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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
5/13


 
 


 
 

ダニー・ホッジ
Danny Hodge
1932/5/13

ダニエル・アレン・ホッジDaniel Allen Hodge)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。オクラホマ州ペリー出身。日本では「鳥人」、海外では「Dynamite(ダイナマイト)」の異名をとった。

ビル・ロビンソンをして、ルー・テーズ、カール・ゴッチと並ぶアメリカの3大シューターと言わしめた。アメリカでは「世界中の偉大なスポーツマン・ベスト100」や過去75年間のプロレスラートップ12にも選ばれている。

来歴

少年時代からレスリングを学び(本人曰く「アマ、プロの区別はなく "レスリング" を学んだ」という)、アマチュアの世界でオクラホマ州チャンピオンの他、AAUを4度、全米大学選手権を3度も制し、19歳でヘルシンキオリンピックに出場し5位入賞、メルボルンオリンピックでは銀メダル獲得と輝かしい成績を残している。

またレスリングだけではなくアマチュア・ボクシングでも実績を残しており、大学でレスリング部に所属していた時にボクシング部の部員に誘われボクシングを始め、オクラホマ州チャンピオン、MSGチャンピオンと続けて1958年には全米ゴールデングローブ・ヘビー級チャンピオンにまでなっている。また短期間(約10か月)ではあるがプロボクサーとしても活動しており、戦績は8勝2敗。後にプロレスラーとなってからもその片鱗を見せ、日本プロレスに来日した際には、アントニオ猪木をパンチでノックアウトしたこともある。

1959年、NWAのプロモーターで元NWA世界ジュニアヘビー級王者のレロイ・マクガークにスカウトされ27歳でデビュー。プロレスラーとしてはエド・ルイスに師事。プロレスの世界でも天才ぶりを見せつけ、デビューからわずか1年後の1960年7月にNWA世界ジュニアヘビー級王者に就いた。以後通算12年5か月もの間、同王者に君臨し続ける。

1967年、国際プロレスの旗揚げシリーズに初来日。ヒロ・マツダの挑戦を受け、60分時間切れドローの大熱戦を演じた。1968年1月にも国際に参戦し、ルー・テーズと対戦してTWWA世界ヘビー級王座を奪取。ジュニアヘビー級とヘビー級の壁を、大王者テーズ相手に超えてみせた。

1968年1月には日本プロレスにも参戦。ウイルバー・スナイダーとタッグを組み、ジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲からインターナショナル・タッグ王座を奪取した。1974年7月には全日本プロレスに参戦。ジャンボ鶴田と対戦し、30分時間切れで引き分けている。

1976年3月、ルイジアナ州でヒロ・マツダを破りNWA世界ジュニアヘビー級王者を再び獲得した。しかし、直後に自動車事故を起こし首を骨折する重傷を負い、そのまま引退。

引退後はレスリングのコーチを務めた。現在ではオクラホマ州の複数のMMA団体からコミッショナーへの就任を要請され実際にその職に就いている。2005年にはWWE・RAWにゲスト出演した。同年10月に久々に来日し、ビル・ロビンソンがコーチを務める高円寺のレスリング・ジム「U.W.F.スネークピットジャパン」にてトークショーを行った。その際、ビル・ロビンソンと3分間のスパーリングを行っている。2008年10月には "プロレス・エキスポ" 立会人として来日、往年の "リンゴ潰し" の健在ぶりを見せた。

スタイル

レスラーとしては試合展開に応じたテクニックを駆使するスタイルで、ヘッドロックやコブラツイストなどの基礎的な技をキャリア全般を通して大切に使い続けた。しかしホッジの類稀な身体能力、特に並外れた怪力はそれらシンプルな技全てに桁外れの威力を与えたと伝えられている。一応はジュニアヘビー級の選手だが、上記にもある通りヘビー級選手とも互角以上の戦績を残したオールラウンダーだった。

稀代のシューターとして名を轟かせたホッジだが、活躍していた時代の関係もあり異種格闘技戦を行った記録は無い。しかし、「もしも現在の総合格闘技に全盛期のホッジが出場したなら」という質問にルー・テーズは「1分以内に対戦相手は目をえぐられ、鼻をもがれ、さらに両耳を引きちぎられるだろうね」と答えている。これにはビル・ロビンソンも同様の意見を述べており、全盛期のホッジの強さを伝えるには十分すぎる強烈なエピソードといえる。なお後述の「キレやすい性格」を加味した評価でもあり、現役時代のホッジを知る人物は異口同音に「なぜなら彼はキレてしまうからだ」と付け加えている。

逸話

  • 些細なことですぐキレてしまう性格で(テーズ曰く、「キレると目がトローンとなる」そうである)、キレると何をするかわからないため、他のレスラーから非常に恐れられた。テーズが対戦中、張り手を食らわせた瞬間ホッジがキレたことを察し、すぐさま場外にエスケープしたという逸話もある(恐れて逃げたのではなく、時間をとって冷静になるのを待った)。この試合後ホッジはテーズの控室を訪れ謝罪。その際に「ミスター・テーズ。私はあなたをとても尊敬していますが、顔を平手で張るのだけはやめてください。何をするのか私でもわからなくなりますから」と言ったという。なお、ホッジはそれ以前にSTFをかけられた瞬間にもキレてテーズに謝罪しており、テーズはホッジ相手に何をしたらいいのか分からなくなったという。育った場所が消防署だったため、昼夜かまわずサイレンの音に襲われて育ったことがキレやすい性格になった原因であるといわれている。前述の「総合格闘技最強伝説」はこのような性格も加味した評価であるが、「魅せる」要素も不可欠であるプロレスの世界では、キレやすい性格はレスラーとの信頼関係を損なうものであり、決して長所とはいえない。現在のホッジの総合的評価がテーズの後塵を拝しているのも、それが理由であろう。
  • ホッジが引退後に新日本プロレスの会場を訪れた際、控え室にあるシャワーを借りた。しかし後からシャワールームを訪れたレスラーたちが「シャワーのコックが壊れている」と訴えてきたため調べてみると、事前に使用したホッジがあまりにもコックを固く閉め過ぎたことが原因だった。本人にとっては普通に閉めたつもりが、現役のレスラーたちですら誰一人コックを捻ることができない状態だったという。
  • ホッジのトレードマークとなっているリンゴを片手で握りつぶすパフォーマンスは、70歳を過ぎた現在でも健在である。なお利き手は関係無く可能で、両手にリンゴを持った状態から同時に握りつぶすこともできる。
  • テーズの車に乗せてもらって移動中、後部座席で「Sorry(ちょっとすみません)」と伝えてマスターベーションを始めたことがある。「ジュニアの体重を保つため」とのこと。彼は試合前にも同様の行為をしていたとのことで、本人曰く「これぐらいで丁度いい」との話。
  • 上記の自動車事故は、深夜の移動中に誤って湖に転落したというものだが、ホッジは首骨折の重傷を負いつつも、片手で自分の頭部を支え、自力で泳いで湖を脱出した。ここでも規格外ぶりを見せ付けている。
  • ホッジの最大・最強のライバルと言えばヒロ・マツダである。ジュニアヘビー不毛と言われた時代、この二人は勝ったり負けたりしながら数多くの死闘、熱闘を展開し、ヘビー級選手を押しのけてメインイベントを張ることもあった。特にマツダが日本人で初めてNWAジュニアヘビー級王座をホッジから奪取した試合は今でも語り草になっている。

 
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キラー・カール・クラップ
Killer Karl Krupp
1934/5/13 - 1995/8/24

カナダ・ニューブランズウィック州(出生地はオランダ、ギミック上はドイツ・ハノーファー)出身のプロレスラー。

本名はジョージ・モンバーグGeorge Momberg)。ナチ・ギミックの悪役レスラーとして知られ、1960年代後半から1980年代前半にかけてアメリカ合衆国やカナダで活躍した。

ナチ・ギミックの先達であるフリッツ・フォン・エリック同様にクロー攻撃を得意とし、ブロンズ・クロー青銅の爪と称された。総合的な評価としては一流半のB級悪役レスラーというところであるが、来日時期のめぐり合わせもあり日本マットでは数々の実績を残した。

来歴

1957年、西ドイツ(当時)にてダッチ・モンバーグDutch Momberg)のリングネームでデビュー。1970年にカナダに渡り、マッドドッグ・モンバーグMad Dog Momberg)と改名しヒールとして活動した後、1972年よりナチ・ギミックのキラー・カール・クラップに変身する。

1973年2月に最末期の日本プロレスに初来日、ジョニー・バレンタインと組み大木金太郎&坂口征二からインターナショナル・タッグ王座を奪取した。3月に大木金太郎&上田馬之助に奪回されたが、同年4月にはフリッツ・フォン・エリックと組んで再度獲得している。同王座はインターナショナル・ヘビー級王座と並ぶ日本プロレスの至宝であり、限られた一流レスラーしかそのベルトを巻いていない。末期の混乱に乗じてとはいえ、日プロマット上でインタータッグ王座を二度戴冠した実績は特筆される。インタータッグを複数回戴冠した外国人側のレスラーはクラップ以外ではドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク(ザ・ファンクスとして2回獲得)がいるだけである。

1974年4月には新日本プロレスの第1回ワールドリーグ戦に参加、予選リーグおよび決勝リーグでアントニオ猪木にフォール勝ちした。翌年の第2回大会にも参加し、公式戦で猪木にリングアウト勝ちしている。両年とも決勝戦では猪木に敗退した。新日の絶対的エースとして君臨した猪木が完敗を喫することは少なく、この後MSGシリーズ、IWGPリーグ戦と名を変え1987年まで続く新日の春のシングル・リーグ戦公式戦において、有名な第1回IWGP(1983年)優勝戦のハルク・ホーガン戦での場外失神KO負けを除けば、猪木がフォールまたはギブアップ負けしたのはこのクラップ戦の2度以外にない。初期新日の外人招聘ルートの弱さに起因するとはいえ、まさに並ぶものなき実績と評価できる。1970年代後半になってNWA加盟やWWWF(現在のWWE)との提携などで外人招聘ルートが改善してからも、ブルート・バーナードとのコンビで北米タッグ王座に挑戦するなど、それなりの待遇を受けている。これは猪木が団体創設初期のクラップの働きを評価していたからといえる。

性格的に粗暴で無愛想な一面があり、新日本プロレス参戦時の出来事として、巡業先の旅館で出された料理を「豚のエサ」と言って御膳を蹴り飛ばしたり、仲間のレスラー達との軋轢も多く、外人レスラーの巡業担当だったミスター高橋が自著でそのエピソードを綴っている(クラップの参戦当時はまだホテルが少なく交通が不便で中小都市での巡業も多かったので、外国人レスラーを旅館に泊めるという事態もあったようである)。それとは逆に1980年の国際プロレス参戦時は、娘の写真を見せて親バカぶりを発揮する等、それまでの無頼漢なイメージを覆すエピソードも残している。国際プロレスではラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座にも挑戦した。

1981年、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にバロン・フォン・ラシクと組んで出場したのが最後の来日となったが、ジャイアント馬場に言わせると「同じように峠を過ぎていたラシクよりもだいぶ落ちた。他団体では態度が大きかったと聞くが、全日本に来たときは(ザ・ファンクス、ハーリー・レイス、ブルーザー・ブロディなど)メンバーがいいせいもあって小さくなっていた」ということである。

カナダを主戦場としたクラップはNWA、AWA、WWFなどアメリカ本土におけるメジャーテリトリーでの実績は多くはないが、1970年代はテキサス地区でフリッツ・フォン・エリックやキラー・カール・コックスと抗争し、インディアナポリスのWWAではバロン・フォン・クラップBaron Von Krupp)のリングネームでディック・ザ・ブルーザーやアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦している。1975年にはフロリダでダスティ・ローデスやマイク・ジョージと南部ヘビー級王座を争い、1978年はテキサスでテリー・ファンクとブラスナックル王座を巡る抗争を展開した。

1980年には国際プロレスに共に参戦したジプシー・ジョーの斡旋でテネシー州メンフィスのCWAに進出し、ジミー・ハートをマネージャーにジェリー・ローラーやビル・ロビンソンと対戦。エル・モンゴルと組んでAWA南部タッグ王座も獲得した。1982年には当時のNWAの総本山であるセントルイスのキール・オーディトリアムでジミー・スヌーカと試合を行ったこともある。1984年初頭にはジョージアのGCWに短期間参戦、ポール・エラリング率いるヒール軍団リージョン・オブ・ドゥームに加入し、ロード・ウォリアーズと共闘した。キャリア末期となる1980年代半ばからはカナダに定着し、オンタリオ地区でアンジェロ・モスカらと抗争した。

1995年、カナダ・ニューブランズウィック州モンクトンにて心臓麻痺により死去。61歳没。

獲得タイトル

  • IW北米ヘビー級王座:3回
  • インターナショナル・タッグ王座:2回(w / ジョニー・バレンタイン、フリッツ・フォン・エリック)
  • NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:1回(w / クルト・フォン・スタイガー)
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):2回
  • NWAブラスナックル王座(テキサス版):2回
  • NWA英連邦ヘビー級王座(ニュージーランド版):1回
  • NWAオーストラジアン・タッグ王座:1回(w / キング・カマタ)
  • AWA南部タッグ王座:1回(w / エル・モンゴル)
  • WWC北米ヘビー級王座:1回
  • AGPWインターナショナル・ヘビー級王座:1回
  • AGPW北米タッグ王座:1回(w / ハンス・ハーマン)

 etc.






ジミー・ヤン
Jimmy Yang
1981/5/13

アメリカのジュニアヘビー級のプロレスラー。韓国系アメリカ人。カリフォルニア州ハリウッド出身。

来歴

WCWパワープラント出身。WCWに所属していた2000年には、カズ・ハヤシ、ジェイミー・サンと共にヤング・ドラゴンズを結成。WCWがWWFに吸収された後の2001年3月、WWEを解雇された。その後、全日本プロレスに長期参戦する。全日本プロレスでは、まだ選手層の薄かった全日ジュニアを大いに盛り上げた。

その後再びWWEと契約を結ぶ。その際、リングネームをアキオ明夫)と変更。2003/10/19に行われたWWE SmackDown!の特番、No Mercyにおいて、ケイジ・サコダと共にTAJIRIの用心棒の日本人としてWWE再登場。ヒールのタッグチーム「兄弟」を結成。TAJIRIとは有楽町の飲み屋で出会った、というギミックでの登場であった。TAJIRIがRAWに移籍した後もSmackDown!に残り、ムービースターというアングルで、道着(鈴木健想のコスチューム同様、日本風というより中国風であったが)を身に付け、常に無口であった。これはアジア的イメージの表現のため、また日本人ギミックでありながら本人が日本語をほとんど話せないことによると思われる。

2005/7/5にWWEから解雇された。その年の解雇されるべきではなかった選手という投票では、高い数字を出しており、ファンも納得していなかった結果になった。

WWE解雇後は、もう一度WWEへの出戻りを目指すため、以前参戦した全日本プロレスには出ず、WWEの目の届きやすいアメリカでの活動に専念することにした。2005/10/1より、ROHを主戦場としている。また、11/3に行われたハッスル・マニアに登場。リングネームをジミー・ヤンに戻し、かつてチームを組んでいたカズ・ハヤシとのタッグで試合を行った。

2006/9/29に、南部で生まれ育って3代、生粋の陽気なレッドネックであるという「黄色人種なのに南部男」Jimmy Wang YangというギミックでSmackDown!に再デビューを果たした。復帰デビューから2週続けて敗れるも、その後は素早い動きと空中技で勝利を重ね一定の人気を得る。

2007年に入ってからもクルーザー級部門のトップ選手として活躍し、7月にはトリー・ウィルソンをマネージャー兼タッグパートナーにつけ、ケニー・ダイクストラ&ヴィクトリア組と抗争を繰り広げる。その後は主にジョバーとして新人レスラーなどの引き立て役となっていた。

2010/4/22にWWEから解雇される。同年7月古巣ともいえる全日本プロレスのジュニアヘビー級リーグ戦に参加している。

リングネーム

  • Jimmy Wang Yangジミー・ワン・ヤン)現在WWEで使用中
  • Jimmy Yangジミー・ヤン
  • Akioアキオ

獲得タイトル

  • 中央アメリカミドル級王座 : 1回

全日本プロレス

  • ジュニアタッグリーグ : 1回
  • 2010ジュニア・ヘビー級リーグ戦:優勝





ジャンボ 鶴田
1951/3/25 - 2000/5/13

三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)。
本名、鶴田 友美。ミュンヘンオリンピック、レスリンググレコローマンスタイル最重量級代表を経て全日本プロレスリング入り、ジャイアント馬場後継の次の時代の大型エースとして期待され
順調に成長し 1980年代、トップレスラーとして活躍したが、B型肝炎を発症したことにより
第一線を退く。その後、桐蔭横浜大学、中央大学、慶應義塾大学で非常勤講師を勤めた他、
アメリカオレゴン州ポートランド州立大学教授となるなど、教育者としても活躍した。
山梨県東山梨郡牧丘町(現山梨市)出身。血液型O型。ニックネームは「若大将」のち「怪物」。
座右の銘である「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」は、プロレスの師である
ジャイアント馬場から継承したもの。オリンピック出場時の選手名簿には、194cm 112kgとある。
タイトル
  • 三冠ヘビー級王座 - 3度戴冠
  • AWA世界ヘビー級王座
  • インターナショナル・ヘビー級王座 - 3度戴冠
  • UNヘビー級王座 - 5度戴冠
  • インターナショナル・タッグ王座
  • PWF世界タッグ王座
  • 世界タッグ王座 - 7度戴冠。                                        パートナーは谷津嘉章(5回)、ザ・グレート・カブキ、田上明(各1回)
  • NWA認定デトロイトタッグ王座 - パートナーはジャイアント馬場。1980年6/28に
  • アメリカ合衆国デトロイトで行われたワンナイトトーナメントで優勝して獲得したが、       1度も防衛戦を行わずにタイトルを返上した。

  • 2000/5/13、フィリピン・マニラにて、肝臓移植手術中にショック症状、              出血多量により死去。享年49歳
  • 同年6/18、「ジャンボ鶴田メモリアル献花式」が青山葬儀所でとり行われる。
  • 現在、山梨県の実家近く慶徳寺に永眠している。墓碑には「人生はチャレンジだ!!」と刻まれている。
1990/4/19、最後の対天龍源一郎戦。鶴田が勝利し、三冠王座二度目の防衛(天龍戦の通算成績は4勝3敗2分)。天龍はそれまでに日本人レスラーで唯一、馬場にピンフォール勝ち(3カウント勝ち)をしたレスラーで、それまで鶴田とも対等の闘いをしていたが、前シリーズでタッグ決別したハンセンによる試合前の襲撃(ラリアット)のダメージが回復しないまま、鶴田の勝利に終わる。シリーズ終了後に行われた新日本・全日本・WWF共催の東京ドーム大会直後、天龍は突如全日本プロレスを退団。
  • 1988/6/10、日本武道館にてインターナショナル・タッグ王者・ロード・ウォリアーズに勝利し、PWF世界タッグと王座統一し、初代世界タッグ王者となった(パートナーは谷津嘉章)。
  • 1989/4/18、東京大田区体育館で三冠統一戦を行いハンセンを破り、インターナショナルヘビー級・PWFヘビー級・UNヘビー級の各王座を統一し、三冠統一の初代王者となった。
  • 1985/11/14、大阪城ホールでの、対長州力戦。結果は、60分時間切れ引き分け。控え室で完全なスタミナ切れを起こしていた長州を尻目に、鶴田は街へ飲みに繰り出すという伝説を残す。
  • 1983/8/31、ブルーザー・ブロディより、インターナショナルヘビー級王座獲得。        第14代チャンピオンとなった。
  • 1984/2/23、蔵前国技館においてニック・ボックウィンクルとの、AWA世界ヘビー、      インターナショナルヘビーのダブルタイトル戦を行い、鶴田が勝利しインターナショナルヘビー級王座防衛ともに、第30代AWA世界ヘビー級王者となった。その後、AWA王座を同年5月13日にリック・マーテルに敗れるまで16回の防衛を果たした。日米2国間を往復しての世界王座防衛は、日本人初の快挙。
  • 1984/9/23、元日本航空のスチュワーデスであった、荒牧保子さんと結婚。
  • ジャイアント馬場にスカウトされ、「全日本プロレスに就職します」とコメントし、プロレス界入り
  • 1973/3/22、アメリカ修行。150戦消化の後、同年10月1日帰国。10/6、            日本デビュー戦(後楽園ホール)。
  • 1975年、馬場と組んでの、インタータッグ選手権。相手はザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンク兄弟)。
  • 1976/8/28、UNヘビー級のタイトル獲得。
  • 同年3/10〜1979年1/5まで、十番勝負。通算成績、4勝2敗4分。

主なタイトル歴

  • 三冠ヘビー級王座 - 3度戴冠
  • AWA世界ヘビー級王座
  • インターナショナル・ヘビー級王座 - 3度戴冠
  • UNヘビー級王座 - 5度戴冠
  • インターナショナル・タッグ王座
  • PWF世界タッグ王座
  • 世界タッグ王座 - 7度戴冠。パートナーは谷津嘉章(5回)、ザ・グレート・カブキ、田上明(各1回)
  • NWA認定デトロイトタッグ王座 - パートナーはジャイアント馬場。1980年6月28日にアメリカ合衆国デトロイトで行われたワンナイトトーナメントで優勝して獲得したが、1度も防衛戦を行わずにタイトルを返上した。

入場テーマ

  • チャイニーズ・カンフー
  • ローリング・ドリーマー(作曲:川口真) - インストバージョンを使用。
  • T.T.バックドロップ(1983/8/31・ブルーザー・ブロディ戦(リングアウト勝ちによりインターヘビー級奪取の試合)のみの限定使用)
  • J(作曲:鈴木宏昌、1983年12月から。1980年代前半とそれ以降でそれぞれ違うバージョンのものを使用していた)

レコード発売

  • ローリング・ドリーマー(1981年、作詞:喜多條忠 作曲:川口真)
  • 明日があるさ(1984年、作詞:山田孝雄 作曲:幸耕平)
※ 坂本九の『明日があるさ』とは全く別の楽曲

著作

  • 『リングより愛をこめて:ジャンボ鶴田のファッショナブル・トーク』(講談社, 1981年)
  • 『ジャンボ鶴田の受験は格闘技だ』(ごま書房, 1996年)
  • 『ジャンボ鶴田のナチュラルパワー強化バイブル』(ナツメ社, 1999年)

ジャンボ鶴田おまとめ動画集
ジャンボ鶴田ビデオリスト

  



ジョージ・ゴーディエンコ
George Gordienko
1928/1/7 - 2002/5/13

カナダ・マニトバ州ウィニペグ出身の元プロレスラー、画家。

いわゆる「最強伝説」を持つ史上屈指の実力者だが、後述する理由によりプロレス史の表舞台に立つことはなかった。日本での異名は『岩石男』。

来歴

18歳の時に地元でその天性の怪力とレスリングの才能を見込まれてスカウトされ、レスリングの名門ミネソタ大学に進学。在学中の1947年にミネアポリスでデビュー。しかし恋人の影響で共産主義の活動に参加したため、赤狩りの対象となり国外退去処分となってしまう。

帰国後、画家を志すが生活は苦しく、結局リングに復帰。彼の評判を聞いたスチュ・ハートに呼ばれカルガリーに拠点を移しスチュの指導を受ける。

1953年、カナダに遠征した時のNWA世界王者ルー・テーズに挑戦、互角の勝負を繰り広げる。その後はカナダ、ヨーロッパ、日本、ニュージーランド、さらには中東やインド、パキスタンまでアメリカ以外のあらゆる国で戦い、ダラ・シンやボロ一族(アントニオ猪木と戦ったアクラム・ペールワンなどが著名)などとも対戦した。

1968年、国際プロレスに初来日。第1回IWAワールドシリーズでビル・ロビンソン、豊登と最後まで優勝を争う。国際には1973年にも再来日し、モンスター・ロシモフ、ドン・レオ・ジョナサン、ホースト・ホフマン、バロン・フォン・ラシクらと共に第4回IWAワールドシリーズに出場。同ブロックのホフマンやストロング小林と対戦したが、決勝トーナメントには進めなかった。

キャリア晩年の1974年は、ジン・キニスキーの主宰するバンクーバーのNWAオールスター・レスリングにて、フラッシュ・ゴードンFlash Gordon)のリングネームで活動。1/28にレオ・マドリルと組んでバック・ラムステッド&ミスターXからカナディアン・タッグ王座を奪取し、2/14にはザ・ブルートを破りパシフィック・コースト・ヘビー級王座を獲得した。なお、同年8/31にはドイツでローラン・ボックとも対戦して勝利したとされる。

1976年、ボックとの試合中に足首を骨折して引退。その後はロンドンに移住し、画家としての活動に専念した。2002年5月13日、カナダにて死去。74歳没。

アメリカでほとんど試合をしておらず来日も現役晩年の国際プロレスだけであり、「『写真ではよくわからないがゴーディエンコのブロックバスターはどうやって掛けてどう効く技なのか?』とファンから質問がきた」(日本スポーツ出版社『プロレス技MOOK』より)というほどの謎に包まれた選手ながら、スチュやテーズを始め、直接肌を合わせた多くの実力派選手たちのインタビューでも、ゴーディエンコの並外れた強さを伝えるものは数多い(流智美『やっぱりプロレスが最強である!』ベースボール・マガジン社)。

獲得タイトル

スタンピード・レスリング
  • NWAカナディアン・ヘビー級王座(カルガリー版):1回
  • NWAインターナショナル・タッグ王座(カルガリー版):1回(w / スーパー・ホーク)
NWAオールスター・レスリング
  • NWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座(バンクーバー版):1回
  • NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):1回(w / レオ・マドリル)
その他
  • 英連邦ヘビー級王座:1回
  • 英連邦ヘビー級王座(ニュージーランド版):1回
















 
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