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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
3/24



ゴージャス・ジョージ
Gorgeous George
1915/3/24 -1963/12/26

アメリカ合衆国のプロレスラー。ネブラスカ州ボイド郡出身。

1940年代 - 1950年代のアメリカ、特に西海岸で凄まじい人気を誇り、初期のテレビ放送もあいまってヒールではあったが日本で例えれば力道山のようなスーパースターであった。

来歴

テキサス州ヒューストンの貧しい家庭に育ち、10代でデビュー。小柄(身長175cm、体重98kg)な前座選手として各地を回っていたが、妻や仲間のアドバイスで貴族ギミックの尊大なキャラクターに変身し、大ブレイクを果たした。トレードマークはスパンコールの付いた派手なロングガウンにブロンドの髪。マイクアピールも得意とした。

日本と同じくアメリカでもテレビ黎明期のキラーコンテンツはプロレス中継であり、わかりやすい悪役のジョージの試合には全米の人々が熱狂した。もっとも、ニューヨークを中心とする東海岸ではジョージよりアントニオ・ロッカが一般的なスターであった。1950年代のプロレス・ブームの終焉と共にジョージの人気も翳りが指し、巨万の富も離婚で失い更にはアルコール依存症に陥った。1962/11/7、ロサンゼルスで行われたザ・デストロイヤーとの髪とマスクを賭けた試合で敗れて自慢の髪を坊主にされ、そのままリングを降りた。それからわずか一年後の1963/12/26、心臓発作により48歳で死去。

彼の死後、ジョージの弟や息子、甥を名乗る選手が各地に現れたが、もちろん誰一人として本物ではなく、本人のような名声を得ることも出来なかった。そのうちの一人が1969年にゴージャス・ジョージ・ジュニアというリングネームで来日し、国際プロレスでコミカルなファイトを見せている(後にマネージャーに転身し、モンゴリアン・ストンパーなどを担当した)。

彼のスタイルはフレッド・ブラッシー、バディ・ロジャースなど多くの選手に強い影響を与え、さらに彼らを通してリック・フレアーなどに継承されている。モハメド・アリもジョージの大ファンであり、間接的ではあるがブラッシーなどからマイクパフォーマンスなどを学んだ。テレビで見ていたジョージのプロレス的パフォーマンスをボクシングに持ち込もうと考えたとされる。また、ジェームス・ブラウンも彼のアクションを参考にしたパフォーマンスを行っていた。

2010年、WWE殿堂に迎えられた。顕彰セレモニーには夫人のベティ・ワグナーが出席。インダクター(プレゼンター)はディック・ベイヤーが担当した。

入場

ジョージの最大の見せ場でもある入場シーン。入場曲を使った最初の選手と言われる。

  • まず赤絨毯が用意される。『威風堂々』が流れ、ピンスポット照明を浴びながら執事と女性マネージャーに先導され登場。観客を挑発しながらゆっくりと進む。
  • 執事が香水(銘柄はシャネルの『10番』という架空のもの)でリングを消毒するまで、リングサイドでシューズを拭きながらペアピンや花束を観客席に投げ込む。
  • レフェリーや相手を見下しながら紹介を受け、試合が始まれば反則一辺倒。

『威風堂々』は、後にランディ・サベージも入場曲として愛用した。なお、ランディ・サベージは1990年代末にWCWにて、ガールフレンドのステファニー・ベラーズを「ゴージャス・ジョージ」と名付けて女性マネージャーに従えていたが、もともとはサベージの実弟のラニー・ポッフォがゴージャス・ジョージを名乗る予定だった。






鶴田 保子
1958/3/24

プロレスラージャンボ鶴田夫人。旧姓は荒巻。

人物

1984年、26歳で鶴田と結婚。

2000年に夫の鶴田が移植手術中に死去。その後、移植に関する啓蒙をするためにジャンボ鶴田基金を起こし、代表としてアメリカオレゴン州ポートランドで、臓器移植が必要な患者の支援活動を続けている。 

著書

  • 『つぅさん、またね。:ジャンボ鶴田を支えた家族の記録』(ベースボール・マガジン社,2000年)

 
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ジ・アンダーテイカー
The Undertaker
1965/3/24

アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はマーク・ウィリアム・キャラウェイMark William Calaway)。WWEを代表するスーパースターの1人である。

怪人The Phenom)」「デッドマンThe Dead man)」「地獄の墓堀人」「暗黒の魔王Lord Of Darkness)」「プロレス史上最強のストライカーThe best pure striker in sports-entertainment history)」「心理戦の達人master of mind games)」「アメリカン・バッドアスAmerican Bad Ass)」など数多くの異名を持つ。

概要

アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン生まれ。ギミック上の出身地は死の谷とされている。リングネームのundertakerは墓堀人(本来の意味は葬儀屋)を意味する。番組ではテイカーと略されることが多い。

その豊富な経験と実績でバックステージでの同僚のレスラーのリスペクトは高く、リーダー格の地位にある。入場・試合等では、ヒールを演じていてもブーイングが歓声にかき消されるほどである。安定したレスリングテクニックもさることながら、当たり外れの大きい怪奇派ギミックを完璧にこなし、WWEで人気を得るための最も重要な要素であるマイクアピールを殆どせずに入場するだけで自分のペースに巻き込んでしまう。

WWE最大の祭典レッスルマニアでは無敗の18連勝という記録を続けている。墓堀人ギミックの時は「雷を落とす」「敵の背後に姿を現し、後ろを振り返った瞬間に再び姿を消す」「敵の友人の顔が突然、血だらけになる幻が見える」などの超常現象を操れる魔力を持つというギミックがあり、魔力で敵を翻弄することから「心理戦の達人master of mind games)」とも呼ばれる。

来歴

初期

ドン・ジャーディンのコーチを受けて、1984年にダラスのWCCW(フリッツ・フォン・エリック主宰)にてブルーザー・ブロディを相手にデビュー。当時のリングネームはテキサス・レッドだった。その後、メンフィスのCWA(後にWCCWと合併してUSWAと改称)に転戦し、マスター・オブ・ペインのリングネームで活躍。1989年4月にはジェリー・ザ・キング・ローラーを破りUSWAユニファイド世界ヘビー級王座を獲得。同年10月、覆面レスラーのザ・パニッシャーに変身してUSWAテキサス・ヘビー級王座も奪取した。

その後は初期のWCWに移籍、ポール・E・デンジャラスリーやテディ・ロングをマネージャーに、マーク・キャラスの名でダニー・スパイビーとのスカイ・スクレイパーズなどで活動するがパっとせず退団。この間、1990年3月にパニッシャー・ダイス・モーガン名義で新日本プロレスに初来日、スコット・ホールと組んでマサ斎藤&橋本真也のIWGPタッグ王座に挑戦している。当時はショートパンツにセミロングと、現在では想像もつかないようないでたちだった。

1990年-1999年

1990年11月よりWWFに登場。怪奇派ヒールのジ・アンダーテイカーに変身し、サバイバー・シリーズにてテッド・デビアス軍のメンバーとしてデビュー。当初は言葉を話さない設定であったためブラザー・ラブがマネージャーに付き、後にポール・ベアラーに替わった。1991年からはハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアーなどトップ選手のライバルに抜擢され、同年のサバイバー・シリーズではリック・フレアーの介入もあってホーガンを破りWWF世界ヘビー級王座を獲得。しかし6日後にホーガンに王座を取り戻されている。

その後は彼出現以前のWWF一の怪奇派であったジェイク・ロバーツと組み、ランディ・サベージなどと抗争。1992年にロバーツと仲間割れしてベビーフェイスに転向、4月のWrestleMania VIIIにてロバーツを撃破した。この頃より、骨壷から発せられるパワーが無いと力を発揮できない、というギミックが加わる。同年下期にはカマラとの抗争において、彼の代名詞となる棺桶マッチも実現した。1994年1月、ロイヤルランブルでヨコズナとの棺桶戦に敗れ、「昇天」したため長期欠場。

同年のサマースラムで復帰し、当時デビアスの配下として働いていた偽アンダーテイカー(Evil Undertaker)を下す。約一年間、デビアス派閥ミリオンダラー・コーポレーションと抗争。1996年にはブレット・ハートとの王座戦を妨害されたことを発端にWrestleMania XIIでディーゼルと対戦して勝利。なお、この少し前に鼻骨を骨折したため、『オペラ座の怪人』風のフェイスマスクを着けて試合を行っていた時期がある。

WrestleMania XII翌日のRAWにてハードコア・マッチで名を上げたミック・フォーリーが怪奇派ギミックのマンカインドとしてWWFに登場して二人の抗争が始まり、マネージャーのベアラーの裏切り、サマースラムでの通称「ボイラールームでの決闘」を経て、イン・ユア・ハウスで史上初のベリード・アライブ・マッチが行われた。試合には勝利したものの直後にジ・エクスキューショナーに襲われ生き埋めにされる。しかしその場に雷が落ち、土の中から手が現れるというホラー映画さながらのシーンが演じられた。

1997年、WrestleMania 13のメインイベントではサイコ・シッドを下し二度目のWWF王座を獲得。サマースラムでショーン・マイケルズの誤爆によってブレット・ハートに王座を奪われ、以降はマイケルズとの抗争に発展。史上初のヘル・イン・ア・セルで決着が図られたが、試合中に以前よりベアラーによって存在のみが明かされていた、『火事で死んだと思われていたテイカーの弟』ケインが乱入し敗北。1998年WrestleMania XIVでのケイン戦ではツームストーン・パイルドライバー三連発の末に勝利。その後はマンカインドとの抗争が復活し、キング・オブ・ザ・リングで行われたヘル・イン・ア・セル戦ではマンカインドを金網の上から二度も転落させてWWEに残る壮絶な試合となった。

その後は7月にストーン・コールド・スティーブ・オースチンとのタッグでWWE世界タッグ王座を初戴冠。ストーンコールドと仲間割れ後はケインとブラザーズ・オブ・デストラクションBrothers of Destruction)を結成。しかし12月のストーンコールドとのベリードアライブ・マッチで仲間割れしたケインの乱入によって敗れ、生き埋めとなった。翌年に「死去した歴代の元WWFレスラー達の怨霊を吸収した」ことによって暗黒の魔王Lord Of Darkness)のギミックで復活、ミニストリー・オブ・ダークネスMinistry of Darkness)なる怪奇派ユニットを組織。団体の掌握を目論みビンス・マクマホン率いるコーポレーションとの抗争を開始したが、後にステファニー・マクマホン誘拐のアングルを機にビンスと手を組みコーポレート・ミニストリーThe Corporate Ministry)を結成。自身もストーンコールドを下して3度目のWWF王座、ビッグ・ショーとのタッグでタッグ王座を獲得するなどしたが、股関節の故障により9月より長期離脱、しばらく表舞台から姿を消していた

2000年-2003年

2000年5月にアメリカン・バッド・アスというアメリカの不良中年ギミックで再登場。これまでの怪奇派から大型バイクに乗っての入場や、バンダナの着用など、全く逆の不良中年スタイルが受け、ベビーフェイスの地位を確立。なおこのギミックは本人によれば「自分の普段のライフスタイル」とのことで、バイクも自前だったそうである。ケインとブラザーズ・オブ・デストラクションを再結成し、タッグ王座を獲得した他、当時団体を掌握していたトリプルH、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンと抗争。2001年のアライアンスとの抗争では破壊兄弟として主にタッグ部門で活躍し、初めてWWE・WCW両タッグ王座を同時に保持した。

アライアンスとの抗争が終結した同年11月、ジム・ロスを襲いヒール転向。WrestleMania X8でも対戦したリック・フレアーとの抗争では当時OVWに所属していた息子のデビッド・フレアーを襲撃するなど、極悪ぶりを発揮した。2002年のWWEのテレビ番組分割時にはフレアーによってRAWにドラフト1位指名で加入。5月にはまたもハルク・ホーガンからWWE統一世界王座を奪取した。こちらでもホーガンをバイクに縛りつけ引きずったまま走り回るなど、この時期の彼のヒールとしての迫力は特筆に値する。その一方で、ジェフ・ハーディーとのラダー・マッチで王座防衛後にはヒールでありながらジェフの大健闘を称えるなど、男気溢れる一面を見せた。

王座をスマックダウン所属だったザ・ロックに奪われたため、入れ替わりに移籍。移籍後はベビーターンし新王者ブロック・レスナーと抗争したが、ヘル・イン・ア・セルで死闘の末敗れ、怪我で休養。翌年に復帰後は番組GMステファニー・マクマホンと組んでレスナー&ビンス・マクマホンとの抗争が再燃。サバイバー・シリーズでのビンスとのベリードアライブ・マッチ中に暴走したケインの乱入により生き埋めにされ、再び姿を消す

2004年-

2004年のWrestleMania XXにて、再び墓堀人ギミックで再登場してケインに勝利。同年よりフルタイムではなく実質的にはスポット参戦になったが、主にダッドリー・ボーイズやJBL、ハイデンライクなどと抗争。 2005年のWrestleMania 21でテイカーのレッスルマニア連勝記録にランディ・オートンが挑んで以降、2005年はオートン親子との抗争が続いた。ノー・マーシーにおけるランディ・オートン、カウボーイ・ボブ・オートンとの初のハンディキャップ形式棺桶戦でオートン親子に敗北。試合後、ランディに棺桶ごとガソリンで燃やされ、姿を消す。オートンは翌月のサバイバー・シリーズにて、エディ・ゲレロの急死に伴い代役としてRAW対スマックダウン番組対抗戦に出場、生き残りを果たした。この試合後棺桶が登場、稲妻が落ち、燃え上がる棺桶の中からテイカーが登場し復帰。オートンを「ガラスをふと見るとテイカーが映っていて、振り返ると誰もいない」「突然、父ボブの顔が血だらけになるように見える」などの得意の超常現象で翻弄し、アルマゲドンにおけるオートンとのヘル・イン・ア・セル戦では親子共々ツームストーン・パイルドライバーを与え勝利。

その後、姿を消していたが2006年ロイヤルランブルに登場。王座防衛した直後のカート・アングルの前に現れ、雷を放ってアングルの居るリングを破壊、王座挑戦を表明するも、ノー・ウェイ・アウトでの王座戦では激闘の末アングルに敗北。アングルとの再戦に乱入してきたマーク・ヘンリーとWrestleMania 22で棺桶マッチを戦い勝利。その後はザ・グレート・カリとの抗争でラストマン・スタンディング・マッチで勝利、ケン・ケネディとの抗争ではアルマゲドンでのラスト・ライド・マッチでケネディを下す。

2007年、ロイヤルランブルでWWE在籍17年目にして初優勝、WrestleMania 23でバティスタを下し、初めて世界ヘビー級王座を獲得した。ところが5月にバティスタと金網戦で辛くも防衛に成功した直後にマーク・ヘンリーの不意打ちを食らい、直後マネー・イン・ザ・バンクの権利を行使したエッジに王座を奪われ戦線離脱。その年のアンフォーギヴェンで復活しマーク・ヘンリーに勝利。サイバー・サンデーでは、バティスタとの王座戦に挑んだが二度のバティスタ・ボムを受け敗北。サバイバー・シリーズでもバティスタにヘル・イン・ア・セル戦で挑むが、リングサイドのカメラマンに扮していたエッジの乱入を受け敗北。アルマゲドンではバティスタ、エッジとの三つ巴戦に望むが今度はエッジの手下ジ・エッジヘッズの乱入で敗戦。

2008年、ノー・ウェイ・アウトにてエリミネーション・チェンバー・マッチで勝利し、レッスルマニア24での世界王座挑戦権を獲得すると本格的にエッジやスマックダウンのGMでエッジのギミック上の恋人だったヴィッキー・ゲレロの一味"ラ・ファミリア"と抗争開始。WrestleMania XXIVではエッジとの王座戦にヘルズゲートで勝利し、世界ヘビー級王座を獲得、レッスルマニアでの連勝記録を16に伸ばした。しかし5月ヴィッキーにヘルズゲートを禁止技にされた上、王座も剥奪されてしまう。剥奪された王座を懸けワン・ナイト・スタンドにてエッジと自身初のTLC戦で争うも、ラ・ファミリアの襲撃を受け敗北、WWEから追放され姿を消す。その後エッジの浮気を巡り激怒したヴィッキーがエッジを制裁するべくサマースラムでのエッジとのヘル・イン・ア・セル戦での復帰を決定。これに勝利し、試合後にはハシゴの頂上からのチョークスラムでリングを貫通させ、炎を燃え上がらせてエッジを火葬した。その後はヴィッキーやビッグ・ショーと抗争。ノー・マーシーではショーにノックアウト負けを喫するがサイバー・サンデーではラストマン・スタンディング・マッチで勝利。さらにサバイバー・シリーズで行われた棺桶戦でも勝利した。

2009年、ロイヤルランブルでもビッグ・ショーに邪魔をされ敗退。ノー・ウェイ・アウトでのエリミネーション・チェンバー形式WWE王座戦ではトリプルHに敗北。その後レッスルマニアでの連勝記録にJBL、ショーン・マイケルズ、ウラジミール・コズロフが挑戦を申し出るが1対1でマイケルズが他の2人を退け、WrestleMania XXVにてマイケルズの挑戦を受けた。壮絶な試合の末マイケルズを下し、レッスルマニア連勝記録を17に伸ばす。その後股関節の手術などで長期休養に入る。サマースラムのジェフ・ハーディー対CMパンク戦にて復帰すると世界ヘビー級王座戦線に乗り込んだ。ブレーキング・ポイントではパンクに挑戦するも、モントリオール事件のような結末になり敗北。10月ヘル・イン・ア・セルで再戦し世界ヘビー級王座を獲得。以降パンク、クリス・ジェリコ、ビッグ・ショー、バティスタ、レイ・ミステリオ等の挑戦を退けた。

2010年、前年のレッスルマニアで敗ったマイケルズから再三リマッチを要求され、エリミネーション・チェンバーでの世界王座防衛戦では終盤にそのマイケルズの襲撃に受け王座を失う。翌日のRAWに登場したテイカーはマイケルズが負ければ引退するという条件でWrestleMania XXVIでの再戦を受ける。そして迎えた『連勝記録vsキャリア』と銘打たれた試合では前年に勝るとも劣らない激闘を展開し、ジャンピング・ツームストンという最上級のフィニッシュでマイケルズを下す。試合後、テイカーから歩み寄る形でマイケルズと抱擁を交わし健闘を称えた。5/28のSmackDown!の放送後弟ケインにより意識不明の植物状態で発見され、以来WWEには登場していない(実際には同日に行われたレイ・ミステリオとの一戦で顔面を負傷したため)。その後サマースラムにて復帰。自身を襲撃した真犯人であるケインと抗争し、ブラッギング・ライツで世界ヘビー級王座をかけてのベリード・アライブ・マッチに挑むが、これに敗れ以降欠場となる。(実際の欠場の要因は肩の古傷の悪化である。)

獲得タイトル

WWF / WWE
  • WWE王座 : 3回
  • 世界ヘビー級王座 : 3回
  • WWFタッグ王座 : 6回
(w / ストーン・コールド・スティーブ・オースチン : 1回)
(w / ビッグ・ショー : 2回)
(w / ザ・ロック : 1回)
(w / ケイン : 2回)
  • WWF・WCW統一王座 : 1回
  • ハードコア王座 : 1回
  • RAW 10th Anniversary Entrance部門 受賞
WCW
  • WCW世界タッグ王座(w / ケイン : 1回)
USWA
  • USWAユニファイド世界ヘビー級王座 : 1回
  • USWAテキサスヘビー級王座 : 1回

決め台詞

  • Rest in peace(レスト・イン・ピース)
「安らかに眠れ」の意。欧米で墓碑に書かれる慣用句。
  • This is my yard!
「ここ(リング)は俺の庭だ」バッドアス時代からの決め台詞。墓堀人ギミックに戻って以降も稀に使う。
  • Deadman walkin'
バッドアス時代の入場時のイントロでテイカーが言う言葉(入場曲が「American Bad Ass」の頃を除く)。バッドアス時代のテイカーは歩かずにバイクに乗って入場することが多いことからも分かるように、この場合のDeadmanとは「テイカー(デッドマン)が歩いている」という意味ではない。これは死刑囚が処刑場に向かって歩くことを指している。つまり、「テイカーが死刑囚(対戦相手)を処刑する」ということである。
  • Try me, I'll make you famous!
「かかってこい!俺がお前を有名にしてやる!」これはミック・フォーリーなどに代表されるようにテイカーにボコボコにされることによって有名になったレスラーが多くいたことからきている。

入場曲

  • Miracle Man (Ozzy Osbourne)
新日本プロレス時代に使用
  • China White (Scorpions)
NWA/WCW時代に使用
  • The Grim Reaper
  • Graveyard Symphony
原曲はショパンのピアノソナタ第2番「葬送」
  • Rest in Peace
  • Dark Side
1998年の秋頃から使用。
  • Ministry
ミニストリー・オブ・ダークネスを結成した1999年頃使用。
  • American Bad Ass (Kid Rock)
墓堀人からバイカーギミックにターンする際に使用。イメージチェンジに一役買った。
  • Rollin' (Limp Bizkit)
2003年の「WrestleMania19」ではテイカーの入場時にリンプ・ビズキットがこの曲を生演奏した。
  • Dead Man
  • You're Gonna Pay
  • The Darkest Side - 現在使用中
グレゴリアン・チャントが鳴り、黒装束に松明を持ったドルイドが花道を作り、この曲につなげるパターンや、イントロ部分で稲妻が落ちたり、雷が鳴り響いたりといった演出がなされる。

エピソード・その他

  • レッスルマニア13での王座戦という大舞台の前日に交通事故により怪我をしていたという。それでもなお試合に勝利し王座を獲得している。
  • かの有名なマンカインドとのヘル・イン・ア・セル戦においても、足首を剥離骨折した状態で出場している。
  • バイクが趣味であり欠場中などはバイクラリーに参加しているという。
また、彼のバイクは一見ハーレーダビッドソンに見えるが実際はそれらをオーダーメイドで職人がカスタムしたタイタンというバイクで値段は一台10万ドル単位であるらしい。ちなみにバイカーギミック時代に使っていたバイクはテイカー自身の私物である。
  • MMAの大ファンであり、プライベートでUFCの観戦に来ている姿が頻繁にテレビに写っている。自身のプロレスの試合でも常にオープンフィンガーグローブを着用して、稀にMMAの技を使っている。元UFC世界ウェルター級王者マット・ヒューズとは仲が良いらしく、ヒューズを激励しに控え室を訪れたことがあった。また、ボクシング世界王者のマニー・パッキャオの応援のため、一緒に入場したこともある。
  • レスラーの中で非常に重要な地位を保持しているため、怠慢な試合を続けたビッグ・ショーをロッカールームで叱り飛ばしたり、入団当初挨拶に行かず会場を歩き回っていたショーン・オヘアを見て「あの小僧は挨拶もできねえのか」と愚痴をこぼし、その結果オヘアが暫く干されたことがある。さらには若手レスラーたちのよき相談相手にもなっており、彼の発言や行動が他のレスラーに少なからぬ影響を与えることがある。また、レスラーに対する理不尽な扱いを嫌うことでも有名で、たびたび怒りをあらわにしている(モントリオール事件、ボブ・オートンを参照)。
  • 2007年にビジネスパートナーと共にコロラド州のラブランドに270万ドルのビルを建設した。
引退後は不動産業に手を伸ばす予定であるとのこと。
  • 腕のタトゥーは左腕が城と蛇。右が髑髏と三人の老人。喉元には前妻であるサラの名前のタトゥーが彫られていたが離婚後に消している。
  • トリプルHはステファニー・マクマホンとの結婚について思い切りがつかなかったとき、テイカーに相談した。
  • 弟であるケインとのアングルは人気の一つである。中でも最も支持されているアングルの一つに破壊兄弟(Brothers of Destruction)が挙げられる。そのギミックと相まって通常のタッグ戦線で活躍するタッグチームとは一線を画する、ある種別格の存在感を放っており、団体からも一目置かれており(このタッグが復活するとほぼ必ずアナウンスが入り、注目カードとして扱われることからもその存在の大きさが垣間見える)、一つの重要なパーソンといえる。タッグだけでなく二人の抗争も幾度と無く行われており有名な物にリングの周りを炎で囲ったインフェルノマッチなどがある。また、兄弟(ギミック)ということもあり抗争の理由も「両親の墓を賭けて」など非常に独特である。この兄弟ギミックは以降も続いている。
  • 過去に抗争相手として現れた偽テイカー(ブライアン・ハリス)は彼の親友である。
  • 長いレスラー人生においてタップアウト負けが2009年Breaking PointでのCMパンク戦の一度しかない(ただし、この一戦では策略によりタップしていないにも関わらずタップを取られたため、厳密には一度もないことになる)。
  • 210cmの巨体にもかかわらず非常に身体能力が高く、ロープの上を渡ったりトップロープ越えのノータッチトペを決めたり出来るなど長身レスラーにはあまり見られない動きをすることが出来る。
  • また、全盛期からの衰えは見られるものの、ロープワークの俊敏さもアピールポイントの一つである。
  • サバイバーシリーズ以来の長期欠場期間から復帰した際には暗黒大魔王という形のギミックでもあった。
  • 2010年に行われたエリミネーション・チェンバーでは入場時にパイロが誤作動を起こし炎が直撃した。入場コスチュームは燃えテイカー自身も重度の火傷を負ったが、何事もなかったように試合に参加した。
  • 2010年6月、交際していたWWEディーヴァのミシェル・マクールと再婚した。
  • 長いキャリアの中で、90年代以降WWEに所属したほぼ全ての一線級のスーパースターと対戦した経験があるが、唯一クリス・ジェリコとの1対1での対戦はジェリコが1999年にWWE入団して以降長く実現せず、それから10年後の2009年が初めてとなった。

レッスルマニア無敗伝説

前述のように、テイカーは初登場以来レッスルマニアにおいて負けたことがない。以下はレッスルマニアにおける戦歴である。

現在、実況などで「テイカーは18勝0敗で、18人のスーパースターがテイカーに挑んで敗れた」などとよくいわれる。これは単純に「毎年1試合で1名ずつ倒した」とも受け取れる表現である。しかし、ケインとショーン・マイケルズとは2回戦っており重複する。一方、Aトレイン&ビッグ・ショーとは1対2のハンディキャップ戦であった。結果として、テイカーとレッスルマニアで対戦した選手は17名である。

倒した相手 決着
WrestleMania VII
(1991年)
ジミー "スーパーフライ" スヌーカ pin fall
WrestleMania VIII
(1992年)
ジェイク“ザ・スネーク”ロバーツ pin fall
WrestleMania IX
(1993年)
ジャイアント・ゴンザレス DQ
WrestleMania XI
(1995年)
キングコング・バンディ pin fall
WrestleMania XII
(1996年)
ディーゼル pin fall
WrestleMania 13
(1997年)
サイコ・シッド pin fall
WrestleMania XIV
(1998年)
ケイン pin fall
WrestleMania XV
(1999年)
ビッグ・ボスマン pin fall
WrestleMania X-Seven (2001年) トリプルH pin fall
WrestleMania X8
(2002年)
リック・フレアー pin fall
WrestleMania XIX
(2003年)
Aトレイン&ビッグ・ショー pin fall
WrestleMania XX
(2004年)
ケイン pin fall
WrestleMania 21
(2005年)
ランディ・オートン pin fall
WrestleMania 22
(2006年)
マーク・ヘンリー casket
WrestleMania 23
(2007年)
バティスタ pin fall
WrestleMania XXIV (2008年) エッジ submit
WrestleMania XXV (2009年) ショーン・マイケルズ pin fall
WrestleMania XXVI (2010年) ショーン・マイケルズ pin fall





松永 光弘
1966/3/24

日本の元プロレスラー、実業家(飲食店経営)。有限会社ミスターデンジャー代表取締役。通称「ミスター・デンジャー」。

経歴

中京高等学校(現・中京大学附属中京高等学校)、中京大学出身。齋藤彰俊と同期。高校時代、相撲でインターハイベスト32。大学時代に久島海と対戦経験がある。

空手に転じ、寛水流空手、誠心会館知多支部長(士道館杯にて全日本3位)を経る。

FMWの旗揚げに誠心会館所属として参戦、旗揚げ戦の1989/10/6の名古屋市露橋スポーツセンター大会においてデビュー(対ビリー・マック戦)。

同年12/10のFMW後楽園ホール大会で、ジェリー・ブレネマン(現 ジェリー・フリン)と組み、大仁田厚・ターザン後藤組と日本初の『有刺鉄線デスマッチ』を行う。

FMWへの継続参戦を望んでいたが、誠心会館の館長である青柳政司の指示によりやむなくパイオニア戦志に参戦。同団体が崩壊すると「先に新日に参戦していた青柳に、反旗を翻す」と云うギミックで新日本プロレスに参戦。角刈りの頭髪を金色に染めて栗栖正伸らと結託し、青柳からは(一旦は)師弟の縁を切られたものの、試合を殆ど組んでもらえず、結局は青柳との一騎打ちに敗れたのを機にフェードアウトする。

その後、齋藤彰俊を応援する目的で観戦に来たところ、選手間の乱闘に巻き込まれたのをきっかけに、世界格闘技連合W★INGに参加。当時、格闘技路線とデスマッチ路線といった、2つの方向性を辛うじて並行させていた同団体において、自身の活路をデスマッチに見出していく。

1992/2/9、後楽園ホールにおけるザ・ヘッドハンターズとの試合中、対戦相手目掛けて2階バルコニー席からのダイブを敢行したことにより、「ミスター・デンジャー」と呼ばれるようになる。

以降も、破天荒な行動や、過激化の一途を辿ったW★INGプロモーションのデスマッチ路線の最前線に立つことで、同団体のエース格と目されるまでになった。

1993年夏、W★INGの放漫経営に愛想を尽かし、FMWに再び移籍。大仁田厚と敵対して幾度もデスマッチを行い、大仁田引退後は「新生FMW」のデスマッチ路線を支える。

1996年春、FMWを退団し、主戦場を大日本プロレスに移す。ここでは、主にW★ING時代に自身が考案しながらも、諸事情で日の目を見なかったデスマッチを次々と具現化させた。1998/9/23、同団体で「ワニデスマッチ」を行うが、『対戦相手』のワニは1mほどの小型のものであり、リングの内外に大きな脱力と失笑をもたらす結果となった。その他、自らが飼育するピラニアやサソリを動員したデスマッチも行っている。大日本参戦中、BJW認定デスマッチヘビー級王座を2回獲得した。

この時期、大日本プロレスが新日本プロレスと対抗戦を行うが、松永は対抗戦を拒否している。なお、もし参戦した場合、1997/1/4の東京ドーム大会でグレート・ムタとの対戦が決まっていた[]

1996/11/17、有明コロシアムでダン・スバーンとバーリトゥード戦を行うが、脇固めによりギブアップ負け。雑誌のインタビューでは「ムタから逃げたと思われるのが癪だったから」と答えている。

2000年、K-1に参戦し、3/19の横浜アリーナ大会で、グレート草津とK-1ルールで対戦。1ラウンドKO負け。

その後大日本からも離脱し、しばらくリングを離れていたが、2005/10/9、ZERO1-MAXに参戦。健在をアピールするも、佐々木義人に敗北しゼロワンより追放。1年後に再登場、2006/9/22大森隆男vs村上和成戦に乱入し村上とタッグを結成したものの、10/27の試合で仲間割れを起こす。11/11村上と有刺鉄線デスマッチで対戦するもTKO負けを喫して再度追放された。試合中にはセコンドのHikaruを凶器で流血させたこともある。

2007年後半頃よりZERO1-MAX入団を大谷晋二郎(この年から社長に就任)に直訴。2008/1/24、大谷と「入団査定マッチ」として「“地獄の針山”畳針デスマッチ」で対戦し敗北したが大谷からその戦い振りを評価され、2/8ZERO1-MAXへの入団を果たした。しかし松永はすぐに大谷を襲撃し、デスマッチでの決着戦をアピール。5/17の埼玉桂スタジオ大会で、大谷と「ガラスレイン鉄球地獄デスマッチ」を行うも敗北。この一戦を最後に、第一線から身を引くことを表明した。

2009/12/23、齋藤彰俊を対戦相手に引退試合を行った。その前月、11月7日付けの東京スポーツ紙上で、上述の大谷戦を「“デスマッチ”引退試合」と位置付けたうえで、既にそれ以来試合間隔を空けていたことから「プロレスラーの体が作れるうちに自分へのケジメとして」あと1戦、“プロレスラーとしての”引退試合を行いたいと訴え、対戦相手にはプロレスリング・ノア所属となった齋藤を指名した。さらに「デスマッチは引退したから普通の試合でもいい」「よそのリングに齋藤を引っ張るのは筋が違う」と、ノアの大会での対戦を熱望。それまで接点すら無かったノアの会場に自ら出向き、副社長の丸藤正道らに直談判、試合を組んで貰えるよう懇願した。その結果「通常のシリーズでは組まない」「デスマッチは禁じる」との条件付きながらも認められ、希望どおりに「松永光弘引退記念試合」として、齋藤との一騎打ち(時間無制限1本勝負)が、2009年12月23日の丸藤正道プロデュース興行にて組まれた。後日、試合直前になってデスマッチ強行も匂わせたものの、実際の試合では、大掛かりな凶器は一切封印、反則攻撃さえも最小限に留めて闘った。結局、10分24秒、齋藤のスイクル・デスからピンフォール負けを喫した。しかしながら「(齋藤は)強かったですね、無謀だった。でもやらずに終わるよりいい。やってよかった。完全燃焼です」と語り、相手となった齋藤も「デスマッチだったら松永にかなわない。『20年前に2人で語り合った夢』のプロレスラーとして(松永は)引退してくれた」と“盟友”に賛辞を送った。

ファイトスタイル

空手と相撲をバックボーンとするが、プロレスのリングではひたすらにデスマッチスタイルを好み、独創性に富んださまざまな自作凶器をリングに持ち込んでは自ら進んでその餌食となり壮絶なやられっぷりを見せるという、特異なファイトスタイルで知られる。有刺鉄線バットを自らの足に装着して仕掛ける(当然自分も痛い)『W★ING式サソリ固め』などは語り草となっている。また、デスマッチにおいては、他選手のようなTシャツ着用を良しとせず上半身裸で臨む気概を見せる。まれに道着を着込むこともあるが、その時は着衣に火をつけられて火だるまになる。

人物

後述のとおり、レストランのオーナー経営者で、実際にコックとして毎日働いている。

趣味は熱帯魚(特に大型魚)飼育。自宅の居間には大型水槽が6本あり、うち1本はエサの金魚用。フィギュア作成が趣味の金村キンタローに対して「お前、そんな生きてない物を相手にして楽しいのか?」と言ったこともある(因みに金村もペットは飼っている)。

傷の回復力を高めるため、酒、煙草は一切やらない。

レストラン経営

松永はレストラン経営者でもある。

店名は「ステーキハウス・ミスターデンジャー 立花本店」(法人名「有限会社ミスターデンジャー」)。自らの別名をそのまま店名とした。1997年、東京の丸八通り沿い(東武亀戸線東あずま駅近く)にて開店した。以後コックとして、試合がある日以外は自ら厨房に立ちステーキを焼いている。

2007年には店内を改装し「牢獄風ステーキハウス・ミスターデンジャー 立花本店」とした。現在はかつての商売道具(=反則攻撃用凶器)だけでなく拷問具や手錠が壁に飾られている。また水道橋の「尾道ラーメン麺一筋」のフランチャイジーとなり江東区にラーメン店を出した事があるが、他人に売却した。

ステーキ店開業の際には東京のレストラン「ステーキの志摩」において一から修行した。志摩での修行初日、店長が出勤する前に店の掃除を全て済ませて意気込みを見せた、という逸話もある。

タイトル歴

  • W★ING認定世界タッグ
  • 世界ブラスナックルタッグ
  • NAWA北米ヘビー
  • BJW認定デスマッチヘビー級王座 : 2回(第2代、第13代)

著作

  • 人生の壁を破る50の反則(2007年・オークラ出版) ステーキ店経営にまつわる苦労、お金にまつわる苦労、生きるための苦労を隠すことなく書いている。
  • ミスター・デンジャー プロレス危険地帯 (1998年・長崎出版)

関連書籍

  • ミスター・デンジャー松永光弘 最後のデスマッチ

ステーキハウス・ミスターデンジャー
松永「光弘





ジャック・スワガー
Jack Swagger
1982/3/24

ジェイク・ヘイガーJacob "Jake" Hager),アメリカ合衆国のプロレスラー。オクラホマ州ペリー出身。アメリカのプロレス団体WWEのSmackDown!に所属している。

来歴

オクラホマ大学でレスリング部ヘビーウェイト部門とアメリカンフットボールのディフェンシブラインとして活躍していたヘイガーは大学の先輩でもあるWWEのジム・ロスと出会い、彼の薦めで卒業後のレスラーとしての契約を結ぶ。2006年には全米レスリングで1シーズンに30ものピンフォールを奪うなど活躍した。

2006年9月、WWEのトライアウトを受けDSW入団を経てOVWに移籍、OVWがWWEとの関係を解消すると新設されたFCWに移る。2008年3月にFCWフロリダヘビー級王座を獲得。

その後同年8月にはRAWのダーク・マッチに登場。9月にレスリングのキャリアにひっかけ全米代表のアメリカ人The All–American Americanジャック・スワガーとしてECWデビューする。

レスリングの経験に裏打ちされたレスリングセンスと、不敵な笑みの生意気なキャラクターでヒールとしての存在感を発揮し、トミー・ドリーマーと抗争。レスリング・マッチ、エクストリーム戦などで戦うも無敗を守りドリーマーを下し続けた。

2009年1月、マット・ハーディーに勝利しECW王座を獲得した。2月にフィンレーに初黒星を喫し、その翌週にもWWEに復帰したクリスチャンに敗れる。以降クリスチャンと抗争を繰り広げ4/26のバックラッシュでクリスチャンに敗れ王座を失う。5月のジャッジメント・デイで王座奪還を狙うも再びクリスチャンに敗れた。その後もECW王座をクリスチャンとトミー・ドリーマーとのトリプルスレットなどで争うが、息巻くスワガーは眼中にないクリスチャンとドリーマー、という構図であった。6月、トレードでRAWへ移籍した。移籍後はMVPと短い抗争を経て、US王座戦線で王座を巡りコフィ・キングストンやザ・ミズなどと争う。しかし王座獲得とはならず以降はジョバー的な役割での登場が多くなる。

しかし2010年は彼のキャリアにおいて転機を迎える年となった。レッスルマニア26のマネー戦でマネー・インザ・バンクを獲得。翌週のSmackDown!で、世界ヘビー級王者のクリス・ジェリコ相手に鞄の権利を行使し、初めて団体最高位の王座を獲得した。

しかし同年6月20日に行われたWWEフェイタル・4ウェイでの4ウェイ戦にて、レイ・ミステリオに敗れて王座から陥落。その後はミステリオと抗争し、主力ポジションとして活躍している。

同年10/1、地元オクラホマ州オクラホマシティで収録されたSmackDown!において鷲のマスコット「スワガーワシ(Swagger's Soaring Eagle)」をつれて入場し、キング・オブ・オクラホマを名乗る。

タイトル履歴

WWE

  • 世界ヘビー級王座 : 1回
  • ECW王座 : 1回
  • Mr.マネー・イン・ザ・バンク

FCW

  • FCWフロリダヘビー級王座 : 1回
  • FCW南部ヘビー級王座 : 1回

入場曲

  • Exhale
  • Get On Your Knees (Age Against The Machine)

  



エピコ
Epico
1982/3/24

オーランド・コロンOrlando Colón)は、プエルトリコ・サンフアン出身のプロレスラー。(WWEの傘下であるFCWに所属。

叔父は「プエルトリコの帝王」ことカルロス・コロン。親戚にはWWEで活躍したカリート、WWEに所属しているプリモ。

来歴

2005年、ハイブリッド・プロレスリングにてトレーニングを開始。同年、IWAミッドサウスにてプロレスラーとしてデビューを果たす。

2006年に叔父のカルロス・コロンが主宰するWWCに入団。リングネームをファイア・ブレイズFire Blaze)に変更し、覆面レスラーとなる。WWCプエルトリカン・ヘビー級王座を6度獲得するなど、団体のトップレスラーとして活躍した。

2009年、ZERO1にヒール・ユニットのワールド・プレミアム・フェデレーションWPF)の一員として参戦。大谷晋二郎と世界ヘビー級王座を賭けて対戦したが敗退した。

2010年にWWEと契約。FCWにて本名のオーランド・コロン名義でデビュー。以後、ティト・ニエベスTito Nieves)、ティト・コロンTito Colon)、ドス・エクイズDos Equis)など度々の改名を経て、現在はエピコEpico)のリングネームで活動。

WWEではフニコとタッグチームを結成し、ドス・エクイズと名乗っていた頃はロス・アマードス(Los Amardos)、エピコに改名後はロス・アヴィアドアースLos Aviadores )にチーム名を変更してFCWフロリダタッグチーム王座を二度獲得した。

王座陥落後はティト・コロンとしてシングルでの試合が多くなっている。

獲得タイトル

  • FCWフロリダタッグチーム王座 : 2回
    w / フニコ
  • WWCプエルトリカン・ヘビー級王座 : 6回





水波 綾
1988/3/24

水村 綾菜、日本の女子プロレスラー。身長159.5cm、体重67kg、血液型O型。愛知県名古屋市出身。センダイガールズプロレスリング所属。

経歴・戦歴

2004年にGAEA JAPANに入団。同年11/3の後楽園ホール大会でカルロス天野相手にデビュー。しかし当のGAEAはこの時点で解散が決定しており、翌2005/4/10の団体最終戦(後楽園ホール)での対ダイナマイト・関西戦を最後に一度引退。

その後2年間、地元名古屋のスポーツトレーナーの専門学校に通学したのち、2007年3月にセンダイガールズプロレスリングへ入団。同年7/22の仙台サンプラザ大会で金成知佐子相手に再デビュー戦を行った。

9/8、リングネームを現在の水波綾に改名する。

  • 2008年
    • 1月、ニューイヤー1dayトーナメント優勝。
    • 2月、カルロス天野の持つOZアカデミー認定無差別級王座に挑戦。敗れはしたが、GAEAでのデビュー戦の相手でもある天野から称賛された。
    • 4月~6月、仙女主催第一回じゃじゃ馬トーナメント準優勝。
    • 12月、デビル雅美引退記念1dayタッグトーナメントで優勝(パートナーはデビル雅美)
  • 2009年
    • 1月、ニューイヤー1dayトーナメント準優勝。
    • 2月~4月、仙女主催第二回じゃじゃ馬トーナメント準優勝。
    • 12/20、JWP認定ジュニア王座&POP選手権試合、王者・大畠美咲に挑戦し勝利。初タイトルを獲得。
  • 2010年
    • 11/13、勇気彩と組み、田村欣子&栗原あゆみの「タムクリ」が持つNEO認定タッグ王座に挑戦し勝利。第13代王座を獲得。

タイトル歴

  • JWP認定ジュニア王座&POP王座(第18代&第8代)
  • NEO認定タッグ王座(第13代、パートナーは勇気彩)

入場テーマ曲

  • 『Crymson sky』(Hawaiian6)

水波綾ブログ
水波綾





井岡 一翔 
1989/3/24

日本のプロボクサー。大阪府堺市出身。井岡ボクシングジム所属。現WBC世界ミニマム級王者。元日本ライトフライ級王者。東京農業大学中退。

ジム会長で世界王座2階級制覇を達成した井岡弘樹は叔父。同ジムのプロモーター兼トレーナーで元プロボクサーの井岡一法は実父。 マネジメントは エーケーグローバルエージェント。





ビル・ミラー 
Bill Miller
1927/6/5-1997/3/24

ウィリアム・M・ミラーWilliam M. Miller)アメリカ合衆国のプロレスラー。オハイオ州フリーモント出身のドイツ系アメリカ人。

獣医師の免許を有していたことから「ドクター」の異名を持ち、覆面レスラーのドクターXミスターXミスターMに変身しての活動でも知られる。第5代AWA世界ヘビー級王者(ミスターMとして載冠)。実弟のエド・ミラーとダン・ミラーも元プロレスラーである。

来歴

オハイオ州立大学時代はスポーツ万能ぶりを発揮し、カレッジフットボールではローズボウルで活躍。レスリングではビッグ・テン・カンファレンスで1950年と1951年の2度に渡ってヘビー級チャンピオンとなり、1951年にはNCAAのオールアメリカンに選出された。学業においては獣医学を学び、獣医師の資格を取得したが、プロモーターのアル・ハフトにスカウトされ、大学卒業後の1951年にプロレスラーとしてデビュー。

地元オハイオにてハフトが主宰していたMWA(Midwest Wrestling Association)を主戦場に、1953年から1955年にかけて、ミッドウエスト・ヘビー級王座および改称版のイースタン・ステーツ・ヘビー級王座をバディ・ロジャースと争う。1956年2月にはディック・ハットンを破り、オハイオ・ヘビー級王座にも戴冠した。

1956年下期からは弟のエド・ミラーとタッグチームを結成し、アメリカ西海岸からカナダのトロントまで、NWAの各テリトリーを転戦。同年8月にはサンフランシスコにてボボ・ブラジル&エンリキ・トーレスから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取している。

エドとのタッグ解消後は覆面レスラーのドクターXDr. X)に変身し、ネブラスカ州オマハにて1959/10/3にウイルバー・スナイダー、1961/2/4にドン・レオ・ジョナサンを破り、俗に「オマハ版」といわれるAWA世界ヘビー級王座を獲得[7]。その後、ミネソタ州のAWAでミスターMMr. M)に再変身し、1962/1/9、バーン・ガニアを下してミネアポリス版のAWA世界ヘビー級王座にも戴冠している(両AWA王座は1963年にガニアが統一)。

この間の1961年5月、ミスターXMr. X)のリングネームで日本プロレスに初来日。『第3回ワールド大リーグ戦』に出場し、力道山と決勝を争った。7月21日には田園コロシアムにて力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦している。同リーグ戦にはカール・ゴッチもカール・クラウザー名義で参戦していたが、ミラーとゴッチは1962年9月、オハイオ州コロンバスの会場控室においてバディ・ロジャースとトラブルを起こしている。

1965年からは素顔のドクター・ビル・ミラーDr. Bill Miller)としてニューヨークのWWWFに登場。7月12日・8/2・8/23のマディソン・スクエア・ガーデン定期戦において、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に3カ月連続で挑戦している。WWWFでは弟のダン・ミラーとのタッグでも活動し、1965/8/5にはゴリラ・モンスーン&カウボーイ・ビル・ワットからUSタッグ王座を奪取、翌1966/2/21にジョニー・バレンタイン&トニー・パリシーに敗れるまで保持した。

1968年1月、ミスターXの覆面を着けながらもビル・ミラー名義で日本プロレスの『新春チャンピオン・シリーズ』に再来日。1/8の広島大会ではクラッシャー・リソワスキーと組んでBI砲(ジャイアント馬場&アントニオ猪木)のインターナショナル・タッグ王座に挑戦する予定だったが、猪木が雪害のため広島入りできず欠場、タイトルは空位となり、馬場&吉村道明と王座争奪戦を行うも引き分ける。2/3の東京・大田区体育館大会にて改めてBI砲との争奪戦に臨むが敗退した。

1968年はオーストラリア(ジム・バーネット主宰のWCW)にも遠征し、6月にキラー・コワルスキーとのコンビでIWA世界タッグ王座を奪取している。1970年6月26日にはインディアナポリスのWWAにて、ディック・ザ・ブルーザーと組んでWWA世界タッグ王座も獲得した。同年11/20、ザ・クリムゾン・ナイトThe Crimson Knight)なるマスクマンとして、ミズーリ州セントルイスにてドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦するも敗退、覆面を剥がされている。

1971年2月、素顔のビッグ・ビル・ミラーBig Bill Miller)として国際プロレスの『AWAビッグ・ファイト・シリーズ』に来日。3/4の北九州市・小倉大会でサンダー杉山からIWA世界ヘビー級王座を奪取し、ベルトを海外に流出させるも、3カ月後の6/19、ミネソタ州ダルースにてストロング小林に敗れて王座転落。短命王者に終わったものの、小林が国プロの新エースとなるにあたっての橋渡し役を担った。国プロには1972年6月の『ビッグ・サマー・シリーズ』にも再来日し、IWA王者の小林に挑戦したがタイトル奪還は果たせなかった。同シリーズでは、バロン・シクルナをパートナーに小林&グレート草津のIWA世界タッグ王座にも挑戦している。

1973年6月にはキラー・カール・コックスやブル・ラモスらと共に全日本プロレスの『サマー・アクション・シリーズ』に参戦、これが最後の来日となった。1976年の現役引退後は地元のオハイオにて食肉検査官の職に就き、後に獣医を開業した。

1997/3/24、ジムでのトレーニングを終えた後、心臓発作を起こして死去。69歳没。同年、オハイオ州立大学では生前の彼の功績を称え、アスレチックの殿堂に迎えている。

獲得タイトル

MWA
  • ミッドウエスト・ヘビー級王座 / イースタン・ステーツ・ヘビー級王座:3回
  • オハイオ・ヘビー級王座:2回
  • オハイオ・タッグ王座:1回(w / スタン・ホレック)
NWA
  • NWA世界タッグ王座(デトロイト版):2回(w / ボボ・ブラジル、ダン・ミラー)
  • NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):1回(w / エド・ミラー)
  • NWAパシフィック・コースト・タッグ王座:1回(w / エド・ミラー)
  • NWAカナディアン・オープン・タッグ王座:1回(w / エド・ミラー)
  • NWA北米タッグ王座(セントラル・ステーツ版):1回(w / ボブ・ガイゲル)
AWA
  • AWA世界ヘビー級王座:1回
  • AWA世界ヘビー級王座(オマハ版):2回
  • AWA USヘビー級王座:1回
WWWF
  • WWWF USタッグ王座:1回(w / ダン・ミラー)
その他
  • IWA世界ヘビー級王座(国際プロレス版):1回
  • IWA世界タッグ王座(オーストラリア版):1回(w / キラー・コワルスキー)
  • WWA世界タッグ王座(インディアナポリス版):1回(w / ディック・ザ・ブルーザー)







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