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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
5/5


 
 


 
 

ビル・ワット
"Cowboy" Bill Watts
1939/5/5

本名:William Watts)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、プロモーター。オクラホマ州オクラホマシティ出身。正しくは「ビル・ワッツ」と発音するが、本項では日本のプロレス史における慣例的な表記に準ずる。

1960年代後半から1970年代を全盛期に、カウボーイ・スタイルの大型ファイターとして活躍。オクラホマ・スタンピードの第一人者でもある。1979年よりミッドサウス地区(ルイジアナ、ミシシッピ、アーカンソー、オクラホマ)に自身の団体MSWA(後にUWF)を設立、大プロモーターとして一時代を築いた。

来歴

1960年代

オクラホマ州立大学ではアメリカンフットボール選手として活躍し、卒業後の1961年にAFLのヒューストン・オイラーズに入団。続いてNFLのミネソタ・バイキングスに在籍するが、大学の先輩のダニー・ホッジに誘われ1962年秋にプロレスラーとしてデビュー。翌1963年5月にはNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得し、1964年にはルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。

1964年の下期よりニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。当初はベビーフェイスとしてブルーノ・サンマルチノのパートナーを務めた。しかしすぐにヒールターンし、翌1965年はマディソン・スクエア・ガーデンの定期戦にてサンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に1月25日・2月22日・3月29日・5月17日の4カ月連続で挑戦。タッグではゴリラ・モンスーンと組んで同年4/8にジン・キニスキーとワルドー・フォン・エリックのチームからWWWF USタッグ王座を奪取している。

その後、サンフランシスコ地区を経て1967年9月に日本プロレスに初来日。10/6、ターザン・タイラーとのコンビでジャイアント馬場&吉村道明からインターナショナル・タッグ王座を奪取する。10/31に大阪府立体育会館で馬場&アントニオ猪木に敗れ短命王者に終わったが、BI砲が誕生したメモリアル・マッチの敵役を務めたことで、日本のプロレスファンにとっては印象深い存在となった。

トライステート

1960年代末より、プロモーターのレロイ・マクガークが牛耳る地元オクラホマのNWAトライステート・プロモーションに参戦。以降、オクラホマおよび深南部のルイジアナやミシシッピをサーキット・エリアとする同地区において、1970年代全般に渡ってエース・レスラー兼ブッカーを務めた。

看板タイトルであるNWA北米ヘビー級王座には、1970年4月にザ・スポイラー、1971年10月にダスティ・ローデス、1972年7月にジョン・クイン、1975年11月にキラー・カール・コックス、1977年6月にスタン・ハンセンを破り、通算5回に渡って載冠した(MSWA新設後の1979年12月にも、同王座の改称版であるミッドサウス北米ヘビー級王座をマイク・ジョージから奪取している。ワットにとっては、これがレスラーとしては最後のタイトル載冠となった)。

この間、フロリダをはじめジョージアやアラバマなどのディープサウスにも参戦。トライステートでは絶対的なベビーフェイスだったが、他地区ではヒールとして活躍した。1974年1月には国際プロレスに来日、ストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している。

MSWA

長年に渡ってトライステート地区のブッカーを務めてきたワットだが、1979年にボスのレロイ・マクガークと衝突、NWAを脱退し、ミッドサウス・エリアに独立団体MSWAMid-South Wrestling Association)を新設する。同団体には旧トライステートのほとんどの選手がスライド移籍し、サーキットエリアもそのまま受け継ぐなど、事実上マクガークのプロモーションを乗っ取った形となった。また、アーカンソー州もテリトリーに加え、テキサス州のプロモーターだったポール・ボーシュとも手を組んでヒューストンにも進出。興行の拠点としてニューオーリンズのルイジアナ・スーパードームで定期的にビッグイベントを開催するなど、活動の規模をさらに拡大した(NWA加盟団体ではなくなったものの、後にNWA世界王者リック・フレアーを招聘しており、その手腕はNWAの主流派にも注目されていた)。

1984年、WWFのビンス・マクマホンが全米侵攻をスタートし、各地のプロモーションは軒並み大打撃を受けることになる。しかし、トライステート時代から築いてきたミッドサウスにおける強固なマーケット基盤のもと、AWAやNWA傘下ではない独立テリトリーとして独自の活動を続けてきたMSWAは、WWFに屈することはなかった。

1985年、MSWAの人気に目をつけたテッド・ターナーとTBSにおけるプロレス番組の放送契約を締結。日曜の午後という時間帯ながら番組は高視聴率を上げ、ターナーとワットは1984/7/14のブラック・サタデー以来WWFが時間枠を持っていた土曜夜の放送への移行に合意するが、当時WWFにいたジム・バーネットの仲介で最終的にターナーはNWAのジム・クロケット・ジュニアと契約を結んだ。

UWF

巨大ネットワークTBSのゴールデンタイムでの放映チャンスを失ったワットは、1986年3月に団体名をUWFUniversal Wrestling Federation)と改称し、WWFやNWAに対抗すべく全米進出を開始する。この団体には、フリッツ・フォン・エリックが主宰するWCCWの共同プロモーターであったケン・マンテルをはじめ、多くの新しいレスラー(ほとんどがWCCW出身)が参画した。腹心ジム・ロスの手腕により、西海岸のロサンゼルスから東部のフィラデルフィアまでマーケット規模の拡大に成功し、MSWA新設以来セミリタイア状態だったワットも正式に引退してプロモート業に注力。4月にはスーパードームでNWAのジム・クロケット・プロモーションズとビッグイベントを共同開催した。スティングなどのスター候補も生まれ、UWFは一躍アメリカ・マット界の台風の目となる。

しかし、テリトリーを大幅に広げたことによる移動費等のコスト増に反し、全米サーキットは収益の上がらない状態が続いた。さらに、OPECの石油生産量拡大に伴いアメリカ南部各州の原油産業が停滞、ミッドサウス地区の経済も破綻し、1987年には深刻な不況に直面した。相次ぐ銀行の倒産で融資も絶たれ、本拠地オクラホマでの観客動員も落ち込み、UWFは一転して危機的状況に追い込まれる。莫大な損失を被ったワットは1987年4月9日、UWFを400万ドルでジム・クロケット・ジュニアに売却、プロレス界から撤退することになった(当初、ワットはビンス・マクマホンに売却を持ちかけたが、UWFが末期状態であることを見越したマクマホンに拒絶され、内部事情を知らないクロケットがワットに煽られる形で買収に応じたという)。

WCW以降

その後はマーケティング関連の仕事に就いていたが、1992年5月、WCWの副社長となってプロレス界に復帰。当時のWCWは前任社長ジム・ハードとの確執でリック・フレアーがWWFに移籍するなど苦境に陥っており、運営を立て直すべく親会社TBSからの要請を受けての就任だった。同年8月には新日本プロレスのG1クライマックスにて行われたNWA世界ヘビー級王座決定トーナメントに立会人として来日、久々の日本マット登場も果たした。

しかし、息子エリック・ワッツの重用などで選手達の反発を買い、リック・ルードやスタイナー・ブラザーズ(リック&スコット)らトップスターが次々と離脱、視聴率はますます低下する。さらに、副社長就任前に行われたインタビュー記事における人種差別発言がTBS幹部ハンク・アーロンに発覚、副社長辞任を余儀なくされ、1993年2月にWCWを退団した。

1995年にはエリック・ワッツをWWFに斡旋、その際に本人も短期間ながらWWFに在籍していたともされている。以降は在住地のオクラホマ州タルサにてスポーツ専門ラジオ局の番組ホストなどをしていた。2009年4月4日、プロレス界における功績を称え、WWE Hall of Fameに迎えられている。

エピソード

  • 人種差別主義者として知られ、それがWCWからの失脚の要因ともなったが、ミッドサウス地区でのブッカー / プロモーター時代は黒人ファンの動員を見込んでアーニー・ラッドやブッチ・リードなどの黒人選手を積極的に重用した(同年代のラッドとはプライベートでも親友であったという)。ビッグ・ダディ・リッターをジャンクヤード・ドッグに変身させ、1980年代を代表する黒人スターに仕立てたのもワットの才覚によるものであり、WCW時代にロン・シモンズを黒人初のWCW(NWA)世界ヘビー級王者にしたのもワットの発案だった。また、徹底した共和党支持者でもある。
  • 父親を太平洋戦争で亡くしており、そのために日本人を嫌悪するようになったといわれる。1967年の日本プロレス来日時、黒板にチョークで自ら "Yankee, Go home!" と書き、それを日本人記者による嫌がらせだとして悪態をついたという。ジャイアント馬場は、当初はワットもそれほど露骨に日本人を蔑視しておらず、同時期に来日した他の外国人レスラーにいろいろと吹き込まれたことが原因ではないかと発言している。
  • こうした背景があったからではないにせよ、一時は「次期NWA世界王者候補」と目され再来日が望まれたものの、2度目の来日は1974年の国際プロレス参戦まで実現しなかった。当時はアメリカでレスラーとブッカーの二足の草鞋を履いて多忙だったこともあり、これが選手としては最後の来日となっている。
  • 国際プロレスとはMSWA設立後にも接点を持ち、ジェイク・ロバーツ、マイク・ジョージ、レイ・キャンディらがMSWAから国際に来日している。阿修羅・原も1981年のアメリカ再修行でMSWAをサーキットしていた。UWF時代は、当時WWFとの提携を解消した新日本プロレスの外国人供給ルートのひとつとして、ジム・ドゥガンの再来日やスティーブ・ウィリアムスの初来日を実現させている。しかし、いずれも完全な業務提携を結んでいたわけではない。
  • 日本人選手では、キラー・カーンやザ・グレート・カブキもMSWAに参戦している。1982年にはスーパードームでアンドレ・ザ・ジャイアント対カーンの遺恨試合が行われた。

獲得タイトル

トライステート / MSWA
  • NWA北米ヘビー級王座:5回
  • NWAブラスナックル王座:2回
  • NWA USタッグ王座:5回(w / ジェリー・コザック、ビリー・レッド・ライオン、グレッグ・バレンタイン、ビル・ロビンソン、バック・ロブレイ)
  • NWAルイジアナ・タッグ王座:1回(w / バック・ロブレイ)
  • ミッドサウス北米ヘビー級王座:1回
  • ミッドサウス・タッグ王座:1回(w / バック・ロブレイ)
その他
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • WWWF USタッグ王座:1回(w / ゴリラ・モンスーン)
  • AWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):1回
  • NWAインターナショナル・タッグ王座:1回(w / ターザン・タイラー)
  • NWAガルフコースト・ヘビー級王座:1回
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:1回
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:2回
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):1回

 
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ウォーリー山口
1958/5/5


日本のプロレス関係者。本名は山口 雄介(やまぐち ゆうすけ)。東京都港区出身。身長160cm、体重62.5kg。血液型はO型。

プロレス専門誌『月刊ゴング』および『週刊ゴング』(日本スポーツ出版社)のライターを経て、レフェリー、マネージャー、コメンテーターなどで幅広く活動。1998年にはヤマグチ・サンYamaguchi-San)の名義でWWFにてカイエンタイのマネージャーを務めた。1999年から2000年にかけては、ブッカーとしてインディー団体『世界のプロレス』を主宰していた。





馳 浩
1961/5/5

旧姓: 川辺は、日本の政治家、元プロレスラー。衆議院議員(4期)。参議院議員(1期)を務めた。

概要

富山県小矢部市生まれ、石川県金沢市育ち。妻は高見恭子。一度離婚しており、先妻はサンボの元選手であるビクトル古賀の娘。現PWF会長(第3代)。

略歴

  • 1974年3月 - 金沢市立千坂小学校卒業
  • 1977年3月 - 金沢市立鳴和中学校卒業
  • 1980年3月 - 星稜高等学校卒業
  • 1984年3月 - 専修大学文学部卒業
  • 1984年4月 - 母校星稜高等学校の国語科(古典)教諭に就任
  • 1984年7月 - ロサンゼルスオリンピックにレスリングで出場。
  • 1985年8月 - 星稜高等学校を退職、ジャパンプロレスに入団
  • 1987年 - 新日本プロレスに移籍。在籍中にIWGPジュニアヘビー級王座、IWGPタッグ王座を獲得する等活躍。道場では若手レスラーのコーチを務めた。
  • 1995年7月 - 第17回参議院議員通常選挙に、石川県選挙区から自民党の推薦を受けて無所属で立候補し、民主改革連合の現職粟森喬を破り初当選する。当初は会派「自民党・自由国民会議」、2か月後に自民党総裁選で小泉純一郎の推薦人名簿に名を連ねるために正式に自民党所属国会議員に。
  • 1996年1月4日 - 東京ドーム大会、新日本所属でのラストマッチ(その後、7月に金沢で一夜限りの復活)
  • 1996年10月 - 第41回衆議院議員総選挙(史上初の小選挙区比例代表並立制、自身は不出馬)、石川1区で自社さ連立政権のパートナー社民党県議から旧民主党新人候補となった桑原豊支援したが新進党副党首で公明・民社協会も支援の奥田敬和に敗北(桑原は比例復活)
  • 1996年11月 - 全日本プロレスに移籍する。
  • 1998年8月 - 奥田死去に伴う補欠選挙(自身は不出馬)、県議を辞した新人岡部雅夫支援も民主党新人奥田建に敗北
  • 2000/5/12 - 参議院議員を辞職する(自身の辞職に伴う補選で前々年落選した元職沓掛哲男が復帰)。
  • 2000年 - 第42回衆議院議員総選挙に石川1区から立候補、奥田との現職対決制す(奥田は比例復活)。
  • 2002年1月 - 議院運営委員会理事(議事進行係)に就任。
  • 2003/9/25 - 文部科学大臣政務官に就任。
  • 2003/11/9 - 第43回衆議院議員総選挙に立候補するも奥田に敗北し小選挙区で落選。比例復活(衆院2期目)。
  • 2004/9/27 - 文部科学大臣政務官退任。
  • 2005/9/11 - 第44回衆議院議員総選挙に小選挙区のみで立候補、当選(衆議院3期目)。
  • 2005/11/2 - 文部科学副大臣に就任。
  • 2006/8/27 - 両国国技館で引退試合を行い、プロレスラーを引退。自民党総裁任期満了を控えた総理大臣の小泉から花が届いたほか、所属派閥の長である森喜朗や歴代の文部科学大臣である町村信孝、小坂憲次らも来場。
  • 2006年9月 - 自民党国会対策副委員長に就任。
  • 2007/7/15 - スタン・ハンセンPWF会長の勇退に伴い、第3代PWF会長に就任。
  • 2007年8月 - 自民党副幹事長に就任。翌月に総裁が安倍晋三から福田康夫に代わるが職に留まる。
  • 2008年8月 - 自民党文部科学部会長に就任。
  • 2008/9/10 - 総裁選挙で小池百合子の推薦人になったことを理由に清和研の退会届を提出。しかし、小池が退会せずに立候補したことを理由に受理せず幹部預かりにとなり、後に返却された。
  • 2009/8/30 - 第45回衆議院議員総選挙で元職・奥田に敗れ比例復活。

人物

  • 富山県小矢部市津沢地区の南部にあり、古刹・安居寺に近い興法寺(こうぼうじ)集落の農家の三男として生まれたが、小学3年時に石川県金沢市の親戚の養子となった。
  • 生来の相撲好きということで、中2の時に友人等10名を募り正式に相撲部を設立。まわし姿で町内をランニングし夢は、卯辰山相撲場の土俵に立って闘うことでもあった。しかし、高校進学と同時にレスリング部に入ったので夢は実現しなかった。また、中学時代は町の剣道場にも通っていた。
  • 憧れの対象に影響されることが多く、相撲は地元出身の第54代横綱輪島大士、プロレスはジャイアント馬場、文学は中学時代国語担当の女性教師に影響されたことがきっかけ。
  • 体育会の学生ではあるが、運動ばかりでなく学問に憧れを持っていたといわれる。学生時代は古典文学の全集を片端から読破し、レスリング部の合宿時には必ず一冊の古典を持参していたという。当時の専大レスリングの監督は元衆議院議員松浪健四郎(現在は専大を退職している)であった。
  • 古典に対しての愛着が強く、海外遠征の際には『源氏物語』の原典版を持ち歩き心の支えとしていたという。受験雑誌『蛍雪時代』に古典講座の連載を持ち、それをまとめて『「古典」簡単じゃないか』という本を出版している。
  • 自らの出身大学である専修大学のレスリング部の監督でもあり、有望な選手を全日本プロレスや健介officeに練習生として送りたいと話している。
  • 神奈川大学で講義を受け持ったこともある。2003年に文部科学大臣政務官に就任したことにより、講義を已む無く終えている。
  • 「プロレスとは芸術である」を持論としており、技のフォームの形に対するこだわりは深い。1990年代半ば、投げっ放しジャーマンが乱発され始めた時も「ジャーマン・スープレックスはブリッジした時のフォームが美しいのに、投げっ放しジャーマンはそれを壊している」と批判。本人は投げっ放しジャーマンを、1993/9/26に行われた橋本真也戦での一度以外、使用することはなかった。
  • 馳がとある試合のセコンドについていた際、激しくかつ執拗にリングを叩きながら、その試合でレフェリーをしていたタイガー服部に対して野次を飛ばしていた。すると堪忍袋の緒が切れた服部がリングサイドにいた馳に対し、トップロープを掴んだ体勢で2本目と3本目のロープの間から(現在で言う顔面ウォッシュの要領で)体重を乗せて放った蹴りが横っ面を直撃した。馳はかなり足にきていた様子でその一部始終はTV中継されている。
  • プロレスラー現役時代には非常に女性にモテていた、そのプレイボーイぶりをトークショーで語るなどリング外でもサービス精神旺盛であった。
  • 今後は三沢光晴が会長を務めていたグローバル・レスリング連盟の発展に一役買うことを公言している。
  • 下ネタが好きな方で、座右の銘は「腰振り合うも他生の縁」「親しき中にも前戯あり」と雑誌で公表した。また、トークショーにおいて「腹上死が理想」と公言したこともある。
  • 武藤からは全日本プロレスの黒幕と呼ばれており、本人は「相談役などのまともな肩書きが欲しい」と語っている、現在はPWF会長という肩書きである。
プロレスラーとして
エピソード

ジャパンプロレス時代

  • 1984年のロサンゼルスオリンピック代表という実績の下、鳴り物入りで1985年に大学の先輩長州力のジャパンプロレスに入団。オリンピック出場という華々しい実績を持ち、契約金を要求せず高校教師時代と同額の月給保証のみで入団したために馳は特別待遇とされ、通常の新入りが体験する辛い下積み生活を味わうことはなかった。同時期、辛い下積み生活に耐えていた佐々木健介は、特別扱いされている馳を見て、かなり含むところがあった、と後に当時の心情を告白している。
  • 若手時代にカナダ・カルガリー地区に武者修行のため遠征していたことがあり、新倉史祐と組み「ベトコン・エキスプレス」として活動していた(当時のリングネームは「ベトコン・エキスプレス2号」)。当時のライバルはオーエン・ハートで、その縁もありオーエン・ハートは新日本プロレスの『トップ・オブ・ザ・スーパージュニア』で初来日し、その後もJr.タイトル戦線に組み込まれ数度来日している。

新日本プロレス所属時代

  • 1987年のジャパンプロレスの面々が新日本マットに登場した際に日本デビュー。日本デビュー戦は小林邦昭のIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦し、勝利する。デビュー戦の戴冠は史上初で現在においても唯一の例。だが、このあからさまな特別待遇は当時の新日本ファンに反感を買い、クリーンなファイトスタイルにもかかわらず人気はなかなか上がらなかった。
  • IWGPジュニアヘビー級王者時代、TBSの『わいわいスポーツ塾』で「プロレス転向前の職業は何?」というクイズで出演した。答えは「国語教師」であったが、番組でレスリング時代の経歴は一切触れられなかった。
  • バラエティー色を強くした『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』にスタジオゲストで出演した際、司会の山田邦子が流血したレスラーの様子を見て「血って簡単に止まるものなんですか?」と聞いたとき、馳が「オイお前つまんないこと聞くなよ、止まるわけねぇじゃねぇか!」と放送中に激怒した。
  • 日本テレビ『全日本プロレス中継』のミニコーナー「プロレスニュース」で、かなりコミカルにプロレス情報を伝えていた福澤朗に対して「あのアナウンサー、ふざけすぎだよ! 会ったらブン殴ってやる!」と雑誌でコメントし、その翌週のプロレスニュースでは福澤が「他団体のレスラーにも賛否両論・プロレスニュース」と言う一幕もあった。1997/1/2における馳の全日デビュー戦(第一試合、対志賀賢太郎)の実況は福澤が担当した。
  • キャリア後半以降から着用した黄色いパンツは星稜高校のスクールカラーによる。
  • リングインの定番ムーブでコーナーマットに昇り、自分の着ていたイラスト入りのTシャツを観客に投げ入れる(その際左右を見渡し、相手を定め指を差すのが定番)。
  • 佐々木健介が海外武者修行から帰国後、暫くしてから両者は唯一無二の同期タッグ「ハセ・ケン」として闘魂三銃士やスタイナー・ブラザーズらと名勝負を展開する。またこの時期の2人は新日本道場の鬼教官も兼務しており、当時新日本に入団した第三世代と呼ばれる永田裕志、中西学、天山広吉、小島聡、大谷晋二郎、金本浩二、高岩竜一らの指南役となり、一人前のレスラーとして育て上げた功績は大きい。しかしながら、オールドファンや先輩レスラーからは馳のコーチ就任から新日本らしさが失われたとして批判を浴びることもしばしばある。馳が全日本プロレスに移籍して以降、両者は長らくタッグを組むことがなかったが、2003/3/1に行われたWJプロレス旗揚げ戦で7年ぶりに「ハセ・ケンタッグ」が復活した。
  • 秋山準を入団に際して不合格としたことにより長州力から「なんであんな良い奴取らないんだ?」と言われたことがある。また中西学のデビューに関しても、素材は素晴らしいがセンスが全く無い、不器用すぎるという理由で反対し続けた一人でもある。中西学のIWGP王者となった際も祝辞コメントで「おい中西、俺は昔から言ってるだろう?マスコミやお客さんにチヤホヤされていい気になるんじゃねぇぞ!」と叱咤激励をしていた。
  • 1993年には週刊プロレス誌上で「自分で週プロの記事を書く」と宣言したところ、当時の編集長だったターザン山本がこれに応じたことで、自身が書いた安田忠夫のデビュー戦の記事が週プロに掲載されたことがある。
  • 後藤達俊のバックドロップを受け損なって一時心肺停止、臨死体験をしたことがある。幸い、リングドクターが来場していた大会であったため、一命を取り留めた。倒れた時は長州も「馳、死ぬな!!」と涙を流しながら必死で呼びかけた。現在でもその後遺症により時折、目の焦点が定まらなくなることがあるという。またこの事件を契機に常設リングドクターの設置、新日本所属レスラーの定期検診が定着した。この一件後、馳は、失神・タンカ退場劇を多く見せるようになった。
  • 1990年代以降、実質的な現場監督としてブックを担当し「新日本プロレスの頭脳」と評される。
  • 佐々木健介いわく「血が出やすい体質」と言い、度々試合において額からおびただしい量の大出血を起こしている。
  • 新日本プロレス退団の理由には、馳にはそのつもりはないのに長州が勝手に引退を発表したことで生じた軋轢があった。
  • 決定的なのは新日本の上層部(社長周辺)の都合によるもので、当選間もない馳に対して無理な日程を組み試合を行い体力的にも限界を感じさせる試合内容にしたことによるものである。

全日本プロレス所属時代

  • 清和会国会議員兼全日本プロレス所属のプロレスラーであり、プロレス興行には主に国会のない期間に参加していたが、政治で大臣政務官や副大臣など、徐々に要職につき始めるとその機会が減っていき、2005年9月11日の衆議院選挙の当選と同時にプロレスラーとしての現役引退を表明(理由として靱帯断裂もある)した。
  • 引退興行については武藤敬司が「全日で馳さんの引退興行を行いたい、新日では行わせたくない」と周辺に漏らしていた。また、2006年1月の武藤社長就任3周年記念パーティに馳が参加し、自ら「引退興行は本年中に全日本で行って欲しい」と嘆願、同年7/23の地元金沢の興行を馳浩引退記念興行とし、8月27日の両国国技館大会で引退試合を行った。なお、7/23の金沢大会はもともと挨拶だけの予定だったが、本来出場予定の佐々木健介が左眼窩底骨折で出場できなくなり、急遽代役として出場することとなった。
  • 2006年8月27日、馳のプロレス引退試合を森喜朗が観戦したが、対戦相手のVOODOO-MURDERSの"brother"YASSHIが「おい、そこの森! お腹の中、何か詰まってるな? お金か? このカス野郎!」と森に罵声を浴びせた上、森の失政を批判し唾を掛けた。さらに、場外乱闘に乗じてTARUが森を挑発したため、森もパイプ椅子を持って身構えるという事態が発生した。このとき観客から森コールが起こったものの、森のSPがTARUに抗議しつつ森を止めたため、憲政史上初となる総理大臣経験者のプロレス参戦は実現しなかった。試合後、記者団に対して森は「椅子? パフォーマンスだよ」と苦笑いで語ったが、YASSHIに話が及ぶと「客に対して失礼だ」と激怒した。その後、馳は電話にもかかわらず森に土下座して謝罪したという。ただ、森は元々プロレス好きであり、YASSHIに対する一連の発言もパフォーマンスの可能性もある。なお、この大会では当時文部科学大臣だった町村信孝も来場し、森の横で観戦していたが、この試合中の顛末をにこやかに見ていた。
  • プロレスからの引退発表こそしたが、総理大臣としてSPを連れてリングに上がるのが夢だと話しており、今後も体を鍛え続けるようである。
  • フジテレビのクイズ番組『クイズ$ミリオネア』で、著名人としては初めて全問正解し、最高賞金の1,000万円を獲得した。収録時に司会者のみのもんたから渡される小切手をそのまま換金出来ると思っていたがそうではなく、後日銀行振込でしっかりと賞金が入っていたという。
  • 全日本プロレス移籍間も無い頃は特別扱いしないという馬場らの意向からか前座からのスタートであり、それほど格の違わない相手であっても勝利すると大金星と揶揄されることもあった。
  • 全日本プロレス時代では、移籍から1999年までに当時の五強(三沢光晴、川田利明、小橋健太、田上明、秋山準)の5人全員とシングルマッチで対戦している。

その他

  • ジャパンプロレス時代にジャイアント馬場の教えを受け、新日本に移籍後はアントニオ猪木の教えを受けている。そのため、プロレス界では数少ない「ジャイアント馬場とアントニオ猪木の両方から教えを受けたレスラー」で、本人もそのことを誇りにしている。
  • カウント2.9の応酬、敗戦寸前でのカウント1でのフォールアップ、お互いの得意技の掛け合いなど近年ではよく見られるプロレス的な攻防の元祖は馳であると言われている]

タイトル歴

新日本プロレス

  • IWGPジュニアヘビー級王座
  • IWGPタッグ王座(&佐々木健介、&武藤敬司)

WCW

  • WCWインターナショナル・ヘビー級王座





廣田 瑞人
1981/5/5

日本の総合格闘家。長崎県諫早市出身。CAVE所属。元SRCライト級王者、元CAGE FORCEライト級王者。

右上腕部にパグの刺青を彫っている(実家でパグを飼っていたことがある)。柔道、相撲仕込みの腰の重さを持つストライカーであり、戦極でのキャッチコピーは、「破拳王子」(パグおうじ)。

来歴

幼少時代に相撲を経験。ボクシングではインターハイに2度出場している。21歳の時にプロ格闘家を目指し上京。

2004/9/20、第11回全日本アマチュア修斗選手権大会ウェルター級に参加し、優勝を果たした。

2005/2/6、プロ修斗デビュー。

2005/9/23、修斗新人王決定トーナメント決勝で児山佳宏に判定勝ちし、ウェルター級新人王となった。

2007/2/17、中蔵隆志と修斗環太平洋ウェルター級王座決定戦で対戦し、判定負け。

2007/12/1、CAGE FORCE初参戦となったCAGE FORCE 05でシン・ドゥギと対戦し、開始16秒右フックでKO勝ち。

2008/4/5、CAGE FORCE 06で鹿又智成とCAGE FORCEライト級王座決定戦で対戦し、パウンドでTKO勝ち。第2代CAGE FORCEライト級王者となった。

2008/8/24、戦極初参戦となった戦極 〜第四陣〜のライト級グランプリ1回戦でライアン・シュルツと対戦し、右フックでKO勝ち。

2008/11/1、戦極 〜第六陣〜のライト級グランプリ準決勝で横田一則と対戦し、判定負け。

2009/2/28、CAGE FORCE EX -eastern bound-でパンクラスライト級王者井上克也を相手にCAGE FORCEライト級タイトルマッチを行い、三者三様の判定1-1でドロー防衛を果たした。

2009/5/10、修斗で石田光洋と対戦し、パウンドでTKO勝ちを収めた。この試合は「戦極 vs. DREAM」として注目された。

2009/8/2、戦極 〜第九陣〜の戦極ライト級チャンピオンシップで王者北岡悟と対戦し、TKO勝ちで王座を獲得した。同年9月、戦極ライト級王座と並行しての防衛戦を行うことが難しいなどの理由によりCAGE FORCEライト級王座を返上した。同時期に長年所属したGUTSMAN・修斗道場を離脱し、フリーランスとなった。

2009/12/31、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜のDREAM vs SRC 対抗戦で青木真也と対戦し、アームロックで右上腕を骨折し敗北した。

2010/1/6、骨折した右上腕をプレートで固定する手術を受けた。

2010/3/7、SRC12にて青木に負けた責任を取るとの理由によりSRCライト級王座の返上を発表し、会場にいた谷川貞治K-1イベントプロデューサーに青木との再戦をアピールした。

2010/4/3にオープンした奥野"轟天"泰舗のジム「CAVE」所属となった。

人物

  • 以前放送されていた戦極Gでは、戦極S4の一人として特集されており、自身の父親が格闘技に詳しいことや、当時よく通っていた栗と柿食堂の店主に自分の子供のように可愛がられていた様子などが放送されていた。

  



イヴ・トーレス
Eve Marie Torres
1984/5/5

アメリカ合衆国のダンサー、モデル、プロレスラーである。コロラド州デンバー出身である。WWEに所属しており、2007年のディーヴァサーチ優勝者である。

来歴

大学卒業後にモデルやダンサーとしての活動を始め、2006年から2007年にかけてNBAのロサンゼルス・クリッパーズのスピリット・ダンス・チームの一員となる。2007年にはWWEのディーヴァサーチに応募し、優勝者となり賞金とWWEとの契約を勝ち取る。その後OVWでトレーニングを開始する。

2008年2月ごろからバックルームでのインタビュアーとしてスマックダウンに登場する。デビューしてからはリング外の活動だけであったが11月には16人ディーヴァ・タッグマッチで初試合を行った。しかし勝利とはならなかった。

2009年に入るとミシェル・マクールと短い抗争を展開する。5月ごろには追加ドラフトで移籍してきたレイラと抗争を開始する。またこのころからクライム・タイムと共に行動することが多くなる。10月に行われたディーヴァ・トレードによりRAWへ移籍。移籍後はクリス・マスターズとの恋愛ストーリーが展開されたが、すぐに終了となった。

2010/4/12のRAWでマリースに勝利し、ディーヴァズ王座を獲得した。

しかし6/20のフェイタル・4ウェイのフェイタル4ウェイ形式の王座戦でアリシア・フォックスがマリースからフォールを奪ったため負けずして王座を失う。

獲得タイトル

  • 2007年ディーヴァサーチ優勝
  • WWE・ディーヴァズ王座 : 2回

入場曲

  • She Looks Good





ブルック・ホーガン
Brooke Hogan
1988/5/5

本名:Brooke Ellen Bolleaは、アメリカ人のポップス歌手・テレビスターである。フロリダ州タンパ生まれで、プロレスラーハルク・ホーガンの長女。父がホストを務めるリアリティーショー、「Hogan Knows Best」への出演によって、有名になった。現在、彼女はポップス歌手として活躍しており、マネージャーには彼女の両親がついている。





鹿島沙希
1993/5/5

163cm/48kg
2011/6/26スターダム・新木場大会、高橋奈苗戦でデビュー。

鹿島沙希のナマステBLOG










 
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