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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
5/8


 
 


 
 

田上 明
1961/5/8

日本のプロレスラー。元大相撲力士である。埼玉県秩父市出身。身長192cm、体重120kg。血液型A型。プロレスリング・ノア所属。代表取締役社長。

来歴

プロレスデビュー以前

中学時代は走高跳や柔道など様々な種類のスポーツを行う。埼玉県立秩父農工科学高等学校進学後、相撲部に入部。知人の紹介で3年次の3学期に押尾川部屋へ入門。1980年1月場所に本名の「田上」の四股名で初土俵を踏んだ。後に本名の田上から玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)と改名。なお、下の名である安正は高校時代の恩師の名に因む。

右四つの型に填れば抜群の力を発揮し、1986年5月場所には十両に昇進した(最高位は西十両6枚目、十両在位7場所)。安定した成績を残し幕内昇進も期待されたが、師匠・押尾川親方(元大関・大麒麟)との確執もあり1987年7月場所前に廃業した。

その後、知り合いだった落語家・三遊亭楽太郎(現・6代目三遊亭圓楽)の勧めもあり、プロレスラーに転身した。三遊亭楽太郎は天龍源一郎の中学時代の同級生で、その伝手で全日本プロレス入団が決まったという。なお田上は1989年に結婚したが、その時の結婚式の司会を務めたのが、その当時、楽太郎の弟子だった伊集院光だった(「伊集院光のOh!デカナイト」放送当時に伊集院自身が発言している)。

ジャパンプロレス入団〜全日本プロレス移籍

1987年8月にジャパンプロレスに入団。翌1988年1月に全日本プロレスへ正式に移籍し、1/2にジャイアント馬場とのタッグでデビュー戦を行う。以降、数年間は伸び悩む時期が続いた。

ジャンボ鶴田のパートナーへの抜擢

1990年、谷津嘉章らの離脱でパートナー難に悩んでいたジャンボ鶴田の要望で当時所属していた超世代軍を離脱、鶴田とタッグを組んで超世代軍との抗争を展開する。大勝負の経験を積むうちにレスラーとして成長し、1992/3/4には鶴田とのコンビで世界タッグ王座を獲得。トップレスラーの一人となった。

聖鬼軍結成

鶴田が肝炎で第一線を退いた後は超世代軍を離脱した川田利明とコンビを結成。このコンビは「聖鬼軍」を名乗り、2000年に大量離脱・ノア発足で田上が全日本を退団するまでトップ戦線で活躍。世界タッグ王座史上最多となる6度の載冠を果たしている。

また、1996年にはチャンピオン・カーニバル、三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座、世界最強タッグ決定リーグ戦を全て制する活躍を見せる(グランドスラム)。

1996/5/24の三冠ヘビー級選手権試合においてシングルマッチで三沢から初勝利。四天王の中では初の快挙となった。

その後も川田とのタッグを中心に、プロレス四天王の一員として三沢光晴や小橋健太、スタン・ハンセンらと激闘を繰り広げる。ジャイアント馬場が亡くなった1999年には、馬場没後初の三冠戦でベイダーとの王座決定戦を戦うが敗北。世界最強タッグ決定リーグ戦では川田の欠場もあり、ハンセンとのタッグで準優勝。

プロレスリング・ノア移籍

2000年、三沢らと全日本から離脱しプロレスリング・ノアに移籍した。

ノア移籍後は3度のGHCヘビー級王座挑戦のチャンスがありながらベルトを巻くチャンスが無かったが、2005/9/18の日本武道館大会での小橋とのタッグで、秋山、天龍組と戦った一戦が大きな契機となり、2005/11/5・日本武道館で行われた大会で王者・力皇猛に挑戦。何発ものラリアットや必殺技「無双」を受けながらも必殺技「オレが田上」で初戴冠。

2008年1月にデビュー20周年を迎え、後楽園ホールで行われた記念試合では、後援関係者のほか、亀山つとむ、ザ・グレート・カブキ、そして愛娘がリング上で田上に花束を贈呈した。

プロレスリング・ノア社長就任

2009/7/6、初代社長の三澤光晴が試合中の事故により急逝したことに伴い、第2代プロレスリング・ノア代表取締役社長に就任した。

9/27に日本武道館で行われた追悼興行で、全日本の武藤敬司と社長タッグを結成したが、小橋&高山善廣組に敗れた。

人物
  • 試合前ならびに試合後のインタビューでは非常に朴訥としたコメントを繰り出し、記者ならびにファンの笑いを誘った(全日在籍時の1996年4月20日、チャンピオン・カーニバル初優勝を飾った際の勝利者インタビューでは「もう途中からワケ分かんなくなったけどぉ〜」と語り、最後のコメントも「頑張ります」の一言で終了。三沢光晴を破って三冠ヘビー級王座を奪取した1996年5月24日の試合後の勝利者インタビューの締めの言葉でも「これからも全日本プロレスをよろしくお願いします!」と殊勝に語っていた)。
  • タイトルマッチや他団体レスラーとの試合になると突然活躍することから「田上火山」などと呼ばれる。
  • 愛称はタマさん(相撲時代の四股名「玉麒麟」から)。「ダイナミックT」とも呼ばれる。小橋建太は「A・T」と呼ぶ。
  • 1999年世界最強タッグ決定リーグ決勝戦で、馬場の筆による油絵が前面に描かれたガウンで登場した。その後はお蔵入りになっていたが、2005年12月4日に行われたGHCヘビー級王座初防衛戦で6年ぶりに着用した。ちなみにこのガウンは、そのタッグリーグ決勝戦と、GHC初防衛の試合の2回しか着ていない。
  • 大変な釣り好きで有名。ノアには本田多聞を始め釣り好きが多く、田上は「ノア・サーフクラブ」を結成。
  • ハーレーダビッドソンに乗っている(2000年11月にアミューズブックスより発売された「This Is NOAH!」においてハーレーに跨る田上の写真が掲載されている)。

主な獲得タイトル

GHCヘビー級王座
  • 第8代(防衛1回)
三冠ヘビー級王座
  • 第15代(防衛1回)
チャンピオン・カーニバル
  • 1996年 優勝
世界タッグ王座
  • 第19代(防衛2回)&ジャンボ鶴田
  • 第22代(防衛2回)&川田利明
  • 第26代(防衛3回)&川田利明
  • 第28代(防衛0回)&川田利明
  • 第31代(防衛1回)&川田利明
  • 第35代(防衛4回)&川田利明
  • 第42代(防衛0回)&川田利明
アジアタッグ王座
  • 第52代(防衛0回)&仲野信市
世界最強タッグ決定リーグ戦
  • 1996年 優勝
  • 1997年 優勝

タッグでの成績は著しい。

入場テーマ曲

  • 「Runner」(爆風スランプ)
  • 「Eclipse」(イングヴェイ・マルムスティーン)
    元々川田が好きな曲であり、川田の勧めで採用したもの。
  • 「THRUSTER」(鈴木修)
  • 「仁義なき戦いのテーマ」(津島利章)
  • 「Eclipse」(現在はカバーバージョンを使用)

大相撲時代の改名歴

  • 田上 明(たうえ あきら)1980年1月場所-1986年3月場所
  • 玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)1986年5月場所
  • 田上 明(たうえ あきら)1986年7月場所
  • 玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)1986年9月場所-1987年7月場所

 
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曙 太郎
1969/5/8

アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島ワイマナロ出身で、東関部屋の元大相撲力士、チーム・ヨコヅナ所属の現役プロレスラー、タレント。大相撲時代の最高位は第64代横綱、日本人以外初の横綱。本名は同じ(1996年に日本帰化)、旧名はローウェン・チャド・ジョージ・ハヘオ(Chad George Haaheo Rowan)。

ハワイ・パシフィック大学中退で、やんちゃだったハワイ時代は「ケンカ屋チャド」と呼ばれていた。なお、曙太郎と関係が深いと見られる「ボノくん」についても当項目で記載する。横浜大洋ホエールズに所属したジョーイ・マイヤーは従兄弟に当たる。

K-1への転向

現役引退後は曙親方として東関部屋で後輩の指導をしていたが、東関親方との関係や将来設計に不安を抱き、2003/11/5、日本相撲協会に退職願を提出し受理され、翌11/6に記者会見を開き格闘技K-1参戦が発表された。

2003/12/31、デビュー戦となった「K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!」(ナゴヤドーム)でボブ・サップと対戦、1ラウンドKO負けを喫した。うつ伏せになって倒れているシーンの視聴率は裏番組の紅白歌合戦を上回りテレビ史上初の快挙であった。

2004/3/27、「K-1 WORLD GP 2004 in SAITAMA」(さいたまスーパーアリーナ)で武蔵と対戦、プッシングでスリップダウンした武蔵に対しレフェリーの制止を振り切り攻撃し続けたため反則をカウントされるなどして、判定負けを喫した。

2004/7/17、「アジアGPトーナメント」(韓国)で中国の張慶軍(チャン・チンジュン)と対戦するも手数が出ず延長の末判定負け。

2004/8/15、「K-1 WORLD GP 2004 in LAS VEGAS」(ラスベガス)で行われた世界最終予選でリック・ルーファスと対戦。プッシングの反則で減点を受け、0-3の判定負けを喫した。

2004/9/25、「K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦」(日本武道館)でレミー・ボンヤスキーと対戦。2Rまで善戦するも、3Rに右ハイキックで失神KO負けを喫した。

2005/3/19、「K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL」(韓国)の準々決勝で角田信朗と対戦し、判定で悲願の初勝利を挙げた。しかし準決勝でチェ・ホンマンと対戦し、KO負けを喫した。

2005/7/29、「K-1 WORLD GP 2005 in HAWAII」でチェ・ホンマンと再戦したが1R2分52秒TKO負けした。プロデューサーの谷川貞治は試合後の消極的なコメントに激怒し、K-1、総合(HERO'S)における曙のオファーを再起の意欲がない限り今後一切しないと公言。K-1からの一時撤退を余儀なくされる。

「50kg減量しなければK-1への出場は認めず、追放する」と通告され、佐山聡のもとで特訓し約30kgの減量に成功したと言う触れ込みで、2006/7/30、チェ・ホンマンと3度目の試合を行った。試合当日には体重が約10kgリバウンドしており、これまで1RでKOされていたホンマン相手に初めて2Rへ持ち込んだが、2R57秒KO負け。試合後、再起へ前向きな姿勢を見せるも、谷川プロデューサーは「K-1への参戦はこれが最後になる」とコメントした。

2008/8/9、K-1 WORLD GP 2008 IN HAWAIIの大会プロモーターを務めた。

総合格闘技

2004/12/31、「K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!」でホイス・グレイシーと初の総合格闘技ルールで対戦。ホイスとの体重差は実に138kgであったが、オモプラッタからリストロックを極められ、1Rでタップアウト負けを喫した。

2005/12/31、「K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!」でボビー・オロゴンと総合格闘技ルールで対戦し、積極的なファイトで終始攻め続けたが、判定負け。

2006/5/3、HERO'Sに参戦しドン・フライと対戦。2R3分50秒フロントチョークで一本負け。2006/12/31、4度目の大晦日格闘技参戦となった「K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!」でジャイアント・シルバと総合格闘技ルールで対戦。1R1分2秒アームロックで一本負け。

プロレス
  • 2005年8月4日、「WRESTLE-1」でプロレスデビューし、グレート・ムタにムーンサルトプレスで敗れた。また、2005年度の東京スポーツ主催のプロレス大賞で「最優秀タッグ賞」&「新人賞」を受賞。

全日本プロレス

  • 2005/8/9、武藤をプロレスの師匠と仰ぎ、全日本プロレスに参戦することを発表。以後全日を「武藤部屋」と呼び始める。
  • 2005/9/2、全日本プロレス次期シリーズにも全試合帯同、参戦することを武藤に直訴。
  • 2005/9/23、シリーズ最終戦にて内館牧子(横綱審議委員会委員)が武藤からの依頼で曙の見極め役として厳しい目で試合を審査した。
  • 2005/10/2、「WRESTLE-1 GP」にて三沢光晴とタッグで対戦(パートナーは曙がスコーピオ、三沢が小川良成)。
  • 2005/11/19の全日本プロレス代々木大会で、悪の化身「グレート・ボノ」として登場することを予告し、グレート・ムタ対グレートルタの試合の途中にグレート・ボノ姿で登場、VOODOO-MURDERSに襲撃されていたムタを救出した。武藤と組んで参戦した同年12月からの「世界最強タッグ決定リーグ戦」で準優勝。
  • 2007/2/17、武藤の呼掛けに応じ約1年振りに全日本プロレスへ参戦。大鷲透と組み、元WWEのスモー・リキシおよびジョニー・ダン(当初、リキシのパートナーは荒谷望誉であったが、試合直前に変更)と対戦した。試合は曙が64でダンを沈めて横綱の貫禄を示した。
  • 2008/11/3、全日本プロレスに入団した浜亮太(元幕下・北勝嵐)のデビュー戦で対戦して勝利。11/16、日本のプロレス団体として22年振りとなった全日本プロレス主催の台湾興行に参戦した。
  • 2009/9/23、後楽園ホールにて浜亮太とタッグを組み、鈴木みのる&NOSAWA論外組を破り、第82代アジアタッグ王座の栄冠を勝ち取る。これが、曙にとってプロレスでの初戴冠である。
  • 2010/7/4、大阪府立体育会館 第一競技場にて太陽ケアとタッグを組み、諏訪魔&浜亮太組を破り、第57代世界タッグ王座の栄冠を勝ち取る。

ハッスル

  • 2007/8/18、曙ソックリの「モンスター・ボノ」なるレスラーがハッスルに登場。12月31日のハッスル大晦日大会に参戦し、グレート・ムタらとコンビを組んだ(なお、曙は大晦日の格闘技イベントには出場せず)。
  • 2008年からはモンスター軍を離れる。「もうモンスターは名乗らないよ。モンスター・ボノやめた。今日からボノちゃんに名前、変えた。」と「ボノちゃん」に改名。3/17にボノちゃんが川田利明とシングルで対戦した。
  • 2009年1月、ボノちゃんがハッスル軍主将に就任するとともに「ボノくん」に改名。イメージカラーを紫から緑へと変更。
  • 2009/7/26、ボノくんは覚醒し、ついにグレート・ボノとなる。ちなみに2005年に登場したグレート・ボノとは別個体である。その後グレート・ムタを探しに魔界へと旅に出た。

ZERO1

  • 2008/3/23、ZERO1-MAXの奉納プロレス(靖国神社相撲場)で6人タッグに参戦。大相撲時代に行った奉納相撲(2000年3月)以来8年振りの靖国神社「凱旋」であった。
  • 2009年にはZERO1主催の夏の祭典、火祭りに参戦。勝ち点5を獲得し曙が属していたブロック4人が勝ち点5で並ぶ大混戦になり8月8日に4WAYマッチが行われるも、あと1歩のところで決勝進出はならなかった。
  • 12月、タッグリーグ戦第1回風林火山で大谷晋二郎とのタッグで優勝する。
  • 2010/1/27、大谷晋二郎と組んでNWAインターコンチネンタルタッグ王座に挑み、王者の日高郁人&澤宗紀組を破り第24代王者となった。アジアタッグ王座・オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座と共に統一王者による各タイトルを除く際、国内で活躍するレスラーでは武藤敬司以来7年11ヶ月ぶりにタイトル3冠王者となった。

DRAGON GATE

  • 2008/9/21に初参戦を果たし、以降、不定期参戦。同年12月にはストーカー市川の対戦相手を務めた。
  • 2009年4月にはDRAGON GATEの名古屋テレピアホール2連戦に参戦し、土井成樹の持つドリームゲートへの挑戦を表明。5/5に挑戦するも敗北した。
  • 7/19には望月成晃、ドン・フジイと組んでWARRIORS-5のKAGETORA、横須賀享、Gamma組を破り、オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座挑戦権を獲得し8/16に挑戦するも王者になることはできなかった。
  • 10/14、後楽園ホールにて、B×Bハルク、吉野正人、PAC組を破り、第25代オープン・ザ・トライアングル・ゲート王者に。

WWE

  • 2005/2/5、「スマックダウン」さいたまスーパーアリーナ大会「ROAD TO WRESTLEMANIA 21 JAPAN TOUR」にて、ビッグ・ショーが曙を「日本のビッグ・ショーだ」と発言し、リングへ招かれる。
  • 2005年3月29日、「スマックダウン」テキサス州ヒューストン大会でエディ・ベガスに勝利。
  • 2005/4/3、ロサンゼルスで行われた「レッスルマニア21」で行われた相撲マッチにて、ビッグ・ショーに勝利。
  • 2005/7/2、さいたまスーパーアリーナで行われたハウス・ショー「WWEスーパーショー」で、ビッグ・ショーとのコンビでカリート、マット・モーガン組に勝利。

その他

  • 2006/1/8、武藤部屋を「一時卒業」して他団体マットへの参戦を発表。4日の新日本プロレス東京ドーム大会で吉江豊、同月22日にはプロレスリング・ノア武道館大会で力皇猛と夫々タッグを組んだ。吉江とのタッグの際は、前回の試合(2005年12月31日のボビー戦)から間があまり空いてなく、しかも緊急参戦だったために、動きが鈍かったが、力皇とのタッグでは彼の好アシストに助けられ善戦した。
  • 2006年3月、両国でIWGPヘビー級王者(当時)ブロック・レスナーに挑戦するもDDTで敗北。
  • 2006年8月、新日横浜大会に、4代目タイガーマスクのタッグパートナーとしてボノ・タイガーなる巨漢の覆面レスラーが登場し、邪道・外道組と対戦した。試合中にマスクを剥がされると曙に瓜二つの素顔が現れたが、ボノ・タイガー、タイガーマスクの両名とも曙とは赤の他人であり、佐山聡門下の元ガス会社社員と主張している。
  • 2007年8月に開催された新日「G1 CLIMAX」に初参戦。2勝2敗1分の成績に終わり、決勝進出はならなかった(天山と真壁に勝利)。

獲得タイトル

  • 世界タッグ王座
    (57代:パートナー太陽ケア)
  • アジアタッグ王座
    (82代:パートナー浜亮太)
  • オープン・ザ・トライアングル・ゲート王座
    (25代:パートナー望月成晃・ドン・フジイ)
  • NWAインターコンチネンタル・タッグ王座
    (24代:パートナー大谷晋二郎)
  • プロレス大賞 新人賞(2005年)、最優秀タッグチーム賞(2009年・パートナー浜亮太)

K-1 PREMIUM 2005
Dynamite!!
Dynamite 2005
K-1 PREMIUM 2004
Dynamite!!
Dynamite 2004
K-1 プレミアム 2003
Dynamite!!
Dynamite 2003





ジャイアント落合
1973/5/8 - 2003/8/8

日本のプロレスラー、総合格闘家。本名は岡田 貴幸(おかだ たかゆき)。秋田県男鹿市出身。秋田工業高等専門学校卒業。プロ野球中日ドラゴンズ監督である落合博満の甥。

来歴

秋田工業高等専門学校時代は、柔道部に所属。全国高等専門学校体育大会・柔道競技4連覇の実績を持ち、卒業後には正道会館の柔術教室師範の平直行が率いる東京ボンバイエに所属。本名の岡田貴幸として、1998年の東京ドームでのK-1グランプリ決勝戦で柔術フリースタイルルールの試合を行った。また、アマチュア修斗でも、1998年8月、第5回全日本アマチュア修斗選手権ヘビー級で準優勝。翌1999年も準優勝している。

その後は、空手家の佐竹雅昭が代表を務める「怪獣王国」に所属し、2000/6/13に佐山サトルのアルティメットボクシングの旗揚げ戦の総合格闘技ルールでジャイアント落合として総合格闘技のプロデビューした。この模様はフジテレビの格闘技番組『SRS』で放送され、特異なキャラクターが注目され、2か月後の8/27にPRIDEでも試合を行った、同年にプロレスラーとしてもデビューし、格闘探偵団バトラーツのリングに散発的に上がるようになった。しかし本人はPRIDEでの試合にこだわり、2002年7月から始まったPRIDEへの登龍門イベントの「THE BEST」には毎回登場して3連勝。試合後のマイクやインタビューではPRIDE出場を訴え続けたが、PRIDEへの昇格は叶わず、2003/7/28本格的なプロレスデビューを目指して、出稽古をしていたWJプロレスの道場でロープワークの練習中に倒れて意識不明の重体になり、昭和大学病院に緊急入院。開頭手術を受けるも、8月8日午後4時30分、急性硬膜下血腫により死去。30歳没。死の2日後、「PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦」開会直後に黙祷が捧げられた。

人物

  • 身長185cm、体重130kgの巨体にアフロヘアーとサングラスがトレードマーク。初登場時にはアフロのカツラを脱いだら、地毛もアフロというパフォーマンスを見せた。格闘家とは思えない風貌とキャラクターでファンの支持を得た。
  • 落合博満は母親方の叔父であり姓は異なるものの血縁関係にあるが、本名が岡田であるジャイアント落合はリングネームに「落合」を使用するに際し、落合博満に許諾を取ったという。
  • 佐竹雅昭が代表を務める「怪獣王国」に所属した唯一の選手。落合は佐竹のことを「国王」と呼んでいた。
  • 上京後から、プロレスデビューしても暫くの間は世田谷区三軒茶屋のレンタルビデオ店でアルバイトをして生計を立てていた。自他共に認める映画好きとのこと。
  • 恵まれた体格を活かして総合格闘家としての将来が期待されたが、「怪獣王国」は選手が2人しかいない団体で、他団体や道場とも交流が少なく(佐山サトルの元で打撃を習っていたことがある)、スパーリングパートナーもいない孤独な練習環境だったようである。





ブアカーオ・ポー.プラムック
Buakaw Por.Pramuk
1982/5/8

タイ出身のムエタイ選手。本名はソムバット・バンチャーメー(Sombat Banchamek)。ポー.プラムックジム所属。リングネームのブアカーオとは、白蓮の意。K-1 WORLD MAX 2004、2006王者、S-cup 2010王者。

概要

ムエタイ直伝のキックや首相撲(相手の首に手をかけて、相手を支配し、体勢を崩したり、次の技に繋げるクリンチの技術)からの膝蹴りを得意とするが、近年は首相撲の制約が厳しくなったK−1のルールに合わせてボクシングの技術も向上した。2006年のKO勝ちは、11月24日のオーレ・ローセン戦に至るまで、全てパンチによるものである。相手の弱点を徹底的に突く老獪さと引き出しの多さも彼の長所である。ムエタイと散打の対抗戦において、ムエタイ選手のサムゴーやガオランといった大物選手が投げのポイントを大きく取る散打ルールに苦しみ、散打選手に判定負けしていく中、唯一ブアカーオは膝蹴りで散打選手をKOし勝利をあげた。

優れた蹴り技を持つものの、一発一発は軽いとされてる。これは、ムエタイ独特の、全力で蹴らず、蹴りを出すこと自体で相手をコントロールすると同時にポイントを稼ぐ、「力を抜いた蹴り」を使うからだと言われる。これは膨大な試合数と練習をこなし、試合慣れしているムエタイ選手独特の高等技術と言える。また全力の蹴りをブロックされスネを負傷し蹴りが出せなくなることを防ぐ狙いもある。

K-1 WORLD MAXにおいて圧倒的な強さで2度チャンピオンになったことに加え容姿端麗であるため特に女性人気が非常に高い。にもかかわらず、2004年の魔裟斗戦における不可解な判定やそのトーナメントで優勝した直後のルール変更(首相撲からの膝蹴りの禁止)、果ては半ば追放とも取れる2010年開幕戦出場の選考漏れなど、主催者からは当初より不遇な扱いを受け続けている。その選考漏れの発表の際谷川EPはブアカーオの-63kgへの参戦も示唆していたが、10/15に行われたS-cupの会見でブアカーオのシュートボクシングへの初参戦が発表された。そのS-cupではトーナメントの最後の一枠に入り、初参戦初優勝を果たした。

来歴

2002/12/14、ルンピニー・スタジアムで行われた「TOYOTAタイランド・ムエマラソン 140ポンド・トーナメント」に参加。1回戦でセーンモラゴット・ウェーナイスピードを判定で、2回戦でクンスック・ペットスパーパンを判定で、決勝戦で小林聡を判定で破り優勝し、賞金30万バーツを受け取った。なお、試合は全て1試合につき3Rであった。

2004年7月7日、K-1 WORLD MAX 2004に初出場、ジョン・ウェイン・パー、小比類巻貴之を下し、決勝戦では前年優勝者魔裟斗を延長判定で下し、初出場にして優勝を果たした。

2005年4月1日に、タイ国ボクシングスポーツコミッションが主催する「MUAYTHAI CULTURAL FESTIVAL 2005」のアマチュアムエタイ(3分4R)の試合に出場し、キエラン・ケッドル(イギリス)と対戦。判定勝ちを収めた。

2005年9月9日、香港のクイーンエリザベススタジアムで行われたタイトルマッチで、ジャン・スカボロスキー(王者/フランス)に5R判定勝ちし、S-1世界スーパーウェルター級王座奪取。

2006年2月18日、ストックホルムでジョムホート・キアタディサック(王者/フィンランド)に2RKO勝ちし、WMC世界ミドル級王座を獲得。

2006年6月30日、K-1 WORLD MAX 2006の準々決勝で佐藤嘉洋を2RKOで破ると、続く準決勝でドラゴを判定で下し、決勝戦では前年の決勝で敗れたアンディ・サワーをKOで破り、K-1 WORLD MAX史上初のツータイムスチャンピオンとなった。

2006年9月4日、K-1 WORLD MAX 2006〜世界王者対抗戦〜でシュートボクシング出身の宍戸大樹と対戦。開始15秒でKO勝ちを収めた(ブアカーオが出した攻撃は、右ハイキックと左フックの2つだけであった)。

2006年11月24日、K-1 SCANDINAVIA「RUMBLE OF THE KINGS」でオーレ・ローセンに2RKO勝ち。

2007年2月5日、K-1 WORLD MAX 2007〜日本代表決定トーナメント〜でツグト"忍"アマラと対戦。ラスト15秒間、アマラの猛攻をノーガードでかわす余裕を見せて、判定勝ち。

2007年4月4日、K-1 WORLD MAX 2007〜世界最終選抜〜でアンディ・オロゴンと対戦。「1分立っていられたら勝ち」と言っていたアンディをKOできず、判定勝ち。

2007年6月28日、K-1 WORLD MAX 2007〜開幕戦〜でニキー"ザ・ナチュラル"ホルツケンと対戦。今大会のダークホースとまで言われたホルツケンを全く寄せ付けず、判定勝ち。

2007年10月3日、K-1 WORLD MAX 2007〜決勝戦〜で魔裟斗と対戦。1Rに右ストレートでダウンを奪われ判定負け。3度目の王者への夢は潰えた。

2008年2月2日、K-1 WORLD MAX 2008のスーパーファイトで佐藤嘉洋と対戦。延長Rまで縺れ込むも、パンチで攻勢に出たブアカーオが有効打、ダメージ共に上回り判定勝ち。

2008年2月24日、K-1 ASIA MAX 2008 IN SEOUL 〜Asia Tournament〜のスーパーファイトでキム・ジュンと対戦。1Rに2度のダウンを奪い、2Rに入ってからもキムの反撃を相手にせず猛攻。スウェーからのカウンター右ストレートで4度目のダウンをさせ、KO勝ち。

2008年4月9日、K-1 WORLD MAX 2008 FINAL16のトーナメント1回戦でアルバート・クラウスと再戦し、延長判定勝ち。

2008年4月26日、It's Showtimeでファディル・シャバリと対戦し、判定勝ち。

2008年7月7日、K-1 WORLD MAX 2008 FINAL8のトーナメント準々決勝で佐藤嘉洋と対戦し、3R右ストレートでKO負け。谷川貞治は「完全に圧倒していたのに終盤途端に悪くなった。ここ3試合まったくいいところがない」と酷評した。

2008年10月1日、K-1 WORLD MAX 2008 FINALのトーナメントリザーブファイトでブラックマンバと対戦し、1R右フックでKO勝ち。

2009年4月21日、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL16のトーナメント1回戦でアンドレ・ジダと対戦。1Rに左フックでダウンを奪われるも、2R以降盛り返し、延長R判定勝ちを収めた。

2009年7月13日、K-1 WORLD MAX 2009 FINAL8の準々決勝で、ニキー"ザ・ナチュラル"ホルツケンと再戦し、判定勝ち。10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 FINALの準決勝でアンディ・サワーと対戦し、終始試合をコントロールしたものの延長R1-2の判定負けを喫した。

2010年11月23日、SHOOT BOXING WORLD TOURNAMENT S-cup 2010の1回戦で宍戸大樹と再戦し、3Rに右ハイキックでダウンを奪うなどして判定勝ち。続く準決勝ではヘンリー・ヴァン・オプスタルに何もさせず完封し判定勝ち。決勝では前回覇者でS-cupを3度制しているアンディ・サワーを準決勝で大番狂わせの判定で下したトビー・イマダからローキックで計5度のダウンを奪いTKO勝利。シュートボクシング初参戦にしてS-cup初出場初優勝を果たした。

2010年12月30日、戦極 Soul of Fightで中島弘貴と戦極キックボクシングルールで対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

人物

一家の大黒柱として、ファイトマネーは家族の生活費や妹の学費に充てていると、テレビの紹介映像では放送されているが、「生活が苦しく妹の学費を稼ぐために勝たねばならない。」と言うのは、メディアによって貧困のイメージを喧伝したものであり、一種のギミックである。そもそもブアカーオの父親は比較的裕福な商人であり、家庭もタイの基準からすると恵まれた経済状況である。ブアカーオ自身は経済的な必要に迫られてムエタイ選手になったわけではなく、純粋に技術と強さを追求してムエタイ選手の道を選んだタイプである。

好みの女性は「深田恭子」と発言。K-1に参戦している外国人選手らの中でも随一の女性人気を持ち(谷川貞治によれば『ナンバー1』)、北乃きいをはじめとして、彼のファンを公言する女性有名人も多い。

2010年12月にタイで公開された映画「YAMADA〜Samurai of Ayothaya」に古代ムエタイ戦士役で出演。


  



紫雷イオ
1990/5/8

日本の女子プロレスラー。

身長156cm、体重52kg、血液型A型。姉は女子プロレスラーの紫雷美央。 本名及び出身地(関東という事以外)は非公開。

器械体操の経験を生かした華麗な飛び技が売り。ふてぶてしいポーズを見せるなど、姉よりもヒール寄りのキャラクターを持つ

経歴

2007/3/4橋本友彦プロデュース興行『MAKEHEN』で、姉の美央と共にデビュー。

2009年、「TEAM MAKEHEN」から姉と共に退団。フリー転向後も「紫雷姉妹」としていろんな団体を渡り歩く。

女子プロレスラー華名とともにトリプルテイルズを結成し、自主興行も開催された。

2010年、メキシコへ修行。AAAではマスクマン・OYUKI(美央はKAGUYA)として人気を博す。

入場テーマ曲

  • 『WE WILL ROCK YOU』(ブチアゲ♂ALL STARS)

5/2発売!
2010 波女決定リーグ戦
Catch the WAVE
PRO WRESTLING WAVE 2010 波女決定リーグ戦 Catch the WAVE

4/10発売!

WAVE マニアックス4
WAVE Maniacs4 WAVE マニアックス4

2/13発売!

Maniacs3
PRO WRESTLING WAVE Maniacs3


WAVE DVD紹介

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