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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
5/16


 
 


 
 

キンジ渋谷
KINJI SHIBYA

1921/5/16 - 2010/5/3

本名、渋谷金持。「神風親分」と呼ばれた日系レスラーの大御所で、ハワイでプロ・フトッボラーをしていた所を沖識名にスカウトされてプロレス入り。主に西海岸で活躍し、サンフランシスコでレイ・スチーブンスからUSヘビーを獲得したのをはじめ、1972年にはマサ斎藤とのタッグではロスでアメリカス・タッグを獲得している。選手生命の長いレスラーで、1976年にはバンクーバー地区のカナダ・ヘビー級チャンピオンにもなっている。日本に来日した際には日本側に付いてファイトした。

Kinji Shibuya Wrestling

 
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ジョニー・ロッズ
"The Unpredictable" Johnny Rodz
1938/5/16

()ことジョニー・ロドリゲスJohnny Rodriguez)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ニューヨーク州ニューヨークシティ出身のプエルトリコ系アメリカ人。

現役時代は地元ニューヨークのWWWF / WWFを主戦場にヒールの名ジョバーとして活躍。引退後はトレーナーとなって数々の選手を育てている。

来歴

ブルックリンのYMCAでレスリングを学び、1964年のデビュー以降、長きに渡ってWWWFの前座要員として活動。1974/4/1にはジャンボ鶴田のマディソン・スクエア・ガーデンにおける対戦相手を務め、同年5月に全日本プロレスに初来日した。

NWAロサンゼルス地区ではアラブ人ギミックのジャバ・ルーク"Arabian Wildman" Java Ruuk)に変身。1976/1/16に行われた同地区恒例のアニュアル・バトルロイヤルでは、アンドレ・ザ・ジャイアント、パット・パターソン、アーニー・ラッド、ジョン・トロス、グレッグ・バレンタイン、ロディ・パイパー、チャボ・ゲレロらを抑え優勝を果たしている。

ニューヨークに戻ると再びジョニー・ロッズ名義で活動し、1979/1/22のMSG定期戦では藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦。並行してジャバ・ルーク名義でカナダのモントリオールにも遠征し、1980/2/11にエドワード・カーペンティアからカナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座を奪取した。

以降も1980年代半ば頃までWWFでジョバーを務め、ボブ・バックランド、ペドロ・モラレス、イワン・プトスキー、ティト・サンタナ、トニー・アトラス、リッキー・スティムボート、ジミー・スヌーカなどスター選手の引き立て役・売り出し役を担い続けた。

引退後はブルックリンのグリーソンズ・ジムにて後進の指導・育成に注力(現役選手時代にも、トレーナーとしてS・D・ジョーンズらを指導していた)。1996年11月、プロレス界における功績を称えWWE殿堂に迎えられた(プレゼンターはアーノルド・スコーラン)。

2007年3月には、弟子であるチーム3Dのセコンド役としてTNAに登場している。

育成選手

  • ザ・ヘッドハンターズ
  • タズ
  • トミー・ドリーマー
  • ビッグ・ヴィトー
  • ジェイソン・ザ・テリブル
  • ビル・デモット
  • ババ・レイ・ダッドリー
  • ディーボン・ダッドリー
  • マット・ストライカー
  • ヒマラヤン・タイガー

 etc.






バディ・ロバーツ
Buddy "Jack" Roberts
1945/5/16

カナダ・ブリティッシュコロンビア州バンクーバー出身の元プロレスラー。

タッグの名手として知られ、1970年代はハリウッド・ブロンズ、1980年代はファビュラス・フリーバーズなど、プロレス史に残る名タッグチームの一員となって活躍した。

来歴

レッド・マクナルティ(後のイワン・コロフ)の紹介により、カルガリーのスタンピード・レスリングでの準備期間を経て、1960年代中盤にモントリオール地区にてデイル・ロバーツDale Roberts)のリングネームでデビュー。

その後アメリカに入り、AWAを経て南部のオクラホマ地区に参戦、ビル・ワットのアイデアで髪を金髪に染めてバディ・ロバーツBuddy Roberts)と改名し、1970年にジェリー・ブラウンとハリウッド・ブロンズThe Hollywood Blondes)を結成。同年5月にダニー・ホッジ&ルーク・ブラウンを破りUSタッグ王座を獲得する。以降、サー・オリバー・フンパーディンクをマネージャーに迎え、モントリオール、フロリダ、ロサンゼルス、ミッドアトランティック、テネシーなどの激戦区を転戦、各地のタッグタイトルを奪取した。

この間、日本にはハリウッド・ブロンズとして1971年10月に国際プロレスに初来日。残留参戦した11月末開幕のシリーズではラッシャー木村&サンダー杉山のIWA世界タッグ王座に連続挑戦している。1974年1月にも国際を襲撃し、木村&グレート草津の同タッグ王座に再チャレンジした。1975/8/1にはロサンゼルスに遠征してきたアントニオ猪木&坂口征二の北米タッグ王座に挑戦。この試合はノーコンテストとなり、日本組はタイトルを返上。翌月、雌雄を決するべく新日本プロレスに初参加。9/22の王座決定戦で坂口&ストロング小林を破ってチャンピオン・チームとなったが、10日後の10/2に猪木&坂口に奪回された。以降も新日本に度々参戦し、1979年8月の最後の来日では坂口&長州力の新王者チームに挑んでいる。

1978年には単身でテキサス州サンアントニオのSCWに参戦。デイル・バレンタインDale Valentine)をリングネームにジョニー・バレンタインの「弟」を名乗り、タリー・ブランチャードらとタイトルを争った。

1979年にブラウンとのコンビを解消し、1980年よりビル・ワットのMSWAに進出。ここでマイケル・ヘイズとテリー・ゴディのファビュラス・フリーバーズThe Fabulous Freebirds)と邂逅し、同年6月にはゴディと組んでバック・ロブレイ&ジャンクヤード・ドッグからミッドサウス・タッグ王座を奪取。その後、フリーバーズの3人目のメンバーとなり、若いヘイズとゴディをフォローアップするプレイング・マネージャーの役割を担った。以降、ダラスのWCCW(フリッツ・フォン・エリック主宰)を中心にAWAやUWF(旧MSWA)などの主要団体で活躍し、1984年8月には短期間ながらWWFにも登場。WWF離脱後の10月には全日本プロレスに来日している。

1988年に引退し、フリーバーズも一旦解散。その後1990年、ヘイズとジミー・ガービンによる第2期フリーバーズのマネージャーとしてWCWに登場したことがある。1996年に喉頭癌を患うが克服(WWE.comにヘビースモーカーだった彼の嫌煙メッセージが載せられている)。

現在はシカゴに在住。2009年に入り、息子のバディ・ロバーツ・ジュニアがシカゴのインディー団体WCPWでデビューしている。

獲得タイトル

新日本プロレス
  • 北米タッグ王座:1回(w / ジェリー・ブラウン)
トライステート / MSWA / UWF
  • USタッグ王座(トライステート版):3回(w / ジェリー・ブラウン)
  • ミッドサウス・タッグ王座:1回(w / テリー・ゴディ)
  • UWF世界TV王座:1回
フロリダ
  • NWAフロリダ・タッグ王座:2回(w / ジェリー・ブラウン)
ロサンゼルス
  • NWAアメリカス・タッグ王座:4回(w / ジェリー・ブラウン)
ミッドアトランティック
  • NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / ジェリー・ブラウン)
テネシー
  • NWA南部タッグ王座(ミッドアメリカ版):3回(w / ジェリー・ブラウン)
SCW(サンアントニオ)
  • SCWサウスウエスト・ヘビー級王座:1回
  • SCWサウスウエストTV王座:2回
WCCW(ダラス)
  • NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
  • NWA世界6人タッグ王座(テキサス版):5回(w / マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ)
  • WCCW TV王座:1回
  • WCWA世界6人タッグ王座:1回(w / テリー・ゴディ&アイスマン・パーソンズ)





パパ・シャンゴ/ザ・ゴッドファーザー
Papa Shango/The Godfather
1961/5/16

チャールズ・ライト主(Charles Wright)に1990年代から2000年代初頭にかけて、WWF(現・WWE)を中心に活躍したアメリカ合衆国のプロレスラー。ネバダ州ラスベガス出身のアフリカ系アメリカ人。

来歴

初期

バンバン・ビガロ、レイヴェン、シェイマスらを輩出したことで知られるプロレスラー養成所 "モンスター・ファクトリー" の出身。1989/9/16、テネシー州メンフィスのUSWAにてザ・ソウルテイカーThe Soultaker)のリングネームでデビューし、翌月の10/23にはジェリー・ローラーからUSWAユニファイド世界ヘビー王座を奪取した。

1990年6月、バンバン・ビガロを倒した北尾光司への「モンスター・ファクトリーからの刺客」として新日本プロレスに初来日。全身に施されたタトゥーのインパクトと、マーシャルアーツをベースとした格闘家的なファイトスタイルが注目され、同年は新日本に計4回に渡って参戦。兄弟子のビガロや黒人レスラーの大先輩バッドニュース・ブラウンともタッグを組んだ。10/25にはプロボクサーとして新日本に登場したトニー・ホームと異種格闘技戦を行っている。

パパ・シャンゴ

1991年、当時の人気NBAプレイヤーであるチャールズ・バークレーのニックネームと同じサー・チャールズSir Charles)を名乗り、ローブをまとった貴族ギミックでWWFにトライアウト出場。翌1992年に正式契約を結び、ブードゥー教の呪術師をモチーフとした怪奇派ヒール、パパ・シャンゴPapa Shango)として本格的なWWFデビューを果たした。黒いシルクハットを被り、顔面にはドクロのペインティングを施し、白煙が濛々と立ち込める頭蓋骨を手に入場。火花を放射する仕込み杖や、呪文を唱えると相手の体から鮮血が吹き出す妖術パフォーマンスなど、キワモノ的なブードゥー・ギミックでセンセーショナルな存在となった。

同年4月5日のレッスルマニアVIIIでは、メインイベントのハルク・ホーガン対シッド・ジャスティス戦に乱入。ホーガンを襲撃するが、ホーガン救出に駆けつけたアルティメット・ウォリアーによって蹴散らされる。ウォリアーは前年8月にWWFを解雇されて以来の登場であり、その露払い役を務めた形となった。以降はウォリアー復帰後の抗争相手となり、またジ・アンダーテイカーとの怪奇派対決も注目を集めた。

しかし、PPV大会での決着戦を前提とした長期間の抗争アングルは組まれず、レッスルマニアでの乱入以降は大きな活躍を残せなかった。1993年からはパパ・シャンゴのキャラクターでUSWAに復帰(WWFとUSWAは前年より提携関係を結び、ジェリー・ローラーも同時期にWWFに登場している)。再びUSWAユニファイド王座を獲得するが、WWFから遠征してきたオーエン・ハートに奪取される。その後はUSWAを離れ、ヨーロッパなどを転戦した。

カマ〜NOD

1995年、マーシャルアーツの下地を活かし、総合格闘家ギミックのカマKama)に変身してWWFと再契約。ニックネームは"The Supreme Fighting Machine"(最高の戦闘マシーン)。このキャラクターおよびネーミングは、当時UFCにおいて人気を得ていた異色の格闘家キモをイメージしたものだった。テッド・デビアス率いるミリオンダラー・コーポレーションに加わりジ・アンダーテイカーとも抗争するが、ここでもブレイクを果たせず、1996年から再びWWFを離脱。

1997年、今度はファルークが結成した "黒人至上主義軍団" ネーション・オブ・ドミネーションNOD)の一員としてWWFに復帰(同時期のメンバーは他にディーロ・ブラウン、マーク・ヘンリー、ザ・ロック)。リングネームもネーション・オブ・イスラムを意識してカマ・ムスタファKama Mustafa)と改められ、クラッシュ率いる白人バイカー軍団DOAやリージョン・オブ・ドゥームとの軍団抗争を展開した。

ザ・ゴッドファーザー

1998年にファルークがNODから追放され、ザ・ロックがリーダーとなりユニット名を "Nation" と改めたことを機に、リングネームをザ・ゴッドファーザーThe Godfather)に改名。ソフト帽に葉巻をくわえたポン引きギミックのヒールとして "ホー(Ho)" を連れて入場、試合前に対戦相手と交渉し、女をあてがう代わりに不戦勝を得るというキャラクターに変身した。

同年夏、当時の中堅選手によるシュート大会として伝説化されている "WWF Brawl for All" に出場後(準決勝でバート・ガンに敗退)、療養のために短期間欠場。その間、ネーションはマーク・ヘンリーとディーロ・ブラウンがロックに造反して解散。これに伴いライトも彼らと袂を分かち、ポン引きギミックはそのままに、ベビーフェイスのシングルプレイヤーとして売り出されることになる。

このフェイスターンは支持を集め、入場後の決め台詞 "Pimpin' Ain't Easy" を観客と一体となって叫ぶなど、絶大な会場人気を獲得。これまで様々なキャラクターを演じながらもブレイクには至らなかったライトにとって、"ザ・ゴッドファーザー" はデビュー10年目にして初めて成功を掴むことのできたギミックとなった。彼自身もゴッドファーザーのギミックを気に入っており、実際の自分にもっとも近いキャラクターだったと述懐している。1999/4/12にはゴールダストを破りWWFインターコンチネンタル王座を獲得。入場時に引き連れるホーの人数もエスカレートし、AV男優ギミックのバル・ビーナスとの風紀違反コンビも人気を呼んだ。

ザ・グッドファーザー

観客からは大声援を受ける一方、テレビ番組の放送内容を監視する市民団体 "Parents Television Council(PTC)" は、ゴッドファーザーのギミックは子供の視聴者にとって有害であると糾弾。2000年に入りWWFへのバッシングが高まる中、ライトはギミック・チェンジを余儀なくされた。そこでWWFはPTCに対する当て付けとして、WWF内の検閲活動を行う保守的なヒール・ユニット、ライト・トゥ・センサーRTC)をプロデュースする。

ゴッドファーザーもRTCの「検閲対象」となり、リーダーのスティーブン・リチャーズの洗脳によってザ・グッドファーザーThe Goodfather)と改名。白いワイシャツにネクタイ姿でRTCの一員となり、同じく検閲を受けて「更生」したバル・ビーナスらと共に、風紀向上のためには手段を選ばないヒールに変身した。同年11/6にはメンバーの一人ブル・ブキャナンと組んでハーディー・ボーイズからWWFタッグ王座を奪取している。

引退

2001年4月1日のレッスルマニアX-Sevenを最後にRTCは解散、しばらくリングを離れた後、2002年1月10日のロイヤルランブルにてポン引きゴッドファーザーとしての久々の登場を果たした。大歓声で迎えられ、その後も自身の商売は「合法」であると主張してリングに復帰。しかし番組への出演機会は減少し、再度のヒールターンの末、バル・ビーナスとの泡沫的な抗争を経て、サイドビジネス(地元ラスベガスでのトップレス・クラブ経営)に専念するためセミリタイアした。

その後はベビーフェイスの立場でスポット的に登場し、9月に行われたゲイ・ギミックのタッグチーム、ビリー&チャックの「結婚式」では、彼らは実際にはゲイではなく、自分のところから娼婦を買っていたことを暴露。翌月の10月7日、地元ラスベガスで行われたRAW・ルーレットのジェリー・ローラー対スティーブン・リチャーズ戦でのゲスト出演を最後にWWFを退団し、そのまま引退した。

以降もWWEの興行や番組には時折登場。2005/6/26のヴェンジェンスではヴィセラとリリアン・ガルシアのスキットを、2007/9/21放送のスマックダウンではセオドア・ロングとクリスタルの結婚披露宴を、それぞれホー達を引き連れて登場しメチャクチャにしている。2007年は12/10のRAW15周年大会にも出演した。

2009年11月にはハルク・ホーガンがオーストラリアにて主宰したハルカマニアツアーに、ピンプ・ファーザーPimp Father)のリングネームで参加している。

獲得タイトル

  • USWAユニファイド世界ヘビー王座:2回
  • WWFインターコンチネンタル王座:1回
  • WWFタッグ王座:1回(w / ブル・ブキャナン)

  



愛川 ゆず季
1983/5/16

日本のプロレスラー、グラビアアイドル、タレントである。スターダム・プラチナムプロダクション所属。

2003年、大きくパッチリとした瞳、バスト100cmの爆乳とクラシックバレエで鍛えたしなやかで柔軟な肉体を引っさげて水着グラビアデビューすると途端に複数の男性誌で表紙や巻頭グラビアを飾る人気グラビアアイドルの1人となる。現在はグラビアと並行し、テレビのバラエティ番組やWeb生放送のレギュラー番組で活躍中。またプロレスラーとしても活動している。

略歴

1983年、愛媛県新居浜市に生まれる。父親はゆず製品製造会社の社長である。

2002年、海外留学を目標として東京の外国語学校に進学するために上京。その卒業間際に渋谷109でスカウトされ芸能界入り。スカウトされた時に出された名刺の所属タレント名に若槻千夏の名前を見たことが、芸能界入りを決心させた。翌年男性雑誌の水着グラビアでデビュー。

2004年4月20日号『FLASH EX』に“彩川ゆずき”の名前でグラビアに掲載。生年月日は、1984年5月16日となっている。

2005年、同じ事務所の相澤仁美、渋谷真由、清原みゆきと共にSUPER GTイメージガール「P-ch!(ピーチ)」に選出。浜田翔子、西田奈津美、吉田智美と共に日テレジェニック2005に選出。

2006年、P-ch!のメンバーで同じ事務所の相澤仁美と「オーパーツ」というユニットを組みCDデビュー。

2007年、YOU THE ROCK★と共にサイバーエージェントのアメーバブログWeb生放送『Ameba番長』のレギュラーアシスタントMCを務める。

2009年10月6日から放送が開始されたTBS系「崖っぷち」内で、新規で始めたブログを3か月で2000万アクセスに到達させないと芸能界を強制引退するという企画に挑戦した。企画発表からわずか8日で1000万アクセスを超え、2009年10月17日に2000万アクセスを突破したため、引退は回避できた。

2010/8/23に記者会見でプロレスデビューを発表した。

人物
  • 1度やると決めたことは意地でもやり遂げる根性の持ち主の反面、コレと決めたらテコでも動かない頑固なところがある。その一方で涙脆く、感動することがあるとすぐに泣く。
  • ナルシストで「自分大好き人間」あることを公言しておりメイド、猫、ナースなどコスプレ衣装を自前で何着も持っている。また自身の全体写真がプリントされた等身大抱き枕で寝ている。男性の好きなタイプは「ゆず季だけを見てくれる人。浮気は絶対に許さない」「ごはんをモリモリ食べる人」とのこと。『Ameba番長』の占いコーナーでは必ずと言ってよいほど「自己顕示欲の強さ」を指摘され、当人もそれを否定しない。普段のファッションも華やかで柔らかい感じのファッションを好み、ボトムもパンツスタイルではなくスカートであることが多い。
  • 将来の目標は女優。柴咲コウや奥菜恵が好き。
  • 趣味はショッピング、ゲーム。特にゲーム好きで、過去には桃太郎電鉄シリーズのやり込みプレイやどうぶつの森にはまっていた。また恋愛映画が好きで、純愛ものをよく見る。番組での自宅公開によると漫画もよく読んでいる。
  • 特技はクラシック・バレエ、バレーボール、水泳。特にクラシック・バレエは海外公演に参加したことがあるほどの腕前。また体の柔らかさを生かすためにテコンドーを習う。流派はJTA(日本テコンドー協会)。級は3級(青帯)。
  • 『キンコンヒルズ』にて、かなりの運動音痴ぶりを発揮して笑いを取る。特に跳び箱系は苦手の様。
  • 自らキャッチコピーを「夜のおともに愛川ゆず季」と付けた。
  • 好きな食べ物はチーズ。嫌いな食べ物は辛いもの全般。独特の苦味があるコーヒーが飲めなかったが、2006年頃から克服し飲める様になった。
  • ワンデーのコンタクトレンズを愛用しており、パリパリに乾いたレンズを集めるのが趣味だったが、レーシック手術を受けてコンタクトレンズは必要なくなってしまった。
  • 妹と弟がいる。
  • 通常はプロレスラーとして約52kg程度の体重を維持しているが、グラビア撮影の仕事が入った際には「魅せる体作りのため」約7kgほど体重を落とすという。その際は「3日前からほとんど食事も取らず、時には下剤も使う」といい、撮影が終わったら今度は食事を大量に摂って体重を戻しているとのこと。
エピソード
  • ファンにつけてもらった愛称「ゆずぽん」を気に入り、これを自らも愛称として公表している。これに起因してミツカン酢「ゆずぽん」のCMに出るのが夢。所属事務所の先輩である若槻千夏には「ゆずきんぐ」と呼ばれている。また自らのチャームポイントをファンから指摘され、自分でも気に入っていた「顎のライン」としている。
  • クラシック・バレエを続けていたときには現在のような豊満なバストではなく、どちらかというと貧乳だった。しかし高校に入学しバレエを止めたことで一気に20キロ近く太ってしまい、「さすがにこれはマズイ」とダイエットを決意。再びバレエとテコンドー等を始めてダイエットには成功したが胸だけが痩せず、現在の豊満なバストを手に入れた。しかし、芸能界で仕事をするまで胸の大きさがコンプレックスになっていたと後に告白している。クラシック・バレエの時は「テーピングで下までグルグル巻いて押さえつけてたのがつらかった」という。
  • 週刊ヤングジャンプにおいてグラビア共演した石井めぐるとともに「ゆずめぐ」という誌面限定ユニットを結成後、仕事で一緒になるグラビアアイドルと私的にユニットを組むことがある。BS-i『アイドル芸能社』で一緒だった佐野夏芽とは「なつゆず」、浜田翔子とは「ゆずこしょう」を名乗る。皆、プライベートでも仲がよい友人である。また事務所の半年後輩(しかし1つ年上)にあたる相澤仁美とは「P-ch!」や「オーパーツ」に限らず一緒に活動することが多く、共演の様子がよくブログに出てくる。
  • 自称”晴れ女”であり普段から折り畳み傘など雨具を持ち歩く習慣が無いため、雨に降られるたびにビニール傘を買ってしまい自宅にはフトンたたきの代わりにしているほどたくさんのビニール傘がある。
  • 『Qさま』の潜水企画において日本代表入りをかけてトライし、潜水距離68mという日本女子トップレベルのパフォーマンスを見せるも酸欠により失格となる。後に自身のブログで「一瞬意識がとんだ」と語っている。また、同番組の別企画芸能界シンクロ選手権SPで相澤と共に見事な演技を見せている。
  • テレビ番組の中で霊能を持つ人に嫌なのに断れないという意思の弱さを指摘され、それを聞いた本人も納得していた。この霊能者いわく、優柔不断が災いし生きている男からも好かれやすいが死んでしまって霊になった男からも好かれてしまうとのこと。霊感自体も強く、2006年7月15日放送の『芸能界霊能力検定』では準3級を取得している。

戦歴

2010年
  • 10/31、自主興行「愛川ゆず季プロレス・デビュー戦 〜ゆずポン祭〜」新木場1stRING大会にてデビュー。満員の観衆の前でトップファイター高橋奈苗を相手に一歩も引かない健闘を見せるも、冷蔵庫爆弾(ダイビング・ボディ・プレス)を浴びて敗戦。高橋から「お前、本当にデビュー戦かよ?」と評価される。
2011年
  • 1/23、所属団体であるスターダムの旗揚げ戦「スターダム旗揚げ戦 〜Birth of Nova 新星誕生!〜」新木場1stRING大会にて夏樹☆たいようと組み、高橋奈苗・愛リス組を相手に初のタッグマッチに挑戦するも高橋のバックドロップホールドで敗戦。高橋の容赦ない顔面攻撃により、左目周辺が大きく腫れ上がる程のダメージを受けた。
  • 2/1、高木三四郎のトークイベントにゲスト出演し、高木率いる「国民的プロレスグループ」TKG48に加入(会員番号40番)。
  • 2/6、自主興行「ゆずポン祭2 〜ゆずポンキック・ナイト〜」新木場1stRING大会を開催。メインイベントで堀田祐美子と対戦し、パワーと反則攻撃に追い込まれるもラ・ゆずヒストラルで逆転勝利。デビュー3戦目にして初勝利を挙げた。。

入場テーマ曲

  • 爆乳戦隊パイレンジャー(本人ボーカル部分)

出版作品

写真集 / ムック本
  • CITRON(2004年、加納典譲:撮影、竹書房)
  • Miss.Girl(2004年、河野英喜:撮影、ワニマガジン社)
  • ゆず季のカ彼レ視シ。(2005年、松田忠雄:撮影、アスコム)
  • 花ゆず季(2005年、西条彰仁:撮影、学研) - 地元の愛媛県がロケ地。
  • ゆずcm 〜 恋が始まる至近距離(2006年、矢西誠二:撮影、彩文館出版)
トレーディングカード
  • LOVE LOVE Citrus(2005年、さくら堂)
  • BOMB CARD LIMITED 4000 愛川ゆず季(2005年、ムービック)
  • BOMB CARD LIMITED 3000 愛川ゆず季2(2006年、ムービック)
  • プラチナム オフィシャル カードコレクション (2007年、さくら堂)

カレンダー

  • 2005年度版カレンダー(2004年、TRY-X)
  • 2006年度版カレンダー(2005年、TRY-X)
  • 2007年度版カレンダー(2006年、TRY-X)

映像作品

  • CITRON(2004年、竹書房)
  • 山岸伸デジタル写真集(5)愛川ゆず季(2004年、ソフトバンクパブリッシング)
  • 微熱(2004年、リバプール)
  • 微笑(2005年、リバプール)
  • HANAYUZUKI(2005年、ムービック) - 地元の愛媛県がロケ地。
  • 日テレジェニック2005 愛川ゆず季(2005年、バップ)
  • 日テレジェニックの宝箱 愛川ゆず季(2005年、バップ)
  • ゆずポン☆LOVE RIVER(2006年、ラインコミュニケーションズ)
  • ゆず・にゃん?!(2006年、ラインコミュニケーションズ)
  • ゆず恋(2006年、学研)
  • YUZU DIARY(2006年、フォーサイド・ドット・コム)
  • 太陽がイッパイ!(2007年、イーネットフロンティア)
  • Double Bomb(2008年、フォーサイド・ドットコム) 相澤仁美との共演作
  • 爆乳戦隊パイレンジャー(2008年12月19日、エースデュース)

CD

  • 秘密のボンバー(ユニット・オーパーツとして 2006年7月26日、Girl's Record)
    • カップリング:「海へ行こう!」
    • PV、メイキングDVD付き。
  • Very Merry X'mas 2006(ユニット・4YOUとして 2006年12月6日、Girl's Record)
    • カップリング:「kiss and hug」
    • PV、メイキングDVD付き。
  • ゆずポン☆れぼりゅーしょん(2007年10月24日、Girl's Party) PV、メイキングDVD付き。
  1. う・ふ・ふ・ふ
  2. message

その他のアイテム

  • 愛川ゆず季ネックストラップ(2005年、通販商品)
  • 愛川ゆず季等身大ハグクッション(2005年、TRY-X)

愛川ゆず季
プロレス・デビュー記念
ゆずポン祭への道!

愛川ゆず季 プロレス・デビュー記念 ゆずポン祭への道!


スターダム
旗揚げ戦
Birth of nova
新星誕生

スターダム旗揚げ



愛川ゆず季プロレス
デビュー戦 ゆずポン祭
愛川ゆず季プロレス・デビュー戦 ゆずポン祭




愛川ゆず季

ゆずポンblog
愛川ゆず季 (yuzuponponpons) on Twitter





荒井 昌一
1965/12/19 - 2002/5/16


プロレス団体FMW社長。東京都足立区出身。

1995年から2002年までプロレス団体FMWの社長を務めていた。
1989年にプロレスラー大仁田厚がFMWを設立した直後に入団した。プロレスは荒井が小学校時代から憧れる世界だったという。アマチュアバンドでボーカルだった荒井はFMW旗揚げ当初からリングアナウンサーを務め、よく通る声とコール時の独特のスタイルで人気を得た。その傍ら関係子会社のFMWクリエイティブの取締役広報部長としてグッズや芸能マネージメントも担当した。1995年には大仁田のプロレスラー引退に伴い、FMWの社長に就任。以後、2002/2/15にFMWが倒産するまで社長職を務めた。

FMW社長時代には、若手のハヤブサをエースに立て、大仁田時代のデスマッチ路線からエンタテインメント路線に軌道修正を行ない、その路線で荒井もプロレスラーとして試合も行なった。1999年には、試合後にリング上で観客が見ている前で亀甲縛りにされたうえ、複数の選手から(あくまでストーリーとして)顔面などに尿を浴びせられ全身ずぶ濡れにされたことさえあった。プロレスのギミックとはいえ、あまりに酷すぎる「公開処刑」にファン・マスコミも完全に引いてしまった。 リング上で得意のギターを持って「翼をください」を熱唱したこともある。しかし3年間3億円の放映料契約を結んでいたCS放送ディレクTVの事業中止、怪我によるハヤブサの休場、興行の不振などが重なり、1999年頃からFMWの経営は悪化。かさんだ支払いのために荒井は金策に奔走。消費者金融に始まり、商工ファンド(後のSFCG、2009年破産)・日栄(現ロプロ)といった商工系ファンド、親族・知人からの借金の他、街金(ヤミ金)と言われる無届けの高金利業者からも荒井個人名義で約3000万円の借金をした。さらに家の権利書まで持ち出そうとし、その結果荒井の家庭は崩壊、荒井の両親も自己破産を余儀なくされた。赤字で経営難の間もレスラーの給料を滞らせることはなかったという。

しかし荒井の必死の金策もむなしく、2002/2/14、15と立て続けに不渡りを出し、FMWは倒産してしまった。最初の不渡りを出した2/14には、不渡り確定の直前まで街金業者を回って、支払いの猶予を頼み込んでいたという。

倒産後、荒井は業者の取り立てから逃れるために身を潜めていたが、2002/5/16、東京都葛飾区水元公園で首を吊って自殺しているのが発見された。享年36歳。負債を苦にしての自殺とみられる。 その死は、下り坂だった2000年代初頭のプロレス業界に、大きな衝撃を与えた。

倒産から自殺までの間に、FMWの社長時代を綴った著書『倒産!FMW~カリスマ・インディー・プロレスはこうして壊滅した~』を遺している。














 
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