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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
5/3


 
 


 
 

池田 恒雄
1911/5/3 - 2002/2/
日本のスポーツを中心としたジャーナリスト、出版社経営者。ベースボール・マガジン社の創立者、社長→会長である。

 
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スチュ・ハート
Stewart Edward "Stu" Hart
1915/5/3 - 2003/10/16

カナダのプロレスラー、トレーナー、プロレスプロモーター。ハート道場から数多くの門下生をプロレス界に輩出し、また子供達が皆プロレスに関わっていることで知られ、ハート・ファミリーをプロレスの名門に育て上げた人物である。

より原音に近い表記は「ステュー・ハート」だが、本項では日本のプロレス史における慣例的な表記(日本語圏で一般によく知られている名前)に則る。

来歴

サスカチュワン州サスカトゥーン出身。エドモントン・エスキモーズにも所属したアメリカンフットボール選手でもあったが、レスリングの素質も高く、1939年にはカナダ・ナショナル選手権で優勝しオリンピック代表にも選ばれたことがある。しかし第二次世界大戦により1940年、1944年のオリンピックは中止、海軍に入隊し選手生活を続けていたが出場することは叶わなかった。

第二次世界大戦後、1946年にニューヨークでプロレスラーとして活動を始める。現役時代のスタイルはレスリングの経験に基づく関節技の達人で、俗に「シューター」と呼ばれるような実戦派レスラーだったと言われる。アメリカ各地を巡業後、1951年に帰国しアルバータ州カルガリーにプロレス団体クロンダイク・レスリング(後のスタンピード・レスリング)を立ち上げ、プロモーターとしての活動を開始した。またハート家の地下に造られた道場「ダンジョン」(地下牢の意)でホームステイさせている数々のレスラー志望者をトレーニングし、この中には世界規模のスーパースターになった者も少なくない。この団体はスチュの門下生の他に、日本やイギリスなど各地から選手を招聘して人気を高めカナダで一大勢力を誇るようになる。

1960年のレスラー引退後も、プロモーター業は1984年にスタンピード・レスリングをWWF(現WWE)に売却するまで続けた。「ダンジョン」での新人訓練は1992年、77歳で引退。2001年にはカナダ勲章を授与されている。

2003年10月16日、脳梗塞のため死去。88歳没。2010年、プロレス業界における功績を称え、WWE殿堂に迎えられた。
ハート・ファミリーThe Hart family
  • スミス・ハート : 元プロレスラー
  • ブルース・ハート : 元プロレスラー
  • キース・ハート : 元プロレスラー
  • ウェイン・ハート : 元プロレスラー
  • ディーン・ハート : 元プロレスラー
  • エリー・ハート : ジム・ナイドハートと結婚
    • ナッティ・ナイドハート : エリーの娘、プロレスラー
  • ジョージア・ハート : B.J.アニスと結婚
    • テディ・ハート : ジョージアの息子、プロレスラー
  • ブレット・ハート : 元プロレスラー
  • アリソン・ハート : ベン・バサラブと結婚
  • ロス・ハート : 元プロレスラー
  • ダイアナ・ハート : デイビーボーイ・スミスと結婚
    • ハリー・スミス : ダイアナの息子、プロレスラー
  • オーエン・ハート : 元プロレスラー

ダンジョン出身のレスラー

  • ジン・キニスキー
  • フリッツ・フォン・エリック
  • ウイルバー・スナイダー
  • ジョー・ブランチャード
  • モンゴリアン・ストンパー
  • バディ・ロバーツ
  • ニコライ・ボルコフ
  • ジョー・ルダック
  • スーパースター・ビリー・グラハム
  • ロディ・パイパー
  • クリス・ベノワ
  • ブライアン・ピルマン
  • ジャスティン・クレディブル
  • クリス・ジェリコ
  • ランス・ストーム
  • エッジ

日本から遠征したレスラー

  • ミスター・ヒト(後にコーチ役にもなる)
  • ミスター・サクラダ
  • アニマル浜口
  • 阿修羅・原
  • ザ・コブラ
  • 馳浩
  • 佐々木健介
  • 橋本真也
  • 平田淳嗣
  • 獣神サンダー・ライガー

その他

  • ダイナマイト・キッド(無名時代にイギリス遠征中だったブルース・ハートに見出される)
  • ジェシー・ベンチュラ(ブレットによれば「ダンジョン」の名付け親とされる)
  • アレン・コージ(ダンジョンの師範代を務めていた)
  • ジェリー・モロー(国際プロレス崩壊後、スタンピード・レスリングにて若手選手の育成に助力)





バンピーロ
Vampiro
1967/5/3

イアン・ホジュキンソンIan Hodgkinson)は、カナダのプロレスラー。オンタリオ州トロント出身。メキシコやアメリカのプロレス団体で活躍した。

メキシコでは、最も活躍した外国人選手の一人として知られている。甘いルックスでメキシコ人女性を虜にしていた。ニックネームは「カナダの吸血鬼」。

来歴

元々はロックミュージシャンであったが、プロレスの夢を追いプエルトリコでトレーニングを始める。トレーナーはアブドーラ・ザ・ブッチャー。

1991年2月、メキシコを観光旅行で訪れた際に、CMLL(当時のEMLL)にスカウトされる。自身が吸血鬼が好きだったため、そのまま吸血鬼キャラとしてバンピーロ・カナディアンセの名でデビュー。メキシコには珍しい190cmを越える大型選手で、その甘いルックスから主に女性の人気を得る。元々はルードとしてデビューしたが、あまりの人気ですぐにリンピオに転向した。1992年のメキシコプロレスでMVPとなった。その後メキシコの数々の団体を転々とし、ライバル団体であるAAAにも移籍している。

1998年8月、WCWへ移籍。ここでもルックスを重視されすぐにプッシュされるが、実力が伴っておらず人気が出なかった。1999年には、ミュージシャンのICPと組んで「チーム・デッドプール」を結成。転機となったのは2000年、スティングとの抗争が人気を博し、一躍トップレスラーの仲間入りを果たした。同年夏頃には、ICP、グレート・ムタと「ダーク・カーニバル」を結成し、WCWタッグ王座も獲得している。WCW崩壊後は、ミュージシャン、俳優業に専念するためプロレスの世界から離れた。

2001年、全日本プロレスに初参戦する。ジョージ・ハインズと組み世界最強タッグ決定リーグ戦に出場。その後は、TNAやインディー団体などで活動し、2006年、2007年に再度全日本プロレスに参戦している。2007/4/30には、WCW時代の相棒グレート・ムタと組み世界タッグ王座に挑戦したが敗退した。

獲得タイトル

WCW
  • WCW世界タッグ王座(w / グレート・ムタ)
NWA
  • NWA世界ライトヘビー級王座
UWA
  • UWA世界ヘビー級王座
AAA
  • AAA Rey de Reyes: 2006優勝
IWA
  • IWAハードコア王座
  • IWAインターコンチネンタルヘビー級王座
FILL
  • FILLヘビー級王座
JCW
  • JCWヘビー級王座
  • WSX王座
  • NWE世界ヘビー級王座
  • WWCユニバーサルヘビー級王座





サム・グレコ
Sam Greco
1967/5/3

オーストラリア出身の空手家、キックボクサー、総合格闘家。メルボルン出身。ニックネームは「拳獣」。また全盛期ともいえた1999年のGPでは 「人間ICBM・筋肉弾道弾」とも呼ばれた。

来歴

極真会館出身、正道会館移籍後の1995年にK-1デビューを果たした。強烈な打撃が持ち味で「拳獣」の異名を取った。その怒涛のラッシュでK-1歴代王者のブランコ・シカティックやアーネスト・ホーストにもKO勝ちを収めている。特に、1995年のピーター・アーツとの対戦では持ち前の空手家魂を見せた。また、バックボーンが空手なので、パンチだけでなくキックも強烈だった。アーネスト・ホースト、ピーター・アーツ、アンディ・フグ、マイク・ベルナルドら、いわゆるK-1四天王に匹敵する実力の持ち主とされていたが、怪我に悩まされたこともあり目立った結果を残すことができず、K-1 GRAND PRIX '97ではフランシスコ・フィリォの一撃伝説の餌食となり、K-1 GRAND PRIX '99では優勝候補に挙げられたが、準決勝でミルコ・クロコップに敗れベスト4に終わった。

2000/4/23に行われたK-1 THE MILLENNIUMでアーネスト・ホーストと対戦。TKO負けを喫し、膝の故障もあって、これ以来暫くの間K-1のリングから姿を消すこととなる。この間、WCWパワープラントに入門しプロレスラー転向を目指し、ここでボブ・サップと知り合い、彼にK-1を紹介している。この時の経験を活かして後にWRESTLE-1でプロレスの試合も行っている。この時のリングネームは「サム・グレカラス」で、ロメロ・スペシャルなどを見せた。しかし、INOKI BOM-BA-YE 2001では、総合格闘技ルールで佐竹雅昭と対戦。初めての総合ながらも善戦し、時間切れ引き分け。

K-1 WORLD GP 2003 開幕戦では、持病の発症により止むを得ず欠場したアーネスト・ホーストに代わって2日前オファーで急遽出場するも、やはり膝の骨折が完治しておらずTKO負け。

2004年には総合格闘家として再デビューを果たした。総合において非凡な才能を見せ、2004/5/22に行われたK-1 ROMANEXでは、総合無敗の強豪LYOTOと互角以上に渡り合ったが、惜しくも判定負け。2009年にLYOTOは「今まで戦ってきた中で一番強かったのはサム・グレコ」と述懐した。

現在ボブ・サップのセコンドトレーナーも兼任している。

主な獲得タイトル

  • コモンウェルス空手道選手権 3連勝
  • カラテワールドカップ '94 優勝
  • オーストラリア版K-1 優勝
  • WAKO 世界スーパーヘビー級王者
  • WAKO 世界ムエタイスーパーヘビー級王者(1999年)

  



キンジ渋谷
KINJI SHIBYA

1921/5/16 - 2010/5/3

本名、渋谷金持。「神風親分」と呼ばれた日系レスラーの大御所で、ハワイでプロ・フトッボラーをしていた所を沖識名にスカウトされてプロレス入り。主に西海岸で活躍し、サンフランシスコでレイ・スチーブンスからUSヘビーを獲得したのをはじめ、1972年にはマサ斎藤とのタッグではロスでアメリカス・タッグを獲得している。選手生命の長いレスラーで、1976年にはバンクーバー地区のカナダ・ヘビー級チャンピオンにもなっている。日本に来日した際には日本側に付いてファイトした。

Kinji Shibuya Wrestling




レイ・スティーブンス
Ray "The Crippler" Stevens
1935/9/5 - 1996/5/3

アメリカ合衆国のプロレスラー。ウェストバージニア州ポイント・プレザント出身。本名はカール・レイモンド・スティーブンスCarl Raymond Stevens)。

現役選手時代は"Blond Bomber"の異名を持つ金髪のヒールとして活躍した。小柄ながら、気風のいいファイトスタイルとケレン味のある試合巧者ぶりで一時代を築き、スーパースター・ビリー・グラハムやリック・フレアーをはじめ彼から影響を受けた選手は数多い。

※日本では「レイ・スチーブンス」と表記されていたが、本項では原音に近い表記に準ずる。

来歴

当時売り出し中だったバディ・ロジャースに憧れて1950年に15歳でプロレスラーとしてデビュー。ドン・ファーゴやロイ・シャイアーのパートナーとしてキャリアを積み、シャイアーとのタッグでは彼の弟と称してレイ・シャイアーRay Shire)を名乗った。その後、リングネームをレイ・スティーブンスに戻してサンフランシスコ地区を主戦場とし、1960年に同地区認定の初代USヘビー級チャンピオンとなる。以降、同王座を巡ってウイルバー・スナイダー、ボボ・ブラジル、パット・オコーナー、キング・カーティス・イヤウケアら強豪と対戦。1967/7/15には同地区に遠征してきたブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦し、カウントアウト勝ちを収めている(タイトルは移動せず)。

1968年7月、日本プロレスの『第一次サマー・シリーズ』に初来日、スカル・マーフィーとブルーノ・サンマルチノをパートナーに、ジャイアント馬場&アントニオ猪木のインターナショナル・タッグ王座に2回挑戦した。サンフランシスコでは1960年代後半よりパット・パターソンと金髪のヒール・タッグチーム「ブロンド・ボンバーズThe Blond Bombers)」を結成。ザ・デストロイヤー&ビリー・レッド・ライオン、ペドロ・モラレス&ペッパー・ゴメスなどと抗争する。弟分のパターソンとは後に仲間割れを起こし、USヘビー級王座を巡り対決したこともあった。

1970年代に入ると当時サンフランシスコ地区と提携していたAWAに参戦。ボビー・ヒーナンをマネージャーにニック・ボックウィンクルとタッグを組み、1972/1/20にクラッシャー・リソワスキー&レッド・バスチェンからAWA世界タッグ王座を奪取する。その後、同年12/30にバーン・ガニア&ビル・ロビンソン、1974/7/21にリソワスキー&ロビンソンに敗れタイトルを失うが、いずれも短期間で奪回。1975/8/16にディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーに王座を明け渡すまで、AWAを代表する悪党王者チームとして活躍した(ボックウィンクルとのコンビでは1972年にフロリダ地区にも遠征し、同年7/20にヒロ・マツダ&ティム・ウッズからフロリダ・タッグ王座を奪取している)。

この間、1974年11月に国際プロレスの『ワールド・チャンピオン・シリーズ』にAWA世界タッグ王者としてボックウィンクルと共に来日。IWA世界タッグ王者チームのラッシャー木村&グレート草津とダブルタイトルマッチを行った(同シリーズにはAWA世界ヘビー級王者のバーン・ガニアも来日しており、AWAの世界王者3人が揃い踏みしたことで話題になった)。1975年下期はザ・ファンクスがプロモートするテキサスのアマリロ地区に参戦し、ボビー・ジャガーズらを破りブラスナックル王座を通算3回獲得。翌1976年1月にはアマリロとの提携ルートで全日本プロレスの『新春ジャイアント・シリーズ』前半戦に特別参加している。

その後、AWAでパット・パターソンとブロンド・ボンバーズを再結成。1978年9月23日、前王者ハイ・フライヤーズの片割れジム・ブランゼルの負傷欠場による王座剥奪に伴い、新王者チームに認定され世界タッグ王座に返り咲く。翌1979/6/6にバーン・ガニア&マッドドッグ・バションに王座を奪われてからは、ノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に転出。1980年から1981年にかけて、グレッグ・バレンタイン、ジミー・スヌーカ、イワン・コロフとパートナーを変えて同地区認定のNWA世界タッグ王座を3回に渡って獲得した。1982年の下期からはニューヨークのWWF(現・WWE)を約1年間サーキット。フレッド・ブラッシーとキャプテン・ルー・アルバーノの2人をマネージャーに、NWA時代のパートナーだったジミー・スヌーカと因縁の抗争を展開した。

WWFを離れてからはセミリタイアしていたが、1980年代後半に末期のAWAでカラー・コメンテーターとしてカムバック。1991年にAWAが活動を停止するとプロレス界から引退した。1996年5月3日、心臓発作のため死去。60歳没。

獲得タイトル

  • NWA南部ジュニアヘビー級王座(テネシー版):3回
  • USヘビー級王座(サンフランシスコ版):9回
  • NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):3回(w / ペッパー・ゴメス、ピーター・メイビア、ムーンドッグ・メイン)
  • AWA世界タッグ王座:4回(w / ニック・ボックウィンクル×3、パット・パターソン)
  • NWAフロリダ・タッグ王座:2回(w / ニック・ボックウィンクル、マイク・グラハム)
  • NWAフロリダTV王座:2回
  • NWAテキサス・ブラスナックル王座(アマリロ版):3回
  • NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):3回(w / グレッグ・バレンタイン、ジミー・スヌーカ、イワン・コロフ)
  • IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):2回
  • IWA世界タッグ王座(オーストラリア版):1回(w / アート・ネルソン)

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