小川 直也
1968/3/31
日本のプロレスラー、総合格闘家。元柔道選手(五段)でバルセロナオリンピック銀メダリスト。東京都杉並区出身。全日本柔道選手権優勝7回(5連覇、2連覇)は山下泰裕に次ぐ歴代2位。明治大学経営学部卒業(2011年4月より筑波大学大学院人間総合科学研究科博士前期課程コーチング学専攻に進学予定)。元日本中央競馬会職員。血液型B型。
柔道
- 1983年、私立八王子高等学校に入学。柔道を始める。
- 1986年、明治大学経営学部に入学。全日本学生選手権で山下泰裕以来史上2人目の1年生での優勝を果たした。
- 1987年、正木嘉美の代わりに急遽出場した世界柔道選手権(無差別級)で優勝。柔道を始めてから4年・19歳での優勝は史上最年少(当時)。
- 1989年、世界柔道選手権の95kg超級、無差別級をオール一本勝ちで2階級制覇。全日本柔道選手権で初優勝。
- 1990年、大学卒業。全日本柔道選手権を連覇。
- 1991年、日本中央競馬会(JRA)職員として就職。世界柔道選手権(無差別級)で優勝。全日本柔道選手権で優勝。
- 1992年、バルセロナオリンピックで95kg超級・決勝でグルジアのダヴィド・ハハレイシヴィリに敗れ、銀メダル。全日本柔道選手権で優勝。
- 1993年、全日本柔道選手権で優勝。大会5連覇。
- 1995年、全日本柔道選手権で優勝(6度目)。
- 1996年、アトランタオリンピックで95kg超級・準決勝でフランスのダビド・ドゥイエに敗れ、3位決定戦でドイツのモラーに敗れ、5位に終わる。全日本柔道選手権で優勝(7度目、2度の2連覇以上の優勝は唯一)。
- 1997年、JRA退職、フリー格闘家に転向。
- 2006年、神奈川県茅ヶ崎市に小川道場を設立。
プロレス
UFO入団
柔道で世界の頂点に立った経歴から、その格闘家としてのポテンシャルの高さが期待され、アントニオ猪木・佐山聡の設立したUFOに入団。1997/4/12にプロ格闘家として必殺技STO(スペース・トルネード・オガワ)をひっさげて新日本プロレスマットに立ち、デビュー戦はノンタイトルながら当時IWGPのチャンピオンであった橋本真也にSTOからの裸絞めで勝利したが、1か月後の5/3新日初の大阪ドームでの同王座を賭けた再戦では、橋本から頭部へ蹴りを受け失神KO負けを喫した。この試合が唯一橋本に敗れた試合となった。以後、しばらくはスランプが続き、1997/8/10の新日ナゴヤドーム大会でグレート・ムタに敗れ、1998/4/4の猪木の引退試合の対戦相手を決めるトーナメントではドン・フライに敗れ、猪木との試合は叶わなかった。
このスランプを克服するため、小川は猪木式の断食トレーニングなどで肉体改造を行い、柔道をベースとしたスタイルから後に「暴走王」とあだ名される総合格闘技志向のファイトスタイルへと変化させる。
1999年1月4日
1999/1/4、東京ドーム大会(当初、大仁田厚が初の新日本参戦ということで注目を集めていた大会だった)における3度目の橋本戦において、自らをスランプに追い込んだ橋本に対して、ひそかに完全なセメントを小川は仕掛けた。小川は「橋本!死ぬ気があるならあがって来いっ!」と前代未聞の「相手の入場中にマイク挑発」を行い、試合前から不穏な雰囲気が漂った。
試合が始まって間もなく、橋本は小川に不可解なレッグダイブを繰り返した。それは小川をロープ、コーナーに単に押し付け続けるもので、ブレイクを命じられても橋本は意図的に膠着状態を続けた。間に入ったレフェリーを橋本が蹴りつけノーレフェリー状態になると、観客もその試合の異常を感じ始めた。そして小川が強引に橋本を倒すとマウントポジションを取り頭部に明らかに「プロレス的」ではないパンチで殴り、後頭部を踏みつけ、逃れようと転がる橋本の無防備な顔面を蹴りつけると場内は大ブーイングに包まれた。最初から橋本のセコンドについていた中西学らだけでなく、当時橋本と敵対していた小原道由までもが小川に詰め寄り、大混乱の中、試合はノーコンテスト(6分58秒)となった。
「プロレス」を行うつもりであったにもかかわらず、不意をつかれた橋本はまともな攻撃もほとんど行えなかった。1人リングを占拠した小川は両腕を水平に広げ走り回るパフォーマンスを見せ(当初飛行機ポーズと言われたが実際はUFOをイメージしたものであった)、「もう終わりかよ!
おいおいおいおい、冗談じゃねーぞ、オラァ!」「新日本プロレスのファンの皆様、目を覚ましてください!」とマイクパフォーマンスを行った。ついにはセコンド同士の言い争いに端を発し乱闘が発生、終には当時引退していた長州力がリングサイドのカメラマンを蹴り倒して小川に詰め寄るなど、リング内外に前代未聞の大混乱が発生した。こうして小川は「暴走王」として一気にステータスを上げる。
この時の乱闘騒ぎはいわゆるアングルではなく、プロレス史上最大級のガチンコの乱闘であったとされる(当時橋本に対して反目、あるいは不仲とされていた人物でさえ小川に真意を求め詰め寄っている)。またこの時の乱闘は両陣営が顔面を拳で殴打し合い、倒れた人間を集団で踏みつけるなど、通常のプロレスにおけるアングルに従った乱闘ではご法度の危険な行為の応酬となった。事実、村上和成はリング内の混乱の中で顔面を踏みつけられ、一時昏睡状態に陥るほどの重傷を負い入院している。全日本プロレスの三沢光晴は全日本プロレス中継で「あれじゃいくら何でもプロレスラーが弱くみられる。もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメント、当時の全日本プロレス中継で新日本プロレスについて語ることは異例中の異例であった。
橋本との決着〜OH砲
「OH砲 (プロレス)」も参照
1999/10/11、NWA世界ヘビー級王座を賭けて橋本と対戦し勝利。2000/4/7、橋本との5度目の対戦では橋本のDDTで肩を脱臼するもSTO6連発で橋本をKOし、引退に追い込んだ。この試合はテレビ朝日でゴールデンタイムに生中継され、その際のコピー「橋本真也34歳小川直也に負けたら即引退スペシャル」という宣伝文句は大きな波紋を呼び、平均視聴率は15.7%、瞬間最高視聴率は24%を超える反響を呼んだ。橋本とのシングル戦は事実上4勝1敗で勝ち越した。橋本は引退したしばらく後、番組の企画で復帰を願う純真な少年ファン(兄弟)の声に応え、引退宣言を撤回し再デビューしている。なお、試合後小川も橋本に対して「引退するかしないかは彼自身が決めること、俺が決めることじゃない。あえて言わせてもらうとすれば、引退なんかするんじゃない」とエールを送っていた。
その後はPRIDEなどの総合格闘技戦にも参戦し、ゲーリー・グッドリッジ、佐竹雅昭に勝利した。同年5月、長州力とタッグで対戦し、結果は敗れたものの、グラウンドでは長州を完全にコントロールした。同年12月31日、INOKI
BOM-BA-YEでは安田忠夫とプロレスルールで対戦し、1分38秒スリーパーホールドでレフェリーストップ勝ち。安田戦直後のインタビューで小川は「もう仲間同士でやりたくないよ」と発言している。
2001年頃からは猪木との方向性の違い、元々総合ではなくプロレスラー志向が強かったこと(長州との確執は深刻だった)もあり、主戦場をZERO-ONEのリングに移し、かつての宿敵・橋本真也と「OH砲」を結成。「刈龍怒(かりゅうど)」(小川のSTOと橋本の水面蹴りを合わせた合体技)「オレごと刈れ」(ジャーマン・スープレックスをかける橋本に相手ごとSTOをかける技)といった合体技を開発した。
この年の4月には当時絶対に有り得ないと思われていた三沢光晴とタッグマッチで対戦(小川、村上vs三沢、力皇猛)。三沢が小川のタックルを切れば、小川は大腰で三沢を投げてマウントを奪うなど、双方がそれぞれの持ち味を生かした見せ場を作った。三沢は小川のマウントを自力で脱出できなかったがタッグマッチということを活かし力皇にカットさせるなど、プロレスラーとしての一日の長を見せた。しかし最後は村上が三沢のバックドロップ気味のジャーマン3連発からあっけなくピンフォールされてしまい一部の観客からブーイングを浴びてしまった。
新日本プロレス時代には大大会のみのスポット参戦が中心だったことから、同時期にデビューしたレスラーに比べてプロレスのキャリア不足は否めなかったが、この頃からバックドロップやランニング・ネックブリーカー・ドロップ、足4の字固めなどの古典的なプロレス技を身につけ、マイクパフォーマンスが饒舌になり、プロレスラーとして成長した。
ハッスル参戦
2004年1月から、新しいプロレス大会「ハッスル」に登場。当時のZERO-ONEの掛け声であった「3、2、1、ゼロ、ワーン!」を流用した「3、2、1、ハッスル!
ハッスル!」という掛け声とポーズが有名となり、親友である清原和博や当時自民党幹事長であった安倍晋三もこのポーズを行っている。ハッスル開催に先立つ2003年暮れ、翌1月から本格的にドリームステージエンターテインメントが立ち上げるエンターテインメントプロレス(後にファイティング・オペラ(=ガチンコでは無いショー的な)と称される)ハッスルの記者会見が行われ、ある記者の「ハッスル1開催(2004年1月4日)の直前にPRIDE(これもDSE主催)があるが、それが終了した直後にハッスルが開催されることに興業的に何か影響は無いか?」という質問に対して、DSE社長(当時)の榊原信行が「PRIDEは既に何度か開催しておりますし、ハッスルに関しては(DSEの主催する)プロレス(はガチンコでは無いショー)なんで…」とプロレスを格下扱いした回答をしたために、壇上に同席していた小川が食ってかかり「『プロレス』?プロレスだから何だ?手を抜いてやってもいいってことか?ああ?ふざけんじゃねえ!」とテーブルをひっくり返し、同じく同席していた橋本真也の制止が無ければ殴りかからんとする暴挙に出たため、記者会見が中止になるという騒ぎで幕を開けた。
ハッスルの普及を目的に、同年4月からのPRIDEグランプリに参戦。ステファン・レコと対戦し左フックでダウンを奪い肩固めによる一本勝ち。ジャイアント・シルバにはパウンドでTKO勝利する。準決勝ではエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、1R54秒腕ひしぎ十字固めで一本負け。勝っても負けても試合後はハッスルの宣伝に勤め、観客と共にハッスルポーズの大合唱をした。ヒョードル戦は敗れたが、試合後に会場外で行われたハッスルPRイベントに集まったファンが、熱烈な小川コールを送った。
PRIDEでの敗退後、高田総統に「54秒で負けたという理由で出場停止にしたらどうだ」という言い分により、小川は54日間のハッスルへの出場停止となった。しかし、ハッスル5では、小川直也ではなく、「キャプテン・オー(のちにジュードー・オー)」としてメインに出場した。
同年9月にシングルCD「ハッスル音頭」を発売し、テレビの歌番組にも出演する。なお、2005年6月には、同じシングルCD「勝手に侵略者」(テレビ東京系アニメ「ケロロ軍曹」の4代目エンディングテーマ曲)を岩佐真悠子とのデュエットで発売している。同年11月にはフォトエッセイ(写真集)「裸の選択」を発売。リング上だけでは分かり得ないプロレスラーの表情を伝えている。
2005年12月31日、「PRIDE 男祭り 2005」のメインイベントで吉田秀彦戦が行われた。この年の7月に突然の病気で亡くなった戦友・橋本真也の「爆勝宣言」の前奏が流れ、登場。その後は小川のオリジナルテーマが流れるが、エレベーターを降り花道に足を踏み入れた瞬間、「爆勝宣言」に曲が変わった。前奏が鳴ると共に観客の驚きの声、そして「爆勝宣言」が場内に鳴り響くと観客達は「爆勝宣言」に合わせてハシモト(またはオガワ)コールを叫んだ。曲が変わった直後、小川は一瞬こみ上げるものがあり表情が崩れている。
試合は吉田に腕ひしぎ十字固めでレフェリーストップ負けを喫してしまったが、試合後のリング上、マイクで、実は試合序盤の吉田のヒールホールドで「足(の骨が)、折れちまったよ」と告白した(試合中骨が折れる音をマイクが拾っている)。それを堪えながら、誰にも気付かれないように試合をしていたことを知った観客や視聴者は驚きの声を上げた。
最後には吉田自身の信念により拒否こそされたものの、まともに立てない状態ながらハッスルポーズを決め、「PRIDE 男祭り 2005」を締めた。このことに関しては吉田も後のインタビューで、自分ならばあのような状態では戦えないと語っており小川の力と根性に対しては一定の理解を示した。ちなみに吉田のインタビュー中に小川は退場する途中でもハッスルをしている。また小川は吉田に対しては後のインタビューで、あいつは勝ち負けが全てだが、頑張っているあいつの人生についても認めているよと理解していた。
なお、小川が橋本と「ハッスル」を立ち上げる際に、2人で2003年12月31日PRIDE 男祭り 2003でPRIDEに乗りこんでいる。
2007年6月、ハッスル軍に造反し、高田総統にハッスルを買収をさせ、裏切って、高田モンスター軍に移籍、高田総統から「ハッスルから休養させる」と命じられ、本人はそれを受理、一時的に離脱した。
IGF
2007/6/29、アントニオ猪木のIGF旗揚げ戦「闘今 BOM-BA-YE」でプロレス復帰。マーク・コールマンに6分44秒スリーパーホールドで勝利。
2007/12/20、IGF「GENOME2」のメインイベントで安田忠夫と対戦。レフェリーにまで暴行を加え、師匠のアントニオ猪木に造反するものの、裸絞めで失神させられた。
2008/2/16、IGF「GENOME3」でジョシュ・バーネットと対戦、4分48秒腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫するも、ロープに手がかかっていたと小川が抗議。すぐに再戦が行われ、5分13秒STOボンバーからの片エビ固めで勝利を収めたが、試合後は乱闘となり、また来場した田村潔司とも小競り合いとなり波紋を残した。同年3月5日、戦極開幕戦に来場しジョシュの試合を観戦したが大きなアクションは起さなかった。
人物
- 高校3年の金鷲旗で何とか競り勝ってベスト16まで到着した時から、柔道に対する自信が付きはじめ、それまでとは何かが変わったと感じるようになったという。
- バルセロナオリンピックでは銀メダルに終わったことで、表彰台では終始俯き加減な態度だったために、マスコミや世間から激しいバッシングを受けたことがある。
- 2004年にPRIDEに参戦して連勝した後、世間の注目が上がりCMの依頼も殺到した。同年、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンのメインイベント・ジャパンカップ当日には東京競馬場に退職後初めてJRA主催のイベントに訪れてスピーチを行った。
- 2005/2/11、ハッスルでインリン様に敗戦した時は、「プロレスとはいえ元柔道世界チャンピオンの面汚しだ」等の批判も聞かれた。
- 2007年現在、高額納税者番付のスポーツ選手部門に公示ランクインした最後のプロレスラーである。納税額からその年の小川の年収が億単位にも上っていたことが推定されたため、小川の(特にハッスルにおける)ギャラが当時のファンやプロレスマスコミの間で話題となった。
- 大のディズニー好き・ディズニー通として知られており、東京ディズニーランドや東京ディズニーシーの特集番組などにしばしば出演している。ディズニー・チャンネルの『ディズニーパラダイス』では番組の最終回に出演したが、正規のゲストとしてではなく、小川がプライベートでロケ地の東京ディズニーランドにいたため、急遽のゲスト参加として登場した。
- 巨人ファンである(特に清原和博のファン)。
- また出身地ではないが、現在居住中の茅ヶ崎市を愛しており、市内に小川道場を開設したのを始め、市主催の成人式やサザンオールスターズの茅ヶ崎凱旋ライブ(茅ヶ崎ライブ
〜あなただけの茅ヶ崎〜)にゲストとして参加している。
- 後に2008年北京オリンピックの柔道男子100キロ超級で金メダルを取ることになる石井慧が高校生時代、稽古をつけてもらいに小川の元を訪ねたことがある。小川は当初、石井に口もきかなかったが、そのうちに「ハートがいい」と認めた。以後石井とは親交が続いており、北京オリンピック直後には、石井に「『破壊なくして創造はなし』という橋本の精神を継いで欲しい」として「真・破壊王」の称号を与えたほど。しかし、石井が総合格闘技に転向した際、「お前が石井をそそのかしたんだろうと周囲の人間に言われたが、俺が一番(石井の総合転向に)反対した」とコメントしている。
- 2008/9/28には石井慧が北京オリンピックで獲得した金メダルを小川道場に寄贈した。寄贈後に石井が大外刈りを披露すると、小川は石井の大外刈りを「STI(スペース・トルネード・イシイ)」と命名した。
- 柔道家時代は寡黙で口数の少ない印象で知られた。プロレスラーとなってからは積極的なパフォーマンスでイメージ・チェンジに成功したが、普段は大変温厚で「クソ真面目」と言われるほどの人物らしくタレントに「メチャクチャ優しい人」と言われた。小川と同様に柔道家から格闘家に転向した吉田秀彦も、「派手なパフォーマンスとかギャグとか、あんなに話せる人だとは思わなかった」と柔道家時代とのギャップに驚いた旨を語っている。
- 2010年7月には筑波大学大学院人間総合科学研究科博士前期課程コーチング学専攻に合格し、2011年4月より同大学にて岡田弘隆の指導を受け、柔道指導者としての理論を学ぶ予定。ジャンボ鶴田と全く同じ学科・専攻の後輩となる。なおプロレスラーとしての活動も継続する。
- 橋本真也が亡くなった原因はファースト・オン・ステージにあるという疑念を持っており、ZERO1とは二度と絡みたくないことをGENOME13に不参戦を表明した際ブログで明かしている。一方、FOS側は中村祥之がブログ上でGENOME13に参戦オファーはない表明しており、その上で「プロレスのことは忘れてもらって大学に通っててください」と小川に対して皮肉を込めたコメントを返している。
入場曲
- 「STO」
- 「ハッスルトレイン」(未発売)
- 「Fighting Artists 〜Next One〜」(未発売)
- 「ギャラクシー・エクスプレス」(国吉良一、オリジナルは子門真人のアルバムに収録)(NWA世界ヘビー級王者のテーマ。NWA世界ヘビー級王者&セレブ小川時に使用)
- 「風の音(効果音)」(デビュー当時。入場曲が未完成だったため、風の音を入場時に流した)
-
- 格闘技番組『リングの魂』の中で「ノリが悪い入場曲」の一例として挙げられたことがある。同番組の司会者を務めていた南原清隆も「風の音じゃちょっとノレませんよね」とコメントした。
- 「爆勝宣言」(橋本真也の代名詞とも言える曲で、橋本の死後、ここ一番の大試合にのみ使用。これまでにこの曲が使用されたのは吉田秀彦戦、IGF旗揚げ大会でのマーク・コールマン戦など)
タイトル歴
柔道時代の戴冠歴は柔道の項を参照。プロ格闘家、プロレスラーでのタイトルを並べる。
- NWA
- NWA世界ヘビー級王座: 2回
- NWAインターコンチネンタルタッグ
- 2回(&橋本真也)
小川直也BLOG
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