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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
5/11


 
 


 
 

"ローラーボール" マーク・ロコ/初代ブラック・タイガー
"Rollerball" Mark Rocco/Black Tiger
1951/5/11

マーク・ハジーMark Hussey)は、イギリス・マンチェスター出身の元プロレスラー。

来歴

ドロップキックの名手として活躍した父のジム・ハジーからはプロ入りを反対されていたが、父のツアー中に密かにコリン・ジョイソンのトレーニングを受け、1969年に英国マットにてデビュー(デビュー年には諸説あり、1972年または1973年ともされる)。

マックス・クラブトリーの運営するデール・マーティンズ・プロモーションズ(ジョイント・プロモーションズ系列)を主戦場にヒールのポジションで活動し、1977年にはダイナマイト・キッドと抗争を繰り広げた。1979年9月にはローラーボール・マーク・ロッコのリングネームで国際プロレスに初来日し、阿修羅・原のWWU世界ジュニアヘビー級王座に2度挑戦している。

1980年から1981年にかけては、当時イギリスで武者修行中だったサミー・リーこと佐山聡と抗争を展開しており、佐山がタイガーマスクとして凱旋後の1982年4月には、覆面レスラーのブラック・タイガーに変身して新日本プロレスに初登場、タイガーマスクとのシングルマッチを行った。同年5/6にはグラン浜田を破り、タイガーマスクの負傷による返上で空位となっていたWWFジュニアヘビー級王座を獲得。20日後の5/26にタイガーマスクに敗れ短命王者で終わったものの、以降1980年代全般は新日本マットを日本での主戦場に活動。

1983年8月のタイガーマスク引退後はザ・コブラのライバルとなり、1984/12/28にはWWFの本拠地ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに出場し、コブラとのWWFジュニア王座決定戦を行った。1986年からは地元の英国マットでフライング・フジ・ヤマダこと山田恵一と世界ヘビーミドル級王座を争い、1987年8月には凱旋帰国した山田を追って素顔のマーク・ロコとして新日本に参戦。1989年7月には再びブラック・タイガーに変身し、獣神サンダー・ライガーのIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦した。

1990年1月に最後の来日を果たしてからは英国のオールスター・プロモーションズ(後のオールスター・レスリング)に定着したが、1991年のデイブ・テイラーとの試合中に背中を負傷、翌日のワーシングにおけるデイブ・フィンレー戦を最後に現役を引退した。なお、共にヒールのポジションにいたロコとフィンレーは英国では頻繁にタッグを組んでおり、1989年10月に行われたWWF英国遠征の前座試合にも揃って出場している。

リタイア後は2003年2月と2006年8月に、オールスター・レスリングの主催したリユニオン・イベントに登場している。

獲得タイトル

  • WWFジュニアヘビー級王座:1回
  • 世界ヘビーミドル級王座(UK版):3回
  • ブリティッシュ・ヘビーミドル級王座:2回

ブラック・タイガー
初代: マーク・ロコ(1982-)
2代目:エディ・ゲレロ(1993-)
3代目:シルバー・キング
4代目:ロッキー・ロメロ(2005-)
5代目:高岩竜一(2009-)

 
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冬木 弘道
1960/5/11-2003/3/19

日本の元プロレスラー。東京都江東区生まれ、神奈川県横浜市育ち。横浜商科大学高等学校出身。身長181cm、体重128kg。

来歴

1979年に国際プロレスに入門。デビュー戦は1980/5/4、北海道紋別市スポーツセンターの米村勉戦。

1981/8/9に国際プロレスが解散し、その後全日本プロレスに移籍。天龍源一郎の付き人を務めた。この時期、同じ若手だった三沢光晴とは、一緒に海に遊びに行くなどして仲が良かったという。1984年に海外初遠征。1985年12月体重を増加させて帰国後、ジャイアント馬場の命名によりサムソン冬木に改名した。1987年に再び海外遠征。プエルトリコ地区では、風貌が似てたため、「リキ・チョーシュー」を名乗った。帰国後、天龍同盟に参加。川田利明とのコンビ「フットルース」を結成。ただ川田は、天龍源一郎とのタッグの機会が多くなり、冬木が次第に孤立していく様になった。

当時天龍同盟と対立していた全日本の正規軍のジャンボ鶴田はそんな伸び悩み孤立した冬木に手を差し伸べ握手をするが、冬木は1990年に全日本を離脱しSWSに移籍し、再度天龍と共にREVOLUTIONの一員として行動を共にする。1992年のSWS崩壊後はWARに移籍。ここでリングネームを本名に戻す。理不尽大王を自称し、リング上でコントを披露するなど愛嬌のあるヒールとしてのイメージを定着させる。冬木軍として邪道、外道とのトリオで活躍した。この頃、リングネームの読みを「こうどう」に変えた。

1996年にWARを離脱。1997年に邪道、外道と共に冬木軍プロモーションを設立。岐阜県大垣市で冬木軍の旗揚げ戦を開催。その後はFMWで活躍。ミスター雁之助、金村キンタローらとTNR(チーム・ノー・リスペクト)を結成し、大仁田厚をFMWから追放することに成功。その後もハヤブサら正規軍を苦しめる反面、ユニット「ブリーフブラザーズ」を結成し、白のバスローブにブリーフ姿(BADBOY非道だけ、彦根観光ホテル・現:コンフォートホテル彦根の浴衣を着用)でコントを披露(実際は冬木は黄金のブリーフ争奪戦に参加しただけで、コントは邪道、外道、金村キンタロー、ミスター雁之助、BADBOY非道が行った)した。TNR解散後も井上京子、チョコボール向井らとECW JAPAN軍を率いて活躍、またFMWのコミッショナーに就任するなど、リング内外で団体を牛耳るパフォーマンスは、リング上に留まらない新世代のヒールスタイルとも言われた。

1995年11月には早稲田大学「早稲田祭」で、「プロレス研究会“爆烈”」主催の「冬木軍理不尽道」と題する講演会に邪道、外道とともに出演した。自身の娘の小学校の講演会にも出席し「意外だと思うけど、体育と給食が大嫌いだった」とカミングアウトしている。なお、その際に沢山の児童に囲まれて「大仁田になった気分だよ」と発言している(ヒールなので大仁田のようにファンに囲まれるような機会が無かったため)。

2001/10/27、川田とシングルで対戦し敗北。その後全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に天龍と組んで出場。2002年2月のFMWの経営破綻後、3月に自ら主催する団体としてWEWを設立。

2002/4/7、プロレスリング・ノアで15年ぶりに三沢光晴とシングル戦を行い、正統派のプロレスでも改めて高い技術を見せて冬木健在を誇示する。だが、その2日後、冬木軍主催興行の試合後に大腸癌を理由に引退表明を行う。その一報と病状を聞いた三沢は、WEWがまだ立ち上がっていない冬木のために、ディファ有明のたまたま開いていた4/14をすぐさま確保、冬木の引退興行を開催することを発表し、ノアの全面協力を受けて、冬木はリングで引退試合を行った。

なお「ガンによる引退」という発表については、それまでの冬木が演じてきた理不尽ギミックもあって、当初は「アングルではないか?」という疑問視をする者が少なからず存在していたが、その直後に『引退』などのアングルを嫌う三沢光晴が、冬木のための引退興行を急遽組んだ。この引退試合のためにノアはファンに向けて黄色の紙テープを持参するように協力を依頼し、10カウントゴングの後、冬木に向けて無数の紙テープが飛んだ。この時の収益金は全て冬木に贈られた。また、引退興行にはノアの内外から多くのレスラーが協力しており、さらに会場には、新日本の永田裕志、FMWで袂を分かっていた邪道&外道、さらには天龍までもが現れた。

その後、5/5に川崎球場でWEWの旗揚げ戦を行い、WEWではプロデューサーとして活躍。だが、ガンは肝臓などにも転移しており、2003/3/19、横浜市民病院でがん性腹膜炎のため死去、42歳没。葬儀の場では、GOEMON、敵対していたハヤブサまでもが号泣していた。

2003/5/5の川崎球場で一夜のみ復帰、橋本真也と電流爆破マッチを行う予定だった。亡くなる8日前の3/11、病院から外出許可をもらい、橋本に直談判をして対戦許可をもらっていた。なお大会では、橋本は金村キンタローと電流爆破マッチを行ったが、橋本は試合前に対戦の約束を果たすかのように、冬木の遺骨を抱え、自ら電流爆破に身を投じた。

人物

  • リング上の理不尽キャラとは裏腹に面倒見のよい性格であり、リング外ではプロレス界の常識人としての一面も持っており、彼を慕う人間は多かったという。
  • ヒール扱いを受ける契機となったのは、SWS移籍前後の週刊プロレスの記事での扱いである。移籍前に、天龍同盟が再構築されることが既定路線化した際、その原因の一つに天龍と冬木の不仲がある、と取り上げられたり、SWSへの移籍を「条件(金)が良かったから」と語ったと書かれたことにより、全日ファンだけでなく、天龍ファンの多くからも反感を持たれ、SWS旗揚当初から、冬木の試合ではブーイングの嵐となった。この流れは、阿修羅・原の復帰により薄まりはしたが、その後のSWS崩壊→WAR設立以降も、正統派のファイトを続けている間は反感として持続していた。
  • 国際プロレス入門時は特に格闘技経験はなく、一ファンとして押しかけ同然で入門を果たした。入門後はマイティ井上、阿修羅・原に鍛えられた。
  • 彼には娘が2人いるが、いずれも「理」を頭文字にしている。冬木は「女の子は結婚したら姓が変わるから、自分の娘だという証拠を残せ」と、親交のあった友人に娘が産まれた時にアドバイスした。「理」は「理不尽大王」の理である。

獲得タイトル

FMW・WEW

  • FMW二冠統一王座(世界ブラスナックル、インディペンデント・ワールド世界ヘビー級)
  • 世界ブラスナックル・タッグ
  • WEWタッグ
  • FMW世界ストリートファイト6人タッグ

全日本プロレス

  • アジアタッグ王座

WAR

  • WAR世界6人タッグ

CD

  • 『理不尽』(キングレコード、1995年)

出演

  • 『コロッセオ』 - 番組の司会を数回担当した。

映像

  • 『冬木軍ロード 〜理不尽編〜』(EMIミュージック・ジャパン、1997年)

著書

  • 『理不尽大王の高笑い:Fighting for myself』(フットワーク出版、1998年)
  • 『鎮魂歌:FMWはなぜ倒産したのか』(碧天社、2003年)

関連書籍

  • 冬木薫著『マミー、そばにいて』(日之出出版、2004年)

Kodo Fuyuki Theme - FMW-Shoot It (Cover Version)

冬木弘道追悼~電流爆破~

F[ef] VOL.5
THE LEGEND DAWNS
Torn Shadows





ポール・ダイヤモンド
Paul Diamond
1961/5/11

クロアチア出身の元プロレスラー。本名はトーマス・ボリックThomas "Tom" Boric)。

カナダに移民後、プロレスラーとしてAWAやWWF(現・WWE)などで活躍。素顔のポール・ダイヤモンドのほか、覆面レスラーのマックス・ムーンMax Moon)やカトーKato)などのリングネームでも知られる。若手時代のショーン・マイケルズのタッグパートナーでもあった。

来歴

ユーゴスラビア併合後のクロアチアで生まれ、1974年に家族でカナダ・マニトバ州のウィニペグに移住。学生時代はサッカーに熱中し、1980年にNASLのカルガリー・ブーマーズにゴールキーパーとして入団する。1982年からはアメリカ合衆国のタンパ・ベイ・ラウディーズに移り、NASLが活動を停止する1984年までプレイした。

サッカー廃業後もラウディーズの本拠地だったフロリダ州タンパにとどまり、ボリス・マレンコのジムでトレーニングを受け1985年にポール・ダイヤモンドのリングネームでデビュー。テキサス州サンアントニオ地区のテキサス・オールスター・レスリングでキャリアを積み、当初はニック・キニスキー(ジン・キニスキーの息子)とアメリカン・ブリード、後にショーン・マイケルズとアメリカン・フォースなるベビーフェイスのタッグチームを組む。マイケルズとのタッグでは、当時アメリカ遠征中だった冬木弘道と川田利明のジャパニーズ・フォース(後のフットルース)とも抗争を展開した。

その後アメリカン・フォースは解散し、マイケルズはカンザスシティのNWAセントラル・ステーツ地区に転戦。ダイヤモンドは1986年10月の全日本プロレス来日を経てメンフィスのCWAに参戦する。CWAでは日系アメリカ人レスラーのパット・タナカと意気投合し、ヒールのタッグチーム、バッド・カンパニーBadd Company)を結成。同地区認定のタッグタイトルを再三獲得した。

1988年よりAWAに進出。サンアントニオ時代の相棒だったショーン・マイケルズ&マーティ・ジャネッティのミッドナイト・ロッカーズと抗争を展開し、同年3月19日にはロッカーズからAWA世界タッグ王座を奪取した。1年後の1989年3月にケン・パテラ&ブラッド・レイガンズにタイトルを奪われるとタナカとのコンビを解消。フェイスターンしてザ・トルーパーと新チームを結成した。

1990年末、同年初頭にニューヨーク入りしていたタナカに続いてWWFと契約。WWFでのタナカの前任パートナーだったサトーのフロント入りに伴い、顔を覆面で隠し空手の道衣を身につけたニセ日本人レスラーのカトー(現地ではケイトーとも発音)に変身、オリエント・エクスプレスThe Orient Express)の新メンバーとなる。マイケルズ&ジャネッティのロッカーズとの抗争をギミックを変えた形で再開し、リージョン・オブ・ドゥームやハート・ファウンデーションなどの強豪チームとも対戦した。1991年には当時WWFと提携していたSWSに素顔のポール・ダイヤモンド名義でタナカと共に来日、チーム名は違えども、事実上のバッド・カンパニーとしての日本マット登場を果たした。

1992年、タナカのWWF離脱後にベビーフェイスとなり、サイボーグをイメージしたSF風マスクマンのマックス・ムーンに再変身する(初代のマックス・ムーンはコナンだったが、短期間でWWFを退団したため後任として2代目を担当することになった)。空中技主体のファイトスタイルと、両腕に装着されたデバイスから火花や白煙を噴射するパフォーマンスで子供達の支持を集め、ショーン・マイケルズのインターコンチネンタル王座にも挑戦。リポマンとの覆面レスラー同士のミニ抗争も組まれたが、マイクパフォーマンスのスキルに難があったため、大きなプッシュを受けることはなかった。

1993年上期にWWFを離れ、同年6月にポール・ダイヤモンドとして新日本プロレスに来日。1994年1月と7月には、WWF時代と同じスタイルのマックス・ムーンとして新日本に再来日している。アメリカでは、1993年10月よりECWでタナカとバッド・カンパニーを再結成し、パブリック・エナミーやバッド・ブリード(アクセル&イアン・ロッテン)、ケビン・サリバン&タズマニアックらと抗争。1994年には短期間なからWCWにも登場した。その後はメンフィスCWAの後継団体であるジェリー・ローラーのUSWAに参戦し、スティーブン・ダンと新チームを結成。1997年5月にトゥルース・コミッション(インテロゲーター&リーコン)を破りUSWA世界タッグ王座を獲得した。

1998年より、旧友ショーン・マイケルズがサンアントニオで主宰していたTWA(Texas Wrestling Academy)にレスラー兼トレーナーとして参加。TWAヘビー級王座を獲得する一方、師範代となってブライアン・ケンドリックやブライアン・ダニエルソンらをコーチした。TWA活動停止後の2001年にセミリタイアし、ホームタウンのウィニペグにてプロレスリング・スクール "Paul Diamond Hard Knocks Pro Wrestling Academy" を開校、後進の指導・育成にあたっている。近年では2004年にアラバマ州ハンツビルのインディー団体RCW(Rocket City Wrestling)にスポット出場し、マックス・ムーンのギミックも復活させた。

獲得タイトル

  • TASWテキサス・タッグ王座:3回(w / ニック・キニスキー×1、ショーン・マイケルズ×2)
  • CWAインターナショナル・タッグ王座:5回(w / ジェフ・ジャレット×1、パット・タナカ×4)
  • AWA南部タッグ王座:1回(w / パット・タナカ)
  • AWA世界タッグ王座:1回(w / パット・タナカ)
  • USWA世界タッグ王座:1回(w / スティーブン・ダン)
  • CWFヘビー級王座:1回
  • TWAヘビー級王座:2回





ビリー・キッドマン
Billy Kidman
1974/5/11

アメリカ合衆国のプロレスラーである。ペンシルベニア州アレンタウン出身。本名はピーター・ジェイコブ・グルーナーPeter "Jacob" Gruner)。

来歴

ザ・ロックやヨコズナ、近年ではバティスタやウマガといったスター選手を多く輩出しているワイルド・サモアン・トレーニングセンターで鍛えられ、1994年にプロレスデビュー。WCWに入るまでは、エース・ダーリングをパートナーに、ECWAやUSWA(以前はCWA)の団体でタッグ王座を獲得し、TWWFではシングルでクルーザー級王座にも載冠した。

WCW

プロレスラー養成所のWCWパワープラント卒業後、WCWのライトヘビー級の中心選手として活躍。レイヴェンの軍団フロックに所属していたこともある。1998年、フベントゥ・ゲレーラを破りWCW・クルーザー級王座を獲得し、同階級で活躍する。フロック脱退後はフィルシー・アニマルズに所属し、またニューブラッド軍としても活躍する。レイ・ミステリオ、コナンをパートナーに、WCW・タッグ王座を獲得するなどタッグ戦線でも結果を残す。フィルシー・アニマルズの女子マネージャーが、後に妻となるトリー・ウィルソンである(2006年10月離婚)。同団体ではハルク・ホーガンとも抗争した経験を持つ。レイ・ミステリオとWCW・クルーザー級タッグ王者を獲得したが、同団体が崩壊。

WWF/WWE

WCW崩壊によりWWEへ移る。ECW/WCW連合軍アライアンスのメンバーとして活動。アライアンスのメンバーは入場時にほぼ全選手ブーイングで迎えられるが、キッドマンだけは試合内容でも好ファイトを見せ歓声が飛んでいた。その後WWEで初めて行われたWCWクルーザー級王座戦でグレゴリー・ヘルムズに勝利する。その後アライアンスが消滅すると、ミステリオやTAJIRI、ジェイミー・ノーブルといったライバル達と死闘を繰り広げ、幾度となくクルーザー級王座を奪取し、WWEのクルーザー級全盛期を支える。

2003年3月、試合中にシューティングスタープレスを失敗したため、首と肩を負傷してしまった。7/11にWWEディーヴァのトリー・ウィルソンと結婚した。

2004/7/7に、ポール・ロンドンと組み、お互いクルーザー級でありながらダッドリー・ボーイズを破りWWEタッグ王者を獲得した。しかし同年8月のチャボ・ゲレロ戦にて、得意のシューティングスター・プレスを放った際に、チャボの顔にシュートで膝を直撃させてしまい、チャボはその後戦線離脱。このトラウマから、キッドマンはSSPが出せなくなってしまう(実際はWWE側から禁止されたからである)。2005/7/8WWEを解雇された。

解雇されてしばらくすると、カリスマ性の欠如と負傷欠場が多かったことが解雇の理由である、という噂が流れていた。しかし、キッドマンはイギリスの新聞社のインタビューでこれを否定。本人は、飛行機の座席がエコノミークラスであることに異議を唱えたために解雇されたとしている。

WWE解雇後

解雇後は数度インディー団体に登場している。TNAのバックステージ訪問の噂が何度か流れたが、契約には至らなかった。「2006年7月WWEのダーク・マッチに日本人の覆面レスラーのギミックとして試合をしたと言われているが、こちらも契約にはいたらなかった。その後もICW等のインディー団体に出ているようである。

プライベートではWWEディーヴァのトリー・ウィルソンと結婚していたが、2006年10月にトリーが自身のブログで離婚を発表した(ページ自体はすぐに削除)。離婚の原因の一つはトリーのロードであるらしい。

プロレス復帰

2007年になり、プエルトリコのWWCでレスリングをしていた記録の存在が明らかになり、本格的にプロレス界へ戻ってくるのではないかと見られていた。この時のレスリングタイツには「男気」という文字が刻まれていた。

2月末にキッドマン自身がラジオ放送で、2007年4月中に来日の予定があることを明かした。しかし、4月に入っても参戦についての情報が無いため、この件については謎に包まれていたが、ICWという団体の日本ツアーで、4/12 - 4/20の間に来日し、日本にある複数の米軍キャンプ地で黒いドラゴンマスクギミックとして試合していることが判明。なお、実際この試合を見た人のブログによると、身体は全盛期時代のスマートな体に比べ、ぽっちゃりとしたヘビー級の体型になり、空中技は得意のシューティングスタープレスは出すことが出来ずに、ドロップキックしか見せなかったそうである。

2007/6/3、ニューキャッスルで行われたAWFとWSWの合同興行で、ブライアン・ダニエルソンからWSW・ヘビー級王座を奪取。フィニッシュはシューティングスタープレスではなく、セカンドロープからのBKボムであった。インディー団体のチャンピオンとしての活躍が期待される。7/8には、テキサスにてショーン・ウォルトマンと組みTNAから剥奪されたNWA世界タッグチーム王座を3WAYマッチで戦うが、惜しくも奪取には失敗した。

9/15、WWEの傘下団体であるFCWに登場したが、FCW王者ハリー・スミスに敗れた。その後も継続参戦を続け、同年12月にFCWのトレーナーとなり、主にテクニカル面の指導を担当している。

タイトル歴

  • CWA
    • CWA・タッグチーム王座 :1回(w / エース・ダーリング )
  • ECWA
    • ECWA・タッグチーム王座 :1回(w / エース・ダーリング )
    • ECWA・ホール・オブ・フェイム (2004年度)
  • TWWF
    • TWWF・クルーザー級王座 :1回
  • USWA
    • USWA・タッグチーム王座 : 1回(w / エース・ダーリング )
  • WCW
    • WCW・クルーザー級王座 :3回
    • WCW・クルーザー級タッグ王座 :1回(w / レイ・ミステリオ)
    • WCW・タッグ王座 :2回(w / レイ・ミステリオ×1、コナン×1)
  • WWE
    • クルーザー級王座 :4回
    • WWEタッグ王座 :1回 (w / ポール・ロンドン)
  • WSW
    • WSW・ヘビー級王座 :1回
  • PWI (Pro Wrestling Illustrated)Top 500 Wrestlers
    • 1997年 202位 (1位はディーン・マレンコ)
    • 1998年 132位 (1位はスティーブ・オースチン)
    • 1999年 31位 (1位はスティーブ・オースチン)
    • 2000年 72位 (1位はトリプルH)
    • 2001年 38位 (1位はカート・アングル)
    • 2002年 53位 (1位はロブ・ヴァン・ダム)
    • 2003年 78位 (1位はブロック・レスナー)
    • 2004年 92位 (1位はクリス・ベノワ)
    • 2005年 105位 (1位はバティスタ)
    • 2006年 ランク外 (1位はジョン・シナ)
    • 2007年 ランク外 (1位はジョン・シナ)

入場曲

You Can Runは、WWE所属のコンポーザーであるジム・ジョンストンがキッドマンの入場曲として書き下ろした楽曲のひとつであり、彼が退団するまで使用された。Lorddikim Allahが歌っているという説が有力だが、詳しいことは分かっていない。アルバム「WWE ThemeAddict:The Music Vol.6」に収録されている。

その他入場曲
  • Kid Krusher
  • Mortal Wound
  • Extreme Impact
  • Extreme Impact (V2)

なお、WWE退団後の入場曲は不明。

その他

  • 人気キャスターのジェイ・レノとNBAのカール・マローンをWCWに参戦できるように、鍛え上げた。
  • キッドマンとミステリオのタッグは、WCW・タッグ王座を獲得した歴代王者チームの中で、最軽量(合計360ポンド)という記録を持つ。
  • フジテレビにて放送されていた『WWEスマックダウン』にて、担当アナウンサーの千野志麻がキッドマンのファンであった(「私のビリー」というのが口癖)。そのため番組内での登場回数は多く、ガレッジセールからもネタにされた。

  



高橋 藍
1982/5/11

日本のシュートボクサー。千葉県出身。シーザージム所属。本職は講談社のグループ会社に勤務する編集者。

来歴

2009/6/28、シュートボクシング「ヤングシーザー杯 TOKYO 2009」でプロデビュー。岡加奈子と対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

2009/8/23、シュートボクシング「Girls S-cup 2009」に出場。1回戦で石岡沙織と対戦し、2度のダウンとシュートポイント1を奪われ、大差の判定負けを喫した。

2010/3/19、JEWELS初参戦となったJEWELS 7th RINGでASAKOとシュートボクシングルールで対戦し、顎の負傷によるTKO勝ちを収めた。その後、JEWELS 8th RING、JEWELS 9th RINGとJEWELSに連続参戦し、3連勝を果たした。

2010/8/29、Girls S-cup 2010に出場。1回戦でクリスティーナ・ジャルジェビック、準決勝でV一に判定勝ちを収めるも、決勝でRENAに判定負けを喫し、準優勝となった。

2010/11/23、S-cup 2010でカリーナ・ハリナンと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。

2011/2/19、シュートボクシング「SHOOT BOXING 2011 act.1 -SB166-」でムエタイアイドルサーサ・ソーアリーと対戦し、2Rに2度目のダウンを奪ったところでレフェリーストップによるTKO勝ちを収めた。

入場テーマ曲

  • アイアイ

4/20発売!
女子総合格闘技
JEWELS
WOMEN'S FIGHTING
ENTERTAINMENT
女子総合格闘技JEWELS WOMEN'S FIGHTING ENTERTAINMENT~


JEWELS紹介


Girls S-cup 2010
Girls S-cup 2010
女子高生ファイター
RENA
涙の初代クイーン奪取
Girls S‐cup〈2009〉
女子高生ファイターRENA涙の初代クイーン奪取Girls S‐cup〈2009〉

















 
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