミレッスル武闘館)で、NEO解散後最初の試合(対星ハム子)に出場したが敗れた。コールはたまたま代理で音響を担当していた甲田哲也元NEO社長が行った。
  • 1/14、19時女子プロレス初参戦。真琴、都宮ちい組と対戦し、初勝利(パートナーは藤本つかさ)。
  • 1/23、OSAKA女子プロレス初参戦。紫雷美央の片エビ固めに屈する。
  • 2/13、プロレスリングWAVE初参戦。栗原あゆみと初シングルも逆エビ固めで敗戦。試合後、栗原に弟子入りを志願。

人物

  • NEO女子プロレス最後の新人。入団テストの際に団体の解散を知らされていながら、敢えて入団した。甲田哲也社長は「どうせ半年続かないだろう」と思い入団を許可した。
  • 栗原あゆみからドロップキックの技術などを評価され、自主興行への参戦につながった。また、NEO解散興行より栗原から譲り受けたリングコスチュームを使用している。
  • 2011年1月よりアイスリボンにレギュラー参戦を開始。真琴率いるユニット「平成YTR」にも加わっている。
  • アイスリボンと同時にレギュラー参戦している19時女子プロレスでは志田光に対し、最後の締めを横取りしたり、タッグを組んで負けたときはリーダーシップがないと批判するなど新人らしからぬ度胸を見せている。


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