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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
5/10


 
 


 
 

バーン・ガニア
Verne Gagne
1923/5/10

本名:LaVerne Clarence Gagneは、アメリカ合衆国の元プロレスラー。AWAのオーナー兼プロモーターとしても活躍し、AWAの帝王と呼ばれた。息子のグレッグ・ガニアもプロレスラーである。

来歴

ハイスクール時代は、レスリングとアメリカンフットボールの選手として活躍。ミネソタ大学(University of Minnesota)に進学後、NCAAのレスリング王座を二度獲得。1948年にはフリースタイルのロンドンオリンピック代表に選ばれた。フットボール選手としても短期間だがNFLのシカゴ・ベアーズに1947年のNFLドラフトで指名されて プレーした。

万能スポーツ選手としての華々しい実績から、NWAミネアポリス地区のプロモーターにスカウトされ鳴り物入りで1949年にプロレスデビュー。NWA世界ジュニアヘビー級王座、初代USヘビー級王座を獲得するなど活躍し、ルー・テーズなどと並ぶメインイベンターとなる。しかし政治的な待遇面でNWA会長のサム・マソニック派と衝突し、1960年5月にミネソタ地区のプロモーター達と共にNWAを離脱。ミネアポリスを本拠地とするAWAを創設した。

以降、AWA世界ヘビー級王座を通算10回獲得し長期間トップレスラーとして君臨。若き日のアンドレ・ザ・ジャイアント、マサ斎藤、ニック・ボックウィンクル等の強豪選手をAWA所属選手として招請し、短期間でNWAの対抗勢力にまで成長させプロモーターとしても大活躍。現役レスラーであったことなどからAWA会長にはならなかったものの実権を掌握し、AWAの帝王と呼ばれるようになる。また、リック・フレアーなど幾多の名レスラーをスカウト、育成したことでも有名である。

1981/1/18にはジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合で馬場の保持するPWFヘビー級王座と自身の保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行い(3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛)、その年のプロレス大賞ベストバウトに選ばれている。同年5月、AWA王座を保持したまま引退。団体経営に専念する。

しかし、レスリングの名選手だったガニアはレスリングの基礎がしっかりしたレスラーを重用する傾向が顕著で(悪役ですらマッドドッグ・バションやバロン・フォン・ラシクのように「レスリングの出来る」選手が重用された)、彼の引退後に台頭してきたハルク・ホーガンやロード・ウォリアーズなどの派手なパワーファイターには懐疑的で彼らの商品価値を見誤り、1983年以降のWWF(現WWE)のプロモーション戦略に押され有力所属選手が次々と離脱。

NWAと連携するなどして勢力の回復に尽力するが、AWAの人気は凋落し1991年に崩壊。AWA崩壊後の1993年、ガニアは自己破産した。以降、ミネソタ州知事となったジェシー・ベンチュラの相談役として表に出たこともあったが、プロレス業界との関係を絶っていた。

2006年、WWE殿堂に迎えられ久々に公の場に姿を見せた。ガニアの場合はWWEの歴史上には「対立組織の総帥」としてしか登場しないが、WWWF設立以前のマディソン・スクエア・ガーデンの主役ではあった。彼の受賞をきっかけとしてWWEの歴史には登場しない他のNWA、AWA系の人物たちも続々と殿堂入りを果たしている。

2009年1月末、ミネソタ州の養護施設内で97歳(当時)の男性が転倒し、腰などを骨折。合併症で2月14日に死亡した。遺族は85歳(当時)のガニアがその男性を床に投げつけたとしたが、目撃者は不在で男性・ガニアとも認知症を患っており、ガニアは殺人罪には問われなかった。

日本との関係

1970年2月に国際プロレスに参戦するため初来日。同時に業務提携を結び、以降ブッカーとして多数の選手を来日させた。国際プロレスの吉原功社長と太いパイプで結ばれており、1974年11月にガニア、ニック、ビル・ロビンソン、レイ・スティーブンスのAWA四大スターを送り込んだ。またアンドレ・ザ・ジャイアントをはじめとして国際経由でAWA参戦を果たしたレスラーも存在する。ただし、ビジネスに関しては相当シビアだったと言われており、ブッキング手数料の負担に耐えかねたのが国際がAWAとの提携を解消した一因といわれている(ただしその後も、ガニアやニックが単発的に国際に参戦している)。

その後は全日本プロレスと業務提携を結び、1976年にはジャンボ鶴田試練の十番勝負第一戦でのジャンボ鶴田戦で全日本初登場。1981年には前記のジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合で馬場と対戦(当初ガニアは「3000?俺は倍ぐらいやっている」と言っていたが、デビュー以来の連続無欠場記録と聞いて「それは素晴らしい記録だ」と出場を快諾したという)。そのほかにも自身を破ってAWA世界ヘビー級王者となったニック・ボックウィンクルらを送り込んでいる。全日本との提携は1980年代後半まで続き、鶴田AWA奪取と日本人世界王者初の米国サーキット、ニックとハーリー・レイスの夢の世界王者コンビ、AWA王者リック・マーテルとNWA王者リック・フレアーのダブル世界戦など数々のドリームマッチを日本にもたらした。いっぽうガニアの方も日本マットを通じてロビンソンらの有力なレスラーをAWA圏に招聘できた。

AWA終焉間近となった1990年頃には新日本プロレスと提携し、王者ラリー・ズビスコを新日本に送り込んだ。1990年2月の新日本東京ドーム大会でマサ斎藤がズビスコを破って王者になっているが、斎藤は1980年代のAWAでミスター・サイト-と名乗ってヒールとして活躍していた。

獲得タイトル

  • AWA世界ヘビー級王座
  • オマハ版世界ヘビー級王座(AWA世界ヘビー級王座に統一)
  • AWA世界タッグ王座
  • NWA世界ジュニアヘビー級王座
  • IWA世界ヘビー級王座(国際プロレス版)
  • WWE Hall of Fame(2006年度)

 
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ティト・サンタナ
Tito Santana
1953/5/10

アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州出身のメキシコ系アメリカ人。本名はメルセッド・ソリスMerced Solis)。

元WWFタッグ王者、元WWFインターコンチネンタル王者(それぞれ2回に渡って獲得)。1980年代から1990年代前半にかけてのWWF(現・WWE)では、スピーディーでクリーンなレスリングを身上とした甘いマスクのベビーフェイスとして女性観客の声援を集めた。

来歴

ザ・ファンクス、ダスティ・ローデス、ボビー・ダンカン、ブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセンらを輩出したウエスト・テキサス州立大学の出身。大学時代はアメリカンフットボールで活躍、同期のチームメイトにはテッド・デビアスやタリー・ブランチャードがいた。卒業後はNFLのカンザスシティ・チーフスのトレーニング・キャンプに参加し、その後CFLのBCライオンズに入団するが、1977年、大学の先輩であるザ・ファンクスのトレーニングを受けてプロレスラーとしてデビュー。テキサスのアマリロ地区でキャリアを積み、1978年10月には全日本プロレスに初来日している(経緯は不明だが、リッキー・スティムボートの本名「ディック・ブラッド」の名義で来日した)。

1979年、ティト・サンタナのリングネームでニューヨークのWWFに登場。同年10/22、イワン・プトスキーとのコンビでバリアント・ブラザーズ(ジョニー・バリアント&ジェリー・バリアント)を破りWWFタッグ王座を獲得した。同王座は翌1980/4/12にワイルド・サモアンズに奪取されるが、1980年代期待の新星として注目を浴びることとなった。

王座陥落直後、4/25より開幕した新日本プロレスの第3回MSGシリーズに来日。予選トーナメントで敗退し決勝リーグ進出は果たせなかったものの、そのフレッシュなファイトスタイルで高評価を獲得した(戦績は、トーナメント1回戦でスタン・ハンセンに敗退。敗者復活戦では1回戦でジョニー・パワーズから勝利を収めるも、2回戦でストロング小林に敗れた)。

1981年から1982年にかけてはAWAをサーキットし、ニック・ボックウィンクルのAWA世界王座に挑戦。同時期にWWFからAWA入りし、当時売り出し中だったハルク・ホーガンともタッグを組んで活躍した。

1983年、WWFと再契約。1984/2/11にはドン・ムラコからWWFインターコンチネンタル王座を奪取する。同年9/24にグレッグ・バレンタインに敗れて一旦王座を失うが、1985年7月6日に奪還。以降、1986/2/8にランディ・サベージに王座を明け渡すまでIC王者として活躍した。

その後もWWFに定着し、1987年にはリック・マーテルとの二枚目タッグチーム、ストライク・フォースStrike Force)を結成。同年10月27日、ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)を撃破しWWFタッグ王座への2度目の載冠を果たす。1988/3/27のレッスルマニアIVでデモリッション(アックス&スマッシュ)に王座を奪われてからもコンビを継続させるが、翌1989/4/2のレッスルマニアVでのブレーン・バスターズ(アーン・アンダーソン&タリー・ブランチャード)戦の同士討ちでマーテルがヒールターン。チームは自然消滅し、以降マーテルとの熾烈な抗争を展開する。同年10/14のキング・オブ・ザ・リングでは決勝戦をマーテルと争い、優勝を飾った。

1990/4/13には東京ドームで行われた日米レスリングサミットに出場し、10年振りの来日を果たしている(ジミー・スヌーカと組んで渕正信&小橋健太に勝利)。1991年からはメキシコの闘牛士をイメージしたギミック、エル・マタドールEl Matador)に変身。並行してWWFのスペイン語放送のカラー・コメンテーターも兼任した。

1993年、10年間に渡って在籍したWWFを離れ、初期のECWに参戦。同年8/8、WWF時代の宿敵ドン・ムラコからECW世界ヘビー級王座を奪取した。その後もインディー団体を転戦し、1994年にはイリノイ州シカゴのAWFでボブ・オートン・ジュニアを破りAWFヘビー級王座の初代チャンピオンとなった。2000/1/10にはWCWのマンデー・ナイトロに登場し、ジェフ・ジャレットと対戦している。

2004年、WWE Hall of Fameを受賞(プレゼンターはショーン・マイケルズ)。近年は、アイゼンハウアー・ミドル・スクールにてスペイン語の教員をフルタイムで務めるかたわら、時折インディー団体の試合に出場している。

2010/11/15、"Old School edition" と銘打って行われたスペシャル版の『Raw』に出演、久々にWWEに登場した。

獲得タイトル

  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:1回(w / テッド・デビアス)
  • WWFタッグ王座:2回(w / イワン・プトスキー、リック・マーテル)
  • WWFインターコンチネンタル王座:2回
  • ECW世界ヘビー級王座:1回
  • AWFヘビー級王座:2回
  • WWE Hall of Fame:2004年度





ウィリアム・リーガル
William Regal
1968/5/10

ダレン・マシューズDarren Matthews)は、アメリカ合衆国を主戦場とするイギリスのプロレスラー。イングランド・ウェスト・ミッドランズ州スタッフォードシャー出身。WWEのRAW所属。

イングランドに伝わる古典的なレスリングスタイルであるランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)の達人と言われ、多彩な関節技と肘(エルボー)攻撃で徐々に頭角を現した。エンターテイメント色の強いWWEでも、ここ一番の試合ではランカシャーレスリングの実力を余すところなく発揮し、異彩を放っている。

来歴

1983年、イギリスのブラックプールにおいて、サーカスなどに出場するカーニバル・レスラーとして15歳でデビュー。その後はロビー・ブルックサイドとタッグチームを結成し、ダイナマイト・キッドやクリス・アダムスを輩出したジョイント・プロモーションズで活動。オットー・ワンツの主宰するドイツのCWA(Catch Wrestling Association)をはじめ、フランスや南アフリカなど海外にも遠征した。

1991年にWWF(現・WWE)のトライアウトを受けるが契約には至らず。同年のWCWの英国公演に参加し、高い評価を得たことでWCWと契約を結び渡米した。1993年2月より嫌味な英国貴族のヒール、ロード・スティーブン・リーガルLord Steven Regal)としてWCWのリングに登場。以後、米国を本拠地に活動を始めた。

WCWでは1993年から1997年にかけてデイビーボーイ・スミス、リッキー・スティムボート、ラリー・ズビスコ、レックス・ルガー、ウルティモ・ドラゴンらと世界TV王座を争う。サー・ウィリアムことビル・ダンディーをマネージャーに従え、ザ・パトリオットとの米英抗争も行われた。

タッグ戦線でも活躍し、フランス貴族ギミックの若手ジャン=ポール・レベックと英仏貴族コンビを結成したほか、アメリカ南部出身のレッドネックだったボビー・イートンに英才教育を施し、クイーンズ・イングリッシュを話す紳士に変身させる(リングネームも紳士らしく、愛称の「ボビー」から正式名称の「ロバート」にマイナーチェンジさせた)。彼らとのチームは、その昔「貴族には青い血が流れている」と信じられていたことから、ブルー・ブラッズThe Blue Bloods)と名付けられた。イートンとのコンビでは、ナスティ・ボーイズ(ブライアン・ノッブス&ジェリー・サッグス)とハーレム・ヒート(スティービー・レイ&ブッカー・T)を相手に、WCW世界タッグ王座を巡る三つ巴の抗争を展開している。

1994年6月には新日本プロレスに初来日。同年8/24にはWCWマットでアントニオ猪木ともシングルマッチを行った。1995年4月の再来日では橋本真也のIWGPヘビー級王座にも挑戦。橋本のフィニッシャーである垂直落下式DDTを返しており、日本でも高い評価を得た(2005年に橋本が死去したため、現在唯一この技を返したレスラーとなっている)。以降も新日本の常連外国人選手となり、1997年8月にはG1クライマックスに初出場している。

1998年2月、WWFと契約。同年10月にビンス・ルッソー考案の肉体労働者ギミック「リアル・マンズ・マンThe Real Man's Man)」としてデビューしたが、大失敗に終わる(このギミックは、2003年に行われたRAW10周年記念特番でも「外してしまったギミック」の一つとして紹介された)。翌1999年1月、薬物依存の治療のためにWWFのサポートを得て入院するも、4月の退院とともにWWFはリーガルとの契約を解消。再びロード・スティーブン・リーガルとしてWCWに復帰した。

WCW復帰後はデビッド・テイラーとブルー・ブラッズを再編し、北アイルランド出身のフィット・フィンレーとも共闘するが、翌2000年2月にWCWを解雇され、WWFと再契約。同年9月、現在のリングネームであるウィリアム・リーガルWilliam Regal)に改名し、英国親善大使のヒールとしてWWF再デビューを果たす。WCW時代の貴族ギミックと同様、スーツ姿でアメリカ人にテーブルマナーをレクチャーし、押しつけがましくモラルを説く嫌味ぶりで観客のヒートを煽った。

10月にはアル・スノーを破りヨーロピアン王座を獲得。以後もストーン・コールド・スティーブ・オースチンやハードコア・ホーリーらを相手に防衛戦を続ける一方、2001年3月にWWFの(アングル上の)コミッショナーに就任するなど、リング内外で活躍した。ヨーロピアン王座陥落後はクリス・ジェリコと抗争を展開、4月のバックラッシュではコミッショナー権限を悪用し、状況に応じて自分が有利になるようルールが変更される「ダッチェス・オブ・クイーンズベリー・マッチ (Duchess of Queensbury Match)」なる試合を組み、ジェリコから勝利を収めた。

同年のWCW買収に伴い展開されていたWWF対アライアンスの抗争ストーリーにおいてはベビーフェイス的な振る舞いを見せることもあったが、10月にWWF側からアライアンス側に寝返る。2001年のサバイバー・シリーズでアライアンスはWWFに敗北し、ストーリー上アライアンスの人間はタイトル保持者以外全員解雇された。リーガルは復職するために「キス・マイ・アス・クラブ(Kiss My Ass Club)」という企画において、リング上でビンス・マクマホンの尻にキスをすることとなった。

2002年も1月のロイヤルランブルにてエッジからインターコンチネンタル王座を奪取し、以降もロブ・ヴァン・ダムと抗争するなど活躍したが、2003年春から約1年間、心臓病のため長期欠場。2004年の復帰後はフェイスターンし、ユージン、タジリと組んで、タッグ戦線で活動した。特にリーガルの「お茶汲み」として絡んだタジリとの間にはプライベートでも強固な信頼を築いた。タジリが呼ぶ「師匠」とは紛れもなくリーガルのことである。

2005年6月、トレードによりRAWからスマックダウンに移籍。英国出身の新人ポール・バーチルと英国人ヒールのタッグとして活動を開始した。その後バーチルが『パイレーツ・オブ・カリビアン』のジャック・スパロウを真似た海賊ギミックになり、それを嫌悪したリーガルは彼とのタッグを解消。

2006年、キング・オブ・ザ・リングを制覇したキング・ブッカーの王国に加入し、フィンレーと共に活動。ブッカーから "サー" の称号を授かり、サー・ウィリアム・リーガルSir William Regal)と名乗ったが、No Mercyにて訣別。以後はブルー・ブラッズの盟友デイブ・テイラー(デビッド・テイラー)とのコンビを復活させてタッグ戦線に進出した。

2007年6月に行われたドラフトにてRAWに移籍。8/6、RAWの新ジェネラルマネージャー(GM)を決定するバトルロイヤルに参加し、最後までリング下に隠れて勝利を収め、RAWのGMとなった。

2008年4月に行われたRAWの三時間スペシャル放送内で行われた一夜限りのキング・オブ・ザ・リングトーナメントにおいて、決勝戦でCMパンクを破り優勝。その後Mr. ケネディとの抗争に入るが、敗者退団マッチに敗れRAWを解雇される(実際には薬物規定違反による謹慎)。7月頃からフリーとして復帰し、ジェイミー・ノーブルとの抗争をきっかけにレイラを従えるようになる。11月の英国公演ではヒールながら地元のファンの声援を浴びサンティーノ・マレラに勝利しIC王者となった。

その後はCMパンクと抗争し、2009年1月に王座を奪われる。同年6月のトレードでECWへ移籍。ウラジミール・コズロフやエゼキエル・ジャクソンを従え、ヒール軍団のリーダー格となり、ECWの支配をもくろみクリスチャンの持つECW王座を狙い、何度か王座に挑戦するが王座奪取とはならなかった。その後軍団からコズロフを追放。ECW終了後はRAWへと移籍し、また2月から始まった新番組のNXTの第一シーズンではスキップ・シェフィールドを指導するプロを担当していた。

RAW移籍後は再びコズロフと組んでいたが仲間割れを起こし、サンティーノ・マレラとの新コンビでフェイスターンしたコズロフにチョークスラムを決められた。

2010年のクリスマスにおけるカリズ・キス・カムではザック・ライダーの頬にキスしたり、NXTシーズン5においてコメンテーターとして出演したりするなど、立場がフェイス化しつつある。

エピソード

  • スティーブン・リーガルというリングネームは、18歳のときにアメリカのプロレス雑誌を見て気に入ったアメリカ人レスラー、スティーブ・リーガル(1980年代にNWAセントラル・ステーツ地区やAWAで活躍した選手)から拝借したもの。
  • 大の爬虫類好きとしても知られ、家ではヘビやトカゲ、カメを飼っている。その他にも猫と犬もいる。彼はインタビューで「人間が一番下品な生物」と語っている。
  • 1997年、日本からの帰路の飛行機に搭乗中、泥酔しスチュワーデスに排尿したとして逮捕されている。またこの事件により飛行機は緊急着陸している。
  • 2003年から心臓病に悩まされていたが、2005年に心臓移植をする話もあった。
  • 日本で初めてRAW TVショーが行われた際に、タジリと組んで世界タッグに挑戦し勝利している。なお、この時日本のファンからは大"師匠"コールが起こり、実況のジム・ロスは「何と言っているのか分かりません」と説明できなかった。
  • アメリカ英語を徹底的にバカにして、発音や綴りを英国式に正すレッスンをリング上で行っていた時期があった。
  • 2005年、自伝 Walking a Golden Mile を発売。
  • 2007年12月に行われたRAW15周年記念大会ではフィナーレにすべてのスーパースターがリング上に集いビールで祝杯を上げたが、CMパンクとともにコーラを飲んでいた。

リングネーム

現在、過去に名乗ったことがあるリングネーム

  • スティーブ・リーガル
  • ロイ・リーガル
  • ウィリアム・リーガル(現在も使用)
  • リアル・マンズ・マン
  • "ロード" スティーブン・リーガル
  • "サー" ウィリアム・リーガル
獲得タイトル
WWF / WWE
  • インターコンチネンタル王座 : 2回
  • ヨーロピアン王座 : 4回(ディーロ・ブラウンと並んで最多獲得者)
  • ハードコア王座 : 5回
  • 世界タッグ王座 : 4回 (w / ランス・ストーム×2、ユージン、タジリ)
  • 2008年キング・オブ・ザ・リング優勝
WCW
  • WCW世界TV王座 : 4回
MCW
  • MCW南部ヘビー級王座 : 1回
PWI
  • 1994年度PWIシングルレスラー・ランキング : 18位(全500位中)

入場曲

  • Real Man’s Man
  • Promnarde
  • Gladiators
  • Regality - 現在使用中





橋 誠
1977/5/10

日本のプロレスラー。広島県福山市出身。

来歴

如水館高校時代に柔道を経験。卒業後、建設会社に入社するもプロレスラーの夢を捨てきれず自らトレーニングを積んで新人プロレスラー募集に応募し、1997年に全日本プロレスに入団。当時は川田利明の付き人を務めた。同期生には森嶋猛がおり、また丸藤正道は後輩であるが入団が近いためほぼ同期。

1998/3/25、対金丸義信戦でデビュー。2000年、バーニングを離脱した秋山準やマウナケア・モスマン等と組むようになり、バーニングを解散に追い込む。しかし、その直後に全日本プロレス分裂騒動が勃発し、同団体を退団、プロレスリング・ノアの旗揚げに参加。川田と袂を分かったため、新たに秋山準の付き人となる。また同年、秋山率いる軍団スターネス入りする。

2002/4/7、丸藤正道の持つGHCジュニアヘビー級王座に挑戦。試合中の丸藤の負傷によりレフェリー・ストップ勝ちし、第4代GHCジュニアヘビー級王者となったが、試合内容と相手の怪我による勝利という結果に納得がいかないとの理由から、試合直後に返上した。

2005/7/18、東京ドーム大会で師匠である秋山と組んで鈴木みのる&丸藤の持つGHCタッグ王座に挑戦したが敗れる。その後、ヘビー級に転向。また秋山の薦めによりスターネスを卒業。なお、スターネス離脱するも私生活の世話など、秋山と行動を共にすることが多く、秋山の運転手や秋山の個人会社が販売する「みんなの潤水」の配達もしている。

さらに同2005年には、非常に顔が似ていることで知られているDRAGON GATE所属の望月成晃が、天龍源一郎のセコンドとしてノア大会に来場。両者とも元々互いに意識はしていたものの全く接点が無かったが、試合開始前の入場時に秋山が橋の首根っこを掴んで入場、そのままセコンドの望月のところに連れて行き、無理矢理橋の頭を下げさせた。秋山曰く「こんな奴と顔が似ているなんて、申し訳ない」とのこと。

2007年、同じくスターネスを離脱した泉田純至とタッグを組み、チーム・成り上がりを結成。当時タッグ王座化していたグローバル・ハードコア・クラウン無差別級選手権の王者であった志賀賢太郎・川畑輝鎮組に挑戦、敗北する。

2008年には、川畑輝鎮の保有するグローバル・ハードコア・クラウン無差別級選手権に挑戦し、王座を奪取。その頃から「高尾山の天狗様からお告げを受ける」というギミックを使い始め、入場時には天狗のお面をつけるようになった。

2009年6月、小橋建太に敗れ、グローバル・ハードコア・クラウン無差別級王座陥落。

同年12月末日付で「年間報酬保障フリー選手契約が満了」となり退団、フリーランスとなった。現在はレスラー活動と並行してフィットネスクラブに勤務している。

フリーとなってからは、ノアの他にDRAGON GATEやバチバチなどに常連参戦している。

2010年2月7日のDRAGON GATE後楽園ホール大会では、顔の似ている望月成晃とタッグを結成、さらに3月3日にはシングルマッチで対戦。その後、望月のことを「兄貴」と呼ぶようになった。

人物

  • 秋山のブログではゴリラと合わせて「ゴリ天狗」と呼ばれている。

タイトル歴

GHCジュニアヘビー級王座
第4代(防衛0回) - 試合内容に納得せず、直後に返上。

グローバル・ハードコア・クラウン無差別級王座
第8代(防衛2回)

入場テーマ曲

  • 獣道 '07

橋誠ブログ

  

















 
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