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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
5/19


 
 


 
 

アンドレ・ザ・ジャイアント
André the Giant
1946/5/19 - 1993/1/27

本名:アンドレ・ルネ・ルシモフAndré René Roussimoff)、フランス・グルノーブル出身のプロレスラー。

巨人症のため非常に巨体のプロレスラーとして知られ、公式プロフィールによれば、身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされる(ただし体重については年齢と共に増加していたことが映像でも確認できる)。彼の巨体に対抗できるレスラーが限られていたため、生涯多くのハンディキャップ・マッチやバトルロイヤルに出場していた。

圧倒的な体格もさることながら、アームロック等のレスリングテクニックでも観客を惹きつけることができる、数少ない巨人レスラーだった。

来歴
フランスのモリヤンにて、ブルガリア=ポーランド系の家庭に生まれる。少年時代からサッカー、ボクシング、レスリングなどに打ち込み、1964年18歳の時にパリでアンドレ"ザ・ブッチャー"ルシモフとしてデビュー。“プロレスラーになる前にはきこりをしていて、山中にいるところをエドワード・カーペンティアに「発見」された”という逸話(プロレススーパースター列伝など)が有名だが、事実ではない(実際、プロレスラーになる前はパリの家具運送会社に勤務していた)。“無名だった時代にカーペンティアに見出された”というのが真相である。もっとも、南アフリカでデビュー説もあるなどフランス時代の経歴についてははっきりしない部分も多く、様々な説がある。フランス時代はモンスター・ルシモフ(Monster Roussimoff)またはモンスター・エッフェルタワー(Monster Eiffel Tower)という名で活動。
カーペンティアに連れられ1970年にカナダ・モントリオールに移住し、現地ではジャン・フェレ(英語風に「ジーン・フェレ」と誤読されることが多い)の名で活躍した。ここで映画『キング・コング』をモチーフにした世界八番目の不思議(The 8th Wonder of the World)というニックネームが付けられた。巨人選手対決として、キラー・コワルスキーやドン・レオ・ジョナサンなど超大物選手とも対戦した。
1973年にアンドレ・ザ・ジャイアントと改名し、WWWF(現WWE)のプロモーターのビンス・マクマホン・シニアと契約。しかしWWWFとは専属契約をしたわけではなく、マクマホン・シニアのブッキングでNWAやAWAはもとより世界中の様々な団体を定期的に短期参戦して回るようになる。これは「いつでも会える怪物」は一般層のファンにはすぐに飽きられる、というマーケティング上の都合からの判断である。実際、それまでにプロレス界に登場した怪物・怪奇レスラーは短期間で人気が衰えており、マクマホン・シニアはそのあたりを懸念したものである。
この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であり、アンドレはスペシャルゲストの立場で各地のビッグイベントに出場。テリー・ファンク、ハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、スーパースター・ビリー・グラハムら当時のNWA・AWA・WWWFの世界王者を始め、ザ・シーク、ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ、アーニー・ラッド、イワン・コロフ、バロン・フォン・ラシク、マスクド・スーパースター、ブルーザー・ブロディ、リック・フレアー、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、ロディ・パイパー、サージェント・スローターら全米のトップスターと対戦した(欧州では1979年12月にローラン・ボックとのシングルマッチも実現している)。1974年のギネスブックには「年俸世界一(40万ドル)のプロレスラー」として彼が掲載されている。当時の為替レートは1ドル=約300円。
1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米進出計画が始まるとベビーフェイス陣営の主要メンバーとしてサーキットに参加、以降は退団する1990年までWWF専属選手となった。スーパースター軍団となったWWFでは同じ巨人型のビッグ・ジョン・スタッドがライバルとなり、レッスルマニアの第1回大会ではスタッドと『15000ドル争奪ボディスラム・マッチ』で対戦した。アンドレはアメリカでは絶対のベビーフェイスであったが、1987年、WWFでは長らく盟友だったハルク・ホーガンを裏切りヒールに転向、ボビー・ヒーナンをマネージャーに従え、コスチュームも黒のワンショルダーに変更した。同年のレッスルマニアIIIではWWF王座を賭けホーガンと「世紀の対決」が行われたが敗れる。この試合でホーガンがアンドレをボディスラムで投げたシーンはアメリカプロレス史上屈指の名シーンとなった。翌1988年のレッスルマニアIVにて再戦が行われ、WWF王座の奪取にも成功。
1980年代中期頃から急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始め、全盛期の動きの切れは徐々に失われて行った。その後、当時WWFがホーガンに代わる主役として期待していたアルティメット・ウォリアーの売り出しに使われ、連敗を重ねる。また「ヘビ嫌い」との設定が加わりジェイク "ザ・スネーク" ロバーツとも抗争したが、体調不良のため1990年にWWFを退団。その後、更に増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少したが、最後の主戦場とした全日本プロレスにおいては、主にジャイアント馬場とのタッグ「大巨人コンビ」で活躍した。
父親の葬儀へ出席するために帰国していた1993年1/27、急性心不全のためにパリのホテルの自室で死去。長年に渡る過度の飲酒(全盛期はビール、レスラー後期から晩年はワインを愛飲していた)が原因と言われている。飲酒量が桁違いだったため、酒にまつわるアンドレの逸話は数知れない。ミスター高橋によると試合前でも何本も酒を飲み、しかも後年はほとんどトレーニングをしなかったため、余計心臓に負担がかかっていたことは明らかだったという。
WWFは生前の活躍に敬意を表するために、WWF殿堂(後のWWE殿堂)を設立し、殿堂入りの第一号を彼に与えた。
2008年には彼の功績をまとめたDVDもWWEより発売された。
日本での活躍
初来日は1970年。まだアメリカで注目を浴びる前の無名時代、吉原功へスカウトされモンスター・ロシモフのリングネームで国際プロレスへ参戦。この時出会ったバーン・ガニアによって寝技の訓練を受ける。これによって大きな体を活かした技だけでなく、グラウンドでは弓矢固めなどの高等技も軽々とこなすようになる。日本ではヒールとしての活動だったが、前述のようにその後のアメリカではベビーフェイスとして活動した。もっとも日本でも、ザ・シークやフレッド・ブラッシーのようなスタイルのヒールを演じていたわけではなく、ジャイアント馬場をも凌ぐ余りの巨体故にヒール扱いされてしまったものである。
その後、日本でのリングをWWWFと提携していた新日本プロレスへ移し、アントニオ猪木とも対戦(猪木とは新日本参戦後期に何試合かタッグを組んだこともある)。その猪木との1974年2月の初対戦では、当時のマネージャー、フランク・バロアがロープに飛んだ猪木の足を取ってダウンさせジャイアント・プレスでフォール勝ち。その後の対戦は猪木が掛けたキーロックをアンドレが軽々と持ち上げる、アンドレが掛けたカナディアン・バックブリーカーを猪木がロープを蹴って返しリバーススープレックスで投げるというムーブが定着した。1982年にはMSGシリーズで優勝(新日本のシングル・リーグ戦で外国人の優勝はこれが初めて)。実況アナウンサーである古舘伊知郎が、大巨人、人間山脈、一人民族大移動などの表現を使ったことから、これらがアンドレのニックネームとなった(古舘はこの他にも「一人というには大きすぎる。二人といったら世界人口の辻褄が合わない」「人間というより化け物といった方がいいような」「都市型破壊怪獣ゴジラ」「怪物コンプレックス」「一人大恐竜」「ガリバーシンドローム」といった形容詞も使用している)。新日本プロレス登場末期には、覆面を被り、ジャイアント・マシーン(Giant Machine)と名乗って出場していたこともある。また新日本参戦末期には将軍KYワカマツが悪役マネージャーに就いた。なおマシーン軍団はWWFでもコピーされたため、アメリカでも同様のキャラのまま戦っている。晩年まで履いていた黒もしくは青のワンショルダー・タイツは、この頃の名残である(それまでは青や緑や赤のショートタイツを着用)。また、ジャイアント・マシーンの正体はいわずもがなだったが、相棒であったスーパー・マシーン(正体はマスクド・スーパースター)については、WWFオフィシャル発表では「北海道生まれの日本人」ということにされており、プロモーション用のインタビューでも珍妙な日本語を話していた。また、アンドレは国際プロレスに特別な思い入れがあったようで、新日本に1974年より本格参戦した後も同年6月と1979年7月に国際にも特別参加したことがある(1979年参戦時にはラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座にも挑戦)。
1981/9/23、新日本の田園コロシアム大会で行われたスタン・ハンセンとの一騎打ちは今もって日本プロレス史上最高の外国人名勝負と言われる。この頃のアンドレはスピード・パワーともに全盛期であり、アントニオ猪木ですら不意をついた形でのリングアウト勝ちを拾うのが精一杯であった。ハンセンはそのアンドレに臆することなく、真正面からパワーでぶつかった。試合内容はおよそ人間が対決しているとは思えないほどの迫力であり、引き分け後の再試合を含め延べ二試合でハンセンはアンドレを二度投げた(一回目はボディスラム、二回目は一本背負い気味に)。また、ハンセンの命綱である左腕を執拗に殺しにかかるアンドレの巧みなリングワークに対し、ハンセンがそれを跳ね返してウエスタン・ラリアットでアンドレを場外に叩き落すなど、試合の基本的なストーリーも高いレベルにあった。試合結果は両者リングアウト引き分け後の再試合で、アンドレがレフェリーのミスター高橋に暴行を加えハンセンの反則勝ちとなったが、結果に納得のいかない両選手による試合後の乱闘も含めて、高いエンターテイメント性を有した試合となった。
1990/4/13の日米レスリングサミットで、久々に日本マットに登場し馬場と日米大巨人タッグを結成(大巨人コンビ)。同年9/30、馬場のデビュー30周年記念試合でタッグながら初対決してからは全日本へ主戦場を移し、1992/10/21の全日本・日本武道館大会「全日創立20周年記念試合」馬場&ハンセン&ドリーvs鶴田&アンドレ&ゴーディ戦では、アンドレvsハンセンの対決が再び実現。全盛期の動きとは程遠いアンドレだったが、ハンセンの渾身のウエスタンラリアットを喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせるなど、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。
アンドレはその長身から何処へ行っても好奇の目で見られることが多かったのに加え、1970年代の日本ではまだ外国人が珍しかった時代でもあることが重なり、新日本プロレスへ参戦していた頃のアンドレは非常にナーバスであり、彼の悩みが周囲になかなか理解されず、自然とアンドレは憎まれ役へシフトしつつあった。そして自分の立場には徹底しており、ヒールとしてのイメージが損なわれることを嫌がり、あえてファンのサインも断っていた(ヒールでもリング外でのファンサービスに応じるレスラーは多いが、アンドレは敢えて避けていたという)。リング内ではまさに全盛期の活躍であったが、対照的に日本でリング外におけるアンドレのインタビューやプライベート等を収めた記事は非常に少ない。ただし初来日のきっかけを与えてくれた、旧国際プロレス関係者は日本におけるアンドレの数少ない理解者であったため、新日本プロレスへ参戦していた時も水面下で交流が続いていた。
一転して全日本プロレスへ参戦していた頃のアンドレは、馬場とコンビを組んでいたこともあって、国際・新日本時代とは異なり完全なベビーフェイスであり、全日本登場第1戦から出番のたびに大アンドレ・コールで迎えられ、アンドレも笑顔でファンに応じたり、また登場時での花束贈呈の時は、受け取ると即座にブーケトスの様に後方の客席に花束を投げてプレゼントしたり、コールの時には二本指を立てて腕を上げるアピールを見せていた。

獲得タイトル

  • IWA世界タッグ王座:1回(w / マイケル・ネイダー a.k.a. ミシェル・ナドール)
    • 1970/1/18、王座決定戦でサンダー杉山&グレート草津を破り獲得。
  • NWAオーストラ・アジアン・タッグ王座:1回(w / ロン・ミラー)
    • 1978/12/8、オックス・ベーカー&ブッチャー・ブラニガンから奪取。
  • NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / ダスティ・ローデス)
    • 1978/12/25、トーナメント決勝でスタン・ハンセン&アーニー・ラッドを破り獲得。
  • NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ダスティ・ローデス)
    • 1981/2/12、ボビー・ジャガーズ&ランディ・タイラーから奪取。
  • WWF世界ヘビー級王座:1回
    • 1988/2/5、ハルク・ホーガンから奪取。
  • WWF世界タッグ王座:1回(w / キング・ハク)
    • 1989/12/13、デモリッション(アックス&スマッシュ)から奪取。
  • WWF Hall of Fame (1993年度)
    • 1993/6/3に発表。殿堂入り第1号。

入場テーマ曲

彼のためにつくられた入場テーマ曲『ジャイアントプレス』は、その後日本マットに登場した巨人プロレスラーや大巨人格闘家が必ず使っている。 しかし、WWE時代は一貫して入場テーマ曲がなかった。

エピソード、その他
その巨体ゆえに投げ技をかけられることはほとんど無かったが、ハルク・ホーガンやスタン・ハンセン、ハーリー・レイス、ローラン・ボック、エル・カネック、ブラックジャック・マリガンなどのレスラーによってボディスラムで投げられている(マリガンは日本では報じられることはなかったが、1982/9/18、WWFのフィラデルフィア大会における6人タッグマッチでアンドレを投げている)。日本人で成功したのはアントニオ猪木、長州力、ストロング小林の3人のみである。アンドレをボディスラムで投げることがレスラーのステイタスだった時期もあった。ブルーザー・ブロディもオーストラリアで投げたというが、これは非公式記録となっている。カール・ゴッチに至ってはモンスター・ロシモフ時代のアンドレをジャーマン・スープレックスで投げ切っており、これがスープレックスでアンドレを投げた唯一の記録とされている。なお、アンドレ自身は「俺は気心の知れた奴にしかボディスラムを許さなかった」とハンセンへ語っていたといい、ハーリー・レイスは投げる時にアンドレが自分に「早くしろ」と囁いたと坂口憲二に語っていた。これらの証言から踏ん張った状態のアンドレを本当に投げることのできたレスラーがどれだけ居たのかは不明。
ベースボール・マガジン社発行の『プロレス異人伝 来日外国人レスラー・グラフィティ』の「外国人係は見ていた」の項にてインタビューを受けたタイガー服部によると、アンドレはヒッププッシュを繰り出す際によく屁を放っていたそうで、その臭いはリング内の選手やレフェリーはおろか、リング外にいるカメラマンや若手選手、リング最前列から10番目くらいの観客にまで届いたという。
マネージャーを務めたアーノルド・スコーランによるとかなりのアイデアマンで、日本で大巨人伝説がマンネリ化し始めて来た頃、レスラー以外の人間を襲撃するというアイデアを自ら猪木に提案した。ただし、その際に襲撃されたのは気心の知れたレフェリーのミスター高橋やリングアナウンサーの田中秀和ら新日プロのスタッフであり、決してファンや一般人には手を出さなかった。
マイティ井上とは若手時代から親友の間柄。アンドレは生涯独身を貫いたと言われているが、井上はアンドレに内縁の妻がいたこと、娘も一人いたことを明言している。本名については、井上が見たアンドレのパスポートには「アンドレ・レネ・ロシモフ」と書かれていたというが「アンドレの本名はジャン・フェレだ」と雑誌インタビューでは答えている。
井上が「電話をするから鉛筆を貸してくれ」とアンドレに頼まれ、メモを取るのかと思い鉛筆を貸したところ、つまんだ鉛筆の先でダイヤルを回し始めた。これはアンドレの指が太すぎて、ダイヤルの穴に指先が入らなかったためである。
現役時代からカーリーヘアのカツラを着用し、リングに上がっていた。これはより一層巨大感を表現させるために着用していたという。ただし後年はカーリーヘアーのカツラを外し、地毛のパーマヘアーで闘っている。
アンドレは弁護士に渡してあった遺書の中で「死後48時間以内の火葬」を希望していたが、パリには彼の巨体に対応できるだけの施設がなく、結局そのままアメリカへ移送された。
レスラー、プロレス記者、団体バス運転手など、アンドレには日本人の友人知人が多くいたが、黒人に対しては嫌悪感を隠さなかったと言われる。バッドニュース・アレンがアンドレの差別発言に激怒し、ホテルの屋上にアンドレを呼び出し「謝らなければここから突き落としてやる」と言って謝罪させたという逸話がある。しかし、黒人レスラーのアーニー・ラッドとは親友同士で、両者は北米各地で抗争を展開できる気心の知れた仲だった。同じくMSWA、WCCW、WWFなど各団体で抗争を繰り広げたカマラもアンドレのことを称えている(カマラのWWF入りはアンドレの仲介によるものだったという)。また、アイスマン・キング・パーソンズ、S・D・ジョーンズ、ジャンクヤード・ドッグ、トニー・アトラスなど、WWFや南部エリアでアンドレのタッグ・パートナーを務めた黒人選手は数多い。ロッキー・ジョンソンの息子のザ・ロックも、子供の頃にアンドレに可愛がってもらっていたという(ロックの自著『The Rock Says』には、アンドレに抱き上げられた少年時代のロックの写真が掲載されている)。
1984/12/19、ハワイNBCアリーナにおける興行の第8試合で、レフェリーを務めたことがある。シバ・アフィ、ラーズ・アンダーソン組vsマーク・ルーイン、ケビン・サリバン組の試合を裁くも、敗れたルーイン組が判定への不服からアンドレに食って掛かり、乱闘寸前になったという。
当時外国人レスラーの相談役も務めていた新日本プロレスのレフェリー、ミスター高橋がアンドレが宿泊していたホテルへ出向き「実は覆面を被ってほしいんだ」とおそるおそる切り出した。その際、差し出したのがジャイアント・マシーンのマスクである。そのマスクを見たアンドレは大喜びし、早速その場で着けてみせ「どうかな、(高橋のニックネーム)ピーター。似合うかい?」と満足気にポーズをとったという。高橋はプライドが高いアンドレは絶対に断るだろうと思っていたため、この反応は全く意外だったと後に述懐している。
1980年代の少年漫画では、アンドレを連想させるキャラクターがしばしば登場した。体躯やカーリーヘア等の特徴的な容貌が、視覚的記号の塊であるマンガという媒体において、格好の素材だったと考えられる。中でも少年サンデーに連載されていた池上遼一の『男大空』には、海主莫郎と言うキャラクターが登場し、池上のリアルな絵柄とあいまって抜群の存在感を示した。また、梶原一騎原作の『カラテ地獄変・牙』では、オーレ・ザ・ジャイアントというアンドレをモデルにしたレスラーが登場し、空手家大山倍達をモデルとした大東徹源と闘っている。
カプコンから発売されたアクションゲーム『ファイナルファイト』には「アンドレ」という名前の敵キャラが登場する。巨体や髪型など外見上の共通点も多いが、実際のアンドレに比べ筋肉質である。また、後に同社の対戦格闘ゲーム『ストリートファイターIII』シリーズには「ヒューゴー」という名のアンドレに似たキャラクターが登場し、その体格は実際のアンドレにより近くなっている。
スタン・ハンセンはアンドレを先輩として尊敬し続け、両者は新日本プロレスを去った後、全日本プロレスでほぼ10年ぶりの同行を喜び、試合後はよく二人で飲食に出かけた。その際、よく話題になったのが既述の田園コロシアムの一戦で、互いに相手を称え飽きることなく語り合ったという。
WWFに参戦したキラー・カーンとアンドレが対戦した際、アンドレが自身の過失で試合中に自分の足を痛めてしまい、それに気付いたカーンは機転をきかせトップロープからニー・ドロップを見舞った[12]。後日カーンは通訳を連れてアンドレの入院先へ見舞いに出向き、前述した試合の件について謝罪。しかしそれを聞いたアンドレは大声で笑いのけ、「気にするな、あれはアクシデント。君の機転が無かったら試合が台無しになっていたところだった」と逆に励ましの言葉をかけたという。さらにアンドレは「それよりも、あの試合は『キラー・カーンがアンドレ・ザ・ジャイアントの足をニー・ドロップで骨折させた』ということにしよう。俺が退院したら、君との試合は盛り上がること間違いなしだ」と言い、格好のストーリーラインまで提案している。このアングルは新日本プロレスに凱旋帰国したカーンの株を急上昇させ、彼を瞬く間にメインイベンターへ昇格させた原動力となった。この頃の新日本プロレスは全日本プロレスとの外国人選手引き抜き合戦の挙句、スター選手を失ったのと同時に猪木とタイガーマスクが怪我で休場と痛手を被った時期でもあるが、代わってメインに上った「あのアンドレの足を骨折させた大型日本人レスラー」とアンドレとの対戦は興行を大いに盛り上げた。
酒豪伝説
前述するようにアンドレは酒豪として知られ、特にビールやワインの消費量については様々な伝説が残されている。
ミスター・ヒトの著書『クマと闘ったヒト』では、車で800km移動する間に缶ビールを118本飲み、到着後更に5ガロン(約19リットル)のワインを飲み干したと記載されている。
マイティ井上は、札幌遠征時に「二人で一度に瓶ビールを136本空けたことがある」と証言している。その際は「汗とアルコールとオーデコロンが一緒になったようなにおいになった」という。
キラー・カーンと坂口征二によれば、1975年に新日本プロレスがブラジル遠征を行った際、ロサンゼルス経由サンパウロ行きの飛行機の機内にあったビールを全部アンドレが飲み干してしまい、他の乗客からクレームがついたという。
この他、1980年4月の札幌巡業でサッポロビール園で大ジョッキ89杯を空けた、「タンパの空港で50分でビール108本を空けた」(ハルク・ホーガンによる証言)、「ペンシルベニア州リーディングのホテルのバーでビール327本を空け、さすがのアンドレも気絶した」(ファビュラス・ムーラによる証言)など、消費量に関する伝説は枚挙に暇がない。ただこれらの伝説がどこまで本当なのかは不明。
馬場とは巨人同士でウマが合ったと言い、選手バスでは隣同士に座り二人で冗談を言い合いながらワインを飲んでいたという。そのため、全日本の選手バスにはアンドレ用のワイン冷蔵庫が用意されていた。
ワインは白ワインが好みだったというが、結局は赤・白の別や銘柄に関係なく「水のように飲み干してしまう」状態だったらしく、ハルク・ホーガンによれば「アンドレの誕生日の際に、移動バスにワイン1ダースをプレゼントとして用意したら、出発から2時間半で全部空けてしまった」という。
元々多かった酒量は晩年実父を失ったショックからか更に増え、ワインを手放せない状態だったと言われる。晩年は歩行すらままならない状態だったようで、移動にバギーバイクを使用していた。

アンドレ・ザ・ジャイアント
アンドレ・ザ・ジャイアント


 
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ディック・スレーター
Dick Slater
1951/5/19

アメリカ合衆国の元プロレスラー。本名:リチャード・ヴァン・スレーターRichard Van Slater)。フロリダ州タンパ出身。

日本では1980年前後の全日本プロレスにおいて、テリー・ファンクの弟分としてベビーフェイスでの人気を獲得したが、アメリカでは "ダーティー" ディック・スレーター"Dirty" Dick Slater)を名乗り、主にヒールのポジションでNWAの南部テリトリーを中心に活動した。

その無鉄砲で荒っぽいファイトスタイルから、"Mr. Unpredictable" または "Mr. Excitement"の異名を持つ(日本では「喧嘩番長」と呼ばれた)。私生活でも気性が激しく喧嘩っ早いことで知られており、シューターとして名を馳せたボブ・ループとの私闘などの逸話も残している。リック・フレアーも彼の喧嘩の強さを認めており、ハーリー・レイス、ブラックジャック・マリガン、ワフー・マクダニエル、マッドドッグ・バションらと並んでプロレス界でもトップクラスだったと自著で記している。

来歴

1970年代

タンパ大学時代はレスリングとアメリカンフットボールで活躍。フットボールのチームメイトにはポール・オーンドーフもいた。マイアミ・ドルフィンズからのオファーもあったが、卒業後はハイスクール時代の友人マイク・グラハムの仲介により、マイクの父エディ・グラハムが主宰するNWA傘下団体・CWF(Championship Wrestling from Florida)にて1972年にプロレス・デビュー。

ラフファイトを身上とした若手のヒールとして売り出され、1973年には極道ヒール時代のダスティ・ローデスと組んでマイク・グラハム&ケビン・サリバンからフロリダ・タッグ王座を奪取、翌1974年には日系人ヒールのトール・タナカとのコンビでも同王座に戴冠した。同年8月、全日本プロレスに初来日している。

1975年からはジム・バーネットが主宰するジョージアのGCWに参戦し、ボブ・オートン・ジュニアと喧嘩屋同士のタッグチームを結成、同年6月にボブ・アームストロング&ロバート・フラーからジョージア・タッグ王座を奪取した。シングルでも1976年から1977年にかけて、ザ・スポイラー、ミスター・レスリング2号、ポール・ジョーンズらを破りジョージア・ヘビー級王座を獲得している。

同時期に中西部地区にも遠征し、1977/8/13にジャック・ブリスコを下してミズーリ・ヘビー級王座を奪取。翌1978年2月にテッド・デビアスに敗れるまで、NWA世界ヘビー級王座への登竜門といわれた同タイトルを半年間に渡って保持し、次期NWA世界王者の有力候補の1人となった。

王座陥落後は古巣のCWFに戻り、1978年から1980年にかけて、ペドロ・モラレス、ジャック・ブリスコ、ダスティ・ローデス、ワフー・マクダニエルらを破り南部ヘビー級王座を通算4回獲得。また、1978年下期にはキラー・カール・コックスと組んでジャック&ジェリー・ブリスコからUSタッグ王座を、1979年1月にはジョー・ルダックからフロリダ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取している。

1979年はアラバマのSECW(Southeastern Championship Wrestling)にも進出し、5月にジェリー・ブラックウェルと組んでボブ・ループ&ボブ・オートン・ジュニアからサウスイースタン・タッグ王座を奪取、10月には旧友ポール・オーンドーフとのコンビで同王座を再度獲得した。シングルではモンゴリアン・ストンパーやロン・ガービンとサウスイースタン・ヘビー級王座を争っている。

1980年代

1980年まではフロリダのCWFを主戦場に活動し、ダスティ・ローデスやバリー・ウインダムと南部ヘビー級王座を巡る抗争を展開。同時期、日本ではベビーフェイスとして絶大な人気を得ていたが、同地区ではイワン・コロフ、ニコライ・ボルコフ、アレックス・スミルノフらロシア人ギミックの反米ユニットとも共闘し、観客のブーイングを浴びた。また、ミスター・サイトーともタッグを組み、1980年7月に行われたUSタッグ王座争奪トーナメントに出場したことがある。

フロリダを離れるとテキサス州サンアントニオのSCW(Southwest Championship Wrestling)に進出。1981年2月に交通事故に遭い、平衝感覚を失う後遺症が出たためしばらく欠場するも、カムバック後の8月にマニー・フェルナンデスからサウスウエスト・ヘビー級王座を奪取。翌1982年にはブルーザー・ブロディと組んでダイナミック・デュオ(ジノ・ヘルナンデス&タリー・ブランチャード)から世界タッグ王座も奪取している。

1983年からはジム・クロケット・ジュニアが主宰するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に参戦。盟友ボブ・オートン・ジュニアと共にNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスのボディーガード役を務め、当時ベビーフェイスのポジションにいたリック・フレアーを襲撃するなど、『スターケード』に向けてのフレアーのNWA王座返り咲きアングル "A Flair For The Gold" において、ヒール・サイドの主要キャストを演じた。また、同地区ではマイク・ロトンド、ロディ・パイパー、ルーファス・ジョーンズ、グレッグ・バレンタインらを下し、シングル・タイトルも再三獲得している。

1985年よりビル・ワットのMSWAに登場し、翌1986年1月にブッチ・リード、2月にジェイク・ロバーツを破りミッドサウス北米ヘビー級王座を獲得。MSWAでは黒人女子レスラーのダーク・ジャーニーことリンダ・ニュートンをマネージャーに従えていた。

1986年下期、ザ・レベルThe Rebel)をニックネームに、南北戦争の南軍キャラクターのベビーフェイスとしてWWFに参戦。カナダのトロントにて6万人を超える観客を動員した8/28の "The Big Event" ではマイク・シャープから勝利を収めている。WWFには1987年初頭まで在籍し、『サタデー・ナイト・メイン・イベント』などの番組でドン・ムラコ、アイアン・シーク、ディノ・ブラボーらと対戦、NWA時代の旧友グレッグ・バレンタインやカウボーイ・ボブ・オートンとも試合を行ったが、目立った活躍は果たせなかった。

WWF離脱後は、カート・ヘニングのボディーガード役としてAWAに短期間出場。その後、NWAセントラル・ステーツ地区のプロモーターだったボブ・ガイゲルが新設したWWAのリングに上がり、1988/1/23に行われた世界ヘビー級王者決定トーナメントではマイク・ジョージと決勝を争った。1989年にはテッド・ターナーに買収されて間もない旧クロケット・プロに復帰し、マネージャーのゲーリー・ハート率いるヒール軍団 "J-Tex Corporation" に加入するが(メンバーはテリー・ファンク、グレート・ムタ、ザ・ドラゴンマスター、バズ・ソイヤー)、WCWへの体制移行に伴い短期間で解雇された。

1990年代 / 近年

1990年、ジェリー・ジャレットとジェリー・ローラーが主宰するテネシー州メンフィスのUSWAに登場。9/1、空位となっていた南部ヘビー級王者に認定されるが、1カ月後の10/6にジェフ・ジャレットに敗れ王座から陥落した。

1991年にWCWと再契約し、ディック・マードックとザ・ハードライナーズThe Hardliners)なるレッドネック系のヒール・タッグチームを結成。以降、1990年代はWCWを主戦場に、1992年6月にはザ・バーバリアンをパートナーにファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&ジミー・ガービン)からUSタッグ王座を奪取。その後、カーネル・ロバート・パーカーをマネージャーにテリー・ファンクやバンクハウス・バックらと南部人ユニットを結成。1995年7月にはバックとのコンビでハーレム・ヒート(スティービー・レイ&ブッカー・T)からWCW世界タッグ王座も奪取している。

1996年に背骨を負傷して引退し、地元のフロリダで小売業者に転身。2003/12/27、交際相手の女性にナイフで傷を負わせたとして逮捕され、1年間の自宅軟禁と2年間の保護観察処分の判決を受けるとともに、被害者の女性への1万8000ドルの賠償金の支払いを命じられた。古傷である背骨の痛みを抑えるために服用していた薬物(モルヒネとオキシコンチン)の影響だったと本人は語っている。

日本での活躍

フロリダでテリー・ファンクとタッグを組んだ関係から、1974年8月にファンク一家の一員としてテリーに帯同し全日本プロレスに初来日(同シリーズには、後にタッグを組むキラー・カール・コックスも参戦しており、ディック・マードックも覆面レスラーのザ・トルネードとして開幕戦に出場。後半戦にはドリー・ファンク・ジュニアも来日した)。テリーそっくりのファイトスタイルから「右利きのテリー」とあだ名され、以降も同世代のジャンボ鶴田の好敵手として全日本の常連外国人選手となった。なお、日本ではラフファイターとしてのキャラクターイメージを活かすために「学生時代は不良で鳴らし、酒場でポール・ジョーンズに喧嘩を売って返り討ちに遭うも、その度胸と腕っ節をエディ・グラハムに見込まれスカウトされた」などと紹介されていた。

1980年のチャンピオン・カーニバル(第8回大会)では兄貴分のテリー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジャイアント馬場らを抑え決勝進出、ジャンボ鶴田と覇を争った。ブッチャーの火炎攻撃で右眼を焼かれ、眼帯を着けながらの果敢なファイトで観客の声援を集めるなど、この時期はスレーターの日本における絶頂期であった。1981年の交通事故後は精彩を欠き始めトップ戦線からは脱落していったものの、以降も全日本への参戦を続け、1990年11月まで通算17回に渡って来日した。

タイトルには鶴田や天龍源一郎のユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座に再三挑戦したほか、1978年にはテリー・ファンク、1983年にはロディ・パイパーとのコンビで馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座にも挑戦している。世界最強タッグ決定リーグ戦には1980年にリッキー・スティムボート、1982年にハーリー・レイス、1988年にトミー・リッチ、1990年にジョー・ディートンと組んで出場した。

1994年7月にはIWAジャパンに来日し、IWA世界ヘビー級王者決定トーナメントに出場。決勝で荒谷信孝を破って初代チャンピオンとなり、日本マットにおける初載冠を果たした。

獲得タイトル

NWAセントルイス
  • NWAミズーリ・ヘビー級王座:1回
CWF
  • NWAブラスナックル王座(フロリダ版):1回
  • NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):4回
  • NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回
  • NWAフロリダ・タッグ王座:4回(w / ダスティ・ローデス、スタン・バション、トール・タナカ、ジョニー・ウィーバー)
  • NWAフロリダTV王座:2回
  • NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / キラー・カール・コックス)
GCW
  • NWAジョージア・ヘビー級王座:4回
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / ボブ・オートン・ジュニア)
  • NWAメイコン・タッグ王座:1回(w / ボブ・オートン・ジュニア)
SECW(アラバマ)
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座:3回
  • NWAサウスイースタン・タッグ王座:2回(w / ジェリー・ブラックウェル、ポール・オーンドーフ)
SCW(サンアントニオ)
  • SCWサウスウエスト・ヘビー級王座:2回
  • SCWサウスウエスト・タッグ王座:1回(w / ボブ・スウィータン)
  • SCW世界タッグ王座:1回(w / ブルーザー・ブロディ)
NWAミッドアトランティック
  • NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回
  • NWAミッドアトランティックTV王座:2回
  • NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ダスティ・ローデス)
  • NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版):1回
WCW
  • WCW USタッグ王座:1回(w / ザ・バーバリアン)
  • WCW世界タッグ王座:1回(w / バンクハウス・バック)
MSWA / UWF
  • ミッドサウス北米ヘビー級王座:2回
  • ミッドサウスTV王座:1回
  • UWF世界TV王座:1回
USWA
  • USWA南部ヘビー級王座:1回
IWA JAPAN
  • IWA世界ヘビー級王座:1回





本間 聡
1968/5/19

日本の総合格闘家。新潟県新潟市出身。

来歴

少年時代からプロレスファンで、大学進学後に修斗入門。

1990年5月、富士豊戦でデビュー。川口健次、山田学らと共にライトヘビー級で試合を重ねる。

1992年11月に行なわれた川口とのライトヘビー級タイトルマッチは一方的に追い込むがドロー裁定に終わり、観客からの不服の声に創始者の佐山聡が「私が見ても誰が見ても本間選手の勝ち」と発言したが、その後確約された川口へのタイトル挑戦が実現せずに修斗を離脱。平直行が所属するゼンショー総合格闘技部へ移籍、リングスを主戦場とする。

1994年には平と共にゼンショー総合格闘技部を離脱、正道会館系のフリーとなった。リングスとK-1で2度に渡って行なわれた成瀬昌由戦ではそれぞれ勝利を収めた。1995年1月にはトーワ杯カラテジャパン・オープンにも出場、重量級で3位入賞。

1995年12月に行なわれた初のバーリトゥード・マッチであるレネ・ローゼ戦では一方的に敗戦し、しばらく試合から遠ざかるが、1998年10月に3年ほどの沈黙を破ってPRIDE.4に出場。プロレスラーの佐野友飛(当時高田道場所属)にKO勝ちし復活をアピールしたものの、翌年開催のPRIDE.5ではフランシスコ・ブエノにKO負け、以後リングスでリー・ハスデルとドローなど精彩を欠き、2000/4/14に日本で開催されたUFC 25でのロン・ウォーターマン戦を最後に引退、故郷の佐渡へと戻った。

現在ではアマチュアとしてマイペースで活動、2004年7月にはZSTのジェネシスバウト(アマチュアマッチ)に出場した。






Cooga/神谷 美織
1969/5/19

日本の元プロレスラー。本名は稲子 美織(いなご みおり)。旧姓およびデビュー時のリングネームはかみや みおり。埼玉県所沢市出身。身長164cm、体重62kg。血液型A型。

夫は元大相撲力士の若隼人幸治。

経歴・戦歴

1986年
  • 9/25、全日本女子プロレス大宮スケートセンター大会において、対高橋美香戦でデビュー。
1992年
  • 12/13、全日本女子プロレス引退。
1996年
  • Jd'旗揚げに覆面レスラーCoogaとして参加。この当時の覆面レスラーとしては男子、女子共に珍しく(試合でマスクを剥がされても、素顔を露出したまま闘ったり、パンフレット等のプロフィールに本名がはっきり記載されていたりと、正体がバレバレである選手が珍しくなかった)、最後まで「正体不明」を貫いたが、そのためタッグマッチではマスクを脱がされると、そのまま素顔を隠して戦闘不能になってしまい、結果パートナーを見殺しにしてしまうことも多く、中期〜後期にかけてのタッグマッチでは、明らかにパートナーを孤立させることを狙った相手チームにマスクを剥がされることが多かった。
1999年
  • 12/28、Jd'後楽園ホール大会のメインイベント・TWF世界選手権で王者ライオネス飛鳥に挑戦するも、LSD IIで敗北し、その場でマスクを脱いで正体を明かし、引退を発表した。
2000年
  • 1/10のJd'後楽園ホール大会で引退セレモニーが行われた。

タイトル歴

  • 全日本タッグ
  • 第2代TWFタッグ

入場テーマ曲

  • 「Lumber Jack」鳥山雄司(全日本女子時代)
  • 「アタック」(Cooga)

  



サイコシス/シコシス
Psicosis
1971/5/19

ディオニシオ・カスティリアノスDionicio Castellanos)は、メキシコのプロレスラー。ニチョ・エル・ミジョナロNicho El Millionaro)などのリングネームで知られる。バハ・カリフォルニア州ティファナ出身。シコシスとは日本語で『精神の狂った男』の意味を持つ。身長178cm、体重96kg。元WWEのスマックダウン所属選手。

なお、現在AAAで活動しているシコシスは2代目で別人である(2代目はマスクを着用しているが後述の理由で初代は着用していない)。なお2代目に関してはシコシスを参照。

来歴

プロレスデビューは1989年。レイ・ミステリオ・シニアおよび兄のファビアの元でトレーニングを積んだ後のデビューである。当初は覆面レスラーで明らかに獣神サンダー・ライガーのコスチュームを真似たいでたちとしての登場で、メキシコの団体では、レイ・ミステリオとの抗争を繰り広げていた。1994年には、新日本プロレスに登場している。

1995年にECWにレイ・ミステリオと共に登場。

1996年にWCWに登場。およびリングネームを現在のシコシスとする。同年、ミステリオと共にWARに参戦。

1998年から1999年の間、LWoの一員として活動をした。

1999年8月にメキシコでレイ・ミステリオ・シニアと対戦して敗れ、素顔を晒した。9月にはアメリカでサンドマンと対戦して敗れ、アメリカでも素顔を晒した。以降素顔で活動している。素顔では上半身にタトゥーをいれ長髪にバンダナ姿。

2000年にWCWを解雇された後はWWA、全日本プロレスを転戦した後にECWに復帰する。ECW消滅後は、AAAを主戦場とした。シコシスは2代目がいたため、ニチョ・エル・ミジョナロを名乗った。

2005年にWWEと契約。スマックダウンにてメキシクールズの一員となったが2006/11/1に解雇された。

2007/2/5にAAAに登場。出場停止中だったラ・パルカのマスクを被って乱入、大親友コナンの仇を取るためシベルネティコに宣戦布告をした。

タイトル歴

WCW
  • WCWクルーザー級王座 : 2回
  • WCWクルーザー級王座(ティフアナ版)
新日本プロレス
  • IWGPジュニアヘビー級王座 : 1回(前王者フベントゥ・ゲレーラの負傷・返上による暫定王者)
WWA
  • WWAクルーザー級王座 : 1回
  • WWAウェルター級王座 : 3回
  • WWAミドル級王座 : 1回
  • WWA世界ジュニアライト級王座
  • WWAトリオ王座 : 1回(w / フエルサ&フベントゥ・ゲレーラ)
その他
  • ナショナルトリオ王座 : 2回
  • ナショナルウェルター級王座
  • AAA世界タッグチーム王座
  • AAA・IWCタッグチーム王座
  • アメリカスタッグチーム王座
  • IWASタッグチーム王座
  • LAWAウェルター級王座
  • WWA・WWASウェルター級王座
  • APWクルーザー級王座
  • WPWクルーザー級王座





ジョルジュ・サンピエール
Georges St-Pierre
1981/5/19

カナダの総合格闘家。フランス系カナダ人。ケベック州サンティジドール出身。トリスタージム/ジャクソンズ・サブミッション・ファイティング所属。名前の頭文字をとってGSPとも呼ばれる。UFC世界ウェルター級王者。リーチ76インチ(約193cm)。英語読みでジョージ・セントピエールとも。爆発的な攻撃力から「Rush(ラッシュ)」の異名を持つ。総合格闘技のパウンド・フォー・パウンド最強の候補として名前が挙がっている。

来歴

治安の悪い街サンティジドールに生まれ、幼い頃はイジメに遭ったり、小遣いや服を盗まれたりした。護身のために7歳の時に極真空手を学び始めた。空手の先生が死去した後、ブラジリアン柔術、ボクシング、レスリングなど様々な武術を学んだ。

プロ総合格闘家になる前は、モントリオールのクラブで門番の仕事をしていた。2002年にUCCでプロ総合格闘技デビュー。アイヴァン・メンジバーにパウンドでTKO勝利を収めた。2戦目でジャスティン・ブラックマンに腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めてTKOウェルター級王座を獲得。3戦目のトラヴィス・ガルブレイス戦ではサイドポジションの体勢から相手の後頭部をマットに叩き付けて失神させている。

2004/1/31、UFC 46にてUFCデビュー。カロ・パリジャンを判定で破る。

2004/10/22、UFC 50にてマット・ヒューズとUFC世界ウェルター級王者決定戦で対戦。しかし再起をかけた前王者ヒューズの前に腕ひしぎ十字固めで敗れる。

2005/4/16、UFC 52にて復活。ジェイソン・"メイヘム"・ミラーに判定勝ち。8/20のUFC 54ではフランク・トリッグにチョークスリーパーで一本勝ち、11/19のUFC 56ではショーン・シャークからパウンドでTKO勝利を収め、強豪を相手に連勝。

2006/3/4のUFC 58ではUFC世界ウェルター級王座挑戦者決定戦でBJペンと対戦。激闘の末に2-1の判定で下し、マット・ヒューズとのタイトルマッチでの再戦が決定。

2006/11/18、UFC 65のUFC世界ウェルター級タイトルマッチにて、王者マット・ヒューズのタックルを完封して打撃で圧倒し、最後は左ハイキックからパウンドを打ち込みTKO勝ち。リベンジに成功すると共に第6代UFC世界ウェルター級王者となった。

2007/4/7、UFC 69で初防衛戦としてマット・セラと対戦し、TKO負けにより王座陥落。この試合は後にUFC史上最大の番狂わせの一つと言われた。

2007/8/25のUFC 74ではジョシュ・コスチェックと対戦し、判定勝ち。

2007/12/29のUFC 79ではUFC世界ウェルター級暫定王者決定戦でマット・ヒューズとラバーマッチを行う。序盤にクリンチワークからの大外刈りでヒューズからテイクダウンを取り主導権を握ると、終始一方的に攻め、ヒューズにほとんど何もさせないまま、最後は腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。サブミッション・オブ・ザ・ナイトを受賞した。

2008/4/19、GSPの故郷モントリオールで開催されたUFC 83のUFCウェルター級王座統一戦でマット・セラと再戦し、グラウンドでの膝蹴りによりTKO勝ち。リベンジで故郷凱旋を果たすと共に第8代UFC世界ウェルター級王者となった。続く8月9日のUFC 87ではジョン・フィッチを終始圧倒し続けて5R判定勝ちで初防衛に成功。ファイト・オブ・ザ・ナイトを受賞した。

2009/1/31、UFC 94の2度目の防衛戦で、ライト級王者BJペンと再戦。「世紀の一戦」「MMAのパウンド・フォー・パウンド最強王者決定戦」と評されたこの試合で得意のレスリング技術で優位なポジショニングを取り、パウンドの連打によりダメージを蓄積させ、4R終了時にTKO勝ち。2度目の王座防衛に成功した。7/11にはUFC 100でチアゴ・アウベスと対戦、テイクダウンを奪い続けての判定勝ちで3度目の防衛に成功した。

2010/3/27、UFC 111の4度目の防衛戦でダン・ハーディーと対戦し、3-0の判定勝ちで4度目の防衛に成功した。

2010年9月から放送されたリアリティ番組The Ultimate Fighter 12でコーチを務め、相手チームのコーチであったジョシュ・コスチェックと因縁を作った。12/11、地元・カナダで開催されたUFC 124の5度目の防衛戦でコスチェックと3年3か月ぶりに再戦し、3-0の判定勝ちで5度目の防衛に成功した。この試合はファイト・オブ・ザ・ナイトに選出された。

ファイトスタイル

Rush(ラッシュ)の異名通りの爆発的な攻撃力に加えて、レスリング、ブラジリアン柔術、打撃、全てにおいて優れており、あらゆる局面において強さをみせる。またそれらの技術を総合仕様に上手くアレンジして利用する柔軟性も彼の持ち味であり、ダナ・ホワイトに「総合格闘技の歴史を10年早めた」と言わしめた。入場の際には必ず空手着を着て、日の丸が描かれたハチマキを着けて入場する。また、極真空手出身でありながら、北京オリンピックと2012年夏季のロンドンオリンピックにレスリングでの出場を目指そうとするほど優れたレスリング技術を持っている。

人物

  • 左胸に「柔術」と日本語で刺青を彫っている。日本の日の丸が描かれたハチマキを必ず着けて入場するなど、空手の母国である日本に敬意を抱いており、「まだ日本に行ったことは無いけど、いつか絶対に日本で試合をしたい」と語っている。
  • 北京オリンピックにレスリングでの出場を目指していた。しかし、UFC 83がサンピエールの故郷モントリオールで開催されることと同大会でマット・セラへのリベンジを賭けた王座統一戦を行うことが計画されていることを知り、こちらを優先したため、北京オリンピック出場を目指すことを断念した。2012年夏季のロンドンオリンピック挑戦については悩んでおり、正式に決断を表明していない。
  • ウェルター級ではあまりにも圧倒的に強すぎて相手がいないため、階級をミドル級に上げてUFC世界ミドル級絶対王者アンデウソン・シウバと対戦することをしばしば期待されているが、本人は「ウェルター級で自分自身が納得できるまで戦った上で、もう少し身体を大きくしたら挑戦したい」と語っている。
  • 元プロボクシングWBA世界スーパーウェルター級王者ヨアキム・アルシンはトレーニング・パートナーである。
  • カナダのスポーツサイトsportsnet.caが制定する「2008年カナディアン・アスリート・オブ・ザ・イヤー」の5人の候補の1人にノミネートされ、ネット投票を行った結果、野球のジャスティン・モルノー、ホッケーのジャローム・イギンラ、テニスのダニエル・ネスター、北京パラリンピックの陸上競技で5個の金メダルを獲得して世界新記録も作ったシャンタル・プチクレールらを抑え、89%の支持を得て総合格闘技から初めての同賞者となった。さらに2009年、2010年と3年連続で同賞を受賞した。
  • ジャクソンズ・サブミッション・ファイティング所属とされているが、モントリオールのトリスタージムでデニス・カーンやジェロム・レ・バンナ、デビッド・ロワゾーらと共に練習することも多い。

獲得タイトル

  • UCCウェルター級王座(2002年)
  • 第6代UFC世界ウェルター級王座(2006年)
  • 第8代UFC世界ウェルター級王座(2008年)





マイケル・コスタ
Michael Costa
1981/5/19

ブラジルの総合格闘家。シュートボクセ・アカデミー所属。

来歴

2008/6/8、戦極初参戦となった戦極 〜第三陣〜でニック・トンプソンと対戦。パンチでダウンを奪うも2R4分13秒、チキンウィングアームロックによる一本負け。

2009/5/2、戦極 〜第八陣〜で瀧本誠と対戦し、ヒールホールドによる一本負け。






ルスラン・カラエフ
Ruslan Karaev
1983/5/19

Руслан Караевは、北オセチア共和国出身のキックボクサー。アマチュア時代は「ハンターRU」の異名を持ち、世界王者となった。K-1参戦後の異名は「ロシアの速射砲」。

魔裟斗から「ミドル級より速い」と評価されるスピードと異名通りの超高速の連打、バックハンドブロー、バックキック、バックスピンキックを得意とする。攻撃一辺倒のファイトスタイルゆえにディフェンスが甘く、壮絶な失神KO負けも多い。

日本語、英語、オセチア語、ロシア語の4ヵ国語を話すことができる。母国語はオセチア語で、日本語の質問にも受け答えできるが、公式インタビューでは正確なニュアンスを伝えるためにロシア語で喋ることが多く、稀に英語でコメントするようにしている。

K-1をゲームで知ったのでゲームのキャラクターになるのが夢。なお、得意のバックスピンキックはテコンドー一家のトレーナーによって磨かれた。

強さと派手なファイトスタイルに加えてイケメンであるため女性からの人気も高く、谷川貞治K-1イベントプロデューサーは「バダ・ハリと並んで次世代のスター。アンディ・フグのようになってほしい」と期待を寄せている。

総合格闘家アラン・カラエフは従兄弟。

来歴

アマチュアでは167戦159勝8敗125KOという驚異的な戦績を残し、2003年にはアマチュアキックボクシングの世界選手権で優勝した。

2004年に知人であるコメディアンのポール牧の紹介で来日し、日本に住んでマルプロジムを練習拠点とする。伊原道場へも頻繁に出稽古に行っていた。

2005/6/14、K-1 WORLD GP 2005 in HIROSHIMAにアマチュア最強としてK-1に参戦。レイ・セフォーと対戦するも開始37秒で2度のダウンを奪われ、タオル投入によるTKO負け。

2005/8/13、K-1 WORLD GP 2005 in LAS VEGAS IIで行われた世界最終予選では、ヘビー級とは思えないスピードとバックキックで優勝。前に出るアグレッシブなスタイルを見せた。優勝後のインタビューでは同年4月に自殺したポール牧への追悼と感謝のコメントを残した。

2005/9/23、K-1 WORLD GP 2005 開幕戦ではアーネスト・ホーストの代役であるリカルド・ノードストランドと対決し、判定勝ち。デビュー1年目にしてグランプリ本戦へ進出した。

2005/11/19、本戦では準々決勝で武蔵と対決。4R通して手数で武蔵を上回っていたが、判定負け。ちなみに試合後の会見で「武蔵選手にはノックダウン、もしくは、ノックアウトしないと勝てないことは知っていました。」と発言した。

2006/4/29、K-1 WORLD GP 2006 in LAS VEGASでステファン・"ブリッツ"・レコと対戦し、2度のダウンを奪い勝利。

2006/6/3、K-1 WORLD GP 2006 in SEOULでレイ・セフォーとリマッチを行ったが、1R序盤こそ素早い蹴り技を繰り出したものの、中盤にカウンターのブーメランフックを受け失神KO負け。返り討ちにされた。

2006/8/12、K-1 WORLD GP 2006 in LAS VEGAS IIでデューウィー・クーパーと対戦し、スピーディーなコンビネーションで優勢に立ち、判定勝ちを収めるが、クーパーの反撃に思わず後退する場面も見られ、谷川貞治K-1イベントプロデューサーに「ガードのトレーニングをしないと危ない」とコメントされた。

2006/9/30、K-1 WORLD GP 2006 開幕戦ではバダ・ハリと対戦し、1R右ストレートでKO勝ち。これに対し立ち上がったハリは激しく抗議し、暫くリングに留まっていたが結果は覆らなかった。ハリは「倒れたあとにキックを当てられた」と激高したが、カラエフ自身は「膝がつく前に蹴っていたのだから反則にはならなかった」と話している。

2006/12/2、K-1 WORLD GP 2006 決勝戦・準々決勝でグラウベ・フェイトーザと対戦。スピードを活かして戦うも、独自の軌道を描くブラジリアンキックを浴び、ふらついたところへグラウベのラッシュを受けスタンディングダウンを取られてしまう。そして、10カウント以内にファイティングポーズが取れず、また目の焦点が合っていなかったため、レフェリーストップとなってしまった。結果は1分11秒TKO負けで、以前から指摘されていたディフェンスの甘さが改めて浮き彫りとなった。

2007/3/4、K-1 WORLD GP in YOKOHAMAで前回消化不良に終わったバダ・ハリと初代K-1世界ヘビー級王座挑戦者決定戦で対戦。2Rに得意の連打で先制のダウンを奪うが、その直後にカウンターの右ストレートを浴びて壮絶な逆転失神KO負け。しかし、歴史に残る名勝負を繰り広げた両者に対して試合後に観客からスタンディングオベーションを受けた。試合後、「インフルエンザのせいで試合前日39度の熱があった」、「疲れのせいでガードが下がったからだ」と話した。また、この試合について解説を担当していた魔裟斗は「2人共ミドル級よりスピードが速かった」と評価していた。

2007/6/23、K-1 WORLD GP 2007 IN AMSTERDAMでメルヴィン・マヌーフと対戦。前回、K-1世界ヘビー級王者バダ・ハリと名勝負を繰り広げたカラエフであったが、開始早々に左フックを浴び、わずか31秒で失神KO負けを喫した。

2007年9月29日、K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16でGP1回戦をジェロム・レ・バンナと対戦予定だったが、開催1週間前の交通事故で怪我を負い、欠場した。

2008/3/9日、新日本キックボクシング協会「MAGNUM 16」でスウィーン・カーオ(タイ)と対戦予定だったが当日に天田ヒロミに変更。計5回のダウンを奪いKO勝ち。

その後、オランダのゴールデン・グローリーへの出稽古も行うようになる。

2008/7/13、K-1 WORLD GP 2008 IN TAIPEIに出場し、1回戦富平辰文、準決勝キム・ヨンヒョン、決勝戦アレキサンダー・ピチュクノフに全てKO勝利し、優勝を果たした。

2008/9/27、K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16でハリッド"ディ・ファウスト"にKO勝ち。互いにダウンを奪い合う好勝負となり、まさにK-1だと谷川プロデューサーは述べた。

2008/12/6、K-1 WORLD GP 2008 FINALの準々決勝でグーカン・サキと対戦。K-1最速王決定戦と称されたこの試合で、自身の得意技であるバックブローでダウンを奪われ判定負け。

2009/3/28、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAの第2代K-1世界ヘビー級王者決定トーナメント1回戦でグーカン・サキと再戦予定であったが、腰痛により欠場となった。

2009/9/26、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16で第2代K-1世界ヘビー級王者京太郎と無差別級契約で対戦し、判定勝ち。

2009/10/17、ゴールデン・グローリー10周年記念大会「GLORY 11」でのWFCA世界スーパーヘビー級王者決定戦でヘスディ・カラケスと対戦し、0-3の判定負け。

2009/12/5、K-1 WORLD GP 2009 FINALの準々決勝でバダ・ハリとラバーマッチを戦い、1Rに2度ダウンを奪われKO負けとなった。

2010/4/3に開催されたK-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAでジェロム・レ・バンナと対戦予定であったが、左膝靭帯損傷により欠場となった。谷川貞治K-1イベントプロデューサーは「プロの選手として失格。厳しい対応をしないといけない」と発言した。

2010/10/2に開催されたK-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16でタイロン・スポーンと対戦予定だったが、コンディション不良により欠場となった。

獲得タイトル

  • アマチュアキックボクシング・ヨーロッパ選手権準優勝(2002年)
  • アマチュアキックボクシング・ヨーロッパ選手権優勝(2003年)
  • WAKO世界アマチュアキックボクシング選手権パリ大会 フルコンタクトルール・男子シニア部門91kg未満級優勝(2003)
  • K-1 WORLD GP 2005 ラスベガス大会 世界最終予選トーナメント 優勝
  • K-1 WORLD GP 2008 IN TAIPEI - ASIA GPトーナメント 優勝







 
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