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プロレス/格闘技
誕生日/忌日
5/25


 
 


 
 

ビクター・リベラ
Victor Rivera
1944/5/25

プエルトリコ出身の元プロレスラー。アフリカ系ラテンアメリカ人のベビーフェイスとして、WWWF(現・WWE)やNWAロサンゼルス地区を主戦場に活躍した。

来歴

少年時代の1954年に一家でアメリカのニューヨークに移住。同じプエルトリコ出身のペドロ・モラレスに憧れ、1964年に地元ニューヨークのWWWF圏でデビュー。以降、テキサス、ジョージア、カンザスなど各地を転戦し、1967年にはロサンゼルスのWWAにてモラレスとプエルトリカン・コンビを結成、7月にカール・ゴッチ&マイク・デビアスを下し、WWA世界タッグ王座を獲得した。同年11月には日本プロレスに初来日している。

1969年にニューヨークへ凱旋。WWWF世界ヘビー級王座戴冠に伴いタッグのタイトルを返上したブルーノ・サンマルチノの後任として、12月にWWWFインターナショナル・タッグ王座に就いた(パートナーはトニー・マリノ)。

翌1970年6月にザ・モンゴルズ(ジート&ベポ)に敗れてタイトルを失ってからは、WWAの後継プロモーションであるNWAロサンゼルス地区に定着。1972/12/1、アーニー・ラッドから同地区の看板タイトルであるアメリカス・ヘビー級王座を奪取する。以降1980年代初頭にかけて、テリー・ファンクやジョン・トロスらを破り同王座を通算6回獲得した。

並行して古巣のWWWFにも参戦し、1975/5/13にはドミニク・デヌーチとのコンビでバリアント・ブラザーズ(ジミー&ジョニー)からWWWF世界タッグ王座を奪取している。

この間、1973年9月に新日本プロレスに初参戦し、アントニオ猪木ともシングルマッチで対戦、以降も新日本の常連外国人となり、1976年4月開幕の第3回ワールドリーグ戦では坂口征二、キラー・カール・クラップと同点のリーグ戦2位の戦績を残した。また、最終戦の5/13、大阪府立体育会館にて盟友ペドロ・モラレスと組み、坂口&ストロング小林の北米タッグ王座にも挑戦している。新日本のリーグ戦では1979年4月の第2回MSGシリーズにも出場したが、このときは予選トーナメントで敗退し、決勝リーグに進むことはできなかった。

同年下期より、WWFでフレッド・ブラッシーをマネージャーにヒールに転向。長年に渡ってベビーフェイスの黒人スターとして活躍してきたロサンゼルスでも、アレン・コージやジ・エンフォーサーと凶悪タッグを組んで観客のブーイングを浴びた。

1981年7月には全日本プロレスに来日、ルーファス・ジョーンズとの黒人コンビで佐藤昭雄&石川隆士のアジアタッグ王座に挑戦した。全日本には1982年10月にも参戦、これが最後の来日となった(日本には通算8回来日)。

1984年からは、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米サーキットを開始したWWFのロサンゼルス地区における興行に単発出場。その後1987年にACCWなる団体を主宰し、自らも同団体のヘビー級王者となって活動したが、1989年の団体崩壊に伴いプロレスリング・ビジネスから引退した。

獲得タイトル

WWA
  • WWA世界タッグ王座:1回(w / ペドロ・モラレス)
NWA
  • NWAアメリカス・ヘビー級王座:6回
  • NWAアメリカス・タッグ王座:11回(w / ラウル・レイエス、ラウル・マタ、ポークチョップ・キャッシュ、ディノ・ブラボー、テリー・ソイヤー、シエン・カラス、チャボ・ゲレロ、テキサス・レッド、アレン・コージ×2、サルバトーレ・ベロモ)
  • NWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版):1回(w / エンフォーサー・ルシアーノ)
WWWF
  • WWWFインターナショナル・タッグ王座:1回(w / トニー・マリノ)
  • WWWF世界タッグ王座:1回(w / ドミニク・デヌーチ)
その他
  • CPWヘビー級王座:1回
  • ACCWヘビー級王座:3回

アントニオ猪木、吉村道明 VS ビクター・リベラ、バロン・シクルナ/2/3/3/3

 
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エル・ソリタリオ
El Solitario
1946/5/25 - 1986/4/6
エル・ソリタリオ

メキシコ・ハリスコ州ヤウアリカ出身の覆面レスラー。本名はロベルト・ゴンサーレス・クルスRoberto González Cruz)。

息子のエル・イホ・デル・ソリタリオもプロレスラーである。

来歴

"Othon Banzica" のリングネームで活動していた兄のヘスス・ゴンサーレスの紹介により、ジョー・エル・エルモソのトレーニングを受けて1960年に14歳でデビュー。前年に試合中のアクシデントで死去したヘススのリングネームを継承し、覆面レスラーの "Othon Banzica II" として活動していたが、1962年12月にマスカラ・コントラ・マスカラで敗れてマスクを失う。その後、ディアブロ・ベラスコのもとで再びトレーニングを積み、1966年2月にエル・ソリタリオとして再デビューを果たした。

「エル・ソリタリオ」のリングネームは、アメリカの活劇ドラマ『ローン・レンジャー』のメキシコでのタイトル "El Llanero Solitario" から取られており、劇中で主人公が着けていた黒いアイマスクを模した縁取りの黄金色の覆面を被るなど、プロモーターのレイ・プラタによって西部劇のガンマンをイメージしたキャラクターが与えられた。


エル・サントの「エンマスカラード・デ・プラタ」(銀色の仮面)に対する「エンマスカラード・デ・オロ」(黄金の仮面)として、当初はルードのポジションで活動。1967年よりEMLLに参戦、1969年8月にはエル・ラヨ・デ・ハリスコを破ってNWA世界ミドル級王座を獲得し、1970年11月にはレイ・メンドーサからNWA世界ライトヘビー級王座を奪取した。1971年はアメリカのNWAロサンゼルス地区にも進出し、国際的なスターとなっていたミル・マスカラスとも激闘を展開している。

1972年7月、日本プロレスの『サマー・ビッグ・シリーズ』に初来日し、ジャイアント馬場や坂口征二らスーパーヘビー級の選手とも対戦。同シリーズにはミル・マスカラスも参戦しており、当時メキシコやロサンゼルスでは敵同士だった両者のタッグチームが実現している。ソリタリオ(孤独な男)というリングネーム通り、華やかなマスカラスとは対照的なクールな雰囲気から、日本では「孤狼仮面」なる異名が付けられた。

帰国後の1972年12月、パートナーだったアンヘル・ブランコをマスカラ・コントラ・マスカラで破ったことを機にテクニコに転向。翌1973年には最優秀人気選手に選ばれ、以降マスカラスに匹敵する人気を持つ重量級ルチャドールのトップ・スターとなってメキシコのマット界に君臨した。

1977年よりUWAに移籍し、1979年5月にはUWAの提携ルートで新日本プロレスの『第2回MSGシリーズ』に来日、中盤戦特別参加でリーグ戦には出場しなかったものの、エル・カネックとのメキシカン・コンビで注目を集めた。新日本には1981年9月の『ブラディ・ファイト・シリーズ』にも再来日し、田園コロシアムにて藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦している。

その間の1980年1月にはメキシコシティにて栗栖正伸を破りUWA世界ジュニアライトヘビー級王座を獲得。また、新日本プロレスでもタッグを組んだことのあるアンドレ・ザ・ジャイアントのメキシコ参戦時のパートナーも務め、アンドレとのコンビで2対3の変則タッグマッチも行った。ロサンゼルスやテキサスなどメキシカン人口の多いアメリカのテリトリーにも時折遠征し、ダラスのWCCWではキラー・ブルックスなどの主力ヒールと対戦、1982/6/4にテキサス・スタジアムで行われたフリッツ・フォン・エリックの引退興行にも出場した。

1982年にはUWA世界ジュニアヘビー級王座の初代チャンピオンに認定され、以降もペロ・アグアヨらと抗争を展開した後、1984年5月に第3団体のスペル・リブレスに移籍。1985年12月にはカルロス・エリソンドの主宰する独立プロモーションに登場し、ドクトル・ワグナーと対戦した。

翌1986年1月にUWAに復帰したが、3月末にモンテレイでの試合中に腰を強打。歩行困難となる重傷を負い手術を受けるも、施術中に心臓麻痺を起こし同年4月6日に死去。39歳没。

獲得タイトル

EMLL
  • NWA世界ライトヘビー級王座:1回
  • NWA世界ミドル級王座:1回
UWA
  • UWA世界ジュニアヘビー級王座:1回
  • UWA世界ジュニアライトヘビー級王座:2回
  • UWA世界ライトヘビー級王座:1回

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Vol.11
壮絶!9/23幻の
田園コロシアム
9.23幻の田園コロシアム

1981/9/23
田園コロシアム

スネーク奄美 対 アニマル浜口
ザコンバット 対スネーク奄美、寺西勇





スネーク奄美
1951/5/25 - 1981/4/30

鹿児島県日置郡(現在の南さつま市)出身で井筒部屋所属の元大相撲力士、国際プロレス所属の元プロレスラー。大相撲時代の四股名は(さかえ)、本名は栄勇(さかえ いさむ)。

来歴

中学卒業後に井筒部屋に入門、1967年1月場所に15歳で初土俵を踏む。しかし1970年1月場所限りで廃業し(最高位は三段目22枚目)、鹿児島商工高(現在の樟南高校)に入学してアマチュアレスリングに打ち込む。1970年には、インターハイと国体のフリー75kg以上級で優勝を飾った。

1972年に営業社員として国際プロレスに入社するが、1973年にレスラーとしてプロデビューする。1974年にはスネーク奄美に改名して、レスリング仕込みのテクニックを駆使して前座戦線を沸かした。しかし脳腫瘍のため戦列を離脱、現役復帰することなく29歳の若さで永眠した。


国際プロレス クロニクル
上巻

国際プロレス コロニカル

国際プロレス クロニクル
上巻

国際プロレス コロニカル






エル・ソラール
El Solar
1955/5/25

メキシコ・ハリスコ州サコアルコ・デ・トーレス出身の覆面レスラー。

ソラール2号は弟。イホ・デル・ソラールは実子ともいわれる。

来歴

1975年5月にサンルイスポトシでデモニオ・ロホを相手にデビュー、スペル・アストロとウルトラマンとの宇宙をモチーフとしたトリオタッグチーム「ロス・カデテス・デル・」としても活躍する。日本ではユニバーサル・プロレスリングに1992年に来日。1997年と1998年にはみちのくプロレスに参戦した。

2002年3月にDEEPに来日参戦し鈴木みのる相手に総合格闘技に初挑戦。2004年1月に「ハッスル」に来日。2010年7月に「LUCHA FESTA 2010」に来日。

タイトル歴

  • UWA世界ウェルター級王座
  • ナシオナルミドル級王座
  • UWA世界ミドル級王座
  • UWFスーパーミドル級王座
  • UWA世界ジュニアライト級王座
  • アメリカミドル級王座
  • UWA世界ミドル級王座
  • WWA世界ミドル級王座

  



後藤 達俊
1956/5/25

日本のプロレスラー。愛知県常滑市出身。フリーランス。Mr.バックドロップ大魔人などのニックネームを持つ。レスリングキャリアのほとんどでヒールユニットに属し、反則技を中心とした試合運びで観客を沸かした。

来歴

デビューまで

名城大学出身。学生時代はウエイトリフティングで活躍し、インターカレッジ3位の成績を残す。大学卒業後、日産自動車に入社。1982年8月、アントニオ猪木が名誉会長をつとめる寛水流空手の初代会長水谷征夫の紹介により、26歳で新日本プロレスに入門。1982/12/2、先輩である山崎一夫を相手に地元愛知県の豊田市体育館でデビュー。

若手時代

デビュー後の一時期、アントニオ猪木の付き人を務めていた。当時猪木夫人だった倍賞美津子からは「オダンゴちゃん」と呼ばれていた。

ヤングライオン時代は橋本真也との激闘で前座を沸かした。1985年、第1回ヤングライオン杯で決勝に進出するが負傷により欠場。そのままNWAミッドアトランティック地区へ遠征し、桜田一男と覆面タッグチーム「ライジング・サンズ」を結成する。同年10月、ランボー・サクラダと改名した桜田とともに凱旋帰国するものの、初戦のタッグマッチでコンガ・ザ・バーバリアンのリフトアップ・スラムによって肩を脱臼し欠場。タッグチームはそのまま自然消滅した。復帰後は再び前座のポジションに戻ってしまう。すでに海外遠征経験があるにもかかわらず翌年の第2回ヤングライオン杯にも出場し、決勝で山田恵一に敗れて準優勝で終わった。

ヒールターンと反選手会同盟参加

1987年には越中詩郎が負傷により返上したIWGPジュニアヘビー級王座決定トーナメントにエントリーされ、1回戦で小林邦昭に敗れる。この後もジュニアともヘビーともつかぬ扱いを受け、中堅のポジションに甘んじていた。しかし1989年10月に髪を金色に染めヒール・ターン。同じ中堅のポジションにいたヒロ斎藤、保永昇男とブロンド・アウトローズを結成し、本隊と対立。徐々に中堅戦線を湧かせるようになり、『ワールドプロレスリング』でも放映されるようになっていった。ブロンド・アウトローズには後にスーパー・ストロング・マシーンが加入する。

1990/6/12の福岡大会では、バックドロップで馳浩を一時的に心臓停止に追い込んだ。以後、バックドロップは後藤の代名詞となる。

ブロンド・アウトローズは後にレイジング・スタッフと名前を変えるが徐々に勢いが衰え、1993年10月、マシンとの対立により後藤が離脱。レイジング・スタッフは解散となった。後藤はそのまま反選手会同盟に参加。この時、それまでの金髪から眉毛までをも剃り落としたスキンヘッド姿となる。

平成維震軍〜犬軍団

反選手会同盟が平成維震軍と改名した後はメンバーとして活動。越中詩郎らとともにWARにも参戦し、越中・小原道由と組んでWAR認定世界6人タッグ王者となった。

1999年の平成維震軍解散後、後藤は小原と共闘。6/27には小原とともに佐々木健介・越中詩郎組からIWGPタッグ王座を獲得。維震軍時代のリーダーであった越中をバックドロップで破っての勝利だった。後藤にとって、新日本プロレスで唯一のタイトル獲得となった。ロッカールームに戻って祝杯のビールを要求したら、スタッフが持ってきたのは缶ビール2本だけ。このとき後藤が発した「何だこの2本は!!」はテレビ放映されたこともあり、有名な台詞となった。

その後、後藤と小原は人気絶頂であったヒールユニットnWoジャパンへの加入を目指す。しかし蝶野正洋らに拒否され、背中にスプレーで“犬”の文字を書かれる屈辱も味わうが、後の「査定試合」で加入を認めさせる。しかし蝶野がnWoジャパンのTシャツを後藤と小原に着せようとした瞬間、後藤と小原は蝶野らにバックドロップを見舞って「そんなものは元々いらねーんだよ」とのマイクアピールを行い、抗争継続となった。そして後藤は小原は「犬軍団」の名前で暴れ回った。

TEAM 2000参加〜クレイジー・ドッグス結成

2000年2月、蝶野が新たに結成したTEAM 2000に後藤と小原は参加する。しかし2002年10月に蝶野が新日本プロレス本隊に復帰したことにより、TEAM 2000は消滅した。

2003年1月4日の東京ドーム大会で、後藤は小原、ヒロ斎藤と「クレイジー・ドッグス」を結成。後に中邑真輔、エンセン井上が加わり、魔界倶楽部との抗争が始まった。2/1の札幌テイセンホールで開かれた「6人タッグ・トーナメント」では中邑、斎藤と組んで優勝した。

魔界倶楽部が解散し、小原とエンセンが新日本プロレスに出場しなくなるとクレイジー・ドッグズは自然消滅。2004年に後藤は新日本プロレス本隊へ復帰し、現場責任者に就任する。しかし、2005年10月に新日本プロレスへ復帰した長州力が現場監督に就任すると対立し、責任者の職を解かれる。その後は蝶野、天山広吉らの反長州勢力に合流した。

新日本プロレス退団後

2006年の契約更改でフロントから引退とコーチ就任を要請され拒否。1/27、新日本プロレスを退団し、フリーランスとなる。退団に際し、オファーがくればハッスルでもPRIDEでも出る覚悟であると語った。ハッスルへは8/9、「TG」のリングネームで参戦している。

フリー転向後の初参戦団体はキングスロードで、2/28の後楽園ホール興行に登場した。ビッグマウス・ラウドに参加した時はリングネームを「マッド後藤」とし、ドッグ小原(小原道由)と「マッドドッグス」を名乗り、村上和成と手を組んだエンセン井上と抗争を繰り広げた。

5/4にはDDTプロレスリングへ長井満也のタッグパートナーとして登場。新日入門当時の同期であったポイズン澤田JULIEと闘いを繰り広げた。澤田とは後にタッグを組み、「蛇界転生」した「後藤蛇つ俊」として参戦を続けた。

5/19のZERO-ONE MAX大阪大会では、大森隆男が持つAWA世界ヘビー級王座に挑戦。プロ23年目にして初めてのシングル王座挑戦であり、大森を流血させて追い込んだが敗れた。

7/12に藤波辰爾らが旗揚げした無我ワールド・プロレスリングへ参戦。9/15に正式入団した。ただしこのとき、所属契約は交わしていない。以後、無我のリングを中心に活動する。

9/18、大矢剛功との必殺技が「バックドロップ」同士の対決をし、勝利した。

2007年11月、藤波が「無我にヒールは要らない」と発言したことに対する反論を11月22日付東京スポーツに掲載。11月29日、無我は「会社にとって不利益となりうる新聞記事掲載、発言、その他問題があった」として後藤との参戦を今後見送るというコメントを出したため、以後無我への参戦が消滅した。

その後、後藤は愛知を中心に活動するDEPのほか、大分のFTO(ダークサイドFTO最高顧問)など、ローカル団体のリングを主戦場として上がっている。2008年には小原とともに健介オフィスへ乱入したが、抗争へ発展する前にフェードアウトしている。

2010年に旗揚げされた天龍プロジェクトにも参戦している。

タイトル歴

新日本プロレス
  • IWGPタッグ王座(第38代 &小原道由)
WAR
  • WAR世界6人タッグ(第4代 &越中詩郎・小原道由)
DEP
  • DEP無差別級王座
天龍プロジェクト
  • 天龍プロジェクト認定世界6人タッグ王座(初代 &関本大介・高山善廣)

入場テーマ曲

Mr.B.D.
レイジング・スタッフのチームテーマ曲であった時期には、「頑張れ、頑張れ、レイジング!頑張れ、頑張れ、レイジング!」と歌詞を加えられていた。

その他

  • ヒロ斎藤とは誕生日が同じ5/25である。2002年と2004年の誕生日には斎藤とタッグを組んで試合をし、勝利している。
  • 山本尚史は新日本プロレス時代の唯一の弟子である。代名詞でもあるバックドロップを伝授し、山本は「天下獲りバックドロップ」の名前で使用していた。
  • 2006/1/5のリキプロ後楽園ホール大会で後頭部を切った翌日、病院で精密検査を受けた際、過去に頭蓋骨骨折を負っていたが、まったく気付かずに巡業へ参加し自然治癒していたことが発覚。手術をしなければ命に関わるほどの重傷だったという。
  • デビュー当時、なかなか勝利に恵まれず、山田恵一のデビュー戦まで初勝利出来なかった。





ヒロ斎藤
1961/5/25

本名:斎藤 弘幸(さいとう ひろゆき)は、日本のプロレスラー。ドラディション所属。

経歴

1978年に新日本プロレスに入門。魁勝司戦でデビューを果たした。

海外遠征でヒール転向すべく、ブロンド髪の悪役日本人レスラーの元祖である上田馬之助のもとへ「同じ髪色の使用許可」を得た。上田にはヒールの心得も伝授され、現在のスタイルの礎を築く。凱旋帰国後の1985年、ザ・コブラのライバルとして台頭し、第12代WWFジュニア王座を奪取。同じヒール軍団であるマシン軍団と共闘するが、ワカマツらマシン軍団と仲間割れを起こす。その後、新日を離脱しスーパー・ストロング・マシン&高野俊二(現高野拳磁)とカルガリーハリケーンズを結成、全日本プロレスを主戦場にする。

1986年には小林邦昭を倒し初代世界ジュニア王者となった。

全日から新日へUターンの際はカルガリーハリケーンズは解散し、長州力率いるリキ・プロダクションの一員として参加。新日正規軍、長州軍の枠組みが無くなってからは後藤達俊、保永昇男らとヒール・ユニットブロンド・アウトローズを結成。かつての盟友スーパー・ストロング・マシンが加わってからユニット名をレイジング・スタッフに改名。

1990年にスーパー・ストロング・マシンと組み第14代IWGPタッグ王座を奪取するも、1993年10月に軍団は分裂。

1995年に蝶野正洋、天山広吉と狼群団を結成。その後nWo JAPAN、TEAM 2000、クレイジー・ドックスと、独自のヒール道を邁進している。

2000年にG1 CLIMAXに初出場。予選リーグでは全試合で両者リングアウトを実現させ、リーグ戦を荒らした(その中には優勝者の佐々木健介、当時の同士であった小島聡も含まれる)。これに影響を受けた望月成晃は闘龍門のリングにおいて両者リングアウト推進委員会を宣言する。

2006年1月末で新日本プロレスを退団。直後から西村修と行動を共にするようになり、その縁あって無我ワールド・プロレスリングへの参戦、後に正式入団する。

獲得タイトル

  • WWF世界ジュニア王座(第12代)
  • PWF認定世界ジュニアヘビー級王座(初代)
  • IWGPタッグ王座(第14代)

入場テーマ曲

  • サクセス 〜激走〜
  • nWo SUCCESS
    • nwo時代に使用

評価

本人の目立つことが嫌いな性格もあり、決して始終スポットライトが当たる選手ではないが、その技術・センスは高い評価を受けている。マサ斎藤、ザ・グレート・カブキをはじめとして、全日本プロレス参戦時代にジャイアント馬場が「プロレスがわかっている選手だ」と絶賛したり、藤波辰爾はヒロがプロレスを辞めようとしたり、カルガリーハリケーンズとして新日を離脱しようとした際に必死に引き止めるなど、ヒロを高く評価する同業者は数多い。 また、技を掛ける場合も、受ける場合においても自分にも相手にも余計な負担を掛けない高い技術から「ヒロさんは柔らかい」と評価されている。

人間的にも優れていることを示すエピソードも多い。蝶野正洋が現場責任者に就任していた2002年、斎藤は蝶野の補佐役を担当していた。同年5月の新日本プロレスのドーム大会では、ドン・フライが安田忠夫を入場時に襲撃し試合が成立せず乱闘になった事態を収める際に「ヒロさん!ヒロさん!」と斎藤を探す蝶野の姿がテレビに映し出され更に「あいつなんとかしてくださいよ!」と蝶野が叫ぶ姿まで放送された。当のヒロはその際(前述の性格もあり)テレビカメラの存在を気にしたためか蝶野を手で払う「あっちいけ」の仕草をした程度で以後は試合会場に場面は切り替わった。

また、武藤敬司率いる新生nWoと蝶野率いるTEAM2000の抗争時にヒロがフォール負けした際、ヒロは軍団のボスに当たる武藤に「すいません」と詫びたが、武藤は「いえ、いえ」と気を使う仕草をテレビカメラの前で見せている。ヒロは先輩に当たるがレスラーとしての立ち位置、武藤のキャラクターから察するに非常に珍しい例である。その後インタビューを受ける武藤を尻目にヒロはさっさと控室に帰ってしまった。

狼軍団所属時、ワールドプロレスリングにて盟友の蝶野正洋が斎藤の出場するタッグマッチの解説を担当した際、その試合の実況を担当していた辻よしなりと抗争中であったためか、蝶野は興奮状態であった。そんな状況にもかかわらず「ほらっ、今の斎藤さんのフォローをお前実況したか。そういう斎藤さんの目立たないかもしれないが自軍を有利にさせる影の名プレイを見逃すからお前は実況には向いてないんだよ」という斎藤を慕う一面が感じられる発言を残している。またもう一人の盟友であった天山広吉も、ヒロが佐々木健介から殊勲のフォール勝ちを収めた試合の後に、「お前ら見たか!これがヒロ斎藤の実力だ!」と、相変わらずさっさと控室に帰ってしまったヒロを横目に一人でまくし立てたことがある。

レイジングスタッフ当時、闘魂Vにて収録されていた蝶野戦の解説を務めていた田中秀和によって「蝶野の方が実力は上でしょう?」(一般的な当時のプロレスファン見地からの発言か田中の個人的な見地かは不明だが)と問いかけられた佐々木は「いや、あの…ヒロさんはベテラン、ベテランですから」と要領の得ない答えで完全に困っていた。

その他

  • 「ヒロ」のリングネームは、本名の弘幸からの命名である。また、同じく新日本プロレス所属のマサ斎藤の名前にもあやかっている。凱旋帰国当時の風貌は、肌は色白、金髪のサラサラロングヘアでたけし軍団のグレート義太夫に似ていたが(「義太夫!」と野次られたこともある)、ヘビー級に転向し色黒になり髪型もパンチパーマにした結果、体型・髪型・風貌ともマサ斎藤に似てきた。体型や風貌から、しばしばマサ斎藤と兄弟・親戚であると勘違いされるが血縁関係はない。マサ斎藤はテレビ解説の際実況のアナウンサーに「ヒロはマサさんに良く似てきましたね」と振られ「だんだん俺に似てきてるんじゃないかな」と照れたような口調で答えていた。
  • 新日本時代にトップロープ上からセントーンを繰り出した際解説のマサ斎藤は「こういった技は凄く怖いんですよ、失敗した時がね。斎藤もよくやりますよね。」と絶賛していた。しかし当のヒロ斎藤はセントーンを必殺技に選んだ理由を「自爆しても痛くないから」と週刊プロレスのインタビューで述べている。
  • 若手時代、スパーリングで最も負けたくなかったライバルは前田日明。当時コーチ役であった山本小鉄が、その時の練習を「お前ら、あんなキチ○イみたいなシゴキを、よく受けていたよなあ。普通はあそこまで無茶しないぞ」と回想していた時、苦笑いしていたが「だったら最初からやらせるなよ」と心の中で思ったと、小鉄の追悼インタビューで答えている。
  • 若手時代、異種格闘技戦向けの公開特訓として、アントニオ猪木が延髄斬りを集中練習する際、首の後ろにスポンジを巻いた珍妙な姿で練習台にさせられたことがある。
  • 「ヒロの身長が後5cm高ければ歴史が変わっていた」と言われるほどのプロレスのセンスの持ち主ながら、どこかコミカルな持ち味を持つレスラーであることも特徴の一つであり、例えば平田淳二とのブレーンバスターの掛け合いではタイミングが合わず両者共にジャンプしてしまったり、テーブルをリング内に投げ入れようとしてロープに当たり自身の方へ跳ね返って来てしまったりといったエピソードがある。
  • 凱旋帰国当初は、サングラス、リーゼント、革ジャン姿のクールスばりの暴走族数名(クールキャッツ、というバンド)を引き連れて入場していた。しかし上田馬之助との決別試合において、試合前上田に竹刀で追い回されて消えた。
  • 長らく茶髪のパンチパーマという髪型であったが現在では頭髪が薄くなってきたためかスキンヘッドである。
  • 千葉県船橋市で「炭火焼肉ヒロ」を経営していたが、2005年に閉店している。
  • 盟友の後藤達俊とは誕生日が5月25日で同じ。毎年一緒に祝われており、2002年および2004年に後藤と2人でタッグを組んで試合をし勝利している。斎藤は後藤より先輩であるが年下であるためか「後藤さん」と呼んでいる(後藤も「ヒロさん」と呼んでいる)。
  • 若手レスラーを指導することもあったが、レベルが高すぎて後継者を出せなかった。近年では吉江豊の要請で若手レスラーの指導にあたった旨雑誌の企画対談(対談相手は蝶野)で明かしている。指導方法としては「こういうやり方もあるんだよ」と受講者自らに正しい、自分にあっていると思うものを選ばせる手法が主であるとのこと。





奥村 茂雄
1972/5/25

日本のプロレスラー。大阪府池田市出身。身長182cm、体重96kg。現在は主戦場をメキシコのメジャー団体CMLLに移し活動している。

経歴

栗栖ジムで修行に励み、IWA格闘志塾に入団。

1994/12/31、神奈川県横浜市無国籍屋台15番地ヨンドンにて菊澤光信(現・菊タロー)を相手にデビュー。

1995年に石川敬士率いる東京プロレスに移籍し石川の付け人を務める。 エース・石川のパートナーとして活躍していたが、1996年、折原昌夫、田村忍と共に東プロマットの改革を訴え、ヤングデストロイヤーズを結成する。同年、奥村自身もメインに出場した両国国技館大会をもって東京プロレスは崩壊。その後、東プロは新体制FFFに移行するが土壇場で奥村は参加せず石川と合流。川畑輝鎮らも含めた東京プロレス軍団を名乗り、東プロ軍団総出で石川の古巣WAR事務所に乗り込み参戦の意思表示をする。1997年に入り東京プロレス軍団は石川一家と名前を変え、石川一家は複数の団体へ対抗戦を仕掛ける。WAR、IWA JAPAN、大日本との対抗戦を継続しながら石川一家は自主興行も開催。そして石川が新日本プロレスの木村健悟との合体を果たしたのを機に奥村も新日本プロレスへ参戦した。その後、カナダ・カルガリーに遠征。現地で奪取したベルトを手土産に石川が興した新東京プロレスにバッドニュース・アレン、ジェリー・モローらと共にヒールサイドとして参戦。1998年1月、石川孝志が引退を賭けたシングルマッチを制し、念願の石川越えを果たした。この試合をもって石川は引退。師・石川から形見としてガウンを贈呈された。その後、新東京プロレスは活動停止になり、フリーとして各団体に参戦。

全日本プロレス

1998年2月に全日本プロレス初参戦を果たした。その後もスポット参戦を続け、小川良成の代役で同団体初の単独開催の東京ドーム大会にも出場。

同時進行でインディマットではインディ世代闘争をアピールし、IWAの山田圭介、松田慶三らと共にカブキ、ターザン後藤、剛竜馬らとの抗争を展開。

1999年に入り、本格的にWARマットに参戦する。荒谷信孝(荒谷望誉)との本格合体を果たした。荒谷の地元神奈川県茅ヶ崎市で合同合宿を張り打倒天龍源一郎を掲げる。同年、荒谷と共にカナダにも遠征し、エドモントンで荒谷と共にCAWFカンナムタッグ選手権を奪取した。

2000年に入り、全日本分裂騒動の中、10月に全日本プロレスへ正式入団。

偽秋山準になったり、ターメリックストームと抗争するなど中堅として活躍していたが2004年3月をもって全日本プロレスを退団。

全日本退団〜CMLL

2004年5月からメキシコに渡りCMLLにルードとして参戦。

アレナコリセオ大会のセミファイナルでデビュー。アレナメヒコではメインイベントでデビュー。メキシコ入り後はドクトル・ワグナー・ジュニア、ブラック・タイガー(シルバー・キング)らと組む。12月5日、アレナコリセオ大会での金網髪切り戦でネグロ・カサスに破れ丸坊主になる。

2005年2月、ジャイアント馬場7回忌追善興行に出場するため再び全日本プロレスに参戦。嵐と組んで荒谷望誉、石狩太一と対戦。7分49秒、嵐が石狩をパワーボムで下し勝利した。

その後、新日本プロレスからメキシコ入りした田口隆祐とのタッグ、ツナミ・デ・オリエンテとして活躍。同年9月、新日本プロレスの棚橋弘至、中邑真輔とのトリオでCMLLの年間を通して最大のビッグイベントであるアニベルサリオ大会に出場を果たした。

その後、闘龍門の大原はじめ、新日本プロレスからメキシコに遠征していた後藤洋央紀も加えたトリオでお揃いの袴スタイルのコスチュームで活躍。

2008年6月、アレナメヒコでの試合中に右鎖骨骨折の大怪我を負い欠場するも11月に復帰。

2009年に入り、新日本プロレスにミスティコらと共に参戦。同時にCMLLマットでは新日本プロレスの裕次郎、内藤哲也と共に日本人チーム、ラ・オーラ・アマリジャ(La Ola Amarilla)を結成、ラ・オーラ・アマリジャのリーダー格として活躍する。同年9月、獣神サンダー・ライガーも含めた4人でアニベルサリオ大会のセミファイナルで勝利を収めた。アニベルサリオ後、CMLLが毎年開催する勝利者がエストレージャに昇格するトルネオ・ラ・グラン・アルテルナティーバ2009にて勝利を収めて自他共に認めるエストレージャ入りを果たした。その後11月15日のアレナメヒコ大会において、マキシモとのカベジェラを制し、念願のカベジェラ戦初勝利を収めた。

2010年2月、かつての全日本プロレス時代の後輩にあたる新日本プロレスのタイチがメキシコ遠征に出発。CMLLマットでタッグ結成を果たした。そして5月にはタイチ、同じく新日本の棚橋も加えたトリオで日本人初のCMLL世界6人タッグ王座を奪取した。

同年9月、アレナメヒコにてメキシコ独立200周年を記念して行われたラ・コパ・ビセンテナリオ(200周年記念トーナメント)に獣神サンダー・ライガーと組んで出場するも、ミステル・ニエブラ&ボラドール・ジュニア組に敗れた。

2011年1月、2日間に渡り後楽園ホールで行われた新日本プロレス&CMLLのコラボ大会にCMLLの9選手&リングアナウンサーが来日。自身もその中の1選手として参戦。初日の大会ではアトランティスと組んでジャイアント・バーナード&カール・アンダーソンのバッド・インテンションズが持つIWGPタッグ選手権に挑戦し、敗れはしたものの白熱の好勝負を展開した。翌2日目は高橋裕次郎&内藤哲也のNO LIMITと久々にチームを結成し、ラ・ソンブラ&マスカラ・ドラダ&ラ・マスカラの持つCMLL世界6人タッグ王座に挑戦した。

獲得タイトル

  • CMLL世界トリオ王座
  • CCWカナディアンヘビー級王座
  • CAWFカンナムタッグ王座
  • ボーブワイヤーストリートファイト6人タッグ王座





リッキー・バンデラス
Ricky Banderas
1976/5/25

プエルトリコ出身のプロレスラー。身長175cm、体重90kg。

来歴

1996年からプロレスを学び、ビクター・キニョネスの新鋭として1998年11月にプエルトリコでデビューした。同年にはアメリカのECWにも参戦。1999/2/12IWAプエルトリコ大会にてディック東郷に勝利した。3月に初来日しバトラーツに参戦した。

2001年にはFMW、2006年にメキシコのAAA、アメリカのWSXに参戦。同年にKAIENTAI-DOJOに参戦した。2007年からは、ジューダス・メシアスJudas Mesias)のリングネームでTNAに参戦、ファーザー・ジェームズ・ミッチェルをマネージャーに迎え、アビスと抗争を展開した。現在はAAA所属。

獲得タイトル

  • AAA世界ヘビー
  • IWA世界ヘビー
  • IWAハードコア
  • IWAインター
  • IWAタッグ
  • WSXヘビー
  • IWC世界ヘビー
  • GPCW・スーパー-X・モンスター(2008年優勝)
  • アントニオ・ペーニョ・トーナメント(2008年優勝)





山崎 剛
1977/5/25

日本の総合格闘家。千葉県鎌ヶ谷市出身。GRABAKA所属。千葉県立松戸六実高等学校、東京福祉商経専門学校卒業。

中量級選手の多いGRABAKAの中で、唯一の軽量級選手。ブラジリアン柔術のテクニックをベースにした極めの強いファイトスタイルを持つ。修斗で数多くの経験を積み、現在はDEEPを主戦場として活躍している。

ニックネームは「GRABAKAの柔術マスター」「平成の牛若丸」。また、大変謙虚で優しい性格であることで知られている。

来歴

高校在学中に柔道を学び修斗、リングス、UWFインターナショナルを通じて格闘技に魅せられ、卒業と同時に正道会館柔術クラスに入門。当時フリーとして活躍していた菊田早苗、佐々木有生らと出会う。

その後4年余りの間ブラジリアン柔術の練習に明け暮れ、2000/1/23のアブダビコンバット日本予選では77kg未満級に出場。準決勝で五味隆典に敗れるも3位入賞。

2001年にGRABAKA所属となった。

2001/4/8、修斗で総合格闘家デビューを果たした。

2001/10/23、修斗で杉江"アマゾン"大輔と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。

2002/4/21、修斗で川尻達也と対戦、0-3の判定負け。

2005/3/12、D.O.Gの旗揚げ興行に出場。飯田崇人に得意のチョークスリーパーで一本勝ち。

2005/9/3、『DEEP 20 IMPACT』において「全面対抗戦 DEEP戦士 vs. GRABAKA」と銘打った3対3の対抗戦に大将として出場。Barbaro44を飛びつきからのチョークスリーパーで一本勝ち。GRABAKAを勝利に導いた。

2005/10/28、『DEEP 21 IMPACT』で行なわれたDEEPフェザー級初代王者決定トーナメント1回戦でマイク・ブラウンと対戦し、0-3の判定負けを喫した。

2006/10/10、『DEEP 26 IMPACT』で今成正和の持つフェザー級王座を懸けたタイトルマッチが行われる。しかし、今成の下からの蹴り上げが顔面にヒットしてしまい、KO負け。王座に後一歩の所で届かなかった。

2008/2/11、CAGE FORCE EX -eastern bound-の初代フェザー級王者決定トーナメント1回戦で尾崎大海と対戦し、チョークスリーパーで一本勝ち。

2008/5/11、DREAM初参戦となったDREAM.3で昇侍と対戦し、判定勝ち。DREAM初のフェザー級マッチとなった。同年7/21、DREAM.5で所英男と対戦し、判定負け。

2008/9/27、CAGE FORCE 08の初代フェザー級王者決定トーナメント準決勝で星野勇二と対戦し、アームロックで一本負け。

2009/12/19、DEEP初のケージ大会となったDEEP CAGE IMPACT 2009で北田俊亮と対戦し、判定1-1でドローとなった。

2011/2/25、DEEP 52 IMPACTで津田勝憲と対戦し、腕ひしぎ十字固めが極まったところでタオルが投入されTKO勝ち。キャリア無敗であった津田に初黒星を与え、山崎にとっては2008/5/11以来2年9か月ぶりの白星となった。






ドス・カラス・ジュニア
Dos Caras Jr.
1977/5/25

メキシコのプロレスラー。本名はアルベルト・ロドリゲスAlberto Rodríguez)。メキシコシティ出身。

覆面レスラーとしてDEEP、PRIDEなどの総合格闘技にも参戦したことがある。スペイン語のリングネームはエル・イホ・デ・ドス・カラスEl Hijo de Dos Caras)。近年はWWEにてアルベルト・デル・リオAlberto Del Rio)のリングネームで活動。

実父のドス・カラス、伯父のミル・マスカラスとエル・シコデリコ、従兄弟のシコデリコ・ジュニアもプロレスラー。

来歴

父や伯父の影響で14歳でレスリングを始め、体格に恵まれていたこともあり強豪としてならし、2000年にはシドニーオリンピックのメキシコ代表に選ばれた。

マルコ・ファスに師事し2001年から覆面(ハーフマスク)姿でDEEPに参戦、史上初の覆面バーリ・トゥーダーとなった。当初は、覆面レスラーの総合格闘技参戦を疑問視する声が主流だったが、2001/8/18『DEEP2001 in OSAKA』で謙吾(パンクラスism)に右肘脱臼によるTKO勝ちを収める等高いレスリング技術を見せつけた。2002/3/30のリベンジマッチでは、チョークスリーパーで一本負けを喫したが総合格闘家としての評価は高まった。

2001/10/14、格闘探偵団バトラーツ『格闘ロマン2001 〜YUKI-BOM-BA-YA〜』で村上和成と対戦し、4分23秒反則勝ち。2003/10/5、『PRIDE 武士道』でミルコ・クロコップと対戦し、開始46秒左ハイキックでKO負け。2004/2/1、『PRIDE.27』で中村和裕と対戦し、0-3の判定負け。

プロレスでは2000年よりAAA、2005年よりCMLLに所属。2009年からWWE傘下のFCWにおいて、アルベルト・バンデラスAlberto Banderas)のリングネームで活動。

2010年5月にはWWEのダーク・マッチとハウス・ショーにて再びドス・カラスJrとして登場。7月からスマックダウンにてアルベルト・デル・リオAlberto Del Rio)にリングネームを変更してプロモーションを行う。メキシコの貴族出身を自称する高慢なヒールとして登場し、8/20の放送においてレイ・ミステリオから勝利を奪うという破格のデビューを飾った。翌週にミステリオを襲撃し負傷させ、アングル上で休場に追い込んだ。その後クリスチャンと抗争するが、クリスチャンが大胸筋断裂で実際に負傷したため、ミステリオ同様の負傷アングルで抗争は集結。入れ替わりに10/1の放送局移籍記念のスマックダウンにてミステリオが復帰、抗争が再開された。

11月に2年ぶりに開催されたキング・オブ・ザ・リング・トーナメントでは予選で専属リングアナウンサーのリカルド・ロドリゲスの援護もありビッグ・ショーにカウントアウトで勝利、1回戦でダニエル・ブライアンを破るが、2回戦でミステリオの邪魔が入りジョン・モリソンに敗れた。同年12月からのNXTシーズン4では、コナー・オブライアンを指導するプロとして登場していたが、オブライアンは1/18に脱落してしまった。

2011/1/30、ロイヤルランブルのランブル戦で優勝し、4月3日のWrestleMania XXVIIでの世界ヘビー級王座への挑戦権を獲得。チャンピオンのエッジに挑戦するも敗退した。

その後、4/25に行われたドラフトでRAWに移籍する。6日後のエクストリーム・ルールズではエッジの引退によって空位になった世界ヘビー級王座の新王者を決定するラダー・マッチでクリスチャンと戦うも、エッジの介入もあり敗れ王座戴冠はならなかった。

獲得タイトル

  • CMLL世界ヘビー級王座:1回
  • CMLLラ・コパ・ジュニア:2006年優勝
  • WWEロイヤルランブル:2011年優勝

入場曲

  • Funba Rumba
  • Destiny


山田 よう子
1979/5/25

本名は山田 洋子は、日本の日本アームレスリング連盟所属のアームレスラー、PUREBRED所属の総合格闘家、エスオベーション所属のプロレスラー。東京都出身。南田洋子の従兄弟の娘。

来歴

本業のアームレスリングは2002年から2010年まで全日本アームレスリング選手権大会の50kg級でレフトハンド9連覇中、2003年からはライトハンドでも8連覇中。また、2005年12月の第27回WAF世界アームレスリング選手権大会では、45kg級ライトハンドで日本人女性で史上初の世界王者となった。

総合格闘技ではPUREBRED所属の「大和魂」ことエンセン井上に師事。デビューは2003/4/2のスマックガール・六本木ヴェルファーレ大会での対坂口一美戦だったが、開始ゴング前の坂口の奇襲に怒った山田が、坂口をフロントチョークで絞め落とすと、試合後は坂口のセコンド相手に乱闘寸前になるという試合だった。その後も、持ち前の腕力とパワーで無傷の3連勝を飾ったが、2006/8/19のレッスルエキスポ2006で村浪真穂戦で初黒星。その後、2008/6/15の対ナナチャンチン戦(開始わずか1分でKO勝利)まで2年近く、総合格闘技から離れていた。

レッスルエキスポの2か月前の7/2、「レディゴン祭り」で元気美佐恵相手にプロレスデビュー。2008年に入り、1/27に「息吹」に初参戦し吉田万里子と対戦。その後も息吹に継続参戦し、2/17付でエスオベーション所属となった。

2009/12/11、JEWELS初参戦となったJEWELS 6th RINGでMIYOKOと対戦し、1年振りの総合復帰でありながら勝利を収めた。

入場テーマ曲

  • 「ウィ・ウィル・ロック・ユー」(クイーン)
同じ「剛腕」をキャッチフレーズに持つゲーリー・グッドリッジの入場テーマ曲。当初はグッドリッジと同じムーブで入場していた。

 
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