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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
5/24


 
 


 
 

山田 隆
1933/5/24 - 1998/9/8

日本のプロレス記者・評論家。東京スポーツ新聞社に所属していた。北海道北見市出身。

来歴

1959年東京スポーツに入社、1967/9/22から日本テレビの日本プロレス中継で解説者を務める。ターザン・タイラーの手錠事件写真を紹介するなど、海外情報知識を生かしたそれまでにはない画期的な解説を取り入れた。ジャイアント馬場との親交が深く、1972年の全日本プロレス旗揚げから1980年代末まで長年にわたって『全日本プロレス中継』の解説者を務めた。特にスタン・ハンセン乱入事件での「ハンセンですよ!」は今でもプロレスファンの語り草になっている。また、外国人レスラーとの交流を通じてアメリカのプロレス事情にも精通し、独特のだみ声での語り口調は実況の倉持隆夫アナウンサーとの名コンビで視聴者に親しまれた。

著書に「プロレスの首領」(東京スポーツ新聞社)がある。

1998年9月8日、肝硬変にて死去。65歳。

山田語録

博識と落ち着いた語り口でお茶の間に親しまれた山田であるが、微妙な発言も多々残している。

  • 「やはり相手が大変に試合巧者のザ・ファンクスなだけに、自分の片足をもって身体をホールドするという一種の捨て身技はなかなか出しにくいんでしょうね」(馬場・鶴田とファンクスの試合で、馬場が十六文キックを余り使っていない理由の解説)
  • 「NWAの世界王者は各地区のローカルチャンピオンに胸を貸してやるのが役目ですから、たとえばニューヨークに行けばニューヨークのチャンピオンであるボブ・バックランドに胸を貸してやる、フロリダに行けばフロリダのチャンピオンであるダスティ・ローデスに胸を貸してやると」(馬場対ハーリー・レイスのNWA世界戦の解説で。バックランドとローデスは新日本プロレスの常連)
  • 「シークがあんな大きな凶器を持ってきてますからねえ、これはちょっと手の施しようがないですね」(ザ・シークの試合で。結果は両者リングアウト)
  • 「今馬場選手が盛んにハンセンの腕殺しやってますね。あれはね、明らかにね、腕を狙っているんですよ」
  • 「私は先ほどの判定は不公平だと思ったんですけどね、両方反則ならいいですね」(1986年11月、輪島大士の国内デビュー戦となった対タイガー・ジェット・シン戦。一旦は下った「輪島の反則負け」という裁定が、セコンドの馬場からの抗議で「両者反則(引き分け)」に変更。その最終的な裁定が、会場内に告げられた際の発言。無論「先ほどの判定」とは、一旦宣せられた反則裁定を指す。当時はこうした不透明決着が山ほどあったが、恩恵に与るよりもむしろそれで涙を呑んだ選手の方が多かった)
  • キラー・トーア・カマタが試合中に流血した際、倉持アナが「トーア・カマタ流血です」と流血のおびただしさをアナウンスした数分後に山田が「トーア・カマタ流血ですね。」と解説した。

 
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マンモス鈴木
1941/2/10 - 1991/5/24





ラッシャー木村
1941/6/30 - 2010/5/24

日本の元大相撲力士、元プロレスラーである。本名は木村 政雄。北海道中川郡中川町出身。金網の鬼、ラッシング・パワー、吠える闘将などのニックネームで呼ばれた。2003年よりプロレスリング・ノア終身名誉選手会長。
来歴
力士時代 - 国際プロレス
佐久中学校を経て天塩高等学校に進学、ポール牧と同級生だった。卒業後、夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして大相撲の宮城野部屋に入門し1958年3月場所初土俵。四股名は木ノ村(きのむら)、幕下20枚目まで昇進したが「十両に上がったら辞められなくなる」という理由で1964年9月場所限りで、親方(元横綱・吉葉山)の慰留を振り切り脱走して廃業した。
大相撲廃業後、日本プロレスに入団。東京プロレスを経て国際プロレスに移籍後、実力を上げ若手エースの座を掴んだが経営難からの話題作り目的で日本初の金網デスマッチを行ったことで意に反して「金網の鬼」の名が定着してしまう。
ストロング小林離脱後、一度はマイティ井上に先を越されるが1975年4月にメインイベントでマッドドッグ・バションを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得し国際プロレスが消滅する1981年夏まで6年間エースとして活躍した。この時期はバションを始めジプシー・ジョー、キラー・トーア・カマタ、アレックス・スミルノフ、モンゴリアン・ストンパーら北米ルートで来日するラフファイターらと流血戦を展開する一方、全日本プロレスとの交流戦ではジャイアント馬場、ジャンボ鶴田らと、また新日本プロレスのマットに上がり因縁の小林とも対戦するなど精力的に闘った。1979年8月のプロレス夢のオールスター戦ではセミファイナルで小林に勝利。10月にはAWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルとダブルタイトル戦を行い、反則勝ちしている。
新日本参戦
国際プロレスの解散に伴い残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦開始。本来団体対抗戦であったはずが新日本の手法に反感を持っていたマイティ井上らが全日本行きを選んだことから新日本に上がったのは木村・浜口・寺西の3人だけになり一気にトーンダウンした上、人気絶頂のアントニオ猪木に対するヒール軍団扱いされマスコミから「はぐれ国際軍団」の汚名を着せられる。
打倒猪木に執念を燃やし3人対猪木1人のハンディキャップマッチで対戦したり猪木抹殺の特訓と称して浜辺で漁船を3人で引っ張り回すなどのパフォーマンスを披露したが、2度目の一騎討ちで右肘を破壊されTKO負けを喫した後はIWGP構想の中で次第に目立たなくなり軍団は解散。浜口と寺西が長州力率いる維新軍団に加わったため、単独でバッド・ニュース・アレンと共闘するなど外人サイドから細々と参戦し続けた。
新日で勃発した内紛によって前田日明らと第一次UWFの創設メンバーに名を連ねたが、外国人レスラーのブッキングを巡るトラブルから数か月で剛竜馬と共に離脱する。
全日本移籍
UWF離脱直後に全日本プロレスへ移籍。1984年の世界最強タッグ決定リーグ戦でジャイアント馬場にタッグパートナーとして抜擢されたにもかかわらず、愛知県体育館での試合中に謀反した。これら一連の動きを木村は「(プロレス人生で)自分の意思で動いたのは、これが初めてだった」と述懐したが木村を「馬場の最良のパートナー」と評した専門誌もあった。
同じ国際プロレスの残党である剛竜馬と鶴見五郎、アポロ菅原、高杉正彦と「国際血盟軍」を結成し全日本軍と敵対するアングルを組まれ試合後に馬場を挑発するマイクパフォーマンスが次第に注目を集めた(これらの名言集は後述)が、華のないファイトスタイルと日本人選手の過剰から次々とリストラされてしまう。
1人残された木村は衰えを隠せなくなった馬場に対し「俺はお前を他人とは思えなくなったよ」との問いかけを発端として1988年の世界最強タッグ決定リーグ戦の前シリーズで「今そこで馬場に会ったんだが、最強タッグを組もうという話があるんだよ」とリング上で宣言し、場内は大受けとなった。これで馬場・木村の「義兄弟タッグ」が誕生し、木村も以前の「馬場!」から「アニキ!」と呼ぶことで絆を深めた。
馬場と兄弟の契りを交わすファミリー軍団(馬場・木村・百田光雄ら)と悪役商会(永源遙・大熊元司・渕正信・マイティ井上ら)のユーモラスな前座試合は全日のモットー「明るく・楽しく・激しいプロレス」の「明るく・楽しく」を担当するもので、そのユニークなキャラが買われ土曜深夜の『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS)にレギュラー審査員として出演し一人だけピンマイクではなく手持ちのマイクで喋っていた。桑野信義が『志村けんのだいじょうぶだぁ』で物まねをするなど、プロレス界の名物として定着した。
ノア立ち上げ・引退
馬場の病没後、全日で再度顕在化した内紛を経てプロレスリング・ノアに立ち上げメンバーとして参加。
2001年に還暦を迎えて生涯現役を宣言。翌年には馬場を抜いて日本人最高齢のレスラーとなるが精彩を欠き(最晩年にはまったく攻撃をしないまま終わる試合も珍しくなかった)、2003年3月の日本武道館大会を最後に体調不良により長期欠場に入る。
2004/7/10、体力の限界と「これ以上関係各者に迷惑をかけられない」との理由で東京ドーム大会にビデオレターを送って引退表明し、以降、公の場から姿を消した。
同年12月にはノアの終身名誉選手会長への就任が発表され、その後は病状など一切公表されなかったが、毎年の「選手興行」のポスターには顔写真が掲載された。「プロレス格闘技DX」内のノア公式ウェブサイトにて、ファンからの「木村さんは今でもノア所属なのか」との質問には三沢光晴社長が「終身名誉選手会長であり、現在も所属である」と答えていた。実は還暦を迎えた際、全日移籍の前に年金未納期間があったことが判明し、未納分の払込が完了し受給資格を得られるまで引退後もノアの社員として雇用することにしたという。
死去
2010/5/24、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。享年68歳。
関係者によると現役引退直後に脳梗塞で倒れ、車椅子生活であったという。木村が体調を崩して公の場から去った後に浜口や鶴見などかつての国際プロレスの仲間がラッシャー木村の見舞いを希望したが、木村本人は頑として誰にも会おうともしなかったことを浜口が語っている。
なお、ラッシャー木村は死去に際しては親族のみで葬儀を行ったことから、プロレスリング・ノア主催のお別れの会を2010年6月26日にディファ有明にて開催し、アニマル浜口が「プロレス界はあなたを忘れることはありません」と涙ながらに弔辞を読み、遺影に向かって「気合だ!」を叫んで故人を偲んだ。
また同日にディファ有明で行われた“プロレスリング・ノア創立10周年記念”『Summer Navig.10 part1』シリーズ開幕戦が、『ラッシャー木村追悼興行』と銘打って開催された。
略歴
1958年 大相撲宮城野部屋入門(四股名:木の村)
1964年 相撲を廃業。日本プロレス入門
1965/4/2 対高崎山猿吉(北沢幹之)戦(東京リキ・スポーツパレス)でプロレスデビュー
1966年 東京プロレスの設立に参加、日本プロレスより移籍
1967年 東京プロレス崩壊。国際プロレス入団
1969年 リングネームを本名の木村政雄からファンから公募した「ラッシャー木村」に変更
1970年 日本初の金網デスマッチを行い勝利(対ドクター・デス)
1973年 ブラックジャック・マリガンを破り、IWAワールド・シリーズ初優勝(第5回大会)
1975年 日本初の金網デスマッチによるタイトルマッチを行い、マッドドッグ・バションを下してIWA世界ヘビー級王者となる
1976年 全日本プロレスとの対抗戦で、ジャンボ鶴田と対戦(引き分け)
1978年 東京12チャンネルの特撮番組『スパイダーマン』(東映制作)にカメオ出演
1981年 国際プロレス崩壊後、アニマル浜口、寺西勇とともに「はぐれ国際軍団」を結成、新日本プロレスにヒールとして殴り込み
1984年 第一次UWF旗揚げに参加。短期間(4 - 10月)で離脱、11月より全日本プロレスに参戦
1990年 日本テレビ『いけない女子高物語』に出演
2000年 プロレスリング・ノアの旗揚げに参加
2001年 還暦記念試合を行う(満60歳)
2004年 プロレスリング・ノア東京ドーム大会にて自ら引退を発表
2010年5月24日 腎不全による誤嚥性肺炎のため死去
入場テーマ
Skydiver(ダニエル・ブーン)<国際プロレス時代>
Rebirth of the beat(サンディ・ネルソン)<国際プロレス末期 - はぐれ国際軍団時代、およびファミリー軍団時代>
安息の後ろ側(SOFA BACK)(FM)<国際血盟軍時代>
江戸の旋風 メインテーマ(服部克久)<プロレスリング・ノア時代>
マイクパフォーマンス
木村の独特でゆったりとした間で繰り出すマイクパフォーマンスは観客の受けが非常に良く木村の試合終了後、観客から「マイク! マイク!」とマイクパフォーマンスを求めるマイク・コールは木村が引退するまで定番となっていた。時事ネタから観客に対しての感謝・気遣い、同僚レスラーいじりなどバリエーションは豊富であった。彼のネタにされる選手達は、木村のマイクパフォーマンスを嫌がっていたが「観客が求めるから」と仕方なく許していたと言う。馬場曰く「最初は、なんてイヤなことをするんだろうと思っていたが、そのうちお客さんが(マイクパフォーマンスがないと)許してくれなくなっちゃったんですよ」と語っていた。
「こんばんは」事件
1981年9月23日、田園コロシアムで行われた新日本プロレスの興行に浜口、寺西勇を連れて現れた木村はリング上でアナウンサーからマイクを向けられると、決意表明に先立ち、まずは集まってくれた観客に対し挨拶をしなければと思い、「こんばんは…」と丁重に挨拶を行なった。これは団体対決に付き物の殺伐とした雰囲気を好む当時のファンを拍子抜けさせ、会場の失笑を買った。あまりにもおかしかったため当時ビートたけしが「こんばんは、ラッシャー木村です」とネタにしたこともあって、世間にギャグとして広まってしまった(ここからラッシャー木村のお家芸が金網からマイクパフォーマンスになる)。たけしについては当時自分の弟子を集めて結成した「たけし軍団」の一人に「ラッシャー板前」という名前をつけて、木村と同じ黒のロングタイツをはかせるなどしていた。なお笑われた木村本人は「初めてのところに行ってきちんと挨拶するのは当然なのに、なんで笑われなくちゃいけないんだ」とおかんむりだった。
マイクパフォーマンス一覧
ジャイアント馬場(通称・兄貴)に向かって(第1声は必ず{敵対時は}「馬場っ」{義兄弟の契り以後は}「アニキーッ」と、必ずこれらいずれかで始まる)、
敵対初期のシングル戦を要求時「馬場、俺と勝負しろ!いつでもやってやる」
敵対初期のシングル戦で負けた後「馬場、勝ったとおもうなよコノヤロー」
「お前、最近なんか元気だと思ったらコノヤロー。やっぱりな、お前は、ジャイアントコーン食べてるなコノヤロー」
「俺はな、昨晩焼肉を15人前食って戦ったけど失敗したよ。だからな今晩は20人前食って戦ってやるぞ」
「馬場、馬場、お前な、ハワイでな、グアバジュース飲んで鍛えたかもしらんけどコノヤロー。俺だってコノヤロー、日本で、ポカリスエット飲んで鍛えたんだコノヤロー」(毎年年末になるとハワイの別荘で過ごす馬場に対して)
「馬場コノヤロテメー。まあ試合は別として、昨日な、大熊(大熊元司)に言っといたんだけど、今日は俺が、馬場に、新年のな、あいさつをするからな。(間をおいてから)あけましておめでとう」(新年のあいさつを宣言して場内が盛り上がる中、生真面目すぎるシンプルなあいさつに場内は笑いの渦に巻き込まれる)。そしてその後「今年こそはなぁ、馬場に勝とうと思って、俺はこの正月ずっと、餅食ってんだぞコノヤロー! 俺の肌を見ろよ。餅のおかげで、すっかりモチ肌になっちゃったよ!」と続けた
「俺はな、これだけ馬場と試合するとな、とてもな、他人とは思えないんだよ。だからな、だから一回でいいからな、今度な、お前のことをな、兄貴って呼ばせてくれ! いいなコノヤロー」(この時が義兄弟の契りを交わすきっかけとなる)
「この前の武道館で『お前のこと、兄貴って呼んでもいいか』って言ったよな? 俺は一度でいいから、馬場とタッグを組んで『兄貴ありがとう』って言ってみたいんだよ! だから最強タッグでは…俺の一生の頼みなんだよ!! 今度の最強タッグでは『兄弟コンビ』を組んでくれよ。俺は馬場の懐に飛び込んで、もっともっと馬場を研究したいんだよ! 俺のこの健気な気持ちを分かってくれよ! いいか、もう逃げても無駄だぞコノヤロー!」(上記から暫く後のテレビマッチ。同じ日の数試合後、どこからともなく木村がリング上に現れ「“俺と馬場のタッグをお客さんがどう思うかを聞いて来い”と(馬場に)言われたんだよ」と発言〔「全日本移籍 - ノア」の項参照〕。テレビ解説の山田隆は「タッグを組みたいなら手順を踏まないと…」と実況の倉持隆夫ともども唖然としたが、場内は「組め」コールでタッグ結成を後押し。木村は「それじゃあ、俺と馬場のタッグが実現するよう、皆さんも応援してください」と言うと、上機嫌で去っていった)
加山雄三の「君といつまでも」の台詞に乗せて「幸せだなぁ。俺は兄貴といるときが一番幸せなんだ。俺は死ぬまで兄貴を離さないぞ、いいだろ?」(馬場の骨折からの復帰戦において。このマイクの後、木村は馬場に抱擁するパフォーマンスも見せた)
渕正信の独身ネタ。ラッシャーのマイクでネタにされて以降、渕の独身ネタは広く知られるようになり、今に至る。
「(当時結婚して間もない田上明を引き合いに出して)渕、田上のイキイキしたファイト見たか? おい渕、なぜか分かるか? 結婚したからだよコノヤロー! お前もそろそろ、結婚しろコノヤロー! いいか? 仲人がいなかったら、俺がアニキに頼んでやるからな」
「(秋田での試合において)渕、秋田美人はどうだ? 秋田美人はいいぞ、渕! 秋田美人(を嫁に)もらえよコノヤロー!」
「おい、俺は最近俳句に凝ってるんだよ。今日は、最終戦だから、最後に一句詠ませてくれ。"永源ちゃん あんたはいつも いい男" "大熊ちゃん あんたもよく見りゃ いい男" "渕選手 お前は早く 嫁もらえ"」
「(ラッシャーが渕に)ところでお前、カラオケ好きか?ベ、ベサメ・ムーチョって歌知ってるだろ。この歌は女性を口説く時に歌う歌なんだよ。だから今度カラオケをやる時は必ずこの歌を歌いなさい。ここまできたら、これはいいと思うものは何でもやってみなさい!」
「(ラッシャーのタイツにマイクを入れた渕に)渕、オマエな、いい加減にしろよ。こんなタイツの中にマイクを入れて、マイクが病気になったらどうすんだコノヤロー!その時はな、オマエいいか、病院連れてけよ!」
「おい、最近、俺のオナラが全然臭くないんだよ」
1987年の世界最強タッグ決定リーグ戦、公式戦対戦前のタッグマッチでタイガーマスクに「公式戦ではドロップキック9連発するからなコノヤロー!」(公式戦では9連発どころか1発も放っていない)
1987/5/1のジョン・テンタのデビュー戦(馬場&テンタVS木村&鶴見)にて「琴天山(テンタの大相撲時代の四股名)、もっと馬場に鍛えてもらえ」
日本が米不足に陥った1993年限定ネタ
「永源! ところで日本の美味しいお米はどこにいったんでしょう…?」
「泉田! お前は太っているんだから、パンを食べなさい」
だんご三兄弟と銘打った悪役商会に対し「キマラ! お前、団子食ったことあるのか? もし無いなら、今度国に帰るときに、お土産に団子を買って帰りなさい」
「永源! お前は最近、ランバダで身体を鍛えてるらしいけど、俺も、今度はな、ジャズダンスやって鍛えるから覚悟しとけよコノヤロー」
泉田に対し「泉田!! お前最近(なっちゅーの)に凝ってるみたいじゃないか。お客さんにも見せてやれ! せーの、なっちゅーの!!」と発言していた。ちなみに「なっちゅーの」とは当時流行していたパイレーツの「だっちゅーの」のことである。
来日していたジョー・ディートンに対し「ディートン、お前はよく全日マットに上がるけど、もしかして俺に会いに来てるのか? そんなに俺が好きなのか? それとも俺が好きじゃないか、好きか嫌いかハッキリしなさい」と発言その後ディートンに「木村さん、愛してます」と言われた
観客に呼びかけるシリーズ
「山菜取りに絶好の季節になってきました。皆さん、山奥もいいけど、帰り道が分からなくならないように、気をつけてください。それではごきげんよう」
「暖かくなってサイクリングにはいい季節ですね。私も昨日誰かに自転車に轢かれました。でもその人は、謝るどころか笑いながら去ってしまいました。皆さん、悪いことをしたらちゃんと謝りましょう」
「ブッチャー、今日は試合に負けたけど、俺には、今夜はな、ススキノが待ってんだバカヤロー!」
ビートたけしと明石家さんまが司会を務めるテレビ番組に出演した際
「さんま! 家が売れたらしいじゃねぇか。安心してな、ゴルフばっかりやってちゃダメだぞ!」
「たけし! 俺も映画に出してくれ!! たまにはな、たまには、家に帰って、家庭サービスしなさい!」
去り際「たけし! さんま! お達者で!」
リングサイドで観戦していた原辰徳巨人軍監督(当時選手)に「燃えろ巨人・燃えろ辰徳」とエールを送っていた。
『全日本プロレス中継』に登場したウッチャンナンチャンに「ウッチャン、FOCUS見たぞ。お前なかなかやるなコノヤロー。ナンチャンもフォーカスに載るように頑張れ」
会場に偶然見に来ていた志村けんを発見し「やっぱり志村さんじゃないですか」と発言していた。
天龍源一郎とのタッグ戦ではエキサイトし観客の「マイクコール」に応えたが、セリフは「天龍! 次はシングル(で決着)だ!」と木村の殺気で会場は静まり返った(その直後に天龍はSWSに移籍してしまい、決着戦は幻となった)
引退コメント「私は体調を悪くしてリングを離れて、カムバックのためにリハビリしていましたが、思うようにいかず、これ以上やると会社やファンの皆様に非常に迷惑がかかるので、引退を決意しました。本当に長い間、ご声援有り難うございました。ごきげんよう、さようなら」
エピソード
ビクトル古賀からサンボ技を直伝され実は日本きっての関節技の名手(主に足関節技が得意)なのに、自分のスタイルに合わないからと試合ではサンボ技を殆ど見せぬまま引退した隠れシューターなのではないかと囁かれたり、ビル・ロビンソンの教えを乞い、相撲で鍛えた下地も考え合わせると実は日本で一番強かったのではないかと推測されたりと様々な都市伝説を生んでいる(少なくとも、馬場との「義兄弟タッグ」の時期になってもスポーツ会館でのサンボのトレーニングを欠かさなかった)。ちなみにルー・テーズは「馬場・猪木・木村の中で誰が一番強いか?」との問いに、「相撲とレスリングをマスターしている木村だ」と答えている。
“狂乱の貴公子”リック・フレアーが初来日したのは国際プロレスのリングであった。意外と知られていないが、ラッシャー木村はそのフレアーと金網デスマッチでシングルマッチを戦っている。フレアーが日本でデスマッチを戦ったのはこの時の木村との一戦のみである。
国際プロレスのリングで、アンドレ・ザ・ジャイアントから逆エビ固めでギブアップを奪っている。
愛犬家としても有名。新日本参戦時に熱狂的な猪木信者と思われる者から自宅への嫌がらせ、悪戯の被害をたびたび受けていたが、その時も、木村は自分のことよりも愛犬がストレスで円形脱毛症になったことを心配していたという。
髪型がアイパーだった頃はそれと合わせて体格と強面の顔が災いし、タクシーの乗車拒否は日常茶飯事だったという。
新日本プロレスでアントニオ猪木と抗争を広げた時に猪木の波状攻撃で繰り出されるチョップを耐えて耐えて耐え抜く木村の姿から、当時『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)の実況担当の古舘伊知郎からは「テトラポットの美学」という形容を付けられていた。ちなみに木村の死去の話題を、古館が司会の「報道ステーション」(テレビ朝日)で取り上げ「そうですか。木村さん亡くなられましたか。以前実況担当という立場で仕事を一緒にやらせて頂きましたが、とても優しい人で、真っ白な秋田犬を可愛がっていました・・・」というコメントを述べていた。
来歴欄にある「はぐれ国際軍団」当時の1982年5月に、浜口と寺西を日本に残して渡米。ロサンゼルス地区でミスター・トヨを名乗り、マンド・ゲレロやビクター・リベラらと抗争したり「はぐれ国際軍団」加盟を表明してロスについてきた剛竜馬と組んでライジング・サンズを名乗ってファイトしていた。渡米理由は「日本にいたらファイトがマンネリになる」だったが猪木が右膝手術や体調不良によりシリーズを欠場している時期であったため、他の選手とは絡みづらかった木村を新日本のフロントが海外に出して猪木復帰と共にまた抗争を再開させようという意図だったと見られている。
梶原一騎原作の『悪役ブルース』に登場している。
ジャンボ鶴田は筑波大学大学院を受験した際にそのことを全日本プロレスのレスラーたちには内緒にしていた。合格発表後にまず最初に木村に「木村さん、今度僕マスター(修士)になるんですよ」と打ち明けた。すると、木村は「そうか。頑張れよ。最初は小さい店なんだろうけど、月に一度は飲みに行ってやるからな」と飲み屋のマスター(店長)と勘違いした。
リングの上でのマイクパフォーマンスとは裏腹に、普段は口数が少なく若手を誘って酒を飲むのが好きな温厚な人物だった。マイティ井上は「木村さんのことを悪く言うレスラーは1人もいなかった」と振り返っている。また永源遙は「リングに上がったら性格の激しいところはありますけど、リングを降りたら紳士で優しくていい人ですね。」と語っており、木村の人柄の一端が伺える。
CM
マルナカ製麺(びわ湖放送のローカルCM)
鉄板麺(シマダヤ)

追悼・ラッシャー木村特集

闘将 ラッシャー木村
ファイト&マイク メモリアル
闘将 ラッシャー木村~ファイト&マイク メモリアル
国際プロレス クロニクル
上巻

国際プロレス コロニカル

国際プロレス クロニクル
下巻

国際プロレス クロニクル 下巻


会場 対戦カード
1976/3/28
蔵前国技館
鶴田試練の十番勝負
ラッシャー木村vsジャンボ鶴田
1977/12/10
宮城県スポーツ
センター
世界オープンタッグ選手権
ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田vs
ラッシャー木村、グレート草津
1977/12/14
大阪府立体育
会館
世界オープンタッグ選手権
大木金太郎、キム・ドクvs
ラッシャー木村、グレート草津
1978/2/18
蔵前国技館
全軍激突戦
ジャイアント馬場vsラッシャー木村
1984/12/8
愛知県体育館
世界最強タッグ決定リーグ戦
ジャイアント馬場、ラッシャー木村vs
ジャンボ鶴田、天龍源一郎
1985/3/9
両国国技館
6人タッグ
ジャイアント馬場、石川敬士、マイティ井上vsラッシャー木村、鶴見五郎、剛 竜馬
1985/6/21
日本武道館
PWFヘビー級選手権
ジャイアント馬場vsラッシャー木村
1988/8/29
日本武道館
馬場と最後のシングルマッチ
ジャイアント馬場vsラッシャー木村
1991/1/27
後楽園ホール
お笑いライバル対決
ラッシャー木村vs永源 遙
2001/6/24
愛知県体育館
還暦試合
ラッシャー木村、百田光雄vs
永源 遙、菊地 毅
2003/3/1
日本武道館
現役最後の試合
ラッシャー木村、百田光雄vs
永源 遙、川畑輝鎮
2004/7/10
東京ドーム
VTRによる引退発表
2010/6/26
ディファ有明
お別れの会




  

















 
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